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2010年3月

2010年3月30日 (火)

ひとすぢに愚かなるものをこころえやすからんとてしるせるなり

最近の顕正新聞、顕真を読むと、善のことばかりです。教義批判に敏感になっているのでしょうから、私のブログも多少なりとも影響しているならば、光栄です。

しかし、相変わらず内向きの反論しかしてきません。外部に向かって親鸞聖人のお言葉を出して反論は一切できないのです。

親鸞会の理論は、法然上人、親鸞聖人、蓮如上人の理論とは全く異なります。その代表が善のすすめです。

3月号の顕真にある支部で信心の沙汰をした内容が掲載されていました。全部おかしいのですが、以前にも関連した内容を述べていますので、今回はその中の一部だけを取り上げてみます。

善に向かわない人に「雑行を捨てよ」とは言われぬ

支部長:この「雑行を捨てよ」というご教導は、どんな人に仰ったのでしょうか。
学徒:むろん、雑行をしている人だと思います。
支部長:そうですね。雑行の体は諸善万行ですから、善を実践している人です。タバコのまない人に「タバコのむな」とはだれも言いませんし、酒を飲まない人に「酒飲むな」とも言いません。昨年5月1日の『顕正新聞』に掲載されたお言葉を拝読しましょう。

「寝ていて転んだためしなし 裸で物を落とした者もなし」
 歩いたことのない人に転んだということはない。なにも持たぬ者が物を落としたという話も聞かれない。
 朝晩、拝読する「聖人一流章」には「もろもろの雑行をなげすてて」とあるが、浄土真宗の人達は雑行がなにやら全く知らない。
 だからいくら蓮如上人に「雑行をなげすてて」と教えられても、馬耳東風、流転を続ける。
 後生を案じ往生の間に合うと励む(自力)諸善を雑行というのだが、どだい後生が問題になっていないのだから、雑行が問題になるはずもない。信仰がそこまで進んでいないのだ。
 なぜ真宗の人達は後生が問題にならず諸善に向かわぬのか。三世因果の道理が教えられていないから、それは至極当然だろう。
 先ず、釈尊が因果の道理を説かれ、廃悪修善を徹底されたのはそのためだ。しかもそれは釈迦の勝手な判断ではなく、本師・弥陀が誓われた救済の要門だからである。
 親鸞聖人はそれを、善ができると自惚れている心(自力)を粉砕し、雑行をすてさすための阿弥陀仏の十九願であると教えられているのである。

支部長:雑行をやっている人に、「雑行を捨てよ」と仰っています。ところが、善に向かわず、雑行とは何かを知らない人は、馬耳東風、聞き流しているのです。それどころか、「善を捨てねばならない」とまで言う始末です。私たちは、雑行の意味をよく知らねばなりません。
学徒:こんな大事なお言葉なのに、知られていないんですね。
支部長:ここに、「後生を案じ往生の間に合うと励む諸善を雑行という」とあります。なぜ、雑行が問題にならないのですか。
学徒:後生が問題になっていないからです。
学徒:後生を心配して励む自力諸善を雑行というのだから、後生が問題にならなければ、雑行も問題にならないわけだ。
支部長:「自力」という言葉は、世間でも使われますね。
学徒:「遭難者が自力で下山した」とか、「自力優勝」とか。
学徒:自分でやること、自分の力という意味で使っています。
支部長:仏教では、後生の一大事を自分の力で助かろうとする心を自力といわれます。往生の資助(助け)にしようとする心です。だから、後生の一大事が分からないと、自力の心は出てきようがありません。自力の心でする善が雑行ですから、雑行も分からないのです。

如何でしょうか。このトリックが判りますか?

法然上人、親鸞聖人、蓮如上人は、善に向かっていない人に対しては、親鸞会同様善を勧められていたと言いたいのでしょうが、それについては根拠が全くありませんので、言及を敢て避けています。
法然上人、親鸞聖人、蓮如上人が、御著書を書かれたのは、後生が問題になって雑行をしている人に対してのみという理屈です。現代ならば、親鸞会会員の極々一部にのみ限定で書かれた秘密の法文という訳です。親鸞会会員以外の人に対しては、読むことを禁じられたのに、意に反して大多数の対象外の人が読んでしまい、知ってはいけない教えが全国に広まってしまったと考えているのでしょうか。

以前にも
正常な思考とカルト思考
カルト思考の愚かさ

で書きましたが、カルト思考は実に愚かです。まともな思考ができないのです。
後生の意味も間違っていますし、法然上人、親鸞聖人、蓮如上人が、聖道門からの激しい非難の中、文字さえも読めない庶民に対して、雑行を捨てよと仰って、全国に教えを広められたことを何と心得ているのか。馬鹿にするにも程があるというものです。

『一念多念証文』『唯信鈔文意』の最後に親鸞聖人は同じことを記しておられます。

ゐなかのひとびとの、文字のこころもしらず、あさましき愚痴きはまりなきゆゑに、やすくこころえさせんとて、おなじことをたびたびとりかへしとりかへし書きつけたり。こころあらんひとはをかしくおもふべし、あざけりをなすべし。しかれども、おほかたのそしりをかへりみず、ひとすぢに愚かなるものをこころえやすからんとてしるせるなり。

超選民思想の親鸞会とは正反対です。現在の親鸞会を見ていますと、オウム真理教の末期状態に似てきたと思うのは私だけでしょうか。

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2010年3月29日 (月)

曠劫多生の目的

最近、親鸞会会員の口からよく出る言葉が、

曠劫多生の目的
多生億劫の大問題

等です。もちろん高森会長がこのように教えているからですが、会員はその言葉に酔いしれているようです。
高森会長が、

30年、40年聞いたくらいで判るものではない
19願に入り口にも入っていない

と言っているのですから、平生どころか、今生に救われなくても仕方がないという慰めになっていて、それこそ大問題です。

遇行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ

と親鸞聖人が仰ったことと重ねあわせているつもりかもしれませんが、今救われて、遠い過去から迷ってきたことを振り返られて慶ばれたことと、救いを遠い先の未来までのことと考えるのとは全く違います。会員の気持ちは、明らかに後者です。

これこそが、18願と19願との違いといえるでしょう。それが以前にも
他力の三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなり
のところで述べた内容です。19願を求めているならば、親鸞聖人も『唯信鈔文意』の中で仰っている通り、

雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。もし胎生辺地に生れても五百歳をへ、あるいは億千万衆のなかに、ときにまれに一人、真の報土にはすすむとみえたり。三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなり。

です。これは親鸞会会員のことを仰ったのだと私は味わっています。19願を勧められれば、親鸞聖人も仰っているように多生曠劫の目的になります。だから、平生業成の親鸞聖人は、18願を勧められているのです。19願はどこにも勧められていません。

これも以前に
浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし
で書きましたが、『末灯鈔』に親鸞聖人は

この身は、いまは、としきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。

と19願、20願の化土に往くなよ、18願の報土に往生してくれよ、報土で待っているから、と仰っているのです。

親鸞聖人の仰せに従うならば、

曠劫多生の目的
多生億劫の大問題

などと言って喜んでいることを、心から恥じるべきでしょう。

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2010年3月28日 (日)

「往生をば遂ぐる」のは私のことだから機の深信である???

昨日、機の深信について書きましたが、最近のテレビ座談会や『顕真』では、その解釈が明らかにおかしいと、ある会員さんから聞きました。
その内容は、

「浄土真宗親鸞会を考える 新・ハトの会」
投稿:最近のテレビ座談会

にも書かれてありますので、それを引用します。

過日、ある会員さんから最近あったテレビ座談会についての投稿がありました。

<以下引用>

 前回のテレビ座談会で

・弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて=法の深信
・往生をば遂ぐるなり=機の深信

と説明がありました。その時は「『往生をば遂ぐる』のは私のことだから機の深信である」という説明でした。

 ですから、今回どうして「往生をば遂ぐる」のが機の深信なのか知りたく思い、質問が出ました。私も、詳しく知りたかったので、メモをとる手に力が入りました。

 高森先生のお答えは以下の通りです

高森先生:親鸞聖人の教えは……○○くん、説明できるやろ。親鸞聖人の教え=平生業成。平生といえば……「往生の一路は平生に決す」

(法霖の詩吟をうたう)

高森先生:人生の大事業は往生の一路を決することです。聖人はこれを、「生死の苦海ほとりなし」と言われています。本で確認すると、『なぜ生きる』の182ページにあります。

(筆者注:その会員さんの話によると、
「最近、根拠の確認は専ら、
・『なぜ生きる』
・『歎異抄をひらく』
・お勤めの本(『正信聖典』)、
・“浄土真宗親鸞会発行の”『御文章』『御一代記聞書』しか使っていません」
ということだそうです。以前は法蔵館の『真宗聖典』を使っていたのですが、だんだん方向性がおかしくなってきているようです)

高森先生:生死の苦海で苦しむ私達を助けることができるのは、弥陀弘誓の船のみ。阿弥陀仏の救いにあうために私達は生きている。平生業成の「業」とは弥陀「弘誓のふね」に乗ること。いつできるのか。「平生に決す」と法霖は言っている。

(以下、法霖の詩吟に沿って説明説明がなされました)

往生の一路は平生に決す
今日何ぞ論ぜん死と生とを
蓮華界裡の楽を快しむに非ず
娑婆界に還来して群生を化す

高森先生:これで、親鸞聖人の教えがどういうものか、お分かり頂けたと思います。そこで、『歎異抄』に戻ります。阿弥陀仏の救いはだんだんではなく一念です。仏教聞く目的は?

(その後、『なぜ生きる』にはこう書いてある、などいろいろな話がありました)

高森先生:今日皆さんがテレビ座談会を聞かれているというのは、阿弥陀仏の救いに向かって進んでいるということです。ゴールの無い道ではありません。一念で人生の目的が完成するというゴールがあるのです。それを、『歎異抄』の最初に「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて」と言われているのです。「往生をば遂ぐるなり」というのは私が救われるということだから機のこと。だからそこに機法二種深信が説かれているのです。

<引用終わり>

「平生業成の話はわかったが、機の深信についての説明が少ししかなくて、全然わからなかった」
とその会員さんは言っていました。
 どこがどう間違いというより、会長は質問に対してまともに答えることすら出来なくなったようです。

呆れる内容です。
機の深信について、判っていないのか、あるいは言い間違いを訂正せずに押し通したいだけなのか?

ちなみに二種深信についての善導大師のお言葉は以下です。

「深心」といふはすなはちこれ深く信ずる心なり。また二種あり。一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫よりこのかたつねに没し、常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなく、かの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。(観無量寿経疏 散善義)

二つには深心、すなわちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声一声等に及ぶまで、定んで往生を得しむと信知して、いまし一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。(往生礼讃)

さて、「私が救われるということだから機のこと」は、善導大師の仰る法の深信でも同じではないですかね。他に誰が救われるのでしょうか。高森会長は機の深信を平易な言葉でいうと、

堕ちるに間違いなし

と何十回も説明してきましたが、頭の中は一体どうなってるのか、と思います。

更に驚くのが、このことを聞いた会員が、このことで高森会長をまた称賛している事実です。どこまで思考が停止しているのかと呆れ果てます。これで疑問を起さないような人は、どうすれば気が付くのでしょうか。高森会長の間違いに気が付くことは一生ないのでしょうか。

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2010年3月27日 (土)

味わいと教義は異なります

三乗の五逆罪が、一般的な五逆罪であり、親鸞聖人もこの意味で使われていることはすでに述べた通りです。しかし『教行信証』信巻には、もうひとつの五逆罪を親鸞聖人は紹介しておられます。

二つには大乗の五逆なり。『薩遮尼乾子経』に説くがごとし。一つには、塔を破壊し経蔵を焚焼する、および三宝の財物を盗用する。二つには、三乗の法を謗りて聖教にあらずと言うて、障破留難し、隠蔽覆蔵する。三つには、一切出家の人、もしは戒・無戒・破戒のものを打罵し呵責して、過を説き禁閉し、還俗せしめ、駆使債調し断命せしむる。四つには、父を殺し、母を害し、仏身より血を出だし、和合僧を破し、阿羅漢を殺すなり。五つには、謗じて因果なく、長夜に常に十不善業を行ずるなり、と。

親鸞聖人が御自身も使われていない大乗の五逆罪を敢て紹介なされた御心については

「親鸞会教義の誤り」
一切衆生は必堕無間なのか6

に解説がありますので、それを読まれるとよいでしょう。
学問をしているのではありませんので、詳しい内容は敢て書きませんが、全く触れないと「都合が悪かったのだろう」とか、「知らないのだろう」と、得意気に言いふらす奇特な人がありますので、一応言及だけしておきました。

さて、「一切衆生必堕無間」の根拠が18願の「唯除五逆誹謗正法」だと親鸞会では説明しているので、それが間違いであることを数回にわたって説明してきました。

つまり、「一切衆生必堕無間」を否定されたのは、

阿弥陀仏
釈尊
七高僧
親鸞聖人
覚如上人
蓮如上人

なのです。蓮如上人については、「一切衆生必堕無間」を肯定されているとも解釈できる箇所がありますが、それも異安心、邪義の者に対して仰ったと考えられます。そのことは、

「一切衆生必堕無間」の根拠は?
正常な思考とカルト思考
カルト思考の愚かさ

で既に述べました。

ですから、「一切衆生必堕無間」は、高森会長の邪義です。

大沼法竜師の『魂のささやき』には、

三千世界の者はみな助かっても、法竜一人は助からないのだ、と往生の望みの綱が切れたとき、無間のどん底に投げ込まれたのが先か、その機のままを摂取するのだぞの勅命が届いたが先か、必堕無間が先か、十方法界唯であったの自覚が先か、明来闇去か、闇去明来か、そんなことなど考える余裕あればこそ、この極悪最下の機が極善最上の法に生かされたのだ。

とありますし、同じく大沼師の『随想録』に

第十八願の真意は「十方の衆生よ自惚てはならないぞ、お前の腹底は逆謗の屍で往生の望みの絶えた機を若し生れささずんば正覚を取らない」と、「若」の一字は逆謗の屍に正覚を堵者にして誓われた念力であって、「生」の文字は成就の文では即得往生、聞信の一念から言えば心命終の平生業成、臨終捨命の夕から言えば身命終の即得往生、若の一字で往生と正覚が同時に成就した時、己を忘れた三信十念噴き出ずには居られないのだ。

とありますので、大沼師の味わいを教義と勘違いしているのでしょう。味わいや懺悔としてはいいですが、教義としては邪義です。

この邪義は、機の深信が、「いままでも、いまも、いまからも、救われることの絶対にない極悪最下の私であった、とハッキリ知らされた」ことという親鸞会の邪義と共通するものです。

参考までに機の深信について善導大師は

一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫よりこのかたつねに没し、常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。(観無量寿経疏 散善義)

自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。(往生礼讃)

とやや違う表現で2つ仰っています。これが「必堕無間」もしくは「唯除五逆誹謗正法」という意味だとしか解釈できない人は、思考に問題があります。くどいようですが味わいと教義は異なります。味わいは個人個人違いますが、教義は共通するものです。

親鸞聖人が仰ったことのないことを、恰も仰った宣う高森会長は、無知なのか無恥なのかどちらかです。いや、両方共でしょうか。

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2010年3月26日 (金)

