私は『教行信証』を読んだことがありません、と告白
教学聖典で新たに加わった善の勧めの他の問答が、以下です。
問
「後生の一大事を知らされるほど、善根功徳を修め
ずにおれなくなる」と教えられた蓮如上人のお言葉
と、その根拠を書け。答
これにつけても、人間は老少不定と聞く時は、急ぎ
いかなる功徳・善根をも修しいかなる菩提・涅槃
をも願うべき事なり。
(御文章)
最近、親鸞会ではこれを蓮如上人の善の勧めの根拠と声高に叫んでいるようです。これに関しては、親鸞会批判のブログでも取り上げていない根拠であるからかもしれません。しかし、この蓮如上人のお言葉は、『教行信証』化土巻の要門釈の内容が書かれてあるものですので、これを善の勧めと思っているようでは、
私は『教行信証』を読んだことがありません
と、告白しているようなものです。
最初に『御文章』4帖目第3通全体を読んで下さい。
それ、当時世上の体たらく、いつのころにか落居すべきともおぼえはんべらざる風情なり。しかるあひだ、諸国往来の通路にいたるまでも、たやすからざる時分なれば、仏法・世法につけても千万迷惑のをりふしなり。これによりて、あるいは霊仏・霊社参詣の諸人もなし。これにつけても、人間は老少不定ときくときは、いそぎいかなる功徳善根をも修し、いかなる菩提涅槃をもねがふべきことなり。
しかるに今の世も末法濁乱とはいひながら、ここに阿弥陀如来の他力本願は今の時節はいよいよ不可思議にさかりなり。さればこの広大の悲願にすがりて、在家止住の輩においては、一念の信心をとりて法性常楽の浄刹に往生せずは、まことにもつて宝の山にいりて手をむなしくしてかへらんに似たるものか。よくよくこころをしづめてこれを案ずべし。
しかれば諸仏の本願をくはしくたづぬるに、五障の女人、五逆の悪人をばすくひたまふことかなはずときこえたり。これにつけても阿弥陀如来こそひとり無上殊勝の願をおこして、悪逆の凡夫、五障の女質をば、われたすくべきといふ大願をばおこしたまひけり。ありがたしといふもなほおろかなり。これによりて、むかし釈尊、霊鷲山にましまして、一乗法華の妙典を説かれしとき、提婆・阿闍世の逆害をおこし、釈迦、韋提をして安養をねがはしめたまひしによりて、かたじけなくも霊山法華の会座を没して王宮に降臨して、韋提希夫人のために浄土の教をひろめましまししによりて、弥陀の本願このときにあたりてさかんなり。
このゆゑに法華と念仏と同時の教といへることは、このいはれなり。これすなはち末代の五逆・女人に安養の往生をねがはしめんがための方便に、釈迦、韋提・調達(提婆達多)・闍世の五逆をつくりて、かかる機なれども、不思議の本願に帰すれば、かならず安養の往生をとぐるものなりとしらせたまへりとしるべし。あなかしこ、あなかしこ。
全体を読まれれば、判ると思いますが、聖道仏教と浄土仏教との関係について書かれたものです。それは
霊山法華の会座を没して王宮に降臨して
法華と念仏と同時の教
で明らかです。
同様に
これにつけても、人間は老少不定ときくときは、いそぎいかなる功徳善根をも修し、いかなる菩提涅槃をもねがふべきことなり。
しかるに今の世も末法濁乱とはいひながら、ここに阿弥陀如来の他力本願は今の時節はいよいよ不可思議にさかりなり。
も前半の文と後半の文を繋いでいるのが「しかるに」ですから、聖道仏教と浄土仏教を比較されていることがお判りになるでしょう。
次に、ここで蓮如上人が仰っていることは、『教行信証』化土巻要門釈の
しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。
偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。
との説明をされたものです。意味は、
外道を信じていた人が聖道門に入っても、真実のものははなはだ少なく、虚偽のものははなはだ多いので、釈尊は善を修して浄土往生する教えを説いて衆生を誘引し、阿弥陀仏は19願を発して衆生を導かれる、ということです。
それと『観無量寿経』の顕彰隠密を合わせてここで18願意までも蓮如上人は明らかにされたのです。
『教行信証』化土巻要門釈の
釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。
すなはちこれ顕の義なり。彰といふは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。達多(提婆達多)・闍世(阿闍世)の悪逆によりて、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなはちこの経の隠彰の義なり。
の部分です。この意味をまとめると
『観無量寿経』
顕説(方便)-如来の異の方便、欣慕浄土の善根-19願意
隠彰(真実)-弥陀大悲の本願-18願意
となります。
蓮如上人のお言葉で言えば、
顕説-末代の五逆・女人に安養の往生をねがはしめんがための方便
隠彰-五逆をつくりて、かかる機なれども、不思議の本願に帰すれば、かならず安養の往生をとぐるものなり
です。
もう少し砕いていえば、蓮如上人は高森会長の言う三重廃立を教えられているのです。
外道を信じている人のために聖道仏教を方便として説かれて、まず仏教に導き入れられたのですが、聖道仏教を信じている人には、観無量寿経の定散二善、19願によって浄土仏教へ誘引せられ、19願を信じている人を18願他力に導き入れられているということです。
違う言い方をすれば、聖道仏教を説かれたのは、誰に対して、何の目的かといえば、外道を信じている人に対して、仏教を信じさせるためでしょう。仏教を信じている人にまず外道を信じてみなさいと教えられません。
では定散二善、19願を説かれたのは、誰に対して、何の目的か。聖道仏教を信じている人に対して、浄土仏教を信じさせるためでしょう。浄土仏教を信じている人にまず聖道仏教を実践してみなさいとは教えられません。
ならば、18願を信じて、他力念仏往生を願っている人に対して、まず19願を実践してみなさい、という理屈が通りますか?
