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2010年3月11日 (木)

もろもろの行業を回してただちに西方に向かふ

先日の学生大会での演題は二河白道だったと聞いています。事前に

「親鸞会教義の誤り」
宿善とは7宿善とは8

で二河白道の譬えについての解説があり、高森会長が話をしてきたこととまるっきり違った内容に、驚いた人も相当あったようです。現役の会員で、「親鸞会教義の誤り」を読んで、学生大会の話と比較してやろうという人もありました。
高森会長が「親鸞会教義の誤り」を読んでいることは、結構知られています。それで、こっそり修正するのではないかという期待を持って話を聞きにいった人も何人かありましたが、結果は以前のままの珍しき創作話で終わりました。期待した人には残念な結果でしたが、私はこれこそが高森会長の本性と思っています。

「親鸞聖人の教えを誤って伝えたならば、腹を切ってお詫びする」などと公言しても、そんな気持ちは最初から全くない大法螺吹きの会長ということをここでも証明してくれました。

この二河白道の譬え話には、自力を捨てて他力に帰するということについて判りやすく教えられていると思います。

二河白道の譬え話については、「親鸞会教義の誤り」に書かれてありますので、そちらを御覧下さい。

白道とは、阿弥陀仏から回向された他力の信心です。高森会長がいうような信前の求道心ではありません。信前は東の岸のことです。従って、東の岸から白道に足を一歩踏み出した時が信心決定であり、自力を捨てて他力に帰した時です。
東の岸から白道へ一歩踏み出す前と踏み出した後では、周りの状況は何も変わっていません。細い白道が広くなった訳でもなければ、激しい水の波と火の焔が穏やかになったのでもありません。信心決定しても、ドラマチックな変化が起きるのではないことがこの譬えで判ります。

高森会長から、信心決定したらどうなるかを聞いてきた人にとっては、これも驚くべきことです。しかし、譬えと実際は違うからと考える人もあるでしょうが、よくよく考えてみれば、この譬え話を作られた善導大師も、また七高僧の他の方々も、信心決定についてはほとんど触れられていません。つまり、信前と信後では、高森会長が説明しているような大変わりするものではないから、特別に取り上げられていないのです。

実際、高森会長の獲信体験も「親鸞会教義の誤り」に紹介されていますが、

はからずも夏休み数日前に、増井君をはじめ数名の求道者諸兄の御指導を受け、半信半疑、なお私の心は悶えました。親切にも休暇中『仏敵』の書をお借りして読ませていただき、また家にあった書物により、さらにまた華光をも送っていただき、次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。ただただ「そのままこい」「そのままでよい」とは何と有難いことでしょうか。

というものです。また、高森会長編の『獲信の記録』には、高森会長が獲信まで導いたとされる5人の獲信体験記が掲載されています。5人のうちの1人が高森会長の母親です。以下に一部抜粋します。

後は、どうなりとなさいませ。と捨て言葉を残して、腹立ち紛れに、そこらの針箱等を投げつけますと主人も、余り私が興奮するのに驚いて、「門徒の者に聞いて貰ってはどうか」と申します。何も、こうなれば門徒も何もない、寺も何もあるものか、私さえ死んだら・・・燃ゆる業火に身を悶えながら・・・羅刹の如く立ち上がった時・・・ハッ!・・・と如来の光明に射すくめられました。
ああ・・・そうであった。如是凡夫、心想羸劣、とお釈迦如来様に教えられた韋提希夫人のお懺悔もこの心であったか、王妃の身でさえ生みの我が子にそむかれて、七重の牢屋に閉じ込められたと聞くに私は、我がままから物事を運んで、自分の縄で自分を縛り、平和な家庭に風波を荒立てましたが、嫁にも済まぬ、親にそむかせた子にも済まぬ、主人にも済まぬ、佛さまにも済まぬ、今まで巌の如く固く重く閉ざされていた私の胸は、その一瞬!空洞の様になってしまった。と同時に懺悔の涙はとめどもなく流れ、ガラリと心境が一変致しました。

これを読まれて、
この程度のことなら、他の宗教でもありそうな体験談ではないか、
と思われる方もあるでしょう。確かに現在の高森会長が主張しているような摩訶不思議な体験が信心決定の体験と思っていたら拍子抜けでしょう。
しかし、二河白道の譬えからいえば、東の岸から白道へ一歩踏み出すときに、不思議な体験があるとは全く書かれていないのです。

われいま回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず可度すべし

白道に乗る直前の心境をこのように表現されています。
三定死の苦しみを突破して、白道へ進もうと心が定まったときに、自力を捨てて他力に帰すのです。三定死の苦しみとは、自力を捨てようにも捨てられない苦しみです。自力を捨てるとは、前回紹介しました親鸞聖人のお言葉通り、自分の考えを捨てることですから大変です。
自力を捨てて他力に帰すといえば、自分でするように思われるでしょうが、

西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。

という阿弥陀仏の願力によってすべて為さしめられるのです。
東の岸で善をするとかしないとか全く関係ないことです。それどころか、白道に乗るには善をしなければならないと思う心を捨てなければ絶対に白道には乗れません。

「人道の上を行きてただちに西に向かふ」といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。

白道に乗るには諸善をしなければならないに決まっている、と諸善にこだわっている間は、白道が微かにしか見えず、黒路という別の道に迷い込んでいるのです。黒路を勧める悪知識に従っている人は、黒路という迷路から抜け出すことは不可能でしょう。

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コメント

必死で「一念、一念」とこだわっておりました。
世間一般で使うところの「一念発起」じゃあるまいし、
自分の心や行為で一念開発するのが浄土真宗のみ教えではありませんでしたね。。。

南無阿弥陀仏

投稿: Rudel | 2010年3月11日 (木) 22時59分

会長は、あまりにも大きすぎる間違いを今更訂正出来ないから、そのまま押し通そうとしているんでしょう。
私は昨年退会しましたが、昨年の会長の説法(らしきもの)はまともな神経で聞いていたら、先日こちらで取り上げられていた内容等、親鸞会員でさえ疑問に思い不信に感じるものだったと思います。
それを盲信という絶対服従で、自分の心さえ欺いて会員を続けている人も多いのでしょうから、会長は安心仕切って間違った内容のまま説法したのかもしれませんね。
その内に、二河白道の喩えには、二通りの解釈の仕方があり、我々の求道が進む方を選んだとホラをふくかもしれませんね。

投稿: 元○○部員 | 2010年3月11日 (木) 23時04分

Rudel 様

他力回向の法です。自力無功です。


元○○部員 様

何でもありでしょうね。親鸞聖人も読み変えをされている、高森先生も同じことをされて、親鸞聖人の御心をより判りやすく私たちに教えて下されているのだ、とでもそのうちに言い始めると思っています。
しかし、親鸞聖人と真逆のことを教えていては、判るものを判らなくさせている大謗法罪です。
善鸞以上に罪は重いでしょう。

投稿: 飛雲 | 2010年3月12日 (金) 06時31分

三定死が白道に乗る直前だと、今知りました。

そういえば、アニメ解説のかなり初期のころに、あるビデオ講師が「これが親鸞聖人の三定死なのでしょうか?」と質問したと記憶しています(あまり聞こえませんでしたが)。それに対し、会長は立腹した態度をとり、「ああいう質問はしてはならないのだな」と思いましたが、たしかに「してはならない質問」ですね、ある意味(^w^;;

投稿: alex | 2010年3月15日 (月) 08時45分

alex 様

ここは、質問されると答えに窮するところですからね。
その程度の人物と言うことです。

投稿: 飛雲 | 2010年3月16日 (火) 05時53分

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