« 金剛心と暁 | トップページ | 信心と念仏 »

2010年3月13日 (土)

信後の念仏

『親鸞聖人御消息』に

また親鸞も偏頗あるものときき候へば、ちからを尽して『唯信鈔』・『後世物語』・『自力他力の文』のこころども、二河の譬喩なんど書きて、かたがたへ、ひとびとにくだして候ふも

と書き記しておられますように、関東の同行に対して二河白道の譬喩を親鸞聖人が書かれて送られています。親鸞聖人はそれだけ重要視なされていたということです。

二河白道の譬喩は、信前、信後、そして浄土往生までの道程を譬えをもって判りやすく示されたということで、親鸞聖人も御自身と他の人の求道をも重ねられていたのでしょう。

しかし、この譬え話を高森会長が根本的に間違えて教えていたとは、本当に驚きました。都合が良いように敢て話を変えていたのかとも思いましたが、

「親鸞会教義の誤り」宿善とは8

によれば、

高森会長の師匠であった伊藤康善師の『仏敵』には、

だれでもその関所を通るのです。今が、二河白道の真ん中へ出た味です。前へ進むには進まれず、後へ帰るには帰られず、じっと止まるにも止まられずという三定死の苦しいところです・・・が、今しばらくの辛抱です。この聞信の一念は、弥勒菩薩などが行われる百大劫の修行の代わりですからね・・・

とありますので、高森会長はこれをそのまま信用して今の話を創り上げたのだろうと思われます。

と書かれてあり、更に驚嘆しました。
無二の善知識と崇めていた高森会長は、真宗学を本当に何も知らないことが改めて判り、怒りを通り越して哀れみさえ感じます。

さて、白道は阿弥陀仏から回向された他力信心ですが、西の岸まで白道を一歩二歩と進んでいくとは、一年二年と臨終まで念仏の道を進むことです。
信心決定したら念仏を百回称えても十回称えても一回称えてもよい、一回も称えなくてもよい、と高森会長から聞いてきましたが、一回も称えなくてもよいというのは、邪義です。命ある限り、念仏の生活をしていかなければなりません。

『御文章』には、

このうへには、なにとこころえて念仏申すべきぞなれば、往生はいまの信力によりて御たすけありつるかたじけなき御恩報謝のために、わがいのちあらんかぎりは、報謝のためとおもひて念仏申すべきなり。(1帖目第3通)

他力の信心といふことをしかと心中にたくはへられ候ひて、そのうへには、仏恩報謝のためには行住坐臥に念仏を申さるべきばかりなり。(1帖目第5通)

かやうの道理なるときは、昼夜朝暮は、如来大悲の御恩を雨山にかうぶりたるわれらなれば、ただ口につねに称名をとなへて、かの仏恩を報謝のために念仏を申すべきばかりなり。(2帖目第4通)

このうへにはただねてもおきてもへだてなく念仏をとなへて、大悲弘誓の御恩をふかく報謝すべきばかりなりとこころうべきものなり。(2帖目第9通)

しかればこのありがたさたふとさの弥陀大悲の御恩をば、いかがして報ずべきぞなれば、昼夜朝暮にはただ称名念仏ばかりをとなへて、かの弥陀如来の御恩を報じたてまつるべきものなり。(2帖目第10通)

これによりて、かたじけなくもひとたび他力の信心をえたらん人は、みな弥陀如来の御恩のありがたきほどをよくよくおもひはかりて、仏恩報謝のためには、つねに称名念仏を申したてまつるべきものなり。(2帖目第13通)

さてこの信心決定のうへには、ただ阿弥陀如来の御恩を雨山にかうぶりたることをのみよろこびおもひたてまつりて、その報謝のためには、ねてもさめても念仏を申すべきばかりなり。(3帖目第1通)

かくのごとくこころえたらんひと、名号をとなへて、弥陀如来のわれらをやすくたすけたまへる御恩を雨山にかうぶりたる、その仏恩報尽のためには、称名念仏すべきものなり。(3帖目第2通)

等々、信後は念仏を称えなさいと何度も何度も書かれています。称えても称えなくてもどちらでもよいとは書かれていません。
それに対して、高森会長は余りにも念仏を軽視し過ぎです。高森会長が念仏を称えている姿は、法話の時以外で見たことがありません。日頃お勤めもしていないと聞いています。

白道の理解が、根本から狂っていますから仕方がないでしょうが、高森会長が信心決定しているとすれば、念仏を称えないことで白道から足を踏み外して、水の河に落ちて溺れているようにしか思えないのは、私だけでしょうか。他力の信心ならばもちろんそんなことはない筈ですが…

二河白道の譬えとは、信後こそ念仏と諸善に励んで、高森会長のようになってはいけないぞと誡められたものと私は味わっております。

|

« 金剛心と暁 | トップページ | 信心と念仏 »

コメント

数十年前は、会長と一般会員が接することもありましたが、確かに念仏を称えている姿は見ませんでした。
念仏を軽視しているというよりは、念仏を誹謗しているといった方がいいかもしれませんね。

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2010年3月14日 (日) 08時48分

しかし念仏が大事とでも言おうものなら「信心正因称名報恩で~~~~~云々」と押さえ込まれるんでしょうね。
そのわりに信心を本気で問題にしているのか、過去の会合の内容をふりかえると激しく疑問です。
参詣人数確認、勧誘の心構え、教学推進、ご報謝案内・・・そんなことばかりだった気がします。

投稿: ちょこぼ | 2010年3月14日 (日) 12時58分

会長が信心決定しているかどうかは判りませんが、説いていることは明らかに浄土仏教ではないですね。

投稿: 飛雲 | 2010年3月14日 (日) 14時33分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 信後の念仏:

« 金剛心と暁 | トップページ | 信心と念仏 »