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2010年2月10日 (水)

念仏と六度万行

聴聞の心構えとして、
 (1)骨折って聞け
 (2)衣食忘れて聞け
 (3)間断なく聞け
 (4)聞けぬ時は思い出せ
と親鸞会で教えられてきました。
更に宿善を厚くするものとして
 (1)熱心な聞法
 (2)五正行の実践(お勤め)
 (3)六度万行の実践(特に法施と財施)
と会員であった20数年間、聞かされ続けました。阿弥陀仏の救いへの最短コースを教えてもらっているのだと堅く信じていました。

しかし、これも創作教義であり、デタラメと「親鸞会教義の誤り」に書かれてあり、驚きました。
親鸞会教義の誤り」親鸞会は諸行往生4
にも紹介されていますが、高森会長がこの根拠としていたのが、加藤智学編『香樹院講師語録』にあります。

禅僧弘海曰く。予かつて師に問う、
私、浄土真宗の教えに帰し、
御講師に随い聴聞いたせども、
未だ心に聞え申さず、如何致すべく候や、と。
師の仰せに、
汝まづ聖教を熟覧せよ、と。

則ち命のごとく拝見候いしが、文義はわかれども、
我が出離にかけて思えば、往生一定ならず。
再び、如何せんと問い参らす。
師曰く、よく聞くべし、と。

予聞いて云わく、
よく聞くとは如何聞くべきや。
師曰く、骨折って聞くべし

予云わく、
骨折るとは、遠路を厭わず聞き歩くことに候や、
衣食も思わず聞くことに候や
師曰く、しかり。

予また問うて云わく、
しからば、それほどに苦行せねば聞えぬならば、
今までの禅家の求法と何の別ありや。
師呵して曰く、
汝法を求むる志なし、いかに易行の法なりとも、
よく思え、今度佛果を得る一大事なり。
しかるに切に求法の志なき者は、
これを聞き得ることをえんや、ああうつけ者かな、と。

予云わく、
しからば身命を顧みぬ志にて、聞くことなりや。
師曰く、
もっともしかり。切に求むる志なくして、
何ぞ大事を聞きえんや。
また曰く、常に絶え間なく聞くべし、と。

予問い参らするよう、
それはその志にて聴聞つかまつれども、
法縁の常になきを如何致すべきや、と。
師その時に、
何ぞ愚鈍なることを云うぞ。法話なき時は、
聞きたることを常に思うべし

聞く間ばかり聞くとは云わぬぞ。
また曰く、
汝眼あり、常に聖教を拝見すべし
これまた法を聞くなり。
もしまた世事にかかりあい、聞見常に縁なき時は、
口に常に名号を称すべし、これまた法を聞くなり

汝信を得ざるは業障の故なり。
さればいよいよ志を励まし、かくの如く常に心を砕き、
よく聞けよ。信を得る御縁は聞思に限るなり、と。

予問うて云わく、
法話を聞くことと、
自ら聖教を読んで我が耳に聞くということとは、
有り難く承りぬ。ただ、念佛するを聞くと申すは、
われ称えて我が声を聞くことに候や。
師大喝して曰く、
汝何事をか云う。我が称える念佛というものいづこにありや。
称えさせる人なくして、罪悪の我が身何ぞ称うることをえん。
称えさせる人ありて称えさせ給う念佛なれば、
そもそもこの念佛は、何のために成就して、
何のためにか称えさせ給うやと、心を砕きて思えば、
即ちこれ常に称えるのが、常に聞くのなり、と。

予、この一語心肝に徹し、はっと受けたり。
心に思うよう。
我至成佛道、名聲超十方、究竟靡所聞、誓不成正覚。
また第十七の願に、我が名を諸佛にほめられんとの誓いは、
名号を信ぜさせんとの御意なり。
かつまた、常に聞くと申すことは、
ただ法話のみを聞くことと思いしは誤りなりき。

あわれ、志の薄かりしことよと恥ぢ入り、
今まで禅門において、知識より、
汝今をも知れぬ命なれば、昼夜十二時思惟して、
この公安を拈底せよ、しばらくも忘るることなかれ、
と云われしことを思い浮かべ、
聞思して遅慮するなかれ、との祖訓を、
見聞集に尽したまいしことを感悟し、
それより常に法話なき時は聖教を拝聴し、
朝夕は『大經』、『正信偈』、『和讃』、『御文』を拝読し、
また常恒に念佛を拝聴し奉るに

われ今称うる念佛には、御主ありて称えさせ給うなり。
しかればただ称えさせるを詮としたまわず。
称えさせ給うは、助け給わんために、
一声をも称えさせて下さるることよと思えば、
それより称えることについて、
尊く称えさせてくださるる身となりしなり。
このこと今に耳にありて、忘るる能わず、
と申されけり。

六度万行の実践などとは、どこにも書かれていません。念仏に当る部分が六度万行にすり替えられています。香樹院師の教えられたことを宿善と結びつけ、六度万行の実践を加えて拵えた珍しき教えです。
あたかも昔から教えられてきたかのように振る舞って、金集め、人集めを正当化させる姑息さが滲み出ています。

今さら説明するまでもなく、法然上人は往生のために六度万行を捨てて念仏一行を勧められました。流刑に遭われても決して曲げられなかった法然上人の教えを、いとも簡単にねじ曲げるとは、完全な念仏誹謗です。

インターネットが普及していなければ、未だに高森会長の宿善論が正しいと信じ込んでいたことでしょう。情報化社会に感謝です。

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コメント

聞法善だの、朝お勤めをする時は早起きをせねばならないが早起きも善だの、結びつけて幹部は言ってきますから、ドグマの浸透している人、親鸞会教義しか知らない人は「なるほど」と思い込んでしまいます。

しかし全く創作教義ですし、親鸞会は念仏より諸善(主に財施と法施)にばかり力を入れています。

さて、念仏は称えさせる方があって称えているのだと教えられているのを知った時は驚きでした。また南無阿弥陀仏と称えるままが、本願招喚の勅命を聞いていることなんですね。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

投稿: 淳心房 | 2010年2月10日 (水) 22時24分

紅楳英顕師が、親鸞会の宿善論を徹底的に破邪したのですが、その内容まで改竄して親鸞会の説が正しいと主張しなければならないほど、親鸞会の宿善論には根拠がありません。

親鸞聖人と無関係な教えです、というなら非難はしませんけどね。

投稿: 飛雲 | 2010年2月11日 (木) 04時51分

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