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2010年2月14日 (日)

論なし証拠なし

一昨年だったと記憶していますが、「私の白道」等によって、高森会長のルーツが明らかになり、華光会に会員が流れ始めた時に、高森会長が言ったのが、

世間では論より証拠といわれるが、証拠より論ということもある

というようなことでした。つまり、華光会では救われたという人が沢山いて、それこそが証拠という流れを食い止めようと考えたのが、上の理屈です。当時、私は会員ではありましたが、華光会のこともすでに知っていましたので、高森会長の心情が読み取れて、苦笑したものです。

当時は、教義的にはおかしなところはあるものの、概ね論は正しいという雰囲気が退会者の中にもありました。それが昨年一年で、やっぱり高森会長の説いている教義は根本的におかしかった、と大きく変わりました。数人のブロガーによって、高森会長の論は地に堕ちたのです。

救われた人がいないという証拠は従来のままで、論までも親鸞聖人の教義とは掛け離れたものと判明し、古参の会員までもが次々と退会していきました。

一年前までは、田中氏との法論で完全勝利を偽装するために、トンデモ発言を連発し、録音までされてネットに公開されたりしました。それでも、まだ、教義批判に対して反論しようという意欲が感じられましたが、今や、高森会長も上層幹部も、支部長、支部幹部に至るまで、誰一人として反論しようとする者が現われません。

高森会長も、これまでのデタラメ教義を、何とかの一つ覚えのようにただひたすら繰り返すだけです。

とにかく、善の強調です。なぜか。それは金集め、人集めをしないと教団維持が困難になるからです。

私を含め、周りの古参の会員は、高森会長の説く教えが以前とは違っていることに気が付き、特に善の勧めについて疑問を持って、上司に質問しても、高森会長の教えに間違いない、の一点張りであったため退会したのです。

「なぜ私は親鸞会をやめたのかを読んで」というサイトにある

「すべての人を、必ず、人生の目的である絶対の幸福(往生一定の身)にしてみせる。もしできなかったら命を捨てる」
と弥陀が本心を誓われた十八願には、十方衆生を「唯除五逆誹謗正法」と仰せられている。

"金輪際、助かる縁なき者"ということだが、この真実を素直に受持する者は、十方衆生に一人もいないと、弥陀は五劫思惟で見抜かれた。
 だからこそ、何とか真実の十八願へ導入するために、どうしても必要不可欠と建立されたのが、弥陀の十九、二十の方便願なのだと、親鸞聖人は教えられている。

 その第十九願は、修諸功徳の願と言われ、「諸の功徳を修するよう努力精進しなさい」と諸善が勧められている。
 この方便を通らずして真実に入れる人は、誰一人いないのだ。

 善に向かう必要ない、善の勧めは遠回り、などと言う者は、いかに弥陀の願心を踏みにじっている輩であろうか。
 そのようなことを言い続けて、どんな結果を引き起こすか、まだ目が覚めていないのだろうか。

 方便が方便と知らされていないのは、全く真実が分かっていない証拠であろう。

これが親鸞会の善の勧めの根拠のすべてです。
この間違いは「親鸞会教義の誤り」で完膚なきまでに論破されていますが、ここでは『教行信証』の根拠だけ紹介しておきましょう。

また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。(信巻横超釈)

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。(化土巻要門釈)

善に向かう必要ない、善の勧めは遠回り、などと言う親鸞聖人は、いかに弥陀の願心を踏みにじっている輩であろうか。

だそうです。

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。
偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

(中略)

経家によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。(化土巻要門釈)

方便が方便と知らされていないのは、全く真実が分かっていない証拠であろう。

とは誰のことですか?

論なし証拠なしの親鸞会に、存在価値は全くありません。

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コメント

本当に昨年は親鸞会が最後の一線を越えた、激動の一年でしたね。
昨年前半、会長の説法の崩壊っぷりは、悲劇を通り越して喜劇でした。
もちろん様々なサイトの指摘もありましたけれど、一番の功労者は会長自身だと私は思っています。
昨年のあまりにも酷い説法は、あれは直接会長の口から聞かなければわからない感動(笑)がありました。
あそこまでボケた会長が説法せざるを得ない、二代目のボンクラぶりには本当に脱帽します。

投稿: | 2010年2月14日 (日) 23時13分

仰るとおりですね。喜劇の説法で辞めた人も多いですね。
二代目は、徳なし、人望なしも加えておきましょう。

投稿: 飛雲 | 2010年2月15日 (月) 07時09分

徳なし、人望なし、笑いありの誤説法、是非聞きたかったです。

投稿: | 2010年2月15日 (月) 09時04分

昨年の会長の談話(仏法から逸脱しているので説法とは言いません)のビデオがあれば是非見てみたいですね。
 5000円くらいだったら出しますよ。(笑)

投稿: | 2010年2月15日 (月) 15時28分

昨年の驚愕講義の録音データは、手に入れました。
例のものです。

徳なし、人望なし、笑いありの誤説法は、昔昔、会長の代理説法で何度か聞きました。会長の話そのままで、つまらないですよ。今となっては、会長の話も笑いありですけどね。

投稿: 飛雲 | 2010年2月15日 (月) 18時10分

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