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2010年2月 9日 (火)

宿善も遅速あり

『御一代記聞書』の「宿善も遅速あり」を「宿善も厚薄あり」と読み替えて、高森会長からいやというほど聞かされてきました。宿善に厚い人と薄い人があるから、宿善の薄い人は厚くなるようにしなければならない、この解釈には納得していました。

しかし、高森会長の邪義が自分の中で明らかになっていく中で、この解釈もおかしいのではないかと思い始めました。その答えが「親鸞会教義の誤り」宿善とは3に書かれてあります。

『御一代記聞書』のこの部分は、金を掘り出すような聖教と蓮如上人が仰った『安心決定鈔』を言葉を変えられて、已・今・当の往生について説明されたものです。詳しくは「親鸞会教義の誤り」を読まれることをお勧めします。この「宿善」に自力的な意味もありませんし、もちろん善をして「宿善」を厚くせよ、という意味も全くないことが明快に解説されています。

高森会長の創作教義には、驚きを通り越して、ただただ呆れるだけです。

なお、この『安心決定鈔』は、大変素晴らしい内容が書かれてあります。今、某ブログで話題の解答も示されています。それほど難しい文章ではありませんので、原文を読まれれば、阿弥陀仏の救いについての理解が深まると思います。
もちろん、高森会長の嘘もはっきりします。

関連箇所だけ紹介しますので、是非読んで下さい。

浄土真宗の行者は、まづ本願のおこりを存知すべきなり。弘誓は四十八なれども、第十八の願を本意とす。余の四十七はこの願を信ぜしめんがためなり。

この願を『礼讃』に釈したまふに、「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」といへり。この文のこころは、「十方衆生、願行成就して往生せば、われも仏に成らん、衆生往生せずは、われ正覚を取らじ」となり。かるがゆゑに、仏の正覚はわれらが往生するとせざるとによるべきなり。しかるに十方衆生いまだ往生せざるさきに、正覚を成ずることは、こころえがたきことなり。しかれども、仏は衆生にかはりて願と行とを円満して、われらが往生をすでにしたためたまふなり。十方衆生の願行円満して、往生成就せしとき、機法一体の南無阿弥陀仏の正覚を成じたまひしなり。

かるがゆゑに仏の正覚のほかは凡夫の往生はなきなり。十方衆生の往生の成就せしとき、仏も正覚を成るゆゑに、仏の正覚成りしとわれらが往生の成就せしとは同時なり。仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。機によりて三世は不同なれども、弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり。

たとへば日出づれば刹那に十方の闇ことごとく晴れ、月出づれば法界の水同時に影をうつすがごとし。月は出でて影を水にやどす、日は出でて闇の晴れぬことあるべからず。かるがゆゑに、日は出でたるか出でざるかをおもふべし、闇は晴れざるか晴れたるかを疑ふべからず。仏は正覚成りたまへるかいまだ成りたまはざるかを分別すべし、凡夫の往生を得べきか得べからざるかを疑ふべからず。「衆生往生せずは仏に成らじ」(大経・上意)と誓ひたまひし法蔵比丘の、十劫にすでに成仏したまへり。

仏体よりはすでに成じたまひたりける往生を、つたなく今日までしらずしてむなしく流転しけるなり。かるがゆゑに『般舟讃』には、「おほきにすべからく慚愧すべし。釈迦如来はまことにこれ慈悲の父母なり」といへり。「慚愧」の二字をば、天にはぢ人にはづとも釈し、自にはぢ他にはづとも釈せり。なにごとをおほきにはづべしといふぞといふに、弥陀は兆載永劫のあひだ無善の凡夫にかはりて願行をはげまし、釈尊は五百塵点劫のむかしより八千遍まで世に出でて、かかる不思議の誓願をわれらにしらせんとしたまふを、いままできかざることをはづべし。

機より成ずる大小乗の行ならば、法は妙なれども、機がおよばねばちからなしといふこともありぬべし。いまの他力の願行は、行は仏体にはげみて功を無善のわれらにゆづりて、謗法闡提の機、法滅百歳の機まで成ぜずといふことなき功徳なり。このことわりを慇懃に告げたまふことを信ぜず、しらざることをおほきにはづべしといふなり。「三千大千世界に、芥子ばかりも釈尊の身命をすてたまはぬところはなし」(法華経)。みなこれ他力を信ぜざるわれらに信心をおこさしめんと、かはりて難行苦行して縁をむすび、功をかさねたまひしなり。この広大の御こころざしをしらざることを、おほきにはぢはづべしといふなり。

このこころをあらはさんとて、「種々の方便をもつて、われらが無上の信心を発起す」(般舟讃)と釈せり。無上の信心といふは、他力の三信なり。つぎに「種々の方便を説く教文ひとつにあらず」(般舟讃)といふは、諸経随機の得益なり。凡夫は左右なく他力の信心を獲得することかたし。しかるに自力の成じがたきことをきくとき、他力の易行も信ぜられ、聖道の難行をきくに浄土の修しやすきことも信ぜらるるなり。おほよそ仏の方よりなにのわづらひもなく成就したまへる往生を、われら煩悩にくるはされて、ひさしく流転して不思議の仏智を信受せず。かるがゆゑに三世の衆生の帰命の念も正覚の一念にかへり、十方の有情の称念の心も正覚の一念にかへる。さらに機において一称一念もとどまることなし。

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