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2010年2月27日 (土)

カルト思考の愚かさ

カルト思考は、他人のことばかりに目が向いて、自分のことが判らないのが特徴です。

M野支部長を擁護する例の1会員さんは、19願を勧められた親鸞聖人のお言葉として提示した御和讃は、全くの見当違いであったということで答えに窮し、完璧な敗北となりました。
プライドの高い1会員さんは、それを誤魔化すために、相変わらず下らないコメントを書いています。

前回、

蓮如上人のお手紙は、これにより、1人でも多くの人達に親鸞聖人の御教えをお伝えする手段として使われたのであるから、当然、不特定多数の人が読まれることを前提として書かれたはず

とコメントしたのだが、ここは非常に都合が悪いのか、これに関しては一切、触れていないね。そして私をM野支部長と決めつけカルト思考扱いにする。歪曲が実に上手いねえ。

さて、このコメントが非常に都合悪いのは、これを書いた自分の方だ、と気が付かないのでしょうね。実にお目出たいことです。

解説するのもアホらしいことですが、前回の『御文章』

これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もってのほか相違す。そのゆえは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といい、これを信心のひとといえり。これおおきなるあやまりなり。また弟子は、坊主にものをだにもおおくまいらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきようにおもえり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあいだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに、極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことはうたがいなし。(一帖目第十一通)

それ越前の国にひろまるところの秘事法門といえることは、さらに仏法にてはなし。あさましき外道の法なりこれを信ずるものは、ながく無間地獄にしずむべき業にて、いたずらごとなり。(二帖目第十四通)

されば、死出の山路のすえ、三途の大河をば、ただひとりこそゆきなんずれ。(一帖目第十一通)

はやめにみえてあだなる人間界の老少不定のさかいとしりながら、ただいま三途八難にしずまん事をば、つゆちりほども心にかけずして、(二帖目第一通)

されば、五道六道といえる悪趣に、すでにおもむくべきみちを、弥陀如来の願力の不思議として、これをふさぎたまうなり。(二帖目第四通)

1会員さんによれば、二帖目第二通だけは不特定多数の人が読むことを前提に書かれてあるが、「一切衆生必堕無間」を否定するこれらのお手紙は不特定多数の人が読むことを前提に書かれていないということだそうです。
もっといえば、「一切衆生必堕無間」を否定された多くの経典、七高僧方と親鸞聖人の膨大な御著書も、不特定多数の人が読むことを前提として書かれていないということですね。

蓮如上人の御著書である『正信偈大意』にも、化土のことが書かれてありますが、これも不特定多数の人が読むことを禁じられたのでしょうね。

しかし、「一切衆生必堕無間」を否定した読んでもらっては困る膨大な秘密の法文が、なぜか善知識方の生前に公開されてしまった。
以前の高森会長の言葉を使って1会員さんの気持ちを表現すれば、秘密の法文を公開した善知識方は

あなた、頭がおかしくなったのではないですか?

ということになるのでしょう。

知恵の足りない人には、理屈は通りませんが、次の質問をされたらどうしますか?

「浄土真宗親鸞会」と名乗るからには、親鸞聖人が「一切衆生必堕無間」という意味で仰ったお言葉をいくつか知っている筈ですので、それを提示して下さい。

同じ石で二度つまずく者は馬鹿者である

親鸞会でよく聞いた言葉ですが、これは、誡疑讃での失敗と同じことをまた繰り返すことが判らない人物のことですよ。

過去の2chでのカキコを見れば、回答できないことは判っています。従ってまた、論点ずらしの下らないコメントを書くのでしょうから、質問に対する回答以外は荒らしとして報告し、削除します。

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コメント

「一切衆生必堕無間」と「後生堕地獄の一大事」と「三願転入」における
親鸞会理論についての疑問ですが、1会員さん他、現役会員の方はどう考えているのだろうか?

1)「一切衆生必堕無間」だと、
天上->無間->無間->無間
人間->無間->無間->無間
修羅->無間->無間->無間
畜生->無間->無間->無間
餓鬼->無間->無間->無間
地獄->無間->無間->無間

「六道輪廻」というより「無間輪廻」にならないか?
「無間」以外にはどうやって輪廻するのでしょうか?

