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2010年3月18日 (木)

私は『末灯鈔』を読んだことがありません、と高森会長が告白

3月1日号の顕正新聞の論説におもしろいことが書いてありました。

 もう一つ、親鸞学徒の本道をゆく上で、重要なことを確認しておこう。それは、善知識方には、「○○は信心獲得していた」「△△は信心決定していると思う」など、個人名を挙げて「信・不信」を仰ったという記録はどこにも見当たらない、という事実である。
 なぜだろう。
 他人の信心は、たとえ善知識であってもハッキリ分かるものではないからか。大体分かっていられても、他人の「信・不信」を言うべきではないからか。いずれにしても、全くそのようなお言葉は見られない。
 善知識方も仰らなかったそんなことが、日常茶飯事に話されているところがあるとすれば、自分たちは、親鸞聖人や覚如上人、蓮如上人方でも分かられなかったことが、ハッキリ分かるとでも思っているのだろうか。
 たとえ善知識方が、ほぼ分かっていられても「言うべきことでも、書くべきことでもない」と自覚されて、あえて仰らなかったとすれば、親鸞学徒は、なおさら使うべき言葉ではないのだ。
 他人を指して、「あれは信心獲得している」などと平然と言えるのは、人智で判断できる程度の信心だからである。知識から信心を与えられる秘事法門の者たちと同程度か、類似すると思われるのも当然であろう。

これは、高森会長も言っていることで、この論説を書いた人の個人的な見解でないことは確かです。
皆さん、実におもしろいと思われませんでしょうか。

高森顕徹編『獲信の記録』(昭和24年発行)には

手に持っていた『華光誌』を苦し紛れに放りつけた。トタンにこの苦しみは、スーッとはがれた様に引いて行った。ボーッとなって暫くは考える力もない。正気の沙汰ではない。夢か、うつつかの判断もつきかねていると、高森さん一家が帰って来られた。
挨拶も忘れて、今あった不思議な出来事を、ありのまま顕徹君に語った。一同は我が事の様に喜んでくださる。だが私自身は、何が何だかさっぱり分からぬ。本当だろうか。これが獲信したというものであろうか?
まだまだ疑いの晴れぬまま、種々ご馳走に預かる。こんな、うまく食事したことが近頃にあったろうか。やがて、顕徹君の話に薄紙を、はぐ如く、光明は輝きを増し、歓喜は胸に張り裂けるのであった。
「如来を求めて、いくら追っかけても、人間は到底追いつけるものではない。また自分でとらえられる位なら、他力信心なんか必要もない。弥陀は十万億土の彼方におられるものだと思っていられたか知らぬが、何のことは無い、アンタの腹の中にいて、しかもこの宇宙を包んでいる絶対者なんだ。その懐に入っていながら、それを追っかけ、とらえようなんて、問題ではない。追いつけないことが分かって初めて振り返ってみると、何のことは無い。総てが包まれていたことに気がつくのだ。この様に包まれていながら、何を悩みますかね?
不思議だ!そう聞けば悩もうにも悩む種が無いではないか。そして顕徹君の語るどの話も皆、素直に肯定出来るからおかしい。弥陀が智慧や才覚で分からんでもよいのだ。このままでよいんだなあ。ああ、このままだった、このままだった。

と高森会長が獲信を認定しているのです。これはどういうことでしょうか。高森会長は

親鸞聖人や覚如上人、蓮如上人方でも分かられなかったことが、ハッキリ分かるとでも思っていたのだろうか

知識から信心を与えられる秘事法門の者たちと同程度か、類似すると思われる

ということでしょうか。
また、信心獲得していると公言した元講師を、すべて異安心と認定しているのは、高森会長ですよね。

自分のことは判らないものですね。

ところで、『末灯鈔』には、

明法御房の往生のこと、おどろきまうすべきにはあらねども、かへすがへすうれしく候ふ。

またひらつかの入道殿の御往生のこときき候ふこそ、かへすがへす申すにかぎりなくおぼえ候へ。

明法御房の御往生のことをまのあたりきき候ふも、うれしく候ふ。

なにごとよりも明法御房の往生の本意とげておはしまし候ふこそ、常陸国うちの、これにこころざしおはしますひとびとの御ために、めでたきことにて候へ。

さきにくだしまゐらせ候ひし『唯信鈔』・『自力他力』なんどのふみにて御覧候ふべし。それこそ、この世にとりてはよきひとびとにておはします。すでに往生をもしておはしますひとびとにて候へば、そのふみどもにかかれて候ふには、なにごともなにごともすぐべくも候はず。法然聖人の御をしへを、よくよく御こころえたるひとびとにておはしますに候ひき。さればこそ往生もめでたくしておはしまし候へ。

