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2010年2月25日 (木)

「一切衆生必堕無間」の根拠は?

親鸞会では、釈尊、善知識方の誰も仰ったことのない「一切衆生必堕無間」を、未だに主張し続けています。善知識方を悪知識にしてしまうデタラメ教義がどこからでてきたのかを検証したのが、

「親鸞会教義の誤り」一切衆生は必堕無間なのか1

です。そのまま読まれた方がいいと思いますので、全文掲載します。

親鸞会では、「一切衆生必堕無間」だから、親鸞会に入って信心決定しなければならないといいます。この「一切衆生必堕無間」とは、全ての人は死んだならば、必ず無間地獄に堕ちるということです。しかし、本当に一切の衆生は必堕無間なのでしょうか。

まず「一切衆生必堕無間」と言う言葉は、経典にも、七高僧、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の著書にもありません。では高森会長の造語なのかといいますと、日蓮著『撰時抄』には、以下のようにあります。

教主釈尊の金言まことならば多宝仏の証明たがずば十方の諸仏の舌相一定ならば今日本国の一切の衆生無間地獄に堕ちん事疑うべしや

ここから拝借した可能性は大いにあります。
参考までに、親鸞会でよく使われる「絶対の幸福」「相対の幸福」は、創価学会の「絶対的幸福」「相対的幸福」を真似たのは、間違いないでしょう。

高森会長が創価学会を真似ているところは多々指摘されています。分かりやすいところでは「正本堂」という言葉は、大石寺に創価学会がかつて建設した建物の名称です。「正本堂」という言葉は歴史的にも真宗では使われたことがありません。その他、組織拡大方法も創価学会を参考にしてきたといわれています。

ですから、親鸞会の根幹をなす言葉「一切衆生必堕無間」も、創価学会を真似たものと考えるのが自然です。

このように言いますと、「必堕無間」は親鸞会以外の真宗関係団体でも使っているとの反論があるでしょう。高森会長が著作の大半を盗作したといわれている大沼法竜師の『魂のささやき』には、

三千世界の者はみな助かっても、法竜一人は助からないのだ、と往生の望みの綱が切れたとき、無間のどん底に投げ込まれたのが先か、その機のままを摂取するのだぞの勅命が届いたが先か、必堕無間が先か、十方法界唯であったの自覚が先か、明来闇去か、闇去明来か、そんなことなど考える余裕あればこそ、この極悪最下の機が極善最上の法に生かされたのだ。

とあります。また高森会長が18才で獲信体験をした時の所属団体である華光会でも、「必堕無間」という言葉は使用されています。本願寺系発行の書物にも、「必堕無間」の言葉は見られます。その元になったのが『歎異抄』の、

いづれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

です。『歎異抄』は親鸞聖人の書かれた書物ではありませんので、これが親鸞聖人のお言葉と断定はできませんが、親鸞聖人のお言葉であるとして、親鸞会では、「親鸞聖人でさえ、地獄しか行き場のないものであると仰っているのだから、全人類は必堕無間で間違いない」、と主張します。

しかしここに論理の飛躍があります。親鸞聖人は御自身を非常に厳しく見つめられたお方ですので、御自身を顧みられたときに、懺悔のお言葉としてこのように仰った可能性は否定できませんが、他の人も「地獄一定」とはどこにも仰っていません。またこの「地獄」も「無間地獄」と特定されていません。

親鸞聖人の書かれた『教行信証総序』には

もしまたこのたび疑網に覆蔽せられなば、かえってまた曠劫を径歴せん。

と仰っています。「曠劫を径歴」ですから、六道(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界)を輪廻するということです。信心決定できずに死んだならば、地獄に堕ちるとも仰っていません。ましてや「必堕無間」ではありません。

曇鸞大師は『讃阿弥陀仏偈』に御自身のことを


我無始より三界に循りて、虚妄輪の為に廻転せらる。
一念一時に造る所の業、足六道に繋がれ三塗に滞まる。


と仰っています。
善導大師は『観経疏』散善義に機の深信として、


自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より巳来常に没し、常に流転して、出離の縁有ること無しと深信す。

と仰っています。
親鸞聖人、曇鸞大師、善導大師ともに、六道輪廻もしくは三悪道(地獄界・餓鬼界・畜生界)を経巡ると表現なされています。

親鸞聖人が地獄に堕ちると表現なされたのは御和讃では、
『浄土和讃』の


衆生有碍のさとりにて
無碍の仏智をうたがえば
曾婆羅頻陀羅地獄にて
多劫衆苦にしずむなり


と、『正像末和讃』の


念仏誹謗の有情は
阿鼻地獄に堕在して
八万劫中大苦悩
ひまなくうとぞときたまう


だけです。「衆生有碍のさとり」という異安心の人と、「念仏誹謗の有情」という謗法罪を造った人を限定に仰っています。「一切衆生」とは全く違います。

蓮如上人の『御文章』には


これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もってのほか相違す。そのゆえは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といい、これを信心のひとといえり。これおおきなるあやまりなり。また弟子は、坊主にものをだにもおおくまいらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきようにおもえり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあいだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに、極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことはうたがいなし。(一帖目第十一通)