また、以下のような内容の話を親鸞会出版物で読んだ覚えがありますが、
「一切衆生必堕無間」と矛盾しているので思考が錯乱しそうです。

・僧侶が鼠に生まれ変わった話
・部長の妻の中絶?した胎児が部長の弟の生まれ変わりの話
・餓鬼界に堕ちた後に、馬鹿だ馬鹿だと悔む話


2)人生の目的を「後生堕地獄の一大事の解決」だとすれば
人間に生まれている今は解決済み?

仏教の目的は往生成仏だから、仏教を聞く目的は往生成仏ではないでしょうか?


3)三願転入と三通り(19願20願18願)の念仏について
念仏の勧めだけで三願転入することは可能でしょうか?

投稿: ZhengQing | 2010年2月27日 (土) 23時09分

話が変わってしまってすみませんが、何日か前の「19願の自力の善を勧めた文証」について質問します。

諸善万行ことごとく  至心発願せるゆえに
往生浄土の方便の  善とならぬはなかりけり(浄土和讃)

は根拠にならないのでしょうか?

“どんな小さな善でも 阿弥陀仏に向かって行う善であるから  往生浄土の方便の善と ならないものは一つもないのだよ”

と教えられたお言葉と、親鸞会で聞いたことがあります。

投稿: 遺弟 | 2010年2月28日 (日) 00時12分

19願、20願の行信の結果が化土往生であることが分かれば、化土を戒められた親鸞聖人が私達に19願、20願の行信を勧めるわけがないことが分かるんですが…

教行信証を通して、19願の善を勧められた箇所は見当たりません。

化土巻には1ヶ所、20願を勧められていますが、19願に止まっている人を導くためです。しかし後に20願の行者の欠点を挙げておられますから、やはり方便の真門であり、お勧めは18願1つです。


聞法善だとか、破邪顕正は最高の善だとか、布施は素晴らしい善行だとか、何でもかんでも「善」とつけて、「善をしなければ信仰は進みません」という珍説を親鸞会は主張しますが、大いなる誤りですね。

「念仏は行者のために非行非善なり」(歎異鈔)
と、『歎異鈔をひらく』にも聖人のお言葉を載せているでしょう。
万善万行の総体である名号ですが、念仏することは、行者の側から言えば善でも行でもありません。
廃悪修善の行として教えられていないのです。

念仏でさえ私の行として修するのではないのですから、生死を超えることのできない有漏善を、勿論親鸞聖人は私の往生の行として修せよと勧められていません。

親鸞会ドグマから離れて、早くこの会員の方も本願を信じ念仏する身となって頂きたいと思います。

投稿: 淳心房 | 2010年2月28日 (日) 00時29分

>遺弟様

横から失礼します。
お尋ねの御和讃についてですが、

・19願の行信の結果が化土往生であること
・19願は権仮方便の法門であること

がお分かりになれば、化土を誡め報土を勧められた親鸞聖人が、19願の善を勧められた文証ではないことがお分かり頂けると思います。


なお私のブログ内容で恐縮ですが、参考までに以下をお読み下さい。

大経讃(5)
http://shingikensho.blog12.fc2.com/?mode=m&no=47
大経讃(6)
http://shingikensho.blog12.fc2.com/?m&no=50

更に上のURLから、親鸞会教義の誤り、21世紀の浄土真宗を考える会に飛んで、それらのブログをよくお読み下さいませ。

投稿: 淳心房 | 2010年2月28日 (日) 00時52分

淳心房 様

コメント有難うございました。今回の和讃の“往生浄土”の浄土とは、真実報土(18願)のことだと思っていました。
これは19願の化土往生のことを言われたお言葉で、化土往生を願う人には善を勧められているけど、親鸞聖人は
化土を戒められたから、親鸞聖人が善を勧めた根拠にならない、ということでしょうか?

投稿: 遺弟 | 2010年2月28日 (日) 01時04分

遺弟 様

>これは19願の化土往生のことを言われたお言葉で、化土往生を願う人には善を勧められているけど、親鸞聖人は
化土を戒められたから、親鸞聖人が善を勧めた根拠にならない、ということでしょうか?