謗法のひとなり、五逆のひとなり。なれむつぶべからず。

前回まで、五逆罪と謗法罪について『教行信証』にどのように書かれてあるかを述べてきました。
では実際に親鸞聖人が、五逆罪、謗法罪をどのような意味で使われていたのかを知る手掛かりは、お手紙にあります。
それが親鸞会でも有名な『末灯鈔』のお言葉です。

善知識をおろかにおもい、師をそしるものをば、謗法のものともうすなり。親をそしるものをば、五逆のものともうすなり。

親鸞会ではここだけを断章取義して読ませていますが、この後を読むと、親鸞会で教えていることとはまるで違う意味になります。

善知識をおろかにおもい、師をそしるものをば、謗法のものともうすなり。親をそしるものをば、五逆のものともうすなり。同座をせざれとそうろうなり。されば、きたのこうりにそうらいし善証坊は、親をのり、善信をようようにそしりそうらいしかば、ちかづきむつまじくおもいそうらわで、ちかづけずそうらいき。

明らかに善証坊のことをさして、五逆、謗法の者と仰っています。これは関東の同行に宛てられたお手紙ですので、手紙を読まれた方は、五逆、謗法の者ではない前提と判ります。

五逆、謗法罪を犯している善証坊を、親鸞は遠ざけていたので、皆さんも近付いてはいけませんよ

との仰せです。

『末灯鈔』の他のところでは、

この御中のひとびとも、少々はあしきさまなることのきこえ候ふめり。師をそしり、善知識をかろしめ、同行をもあなづりなんどしあはせたまふよしきき候ふこそ、あさましく候へ。すでに謗法のひとなり、五逆のひとなり。なれむつぶべからず。

ともあります。先ほどと同じ意味です。

また善鸞に宛てられたお手紙の中で、

まことに謗法のとが、また五逆の罪を好みて人を損じまどはさるること、かなしきことなり。

と書いておられます。

いずれも、特定の人物に対して五逆、謗法の者と仰っておられるのです。ですから、親鸞聖人は

「十方衆生」=「五逆誹謗正法」の者

という解釈はなされていないことは明らかです。

善知識をおろかにおもい、師をそしるものをば、謗法のものともうすなり。

このお言葉を拡大解釈して、すべての人は必堕無間だ、と不安を煽れば完全にカルトです。

ただし、「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」なんだから、実際には罪を造っていなくても、縁が来たら五逆罪、謗法罪をも造る者だ、と懺悔をするのは大いに結構なことでしょう。

ところが、そういって殊勝そうに振る舞っている人物が、平気で仏法をねじ曲げて謗法罪を造り続けているのは、どうしたものでしょうか。
親鸞会を辞めていく人に対して、

あいつは結局仏法が判っていなかったんだ

と罵りますが、判っていないのは罵った会長、支部長、その他幹部です。そんな者とは同座せざれ、なかむつぶべからずです。一刻も早く、親鸞会を辞めるべきと親鸞聖人は教えられていますね。

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2010年3月24日 (水)

三乗の五逆罪

『教行信証』信巻の最後に、親鸞聖人は五逆罪の解釈をなされています。五逆罪とはどんなものか、具体的に書いておられます。

その内容は

「親鸞会教義の誤り」
一切衆生は必堕無間なのか6

に詳しい解説がありますので、引用します。

その信巻の最後に書かれたのが五逆罪の定義についてです。

一つには三乗の五逆なり。いわく、一つにはことさらに思いて父を殺す、二つにはことさらに思いて母を殺す、三つにはことさらに思いて羅漢を殺す、四つには倒見して和合僧を破す、五つには悪心をもって仏身より血を出だす。

最初に三乗の五逆罪(通仏教の五逆罪)について、
 一.故意に父を殺す
 二.故意に母を殺す
 三.故意に阿羅漢を殺す
 四.間違った考えを起こして教団を乱す
 五.悪い心を抱いて仏身を傷つけて血を流す

と仰っています。
阿闍世が犯したのは、一番目の故意に父を殺すことです。あくまで故意にですから、極めて限定された人しか造らない罪です。
曇鸞大師、善導大師が仰っておられる五逆罪は、これです。また、法然上人が「正如房へ遣わす御文」に、

五逆十悪の重き罪造りたる悪人なお十声一声の念仏によりて往生しそうらわんに、まして罪造らせおわします御事は何事かそうろうべき。
たといそうろうべきにても幾程の事かはそうろうべき。
この『経』に説かれてそうろう罪人にはいい比ぶべくやはそうろう。

と書いておられます。「五逆十悪の重き罪造りたる悪人」と比較して、貴方はどんな罪を造っているというのか、と仰っておられますので、罪を造っているという点において、人には明らかな優劣があることを語られたのです。それで五逆罪を造っている人と、造っていない人がいることになりまして、法然上人も五逆罪といわれた場合は、三乗の五逆罪のことになります。

今日でも五逆罪と言えば、通常この五逆罪のことをさしてます。親鸞会でも五逆罪といえば、この三乗の五逆罪を説明します。
『教行信証』信巻ではこの後、

この逆を執する者は、身壊れ命終えて、必定して無間地獄に堕して、一大劫の中に無間の苦を受けん、「無間業」と名づくと。

と解説なされています。三乗の五逆罪を造ったものは、無間地獄に堕ちると教えられていますが、実際にこの罪を造っている人は、極めて稀ですので、無間地獄に堕ちる人も、極めて少数の人になります。

曇鸞大師、善導大師、法然上人、そして通仏教での五逆罪とは、この三乗の五逆罪です。
親鸞聖人が、『末灯鈔』の中で仰っている五逆罪も、この三乗の五逆罪です。

高森会長の説いていることとは大変な違いです。親鸞会の会員は、よく勉強して欲しいと思います。

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2010年3月23日 (火)

未造業はいないというワシの解釈が正しいから理屈抜きで信じよ

善導大師は『散善義』の中で、「抑止門」「摂取門」という観点から「唯除五逆誹謗正法」を捉えられました。

光明寺の和尚(善導)いはく(散善義)、 「問うていはく、四十八願のなかのごときは、ただ五逆と誹謗正法とを除きて、往生を得しめず。いまこの『観経』の下品下生のなかには、誹謗を簡ひて五逆を摂せるは、なんの意かあるやと。

答へていはく、この義、仰いで抑止門のなかについて解す。四十八願のなかのごとき、謗法・五逆を除くことは、しかるにこの二業、その障極重なり。衆生もし造れば、ただちに阿鼻に入りて歴劫周章して、出づべきに由なし。ただ如来、それこの二つの過を造らんを恐れて、方便して止めて〈往生を得ず〉とのたまへり。またこれ摂せざるにはあらざるなり。また下品下生のなかに五逆を取りて謗法を除くとは、それ五逆はすでに作れり、捨てて流転せしむべからず。還りて大悲を発して摂取して往生せしむ。しかるに謗法の罪は、いまだ為らざれば、また止めて〈もし謗法を起さば、すなはち生ずることを得じ〉とのたまふ。これは未造業について解するなり。

もし造らば、還りて摂して生ずることを得しめん。かしこに生ずることを得といへども、華合して多劫を経ん。これらの罪人、華の内にあるとき三種の障あり。一つには仏およびもろもろの聖衆を見ることを得じ、二つには正法を聴聞することを得じ、三つには歴事供養を得じ。これを除きて以外は、さらにもろもろの苦なけん。『経』にいはく、〈なほ比丘の三禅の楽に入るがごときなり〉と、知るべし。華のなかにありて多劫開けずといふとも、阿鼻地獄のなかにして長時永劫にもろもろの苦痛を受けんに勝れざるべけんや。この義、抑止門につきて解しをはりぬ」と。

これもなかなか難しい内容ですので、

「清森問答」親鸞会教義の相対化・28

でまとめられたものを見てみましょう。

2-2善導大師の解釈

問う。
『無量寿経』の四十八願の第十八願には、「ただ五逆と正法を誹謗するものを除く」とあって、これらの者の往生を許さないが、いまこの『観経』の下品下生のところでは、正法を誹謗するものをえらび除いて、五逆のものをおさめ取って、往生できるとしているのは、いったいどういう意図があるのか?

答える。
 このことについては、仏意を仰ぎおしはかって、抑えとどめる教えの上で解釈する。
 四十八願の中で、法を誹謗するものと五逆とを除いているのは、実にこの二つの悪業はその障りが非常に重く、衆生がもし犯したならば、ただちに阿鼻地獄におちて、途方もなく長いあいだ苦しみもがいて、ついに出る道がないから、ただ如来はこの二つの罪過を犯すことを恐れて、たくみなてだてとして制止し、往生できないと説かれのであって、これもまた、おさめとらぬというのではない。

 また下品下生の文の中で、五逆はおさめとって、正法を誹謗するものを除いているのは、五逆はすでに犯してしまっており、このまま見捨てて、迷いの世界に流転させることはできないから、かえって大悲をおこして、これをおさめとって往生させるのであるが、法を誹謗する罪はまだ犯していないから、これを制止して、もし法を誹謗するならば往生はできない、と説かれるのである。

 これはまだ悪業をつくっていない点について解釈するのであって、もし罪を犯したならば、かえってこれをおさめとって往生させるのである。

というように、

★「五逆と正法を誹謗した者は浄土往生から除く」(『無量寿経』)という記述は、
まだ五逆罪と正法を誹謗する罪を犯していない者に対して、「もしこのような罪を犯したならば往生はできない!」と戒めて、おさえとどめるための教え
⇒抑止門(おくしもん)であると解釈されます。

★「五逆罪を犯したものでさえ、まごころをこめて、お念仏を申せば救われる」(『観経』)という記述は、すでに五逆罪を犯してしまった者であっても、阿弥陀仏は見捨てることなく、大悲をもって救い取って往生させることを示すための教え
⇒摂取門(せっしゅもん)であると解釈されます。

 つまり、最終的には『観経』の記述のように、五逆の罪を犯したものであっても救い取るのですが、人々がそのことに甘んじて罪を造ってしまうことを未然に防ぐために、『無量寿経』では、人々を巧みに導くために、「五逆と正法を誹謗した者は浄土往生から除く」と述べておられる。

そのように解釈されています。

善導大師も、未造業という点から抑止の意味と解釈なされていますように、すべての人が已造業とは考えておられないことが判ります。

ところが高森会長は『会報』第二集にこのように書いています。

 最後に、本願にも願成就文にも「唯除五逆誹謗正法」の八文字が説かれているが、これは抑止門、摂取門と教えられている。未造(まだ犯していない者)の者にはこの五逆罪と法謗罪は、永く無間地獄に堕在せねばならぬ大罪であるから、何とか犯させまいとの御心より抑え、たしなめる為に逆謗の人は助けないぞと抑止せられたが、已造(もうすでに犯してしまった者)の者には、止むを得ぬ、そのとがめだてはせずに助けてやると摂取するのだ。
 又永除か暫除か、或は実除か仮除か、味い方は色々にあるが、一体、誰が五逆を造っているのか、誰が法謗の大罪を重ねているのか、後生の一大事は観念の遊戯では解決は出来ない。
 吾々の足元をふり返ってみなければならない。

として、色々な味わい方を否定しながら高森会長の独善的味わい方を延々と述べています。高森会長の味わい方というよりも、大沼師の味わい方ですが、味わい方の前にあるものが教えです。
善導大師の解釈を一蹴して、突如、未造の者はいない、全人類は已造のものであると結論付けるのは、偏見も甚だしいです。歴代の善知識方の論理など無用というのならば、最初から善知識方のお名前を出すなと言いたいです。
単に権威付けの為だけに善知識方を引き合いに出すのは、実に卑怯です。最初から、

善導大師の解釈は間違っている、未造業はいないというワシの解釈が正しいから理屈抜きで信じよ

と言えばいいのです。無二の善知識ですから、後にも先にも自分を越える善知識はないと認めさせたいのでしょう。ハピーアドバイスの著者に診てもらうことをお勧めします。

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2010年3月22日 (月)

『浄土論註』を読んだことがある訳ない

曇鸞大師が『浄土論註』で五逆罪と謗法罪について解説なされた概要について前回述べました。今回は、その中で高森会長の理解との相違点について、知っておかれた方がよいと思われることを書いてみたいと思います。

私が会員時代に、親鸞聖人が「一切衆生必堕無間」を仰った根拠として”教えて”もらったのが、前回の『教行信証』信巻に引かれた『浄土論註』にある

『経』にいはく、〈五逆の罪人、阿鼻大地獄のなかに堕して、つぶさに一劫の重罪を受く。誹謗正法の人は阿鼻大地獄のなかに堕して、この劫もし尽くれば、また転じて他方の阿鼻大地獄のなかに至る。かくのごとく展転して百千の阿鼻大地獄を経〉と。

でした。しかし、これもこの後を読めば判りますが、前回述べたように浄土仏教を信じている人は、謗法罪の人ではないと曇鸞大師は仰っています。

問うていはく、なんらの相か、これ誹謗正法なるやと。

答へていはく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。

謗法罪が最も重い罪であることを知らせんが為に、曇鸞大師が五逆罪と比較されたものであって、それを親鸞聖人が「一切衆生必堕無間」という意味で引用されたのではないことは明らかなことです。

親鸞会は、徹底的に断章取義で創られた教義であることがここでも判ります。

また高森会長が一念の説明でよく使う曇鸞大師の千歳の闇室の譬えも、『浄土論註』のこの後にあります。しかし、この譬えは、一念についてのものではありません。

なんぢ五逆・十悪・繋業等を重とし、下下品の人の十念をもつて軽として、罪のために牽かれてまづ地獄に堕して三界に繋在すべしといはば、いままさに義をもつて軽重の義を校量すべし。心にあり、縁にあり、決定にあり。時節の久近・多少にあるにはあらざるなり。いかんが心にあると。かの罪を造る人は、みづから虚妄顛倒の見に依止して生ず。この十念は、善知識の方便安慰して実相の法を聞かしむるによりて生ず。一つは実、一つは虚なり。あにあひ比ぶることを得んや。たとへば千歳の闇室に、光もししばらく至れば、すなはち明朗なるがごとし。闇、あに室にあること千歳にして去らじといふことを得んや。これを在心と名づく。

とある通りです。それを

「清森問答」親鸞会教義の相対化・28

では、

★闇を照らす光の譬え

その上で、

たとえば、千年間も光が入らない闇室に、一瞬でも光が入れば、たちまち明るくなるようなものである。
闇は千年間も室の中にあったのだから、光が入っても去らない、ということがありえようか。(いやありえない)

という譬えでもって、五逆の罪がどれほど重くても、阿弥陀仏の名号を十回称える無上の信心があれば、全ての罪が除かれると解釈しておられます。

と説明されています。
五逆罪と『観無量寿経』に説かれた十念との重さを比べられたもので、結論として、真実の十念の方が虚仮の五逆罪よりも重いとされています。阿弥陀仏の救いに時間は掛らないという意味でこの譬えを出されたのではないとお判り頂けると思います。

実はこの少し後に、

問うていはく、いくばくの時をか名づけて一念とするやと。

答へていはく、百一の生滅を一刹那と名づく。六十の刹那を名づけて一念とす。このなかに念といふは、この時節を取らざるなり。ただ阿弥陀仏を憶念して、もしは総相もしは別相、所観の縁に随ひて心に他想なくして十念相続するを名づけて十念とすといふなり。ただ名号を称することもまたまたかくのごとしと。

とありますので、一念の説明と千歳の闇室の譬えとを一緒に説明した人がいて、それをそのまま信じたのではないでしょうか。 『教行信証』を直接読んでいない高森会長が、『浄土論註』を読んだことがある訳ないですから、大沼師が味わいとして書かれたものを教義と勘違いしたのではないかと想像しています。もし、ご存知の方があれば教えて下さい。

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2010年3月21日 (日)

惑染・逆悪斉しくみな生じ、謗法・闡提回すればみな往く

親鸞聖人は、『教行信証』信巻で阿闍世の救われるすがたを『涅槃経』から引かれた後、18願から除かれた五逆罪と謗法罪についての説明を曇鸞大師と善導大師の解釈からなされています。

曇鸞大師の『浄土論註(往生論註)』は、原文も難しいですが、口語訳を読んでも難しいので、それを巧くまとめたものが

「清森問答」親鸞会教義の相対化・28

にあります。曇鸞大師の解釈部分を紹介しておきます。

★曇鸞大師の解釈

曇鸞大師は、この問題を『往生論註』八番問答で、

1)五逆罪と正法を誹謗する罪の、二つの重い罪を犯したものは往生できない。
2)五逆罪のみを犯しても、正法を誹謗する罪を犯していないものは往生できる。
3)正法を誹謗する罪はすごく重いので、五逆罪を犯してなくても往生できない。

というように、「正法を誹謗しなければ極楽浄土に往生できる」と解釈しています。

★「正法を謗る」とは?
また曇鸞大師は、

問う。「正法を謗る」というのは、具体的にどのようなことか?

