« 念仏と六度万行 | トップページ | 弥陀一仏を念じたてまつるほかに二つをならぶることなかれ »

2010年2月11日 (木)

一向専念?

現役の幹部会員さんから、「間違いはあるとしても高森先生の話を聞いていて救われないのですか」と質問を受けました。
はっきり申しました、「救われません」と。

  • 阿弥陀仏に救われるには、一向専念無量寿仏せよ

と昔は高森会長からよく聞きました。アニメにも何十回も出てくるお言葉です。
最近は聞かなくなりました。その代わりに、

  • 善をしなければ信仰は進みませんよ
  • 善行をしていないものに、雑行をすてよといわれるはずがない
  • 諸善を「間違いやすいから説くな」の非難は、「誤解されやすい本願を建てるな」と弥陀に楯突き、文句を言っているのだ。それだけではない。十九の願意を開かれ修善を勧められた釈迦一代の教えを”誤解の元凶”と謗法し、仏教を否定する暴言でもある。

など、善の勧めばかりです。
もっといえば、

  • 阿弥陀仏と我々との一直線上に善知識がおられるから、善知識の仰せに無条件服従しなければならない

とか、

  • 必堕無間と知らされた時に、救われる

などと教えられてきました。
これらは、

一向専念無量寿仏

と反対です。
蓮如上人は『御文章』2帖目第9通に

そもそも、阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらえるそのこころはいかんぞなれば、それ、弥陀仏のちかいましますようは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、いかなるつみふかき機なりとも、すくいたまわんといえる大願なり。しかれば、一心一向というは、阿弥陀仏において二仏をならべざるこころなり。

と仰っていますように、善に向かったら一心一向にならないのは当たり前です。捨てよといわれているものを一生懸命拾って、捨てられますか?

高森会長に無条件服従せよと教えられてきましたが、高森会長に向かっていたら、阿弥陀仏に向かえないでしょう。高森会長は一般会員から遠い存在です。その高森会長の更に向こうに阿弥陀仏がおられると皆思っています。譬えはよくないですが、皆既日食の時に、月という高森会長の姿で太陽という阿弥陀仏が完全に隠されているようなものです。月に向かうのではなく太陽に向かうのです。月を横にしないと太陽は見えません。

必堕無間と地獄に目がいっていては、阿弥陀仏の浄土に向かっていません。本願でも、本願成就文でも、その他善知識方のお聖教でも、浄土に生ぜんと願じて、と仰っています。地獄に目が向いていたら逆です。釈尊も、韋提希夫人に対して、地獄のことを全く説かれず、浄土往生を願わせるような説法をなされました。

阿弥陀仏と阿弥陀仏の浄土に向かわずして、救われると思いますか?

高森会長は、阿弥陀仏に向かわせない話しかしていません。「親鸞会教義の誤り」には、そのことばかり書かれてあります。長年幹部会員だった方からのコメントが紹介されたり、一般会員の知らない高森会長の姿まで書かれていて、全くもって、一向専念無量寿仏を否定しているのが今の高森会長です。

会員さんは今の自分が阿弥陀仏に向いているかどうか、冷静に考えてみて下さい。

|

« 念仏と六度万行 | トップページ | 弥陀一仏を念じたてまつるほかに二つをならぶることなかれ »

コメント

会員の皆さまは、獲信の因縁としての諸善の勧めと一向専念無量寿仏が相容れないことが理解できないのでしょう。

会員でここを見ている方がおられましたら、下に『浄土真要鈔』のお言葉を引用しましたので、拝読してみて下さい。「一向専念無量寿仏」とはどんなことなのかが分かりやすく教えられています。


それ一向専修の念仏は、決定往生の肝心なり。これすなはち『大経』(上)のなかに弥陀如来の四十八願を説くなかに、第十八の願に念仏の信心をすすめて諸行を説かず、「乃至十念の行者かならず往生を得べし」と説けるゆゑなり。しかのみならず、おなじき『経』(下)の三輩往生の文に、みな通じて「一向専念無量寿仏」と説きて、「一向にもつぱら無量寿仏を念ぜよ」といへり。「一向」といふはひとつにむかふといふ、ただ念仏の一行にむかへとなり。「専念」といふはもつぱら念ぜよといふ、ひとへに弥陀一仏を念じたてまつるほかに二つをならぶることなかれとなり。
これによりて、唐土(中国)の高祖善導和尚は、正行と雑行とをたてて、雑行をすてて正行に帰すべきことわりをあかし、正業と助業とをわかちて、助業をさしおきて正業をもつぱらにすべき義を判ぜり。ここにわが朝の善知識黒谷の源空聖人、かたじけなく 如来のつかひとして末代片州の衆生を教化したまふ。そののぶるところ釈尊の誠説にまかせ、そのひろむるところもつぱら高祖(善導)の解釈をまもる。かの聖人(源空)のつくりたまへる『選択集』にいはく、「速欲離生死 二種勝法中 且閣聖道門 選入浄土門 欲入浄土門 正雑二行中 且抛諸雑行 選応帰正行 欲修於正行 正助二業中 猶傍於助業 選応専正定 正定之業者 即是称仏名 称名必得生 依仏本願故」といへり。この文のこころは、「すみやかに生死をはなれんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業をかたはらにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業といふはすなはちこれ仏名を称するなり。名を称すればかならず生るることを得。仏の本願によるがゆゑに」となり。すでに南無阿弥陀仏をもつて正定の業と名づく。「正定の業」といふは、まさしく定まるたねといふこころなり。これすなはち往生のまさしく定まるたねは念仏の一行なりとなり。自余の一切の 行は往生のために定まれるたねにあらずときこえたり。しかれば、決定往生のこころざしあらんひとは、念仏の一行をもつぱらにして、専修専念・一向一心なるべきこと、祖師の解釈はなはだあきらかなるものをや。

投稿: いつもの元会員 | 2010年2月12日 (金) 07時40分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 一向専念?:

« 念仏と六度万行 | トップページ | 弥陀一仏を念じたてまつるほかに二つをならぶることなかれ »