わかりやすくいえば、そういうことです。
このブログでも何度も書かれていますように、諸善では化土しか往けないから、報土に往ける他力念仏1つを勧められたということです。

目指している地点が最初から違いますので、そこに至る道も違ってきます。報土に往くには報土への道でなければいけないでしょう。化土の道を歩ませて、どうして報土へ往けるのですか。

報土を願っている人に諸善を勧めることがおかしいと思わせないのが、三願転入という騙しのテクニックです。

親鸞聖人は間違った道を進んできて、その間違いを法然上人から教えられて、方便諸善の間違った道を捨てられたのです。御自信の経験から皆さんも方便諸善を捨てよと言われているのであって、方便諸善の道を歩みなさいではないのです。

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2010年2月28日 (日) 04時47分

>遺弟様

幹部会員歴数十年さんが既にお答え下さったようですね(;^_^A


なお親鸞会では、「我々は自惚れているから、実践してみなければ善ができるかどうかわからない」として、遠くは韋提希が定善を実行しているようにアニメで描かれています。それを根拠に私達に善をせよと教えているのですが、これも各所に指摘されている通り間違いです。

観無量寿経をお読み頂けると一番ですが、韋提希は定善をやっていないし、やろうともしていません。
それに阿難に付属されたのは、定散二善ではなく念仏です。

何より、15年、30年と活動している講師部員に「貴方は信仰が進んで分かりましたか?」と聞いても、「まだ進んでいないから分かりません」としか答えられないところが、親鸞会教義のおかしさを物語っています。
親鸞会で一筋に求めている講師部員でさえこうですから、仕事片手間に求める者はどれだけやらねばならないのかと気持ちが萎えてしまうでしょう。
今の救いと言いながら、最も高森会長に近い講師部員の信心も、南無阿弥陀仏一つではないのです。

阿弥陀仏の救いは、只今、この場で、この私を救うというものです。「善のできない自分と知らされなければ」「地獄一定の自己を知らされねば」と、自己ばかり見つめるうちは本願に目が行きません。
遺弟様をそのまま救う、本願のこころ、すなわち南無阿弥陀仏を聞いて下さい。

投稿: 淳心房 | 2010年2月28日 (日) 09時06分

さらに疑問が出てきました。

人生の目的、仏教を聞く目的が「堕地獄の一大事の解決」ならば
諸行を勧めた19願の化土往生で「堕地獄の一大事が解決」するように思います。

人生の目的、仏教を聞く目的が「堕地獄の一大事の解決」ならば
19願の諸行往生を勧めてもよいのではないでしょうか?

投稿: ZhengQing | 2010年2月28日 (日) 12時30分

>人生の目的、仏教を聞く目的が「堕地獄の一大事の解決」ならば

↑この前提が浄土真宗とは違うということです。
ですからそれを目的にしておられる人は、それでもよいということになるのでしょうが、それは浄土真宗ではないということです。それを聖人は勧めておられないということです。浄土真宗の目的はなんですか?阿弥陀如来の願われたのは、どんなことでしょう。
信じ難い法なのです。だから19、20願も建てられましたが浄土真宗で聞かせていただくのは18願です。


投稿: | 2010年2月28日 (日) 13時29分

言いたかったのは

親鸞会は「後生=堕地獄の一大事」の解決を目標にしてる。
ということは、「化土往生」でも一応その目的を達成していることになる。(堕地獄ではないから)
だから諸善(諸行往生)を勧めてるのではないだろうか(それなら「諸善を勧める」のも納得できるんだけど)

という疑問なんだと思いますが、
親鸞会は化土往生も、六道輪廻も認めてなかったような…?
無間地獄に落ちる(解決しなかった)か、報土往生(解決した)か、の2択?(会長の著作とかを参考に。)
諸行往生も否定してるし、あくまで信心獲得(=報土往生)の因縁としての善の勧めを説いているのが親鸞会。

投稿: | 2010年2月28日 (日) 15時04分

ご意見ありがとうございます。

>>人生の目的、仏教を聞く目的が「堕地獄の一大事の解決」ならば

>↑この前提が浄土真宗とは違うということです。
>ですからそれを目的にしておられる人は、それでもよいということになるのでしょうが、
>それは浄土真宗ではないということです。
>それを聖人は勧めておられないということです。