答える。もしも、
「仏はいない!」「仏の説いた法はない!」
「菩薩はいない!」「菩薩の実践する法はない!」
というようなことを言って、このような見解を、自ら抱き、あるいは他の人から教えられて持って、その誤った見解に、心が定まってしまうことを、「正法を謗る」というのである。

というように、

「正法を謗る」というのは、単に「けなす」とか「ののしる」というのではなく、仏や仏の説いた法や、その法に従って実践する存在を、根底から否定することを意味しています。

★闇を照らす光の譬え

その上で、

たとえば、千年間も光が入らない闇室に、一瞬でも光が入れば、たちまち明るくなるようなものである。
闇は千年間も室の中にあったのだから、光が入っても去らない、ということがありえようか。(いやありえない)

という譬えでもって、五逆の罪がどれほど重くても、阿弥陀仏の名号を十回称える無上の信心があれば、全ての罪が除かれると解釈しておられます。

つまり、
1)釈尊や阿弥陀仏という仏の存在。
2)阿弥陀仏の本願を信じてお念仏申すことによって、極楽浄土に往生することができる。
という、お念仏の教えそのものの存在。

これらを否定することなく、信じてその通りにお念仏を申すならば、「正法を謗る」ことにはならず、最も重い罪を犯していないので、たとえ五逆罪を犯していたとしても、千年の闇を一瞬で光が照らすように、全ての罪が除かれ、極楽浄土に往生することができる。

ということになります。

謗法罪については、高森会長が教えているような内容とはかなり違います。浄土仏教を信じている人は、謗法罪の人ではないのです。単に曇鸞大師の解釈ではなく、この解釈が浄土仏教での謗法罪の定義になっています。もちろん、親鸞聖人もそのまま継承なされています。

ですから、実質的に浄土往生できない人、18願で除かれている人とは、謗法罪を造っている人ということになります。

善導大師は『法事讃』に

仏願力をもって、五逆と十悪と、罪滅し生を得しむ。謗法・闡提、回心すればみな往く。

と仰り、

親鸞聖人は『浄土文類聚鈔』に

惑染・逆悪斉しくみな生じ、謗法・闡提回すればみな往く。

と教えられていますように、十悪・五逆の者と、謗法・闡提の者とは扱いが違います。謗法・闡提の者は、「回心すれば」「回すれば」とあります。判りやすく言えば、十悪・五逆の者は、そのまま救われますが、阿弥陀仏を否定するような謗法の者はそのままでは救われず、回心して阿弥陀仏に向かったならば皆救われますということになると思います。

阿弥陀仏は十方衆生を救うと誓われているのだから、他宗教を信じている人でも救われるのではないか、という人がありますが、他宗教を信じている人をそのまま救うことのできないことは、普通に考えれば判ることです。

ですから、曇鸞大師、善導大師、親鸞聖人の上記のお言葉を素直に受けとるならば、謗法の者は回心して謗法をやめない限り18願から本当に除かれていると解釈すべきであり、「十方衆生」=「謗法の者」という意味にはならないでしょう。

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2010年3月20日 (土)

五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり

親鸞会の教義に疑問をもったある会員が、支部長に

一切衆生必堕無間は嘘ではないですか

と尋ねました。その時の支部長の答えが、

本願に「唯除五逆誹謗正法」とあるだろう、十方衆生は必堕無間ということだ

だったといいます。これがおかしいと思わない人は、未だマインドコントロール下にあるといえます。
個人の懺悔として、「唯除五逆誹謗正法」とは自分のことだと味わうことは自由でが、「十方衆生」が「五逆誹謗正法」の者と親鸞聖人が教えられたというのは、明らかな間違いです。
親鸞聖人が仰っていることは、「五逆誹謗正法」の者でも救われるのが阿弥陀仏の本願である、ということだけです。

『尊号真像銘文』には、

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

と解釈なされてあり、他の御著書を読んでも「十方衆生」=「唯除五逆誹謗正法」という高森会長の解釈などどこにもありません。

親鸞聖人が『教行信証』を書かれた目的は、聖道門の学僧による『選択本願念仏集』の非難に対する反論です。『教行信証』で特に力を注がれたのが、報土往生のためには善は不要であることと、本願の「唯除五逆誹謗正法」の解釈です。
唯除五逆誹謗正法」の解釈については、『教行信証』全体の1割も費やされていることからも、親鸞聖人の力の入れようが判ります。

親鸞聖人が苦心なされたのは、「五逆誹謗正法」の者が本願からも漏れていないことの証明です。「十方衆生」=「唯除五逆誹謗正法」ではなく、「十方衆生」の中に「五逆誹謗正法」の者が含まれることを聖道門の学僧に知らしめるのに、阿闍世の回心を長々と引文なされているのです。

「親鸞会教義の誤り」でも『教行信証』のその内容が3回にわたって解説されています。
阿闍世の回心の背景については、

一切衆生は必堕無間なのか4

にありますので、そちらを読まれるとおおよその内容が判ると思います。

阿闍世が救われたことを紹介なされて、親鸞聖人は五逆罪の者でも救われることを証明なされているのです。
これは『観無量寿経』でも、五逆罪の者が救われることを説かれていますので、その実例として阿闍世を出されたのです。

問題は謗法罪の者が救われるのかどうかということです。謗法罪の者が救われるという根拠が経典上にはないからです。

『教行信証』信巻には、

それ諸大乗によるに、難化の機を説けり。いま『大経』には「唯除五逆誹謗正法」といひ、あるいは「唯除造無間悪業誹謗正法及諸聖人」(如来会・上)とのたまへり。『観経』には五逆の往生を明かして謗法を説かず。『涅槃経』には難治の機と病とを説けり。これらの真教、いかんが思量せんや。

と自問なされています。

その後に曇鸞大師の『浄土論註』にある八番問答と善導大師の『散善義』を引かれて、五逆罪と謗法罪とはどんなものかを明らかにされた上で、親鸞聖人は御自身の解釈を述べて自答なされています。

一切衆生は必堕無間なのか5
一切衆生は必堕無間なのか6

に書かれてありますので、読まれるとよいでしょうが、難しいところがありますので、少しずつ解説をしてみたいと思います。

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2010年3月19日 (金)

諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ

20年以上の会員さんから、相談を受けました。

最近、因果の道理と善をせよの話ばかりで、流石におかしいと思い始めた

というものです。
「親鸞会教義の誤り」親鸞会は諸行往生13

にも紹介されていますが、

●はずがない(雑行)
 善行をやっていない人に、
「これだけ善をやっているのだから、死んでも悪い処へは行かないだろう」
(こんな心でやっている善行を雑行と言う)
などと言う心があるはずがない。
 そんな心のない人に
「その心(雑行)を捨てよ」
 といわれるはずもない。
 ないものを捨てよ、と言われるはずがないからである。
 善行をやっている人にのみ、雑行といわれるものがあるのである。

をやたらと強調するというのです。
このトリックについては、「親鸞会教義の誤り」にも書かれていますが、別の角度から説明してみましょう。

覚せい剤をやめるようにいうのは、覚せい剤をしている人に対してと、今後手を出す人がいるかもしれないから警告しているのです。覚せい剤をやっていない人に覚せい剤を試してからやめろと言われているのではありませんね。

飲酒運転をやめるようにいうのは、未だに飲酒運転をしている人に対してと、今後飲酒運転をする人が現われないようにするためです。飲酒運転をしたことがない人に対しても、今後もしないようにということですね。

自殺をやめるようにいうのは、自殺した人に対してでないのは明らかで、今後自殺をする人が現われないようにしようというものです。

雑行を捨てよといわれているのは、雑行をしている人(聖道門や19願を信じている人)に対してと、18願での救いを求めていながら善に縋ろうとしないように誡るためです。雑行をさせてから雑行を捨てよという頓珍漢な話ではないです。

会長の御粗末な詭弁です。

また、顕正新聞では、漫画まで使って、

善を捨てよというのは、自力の心を捨てよということだ、

と解説していますが、獲信と善との関係については一切触れていません。このあたりが汚いところですね。
以前にも書きましたが、獲信と関係がないと思って、善をするのは大いに結構です。
ところが、自分のした善が

宿善になる
獲信の因縁になる
善をしなければ信仰が進まない
命懸けで善をしなければ善のできない自分と知らされない

などという考え方をしたら、それが自力なのです。その間違った考えである自力を捨てよと言われているのです。

親鸞聖人は、善に向かっている親鸞会の会員に対して、

迂回の善

と仰っているのです。なぜなら善に向かっている間は阿弥陀仏に向かえないからです。

以前にも「一向」について述べました。

一向専念?
弥陀一仏を念じたてまつるほかに二つをならぶることなかれ

に、蓮如上人と存覚上人のお言葉を紹介しました。

法然上人は『選択本願念仏集』の中で、「一向」について判りやすく解説なされていますので、それを紹介しておきます。

しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。
「一向」は二向・三向等に対する言なり。例するにかの五竺(印度)に三寺あるがごとし。一は一向大乗寺、この寺のなかには小乗を学することなし。二は一向小乗寺、この寺のなかには大乗を学することなし。三は大小兼行寺、この寺のなかには大小兼ね学す。ゆゑに兼行寺といふ。まさに知るべし、大小の両寺には一向の言あり。兼行の寺には一向の言なし。いまこの『経』(同・下)のなかの一向もまたしかなり。もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。もし寺に准ぜば兼行といふべし。
すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。

阿弥陀仏に向かって善をしているんだ、という会員がいますが、それは法然上人の仰る「兼行」です。「一向」とは、「諸行を廃してただ念仏を用ゐる」です。善を捨てて阿弥陀仏に向かうのです。

兼行」をすることで「一向」できると説く高森会長は、法然上人、親鸞聖人、蓮如上人よりもきっと偉いのでしょう。
というよりも、法然上人、親鸞聖人、蓮如上人の教えられたことを何も知らない無知なだけです。もちろん、『選択本願念仏集』を読んだことがある筈もないでしょうし。

善知識方のお言葉は知らない、知っていても断章取義、あとは会長に都合のよい珍理論

だから浄土仏教とは根本的に違いますので、教団名から「浄土真宗」「親鸞」をとってくださいよ、本当に。

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2010年3月18日 (木)

私は『末灯鈔』を読んだことがありません、と高森会長が告白

3月1日号の顕正新聞の論説におもしろいことが書いてありました。

 もう一つ、親鸞学徒の本道をゆく上で、重要なことを確認しておこう。それは、善知識方には、「○○は信心獲得していた」「△△は信心決定していると思う」など、個人名を挙げて「信・不信」を仰ったという記録はどこにも見当たらない、という事実である。
 なぜだろう。
 他人の信心は、たとえ善知識であってもハッキリ分かるものではないからか。大体分かっていられても、他人の「信・不信」を言うべきではないからか。いずれにしても、全くそのようなお言葉は見られない。
 善知識方も仰らなかったそんなことが、日常茶飯事に話されているところがあるとすれば、自分たちは、親鸞聖人や覚如上人、蓮如上人方でも分かられなかったことが、ハッキリ分かるとでも思っているのだろうか。
 たとえ善知識方が、ほぼ分かっていられても「言うべきことでも、書くべきことでもない」と自覚されて、あえて仰らなかったとすれば、親鸞学徒は、なおさら使うべき言葉ではないのだ。
 他人を指して、「あれは信心獲得している」などと平然と言えるのは、人智で判断できる程度の信心だからである。知識から信心を与えられる秘事法門の者たちと同程度か、類似すると思われるのも当然であろう。

これは、高森会長も言っていることで、この論説を書いた人の個人的な見解でないことは確かです。
皆さん、実におもしろいと思われませんでしょうか。

高森顕徹編『獲信の記録』(昭和24年発行)には

手に持っていた『華光誌』を苦し紛れに放りつけた。トタンにこの苦しみは、スーッとはがれた様に引いて行った。ボーッとなって暫くは考える力もない。正気の沙汰ではない。夢か、うつつかの判断もつきかねていると、高森さん一家が帰って来られた。
挨拶も忘れて、今あった不思議な出来事を、ありのまま顕徹君に語った。一同は我が事の様に喜んでくださる。だが私自身は、何が何だかさっぱり分からぬ。本当だろうか。これが獲信したというものであろうか?
まだまだ疑いの晴れぬまま、種々ご馳走に預かる。こんな、うまく食事したことが近頃にあったろうか。やがて、顕徹君の話に薄紙を、はぐ如く、光明は輝きを増し、歓喜は胸に張り裂けるのであった。
「如来を求めて、いくら追っかけても、人間は到底追いつけるものではない。また自分でとらえられる位なら、他力信心なんか必要もない。弥陀は十万億土の彼方におられるものだと思っていられたか知らぬが、何のことは無い、アンタの腹の中にいて、しかもこの宇宙を包んでいる絶対者なんだ。その懐に入っていながら、それを追っかけ、とらえようなんて、問題ではない。追いつけないことが分かって初めて振り返ってみると、何のことは無い。総てが包まれていたことに気がつくのだ。この様に包まれていながら、何を悩みますかね?
不思議だ!そう聞けば悩もうにも悩む種が無いではないか。そして顕徹君の語るどの話も皆、素直に肯定出来るからおかしい。弥陀が智慧や才覚で分からんでもよいのだ。このままでよいんだなあ。ああ、このままだった、このままだった。

