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2010年2月 1日 (月)

流刑の真因

承元の法難は、なぜ起きたのか。一向専念無量寿仏を強調されて、他の諸仏、諸神の不拝を叫ばれたから、と親鸞会では教えられてきました。しかし、私には少し引っ掛かるところがありました。他宗や神道でも、自分の本尊や神体が一番で、他を排斥するのは普通の事と思ったからです。

ところが昨年、

「用管窺天記」自業自得の救済論
「親鸞会教義の誤り」親鸞会は諸行往生10

を読んだ時は、驚きました。

善の否定がその原因であったのかと初めて知りました。確かに成仏を目指すものにとって、往生のための善の否定は、許しがたいことであったのでしょう。その立場にいれば、尤もなことです。

悪人正機との整合性も取れますし、聖道門の怒りも、現在の本願寺の主張も筋が通る。法然上人、親鸞聖人は善を否定されたのだと考えれば、すべて辻褄があいます。頭の中で絡まっていた糸が解けたような気がしました。

承元の法難の後でも、法然上人の善の否定は長く尾を引いていました。明恵は、法然上人の人柄に惹かれながらも、『選択本願念仏集』を読んで激怒したといわれています。

明恵の名は、高森会長が説法の中で話を出すこともあったほど有名な学僧です。明恵の著である『摧邪輪』の内容の一部が「親鸞会教義の誤り」で紹介されていました。

解して曰く、発菩提心は、是れ仏道の正因、是れ体声なり。専念弥陀は、是れ往生の別行、是れ業声なり。汝が体を捨てて業を取るは、火を離れて煙を求むるがごとし。咲ふべし、咲ふべし。まさに知るべし。これらの解釈の文は、皆菩提心においては、置いてこれを論ぜず、ただ所起の諸行についてこれを判ず。しかるに本願の中にさらに菩提心等の余行なしと言うは、何が故ぞ。第十九の願に云く、「発菩提心、修諸功徳」等と云々。是れ本願にあらずや。

明恵は菩提心にこだわりました。成仏を目指す者にとって当然なことです。法然上人の教えられたことが菩提心の否定としか思えなかったからです。浄土門でも、19願に「発菩提心、修諸功徳」とあるから、菩提心と善が必ず必要であると大層な剣幕で、法然上人を攻撃したのです。ただ、その時には法然上人はすでにお亡くなりになった後のことでした。

明恵の『摧邪輪』は、法然上人のお弟子でも正面から反論できないほどの内容でしたが、ただお一人、親鸞聖人だけが反論なされたのです。その反論書が『教行信証』です。

『教行信証』を読まれれば判りますが、膨大な引文があります。読み替え等もありますし、単なる知識だけでなく、超人的な思考の成せる業だと思います。これだけの書物は数百年に1人の天才でないと著せないとまで絶賛する人もあるくらいです。

親鸞聖人は明恵の『摧邪輪』をあらゆる角度から、徹底的に反論を展開なされたのです。もちろん、法然上人の教えの正しさを証明するためです。

ですから、『教行信証』を読まれれば判りますが、法然上人と同じく善の否定を延々と述べておられるのです。

歴史的背景、法然上人の教え、そして『摧邪輪』への反論、そして『教行信証』、どれを調べても、親鸞聖人の教えに獲信のための善のすすめはあり得ないのです。

それを、親鸞聖人の教えに善のすすめがあると言い続けてきた高森会長は、聖道門の回し者でしょうか。もちろんこれだけ教えに疎い高森会長は『教行信証』を読んだことはないでしょうから、無知も加わってのお山の大将なのでしょう。

無二の善知識と崇めてきた自分が恥ずかしいです。

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コメント

以下は、全く僕の私見ですが…
法然聖人や親鸞聖人に往生(獲信)のための諸善の勧めがない、のはその通りだと思いますが、「善を排斥された」という表現には私は賛成ではありません。少なくとも両聖人ともに俗諦行儀における止悪を勧められております。
親鸞聖人のお言葉にしろ、法然聖人の「十悪の法然房、愚痴の法然房」というお言葉にしろ、
まことの善が出来ない自分=聖道門では救われない自分
という悲しみと懺悔があり、だからこそ、善人悪人平等にそのまま救うぞと誓われた阿弥陀仏の本願一つをたのめ、それだけが我々凡夫の救われる道であるぞと全ての人に勧められたわけであると思います。
聖道仏教に価値がないのではなく、まことの善も出来なければ菩提心もおこせない我々だからこそ、
そんな我々を救う本願が有り難いのだと私は味わっております。

投稿: Rudel | 2010年2月 1日 (月) 22時39分

ついでにですが、聖光房弁長上人は『徹選択』で『摧邪輪』を批判していますよ。

投稿: Rudel | 2010年2月 1日 (月) 22時44分

本当に言葉というものは難しいですね。簡潔に書くと誤解されやすいし、全てを書くと長ったらしいし。

「往生の為の善を排斥された」という意味で管理人さんが書いたのだと思いますが、これならその通りです。「諸行は廃せんがために説く」ですから。


ないとは思いますが、「日常生活の面においても、あらゆる善を排斥された」という意味ならば間違いです。そんな事をしたら生活できませんからね。

投稿: 淳心房 | 2010年2月 2日 (火) 00時38分

Rudel 様
淳心房 様

これまでの流れ等から、善の否定とは、もちろん往生のための善の否定ということで理解して頂けると思いまして、省略していました。少し修正しておきます。

なお『徹選択集』は、諸行往生の理解を示したという点で、『摧邪輪』への批判書ではあっても反論書というのは如何なものかと思います。具体的には、三福諸行を報土の業因とし19願を肯定して、18願と同列というような主張をしています。諸行本願義に近いと評されており、諸行を捨てて念仏一行の専修を仰った法然上人の教えを修正されたと看做され、『徹選択集』を『摧邪輪』の反論書と呼ぶにはふさわしくないと考えております。

投稿: 飛雲 | 2010年2月 2日 (火) 07時00分

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