と、明法房、平塚の入道、聖覚法印、隆寛律師という個人名を挙げて、信心獲得していた人だと親鸞聖人は書いておられます。親鸞聖人のこのお言葉をどう説明するつもりでしょうか。

まさか、信・不信と往生とは関係がないとはいわないでしょうね。

高森会長の矛盾は今に始まったことではありませんが、親鸞聖人の書かれたものくらいは目を通しておいてから、発言しないと赤っ恥をかきますよ。

これでまた、高森会長もその弟子も

私は『末灯鈔』を読んだことがありません

と告白してくれました。無知をこれ以上晒すことはないでしょうから、黙っていた方が宜しいかと思います。

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コメント

なるほどねー、確かに他人(元講師)を異安心と認定してますね。ダブルスタンダードもここまでくると恥ずかしいですが、
やってる本人達ははいたって真面目ですからね。やめる直前
支部長が元講師の人たちは高森会長が育てた人を奪うことしかしてないとか言ってましたが、自分らも本願寺とかケコウ会から会員を奪っただろうにとも思いましたし、俺はおまえらの所有物じゃあねえぞ、とも思いました。まあこの流れは止まらないでしょうね。なにしろ犯罪をしてる訳ですから。

投稿: エイリアン | 2010年3月18日 (木) 02時04分

在籍時、真宗聖典を読んでいて、たまたまこの末灯鈔のお言葉を見つけ、担当講師に質問したことがあります。
講師は、「そんな質問は布教講義でもたくさん出ている。これは『往生した』とか『仏になった』といわれたのであって、『信心決定した』という決定的なお言葉は親鸞聖人はいわれていない。」
という説明(?)でした。
当時は(いや、べつに同じことのように思うけど、やはり何か言葉で違いがあるのだろうか・・)などと、深いみこころと理解しようとしていました。
MCおそるべし・・!間違いに気付けて良かったです。
阿弥陀仏のおかげです。なむあみだぶつ なむあみだぶつ 

投稿: mary | 2010年3月18日 (木) 07時51分

エイリアン 様

会長の言っていることは、支離滅裂です。結局は、自分が善で、他は悪という構図です。矛盾と思えるのはその程度の信仰だ、ということで誤魔化すものです。


mary 様

以前に信心と往生とが対で教えられていると書きましたが、そのことが判っていればこのトリックは簡単に見破れるものです。
そのうちに、信心決定していなくても往生はできる、といい出すかも知れません。
ここまでくれば何でもありでしょうね。

投稿: 飛雲 | 2010年3月18日 (木) 08時14分

maryさんのコメントに同感です。
数年前2000畳で、御一代記聞書の中の、大和の了妙の話が出ましたが、皆さん記憶にあるでしょうか?
『とどろき』にはあの部分は、「大和の了妙は帷子一枚着かねる程の貧乏人であったが、よく信心獲得していたから仏になるだろう」というように書かれていたと記憶しています。『こんなことが知りたい』にもあったかと思います。会長の解説を無視した『とどろき』とは思えません。
一つの嘘を通すために更なる嘘をつき続けなければならない苦しさが伝わってきます。

しかしMCは本当に恐ろしく、会長のその場しのぎの解説を鵜呑みにしてしまう…。会員の皆さんはMCと気付かずにMCされていることを、どのように教えを聞いてきたのかを一つ一つ思い出していって頂きたいと思います。

投稿: 淳心房 | 2010年3月18日 (木) 08時23分

ここでも同じようなことが指摘されていますね。
http://sayonara1929.txt-nifty.com/blog/2008/09/post-7dcf.html

投稿: | 2010年3月18日 (木) 11時16分

>大和の了妙の話

その場にいました。でもはっきりとした解説は覚えていません。確かその前の
「堺の日向屋は三十万貫を持ちたれども死にたるが仏にはなり候まじ。」
と比較して書かれているのであって、大和の了妙の信心を断定しているわけではない、
…とかなんとか、曖昧な説明だったと思います。
なんか納得できないなぁ、と思ったことは覚えています。

投稿: ちょこぼ | 2010年3月18日 (木) 20時44分

淳心房 様
名無し 様
ちょこぼ 様

コメント有難うございます。
私のように長年会員を続けてきた人ならわかりますが、以前は獲信認定者の話が説法でも、新聞でもよく取り上げられていました。それが最近になって、機相を語ってはならないという、珍しき真宗のイロハが説かれるようになったのです。