と高森会長が獲信を認定しているのです。これはどういうことでしょうか。高森会長は

親鸞聖人や覚如上人、蓮如上人方でも分かられなかったことが、ハッキリ分かるとでも思っていたのだろうか

知識から信心を与えられる秘事法門の者たちと同程度か、類似すると思われる

ということでしょうか。
また、信心獲得していると公言した元講師を、すべて異安心と認定しているのは、高森会長ですよね。

自分のことは判らないものですね。

ところで、『末灯鈔』には、

明法御房の往生のこと、おどろきまうすべきにはあらねども、かへすがへすうれしく候ふ。

またひらつかの入道殿の御往生のこときき候ふこそ、かへすがへす申すにかぎりなくおぼえ候へ。

明法御房の御往生のことをまのあたりきき候ふも、うれしく候ふ。

なにごとよりも明法御房の往生の本意とげておはしまし候ふこそ、常陸国うちの、これにこころざしおはしますひとびとの御ために、めでたきことにて候へ。

さきにくだしまゐらせ候ひし『唯信鈔』・『自力他力』なんどのふみにて御覧候ふべし。それこそ、この世にとりてはよきひとびとにておはします。すでに往生をもしておはしますひとびとにて候へば、そのふみどもにかかれて候ふには、なにごともなにごともすぐべくも候はず。法然聖人の御をしへを、よくよく御こころえたるひとびとにておはしますに候ひき。さればこそ往生もめでたくしておはしまし候へ。

と、明法房、平塚の入道、聖覚法印、隆寛律師という個人名を挙げて、信心獲得していた人だと親鸞聖人は書いておられます。親鸞聖人のこのお言葉をどう説明するつもりでしょうか。

まさか、信・不信と往生とは関係がないとはいわないでしょうね。

高森会長の矛盾は今に始まったことではありませんが、親鸞聖人の書かれたものくらいは目を通しておいてから、発言しないと赤っ恥をかきますよ。

これでまた、高森会長もその弟子も

私は『末灯鈔』を読んだことがありません

と告白してくれました。無知をこれ以上晒すことはないでしょうから、黙っていた方が宜しいかと思います。

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2010年3月17日 (水)

その御こころざしにては順次の往生もかたくや候ふべからん

法然上人は「七箇條の起請文」で、

全て、諸々の煩悩のおこる事は、みなもと、貪瞋を母として、出生するなり。
貪といふについて、喜足小欲の貪あり、不喜足大欲の貪あり。今浄土宗に、制する所は、不喜足大欲の、貪煩悩なり。まづ行者、かようの道理を心えて、念仏すべきなり。これが真実の念仏にてある也。喜足小欲の貪は、くるしからず。瞋煩悩も、敬上慈下の心を、やぶらずして、道理を、心えんほどなり。

と教えておられます。
喜足小欲」とは、足りていることに満足して多くを求めないことです。その反対が「不喜足大欲」です。今の住居があっても、すべての会館に自分専用の住居が欲しいというのは、「不喜足大欲」そのものです。正本堂7階には、大きさはともかくとして、住居はあってもいいでしょうが、チューリップビル、法輪閣、そしてF館に住居を構える必要性は全くない筈です。「不喜足大欲」であって念仏も称えないのは、法然上人の教えから外れています。
敬上慈下」とは、目上の人を敬い、自分より下の人を慈しむことですが、『仏敵』を読んで救われたと告白しながら、師匠であった伊藤康善師を裏切って罵り、親鸞会を辞める意志のないない会員を次々と除名にして放り出すような人物は、「敬上慈下」と正反対です。

親鸞聖人も『末灯鈔』に

われ往生すべければとて、すまじきことをもし、おもふまじきことをもおもひ、いふまじきことをもいひなどすることはあるべくも候はず。
貪欲の煩悩にくるはされて欲もおこり、瞋恚の煩悩にくるはされてねたむべくもなき因果をやぶるこころもおこり、愚痴の煩悩にまどはされておもふまじきことなどもおこるにてこそ候へ。めでたき仏の御ちかひのあればとて、わざとすまじきことどもをもし、おもふまじきことどもをもおもひなどせんは、よくよくこの世のいとはしからず、身のわろきことをおもひしらぬにて候へば、念仏にこころざしもなく、仏の御ちかひにもこころざしのおはしまさぬにて候へば、念仏せさせたまふとも、その御こころざしにては順次の往生もかたくや候ふべからん。

と書いておられます。これは、高森会長のことそのままではないでしょうか。
さよなら親鸞会」にある多くの投稿文、「私の白道」の中で、高森会長の実像が暴露されていますが、

貪欲の煩悩にくるはされて欲もおこり、瞋恚の煩悩にくるはされてねたむべくもなき因果をやぶるこころもおこり、愚痴の煩悩にまどはされておもふまじきことなどもおこる

とは、高森会長のことです。
廃悪修善を会員に説きながら、自分のやっていることは、その反対です。それどころか会員に善を強要しているのは、自分の住居を次々と建設し、会員が見ることもない美術品購入のためです。
もし、会員のためにすべてしていることと反論する会員があるならば、本館と祇園とを結ぶ会長専用の渡り廊下の必要性について尋ねてみて下さい。今まで何回使ったかわからない程度の渡り廊下に、何千万もの浄財を隠して投入していることが、会員のためですか。
F館ももちろんそうです。

真実信心かどうかは確かめようもありませんが、法然上人、親鸞聖人の仰ることと逆の言動を平気で繰り返している人物であることは間違いありません。
親鸞聖人が仰るように

その御こころざしにては順次の往生もかたくや候ふべからん。

と思っている人がたくさんいることも事実です。

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2010年3月16日 (火)

出体釈の話(「用管窺天記」より)

前回のエントリーに、トラックバックを付けて頂きました。素晴らしい内容ですので、多くの方に読んで頂きたいと思いまして、そのまま紹介させて頂きます。

「用管窺天記」出体釈の話

親鸞聖人の主著は『教行証文類』といいます。
何故ならご本人が総序で『顕浄土真実教行証文類』と呼んでおられるからです。
文類とは教・論・釈の重要な部分をあつめ整理したものという意味です。

つまり、浄土真宗の、教えと行いとその証(あか)しの重要な内容を顕わした書物ということです。

あれっ、T・S会が喧しく言う信心は何処へ行ったのでしょう。

ありました、「教巻」に、
「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。」
現代語:
つつしんで、浄土真宗すなわち浄土真実の法をうかがうと、如来より二種の相が回向されるのである。一つには、わたしたち衆生が浄土に往生し成仏するという往相が回向されるのであり、二つには、さらに迷いの世界へ還って衆生を救うという還相が回向されるのである。往相の回向の中に、真実の教と行と信と証とがある。

とあって、浄土へ生まれて往く往相と浄土から還ってきて衆生を済度する還相の二種の回向と、教(おしえ)・行(おこない)・信(まこと)・証(あかし)が記されています。(ちなみにこれを昔から二回向四法と呼んでいます。)

なお、
教とは、阿弥陀如来の本願を説く『無量寿経』、
行とは、なんまんだぶを称えること、
信とは、回向された御信心、
証とは、無上涅槃の浄土(成仏)、のことです。

では、これの出拠を見てみましょう。

教は、「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。」
行には、「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。」
証には、「つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。」

と、それぞれ出体釈をなされて体がありますが信にはありません。

タイトルに『教行証文類』と三つの法があり、その内容を「真実の教行信証あり」と、四つの法でお示しですが信には出体釈がありません。

これを昔から行より信を開いた四法といわれ、信別開(しんべっかい)と呼称しています。

信心とは『大無量寿経』の本願文によれば、至心・信楽・欲生の三心です。

その、至心釈に
「この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。」
と、至心は名号が体であるとされています。
信楽釈には、
「すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。」
と、信楽の体は至心であるとされ、欲生釈には
「すなはち真実の信楽をもつて欲生の体とするなり。」
とありますから、三心の体は至徳の尊号(南無阿弥陀仏の名号)だということになります。

これを昔から、行を離れた信もなく信を離れた行もないというので行信不離と言い習わしています。

T・S会では信心獲得とか信心決定を喧しく言い、名号を軽視していると聞いたことがあります。
なんまんだぶつは御恩報謝であるからしなくてもいいとも教えているそうです。
そして、高森教祖が、なんまんだぶつを称えているのを聞いたことがないという会員の声も聞きました。

すると、T・S会では体のない信を獲得することを奨めている事になるのでしょう。
まるで空中に楼閣を築くようなもので砂上の楼閣の信心であり、作っては壊れ作っては壊れる信心を奨めているのがT・S会でいう信心と言わざるを得ません。

ひょっとして高森教祖は『教行信証』という名目から、独立した信という体(物柄)があると錯覚したのでしょうか。

昔から行と信の関係を体・相で表現します。
体(たい)は南無阿弥陀仏、相(そう)を信といい、水と波の喩えで表現されます。
水が体であり波が相であると言います。

南無阿弥陀仏という救済の名号法が体であり、信心はその相だと言います。
水の無い波が存在しないように、水を離れて単独の波というものは有り得ません。
18願の真実信とは水の上の波であって、波には体という物柄はありません。波は単独では存在しないのです。

この波を単独で拵えようとするならば、それは浄土真宗の信ではありません。

このご法義で、「はっきりしません」とか「安心できません」などと、判ったとか分からないとかいう人は、水を離れて波をこしらえようとしているから永遠に安心が出来ないのです。
T・S会では行と信を別個のものとして捉え、自己に信という水を離れた波が単独で、ある、と教えているから、永遠に御信心を恵まれることはないのでしょう。

浄土真宗では、「体」である南無阿弥陀仏が、信心という「相」をとって、林遊を場所として、なんまんだぶ、なんまんだぶと現れ「用(はたらい)」ている状態を御信心というのでした。

なんか、酔って書いているので突っ込みどころ満載だな(笑

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2010年3月14日 (日)

信心と念仏

20数年間、高森会長から私は話を聞いてきましたが、高森会長は他力の信心と念仏とを切り離して考えているようです。高森会長も、建前上は確かに切り離せないと説明することもありますが、頓珍漢な教義も含めて会長のおかしな言動を見れば、本心では念仏を軽蔑しているのでしょう。

他力の信心と念仏とは切り離すことのできないものであることは、浄土仏教ならば超常識です。念仏を軽視した教えなど、浄土仏教の入り口にも入っていません。

では、正しくは具体的にどのように教えられているのかについて、私が下手な説明をするよりも、苦笑氏が判りやすく解説されたものがありますので、全文紹介しておきます。

「やさしい浄土真宗の教え(苦笑の独り言より)」
§14 「信心」と「念仏」

ここで、「信心」と「念仏」の関係について述べておこう。
結論から先に述べるが、

★「真実の信心」と「念仏」は切り離して考えてはいけない。

これは、非常に重要である。

法然上人は、

「名号を聞いても、信じなければ聞いてないのと同じである。
 信じたと言っても、念仏を申さなければ信じたことにはならない。
 念仏申しなさい。」

と仰っておられ、(注1)
その教えを受け継いでいる親鸞聖人も、
しっかり信じることと念仏申すことをセットにしておられる。(注2)(注3)

「親鸞聖人の教えで大事なのは信の一念だけである!」
と言って、
「行の一念」を軽んじる輩もいるようであるが

親鸞聖人が、

「信を離れた行はない。
 行の一念を離れた信の一念もない。」

と仰っておられるのを忘れてはならない。(注4)

そして、所謂「信行両座の法論」も、
「真実の信心」と「念仏」を分離しないという、
法然上人や親鸞聖人の教えに、抵触しない解釈でなければならない。(注5)

それと、「信」の立場からは、

★「一念」で往生できると「信じる」。

わけであるが、

「行」の立場からは、

★生涯できる限り念仏申していく。

ことが大切である。

これは法然上人が仰っておられることであるが、(注6)
親鸞聖人も受け継いでおられる。(注7)(注8)

覚如上人や蓮如上人の言葉も、このコンテクストで読まないと、

「お礼だから、してもしなくてもいい」

等という、念仏申すことを軽視する、誤ったドグマになってしまうのである。(注9)(注10)

「南無阿弥陀仏」についてかなり詳細にレクチャーしたので、
読者諸兄は、そのような誤ったドグマからは既に脱却されているであろう。(注11)

【今日のまとめ】
1、「真実の信心」と「念仏」は切り離して考えられるものではない。
2、「信」を離れた「行」はなく、「行の一念」を離れた「信の一念」もない。
3、所謂「信行両座の法論」もこれに抵触しない解釈をしなければならない。
4、「信」の立場からは、「一念」で往生できると信じる。
5、「行」の立場からは、生涯できる限り念仏申していく。
6、上記は法然上人のみならず、親鸞聖人も教えておられることである。
7、したがって、覚如上人や蓮如上人の言葉は、このコンテキストで解釈していかなければならない。
8、「南無阿弥陀仏」の意味がわかっていれば、「お礼だから、してもしなくてもいい」とは、口が裂けても言えない。

※次回は、「信前の念仏」のお話をする。
「念仏は総て信後、報謝の念仏に限る」というドグマとの対決である。

――――――――――――――――――――――――――――――――――

注1 法然上人には以下の言葉がある。

名号を聞くといえども、これを信ぜずば、これを聞かざるがごとし。
これを信ずといえども、これを唱えずば、これを信ぜざるがごとし。
ただつねに念仏すべし。

(「四巻伝」三、「九巻伝」二)

注2 親鸞聖人はお手紙の中で、

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、
ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。
信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。
また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。
されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、
疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。
詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。
本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき。
このやうをよくよく御こころえ候うて御念仏候ふべし。

『親鸞聖人御消息』

とお答えになられていて、「本願を信じて念仏申す」がきちんとセットになっている。

注3 上記の親鸞聖人の立場は、主著『教行信証』においても同様である。

まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、
その意これ一つなり。なにをもつてのゆえに、
三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり。
これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。

(『教行信証』信巻)

というように、疑う心のまったく混ざらないのが、「真実の一心」=「金剛の信心」=「真実の信心」であるとした上で、

真実の信心はかならず名号を具す。
名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。

と述べて、必ずその「真実の信心」が「名号(=念仏)」を具えていることが明らかにされている。

そして同じく『教行信証』の行巻に、

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。
この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。
極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。

とあり、

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、
よく衆生の一切の志願を満てたまふ。
称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。
正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。
南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。

とあるように、この「真実の信心」が具えている「名号(=念仏)」が、「衆生の一切の無明を破し」「よく衆生の一切の志願を満てたまふ」「最勝真妙の正業」であると明らかにされている。

注4 以下参照。

信の一念・行の一念ふたつなれども、
信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。
そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、
ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。
この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、
信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、
行をはなれたる信はなしとききて候ふ。
また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。

『親鸞聖人御消息』(7)

注5 したがって「信行両座の法論」の意義は以下のように解釈できる。

 この法論を「信心vs念仏」と解釈してしまうと、「真実の信心」と「念仏」を分離してしまう、法然上人や親鸞聖人の教えに抵触した解釈になってしまう。
 したがって、「真実の信心」が「念仏」を具すものとした上で、
「どのタイミングで阿弥陀仏の救いを得るか?」という法論であったと解釈すべきである。

例えば『歎異抄』の第一条には、

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、
往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、
すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

とあり、「往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」に、阿弥陀仏の「摂取不捨の利益」を受けるとある。

これはつまり、

往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき

の時点で、阿弥陀仏の本願を信じて念仏申す人になったということであり、この瞬間に信心決定した人となり、間違いなく極楽浄土に往生する人になるということである。

もちろん「念仏申さんとおもひたつこころのおこる」わけであるから、この後にこの人は、まもなくお念仏を申すわけであるが、
その最初の一声が出る前に、地球が滅びる等の何らかアクシデントがあったとしても、この人は阿弥陀仏の本願を信じて念仏申す人になっていて、間違いなく極楽浄土に往生できるわけである。

