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2010年2月22日 (月)

実は、『正像末和讃』『浄土三経往生文類』も読んだことがありません、を追加

前回のエントリーに対して、以下の反論がありました。

19願は修諸功徳の願と言って平たくいうと「善をやりなさい。そうすれば助ける。」という願です。
つまり廃悪修善を勧めた願です。
どれだけ廃悪修善に向かえるかは因果の道理をどれだけ深く信じているかにかかっています。
その因果の道理を親鸞聖人は罪福という御言葉で教えられたのです。
罪福ふかく信じたならそれは必ず善の実行となってあらわれます。
もし、19願が単に浄土を願わせるためだけの願ならば、別段、ふかく信ぜしめる必要はありません。

前回は、勢いで書きましたので、説明不足のところがあったとはいえ、こんな幼稚な反論があるとは予想もしていませんでした。

『浄土三経往生文類』に、『大無量寿経』胎化段から引文されてあるのが前回紹介した以下の御文です。

此の諸智に於いて疑惑して信ぜず。然るに猶ほ罪福を信じて善本を修習して其の国に生んと願ぜむ、此の諸の衆生彼の宮殿に生まれて寿五百歳ならむに、常に仏を見たてまつらず(中略)之を胎生と謂ふ。

ここは、

弥陀経往生といふは

で始まる20願について書かれた部分です。『大無量寿経』胎化段を引文される前に、

願成就の文、『経』にのたまはく

と書かれています。
幹部会員歴数十年さんも指摘されているように、この御文は、20願成就文であります。
これと『正像末和讃』誡疑讃の

如来の諸智を疑惑して
 信ぜずながらなほもまた
 罪福ふかく信ぜしめ
 善本修習すぐれたり

を比較してみれば一目瞭然ですが、言葉をかえて御和讃にされただけです。この御和讃だけ読めば、高森会長やその弟子のいうことが一理あるように錯覚しますが、『教行信証』『浄土三経往生文類』『正像末和讃』誡疑讃を読めば、全く正反対のことを親鸞聖人が教えられていることが分かります。

19願と関係付けるための強引な理論には、いつもながら感心します。

なお、『往生要集』には、

問ふ、若し深信無くして疑念を生ずる者は終に往生せざるや。
答ふ、若し全く信ぜず。彼業を修せず、願求せずば理として生るべからず。若し仏智を疑と雖も爾も猶彼土を願ひ、彼の業を修するは亦往生することを得。『双巻経』に云ふが如し。若し衆生有りて(中略)此の諸智に於て、疑惑して信ぜず。然も猶罪福を信じて善本を修習して其の国に生せんと願せん。此の衆生、彼の宮殿生まれて、寿五百歳常に仏を見たてまつらず。(中略)之を胎生と謂ふと。仏の智慧を疑ふ罪は悪道に当たれり。然れども願に随いて往生するは是れ仏の悲願力なり。

とあります。仏智疑惑は悪道に堕する罪ではあるが、因果の道理を信じて念仏を称えれば、阿弥陀仏の悲願力によって化土往生できる、と教えられています。

しかし、親鸞聖人は徹底して、化土往生を誡めておられます。19願を勧められたなど、もっての外の邪義です。

親鸞会は、断章取義で貫かれています。
先日

私は『教行信証』を読んだことがありません

と告白しているようなものだと書きましたが、

実は、『正像末和讃』『浄土三経往生文類』も読んだことがありません

を追加しておきましょう。エントリーが増える度に、読んだことが無いと告白するお聖教が増えていくことでしょう。

なんとも御粗末な子弟です。

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コメント

此の諸智に於て疑惑して信ぜず。然も猶ほ罪福を信じ、善本を修習して、・・・
の前に
若し衆生有りて、疑惑の心を以て諸の功徳を修して、彼の国に生ぜんと願ぜん。佛智・不思議智・不可称智・大乗廣智・無等無倫最上勝智を了せず。
とありますが、これらをまとめて表わされた御和讃と解釈すべきでしょう。
信罪福心は因果の道理を信ずる心ですが、罪福を信じて諸の功徳に向いているのが19願、名号に向いているのが20願です。
親鸞会を散々断章取義と非難する割には、それが自分のことと気づかないものですね。
はやく18願の世界に入ってもらいたいの御心からは、19、20願に留まっている人を厳しく戒めるのは当然です。が、19願、20願は必ず通らねばならない道だからこそ、久しく留まってしまう19願を出て20願に入った人を「善本修習すぐれたり」と評価なされておられるのです。
19、20願を通らずに18願に入れるのなら、20願の人を、何故「善本修習すぐれたり」と言われるのですか。