人生の目的、仏教を聞く目的が「堕地獄の一大事の解決」という前提は
「浄土真宗とは違う」
「聖人は勧めておられない」
とよくよく分らせていただきました。

これで、親鸞会の教義と高森さんの信仰のふるさと華光会の教義が
「浄土真宗とは違う」
「聖人は勧めておられない」
ということもあわせて分らせていただきました。

親鸞会時代を思い起こしますと、最も衝撃を受け心を揺さぶられた文章のほとんどが
伊藤さん、大沼さんの著書からの引用を現代風に手直ししたものでした。
伊藤さん、大沼さんは正しかったが、引用した高森さんが間違えたのか
伊藤さん、大沼さんも真宗と違っていて、それをそのまま高森さんが引用手直ししたのか
悩んでいますが、これで伊藤さんの創設した華光会の柱である
仏教を聞く目的が「堕地獄の一大事の解決」という前提が
「浄土真宗とは違う」「聖人は勧めておられない」だと明らかになりつつありますので
疑問を発してよかったと思っています。ご意見に感謝いたします。

投稿: ZhengQing | 2010年2月28日 (日) 17時20分

幹部会員歴数十年 様
淳心房 様

ありがとうございます。それについてなんですが、
19願は諸行往生であることや、19願が方便の願であることは親鸞会でもお聞きしました。

親鸞会は、諸善を勧めることによって化土往生させようとしているのではなく、
18願へ転入させるための方便として19願の善を勧められているのだと思いますが、どうでしょうか。

権仮方便についての記述も読みましたが、従仮入真であるので、
まだ18願真実を心から信じることができない私たちには必要なものだと思います。

会長先生も「まず横の線の軌道に乗せねばならない」とか、「その軌道に乗せるのが大変」とか言われます。
まだ方便を捨てるには早いと判断されて、19願の善を勧めて導いておられるのではないでしょうか。

リンク先も読みましたが、親鸞会で聞いたことのないお言葉が多いので理解がついていけず、
失礼な質問になってしまったかも知れません。その点、申し訳ないです。

投稿: 遺弟 | 2010年2月28日 (日) 21時48分

>18願真実を心から信じることができない私たちには必要なものだと思います。

ここが親鸞会のマインドコントロール下にある点ですね。
心から18願真実を信じることができれば、18願で救われています。心から信じなくてもいいのです。18願で救われたいと思うかどうかだけです。聖道門の人達は、18願を馬鹿にしています。全く信じていません。そんな人には、18願の前に、自力と他力の混じった願である19願ならば、信じやすいであろうということで建てられたものです。19願に迷っている人もすべて他力などという18願は嘘臭いと信じていないのです。

>会長先生も「まず横の線の軌道に乗せねばならない」とか、「その軌道に乗せるのが大変」とか言われます。

これは外道、聖道門、19願に留まっている人に対してです。それを会員に当て填めたのがトリックです。
親鸞会の会員、親鸞会の会員だった人は、18願を既に信じています。だから親鸞聖人の教えを聞いてきたのではないですか。前提が外道、聖道門の人と全く違います。

権仮方便とは、阿弥陀仏がなされることであり、私がすることではありません。
外道から内道に入り、聖道門から浄土門に入り、仮を捨てて真に入るだけです。最後のところで、足踏みさせているのが他ならぬ高森会長です。

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2010年2月28日 (日) 22時13分

親鸞聖人の教えは、M野支部長のいっているような文底秘沈の教えではないのですよ。

親鸞聖人が捨てよとしか仰っていない19願をなぜする必要があるのですか。なぜ、素直に親鸞聖人の仰ることに従わないのですか。

M野支部長との法論で明らかになったことは、親鸞聖人が19願を勧められたお言葉はないということです。

何度もいいますが、19願では化土にしか往けないから誡められているお言葉しかないのであって、まずは19願からせよと仰ったお言葉は全くないのです。もちろん蓮如上人にもありません。

あなたは親鸞学徒ですか高森学徒ですか。

管理人さんがいわれているように、正常な思考で考えて下さい。

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2010年2月28日 (日) 22時33分

>遺弟様

遺弟様に限らず、会員の皆さんはほぼ同じご意見だと思います。


法然聖人、親鸞聖人、蓮如上人方が、高森会長のように教えておられるかどうか。結局はそこに行きつくと思います。

法然聖人は、すみやかに生死をはなれようとする人に、雑行(諸行、諸善)を廃して念仏一行を勧めておられます。念仏とは勿論他力念仏のことです。

親鸞聖人は、そのような法然聖人の教えにより、19願を離れたと仰っています。

蓮如上人は、「もろもろの雑行・雑修・自力の心をふり捨てて」と教えられ、諸行・諸善は雑行と名づけて嫌われると言われています。


善知識方はいずれも諸行を廃して、他力念仏一行を教えられていますが、なぜ高森会長は善知識方の勧められていない雑行を勧めるのでしょうか?