その阿弥陀仏の摂取を受ける瞬間が「念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」か、その後に出される一声の念仏の後かという問題が、
この「信行両座の法論」で問題になるべきポイントであると、解釈すべきなのではないかと思われる。

注6 法然上人には以下のような言葉がある。

行は一念十念なお虚しからずと信じて、無間に修すべし。
一念なお生る、況や多念をや。

(『一紙小消息』)

(訳)
行に関して言うならば、「一回の念仏、十回の念仏でも往生のためになる」と信じて、間を置かずに申し続けるべきである。
一回の念仏でも往生できる。まして多くの念仏で往生できることはいうまでもない。

一念十念に往生をすといへばとて、念佛を疎相に申すは、
信が行をさまたぐるなり。
信をば一念にむまると信じ、行をば一形にはげむべし。
又一念を不定におもふは、行が信をさまたぐるなり。
信をば一念にむまると信じ、行をば一形にはげむべし。
又一念を不定に思ふは、念々の念佛ごとに不信の念佛になるなり。
其故は、阿彌陀佛は、一念に一度の往生をあておき給へる願なれば、
念ごとに往生の業となるなり。

(「勅伝」21、「つねに仰せられける御詞」)

(訳)
一念十念の念仏だけでも往生できるからと言って、
念仏をいい加減に申すならば、それは信が行を妨げることになる。
逆に「一瞬一瞬、常にこれを続けるということ」と述べられているからと言って、
一念では往生できるかどうかわからないと思うならば、それは行が信を妨げることになる。
また「一念の念仏で往生できるかどうかわからない」と思うのであれば、一念一念繰り返し念仏申すごとに、往生できるかどうか疑う念仏になってしまう。
そのわけは、阿弥陀仏は、一念のお念仏によって、一度極楽浄土へ往生ができることを、本願で定めておられるのであるから、
一念一念お念仏を申すごとに、それが極楽浄土に往生することができる行為になるのである。

注7 親鸞聖人の『一念多念証文』は、上記の法然上人の教えを詳しく述べたものである。詳しくは以下の全文を参照。

親鸞聖人『一念多念証文』全文

注8 これは参考までにであるが、聖覚法印の『唯信鈔』にも以下の言葉があり、上記の法然上人の教えは、法然門下に共通したものであることは明かである。

つぎに念仏を信ずる人のいはく、
「往生浄土のみちは、信心をさきとす。
信心決定しぬるには、あながちに称念を要とせず。
『経』(大経・下)にすでに〈乃至一念〉と説けり。
このゆゑに一念にてたれりとす。遍数をかさねんとするは、
かへりて仏の願を信ぜざるなり。念仏を信ぜざる人とておほきにあざけりふかくそしる」と。

まづ専修念仏というて、もろもろの大乗の修行をすてて、
つぎに一念の義をたてて、みづから念仏の行をやめつ。
まことにこれ魔界たよりを得て、末世の衆生をたぶろかすなり。

この説ともに得失あり。往生の業、一念にたれりといふは、
その理まことにしかるべしといふとも、遍数をかさぬるは不信なりといふ、
すこぶるそのことばすぎたりとす。
一念をすくなしとおもひて、遍数をかさねずは往生しがたしとおもはば、
まことに不信なりといふべし。往生の業は一念にたれりといへども、
いたづらにあかし、いたづらにくらすに、
いよいよ功をかさねんこと要にあらずやとおもうて、
これをとなへば、終日にとなへ、よもすがらとなふとも、
いよいよ功徳をそへ、ますます業因決定すべし。

善導和尚は、「ちからの尽きざるほどはつねに称念す」といへり。
これを不信の人とやはせん。ひとへにこれをあざけるも、
またしかるべからず。一念といへるは、すでに『経』(大経・下)の文なり。
これを信ぜずは、仏語を信ぜざるなり。このゆゑに、一念決定しぬと信じて、
しかも一生おこたりなく申すべきなり。これ正義とすべし。
念仏の要義おほしといへども、略してのぶることかくのごとし。

注9 覚如上人の『口伝鈔』には、以下の言葉がある。

一、一念にてたりぬとしりて、多念をはげむべしといふ事。
このこと、多念も一念もともに本願の文なり。
いはゆる、「上尽一形下至一念」(礼讃・意)と等釈せらる、これその文なり。
しかれども、「下至一念」は本願をたもつ往生決定の時剋なり、
「上尽一形」は往生即得のうへの仏恩報謝のつとめなり。
そのこころ、経釈顕然なるを、
一念も多念もともに往生のための正因たるやうにこころえみだす条、
すこぶる経釈に違せるものか。
さればいくたびも先達よりうけたまはり伝へしがごとくに、
他力の信をば一念に即得往生ととりさだめて、
そのときいのちをはらざらん機は、いのちあらんほどは念仏すべし。
これすなはち「上尽一形」の釈にかなへり。

注10 蓮如上人の『御文章』二帖三通には、以下の言葉がある。

一、開山親鸞聖人のすすめましますところの弥陀如来の他力真実信心といふは、
もろもろの雑行をすてて専修専念一向一心に弥陀に帰命するをもつて、
本願を信楽する体とす。
されば先達より承りつたへしがごとく、弥陀如来の真実信心をば、
いくたびも他力よりさづけらるるところの仏智の不思議なりとこころえて、
一念をもつては往生治定の時剋と定めて、
そのときの命のぶれば自然と多念におよぶ道理なり。
これによりて、平生のとき一念往生治定のうへの仏恩報尽の多念の称名とならふところなり。
しかれば祖師聖人(親鸞)御相伝一流の肝要は、ただこの信心ひとつにかぎれり。
これをしらざるをもつて他門とし、これをしれるをもつて真宗のしるしとす。

注11 §9~11,ならびにQ&A(3)~(5)参照。

念仏誹謗の結果がどうなるかは、言うまでもないことです。

浄土仏教の門の外にある高森教学が、親鸞聖人の教えと関係があるかのように装うのだけはやめて欲しいと心より願うばかりです。

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2010年3月13日 (土)

信後の念仏

『親鸞聖人御消息』に

また親鸞も偏頗あるものときき候へば、ちからを尽して『唯信鈔』・『後世物語』・『自力他力の文』のこころども、二河の譬喩なんど書きて、かたがたへ、ひとびとにくだして候ふも

と書き記しておられますように、関東の同行に対して二河白道の譬喩を親鸞聖人が書かれて送られています。親鸞聖人はそれだけ重要視なされていたということです。

二河白道の譬喩は、信前、信後、そして浄土往生までの道程を譬えをもって判りやすく示されたということで、親鸞聖人も御自身と他の人の求道をも重ねられていたのでしょう。

しかし、この譬え話を高森会長が根本的に間違えて教えていたとは、本当に驚きました。都合が良いように敢て話を変えていたのかとも思いましたが、

「親鸞会教義の誤り」宿善とは8

によれば、

高森会長の師匠であった伊藤康善師の『仏敵』には、

だれでもその関所を通るのです。今が、二河白道の真ん中へ出た味です。前へ進むには進まれず、後へ帰るには帰られず、じっと止まるにも止まられずという三定死の苦しいところです・・・が、今しばらくの辛抱です。この聞信の一念は、弥勒菩薩などが行われる百大劫の修行の代わりですからね・・・

とありますので、高森会長はこれをそのまま信用して今の話を創り上げたのだろうと思われます。

と書かれてあり、更に驚嘆しました。
無二の善知識と崇めていた高森会長は、真宗学を本当に何も知らないことが改めて判り、怒りを通り越して哀れみさえ感じます。

さて、白道は阿弥陀仏から回向された他力信心ですが、西の岸まで白道を一歩二歩と進んでいくとは、一年二年と臨終まで念仏の道を進むことです。
信心決定したら念仏を百回称えても十回称えても一回称えてもよい、一回も称えなくてもよい、と高森会長から聞いてきましたが、一回も称えなくてもよいというのは、邪義です。命ある限り、念仏の生活をしていかなければなりません。

『御文章』には、

このうへには、なにとこころえて念仏申すべきぞなれば、往生はいまの信力によりて御たすけありつるかたじけなき御恩報謝のために、わがいのちあらんかぎりは、報謝のためとおもひて念仏申すべきなり。(1帖目第3通)

他力の信心といふことをしかと心中にたくはへられ候ひて、そのうへには、仏恩報謝のためには行住坐臥に念仏を申さるべきばかりなり。(1帖目第5通)

かやうの道理なるときは、昼夜朝暮は、如来大悲の御恩を雨山にかうぶりたるわれらなれば、ただ口につねに称名をとなへて、かの仏恩を報謝のために念仏を申すべきばかりなり。(2帖目第4通)

このうへにはただねてもおきてもへだてなく念仏をとなへて、大悲弘誓の御恩をふかく報謝すべきばかりなりとこころうべきものなり。(2帖目第9通)

しかればこのありがたさたふとさの弥陀大悲の御恩をば、いかがして報ずべきぞなれば、昼夜朝暮にはただ称名念仏ばかりをとなへて、かの弥陀如来の御恩を報じたてまつるべきものなり。(2帖目第10通)

これによりて、かたじけなくもひとたび他力の信心をえたらん人は、みな弥陀如来の御恩のありがたきほどをよくよくおもひはかりて、仏恩報謝のためには、つねに称名念仏を申したてまつるべきものなり。(2帖目第13通)

さてこの信心決定のうへには、ただ阿弥陀如来の御恩を雨山にかうぶりたることをのみよろこびおもひたてまつりて、その報謝のためには、ねてもさめても念仏を申すべきばかりなり。(3帖目第1通)

かくのごとくこころえたらんひと、名号をとなへて、弥陀如来のわれらをやすくたすけたまへる御恩を雨山にかうぶりたる、その仏恩報尽のためには、称名念仏すべきものなり。(3帖目第2通)

等々、信後は念仏を称えなさいと何度も何度も書かれています。称えても称えなくてもどちらでもよいとは書かれていません。
それに対して、高森会長は余りにも念仏を軽視し過ぎです。高森会長が念仏を称えている姿は、法話の時以外で見たことがありません。日頃お勤めもしていないと聞いています。

白道の理解が、根本から狂っていますから仕方がないでしょうが、高森会長が信心決定しているとすれば、念仏を称えないことで白道から足を踏み外して、水の河に落ちて溺れているようにしか思えないのは、私だけでしょうか。他力の信心ならばもちろんそんなことはない筈ですが…

二河白道の譬えとは、信後こそ念仏と諸善に励んで、高森会長のようになってはいけないぞと誡められたものと私は味わっております。

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2010年3月12日 (金)

金剛心と暁

信心決定すると金剛心になるから大変わりする、と高森会長は教えていますが、これもおかしな解釈です。

二河白道の譬えを受けて、白道について『教行信証』信巻に

「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。

と教えられています。阿弥陀仏から回向された信心であるから、破壊されることがないということです。
その理由を次に

金剛といふは、すなはちこれ無漏の体なり

と『定善義』を引かれて仰っています。信心決定しても煩悩しかない有漏の身ですから、「無漏の体」とは阿弥陀仏の仏智です。阿弥陀仏から回向された信心が金剛心なのであって、信心決定した人の心が金剛心になるのではないのです。

『唯信鈔文意』にも

この信楽をうるときかならず摂取して捨てたまはざれば、すなはち正定聚の位に定まるなり。このゆゑに信心やぶれず、かたぶかず、みだれぬこと金剛のごとくなるがゆゑに、金剛の信心とは申すなり

とあります。

また、信心決定すると日本晴れの心になると教えていますが、歪曲された誇大解釈です。

『尊号真像銘文』には

「摂取心光常照護」といふは、信心をえたる人をば、無碍光仏の心光つねに照らし護りたまふゆゑに、無明の闇はれ、生死のながき夜すでに暁になりぬとしるべしとなり。「已能雖破無明闇」といふは、このこころなり、信心をうれば暁になるがごとしとしるべし。

と仰っています。「」とは、夜明け前の薄暗い状態です。信心をえると、漆黒の無明の闇から、ほんのり明るさが加わった状態になるということです。

『浄土文類聚鈔』にも、

かならず無上浄信の暁に至れば、三有生死の雲晴る。

と表現なされていますように、夜明けの曙にもなっていないのです。信心決定したならば、相当のことが判ると思っている会員ばかりですが、信心決定しても判ることは僅かです。

その参考になることが

「21世紀の浄土真宗を考える会」真宗安心五十問答(本願寺の本如上人と広如上人のご問答)