なお、重ねて言っておきますが、私はM野支部長ではありません。幹部会員でもありません。何の役職もないただの1会員です。

投稿: | 2010年2月23日 (火) 02時57分

見苦しい言い訳ですね。

あなたの言っている部分を含めて、20願成就文と親鸞聖人は仰っています。

読解力が不足しているようですから、サービスで解説しますと、仏智疑惑と信罪福心がセットになって他力と自力の違いで対比されているのです。本願の嘉号を己が善根とするのが自力念仏であり、因果の道理を信じて称えた念仏で助かろうとするものです。
因果の道理を信じて念仏するが重要なポイントになるのです。単に念仏するではないのです。

自力と他力の区別もつかないような理解では、親鸞聖人の教えなど語る資格はありませんね。

1首の御和讃では4行でしか表わせません。「如来の諸智を疑惑して」いるのに、「善本修習すぐれたり」と思っていることを嘆かれたのです。それが、「なおもまた」のお言葉です。20願成就文でいえば、「然るに猶ほ」です。
『往生要集』では、「然も猶ほ」です。親鸞聖人の表現と源信僧都の表現の違いは、レベルの低い人には分からないでしょうが、「なおもまた」「然るに猶ほ」で、自力念仏を厳しく誡めるために、敢て読み方を変えられたのです。

前後の御和讃を読めば明らかでしょう。それを断章取義と言うのですよ。

高森教の解釈など高森教内でしか通用しないのです。

今後も珍コメントして醜態を晒してよ。

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2010年2月23日 (火) 06時01分

補足しますと、19願、20願に迷っている人に対して、それは間違いだぞと仰ったのが誡疑讃です。
19願、20願を勧められた御和讃でないと散々言われていながら、捨てるためには必ず一度拾わなければならない、というヘンテコ理論でしか説明できないのがおかしいと思いなさいよ。迷っている人がいるから捨てよといわれるのであって、迷っていない人に一度必ず迷ってから戻ってこいと言われているのではない、と何度も何度も解説されているのに、本当に○が悪いのですね。

浄土真宗と高森宗とは、全く別の宗なのです。高森宗は高森宗の話を勝手にしていればいいですが、浄土真宗とか親鸞聖人と関係があるようにいうのだけは辞めてもらいたい。

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2010年2月23日 (火) 06時42分

20願成就文と御和讃を比較してみました。

「此の諸智に於いて疑惑して」=「如来の諸智を疑惑して」

「信ぜず。然るに猶ほ」=「信ぜずながらなほもまた」

「罪福を信じて」=「罪福ふかく信ぜしめ」

「善本を修習して」=「善本修習すぐれたり」

「すぐれたり」を強調したいのでしょうが、ここは20願の行人の気持ちです。

教学に疎い私でも、国語能力があれば、これくらいわかりますよ、M野支部長(?)。

覚如上人も蓮如上人もできない文底秘沈の解釈ができる高森顕徹という人物は、何億年、何兆年、いや十劫年に一人の人物ということですか。

アホらしい。

投稿: 現役会員 | 2010年2月23日 (火) 07時47分

>名無しさん
≫久しく留まってしまう19願を出て20願に入った人を「善本修習すぐれたり」と
≫評価なされておられるのです。

・・・これはヒドイです。。あんまりです。
親鸞聖人がこれを聞かれたらどんなに悲しまれるでしょう。
どうやったら「評価なされておられる」って読めるのですか。
前後の御和讃からも一貫して戒められているじゃありませんか。

名無しさんの和讃の解釈は、
「18願を疑って信ぜずながら、なほもまた20願を信じて善本修習するのは素晴らしい」
となるのでしょうか?

投稿: YGM | 2010年2月23日 (火) 08時59分

(会員)
高森先生、20願の自力念仏とはどんな念仏でしょうか。

(高森会長)
万行超過の念仏だといつも教えているだろう。

(会員)
では、万行超過の念仏を称えている人の気持ちはどういうものでしょうか。

(高森会長)
他の善と比較にならないくらい、善本修習はすぐれているということだ。


高森会長は、20願行者の気持ちをよく判っていますね。

誡疑讃の中で、化土往生について親鸞聖人は仰ってますが、親鸞会理論では、これも同じように化土往生を勧められていると解釈することになりますが。

無茶苦茶ですね。

投稿: 不良会員 | 2010年2月23日 (火) 09時42分

御本典を熟読していると豪語している立派なM野氏と相談してみて下さい。
御本典との整合性をとって、更にヘンテコ解釈が出てくるかな?

