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2010年3月 3日 (水)

真仮廃立と従仮入真

昨日、『末灯鈔』の御文を紹介しました。『末灯鈔』とは、親鸞聖人が関東の同行に宛てたお手紙を集めたものです。『教行信証』は、明恵ら聖道門の学僧達からの非難に対する論文ですので、内容が非常に難しい上に、聖道門向けに書かれています。
一方、『末灯鈔』は、『教行信証』とは違って同行向けに書かれていますので、一般の人にも浄土真宗の教えが判るように書かれています。

親鸞聖人の教えを学問として学ばれるのであれば、『教行信証』を読まなければなりませんが、信心決定を目的として学ばれるのであれば、『末灯鈔』を読まれることをお勧めします。

『末灯鈔』の中で、18願、19願、20願について書かれたものがありますので、少し長いのですが、紹介しておきます。

 笠間の念仏者の疑ひとはれたる事

 それ浄土真宗のこころは、往生の根機に他力あり、自力あり。このことすでに天竺(印度)の論家、浄土の祖師の仰せられたることなり。

 まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。

 しかれば、わが身のわるければ、いかでか如来迎へたまはんとおもふべからず、凡夫はもとより煩悩具足したるゆゑに、わるきものとおもふべし。またわがこころよければ往生すべしとおもふべからず、自力の御はからひにては真実の報土へ生るべからざるなり。

 「行者のおのおのの自力の信にては、懈慢・辺地の往生、胎生・疑城の浄土までぞ往生せらるることにてあるべき」とぞ、うけたまはりたりし。第十八の本願成就のゆゑに阿弥陀如来とならせたまひて、不可思議の利益きはまりましまさぬ御かたちを、天親菩薩は尽十方無碍光如来とあらはしたまへり。このゆゑに、よきあしき人をきらはず、煩悩のこころをえらばず、へだてずして、往生はかならずするなりとしるべしとなり。しかれば恵心院の和尚(源信)は、『往生要集』(下)には、本願の念仏を信楽するありさまをあらはせるには、「行住座臥を簡ばず、時処諸縁をきらはず」(意)と仰せられたり。「真実の信心をえたる人は摂取のひかりにをさめとられまゐらせたり」(同・意)と、たしかにあらはせり。しかれば、「無明煩悩を具して安養浄土に往生すれば、かならずすなはち無上仏果にいたる」と、釈迦如来説きたまへり。

 しかるに、「五濁悪世のわれら、釈迦一仏のみことを信受せんことありがたかるべしとて、十方恒沙の諸仏、証人とならせたまふ」(散善義・意)と、善導和尚は釈したまへり。「釈迦・弥陀・十方の諸仏、みなおなじ御こころにて、本願念仏の衆生には、影の形に添へるがごとくしてはなれたまはず」(同・意)とあかせり。

 しかれば、この信心の人を釈迦如来は、「わが親しき友なり」(大経・下意)とよろこびまします。この信心の人を真の仏弟子といへり。この人を正念に住する人とす。この人は、〔阿弥陀仏〕摂取して捨てたまはざれば、金剛心をえたる人と申すなり。この人を「上上人とも、好人とも、妙好人とも、最勝人とも、希有人とも申す」(散善義・意)なり。この人は正定聚の位に定まれるなりとしるべし。しかれば弥勒仏とひとしき人とのたまへり。これは真実信心をえたるゆゑにかならず真実の報土に往生するなりとしるべし。

 この信心をうることは、釈迦・弥陀・十方諸仏の御方便よりたまはりたるとしるべし。しかれば、「諸仏の御をしへをそしることなし、余の善根を行ずる人をそしることなし。この念仏する人をにくみそしる人をも、にくみそしることあるべからず。あはれみをなし、かなしむこころをもつべし」とこそ、聖人(法然)は仰せごとありしか。あなかしこ、あなかしこ。

 仏恩のふかきことは、懈慢・辺地に往生し、疑城・胎宮に往生するだにも、弥陀の御ちかひのなかに、第十九・第二十の願の御あはれみにてこそ、不可思議のたのしみにあふことにて候へ。仏恩のふかきこと、そのきはもなし。いかにいはんや、真実の報土へ往生して大涅槃のさとりをひらかんこと、仏恩よくよく御案ども候ふべし。これさらに性信坊・親鸞がはからひまうすにはあらず候ふ。ゆめゆめ。

