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2010年3月22日 (月)

『浄土論註』を読んだことがある訳ない

曇鸞大師が『浄土論註』で五逆罪と謗法罪について解説なされた概要について前回述べました。今回は、その中で高森会長の理解との相違点について、知っておかれた方がよいと思われることを書いてみたいと思います。

私が会員時代に、親鸞聖人が「一切衆生必堕無間」を仰った根拠として”教えて”もらったのが、前回の『教行信証』信巻に引かれた『浄土論註』にある

『経』にいはく、〈五逆の罪人、阿鼻大地獄のなかに堕して、つぶさに一劫の重罪を受く。誹謗正法の人は阿鼻大地獄のなかに堕して、この劫もし尽くれば、また転じて他方の阿鼻大地獄のなかに至る。かくのごとく展転して百千の阿鼻大地獄を経〉と。

でした。しかし、これもこの後を読めば判りますが、前回述べたように浄土仏教を信じている人は、謗法罪の人ではないと曇鸞大師は仰っています。

問うていはく、なんらの相か、これ誹謗正法なるやと。

答へていはく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。

謗法罪が最も重い罪であることを知らせんが為に、曇鸞大師が五逆罪と比較されたものであって、それを親鸞聖人が「一切衆生必堕無間」という意味で引用されたのではないことは明らかなことです。

親鸞会は、徹底的に断章取義で創られた教義であることがここでも判ります。

また高森会長が一念の説明でよく使う曇鸞大師の千歳の闇室の譬えも、『浄土論註』のこの後にあります。しかし、この譬えは、一念についてのものではありません。

なんぢ五逆・十悪・繋業等を重とし、下下品の人の十念をもつて軽として、罪のために牽かれてまづ地獄に堕して三界に繋在すべしといはば、いままさに義をもつて軽重の義を校量すべし。心にあり、縁にあり、決定にあり。時節の久近・多少にあるにはあらざるなり。いかんが心にあると。かの罪を造る人は、みづから虚妄顛倒の見に依止して生ず。この十念は、善知識の方便安慰して実相の法を聞かしむるによりて生ず。一つは実、一つは虚なり。あにあひ比ぶることを得んや。たとへば千歳の闇室に、光もししばらく至れば、すなはち明朗なるがごとし。闇、あに室にあること千歳にして去らじといふことを得んや。これを在心と名づく。

とある通りです。それを

「清森問答」親鸞会教義の相対化・28

では、

★闇を照らす光の譬え

その上で、

たとえば、千年間も光が入らない闇室に、一瞬でも光が入れば、たちまち明るくなるようなものである。
闇は千年間も室の中にあったのだから、光が入っても去らない、ということがありえようか。(いやありえない)

という譬えでもって、五逆の罪がどれほど重くても、阿弥陀仏の名号を十回称える無上の信心があれば、全ての罪が除かれると解釈しておられます。

と説明されています。
五逆罪と『観無量寿経』に説かれた十念との重さを比べられたもので、結論として、真実の十念の方が虚仮の五逆罪よりも重いとされています。阿弥陀仏の救いに時間は掛らないという意味でこの譬えを出されたのではないとお判り頂けると思います。

実はこの少し後に、

問うていはく、いくばくの時をか名づけて一念とするやと。

答へていはく、百一の生滅を一刹那と名づく。六十の刹那を名づけて一念とす。このなかに念といふは、この時節を取らざるなり。ただ阿弥陀仏を憶念して、もしは総相もしは別相、所観の縁に随ひて心に他想なくして十念相続するを名づけて十念とすといふなり。ただ名号を称することもまたまたかくのごとしと。

とありますので、一念の説明と千歳の闇室の譬えとを一緒に説明した人がいて、それをそのまま信じたのではないでしょうか。 『教行信証』を直接読んでいない高森会長が、『浄土論註』を読んだことがある訳ないですから、大沼師が味わいとして書かれたものを教義と勘違いしたのではないかと想像しています。もし、ご存知の方があれば教えて下さい。

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コメント

>一念の説明と千歳の闇室の譬えとを一緒に説明した

に近いかなと感じたので、書き込みしてみます。

光輪(大沼師著) p.171-172

22 信楽開発

南無阿弥陀仏とは、縦に三世を貫き横に十方に遍する宇宙の真理を諦得された人格者を信奉さして頂くことである。
念佛とは今の心は人に非ずと言う事で、み佛様に信順無疑する時は法龍の相の儘で、体徳から言えば阿弥陀仏と一体であり、機相から言えば有漏の凡夫である。
何んと有難い事か。空間的無辺だから何処でも救うと言う事であり、時間的無限だから何時でも救うと言う覚体だから、それなら何処でも何時でも救うのなら今救うて下さい、今此処でと言う事が平生業成とは底の知れない有難さではないか。

その光明無量寿命無量の念力が私に届けば信楽の二文字となり、開けば信心歓喜となり、曇鸞大師は破闇満願と教え、道綽禅師は罪悪感と無常感で説き、善導大師は信機信法で示して居らるるのだ。

この仏智満入の一刹那を宗祖大師は
「信の一念と言ふは信楽開発の時尅の極促を顕はし広大難思の慶心を彰はす」と教えられてあるのだが、
千載の暗室に光明無量の光が届けば室内が明るくなり、寿命無量の仏徳によって感謝法悦となるのである。

(略)

投稿: ZhengQing | 2010年3月22日 (月) 23時30分

ZhengQing 様

なるほど、有難うございました。
やっぱり大沼師でしたね。

投稿: 飛雲 | 2010年3月23日 (火) 07時12分

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