に書いてありますので、長いですが紹介しておきます。上記の親鸞聖人のお言葉を踏まえて、読んでみて下さい。

御安心(加茂仰順師)より

問い は本如上人
答え は広如上人

(1)
問い、どのようにご安心を自督なされたか。
答え、雑行雑修自力の心をすてて、後生の一大事御助け候へとたのみ、御助け一定うれしやうれしやとよろこびまする。しかしその雑行とはどういうものであるか存じませぬ。
(2)
問い、そなたは知らぬものをどうして捨てなされたのか。
答え、どうして捨てましたやら、あんまりはやいお助けゆえ、その捨てようも存じません。
(3)
問い、それならば、阿弥陀様にはどのようにたのんだのか。
答え、後生一大事、御助け候へとたのみました。
(4)
問い、雑行の捨てもようも、雑修の離れもようも知らぬくらいで、弥陀のたのみようをどうして知られたのか。
答え、これは蓮如様のおかげで、聴聞いたしました。
(5)
問い、雑行も雑修も捨てたやら、捨てぬやら知られぬのに、弥陀をどのようにしてたのんだのか。
答え、ご教化を聴聞いたしましたゆえに、仰せの有難さに、捨てぶりも離れようも知らずにたのみました。
(6)
問い、近来阿弥陀様をたのむについて心得ちがいのことを聞いたが、お前は口でたのんだのか、心でたのんだのか。
答え、つねづねのご教化に、口でたのんだの心でたのんだのと、仰せらるるご教化をまだ聴聞いたしませんので、そのようなことは存じませぬ。
(7)
問い、それならば、なんとたのんだのか。
答え、なんとたのんでも安堵ができませんでしたので、仰せを聞いてたのみました。
(8)
問い、そのたのみましたとは、なにをたのんだのか。
答え、阿弥陀如来の仰せ一つをたのみました。
(9)
問い、仰せをたのむとはどういうことか。
答え、私を助くると仰せられる仰せのままを聞いて、お助けうれしやとよろこぶばかりでございます。
(10)
問い、御文章にはたすけたまへとふかく心に疑いなくともあり、また元祖(法然聖人)は心に助けたまへと思うばかりとも仰せられてあるが、要するに心で助けたまへとたのむのではないか。
答え、心でたのむこととは、聴聞いたしませんぬ。心に疑いなく、お助けをお受け申すことと聞きました。
(11)
問い、それならば、心にすこしも疑いはないかや。
答え、私のような疑い深い者を助けようとして、たびたび願を発してくだされたと聞いては、地獄へは堕ちようもなくて、うれしうございます。
(12)
問い、罪もさわりも往生の邪魔にはならねども、疑いばかりは、大きな往生のさわりと仰せられる。それゆえ御文章にも、つゆちりほども疑いなければと仰せられるのである。もしやそのさわりになる疑いがおこったならばどうするぞ。
答え、さわりになるべき疑いのおこるもおこらぬも、少しも屈託はいたしませぬ。疑いのおこるやらおこらぬやら、実は一寸先はやみの夜であり、それを知らないことほどうれしいことはございませぬ。
(13)
問い、それならもしや疑いがおころうかしらぬと、一生が間、安堵がならぬではないか。
答え、何事も知らぬほどの安堵はないと存じまする。
(14)
問い、もしやもし、そのさわりになる疑いがおこったらばどうじゃ。
答え、疑いがおこるおこらぬは、みな阿弥陀様の方でのお世話と存じまする。
(15)
問い、阿弥陀様の方でのお世話とは、一向に分からぬではないか。
答え、さようならば申しましょう。闇を晴らすは日輪のお世話、日のはたらきと存じます。ただお助けのかわらぬことがうれしうございます。
(16)
問い、助けたまへとたのむと、疑いないのと、信ずるのとは、二つか三つか。
答え、助けたまへとたのむ一念のとき、一つと聴聞いたしました。
(17)
問い、そのたのむ一念のときとは、どういう時であるか。
答え、弥陀の仰せを聞きうるときと存じまする。
(18)
問い、聞きうるときがたのむときとは、どういうときじゃ。
答え、助けてやるとの仰せを聞きましたれば、たのんで助かる世話をやめて、仰せのままをたのみました。
(19)
問い、それならば、仰せのまま、そのままというばかりでは、南無の二字が無いようではないか。
答え、南無の二字が無いゆえに、南無阿弥陀仏と六字ながらをこしらえて、助くると仰せられる阿弥陀様をたのみました。
(20)
問い、それならば、仰せを聞いたのじゃない。たのんじゃのじゃ。
答え、聞いたも、たのむも同じことと聞きました。
(21)
問い、聞いたと、たのむと同じことではつまらぬ。聞いてたのめとこそ仰せられ、たのんで聞けとはのたまわぬ。さあこれはどうじゃ。
答え、今までは聞かずに弥陀をたのみましたゆえに、たのんでその力にて助けてもらおうと、はたらきましたが、助けてやるの仰せを聞いてたのみましたれば、世話のいらぬ他力のままが知れました。
(22)
問い、弥陀をたのんで、凡夫が助かるならば、そのままとはいわれぬがどうか。
答え、たのんで助かるのなれば、たのむ世話がいりますが、願行共に成就して、そのまま助けると仰せらるるが先手ゆえ、いよいよ弥陀如来を後生の親とたのみました。
(23)
問い、そなたは、弥陀をたのみました、たのみましたと言うが、それはいつごろにたのんだのか。
答え、たのむというもいつごろたのんだのやら、あまり心易きゆえに存じませぬ。
(24)
問い、いかに心易きことなればとて、後生の一大事をいつたのんだのやら知らずにたのんだとは聞えぬ。どういうことぞ。
答え、聞いてみましたれば、いつのまにやらたのめてございました。妙なことでござります。
(25)
問い、いつのまにやらたのめたとはいかに。
答え、どうでも、こうでも助けねばおかれぬと仰せらるる御真実ゆえに、ただ助けてもらうよりほかに仕様はござりませぬ。
(26)
問い、それでは、たのむということが抜けてあるではないか。
答え、抜けるも抜けぬも、私が仕事ではございませぬゆえ、一向に存じませぬ。
(27)
問い、それならば、お前はたのまなんだのか。
答え、いやいや、たのみました。
(28)
問い、たのんだのであれば、私の仕事ではないとはどうで云えるのか。
答え、たのむ機までもないやつゆえ、彼尊の方に成就して下されたと聴聞いたしました。
(29)
問い、それならば、聞いたばかりではないか。
答え、悪いことの仕様のないようにして下されたことを聞きましたれば、たのむも信ずるも一緒に頂きました。
(30)
問い、聞いたれば、たのむ信心も一緒に頂くとはどうじゃ。
答え、たのむの機までもこしらえて、ただ助けるとの仰せを聞きましては、どうも首の振りようがございませぬ。
(31)
問い、それならば、首の振りようのないのが、たのんだのか。
答え、首の振りようがないゆえに、仰せに順いました。
(32)
問い、仰せに順うたのがたのんだのか。
答え、助くるとある仰せに順うばかりゆえに、助けたまうは弥陀のはからいかと存じます。
(33)
問い、たのめとある仰せに順うなれば、助けたまへというのじゃないか。
答え、全体たのめと仰せらるることは、自力のはたらきをすてよ。弥陀が願行成就して助くるぞよと仰せらるる仰せの通り、自力の世話をすてることと存じまする。
(34)
問い、それならば、すててたのめと仰せらるるはどうしたものじゃ。
答え、世話をやめて、彼尊の仰せにまかずばかりと存じまする。
(35)
問い、それでも雑行雑修自力の心をふりすてて、弥陀をたのめと仰せらるるからは、すててからたのめではないか。
答え、もとよりよいように仕上げたからには、役に立つ世話をやめよ。そちが往生は成就したぞよと仰せらるるご教化を聴聞いたし、一向に弥陀にまかせて、あらあらうれしやと安堵してございます。
(36)
問い、そのように、その方は、何もかも心得たで、それが安心というのか。
答え、心得たのが助けて下さるるとは存じませぬ。ただ助けて下さるると心得ました。
(37)
問い、ただということは、どういうことじゃぞ。
答え、どういうことやら知らずに、お助けにあずかることと存じます。
(38)
問い、信機信法ということは、どうじゃ。
答え、自力をすてて、彼尊様をたのむことと聴聞しました。
(39)
問い、それならば、自力をすてたのが信機か。
答え、すてまいと思うても役に立たねばすたります。それゆえ、私は役に立たず、彼尊のお慈悲一つと、ただ弥陀のお手元に目のつくようになったのが信機信法かと存じます。
(40)
問い、心をひとつにせよと仰せられるのが一つになったのか。
答え、参らるるように思ううちは、二つも三つも、参られぬ一つよりほかにござりませぬで、ひとりでに心が一つになりました。
(41)
問い、助けたまへと申すとは、口で申すことではないのか。
答え、口で申してらちあけようとするのが自力の心じゃと聞きました。
(42)
問い、そんなら何で申すのじゃ。
答え、聴聞申し訳候とは、私は口では申しませなんだ。
(43)
問い、同業者の三業と、弥陀の三業と一体になると仰せらるるとはどういうことじゃ。
答え、煩悩だらけの心中へ、助けるぞよとの勅命を申し受けたら、もう彼尊がよいようにしてお助け下さるるぞと聴聞いたしました。
(44)
問い、仏の広大なお慈悲が、いよいよ実と受け取られて、喜びづめになろうものか。
答え、いや、忘れたり、よろこんだりであります。
(45)
問い、忘れていたときの心持ちはどうじゃ。
答え、そりゃ何ともない。色も香りもなし。また思い出したときは、あらうれしやとほんのりいたしまする。
(46)
問い、とんとお慈悲を忘れてしもうたらどうする。
答え、とんと忘れてしまう私がいるで、ご教化が絶えて下さりませぬと存じます。
(47)
問い、思い出したときは丈夫なのか。また忘れたときはどうじゃ。
答え、思い出せば丈夫なことを思い出し、忘れているのでいよいよ丈夫な味が知れまする。
(48)
問い、そんならいつもうれしいか。
答え、うれしうなったで、もう悲しいところは少しもございませぬ。
(49)
問い、なにがそのようにうれしいぞ。
答え、ただ助けて下さるるお手元一つがうれしうござります。はい。
(50)
問い、そちもよくよく、御開山の腹中をのみこんだのお。
答え、いや、私は知らねども、彼尊のおかげでのみこましてもらいましたで、ひとえに御開山聖人御出世の御恩といただかれます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

[解説]
 この安心五十問答は、滋賀県坂田郡入江村大字磯第百二三番地椋田与市氏(世間に有名な与市同行)が施主となって、伝えるところの本願寺第十九世本如上人と同第二十世広如上人御父子のご問答を拝写して遺して下さったものであります。いまそれを拝借して皆さまの法味の助縁にと思い、誌すものであります。

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2010年3月11日 (木)

もろもろの行業を回してただちに西方に向かふ

先日の学生大会での演題は二河白道だったと聞いています。事前に

「親鸞会教義の誤り」
宿善とは7宿善とは8

で二河白道の譬えについての解説があり、高森会長が話をしてきたこととまるっきり違った内容に、驚いた人も相当あったようです。現役の会員で、「親鸞会教義の誤り」を読んで、学生大会の話と比較してやろうという人もありました。
高森会長が「親鸞会教義の誤り」を読んでいることは、結構知られています。それで、こっそり修正するのではないかという期待を持って話を聞きにいった人も何人かありましたが、結果は以前のままの珍しき創作話で終わりました。期待した人には残念な結果でしたが、私はこれこそが高森会長の本性と思っています。

「親鸞聖人の教えを誤って伝えたならば、腹を切ってお詫びする」などと公言しても、そんな気持ちは最初から全くない大法螺吹きの会長ということをここでも証明してくれました。

この二河白道の譬え話には、自力を捨てて他力に帰するということについて判りやすく教えられていると思います。

二河白道の譬え話については、「親鸞会教義の誤り」に書かれてありますので、そちらを御覧下さい。

白道とは、阿弥陀仏から回向された他力の信心です。高森会長がいうような信前の求道心ではありません。信前は東の岸のことです。従って、東の岸から白道に足を一歩踏み出した時が信心決定であり、自力を捨てて他力に帰した時です。
東の岸から白道へ一歩踏み出す前と踏み出した後では、周りの状況は何も変わっていません。細い白道が広くなった訳でもなければ、激しい水の波と火の焔が穏やかになったのでもありません。信心決定しても、ドラマチックな変化が起きるのではないことがこの譬えで判ります。

高森会長から、信心決定したらどうなるかを聞いてきた人にとっては、これも驚くべきことです。しかし、譬えと実際は違うからと考える人もあるでしょうが、よくよく考えてみれば、この譬え話を作られた善導大師も、また七高僧の他の方々も、信心決定についてはほとんど触れられていません。つまり、信前と信後では、高森会長が説明しているような大変わりするものではないから、特別に取り上げられていないのです。

実際、高森会長の獲信体験も「親鸞会教義の誤り」に紹介されていますが、

はからずも夏休み数日前に、増井君をはじめ数名の求道者諸兄の御指導を受け、半信半疑、なお私の心は悶えました。親切にも休暇中『仏敵』の書をお借りして読ませていただき、また家にあった書物により、さらにまた華光をも送っていただき、次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。ただただ「そのままこい」「そのままでよい」とは何と有難いことでしょうか。

というものです。また、高森会長編の『獲信の記録』には、高森会長が獲信まで導いたとされる5人の獲信体験記が掲載されています。5人のうちの1人が高森会長の母親です。以下に一部抜粋します。

後は、どうなりとなさいませ。と捨て言葉を残して、腹立ち紛れに、そこらの針箱等を投げつけますと主人も、余り私が興奮するのに驚いて、「門徒の者に聞いて貰ってはどうか」と申します。何も、こうなれば門徒も何もない、寺も何もあるものか、私さえ死んだら・・・燃ゆる業火に身を悶えながら・・・羅刹の如く立ち上がった時・・・ハッ!・・・と如来の光明に射すくめられました。
ああ・・・そうであった。如是凡夫、心想羸劣、とお釈迦如来様に教えられた韋提希夫人のお懺悔もこの心であったか、王妃の身でさえ生みの我が子にそむかれて、七重の牢屋に閉じ込められたと聞くに私は、我がままから物事を運んで、自分の縄で自分を縛り、平和な家庭に風波を荒立てましたが、嫁にも済まぬ、親にそむかせた子にも済まぬ、主人にも済まぬ、佛さまにも済まぬ、今まで巌の如く固く重く閉ざされていた私の胸は、その一瞬!空洞の様になってしまった。と同時に懺悔の涙はとめどもなく流れ、ガラリと心境が一変致しました。

これを読まれて、
この程度のことなら、他の宗教でもありそうな体験談ではないか、
と思われる方もあるでしょう。確かに現在の高森会長が主張しているような摩訶不思議な体験が信心決定の体験と思っていたら拍子抜けでしょう。
しかし、二河白道の譬えからいえば、東の岸から白道へ一歩踏み出すときに、不思議な体験があるとは全く書かれていないのです。

われいま回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず可度すべし

白道に乗る直前の心境をこのように表現されています。
三定死の苦しみを突破して、白道へ進もうと心が定まったときに、自力を捨てて他力に帰すのです。三定死の苦しみとは、自力を捨てようにも捨てられない苦しみです。自力を捨てるとは、前回紹介しました親鸞聖人のお言葉通り、自分の考えを捨てることですから大変です。
自力を捨てて他力に帰すといえば、自分でするように思われるでしょうが、

西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。

という阿弥陀仏の願力によってすべて為さしめられるのです。
東の岸で善をするとかしないとか全く関係ないことです。それどころか、白道に乗るには善をしなければならないと思う心を捨てなければ絶対に白道には乗れません。

「人道の上を行きてただちに西に向かふ」といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。

白道に乗るには諸善をしなければならないに決まっている、と諸善にこだわっている間は、白道が微かにしか見えず、黒路という別の道に迷い込んでいるのです。黒路を勧める悪知識に従っている人は、黒路という迷路から抜け出すことは不可能でしょう。

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2010年3月10日 (水)

「自力を捨てよ」が「善をせよ」と思う人は無宿善です

昨日は、往生と信心について述べました。真実信心のだけ人が報土往生できるのだと、親鸞聖人も蓮如上人も教えられています。
それでは、真実信心になるとは、どういうことなのかが次に知りたいところでしょう。

真実信心は捨自帰他です。ここだけは、親鸞会も正しいことを教えています。
『領解文』でいえば、

もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。

ということです。親鸞聖人も全く同じことを教えられていますことは、

「親鸞会教義の誤り」親鸞会は諸行往生

のところで、詳しく解説されていますので、そちらを読まれるとよいでしょう。

それ以外で自力について書かれた根拠を挙げるなら、

『唯信鈔文意』には、

本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」といふ。

「回心」といふは自力の心をひるがへし、すつるをいふなり。

自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。

『一念多念証文』に

自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。

と教えられています。

『末灯鈔』には、

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。

とあります。自力を捨てよということは、他力に帰せ、と同じことです。
他力の真実信心を賜わるには、自力を捨てよ、これだけです。
善のできない自分と知らされるまで善を精一杯しなければならない
諸善は獲信とよい関係にある
善をしなければ信仰は進まない
というのは、すべて自力の心です。この心を捨てよと教えれているのです。上記の親鸞聖人のお言葉をよく読んで下さい。

善のできない自分と知らされるまで善を精一杯しなければならない
諸善は獲信とよい関係にある
善をしなければ信仰は進まない
これが正しいと主張している高森会長は、異安心か他の目的を持った邪心の人かのどちらかでしょう。

親鸞聖人、蓮如上人のお言葉を読んでも、高森会長の主張が正しいと思う人は、残念ながら無宿善の人です。平生業成は諦めましょう。

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2010年3月 9日 (火)

信心と往生

前回、「易往而無人」について書きましたが、これは信心と往生との関係で教えられています。浄土往生の正因は、真実信心であることを親鸞聖人、蓮如上人は教えられているのです。
ですから、浄土真宗では信心と往生とは対になっています。

『阿弥陀経』の

もし人ありて、すでに発願し、いま発願し、まさに発願して、阿弥陀仏国に生ぜんと欲はんものは、このもろもろの人等、みな阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得て、かの国土において、もしはすでに生れ、もしはいま生れ、もしはまさに生れん。

