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2010年2月 8日 (月)

無宿善の機と宿善の機

18願は、十方衆生を救いたもうお誓いですが、未熟の機のために、阿弥陀仏は権仮方便を用いられて建てられたのが19願、20願です。18願の絶対他力は受け入れられなくとも、他力に自力を加えて浄土往生を願うことが信じられる人がいるからです。

それも信じられない、因果の道理からすべて自力で成仏するんだ、という人も当然あるでしょう。そういう人のために、聖道仏教が説かれているのです。

これらの教えはすべて正しいです。聖道仏教も、19願、20願も、教えの通りに実践できれば、最終的には成仏できます。ただ、悲しいかな実践できないのが私たちです。

それで法然上人も親鸞聖人も、激しい非難を浴びることを覚悟の上、18願のみを教えられて、他は排斥されたのです。18願から漏れる人は誰一人ありません。

しかし18願をとても信じられない人がたくさんいることも事実です。そういう人のことを、未熟の機と言い、蓮如上人は無宿善の機と仰っています。無宿善の機には親鸞聖人の教えを説くことは謗法罪を造らせることになるとも仰っています。
たとえば『御文章』3帖目第12通に

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。

とあります。
宿善の機には、親鸞聖人の教えをそのまま話をすればいいのでしょうが、無宿善の機には無理やり親鸞聖人の教えを押しつけることはしない方がよいと思います。

『末灯鈔』には

この信心をうることは、釈迦・弥陀・十方諸仏の御方便よりたまはりたるとしるべし。しかれば、「諸仏の御をしへをそしることなし、余の善根を行ずる人をそしることなし。この念仏する人をにくみそしる人をも、にくみそしることあるべからず。あはれみをなし、かなしむこころをもつべし」とこそ、聖人(法然)は仰せごとありしか。

と親鸞聖人が教えておられます。聖道仏教を信じている人も、19願、20願を信じている人も尊重した上で、早く方便の教えを離れて18願真実の教えを聞いて欲しいと念ずるべきでしょう。

ただし、親鸞聖人の教えが19願の実践とかいうようなおかしなことを説くものに対しては、それは親鸞聖人の教えではないと伝えていく必要があります。

親鸞会の会員の大半は宿善の機だと思います。18願を信じている人ばかりですから。しかし変な指導者を選んでしまったが故に、変な教えを信じ込まされているのです。

決して上から目線ということではなく、親鸞会の会員に対して「あはれみをなし、かなしむこころをもつべし」の気持ちたいものです。

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