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2010年3月 6日 (土)

諸善と念仏

「雑行を捨てよと言われているのは、自分のやった善で助かろうとしている自力の心を捨てよということで、善をするなということではない」と親鸞会では、強まる教義批判に対して内部向けに必死に誤魔化しの反論をしています。

このフレーズだけ見れば正しいのですが、親鸞会でいっている善の勧めの理屈は、「善をしなければ信仰は進みません」「諸善は獲信とよい関係にある」などであり、これが根本的に間違っていると非難しているのです。

具体的にいえば、他人に仏法の話をしたり、勧誘したりする法施、多くの会費を出したり、会館建設費や絵画の募財に参加する財施は、獲信とは全く関係ないものなのです。はっきりいえば、親鸞会でしなければならないと勧めている”善”は、往生の妨げにしかなりません。

だから、多くのブログで、親鸞聖人、蓮如上人が獲信のために善を勧められたり、19願を勧められた根拠は1箇所もないと指摘され続け、それを誤魔化すために下らない内部向けの反論をするのみです。
因果の道理を殊更強調していますが、「では因果の道理と獲信との関係について説明をしてください」、と質問したらどう答えるでしょうか。「仏教の根幹は因果の道理ということだ」としか答えられないでしょう。私も20数年間、これ以外の答えを聞いたことがありませんが、全く答えになっていません。

往生と無関係であるという大前提で、善を勧めたり、因果の道理を強調するのなら両手を上げて賛同します。しかし、それではお金が集まらないし、人も増えませんので、どれだけ非難されようが、獲信と諸善とは関係があるかのように偽装しなければならないのです。

一方、往生の正因である念仏について、親鸞会ではほとんど無視しています。確かに親鸞聖人は自力念仏を誡められていますが、それは念仏を称えてさえいれば、助かるに違いないと、自力念仏に留まってしまう同行が余りにも多かったからであります。
それで七高僧方が勧められた念仏を、敢て自力念仏と他力念仏とに峻別なされたのです。ですから親鸞聖人は、諸善を勧められていませんが、念仏は勧められています。

『親鸞聖人御消息集』に

詮じ候ふところは、御身にかぎらず念仏申さんひとびとは、わが御身の料はおぼしめさずとも、朝家の御ため国民のために念仏を申しあはせたまひ候はば、めでたう候ふべし。往生を不定におぼしめさんひとは、まづわが身の往生をおぼしめして、御念仏候ふべし。わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候ふ。

とあります。最後の部分は、本願寺でよく使われているところですので聞かれたことのある方も多いかも知れません。
信前の人にとって重要なのが、以下の一文です。

往生を不定におぼしめさんひとは、まづわが身の往生をおぼしめして、御念仏候ふべし。

未だ信心が定まっていない人は、我が身の往生のことを思って、念仏を称えなさい、と仰っています。信後の人は「御報恩のために御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」と思って念仏を称えればいいのです。信前信後を問わず、念仏を勧めておられるのです。
ここを拝読しますと、法然上人の『一枚起請文』を思い出します。

もろこし・わが朝に、もろもろの智者達の沙汰しまうさるる観念の念にもあらず。また、学文をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず。ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して、疑なく往生するぞと思ひとりて申すほかには別の子細候はず。ただし三心・四修と申すことの候ふは、みな決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ふうちに籠り候ふなり。

このほかにおくふかきことを存ぜば、二尊のあはれみにはづれ、本願にもれ候ふべし。念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらにおなじくして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし。

親鸞聖人も、法然上人が仰った通り、往生のためには、諸善を廃して念仏一行を立てよと教え勧められたことは、『歎異鈔』を読んでも判ります。念仏ばかりが強調されています。ただし、念仏さえ称えていたらいいと思ってしまうことを懸念されて、何度も何度も自力念仏を誡められているのです。以前に紹介しました『末灯鈔』のお言葉を再度読んで下さい。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき。このやうをよくよく御こころえ候うて御念仏候ふべし。

親鸞会は親鸞聖人と全く反対のことを教えています。諸善を立てて念仏を軽視しています。親鸞会はひいき目に見ても、聖道仏教としかいえません。

騙され続けて訳が判らなくなっている会員のために、まとめておきます。

往生と無関係であると思って、善を大いにしましょう。
疑いなく往生するぞと思って、念仏を大いに称えましょう。

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