を解説されたものが、『安心決定鈔』と『蓮如上人御一代記聞書』に書かれてあります。
『安心決定鈔』と『蓮如上人御一代記聞書』の内容について
「親鸞会教義の誤り」宿善とは3
で述べられていますので、それを引用します。

一 陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もありと仰せられしと[云々]。(307)

このお言葉は蓮如上人が「金を掘り出すような聖教」とまで絶賛されました『安心決定鈔』にあるお言葉を言い換えられたものです。『御一代記聞書』には、『安心決定鈔』からの引用が多数あります。
ここの関連部分を、説明の都合上前後も含めて紹介します。

『安心決定鈔』本

かるがゆゑに仏の正覚のほかは凡夫の往生はなきなり。十方衆生の往生の成就せしとき、仏も正覚を成るゆゑに、仏の正覚成りしとわれらが往生の成就せしとは同時なり。仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。機によりて三世は不同なれども、弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり。
(中略)
かくこころうれば、われらは今日今時往生すとも、わがこころのかしこくて念仏をも申し、他力をも信ずるこころの功にあらず。勇猛専精にはげみたまひし仏の功徳、十劫正覚の刹那にわれらにおいて成じたまひたりけるが、あらはれもてゆくなり。覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり。已・今・当の三世の往生は不同なれども、弘願正因のあらはれもてゆくゆゑに、仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり。

『安心決定鈔』のこれらの部分は、阿弥陀仏が十劫の昔に、本願を成就されているのに、人によって往生の時期に前後ができるのはなぜかということについて書かれたものです。『御一代記聞書』のこの部分は『安心決定鈔』を受けられて記されたのは間違いないでしょう。内容は同じです。

『御一代記聞書』の「已今当の往生あり」のところが、『安心決定鈔』では

すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり

已・今・当の三世の往生は不同なれども

ですので、
『御一代記聞書』の「宿善も遅速あり」は、『安心決定鈔』の

仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば

覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり

に当ります。「ことわりをしる」「あらわす」とありますし、『御一代記聞書』の最後に

昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もあり

とありますので、「宿善」とは、信心のことを指していることがお分かり頂けると思います。冒頭の『御一代記聞書』の「宿善」と共通するものです。

つまり『御一代記聞書』では、信心をうることに遅速があるから、已今当の往生がある、と理解できます。

『安心決定鈔』の「ことわりをしる」「あらわす」ことは、自分のやった善とは全く関係ないのです。『安心決定鈔』の、

弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり

仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり

に、そのことが明確に解説されています。ですから、『御一代記聞書』の「宿善」には、自力的な意味の善は含まれていないのです。

親鸞会で教えているように宿善の厚薄について教えられたものではありませんし、ましてや宿善を厚くするようにという意味はどこにもありません。

とある通りです。信心と往生とが対になって教えられているのであって、親鸞会でいう善と信心、往生との関係でないことは明らかです。
高森会長は、”善”という字があれば、すべて信心と結び付けようとします。本来、それがどんな意味で使われているかなどお構いなしで、”善”という字があるのだから、善をせよということだ、と結論付けるので、まるで小学生並みの思考です。

これまで当ブログでも散々述べてきましたし、「親鸞会教義の誤り」「苦笑の独り言」「21世紀の浄土真宗を考える会」「真偽検証」等のブログでも、高森会長が獲信のための善の勧めという根拠は、1つ残らずすべて否定されています。

あと残されているのは、善知識方の教えとは反する高森理論だけです。

高森理論は、高森教か高森宗でしか通用しませんので、議論になりません。

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2010年3月 8日 (月)

「易往而無人」

易往而無人」といえば、丁度一年前の教学講義で、

私たち。
えー!どうして!
おかしいじゃないのそれは。

お釈迦様、貴方どうかされたんじゃないですか?
頭、変になられたんじゃないですか?

という心が、グーッと出てくるでしょ。
これが出てこなかったら、始まらんのです。

というトンデモ発言をして、ネット上で大騒ぎになりました。
その録音は

http://kyougaku.at.webry.info/200903/article_1.html

にアップされています。
私もこの教学講義に参加していまして、驚いたものです。

その時の教学講義の質問が、

向こうの大河を渡ることが易しいのに、目の前の小川を渡ることが難しいのはどうしてでしょうか

というようなものでした。当時、田中氏との法論で、本願の「若不生者」の解釈を巡って、高森会長が勝利を偽装しようと必死になっていましたので、それを踏まえての質問であったことは、教学講義参加者は少なからず気が付いていた筈です。この質問はつまり、信心決定した人が極楽へ往生するという大河を渡ることは易しいのに、目の前の小川である信心決定することが難しいのはどうしてでしょうか、という意味であったのです。
ところがそれに対して高森会長が答えたのが、以下のことでした。

「琵琶湖をお前一人で埋めてこい」といわれて、「はい、畏まりました」と言わねばならない

から始まって、

死んだら誰でも極楽というのが世間の常識であり、それをぶち破られるために、お釈迦様が「易往而無人」という驚くべきことを仰ったのだ

だから、

私たち。
えー!どうして!
おかしいじゃないのそれは。

お釈迦様、貴方どうかされたんじゃないですか?
頭、変になられたんじゃないですか?

という心が、グーッと出てくるでしょ。
これが出てこなかったら、始まらんのです。

という流れでした。質問者の意図を無視した支離滅裂な回答で、善知識である釈尊に無条件服従しながら謗らなければならない、という全く頓珍漢な講義でした。高森会長には心底呆れました。

その時の教学講義の録音は、私ももらって持っていますので、そんなことは言っていないとは誤魔化すことはできません。

易往而無人」は、親鸞聖人の教えを学んでいる人にとっては、特に難しいことでもないのですが、あの教学講義で出した根拠は

「易往而無人」といふは、「易往」はゆきやすしとなり、本願力に乗ずれば本願の実報土に生るること疑なければ、ゆきやすきなり。
「無人」といふはひとなしといふ、人なしといふは真実信心の人はありがたきゆゑに実報土に生るる人まれなりとなり。
(『尊号真像銘文』)

これによりて『大経』(下)には「易往而無人」とこれを説かれたり。この文のこころは、「安心をとりて弥陀を一向にたのめば、浄土へはまゐりやすけれども、信心をとるひとまれなれば、浄土へは往きやすくして人なし」といへるはこの経文のこころなり。 (『御文章』2帖目第7通)

でした。信心決定した人は必ず浄土往生できますので、「易往」ですが、信心決定する人が稀であるから、「無人」といわれているのです。

昨日も書きましたように、余りにも易し過ぎるが故に、信じられないのが、他力信心なのです。阿弥陀仏が全てを回向して下さるのですが、それを拒否している自力が邪魔をしているのです。善をしたら足しになるだろうとか、因縁になると思う心が自力です。

自力を捨てよ、とそれだけを教えられたのが親鸞聖人、蓮如上人なのですから、諸善が獲信の因縁になるという邪義も捨てなければなりません。これが捨てられない親鸞会の会員は、名実ともに「無人」になるのです。

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2010年3月 7日 (日)

簡単に信心決定などできる筈がない!

私が30年近く前に聞いてきた高森会長の話と現在とでは大変な違いがあります。30年前もおかしかったのですが、昔は正しいところもそれなりにありました。しかし、現在は徹底的に間違っていますので、正しいところがどこにあるのかと探さなければならないほどで、そんな教えでは何十年聞き続けていても信心決定できないのは当然なことでしょう。

それで最近、
簡単に信心決定などできる筈がない、簡単に信心決定したと言っている者は異安心に決まっている。
とやたらと強調している有様です。

信心決定した人は、国に一人郡に一人、と言われた昔昔の時代からみれば、人口は何倍にも増えていますし、様々な意味で遥かに便利になって教えを聞く回数も増えれば、単純計算はできないとはいえ、県に十人の獲信者がいても不思議ではないと思います。

しかし親鸞会では、平気で上記の様な言葉を吐き捨てます。

『教行信証』信巻に

律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』に〈易往而無人〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」と。

と親鸞聖人は書いておられますように、信心決定することは掌を返すように大いに易しいことではありますが、余りにも易し過ぎるが故に信じることができず、『大無量寿経』に「易往而無人」と説かれているのです。難信であることは間違いないのですが、親鸞会でいっているような無茶苦茶な”条件”をクリアしての難信ではありません。親鸞会では難信の前に、難行があるのです。

『教行信証』化土巻では

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

と教えられていますように、己の能力を考えれば、「ただ弥陀を称せよ」が結論です。条件はこれだけです。訳の判らない”善”という難行など無関係です。

そんなことをいっても、難信なんだから、現実的には今生では簡単に救われるものではない。多生で救われればそれで良いのだ。

と反論してきた講師もあったと聞きます。
平生業成など、とっくに諦めているのが親鸞会の会員でしょう。私もそうでした。しかし、それは間違いです。現在、信心決定できていなくても嘆くことはありません。必ず信心決定できると法然上人も仰っています。

『十二箇条問答』

問いていわく、往生を願わぬにはあらず、願うというともその心勇猛ならず。また念仏を卑しと思うにはあらず、行じながら疎かにして明かし暮らしそうらえば、かかる身なればいかにもこの三心具したりと申すべきもなく。さればこの度の往生をば思い絶えそうろうべきにや。

答えていわく、浄土を欣えどもはげしからず、念仏すれども心のゆるなることを嘆くは往生のこころざしのなきにはあらず。こころざしのなき者はゆるなるを嘆かずはげしからぬをも悲しまず。急ぐ道には足の遅きを嘆く、急がざる道にはこれを嘆かざるがごとし。
また好めばおのずから発心すと申す事もあれば、漸漸に増進して必ず往生すべし。
日ごろ十悪五逆を造れる者も臨終に初めて善知識に遇いて往生する事あり。いわんや往生を願い念仏を申して我が心はげしからぬことを嘆かん人をば仏も哀れみ菩薩も護りて、障を除き知識に遇いて往生を得べきなり。

今生での信心決定を断念した親鸞会の会員に、平生業成ということはありません。親鸞会は平生業成の教えではありません。しかし、諦めずに平生業成の教えを聞いていくならば、必ず往生できるのです。だからこそ、平生業成の教えなのです。

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2010年3月 6日 (土)

諸善と念仏

「雑行を捨てよと言われているのは、自分のやった善で助かろうとしている自力の心を捨てよということで、善をするなということではない」と親鸞会では、強まる教義批判に対して内部向けに必死に誤魔化しの反論をしています。

このフレーズだけ見れば正しいのですが、親鸞会でいっている善の勧めの理屈は、「善をしなければ信仰は進みません」「諸善は獲信とよい関係にある」などであり、これが根本的に間違っていると非難しているのです。

具体的にいえば、他人に仏法の話をしたり、勧誘したりする法施、多くの会費を出したり、会館建設費や絵画の募財に参加する財施は、獲信とは全く関係ないものなのです。はっきりいえば、親鸞会でしなければならないと勧めている”善”は、往生の妨げにしかなりません。

だから、多くのブログで、親鸞聖人、蓮如上人が獲信のために善を勧められたり、19願を勧められた根拠は1箇所もないと指摘され続け、それを誤魔化すために下らない内部向けの反論をするのみです。
因果の道理を殊更強調していますが、「では因果の道理と獲信との関係について説明をしてください」、と質問したらどう答えるでしょうか。「仏教の根幹は因果の道理ということだ」としか答えられないでしょう。私も20数年間、これ以外の答えを聞いたことがありませんが、全く答えになっていません。

往生と無関係であるという大前提で、善を勧めたり、因果の道理を強調するのなら両手を上げて賛同します。しかし、それではお金が集まらないし、人も増えませんので、どれだけ非難されようが、獲信と諸善とは関係があるかのように偽装しなければならないのです。

一方、往生の正因である念仏について、親鸞会ではほとんど無視しています。確かに親鸞聖人は自力念仏を誡められていますが、それは念仏を称えてさえいれば、助かるに違いないと、自力念仏に留まってしまう同行が余りにも多かったからであります。
それで七高僧方が勧められた念仏を、敢て自力念仏と他力念仏とに峻別なされたのです。ですから親鸞聖人は、諸善を勧められていませんが、念仏は勧められています。

『親鸞聖人御消息集』に

詮じ候ふところは、御身にかぎらず念仏申さんひとびとは、わが御身の料はおぼしめさずとも、朝家の御ため国民のために念仏を申しあはせたまひ候はば、めでたう候ふべし。往生を不定におぼしめさんひとは、まづわが身の往生をおぼしめして、御念仏候ふべし。わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候ふ。

とあります。最後の部分は、本願寺でよく使われているところですので聞かれたことのある方も多いかも知れません。
信前の人にとって重要なのが、以下の一文です。

往生を不定におぼしめさんひとは、まづわが身の往生をおぼしめして、御念仏候ふべし。

未だ信心が定まっていない人は、我が身の往生のことを思って、念仏を称えなさい、と仰っています。信後の人は「御報恩のために御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」と思って念仏を称えればいいのです。信前信後を問わず、念仏を勧めておられるのです。
ここを拝読しますと、法然上人の『一枚起請文』を思い出します。

もろこし・わが朝に、もろもろの智者達の沙汰しまうさるる観念の念にもあらず。また、学文をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず。ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して、疑なく往生するぞと思ひとりて申すほかには別の子細候はず。ただし三心・四修と申すことの候ふは、みな決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ふうちに籠り候ふなり。

このほかにおくふかきことを存ぜば、二尊のあはれみにはづれ、本願にもれ候ふべし。念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらにおなじくして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし。

親鸞聖人も、法然上人が仰った通り、往生のためには、諸善を廃して念仏一行を立てよと教え勧められたことは、『歎異鈔』を読んでも判ります。念仏ばかりが強調されています。ただし、念仏さえ称えていたらいいと思ってしまうことを懸念されて、何度も何度も自力念仏を誡められているのです。以前に紹介しました『末灯鈔』のお言葉を再度読んで下さい。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき。このやうをよくよく御こころえ候うて御念仏候ふべし。

親鸞会は親鸞聖人と全く反対のことを教えています。諸善を立てて念仏を軽視しています。親鸞会はひいき目に見ても、聖道仏教としかいえません。

騙され続けて訳が判らなくなっている会員のために、まとめておきます。

往生と無関係であると思って、善を大いにしましょう。
疑いなく往生するぞと思って、念仏を大いに称えましょう。

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2010年3月 5日 (金)

聖道仏教は捨てるけれども、19願は拾うの?