これは、高森会長が善知識方以上の優れた人物か、あるいは悪知識かのいずれかでありましょう。


無常迅速で罪悪深重の我々は、方便願に止まっている暇はなく、すみやかに真実の願によって救われなければ、たちまちのうちに死んでいかねばなりません。

「極悪深重の衆生は
他の方便さらになし」(親鸞聖人)

と教えられます。

親鸞聖人方が明らかに教えていかれたことに順うのが親鸞学徒であり、それと違うことを教えるなら悪知識と呼ばれて仕方のないことでしょう。


なお、会長がいつも黒板に書く横の道は存在しません。
真宗は本願力回向の御法義なので、阿弥陀仏からの一方的な救いです。聴聞やおつとめ、六度万行の実践等で進んでいく道ではございません。
あの黒板の図が頭にある限り、救いは19願、20願の実践の先にあることで、只今のこととは思えないのです。

今死んでいかねばならないのが私達の実情です。本願他力の念仏を称える身に只今救われて下さい。

投稿: 淳心房 | 2010年2月28日 (日) 23時11分

>会長先生も「まず横の線の軌道に乗せねばならない」とか、「その軌道に乗せるのが大変」とか言われます。
>まだ方便を捨てるには早いと判断されて、19願の善を勧めて導いておられるのではないでしょうか。

「唯信鈔」を読んで「横の線の軌道」に疑問が起きました。
「唯信鈔」では「諸行往生」と「念仏往生」を同一軌道上(「横の線の軌道」)ではなく、
二つの軌道に分かれていると教えています。

『二つに浄土門といふは、今生の行業を回向して、順次生に浄土に生れて、
浄土にして菩薩の行を具足して仏に成らんと願ずるなり。
この門は末代の機にかなへり。まことにたくみなりとす。
ただし、この門にまた二つのすぢわかれたり。一つには諸行往生、二つには念仏往生なり。』

「唯信鈔」では続けて

『諸善万行ことごとく 至心発願せるゆゑに
往生浄土の方便の 善とならぬはなかりけり』(浄土和讃大経讃(63))

について、

『諸行往生といふは、あるいは父母に孝養し、あるいは師長に奉事し、
あるいは五戒・八戒をたもち、あるいは布施・忍辱を行じ、
乃至、三密・一乗の行をめぐらして、浄土に往生せんとねがふなり。
これみな往生をとげざるにあらず。一切の行はみなこれ浄土の行なるがゆゑに。』

と教えられていますが、
自力往生は行業がおろそかならば、往生とげがたく、
さらに阿弥陀仏の本願にかなわないことを明らかにされています。

『ただこれはみづからの行をはげみて往生をねがふがゆゑに、自力の往生となづく。
行業もしおろそかならば、往生とげがたし。
かの阿弥陀仏の本願にあらず。摂取の光明の照らさざるところなり。』

これについて親鸞聖人は

『安楽浄土をねがひつつ 他力の信をえぬひとは
仏智不思議をうたがひて 辺地・懈慢にとまるなり』(浄土和讃大経讃(67))

と教えて下さいました。
そして、二つの軌道に分かれている、もう一方の念仏往生の道について
「唯信鈔」は

『二つに念仏往生といふは、阿弥陀の名号をとなへて往生をねがふなり。
これはかの仏の本願に順ずるがゆゑに、正定の業となづく。
ひとへに弥陀の願力にひかるるがゆゑに、他力の往生となづく。・・・』

親鸞聖人は

『念仏成仏これ真宗 万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして 自然の浄土をえぞしらぬ

聖道権仮の方便に 衆生ひさしくとどまりて
諸有に流転の身とぞなる 悲願の一乗帰命せよ』(浄土和讃大経讃(71)(72))

