味わいと教義は異なります
三乗の五逆罪が、一般的な五逆罪であり、親鸞聖人もこの意味で使われていることはすでに述べた通りです。しかし『教行信証』信巻には、もうひとつの五逆罪を親鸞聖人は紹介しておられます。
二つには大乗の五逆なり。『薩遮尼乾子経』に説くがごとし。一つには、塔を破壊し経蔵を焚焼する、および三宝の財物を盗用する。二つには、三乗の法を謗りて聖教にあらずと言うて、障破留難し、隠蔽覆蔵する。三つには、一切出家の人、もしは戒・無戒・破戒のものを打罵し呵責して、過を説き禁閉し、還俗せしめ、駆使債調し断命せしむる。四つには、父を殺し、母を害し、仏身より血を出だし、和合僧を破し、阿羅漢を殺すなり。五つには、謗じて因果なく、長夜に常に十不善業を行ずるなり、と。
親鸞聖人が御自身も使われていない大乗の五逆罪を敢て紹介なされた御心については
に解説がありますので、それを読まれるとよいでしょう。
学問をしているのではありませんので、詳しい内容は敢て書きませんが、全く触れないと「都合が悪かったのだろう」とか、「知らないのだろう」と、得意気に言いふらす奇特な人がありますので、一応言及だけしておきました。
さて、「一切衆生必堕無間」の根拠が18願の「唯除五逆誹謗正法」だと親鸞会では説明しているので、それが間違いであることを数回にわたって説明してきました。
つまり、「一切衆生必堕無間」を否定されたのは、
阿弥陀仏
釈尊
七高僧
親鸞聖人
覚如上人
蓮如上人
なのです。蓮如上人については、「一切衆生必堕無間」を肯定されているとも解釈できる箇所がありますが、それも異安心、邪義の者に対して仰ったと考えられます。そのことは、
「一切衆生必堕無間」の根拠は?
正常な思考とカルト思考
カルト思考の愚かさ
で既に述べました。
ですから、「一切衆生必堕無間」は、高森会長の邪義です。
大沼法竜師の『魂のささやき』には、
三千世界の者はみな助かっても、法竜一人は助からないのだ、と往生の望みの綱が切れたとき、無間のどん底に投げ込まれたのが先か、その機のままを摂取するのだぞの勅命が届いたが先か、必堕無間が先か、十方法界唯であったの自覚が先か、明来闇去か、闇去明来か、そんなことなど考える余裕あればこそ、この極悪最下の機が極善最上の法に生かされたのだ。
とありますし、同じく大沼師の『随想録』に
第十八願の真意は「十方の衆生よ自惚てはならないぞ、お前の腹底は逆謗の屍で往生の望みの絶えた機を若し生れささずんば正覚を取らない」と、「若」の一字は逆謗の屍に正覚を堵者にして誓われた念力であって、「生」の文字は成就の文では即得往生、聞信の一念から言えば心命終の平生業成、臨終捨命の夕から言えば身命終の即得往生、若の一字で往生と正覚が同時に成就した時、己を忘れた三信十念噴き出ずには居られないのだ。
とありますので、大沼師の味わいを教義と勘違いしているのでしょう。味わいや懺悔としてはいいですが、教義としては邪義です。
この邪義は、機の深信が、「いままでも、いまも、いまからも、救われることの絶対にない極悪最下の私であった、とハッキリ知らされた」ことという親鸞会の邪義と共通するものです。
参考までに機の深信について善導大師は
一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫よりこのかたつねに没し、常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。(観無量寿経疏 散善義)
自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。(往生礼讃)
とやや違う表現で2つ仰っています。これが「必堕無間」もしくは「唯除五逆誹謗正法」という意味だとしか解釈できない人は、思考に問題があります。くどいようですが味わいと教義は異なります。味わいは個人個人違いますが、教義は共通するものです。
親鸞聖人が仰ったことのないことを、恰も仰った宣う高森会長は、無知なのか無恥なのかどちらかです。いや、両方共でしょうか。
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