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2010年2月19日 (金)

聖道門と浄土門、上輩・中輩・下輩の意味も知らないの?

身命をも捨て、財宝をも惜しまずに、仏法を求めなければならない、というのは聖道門の教えであり、上輩・中輩の人に対しての教えです。

『大無量寿経』には上輩・中輩の行について書かれてあります。

仏、阿難に告げたまはく、「十方世界の諸天・人民、それ心を至して、かの国に生れんと願ずることあらん。おほよそ三輩あり。それ上輩といふは、家を捨て欲を棄てて沙門となり、菩提心を発して一向にもつぱら無量寿仏を念じ、もろもろの功徳を修してかの国に生れんと願ぜん。これらの衆生、寿終らんときに臨んで、無量寿仏は、もろもろの大衆とともにその人の前に現れたまふ。すなはちかの仏に随ひてその国に往生す。すなはち七宝の華のなかより自然に化生して不退転に住せん。智慧勇猛にして神通自在ならん。このゆゑに阿難、それ衆生ありて今世において無量寿仏を見たてまつらんと欲はば、無上菩提の心を発し功徳を修行してかの国に生れんと願ずべし」と。

仏、阿難に語りたまはく、「それ中輩といふは、十方世界の諸天・人民、それ心を至してかの国に生れんと願ずることありて、行じて沙門となりて大きに功徳を修することあたはずといへども、まさに無上菩提の心を発して一向にもつぱら無量寿仏を念ずべし。多少、善を修して斎戒を奉持し、塔像を起立し、沙門に飯食せしめ、繒を懸け灯を燃し、華を散じ香を焼きて、これをもつて回向してかの国に生れんと願ぜん。その人、終りに臨みて、無量寿仏はその身を化現したまふ。光明・相好はつぶさに真仏のごとし。もろもろの大衆とともにその人の前に現れたまふ。すなはち化仏に随ひてその国に往生して不退転に住せん。功徳・智慧は、次いで上輩のもののごとくならん」と。

親鸞会で教えていることは、下輩の我々に対しての教えではないのです。講師部は信心決定する近道というのは、上輩の

家を捨て欲を棄てて沙門となり

に当ります。善をしなければ信仰は進みませんよ、と教えて、正本堂やF館、壁画の財施、高森会長への法礼を強く勧めるのは、中輩の

多少、善を修して斎戒を奉持し、塔像を起立し、沙門に飯食せしめ、繒を懸け灯を燃し、華を散じ香を焼きて、これをもつて回向して

に相当する行です。上輩・中輩の行もできないのが圧倒的多数の下輩です。下輩には、善を勧められていません。

仏、阿難に告げたまはく、「それ下輩といふは、十方世界の諸天・人民、それ心を至してかの国に生れんと欲することありて、たとひもろもろの功徳をなすことあたはざれども、まさに無上菩提の心を発して一向に意をもつぱらにして、乃至十念、無量寿仏を念じたてまつりて、その国に生れんと願ずべし。もし深法を聞きて歓喜信楽し、疑惑を生ぜずして、乃至一念、かの仏を念じたてまつりて、至誠心をもつてその国に生れんと願ぜん。この人、終りに臨んで、夢のごとくにかの仏を見たてまつりて、また往生を得。功徳・智慧は、次いで中輩のもののごとくならん」と。

この解説は

「苦笑の独り言」【ツッコミ依頼】三輩の話をするなら、『選択集』ぐらい読めよ(苦笑)

にありますので、そちらを御覧下さい。
前回のコメントでも書きましたが『持名鈔』には

されば仏法を行ずるには、家をもすて欲をもすてて修行すべきに、世をもそむかず名利にもまつはれながら、めでたき無上の仏法をききて、ながく輪廻の故郷をはなれんことは、ひとへにはからざるさいはひなり。

と聖道門と浄土門の違いが教えられています。
しかし我々は「家をもすて欲をもすて」ることができず、聖道門の修行で仏果を得ることは極めて難しいことです。そんな者の為に浄土門を用意して下されたのです。

『持名鈔』には、

おほよそ「一向専念無量寿仏」といへるは、『大経』の誠説なり。諸行をまじふべからずとみえたり。「一向専称弥陀仏名」(散善義 五〇〇)と判ずるは、和尚(善導)の解釈なり。念仏をつとむべしときこえたり。このゆゑに源空聖人このむねををしへ、親鸞聖人そのおもむきをすすめたまふ。 一流の宗義さらにわたくしなし。まことにこのたび往生をとげんとおもはんひとは、かならず一向専修の念仏を行ずべきなり。

と諸行をまじえず、一向専修の念仏を行じなさいと教えられています。世の倣いに従って名利に執着したままで、出離できるという親鸞聖人の教えに反することを教えているのが高森会長です。

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コメント

>講師部は信心決定する近道というのは、

これって本当ですか?会員でこのように勘違いしている人(特に学生?)はいると思いますが、
会の公式見解としては、おそらくそのようなことは言っていないと思いますが。

学院説明会で、そのような発言をした学生に対して、学院長は
「会長先生はそのようなことは一言もおっしゃったことがない!」と激怒していましたよ。

講師部は最高の道とは言われますが、「信心決定する近道」という表現はないように思います。
ソースはどこですか?

投稿: ニア | 2010年2月19日 (金) 23時45分

昔昔、講師学院というものができて募集された際に、当時の座談会で、会長はそのようなことを言ったと記憶しています。それで当時の学生部幹部がこぞって講師学院にはいりました。今では考えられない人数でした。その後、それを修正するような発言もあり、「講師部は最高の道」ということで統一した見解で今は言われています。
でも、最高の道とは、信心決定においての最高の道、近道という意味で、理解している人は、若い人でも結構いますよね。
当時のことを知る私のような古い会員は、いまだにそのような理解をしているのではないでしょうか。

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2010年2月20日 (土) 04時56分

20年以上前、高森会長が全講師部員を急遽召集しました。
「君たちは信心決定する気があるのか。君たちが信心決定できないから会員も救われないのだ。」と。
一般会員が救われるよりも前に、講師部員が救われて当然だ、ということです。
高森会長は言葉遊びが好きです。

善をしなければ信仰は進みません、信仰が進まなければすくわれません。しかし、善で救われるとはいっていません。

これと同じで、

講師部は最高の道です。信心決定においても最高の道です。しかし、講師部は信心決定の最も近道とは言っていません。

こんなとこでしょうか。でも、かなり昔は、講師部は信心決定への近道ということを聞いた覚えがあります。

投稿: 元講師部員 | 2010年2月20日 (土) 07時57分

私も30年近く前、専任講師から「講師部は信心決定への一番の
近道だ」と何回も聞きました。

投稿: | 2010年2月20日 (土) 12時36分

上記の山崎学院長の発言は2000年前後の言葉です。
おそらく学院長も教義的に「講師部は信心決定の近道」が間違いだと分かっていたのでしょう。

しかし、高森会長が「講師部は信心決定の近道」だとか、「講師部が先に救われて当然だ」などと
言うであろうことは、想像に難くありません。

高森さんは言葉が命だなんていいながら、感情に任せてその場しのぎのことをいって、
コロコロ言うことをかえています。本当に身勝手な人です。

自分の感情で周囲の人を振り回して、まるで子どもですね。

投稿: メロ | 2010年2月20日 (土) 17時54分

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