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2010年3月21日 (日)

惑染・逆悪斉しくみな生じ、謗法・闡提回すればみな往く

親鸞聖人は、『教行信証』信巻で阿闍世の救われるすがたを『涅槃経』から引かれた後、18願から除かれた五逆罪と謗法罪についての説明を曇鸞大師と善導大師の解釈からなされています。

曇鸞大師の『浄土論註(往生論註)』は、原文も難しいですが、口語訳を読んでも難しいので、それを巧くまとめたものが

「清森問答」親鸞会教義の相対化・28

にあります。曇鸞大師の解釈部分を紹介しておきます。

★曇鸞大師の解釈

曇鸞大師は、この問題を『往生論註』八番問答で、

1)五逆罪と正法を誹謗する罪の、二つの重い罪を犯したものは往生できない。
2)五逆罪のみを犯しても、正法を誹謗する罪を犯していないものは往生できる。
3)正法を誹謗する罪はすごく重いので、五逆罪を犯してなくても往生できない。

というように、「正法を誹謗しなければ極楽浄土に往生できる」と解釈しています。

★「正法を謗る」とは?
また曇鸞大師は、

問う。「正法を謗る」というのは、具体的にどのようなことか?

答える。もしも、
「仏はいない!」「仏の説いた法はない!」
「菩薩はいない!」「菩薩の実践する法はない!」
というようなことを言って、このような見解を、自ら抱き、あるいは他の人から教えられて持って、その誤った見解に、心が定まってしまうことを、「正法を謗る」というのである。

というように、

「正法を謗る」というのは、単に「けなす」とか「ののしる」というのではなく、仏や仏の説いた法や、その法に従って実践する存在を、根底から否定することを意味しています。

★闇を照らす光の譬え

その上で、

たとえば、千年間も光が入らない闇室に、一瞬でも光が入れば、たちまち明るくなるようなものである。
闇は千年間も室の中にあったのだから、光が入っても去らない、ということがありえようか。(いやありえない)

という譬えでもって、五逆の罪がどれほど重くても、阿弥陀仏の名号を十回称える無上の信心があれば、全ての罪が除かれると解釈しておられます。

つまり、
1)釈尊や阿弥陀仏という仏の存在。
2)阿弥陀仏の本願を信じてお念仏申すことによって、極楽浄土に往生することができる。
という、お念仏の教えそのものの存在。

これらを否定することなく、信じてその通りにお念仏を申すならば、「正法を謗る」ことにはならず、最も重い罪を犯していないので、たとえ五逆罪を犯していたとしても、千年の闇を一瞬で光が照らすように、全ての罪が除かれ、極楽浄土に往生することができる。

ということになります。

謗法罪については、高森会長が教えているような内容とはかなり違います。浄土仏教を信じている人は、謗法罪の人ではないのです。単に曇鸞大師の解釈ではなく、この解釈が浄土仏教での謗法罪の定義になっています。もちろん、親鸞聖人もそのまま継承なされています。

ですから、実質的に浄土往生できない人、18願で除かれている人とは、謗法罪を造っている人ということになります。

善導大師は『法事讃』に

仏願力をもって、五逆と十悪と、罪滅し生を得しむ。謗法・闡提、回心すればみな往く。

と仰り、

親鸞聖人は『浄土文類聚鈔』に

惑染・逆悪斉しくみな生じ、謗法・闡提回すればみな往く。

と教えられていますように、十悪・五逆の者と、謗法・闡提の者とは扱いが違います。謗法・闡提の者は、「回心すれば」「回すれば」とあります。判りやすく言えば、十悪・五逆の者は、そのまま救われますが、阿弥陀仏を否定するような謗法の者はそのままでは救われず、回心して阿弥陀仏に向かったならば皆救われますということになると思います。

阿弥陀仏は十方衆生を救うと誓われているのだから、他宗教を信じている人でも救われるのではないか、という人がありますが、他宗教を信じている人をそのまま救うことのできないことは、普通に考えれば判ることです。

ですから、曇鸞大師、善導大師、親鸞聖人の上記のお言葉を素直に受けとるならば、謗法の者は回心して謗法をやめない限り18願から本当に除かれていると解釈すべきであり、「十方衆生」=「謗法の者」という意味にはならないでしょう。

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コメント

2つ質問してもよいでしょうか。

つまり浄土門に入っているひと以外は謗法罪を造ってしまっている、ということでしょうか。

それと、親鸞会は五逆罪と謗法罪を“無間業”だと言っています。
五逆罪は無間業で間違いないと思いますが、謗法罪を無間業だとする根拠はあるのでしょうか。
私は見つけていませんが記事を読んで、五逆罪よりも謗法罪の方が重い罪ならば、謗法罪もやはり無間業なのか、と解釈していますが、間違っているでしょうか。

投稿: ちょこぼ | 2010年3月22日 (月) 22時03分

ちょこぼ 様

曇鸞大師の解釈によれば、仏教を信じている人は謗法罪を造っていない人になります。ですから、聖道門の人も謗法罪を造っていないといえるでしょうが、中には偽仏教徒もいますので、少なくとも浄土門の人は謗法罪の人ではないという意味で書きました。

謗法罪は当然無間業です、根拠は次のエントリーに書いた通りです。

投稿: 飛雲 | 2010年3月22日 (月) 22時19分

ありがとうございました。↓のお言葉ですね。

 『経』にいはく、〈五逆の罪人、阿鼻大地獄のなかに堕して、つぶさに一劫の重罪を受く。
 誹謗正法の人は阿鼻大地獄のなかに堕して、この劫もし尽くれば、また転じて他方の阿鼻大地獄のなかに至る。
 かくのごとく展転して百千の阿鼻大地獄を経〉と。

しかしそうなると、親鸞会の唱える「一切衆生必堕無間」は間違いであるとしても、
仏教を信じていない人は無間業(謗法罪)を造っているわけで、「多くの人は必堕無間」と言えてしまう、ということでしょうか。

私の周りは仏教を信じていない人ばかりなので、なんと言うか、複雑な心境です。
失礼なコメントかもしれません。すみませんでした。

投稿: ちょこぼ | 2010年3月22日 (月) 22時39分

ちょこぼ 様

曇鸞大師のお言葉を忠実に読めば、積極的に仏教を否定する人が謗法罪ということになると思います。日本人なら、仏教を積極的に否定する人は多くはないように思います。どこから謗法罪になるかは難しいところです。

投稿: 飛雲 | 2010年3月23日 (火) 07時18分

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