と勧めて下さいました。
「横の線の軌道」の根拠について疑問が残ります。

投稿: ZhengQing | 2010年2月28日 (日) 23時16分

幹部会員歴数十年 様

不快な思いにさせてしまってすみません。親鸞学徒として真偽を知りたいと正常に考えているつもりなのですが、結果失礼なコメントになってしまったこと、おわびいたします。

荒らす目的はありません。もしよろしければ以下もお願いしたいです。

親鸞聖人の教えを聞いてる人はもう19願の人ではない、ということは納得しました。
そうすると、
・すべての人は三願転入するけど、『親鸞聖人の教えを聞き始めた人』=『20願の人』 
という理解でよいのか、
・すべての人を三願転入にあてはめることが間違いか…

親鸞聖人の教えを聞いてる人は三願転入の道程をだいぶ進んでいる人、と受け取っているのですがこれも誤りなのでしょうか。
(つまり親鸞会の誤りは、その進んでいる人を19願に戻していること?)

投稿: 遺弟 | 2010年2月28日 (日) 23時18分

遺弟様

横から失礼します。

>親鸞会は、諸善を勧めることによって化土往生させようとしているのではなく、
18願へ転入させるための方便として19願の善を勧められているのだと思いますが、どうでしょうか。

親鸞会では、確かに18願へ転入させるための方便として19願の善を勧めています。しかし、19願の善をどれだけ実行しても、18願に転入することはありません。19願の善が教えの通りに実践できたとしても、その結果は親鸞聖人が教えられているように化土往生です。以下の『浄土三経往生文類』のお言葉を参照して下さい。

「観経往生といふは、修諸功徳の願(第十九願)により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。しかれば『無量寿仏観経』には、定善・散善、三福・九品の諸善、あるいは自力の称名念仏を説きて、九品往生をすすめたまへり。これは他力のなかに自力を宗致としたまへり。このゆゑに観経往生と申すは、これみな方便化土の往生なり。 これを双樹林下往生と申すなり。」

では、なぜ親鸞会会員は、19願の善を実行すると18願に近づくように思い込まされてしまっているのかというと、一つの理由として、親鸞会の『三願転入の御文』の解釈がおかしいことがあります。

親鸞会では、三願転入の御文の最初の部分

「ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。」(教行信証化土巻)

を、親鸞聖人は七高僧のお導きで19願から出発されたと説明しますが、これが誤りです。
文章をそのまま読めば「親鸞聖人は七高僧のお導きで19願を離れた」と教えられていることが分かると思います。

他の理由として、善をすると「宿善が厚くなる」と教えられているので、18願に近づくように思うのでしょうが、親鸞聖人の教えには「宿善を厚くせよ」というご教示はありません。これについては、『親鸞会教義の誤り』宿善とは
http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/blog-category-4.html
をよく読まれるとよいと思います。

19願・20願では、化土往生ですから、そこにとどまっていないで、18願により報土往生を遂げなさいと親鸞聖人は教えられました。『教行信証』の構成をみれば分かります。

前5巻で、18願を11、12、13、17、18願の5願に開かれて、真実の教、行、信、証、真仏、真土を顕らかにされました。
真実の行信により、真実報土の往生を遂げることができます。

それに対して、せっかく阿弥陀仏の救いを求めておりながら、化土に止まってしまう人がいます。
その化土と化土に止まってしまう方便の行信(19願・20願の行信とその結果)を教えられたのが『教行信証化土巻』です。

ですから、化土巻の内容は実行させるために説かれたのでなく、誡めるために説かれたのです。

つまり、真と仮を説き、仮を捨てて真に入れと教えられているのです。

『教行信証』の御文を挙げて説明すると分量が多くなってしまいますので、18願と19願を比較して18願を勧められている『浄土真要鈔』のお言葉を提示します。参照して下さい。

「諸行と念仏と、その因おなじからざれば、胎生と化生と勝劣はるかにことなるべし。しかればすなはち、その行因をいへば、諸行は難行なり、念仏は易行なり。はやく難行をすてて易行に帰すべし。その益を論ずれば、来迎は方便なり、得生は真実なり。もつとも方便にとどまらずして真実をもとむべし。いかにいはんや来迎は不定の益なり、「仮令不与大衆囲繞」(大経・上)と説くがゆゑに。得生は決定の益なり、「若不生者不取正覚」(同・上)といふがゆゑに。その果処をいへば、胎生は化土の往生なり、化生は報土の往生なり。もつぱら化土の往生を期せずして、直に報土の無生を得べきものなり。されば真実報土の往生をとげんとおもはば、ひとへに弥陀如来の不思議の仏智を信じて、もろもろの雑行をさしおきて、専修専念・一向一心なるべし。第十八の願には諸行をまじへず、ひとへに念仏往生の一道を説けるゆゑなり。」