   建長七歳乙卯十月三日

                   愚禿親鸞八十三歳これを書く。

親鸞聖人が晩年に書かれたものです。
他力の18願と、自力の19願・20願を比較されながら、他力の18願について説明なされています。

「親鸞会教義の誤り」親鸞会は諸行往生13

にもありましたが、18願、19願、20願の三願について親鸞聖人は『教行信証』では真仮廃立従仮入真の両面で説明をなされています。それは最初に述べたように、『教行信証』は聖道門の人向けですので、聖道仏教が説かれた理由を、聖道門から19願、20願、そして最後18願へと導かれるという従仮入真で説明なされる必要があったのだと思われます。

しかし、親鸞聖人の教えを聞いてきた同行向けの『末灯鈔』では、真仮廃立で説明なされています。法然上人のお言葉を出されて

「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。

「行者のおのおのの自力の信にては、懈慢・辺地の往生、胎生・疑城の浄土までぞ往生せらるることにてあるべき」とぞ、うけたまはりたりし。

と、自力と他力の解説をされて、自力では化土にしか往けないのだと誡められています。

そして最後の

 仏恩のふかきことは、懈慢・辺地に往生し、疑城・胎宮に往生するだにも、弥陀の御ちかひのなかに、第十九・第二十の願の御あはれみにてこそ、不可思議のたのしみにあふことにて候へ。仏恩のふかきこと、そのきはもなし。いかにいはんや、真実の報土へ往生して大涅槃のさとりをひらかんこと、仏恩よくよく御案ども候ふべし。

では、阿弥陀仏の御恩の深いことは、19願・20願でさえも化土往生で不可思議の楽しみを頂けるのに、ましていわんや報土往生して仏のさとりを開かせて頂ける御恩をよくよく考えなさい、と教えて下さっています。

他力の18願と、自力の19願・20願とを、はっきり区別されていて、相互に関係付けられてもいません。親鸞聖人の教えを聞いている私たちにとりましても、18願と、19願・20願を関係付けて考える必要は全くないと思います。

高森会長のいう従仮入真とは、親鸞聖人の教えを聞いている人にまで適用して、無理やり三願転入を求道とセットで会員に押しつけるものです。信心決定への近道どころか、遠回りをさせているのです。

親鸞会の会員はもちろんですが、退会者でも三願転入に拘る傾向があります。高森会長の巧妙なトリックからは簡単に逃れられないようです。しかし、親鸞聖人が同行に対して三願転入を説かれていませんので、三願を『末灯鈔』のように素直に真仮廃立で理解しないと、平生業成は難しいでしょう。

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コメント

飛雲様

ありがとうございます。
読ませていただきました。

すみません…理解がついていけなかったところを教えてください…。

質問:
「三願を真仮廃立で理解する」というのは、浄土仏教を聞く人にとっては19願や20願の教えはいらないもの、という理解であっているでしょうか…?

投稿: 雨男 | 2010年3月 3日 (水) 22時24分

雨男 様

浄土仏教を聞く人というと、少し語弊がでるかも知れませんので、18願での救いを願う人、としておけば、19願と20願は捨てものと考えるべきでしょう。

投稿: 飛雲 | 2010年3月 3日 (水) 22時30分

親鸞聖人が、『教行信証』以外では三願転入を仰っていないこと、19願、20願を誡められていることを考えれば、19願と20願を18願との比較の意味以外で特別視する意味はないと思いますよ。
七高僧も、覚如上人、蓮如上人も三願転入については、全く仰っていませんし。

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2010年3月 3日 (水) 22時41分

飛雲様

お答えいただき、ありがとうございます。
「18願での救いを願う人には、19願や20願はいらないもの」と理解できました。

ところで、ふと思ったのですが…

親鸞聖人の教えを聞いてきた同行向けの『末灯鈔』に、なぜ、18願での救いを願う人にとって不要な19願や20願を、比較としてとはいえ、書かれたのでしょうか…?