それ越前の国にひろまるところの秘事法門といえることは、さらに仏法にてはなし。あさましき外道の法なりこれを信ずるものは、ながく無間地獄にしずむべき業にて、いたずらごとなり。(二帖目第十四通)

と地獄に堕ちる人の条件を限定されて仰っています。
親鸞会が「一切衆生必堕無間」の根拠として挙げるのが、


この信心を獲得せずは、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。(二帖目第二通)

です。『御文章』がお手紙であることと、他では限定した人に対して「地獄に堕ちる」と蓮如上人が仰っているところからすると、ここも、異安心や邪義を称えていた人に対して仰ったお言葉であったと考える方が、理解しやすいと思います。


蓮如上人のこの一文をもって、「一切衆生必堕無間」と主張するのは、釈尊、七高僧、親鸞聖人が決してされなかった脅しでの信者獲得を目指すものであり、外道です。

さて、高森会長が説いている「一切衆生必堕無間」の根拠は、創価学会なのか、華光会なのか、大沼法竜師なのか。その前は、江戸宗学でしょうが、いずれにしても、不安を煽って、会員に金集め人集めさせるカルト教義に仕立て上げたのは高森会長であり、悪意が感じられますね。

「一切衆生必堕無間」などという教えは浄土仏教でもありません。浄土を願う教えだから浄土仏教といわれるのです。地獄に向かっている教えを地獄秘事といいます。

地獄秘事の会員をやめて浄土仏教に帰依しましょう。

なお、地獄秘事を信奉している例の1会員さんは、このエントリーの件でのコメントは受け付けません。論点をずらさず、誡疑讃の質問に答えてからにしましょう。

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コメント

2度もコメントを受け付けないと言うとは、余程、この件に関して自信がないのだねえ。

私は必堕無間は当然認めていると思ってコメントしてきたのだが、親鸞聖人が善を勧められたか否かの議論と親鸞聖人がすべての人の後生をどのように教えられたかの議論と、どちらがより重要で優先すべきか、それが分からぬ飛雲氏ではないはず。ただの1会員である私の必堕無間のコメントに何をそんなに恐れるのかね。

掲載しているものを読んでみると、なるほど、自信のなさがうかがえるね。

連如上人の御文章二帖目第二通の

この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。

を御文章がお手紙であることと他では限定した人に対して仰ったことで、何故、これが異安心や邪義を称えていた人に対してだけになるのかね。
私達の手紙は、普通、特定の人だけが読むのを前提としているが、蓮如上人のお手紙は、これにより、1人でも多くの人達に親鸞聖人の御教えをお伝えする手段として使われたのであるから、当然、不特定多数の人が読まれることを前提として書かれたはずで、現に今も不特定多数の人に読まれている。
それに、他では限定した人に対してとあるが、そもそも当時は1通1通独立したものであるから、当然、このお手紙は拝読したが、他で限定した人に対して仰ったお手紙は拝読出来なかった人も大勢いるはずで、その人達は、すべての人は信心獲得しなければ後生は無間地獄と受け止めますよ。もしそれが間違いと言うのなら、蓮如上人が間違いやすい書き方をなされたということになります。

釈尊、七高僧の御心を最も顕かになされた御方が親鸞聖人、その親鸞聖人の御心を最も顕かになされた御方が蓮如上人であるから、親鸞聖人がすべての人の後生をどのように教えられたかを蓮如上人からお聞きしているだけです。

蓮如上人は、はっきりと、

この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。

と教えておられるから、必堕無間と主張しているのです。

投稿: | 2010年2月26日 (金) 03時43分

やっぱり、論点ずらしですか。誡疑讃については19願を勧められたというのはデタラメと言うことで決着しました。

必堕無間もきちんと読めよ。余程悔しいんだろうね。

これで心置きなく退会できますよ、M野支部長。

投稿: 現役会員 | 2010年2月26日 (金) 06時51分

今度は論点ずらしの正当化ですか。"アッと驚く、タメゴロー"ではないが
毅然と「論点をずらさないように」という反応だけを続けましょう。

「(件の和讃と)必堕無間の話題とどっちが大切か」という議論になってしまうのも、
論点がすり替わってしまいます。誘いには乗らずに、同じ事を聞き続けましょう。

---------------------------------------------------------------
>如来の諸智を疑惑して 信ぜずながらなをもまた
>罪福ふかく信ぜしめ 善本修習すぐれたり(正像末和讃)
>この「罪福ふかく信ぜしめ」が19願を勧められた御言葉です。それは次の「善本修習」(20願)へ導くためです。