蓮如上人がここで仰りたかったことは、
かかる機なれども、不思議の本願に帰すれば、かならず安養の往生をとぐるものなりとしらせたまへりとしるべし。
ということであり、
いそぎいかなる功徳善根をも修し、いかなる菩提涅槃をもねがふべきこと
の誤りを正されたのです。
そういえば、善の強調満載の教学聖典ができた平成12年は、正本堂の募財が思うように進まず、『なぜ生きる』を世に出せば、正本堂はオートマチックで建つと豪語していた時ですね。
これが善知識の本当の姿です。
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コメント
何度も朗読した御文章・教学聖典ですが、指摘されてみると確かに「で、なんでこれが善の勧めなの?」と思いました。
老少不定とは“いつ死ぬかわからないこと”ですから、それを強く感じたときには
「突然死が襲ってくる前に善を修めて功徳を積んでおこう」「その前に修行を成就させなければならぬ」という気持ちがおこるのはわかる話です。
でも本当に弥陀の本願を求める人なら、老少不定ときいたら
「もう明日生きておれんかもしれない、今救われたい!」って思いますよね。どこに善をする余裕があるんでしょう。
「後生の一大事を知らされるほど、善根功徳を修めずにおれなくなる」という問題文も会員時代は当たり前でしたが、いま見返すとおおいに疑問です。
後生の一大事を知らされるほど、っていう訳はどっから湧いて出たんでしょうね。
御文章に親しんでても、教学聖典に載っている部分だけ、親鸞会の解釈通りに理解してた会員時代が恨めしい。。。
投稿: ちょこぼ | 2010年2月18日 (木) 00時34分
ちょこぼ 様
教学聖典は、断章取義ばかりです。前後を見れば意味が違ってくるのに、それを知ってか知らずか、このような謗法罪を造り続けています。
私も長年の会員時代には、完璧に騙され続けてきました。今は、お聖教を自分で拝読するようになりました。
仕事の合間に片手間で数ヶ月勉強しただけで、今は講師部員や高森会長よりも遥かに教学力があると自負しています。
所詮はその程度の団体であったということです。
投稿: 飛雲 | 2010年2月18日 (木) 07時38分
>
残念ながらそうみたいですね(;´д`)トホホ…。
親鸞会は正しくあって欲しいと思いながらネット巡ってみたんですが、どう弁護しようにも分が悪すぎです。
親鸞会教義の誤りを指摘するサイトには、難しいお言葉や知らなかった根拠がバシバシ出てきて、
親鸞会でやった教学なんて「井の中の毒蛙」でしたね。
ただその分、難しくて敬遠しがちになってしまうので、私もちょっとずつでも勉強していきたいと思います。
投稿: ちょこぼ | 2010年2月18日 (木) 14時00分
去年3月、お釈迦様の易往爾無人のお言葉を聞いたなら、お釈迦様頭がおかしくなったんじゃないですか?と思うのが当然だと会長は言いました。
それまで私は、親鸞会の教義が親鸞聖人の言われた通りでないと感じ始めていましたが、求道上に必要だと考えて、わざと会長がそう話しているかもしれないと、確信はありませんでした。
しかし、お釈迦様頭が~の発言を聞いた時に、会長の断章の酷さと、あまりに悲惨な考え無しの発言に唖然としました。
悲劇は阿呆が演じると喜劇に変わるそうですね。会長やその取り巻きの阿呆さ加減を考えると、私自身の無駄になった時間とお金と体力は、悲劇というよりも喜劇のような気が最近しています。
投稿: 喜劇 | 2010年2月18日 (木) 20時31分
真面目な会員であった人ほど、ちょこぼさん、喜劇さんと同じ気持ちになると思います。
私も昨年3月の教学講義に参加して、会長から直接トンデモ発言を聞きました。「易往爾無人」のお言葉におかしなところがないのに、田中氏との法論の後遺症で、無理やりヘンテコ理論を押し付けられて、私も唖然としたのを思い出しました。
あの後、信心の沙汰で会長の思い違いを遠回しに指摘したところ、周りの人は沈黙していました。
あれで気が付かず、未だに会長を信奉している人は、最後まで会長と運命を共にすることになるのでしょうか。彼らこそ、本当の悲劇の主人公です。
投稿: 飛雲 | 2010年2月18日 (木) 21時07分