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2010年2月 3日 (水)

諸行は機にあらず時を失す

法然上人は、善導大師の教えに従って、阿弥陀仏の48の願は18願に帰結すると教えられていたのです。『選択本願念仏集』にある

釈尊の諸行を付属したまはざる所以は、すなはちこれ弥陀の本願にあらざるゆゑなり。
また念仏を付属する所以は、すなはちこれ弥陀の本願のゆゑなり。
いままた善導和尚、諸行を廃して念仏に帰する所以は、すなはち弥陀の本願たる上、またこれ釈尊の付属の行なり。ゆゑに知りぬ、諸行は機にあらず時を失す。
念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐せんや。
まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。
一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。

は、19願諸行往生は時を失しており、随他意の願であるから、それが必要な機があれば方便として説かれたものと仰っているのです。
また、『西方指南抄』には、

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也

と仰っています。聖道門の人を18願に導くための願ということですが、即身成仏の聖道門から、他力念仏で浄土往生の18願へは、隔たりが大き過ぎるので、その間に19願でワンクッションを置いたということであって、18願へ入るために必ず19願を通らなければならないというような意味ではありません。

この法然上人の教えをそのまま受け継がれたのが親鸞聖人です。

法然上人も親鸞聖人も、19願は方便の願であって、18願での念仏往生を願う人にとっては、全く意味のないものであると見られていたのです。

しかし、聖道門の人にとっては19願は極めて重要に思えた訳で、19願を無視した法然上人を許せなかったのも理解できます。
つまり法然上人、親鸞聖人が仰った通り、19願は聖道門の人のために阿弥陀仏が建てられたものということを、聖道門の学僧が見事に証明してくれたのです。

この聖道門の理屈を真宗の同行にあてはめて、18願に入るには、必ず19願を通らなければならないと説くことの愚かさをよく知るべきではないでしょうか。

F館を5階建てと偽って、6階の会長御殿を隠して建設していることと、19願の諸善のすすめはリンクしています。会員の皆さんは、諦観して下さい。

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コメント

わかりやすいです。

投稿: Rudel | 2010年2月 3日 (水) 22時22分

法然さまはハッキリものを言われる御方ですね。
このよき人法然上人の仰せを被りて信ずる他に別の子細なき方が親鸞聖人です。

これでも親鸞会は、「親鸞聖人は諸行、定散二善を我々に勧めている」と言い張りますか?
だとすれば、一から真宗を覚え直して来なければならないと思います。

投稿: 淳心房 | 2010年2月 4日 (木) 00時57分

Rudel 様
淳心房 様

法然上人も親鸞聖人も、19願を方便の願とはっきりと仰っています。方便の願とは、必ず通らなければならないと言う意味ではなく、それを必要とする人(聖道門の人)に対しての方便であって、真宗の同行に対しての方便ではありません。
会長も当然知っている筈ですが、敢てねじ曲げたのでしょう。

どこまで謗法罪を造り続けるつもりなのでしょうか。

投稿: 飛雲 | 2010年2月 4日 (木) 07時39分

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