だめだこりゃ。

投稿: M野氏ではないyoではないyo | 2010年2月23日 (火) 12時19分

確かに化身土巻の19願の方には、大経胎化段の

 もし衆生ありて、疑惑の心をもつて、もろもろの功徳を修して、かの国に生ぜんと願ぜん。仏智・
 不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。
 しかもなほ罪福を信じて、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。

という引用がある。しかし、20願真門釈の方にも

 ここをもつて『大経』(上)の願(第二十願)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、
 十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係けて、もろもろの徳本を植ゑて、心を至し回向して、
 わが国に生ぜんと欲はん、果遂せずは正覚を取らじ」と。

 またのたまはく(同・下)、「この諸智において疑惑して信ぜず、しかるになほ罪福を信じて、
 善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生ず」と。

という引用があるんだよ、親鸞聖人が直々に一部省略して引用してる。断章取義云々で反撃しようと思ったけど残念だね、

19願で引用した胎化段と全く同じ箇所から、聖人自身がわざわざこの一節だけをピックアップして、
それを20願真門釈の方に引用されたわけだから、この部分は20願の意味なんだよ、ってことを
改めて親鸞聖人が明確にしてくださったんだよ。
それこそ「若し衆生有りて…」というところと切り離してでも、な。

なるほど、大経の胎化段はそもそも自力疑心を誡める内容、そして「もろもろの功徳を修して」は確かに
19願の内容だから、20願真門釈ではわざわざそれを省いておられるんだな、というのがよくわかる。

  ちなみに
  19願の方の引用では「善本~」のくだりは省略されていない。その理由は、
  自力諸行(19願)の方の中に、自力念仏も「諸行の中の一つ」として含まれてるから。
  聖道門、たとえば天台なんかも「朝題目夕念佛」っていうしね。
  自力諸行において念仏は「諸行の中の一つという扱いになってしまってる」状態だから省略はされない。


大経胎化段全体=本願疑惑の得失を明らかにし、自力を誡める=19願、20願双方に通じる
「もろもろの功徳を修して」 =19願の内容(20願真門釈では省かれる)
「罪福を信じて、善本を修習」=20願の内容(19願は「諸行中の1つ」として自力念仏があるから省かれてはいない)

よって、以下の4点から、件の和讃は19願を勧めたものという根拠にはならない。

1.「罪福ふかく信ぜしめ」が19願を勧めた言葉というが、この言葉は20願のところにも引用されてるので
  「19願を勧めた言葉」という根拠にはならない。
  「罪福ふかく信ぜしめ」が20願真門釈で省かれ、19願特有のキーワードになってればよかったのにね。
  むしろ「罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり」と罪福って言葉は
  御自釈上では20願の方で使ってる言葉だ。

2.「若し衆生有りて、疑惑の心を以て諸の功徳を修して…」の部分とまとめて解釈すべき、という主張をしたが、
  親鸞聖人はわざわざその部分を省いた引用を20願真門釈で行なってもいる。省略の有る・無し、二種類の
  引用をなさっているわけだから、「若し衆生有りて~」から解釈すべきか、省略した方で解釈すべきかは、
  和讃の中の言葉に現れてる部分で解釈すべき。

3.「若し衆生有りて、疑惑の心を以て諸の功徳を修して…」という言葉も含めた19願の方の引用と、
  その言葉を省略して引用した20願での引用。決定的な違いは「もろもろの功徳を修して」の部分。
  19願のことか20願のことかがこれで判明するから。(「疑惑」は双方にある言葉)
  →そして件の和讃には「もろもろの功徳を修して」に該当するキーワードはない。
  →よって、これは20願の行者に関することであり、19願について説かれた和讃という根拠にはならない。

4.まして19願自力諸行を「勧めている」言葉でもないし、そういう和讃でもない。(誡疑讃だから)
  今回勧めているお言葉というのは何も提示されなかった。「勧めているのです」という解釈してるだけ。
  親鸞聖人のお言葉の中で善をせよという言葉を、この和讃との関係をふまえつつ提示すべき。


というわけで、もう一度
  件の和讃が「 "19願を" "勧めた" ものである」という根拠になる文証を。


・それ以外のことに応える必要はないし、それ以外の質問もしないように。
・別の質問は「論点ずらし」。これまで散々批判されてきた親鸞会の常套手段です。
・論点ずらしを行なうと、そういう訓練を受けてる人(=講師、支部長)という疑いが増すだけです。
・講師や支部長ではないと言っても、「一会員である証拠」だってないわけだから。
・まず「自分の提示した和讃が19願を勧めたものだ」という証拠を出す、この論点からずれないように

投稿: | 2010年2月23日 (火) 13時12分

だれか、このブログの内容を、弘宣部か教学課か光晴さんに「反論求む!」と書いて、
送って下さい。

もう、会長も講師部も、だれも反論できないのではないでしょうか。

だいたい、講師部員はそんなにしっかりお聖教を拝読していない。

投稿: ポポタ | 2010年2月23日 (火) 22時23分

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