« 諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ | トップページ | 惑染・逆悪斉しくみな生じ、謗法・闡提回すればみな往く »

2010年3月20日 (土)

五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり

親鸞会の教義に疑問をもったある会員が、支部長に

一切衆生必堕無間は嘘ではないですか

と尋ねました。その時の支部長の答えが、

本願に「唯除五逆誹謗正法」とあるだろう、十方衆生は必堕無間ということだ

だったといいます。これがおかしいと思わない人は、未だマインドコントロール下にあるといえます。
個人の懺悔として、「唯除五逆誹謗正法」とは自分のことだと味わうことは自由でが、「十方衆生」が「五逆誹謗正法」の者と親鸞聖人が教えられたというのは、明らかな間違いです。
親鸞聖人が仰っていることは、「五逆誹謗正法」の者でも救われるのが阿弥陀仏の本願である、ということだけです。

『尊号真像銘文』には、

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

と解釈なされてあり、他の御著書を読んでも「十方衆生」=「唯除五逆誹謗正法」という高森会長の解釈などどこにもありません。

親鸞聖人が『教行信証』を書かれた目的は、聖道門の学僧による『選択本願念仏集』の非難に対する反論です。『教行信証』で特に力を注がれたのが、報土往生のためには善は不要であることと、本願の「唯除五逆誹謗正法」の解釈です。
唯除五逆誹謗正法」の解釈については、『教行信証』全体の1割も費やされていることからも、親鸞聖人の力の入れようが判ります。

親鸞聖人が苦心なされたのは、「五逆誹謗正法」の者が本願からも漏れていないことの証明です。「十方衆生」=「唯除五逆誹謗正法」ではなく、「十方衆生」の中に「五逆誹謗正法」の者が含まれることを聖道門の学僧に知らしめるのに、阿闍世の回心を長々と引文なされているのです。

「親鸞会教義の誤り」でも『教行信証』のその内容が3回にわたって解説されています。
阿闍世の回心の背景については、

一切衆生は必堕無間なのか4

にありますので、そちらを読まれるとおおよその内容が判ると思います。

阿闍世が救われたことを紹介なされて、親鸞聖人は五逆罪の者でも救われることを証明なされているのです。
これは『観無量寿経』でも、五逆罪の者が救われることを説かれていますので、その実例として阿闍世を出されたのです。

問題は謗法罪の者が救われるのかどうかということです。謗法罪の者が救われるという根拠が経典上にはないからです。

『教行信証』信巻には、

それ諸大乗によるに、難化の機を説けり。いま『大経』には「唯除五逆誹謗正法」といひ、あるいは「唯除造無間悪業誹謗正法及諸聖人」(如来会・上)とのたまへり。『観経』には五逆の往生を明かして謗法を説かず。『涅槃経』には難治の機と病とを説けり。これらの真教、いかんが思量せんや。

と自問なされています。

その後に曇鸞大師の『浄土論註』にある八番問答と善導大師の『散善義』を引かれて、五逆罪と謗法罪とはどんなものかを明らかにされた上で、親鸞聖人は御自身の解釈を述べて自答なされています。

一切衆生は必堕無間なのか5
一切衆生は必堕無間なのか6

に書かれてありますので、読まれるとよいでしょうが、難しいところがありますので、少しずつ解説をしてみたいと思います。

|

« 諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ | トップページ | 惑染・逆悪斉しくみな生じ、謗法・闡提回すればみな往く »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり:

« 諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ | トップページ | 惑染・逆悪斉しくみな生じ、謗法・闡提回すればみな往く »