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2010年3月17日 (水)

その御こころざしにては順次の往生もかたくや候ふべからん

法然上人は「七箇條の起請文」で、

全て、諸々の煩悩のおこる事は、みなもと、貪瞋を母として、出生するなり。
貪といふについて、喜足小欲の貪あり、不喜足大欲の貪あり。今浄土宗に、制する所は、不喜足大欲の、貪煩悩なり。まづ行者、かようの道理を心えて、念仏すべきなり。これが真実の念仏にてある也。喜足小欲の貪は、くるしからず。瞋煩悩も、敬上慈下の心を、やぶらずして、道理を、心えんほどなり。

と教えておられます。
喜足小欲」とは、足りていることに満足して多くを求めないことです。その反対が「不喜足大欲」です。今の住居があっても、すべての会館に自分専用の住居が欲しいというのは、「不喜足大欲」そのものです。正本堂7階には、大きさはともかくとして、住居はあってもいいでしょうが、チューリップビル、法輪閣、そしてF館に住居を構える必要性は全くない筈です。「不喜足大欲」であって念仏も称えないのは、法然上人の教えから外れています。
敬上慈下」とは、目上の人を敬い、自分より下の人を慈しむことですが、『仏敵』を読んで救われたと告白しながら、師匠であった伊藤康善師を裏切って罵り、親鸞会を辞める意志のないない会員を次々と除名にして放り出すような人物は、「敬上慈下」と正反対です。

親鸞聖人も『末灯鈔』に

われ往生すべければとて、すまじきことをもし、おもふまじきことをもおもひ、いふまじきことをもいひなどすることはあるべくも候はず。
貪欲の煩悩にくるはされて欲もおこり、瞋恚の煩悩にくるはされてねたむべくもなき因果をやぶるこころもおこり、愚痴の煩悩にまどはされておもふまじきことなどもおこるにてこそ候へ。めでたき仏の御ちかひのあればとて、わざとすまじきことどもをもし、おもふまじきことどもをもおもひなどせんは、よくよくこの世のいとはしからず、身のわろきことをおもひしらぬにて候へば、念仏にこころざしもなく、仏の御ちかひにもこころざしのおはしまさぬにて候へば、念仏せさせたまふとも、その御こころざしにては順次の往生もかたくや候ふべからん。

と書いておられます。これは、高森会長のことそのままではないでしょうか。
さよなら親鸞会」にある多くの投稿文、「私の白道」の中で、高森会長の実像が暴露されていますが、

貪欲の煩悩にくるはされて欲もおこり、瞋恚の煩悩にくるはされてねたむべくもなき因果をやぶるこころもおこり、愚痴の煩悩にまどはされておもふまじきことなどもおこる

とは、高森会長のことです。
廃悪修善を会員に説きながら、自分のやっていることは、その反対です。それどころか会員に善を強要しているのは、自分の住居を次々と建設し、会員が見ることもない美術品購入のためです。
もし、会員のためにすべてしていることと反論する会員があるならば、本館と祇園とを結ぶ会長専用の渡り廊下の必要性について尋ねてみて下さい。今まで何回使ったかわからない程度の渡り廊下に、何千万もの浄財を隠して投入していることが、会員のためですか。
F館ももちろんそうです。

真実信心かどうかは確かめようもありませんが、法然上人、親鸞聖人の仰ることと逆の言動を平気で繰り返している人物であることは間違いありません。
親鸞聖人が仰るように

その御こころざしにては順次の往生もかたくや候ふべからん。

と思っている人がたくさんいることも事実です。

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