>会長先生も「まず横の線の軌道に乗せねばならない」とか、「その軌道に乗せるのが大変」とか言われます。

親鸞会流の三願転入の解釈や独自の宿善論から登場するのが、黒板によく書かれる「横の線」です。
しかし、「横の線」を進んで救われるというのは、平生業成に反していることは分かりますか?
「平生」とは、「いま」のことです。
「横の線」を進んでその先に救われるというのは、「いまの救い」になっていないのです。


自分で、真宗聖典を拝読することが大事だと思います。親鸞会で根拠として挙げられる御文だけでなく、善知識方のお言葉に直に触れて下さい。

投稿: いつもの元会員 | 2010年2月28日 (日) 23時20分

淳心房 様
いつもの元会員 様


どうも有難うございます。ご指摘の点、よく考えてみたいと思います。
宿善、平生業成、善知識方との整合性など、親鸞会で聞いてきた内容の多くは確かに根拠があげられません。

そうなのですが、最後に以下、お聞きしてもよいでしょうか。

19、20願が18願に転入する十方衆生の同程である根拠として

・至心信楽欲生と      十方諸有をすすめてぞ
 不思議の誓願あらわして 真実報土の因とする (十八願)

・至心発願欲生と      十方衆生を方便し
 衆善の仮門をひらきてぞ 現其人前と願じける (十九願)

・至心回向欲生と      十方衆生を方便し
 名号の真門ひらきてぞ  不果遂者と願じける (二十願)

『なぜ答えぬ』でこの3和讃が示されています。
“十方衆生を方便し”とあるので根拠になるような気がするのですが、これはどう解釈すべきなのでしょうか?

投稿: 遺弟 | 2010年3月 1日 (月) 00時13分

遺弟様

18願、19願、20願に「十方衆生」とありますが、同じ意味ではないのです。

以下のサイトが参考になると思います。

十方衆生とはいうものの…
http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-386.html

生因三願の「十方衆生」についての考察
http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-180.html

読んで分からないことがあれば、また聞いて下さい。

投稿: いつもの元会員 | 2010年3月 1日 (月) 00時49分

遺弟 様

>・すべての人は三願転入するけど、『親鸞聖人の教えを聞き始めた人』=『20願の人』 
という理解でよいのか、
>・すべての人を三願転入にあてはめることが間違いか…

これには諸説があります。過去世まで遡れば、自力修行を積み重ねてきた人が現在世で18願を聞くことができるというもので、『大経』の

もし人、善本なければ、この経を聞くことを得ず。
清浄に戒を有てるもの、いまし正法を聞くことを獲。
むかし世尊を見たてまつりしものは、すなはちよくこの事を信じ、
謙敬にして聞きて奉行し、踊躍して大きに歓喜す。
驕慢と弊と懈怠とは、もつてこの法を信ずること難し。
宿世に諸仏を見たてまつりしものは、楽んでかくのごときの教を聴かん。

に当て填めるものです。
大沼氏の三願転入論では、親鸞聖人の教えを聞く気持ちのある人は20願の人という説明らしいです。

この辺りは難しいところではありますが、少なくとも、18願で救われたいという気持ちのある人が、19願から始めるなどと言う馬鹿げたものでないことは、親鸞聖人、蓮如上人のお言葉を読めば明らかです。

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2010年3月 1日 (月) 07時04分

>遺弟様

お尋ねの御和讃について、先輩より教えてもらったことを参考に伝えます。

親鸞会では、
○至心・発願・欲生と〜
○臨終現前の願により〜
○諸善万行ことごとく〜


これら3首の御和讃を出して、親鸞聖人の教えに「善のすすめがある」と主張します。
しかし、親鸞聖人がこの御和讃を書かれたこころは「十九願のこころ、諸行往生」を述べるためだったのです。