当時から次期会長の未信を誤魔化すためとは判っていましたが、親鸞聖人の書かれたものくらいは確認してから、自信をもって言ったり書けばいいのにと思うのです。

でも、無知であることを至る所で暴露してくれていますから、会員が目覚める切っ掛けは増えていくのでいい傾向です。

投稿: 飛雲 | 2010年3月18日 (木) 21時27分

「善知識ならば(他人の)信心をジャッジ(判定)できる」と断言してしまうのも危険な面がありますよ
あくまで信心は如来より賜るもの、一個人の判断力で(他人の信心を)軽々しく言えるものではないと思います。

というか、それが出来るのならば
判定する側は「善知識である自分が認めるんだから、貴方は信心獲得してる」みたいな言葉もまかり通りますし、
される側も「善知識様に認めていただいたんだから、私は信心獲得してるんだ」という誤解を生みかねません。
親鸞会から抜け出した方ならば、上記のような言葉がいかにおかしいか、お分かりいただけると思います。

親鸞聖人は確かに他の人の往生を喜んでおられる言葉がありますが、それは
「自分には他人の信心の有無を判定できるだけの能力や発言権を持ってる」というような傲慢な意識からの言葉ではないと思います。
「本願を信じ、念佛申さば仏となる」者同士、ともに往生浄土の道を歩む喜び(信心)から生まれた言葉で、
自身が間違いなく救われるのと同じように「他の(本願を信じる人)の往生も間違いない」と喜ばれてるのだと思います。

…と、ここまで「親鸞会の言い分が正しいとでも?」と反論を受けそうなことを書いてきましたが
親鸞会の新聞コラムには、別の、「ウラの意味」が含まれてるような気がしてなりません。
(…あくまで私論で、かつ長くなりそうなのでそこまでは言及しませんが)

ただ、他人の信心獲得に関して
「簡単に信心獲得できるはずがない、そんなことを言う人は異安心に決まってる」などと平気で言える人が
有縁の方々らの往生浄土を喜ぶ親鸞聖人と同じ善知識とは到底思えません。
(これも自分が信・未信の判定してるのではなく、あくまで自分がそうは思えない、と思ってるだけですけどね)

投稿: | 2010年3月18日 (木) 21時53分

名無し 様

>「善知識ならば(他人の)信心をジャッジ(判定)できる」と断言してしまうのも危険な面がありますよ
あくまで信心は如来より賜るもの、一個人の判断力で(他人の信心を)軽々しく言えるものではないと思います。

全くその通りです。誤解を受けるような表現だったかもしれませんが、同意見という前提で、親鸞会の言っている
「個人名を挙げて「信・不信」を仰ったという記録はどこにも見当たらない」
のおかしさを指摘しただけです。それ以上の意味はありませんので、御理解頂きたいと思います。

投稿: 飛雲 | 2010年3月18日 (木) 22時34分

いえいえ、こちらこそ失礼しました。

今回の「論説」は、ウラで「善知識(=高森会長)に、自分の信・不信を質問しないように」と
会員を牽制するような意図が含まれてるように思えます。論説では、

1.「善知識方々には、他人の信・不信を述べた言葉はない」(←これはご指摘の通り、おかしいと思います)
2.「善知識は、ほぼ判っていたとしても、言うべきでも書くべきでもないと思ってそうされなかったのだろう」
3.「ゆえに自分たちも言うべきではない。そんなことをするのは秘事法門と同類だ」

これを現在の親鸞会に当てはめれば下のようになります。
「宗祖をはじめ善知識に、他人の信・不信をいった言葉はないのだから(1)、善知識=高森会長も、ほぼ判ってらっしゃるけども、
 言うべきではないことなので言わない(2)。親鸞学徒=会員たちも言わない(質問しない)ように。言うものは秘事法門と同類だ(3)」

…質問されたら都合が悪いけど、答えられずに会長先生の権威が疑われても困るからこういう言い方をしてるように思えませんか?
自分から「私は信心獲得した」と言うと、簡単に信心獲得できたとか言う人は異安心に決まってる、ときつく叱り付けられますが、
熱心な会員から真摯に「私の信心は、後生はどうなんでしょうか」と問われた時は、YesともNoとも言いづらいんだと思います。
「会員は会長に無条件服従し、末永く会長を崇めながら善(会の活動)に邁進してもらいたい」というのが親鸞会の実態ですから、
会員に信心獲得してもらっちゃ困る(=会長の権威が相対的に落ちかねない)のが本音でしょうね。

投稿: | 2010年3月19日 (金) 19時58分

名無し 様

>会員に信心獲得してもらっちゃ困る

その通りだと思います。華光会時代にはたくさんの人を信心獲得まで導いたとされますが、親鸞会になってからはさっぱり。

しかし次期会長でさえ導けないのですから、それを隠すことが最大の目的と思います。

投稿: 飛雲 | 2010年3月20日 (土) 07時01分

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