同行に対しては不要な19願、20願であれば、親鸞聖人が同行に教えられるはずがなく…、教えられていない同行に向けて…であれば、書く必要もないように思うのですが…。

考えすぎでしょうか…?

飛雲様
昨日に引き続いて今日も教えていただきありがとうございました。
今日は、この質問を最後にて、失礼させて頂きます。また、ど素人の質問をしてしまうかもしれませんが、よろしくお願い致します。

投稿: 雨男 | 2010年3月 3日 (水) 22時49分

雨男 様

関東でも自力諸善と自力念仏の邪義は、蔓延していました。浄土宗でも、法然上人の仰せと異なって19願の諸行往生を認める動きが出ていました。
そのように理解されればいいと思います。

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2010年3月 3日 (水) 22時57分

雨男 様

幹部会員歴数十年さんの言われるとおりでよいと思います。

化土往生については、以前のエントリーでも書いたとおり、浄土仏教では一般的に説かれるものです。化土と報土は対になっています。

投稿: 飛雲 | 2010年3月 3日 (水) 23時01分

>雨男さん

「今助ける願」を聞きたい人に対して、まず今助かろうと思うことを捨てて「臨終に助ける願」を聞きなさい
と言ったのでは、廃立が逆になってしまうと思います。
臨終来迎をめざすことは廃して、平生業成を立てるべきです。
今回のブログの最後の行にある通り、聖人の御言葉の通り素直に廃立されるのがよいと思います。

投稿: YGM | 2010年3月 3日 (水) 23時03分

雨男様

はじめまして。私も少々コメントさせて頂きます。

皆さん仰るように、善知識方はひとえに18願を私達にお勧め下さっています。法然聖人もそうです。

親鸞聖人は法然聖人の仰せに従い、ひとえに18願による救いを求めました。
しかし自力が廃らない間は念仏を自分の善根として称えていたため、仏智を了らず、はからずも20願に止まっておられました。
ところがその20願方便の真門を出て、18願の救いに遇えたことを告白されています。

20願を勧められているのは『教行信証』に1ヶ所ありますが、それは19願自力諸行往生に止まっている人に対してです。
御和讃等でお分かりのように20願を親鸞聖人は戒めておられ、勧められてはいません。ましてや19願をやです。

勿論20願に止まってしまうことはありますが、それでは報土へは往けません。18願の救いを求め、ひとえに南無阿弥陀仏によって救われて頂きたいと思います。

投稿: 淳心房 | 2010年3月 3日 (水) 23時16分

親鸞聖人は信前、阿弥陀仏に救われるまでの過程をほとんど書き残されなかった、と高森会長は言いながらも、なぜ何十回以上も教学講義で三願転入の話を会長はしたのでしょうか?
40度の熱があっても聞きにこい、私の遺言だ、教学的に深い内容を話するから、参加者を厳選した、等々教学講義を最重要に位置付ける会長の言動は多いです。
しかし、最重要の教学講義で親鸞聖人が教行信証にたった数行しか書かれていない内容を長々と時間をとって話している時点で、ぺてん師と気付くべきだったと私は反省してます。

投稿: | 2010年3月 3日 (水) 23時23分

聞かれる前(?)に言っておこうと思いますが、「19願や20願はいらない」という言葉は、
 「阿弥陀仏が不要な願を建立した」 とか 「釈迦が意味のない願を説いた」 と言っているわけではありません。

 (*)親鸞会は「19願や20願はいらない」のような言葉を見ると、すぐ↑のような解釈に曲げてきますので
   特に現役の方には注意して読んでもらいたいですね。

そういう意味ではなく、

「親鸞聖人の教えに出遇い、真実報土へ往生したいと思う者」は、
 「(19願や20願のような権仮方便の教えに留まらず)、18願の救いを疑いなく聞きましょう」という意味です。
 親鸞聖人をはじめ、祖師の方々が勧めておられる「自力を捨てて他力に帰せよ」ということです。

 (*)親鸞会教義を批判する方は、19願や20願には「権仮方便」としての意味のある願であることは何度も言っています)

あんまり長くなりすぎるのも自重して、この辺で。

投稿: | 2010年3月 4日 (木) 01時07分

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