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2010年2月12日 (金)

弥陀一仏を念じたてまつるほかに二つをならぶることなかれ

前回、一向専念無量寿仏と説きながら諸善を勧めることは、完全に矛盾していることを蓮如上人の『御文章』のお言葉を通して述べました。ただ、あれでは判りにくいという方もあると思います。

それでいつもの元会員さんからコメントを頂きました。前回私が述べたかったことを補足する内容で、コメント欄で埋もれてしまうのはもったいないので、ここに紹介させて頂きます。

会員の皆さまは、獲信の因縁としての諸善の勧めと一向専念無量寿仏が相容れないことが理解できないのでしょう。

会員でここを見ている方がおられましたら、下に『浄土真要鈔』のお言葉を引用しましたので、拝読してみて下さい。「一向専念無量寿仏」とはどんなことなのかが分かりやすく教えられています。

それ一向専修の念仏は、決定往生の肝心なり。これすなはち『大経』(上)のなかに弥陀如来の四十八願を説くなかに、第十八の願に念仏の信心をすすめて諸行を説かず、「乃至十念の行者かならず往生を得べし」と説けるゆゑなり。しかのみならず、おなじき『経』(下)の三輩往生の文に、みな通じて「一向専念無量寿仏」と説きて、「一向にもつぱら無量寿仏を念ぜよ」といへり。「一向」といふはひとつにむかふといふ、ただ念仏の一行にむかへとなり。「専念」といふはもつぱら念ぜよといふ、ひとへに弥陀一仏を念じたてまつるほかに二つをならぶることなかれとなり。
これによりて、唐土(中国)の高祖善導和尚は、正行と雑行とをたてて、雑行をすてて正行に帰すべきことわりをあかし、正業と助業とをわかちて、助業をさしおきて正業をもつぱらにすべき義を判ぜり。ここにわが朝の善知識黒谷の源空聖人、かたじけなく 如来のつかひとして末代片州の衆生を教化したまふ。そののぶるところ釈尊の誠説にまかせ、そのひろむるところもつぱら高祖(善導)の解釈をまもる。かの聖人(源空)のつくりたまへる『選択集』にいはく、「速欲離生死 二種勝法中 且閣聖道門 選入浄土門 欲入浄土門 正雑二行中 且抛諸雑行 選応帰正行 欲修於正行 正助二業中 猶傍於助業 選応専正定 正定之業者 即是称仏名 称名必得生 依仏本願故」といへり。この文のこころは、「すみやかに生死をはなれんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業をかたはらにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業といふはすなはちこれ仏名を称するなり。名を称すればかならず生るることを得。仏の本願によるがゆゑに」となり。すでに南無阿弥陀仏をもつて正定の業と名づく。「正定の業」といふは、まさしく定まるたねといふこころなり。これすなはち往生のまさしく定まるたねは念仏の一行なりとなり。自余の一切の 行は往生のために定まれるたねにあらずときこえたり。しかれば、決定往生のこころざしあらんひとは、念仏の一行をもつぱらにして、専修専念・一向一心なるべきこと、祖師の解釈はなはだあきらかなるものをや。

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