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2010年3月28日 (日)

「往生をば遂ぐる」のは私のことだから機の深信である???

昨日、機の深信について書きましたが、最近のテレビ座談会や『顕真』では、その解釈が明らかにおかしいと、ある会員さんから聞きました。
その内容は、

「浄土真宗親鸞会を考える 新・ハトの会」
投稿:最近のテレビ座談会

にも書かれてありますので、それを引用します。

過日、ある会員さんから最近あったテレビ座談会についての投稿がありました。

<以下引用>

 前回のテレビ座談会で

・弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて=法の深信
・往生をば遂ぐるなり=機の深信

と説明がありました。その時は「『往生をば遂ぐる』のは私のことだから機の深信である」という説明でした。

 ですから、今回どうして「往生をば遂ぐる」のが機の深信なのか知りたく思い、質問が出ました。私も、詳しく知りたかったので、メモをとる手に力が入りました。

 高森先生のお答えは以下の通りです

高森先生:親鸞聖人の教えは……○○くん、説明できるやろ。親鸞聖人の教え=平生業成。平生といえば……「往生の一路は平生に決す」

(法霖の詩吟をうたう)

高森先生:人生の大事業は往生の一路を決することです。聖人はこれを、「生死の苦海ほとりなし」と言われています。本で確認すると、『なぜ生きる』の182ページにあります。

(筆者注:その会員さんの話によると、
「最近、根拠の確認は専ら、
・『なぜ生きる』
・『歎異抄をひらく』
・お勤めの本(『正信聖典』)、
・“浄土真宗親鸞会発行の”『御文章』『御一代記聞書』しか使っていません」
ということだそうです。以前は法蔵館の『真宗聖典』を使っていたのですが、だんだん方向性がおかしくなってきているようです)

高森先生:生死の苦海で苦しむ私達を助けることができるのは、弥陀弘誓の船のみ。阿弥陀仏の救いにあうために私達は生きている。平生業成の「業」とは弥陀「弘誓のふね」に乗ること。いつできるのか。「平生に決す」と法霖は言っている。

(以下、法霖の詩吟に沿って説明説明がなされました)

往生の一路は平生に決す
今日何ぞ論ぜん死と生とを
蓮華界裡の楽を快しむに非ず
娑婆界に還来して群生を化す

高森先生:これで、親鸞聖人の教えがどういうものか、お分かり頂けたと思います。そこで、『歎異抄』に戻ります。阿弥陀仏の救いはだんだんではなく一念です。仏教聞く目的は?

(その後、『なぜ生きる』にはこう書いてある、などいろいろな話がありました)

高森先生:今日皆さんがテレビ座談会を聞かれているというのは、阿弥陀仏の救いに向かって進んでいるということです。ゴールの無い道ではありません。一念で人生の目的が完成するというゴールがあるのです。それを、『歎異抄』の最初に「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて」と言われているのです。「往生をば遂ぐるなり」というのは私が救われるということだから機のこと。だからそこに機法二種深信が説かれているのです。

<引用終わり>

「平生業成の話はわかったが、機の深信についての説明が少ししかなくて、全然わからなかった」
とその会員さんは言っていました。
 どこがどう間違いというより、会長は質問に対してまともに答えることすら出来なくなったようです。

呆れる内容です。
機の深信について、判っていないのか、あるいは言い間違いを訂正せずに押し通したいだけなのか?

ちなみに二種深信についての善導大師のお言葉は以下です。

「深心」といふはすなはちこれ深く信ずる心なり。また二種あり。一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫よりこのかたつねに没し、常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなく、かの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。(観無量寿経疏 散善義)

二つには深心、すなわちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声一声等に及ぶまで、定んで往生を得しむと信知して、いまし一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。(往生礼讃)

さて、「私が救われるということだから機のこと」は、善導大師の仰る法の深信でも同じではないですかね。他に誰が救われるのでしょうか。高森会長は機の深信を平易な言葉でいうと、

堕ちるに間違いなし

と何十回も説明してきましたが、頭の中は一体どうなってるのか、と思います。

更に驚くのが、このことを聞いた会員が、このことで高森会長をまた称賛している事実です。どこまで思考が停止しているのかと呆れ果てます。これで疑問を起さないような人は、どうすれば気が付くのでしょうか。高森会長の間違いに気が付くことは一生ないのでしょうか。

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コメント

機の深信が「堕ちるに間違いなし」なら、「往生をば遂ぐるなり」は「助かるに間違いなし」と説明している法の深信と言うべきものではないのでしょうかね?

昨年は、罪悪観は自力だと説明していたと聞きましたが、珍しい教えのオンパレードです。

いくら教義で間違いを指摘しても、中々相手の思いや信念まで変えることは難しいですね。何せ親鸞会が間違いと認めるということは、今までの苦労、人生を否定することになってしまうからです。曲がりくねった親鸞会教義だなと正見して、方向修正して頂きたいと願わずにはいられません。

投稿: 淳心房 | 2010年3月28日 (日) 22時40分

太陽中心に各惑星が公転している説明がどんなに鮮やかでも、天動説の人には信ずる証拠にならないのと似ているでしょうか。。
「カラスは白い!」と善知識が仰ればそうなんだという感覚の人に、
実際黒いカラスを数匹見せても、証拠にならないようです。

ですが、数百匹の黒いカラスを見せられて、一羽も白いカラスがいなければ、少しは疑念をもつかもしれません。
飛雲さんや、淳心房さんがその活動をされてみえるので、私はあまりにも微力で恥ずかしいですが、数匹の黒いカラスとなることができれば幸いと思います。

投稿: YGM | 2010年3月29日 (月) 08時26分

機法一体のつもりが間違えたのか分かりませんが、最近の状態は許せるものでは無いですね。

投稿: ぶりぱぱ | 2010年3月29日 (月) 11時27分

淳心房 様

曲がりくねった親鸞会教義だなと正見して、方向修正して頂きたいと願わずにはいられません。

この通りですね。


YGM 様

皆でできることをして、会員が目覚めるように協力していきたいですね。


ぶりぱぱ 様

会長も会員も思考がおかしいとしか言い様がありません。

投稿: 飛雲 | 2010年3月29日 (月) 22時38分

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