という主張をしたが、それにことごとく反論をしてきたわけだから、
もう一度以下の論点からずれずに反論を行なってください。

1.この和讃が「19願のものである」という文証 
  
2.この和讃が19願自力諸善を「勧めたもの」であるという文証
  親鸞聖人のお言葉の中で"19願自力の善をせよ"という言葉を、"この和讃と関連する形で" 提示。

    ↓

これに対して

>親鸞聖人が善を勧められたか否かの議論と
>親鸞聖人がすべての人の後生をどのように教えられたかの議論と、
>どちらがより重要で優先すべきか、それが分からぬ飛雲氏ではないはず。
>ただの1会員である私の必堕無間のコメントに何をそんなに恐れるのかね。

と、「件の和讃の議論よりも必堕無間の議論の方が優先すべき」と聞いてもない理由を語りはじめ

 今 回 は 、 何 の 文 証 も 提 示 し て い な い 。

 提示できないのか。(すでにブログの読者からはそう思われてるようだが)
 提示しない=「提示できなかった」=「1会員さんの無根拠な珍説、お疲れ様でした」
 という決着でこの議論は終る。(その後ならお好きな議論をどうぞ。)


 既に何度も「論点をずらすな」と言われてるのに
 モロバレの論点ずらしを行なって応えてない(=提示しない)んだけどな
 
---------------------------------------------------------------

投稿: | 2010年2月26日 (金) 07時40分

非常に残念ですね、M野支部長。自分の発言に責任が持てないのですね。

論点ずらししかできないあなたの主張など、誰も信用しませんよ。もともと信用していませんので、恐れるとか恐れないとかというレベルに達していないのです。

当ブログの読者であれば、「一切衆生必堕無間」の誤りは明白ですから、くだらないあなたの論理など、賛同する人はないでしょう。

今後も下らないコメントをしてください、その度に、今回のことを皆思い出すでしょう。
なお、あらかじめ言っておきますが、あまりにも下らないコメントを続けられるようであれば、荒らしとしてniftyに報告し削除しますので、御了承ください。

投稿: 飛雲 | 2010年2月26日 (金) 07時42分

予想通りの展開でした。

これまでのコメントは、すべて保存してあります。削除したとか改竄したと今後は騒ぎ出すパターンですから、それを防ぐのが目的です。

ひがごとを言われるM野支部長は、罪福をふかく信じた方がいいですよ、一応忠告しておきます。

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2010年2月26日 (金) 08時29分

モロバレの論点ずらしも酷いけど、今回のコメントは文調すら推敲しなかったのだろうか。
今まで「一会員」と名乗って丁寧な口調で語っていた人間はどこへやら、
親鸞会の公式文書(新聞のコラムとかHPの文言)みたいな、専門の訓練を受けた人の書く
エラッソーな上から目線の文章(言葉づかい)になっちゃってるね
        ↓
>「それが分からぬ飛雲氏ではないはず」
>「なるほど、自信のなさがうかがえるね。」

「論点ずらし」の上に、"常套手段その2"こと「決め付け個人攻撃」も加わってまいりました
  決め付け個人攻撃とは…今回で言えば、飛雲氏のことを「一会員である自分を恐れ、自信がなくビクビクしてる」と
  決めつけて話をし始めたところですね。この手段の特徴として、
  ・上から目線で見下す&挑発的な文調になり、自分が優位に立っている"ような"文章になる
  ・相手がその決め付けの内容(挑発)に反論をすれば、それに合わせて論点をスライドさせていけばいい。
  ・決め付けを続け、相手の言うことに聞く耳を持たず、やがて相手が議論するのにウンザリするのが狙い目

罵詈雑言だけの個人攻撃よりもよっぽど有効手段。なだけに、「そういう訓練をされた人」というのがよく判ります。
かなり前に苦笑さんとこで指摘されてますが(参考:http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-5.html)。
無視をすると今度は「やっぱり自信がないんだな」的な挑発を始めるかもしれませんねー
自信がないのは「一会員」の方で、答えていないのは↓の件についてです。

論点をずらさず、件の和讃が「"19願"の"諸善を勧めたもの"」である、という「文証」の提示を。
(勿論、和讃との関連性をふまえた文証で)

投稿: | 2010年2月26日 (金) 12時42分

実にみっともないよ、M野さん。

黙っておけばいいものを、悔し紛れに墓穴を掘るカキコをしてさ、どうするの。

前後を読まずに解釈しているから、恥をかくのですよ。必堕無間も同じ。

M野さんの書いた必堕無間論は、自分でも容易に反論できますよ。論点ずらしの挑発にのっても馬鹿らしいので、書かないけど、御文章全体を読んでみな、断章取義のM野さん。

京大に入るだけの記憶力はあったのでしょうけど、思考力は中学生並ですかね。

投稿: 不良会員 | 2010年2月26日 (金) 13時24分

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