前回、真仮廃立と従仮入真について書きました。親鸞聖人の教えを信じて、18願で救われたいと願っている人にとっては、19願と20願は廃すべきものになります。不要なものをなぜ説かれたのか、という疑問も当然出てくるでしょうが、何度も書きましたように、18願での救いを願わない人がいるから、権仮方便として説かれたのです。

親鸞会では、方便である19願の実践をやかましくいいますが、同じ方便である聖道仏教については、やる必要がないと教えます。矛盾ではないですか?
20願の実践を勧めない理由は、まだそこまで至っていないから、という理屈でしょう。

しかし、親鸞会の方便理論を当て填めれば、聖道仏教は必要だから説かれたので、聖道仏教から始めなければならない、となるのが筋でしょう。

比叡山に籠もられても、また19願を飛ばして20願の自力念仏を実践されても、親鸞会の金集め、人集めができません。結局は、親鸞会にとって都合がよいのが、19願なのです。だから、19願の実践なのです。

参考の為、方便の聖道仏教、特に『法華経』について言及された部分を列記しておきます。

「所謂真言止観之行」といふは、「真言」は密教なり、「止観」は法華なり。「ミ猴情難学」といふは、この世の人のこころをさるのこころにたとへたるなり、さるのこころのごとく定まらずとなり。このゆゑに真言・法華の行は修しがたく行じがたしとなり。
(『尊号真像銘文』)

「非権非実」(唯信鈔)といふは、法華宗のをしへなり。浄土真宗のこころにあらず、聖道家のこころなり。かの宗のひとにたづぬべし。
(『唯信鈔文意』)

いまの三経をもつて末世造悪の凡機に説ききかせ、聖道の諸教をもつてはその序分とすること、光明寺の処々の御釈に歴然たり。ここをもつて諸仏出世の本意とし、衆生得脱の本源とする条、あきらかなり。いかにいはんや諸宗出世の本懐とゆるす『法華』において、いまの浄土教は同味の教なり。『法華』の説時八箇年中に、王宮に五逆発現のあひだ、このときにあたりて霊鷲山の会座を没して王宮に降臨して、他力を説かれしゆゑなり。これらみな海徳以来乃至釈迦一代の出世の元意、弥陀の一教をもつて本とせらるる大都なり。
(『口伝鈔』)

むかし釈尊、霊鷲山にましまして、一乗法華の妙典を説かれしとき、提婆・阿闍世の逆害をおこし、釈迦、韋提をして安養をねがはしめたまひしによりて、かたじけなくも霊山法華の会座を没して王宮に降臨して、韋提希夫人のために浄土の教をひろめましまししによりて、弥陀の本願このときにあたりてさかんなり。
このゆゑに法華と念仏と同時の教といへることは、このいはれなり。これすなはち末代の五逆・女人に安養の往生をねがはしめんがための方便に、釈迦、韋提・調達(提婆達多)・闍世の五逆をつくりて、かかる機なれども、不思議の本願に帰すれば、かならず安養の往生をとぐるものなりとしらせたまへりとしるべし。
(『御文章』4帖目第3通)

方便聖道仏教はその結論として、

まことに知んぬ、聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。
(『教行信証』化土巻)

なのです。末法の我々は、浄土真宗である18願だけを願うべきなのです。

19願についても、聖道仏教に対してのお言葉と同様のことを善知識方は仰っています。それは、「親鸞会教義の誤り」を読まれればよく判ります。

聖道仏教は捨てるけれども、19願は拾うという矛盾点に気が付かないのも思考停止が理由なのでしょう。

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2010年3月 3日 (水)

真仮廃立と従仮入真

昨日、『末灯鈔』の御文を紹介しました。『末灯鈔』とは、親鸞聖人が関東の同行に宛てたお手紙を集めたものです。『教行信証』は、明恵ら聖道門の学僧達からの非難に対する論文ですので、内容が非常に難しい上に、聖道門向けに書かれています。
一方、『末灯鈔』は、『教行信証』とは違って同行向けに書かれていますので、一般の人にも浄土真宗の教えが判るように書かれています。

親鸞聖人の教えを学問として学ばれるのであれば、『教行信証』を読まなければなりませんが、信心決定を目的として学ばれるのであれば、『末灯鈔』を読まれることをお勧めします。

『末灯鈔』の中で、18願、19願、20願について書かれたものがありますので、少し長いのですが、紹介しておきます。

 笠間の念仏者の疑ひとはれたる事

 それ浄土真宗のこころは、往生の根機に他力あり、自力あり。このことすでに天竺(印度)の論家、浄土の祖師の仰せられたることなり。

 まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。

 しかれば、わが身のわるければ、いかでか如来迎へたまはんとおもふべからず、凡夫はもとより煩悩具足したるゆゑに、わるきものとおもふべし。またわがこころよければ往生すべしとおもふべからず、自力の御はからひにては真実の報土へ生るべからざるなり。

 「行者のおのおのの自力の信にては、懈慢・辺地の往生、胎生・疑城の浄土までぞ往生せらるることにてあるべき」とぞ、うけたまはりたりし。第十八の本願成就のゆゑに阿弥陀如来とならせたまひて、不可思議の利益きはまりましまさぬ御かたちを、天親菩薩は尽十方無碍光如来とあらはしたまへり。このゆゑに、よきあしき人をきらはず、煩悩のこころをえらばず、へだてずして、往生はかならずするなりとしるべしとなり。しかれば恵心院の和尚(源信)は、『往生要集』(下)には、本願の念仏を信楽するありさまをあらはせるには、「行住座臥を簡ばず、時処諸縁をきらはず」(意)と仰せられたり。「真実の信心をえたる人は摂取のひかりにをさめとられまゐらせたり」(同・意)と、たしかにあらはせり。しかれば、「無明煩悩を具して安養浄土に往生すれば、かならずすなはち無上仏果にいたる」と、釈迦如来説きたまへり。

 しかるに、「五濁悪世のわれら、釈迦一仏のみことを信受せんことありがたかるべしとて、十方恒沙の諸仏、証人とならせたまふ」(散善義・意)と、善導和尚は釈したまへり。「釈迦・弥陀・十方の諸仏、みなおなじ御こころにて、本願念仏の衆生には、影の形に添へるがごとくしてはなれたまはず」(同・意)とあかせり。

 しかれば、この信心の人を釈迦如来は、「わが親しき友なり」(大経・下意)とよろこびまします。この信心の人を真の仏弟子といへり。この人を正念に住する人とす。この人は、〔阿弥陀仏〕摂取して捨てたまはざれば、金剛心をえたる人と申すなり。この人を「上上人とも、好人とも、妙好人とも、最勝人とも、希有人とも申す」(散善義・意)なり。この人は正定聚の位に定まれるなりとしるべし。しかれば弥勒仏とひとしき人とのたまへり。これは真実信心をえたるゆゑにかならず真実の報土に往生するなりとしるべし。

 この信心をうることは、釈迦・弥陀・十方諸仏の御方便よりたまはりたるとしるべし。しかれば、「諸仏の御をしへをそしることなし、余の善根を行ずる人をそしることなし。この念仏する人をにくみそしる人をも、にくみそしることあるべからず。あはれみをなし、かなしむこころをもつべし」とこそ、聖人(法然)は仰せごとありしか。あなかしこ、あなかしこ。

 仏恩のふかきことは、懈慢・辺地に往生し、疑城・胎宮に往生するだにも、弥陀の御ちかひのなかに、第十九・第二十の願の御あはれみにてこそ、不可思議のたのしみにあふことにて候へ。仏恩のふかきこと、そのきはもなし。いかにいはんや、真実の報土へ往生して大涅槃のさとりをひらかんこと、仏恩よくよく御案ども候ふべし。これさらに性信坊・親鸞がはからひまうすにはあらず候ふ。ゆめゆめ。

   建長七歳乙卯十月三日

                   愚禿親鸞八十三歳これを書く。

親鸞聖人が晩年に書かれたものです。
他力の18願と、自力の19願・20願を比較されながら、他力の18願について説明なされています。

「親鸞会教義の誤り」親鸞会は諸行往生13

にもありましたが、18願、19願、20願の三願について親鸞聖人は『教行信証』では真仮廃立従仮入真の両面で説明をなされています。それは最初に述べたように、『教行信証』は聖道門の人向けですので、聖道仏教が説かれた理由を、聖道門から19願、20願、そして最後18願へと導かれるという従仮入真で説明なされる必要があったのだと思われます。

しかし、親鸞聖人の教えを聞いてきた同行向けの『末灯鈔』では、真仮廃立で説明なされています。法然上人のお言葉を出されて

「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。

「行者のおのおのの自力の信にては、懈慢・辺地の往生、胎生・疑城の浄土までぞ往生せらるることにてあるべき」とぞ、うけたまはりたりし。

と、自力と他力の解説をされて、自力では化土にしか往けないのだと誡められています。

そして最後の

 仏恩のふかきことは、懈慢・辺地に往生し、疑城・胎宮に往生するだにも、弥陀の御ちかひのなかに、第十九・第二十の願の御あはれみにてこそ、不可思議のたのしみにあふことにて候へ。仏恩のふかきこと、そのきはもなし。いかにいはんや、真実の報土へ往生して大涅槃のさとりをひらかんこと、仏恩よくよく御案ども候ふべし。

では、阿弥陀仏の御恩の深いことは、19願・20願でさえも化土往生で不可思議の楽しみを頂けるのに、ましていわんや報土往生して仏のさとりを開かせて頂ける御恩をよくよく考えなさい、と教えて下さっています。

他力の18願と、自力の19願・20願とを、はっきり区別されていて、相互に関係付けられてもいません。親鸞聖人の教えを聞いている私たちにとりましても、18願と、19願・20願を関係付けて考える必要は全くないと思います。

高森会長のいう従仮入真とは、親鸞聖人の教えを聞いている人にまで適用して、無理やり三願転入を求道とセットで会員に押しつけるものです。信心決定への近道どころか、遠回りをさせているのです。

親鸞会の会員はもちろんですが、退会者でも三願転入に拘る傾向があります。高森会長の巧妙なトリックからは簡単に逃れられないようです。しかし、親鸞聖人が同行に対して三願転入を説かれていませんので、三願を『末灯鈔』のように素直に真仮廃立で理解しないと、平生業成は難しいでしょう。

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2010年3月 2日 (火)

文沙汰して、さかさかしきひとのまゐりたるをば、「往生はいかがあらんずらん」

『末灯鈔』の中にこんなお言葉があります。

故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、たしかにうけたまはり候ひしうへに、ものもおぼえぬあさましきひとびとのまゐりたるを御覧じては、「往生必定すべし」とて、笑ませたまひしをみまゐらせ候ひき。文沙汰して、さかさかしきひとのまゐりたるをば、「往生はいかがあらんずらん」と、たしかにうけたまはりき。いまにいたるまでおもひあはせられ候ふなり。ひとびとにすかされさせたまはで、御信心たぢろかせたまはずして、おのおの御往生候ふべきなり。ただし、ひとにすかされさせたまひ候はずとも、信心の定まらぬ人は正定聚に住したま はずして、うかれたまひたる人なり。

浄土真宗では有名なお言葉ですが、親鸞会では聞いたことがない人も多いでしょう。
法然上人は、

ものもおぼえぬあさましきひとびとのまゐりたるを御覧じては、「往生必定すべし」

と、法然上人の話を聞きにきている中で、いわゆる無知な人は間違いなく往生するであろうと仰ったのに対して、

文沙汰して、さかさかしきひとのまゐりたるをば、「往生はいかがあらんずらん」

と、いかにも賢そうな振る舞いをしている人は、往生はどうであろうかと法然上人が疑問に思われたと親鸞聖人は書いておられます。
もちろん、無学になれといわれているのではありません。学者ぶっている人は、お聖教に書かれてある字面だけでなく真意まで判っている、と他人を見下しているので、教えが素直に受けとれないのです。

他宗で”文底秘沈”といっているところがありますが、親鸞会はそこを徹底的に馬鹿にしています。ところが、親鸞会の主張は”文底秘沈”そのものです。
親鸞聖人、蓮如上人はそのように書かれてあるかもしれないが、その真意は高森会長しか判らないのだから、お前らも高森会長に従えばいいのだ、という論法です。
高森理論の上で、議論をすれば、親鸞会は正しいでしょう。しかし、親鸞聖人、蓮如上人の理論の上で議論をすれば、親鸞会の主張は支離滅裂になります。

これまでの親鸞会の法論はすべて、高森理論を押しつけていますから、最初から法論にならないのです。

高森会長はもともと親鸞聖人の御著書を読んでいませんから、親鸞聖人のお言葉で法論などできないのです。それでいて自分は無二の善知識と周りに言わせて、高森会長の言葉が、親鸞聖人の真意であるとしている、「文沙汰して、さかさかしき」親鸞会会員は、「往生はいかがあらんずらん」です。

高森会長のデタラメな教えではなく、親鸞聖人のお言葉をそのまま受けとる姿勢が無ければ、親鸞聖人の教えが判る訳がありません。

親鸞会の会員は、『末灯鈔』のこのお言葉を素直に理解して、「愚者になりて往生す」身になって欲しいものです。

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2010年3月 1日 (月)

他力の三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなり

前回エントリーのコメント欄で、19願意について意見が交わされています。
この参考になるのが、「安心問答」報土に生まれさせるが本願ですに書かれてありますので補足したいと思います。

「安心問答」で問題となったのが、『唯信鈔文意』の

「具三心者必生彼国」(観経)といふは、三心を具すればかならずかの国に生るとなり。しかれば善導は、「具此三心 必得往生也 若少一心 即不得生」(礼讃)とのたまへり。「具此三心」といふは、三つの心を具すべしとなり。「必得往生」といふは、「必」はかならずといふ、「得」はうるといふ、うるといふは往生をうるとなり。

「若少一心」といふは、「若」はもしといふ、ごとしといふ、「少」はかくるといふ、すくなしといふ。一心かけぬれば生れずといふなり。一心かくるといふは信心のかくるなり、信心かくといふは、本願真実の三信心のかくるなり。『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信心をうるを一心をうるとは申すなり。このゆゑに『大経』の三信心をえざるをば一心かくると申すなり。この一心かけぬれば真の報土に生れずといふなり。『観経』の三心は定散二機の心なり、定散二善を回して、『大経』の三信をえんとねがふ方便の深心と至誠心としるべし。真実の三信心をえざれば、「即不得生」といふなり。「即」はすなはちといふ、「不得生」といふは、生るることをえずといふなり。三信かけぬるゆゑにすなはち報土に生れずとなり。雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。もし胎生辺地に生れても五百歳をへ、あるいは億千万衆のなかに、ときにまれに一人、真の報土にはすすむとみえたり。三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなり。

です。ここで親鸞聖人が仰っていることは、『観無量寿経』の三心についてです。予備知識がないと分かりにくいのですが、『観無量寿経』の顕説が19願意であり、隠彰が18願意です。それを『教行信証』化土巻に

問ふ。『大本』(大経)の三心と『観経』の三心と一異いかんぞや。
答ふ。釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。
すなはちこれ顕の義なり。彰といふは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。達多(提婆達多)・闍世(阿闍世)の悪逆によりて、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなはちこの経の隠彰の義なり。

と親鸞聖人は書いておられます。つまり、『観無量寿経』には、方便の自力信心と真実の他力信心とが一緒に説かれているということです。

これを踏まえて『唯信鈔文意』をよく読まれればお判り頂けると思いますが、19願の方便自力信心では化土往生になり、化土往生後に報土往生するというが、それは極めて稀なことであるから、他力信心をえることをよくよく心得て願いなさい、と仰っているのです。最初から最後まで他力信心を目指すのです。

親鸞会の三願転入論についても、

『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信心をうるを一心をうるとは申すなり。

と表現なされていますが、その結論が

三信かけぬるゆゑにすなはち報土に生れずとなり。雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。

と親鸞聖人は化土往生、つまり19願の自力修善を厳しく誡めておられます。

どこを読んでも19願を実践してから20願、18願へ進みなさいとは仰っていません。

新たな宗派を立てられるのであれば、浄土真宗の看板を下ろさなければなりませんし、親鸞聖人のお名前を教団名に入れては、詐欺と言われても仕方がないでしょう。

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