それはなぜか? 親鸞会で使っている真宗聖典には掲載されていませんが、親鸞聖人の書かれたものには御自身の手で左訓や注釈がなされているところがあるから分かるのです。浄土和讃・大経讃の19願和讃の箇所を頭註を入れて書きますと、

「十九(じゅうく)の願のこころ、諸行往生なり」
至心・発願・欲生と〜
臨終現前の願により〜
諸善万行ことごとく〜

となっているのです。
御和讃で19願の願名に「臨終現前の願」・「現其人前と願じける」と仰っていることからも、19願には「臨終来迎」が誓われていることがよく知らされます。

19願に諸善がすすめられているのは明らかです。しかし、それは「臨終来迎を期待し化土往生するための善のすすめ」なのです。臨終来迎をすすめるのは、真宗ではないことは知っていると思います。


このようなわけで、この御和讃を根拠に親鸞聖人は諸善を勧めてはおられないのです。

投稿: 淳心房 | 2010年3月 1日 (月) 09時59分

「(願文に)「十方衆生」と書いてあるから19願からはじめなければならない」

 →ならば、願文の通り、「発菩提心」からはじめるべきでしょう。
  「発菩提心」は当然、自力菩提心ですから、(善のできぬ自身を知らされるとか、逆謗の一機を知らされるとかではなく)
  本気で修行を重ねて悟りを開こうと思い立つわけです。親鸞会の方は自力の菩提心起こしてますか?

  まがりなりにも浄土の経典に出遇い、親鸞聖人の教えに出遇っている「浄土門」の人に
  「十方衆生」と説かれてあるから、最初に19願聖道自力の道を行きなさい、とすすめ、
  そう解釈した当の本人たちが「聖道自力の菩提心」を起こすという19願の一番初めに説かれてあることを無視している。
  自己矛盾だらけです。


 →ならば阿弥陀仏は
   凡夫にできない定散二善をやらせ(19願)、
   それが終わってから自力の念仏に励ませ(20願)
   それが終わり、真実信心を獲得できた(18願)者のみを救う

  ということになりますね。
  随分と高いハードルを「十方衆生」に課す阿弥陀如来になってしまいます。
  諸仏から見放された凡夫を救おうとされるのが阿弥陀如来のはずなのに。

  親鸞聖人は19願の行を「漸教」(=「浄土の要門、『無量寿仏観経』の意、定散・三福・九品の教なり。」)
  とお示しですが、漸教を越えないと救われる時が来ない教えを「頓教」と呼ぶことは出来ませんよ

投稿: | 2010年3月 1日 (月) 10時34分

いつもの元会員 様
幹部会員歴数十年 様
淳心房 様
名無し 様


丁寧にご解説くださり、まことに有難うございました。
いずれにしても親鸞聖人の教えを聞き求める人に、19願の善を勧める根拠がないことが判りました。
同時に親鸞会で出される根拠のみを頼りにして浄土真宗を語ろうとしていたことに反省せざるをえません。
もっと勉強して、また疑問が出れば、質問させて頂きたいと思います。

最近、親鸞会講師と思われる人が、論理のすりかえや高圧的な物言いをしていたので、
私は真面目に議論させて頂こうと思ったのですが、結果としてやや荒れ気味な展開になってしまったこと、
最後に管理人様におわび申し上げます。

投稿: 遺弟 | 2010年3月 1日 (月) 20時49分

とてもよいやり取りであったと思います。

親鸞会会員にとっては、非常に判りにくいところでもありまして、今回のことで親鸞会のトリックが理解されたのならば、素晴らしい御縁になると思います。

素朴な疑問は大事です。阿弥陀仏に救われたいと思っての質問であれば、歓迎します。それを妨げるようなコメントは拒否します。皆さんそういう気持ちですので、また質問して下さい。

投稿: 飛雲 | 2010年3月 1日 (月) 21時42分

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O講師は、釈尊が韋提希に諸善を勧められていないことを認めざるをえず、今度は後生の一大事に論点をずらして、以下のことを自信満々に書いてきました。では化土往生ができる人が一人でもあれば教えて頂きたいものだ。親鸞会の講師部員は、皆同じで、議論に負けると、関係のないことに論点をずらす。こうもレベルが低いのです。当ブログでは過去に、M野講師を誉め讃える1会員を名乗る人物が、同じことをして、恥の上塗りをしました。... [続きを読む]

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