« 私は『教行信証』を読んだことがありません、と告白 | トップページ | 聖道門と浄土門、上輩・中輩・下輩の意味も知らないの? »

2010年2月18日 (木)

典型的な断章取義教学

教学聖典の中にある典型的な断章取義問答が、次のものです。


 「後生の一大事は、どんな犠牲を払っても解決せね
 ばならぬものである」と教えられた、存覚上人の
 お言葉と、その根拠を示せ。


 ○仏法の為には身命をも捨て、財宝をも惜しむ
  べからず。
                        (持名鈔)

これも以前の教学短冊にはなく、新たに加えられたものです。

ではこの問答が正しいのか、前後を併せて『持名鈔』を見てみましょう。

ここに弥陀如来、無縁の慈悲にもよほされ、深重の弘願を発して、ことに罪悪生死の凡夫をたすけ、ねんごろに称名往生の易行を授けたまへり。これを行じこれを信ずるものは、ながく六道生死の苦域を出でて、あまつさへ 無為無漏の報土に生れんことは、不可思議のさいはひなり。しかるに弥陀如来超世の本願を発したまふとも、釈迦如来これを説きのべたまはずは、娑婆の衆生いかでか出離のみちをしらん。されば『法事讃』(下 五八七)の釈に、 「不因釈迦仏開悟 弥陀名願何時聞」といへり。こころは、「釈迦仏のをしへにあらずは、弥陀の名願いづれのときにかきかん」となり。たとひまた、釈尊西天(印度)に出でて三部の妙典を説き、五祖東漢(中国)に生れて西方の往生ををしへたまふとも、源空・親鸞これをひろめたまふことなく、次第相承の善知識これを授けたまはずは、われらいかでか生死の根源をたたん。まことに連劫累劫をふとも、その恩徳を報ひがたきものなり。これによりて善導和尚の解釈(観念法門・意 六三七)をうかがふに、「身を粉にし骨を砕きても、仏法の恩をば報ずべし」とみえたり。これすなはち、仏法のためには身命をもすて財宝をも惜しむべからざるこころなり。このゆゑに『摩訶止観』(意)のなかには、「一日にみたび恒沙の身命を捨つとも、なほ一句の力を報ずることあたはじ。いはんや両肩に荷負して百千万劫すとも、むしろ仏法の恩を報ぜんや」といへり。恒沙の身命を捨てても、なほ一句の法門をきける報ひにはおよばず。まして順次往生の教をうけて、このたび生死をはなるべき身となりなば、一世の身命を捨てんはものの数なるべきにあらず。身命なほ惜しむべからず。いはんや財宝をや。

少し長いですが、如何でしょうか。これは、恩徳讃の気持ち、つまり救われた人が、阿弥陀仏、釈尊、次第相承の善知識方の御恩に報いる心構えについて教えられたものです。救われていない人のこととして書かれたものではありません。

最も判りやすい最後の

このたび生死をはなるべき身となりなば、一世の身命を捨てんはものの数なるべきにあらず。身命なほ惜しむべからず。いはんや財宝をや。

が全てを物語っています。

不勉強の高森会長が『持名鈔』を読んで、これを教学聖典に加えたとは思えません。大沼法竜師、伊藤康善師、香樹院師の著書にあったものを参考にしたか、誰かの入れ知恵でしょう。

いずれにしましても、『持名鈔』を断章取義して、会員に金集め人集めを命懸けでさせるための道具に使用しているのは、断じて許されるものではありません。

多くの会員さんが、何千万、人によっては億を越える財施をして、それでもまだ命懸けではないだろうと叱咤されて、まさに骨身を削って財産を提供されたのです。

そのお金が、会長一族しか使えない多くの会長御殿へと変わりました。今は、会長が使う予定のないF館にまで、終の住み家を密かに建設中です。

仏法を私利私欲の為に使い、教えを平気でネジ曲げ続ける高森会長を、それでもまだ信じますか?

|

« 私は『教行信証』を読んだことがありません、と告白 | トップページ | 聖道門と浄土門、上輩・中輩・下輩の意味も知らないの? »

コメント

私もこの部分はかねてより疑問でしたが、講師に尋ねると以下のように説明されました。

①聞書「おなじく仰せにいはく、悪人のまねをすべきより、信心決定の人のまねをせよと仰せられ候ふ[云々]」
 →信前であってもそのように努めるのがよい。(つまり身命・財宝を惜しまず求めよ)

②命がけで求めた者でなければ、命がけの報謝は出てこない。
 「たとい大千世界に~」の覚悟で求めた者 →獲信→ 「身を粉にしても~」の報謝行 となる。

確かこんな内容だったと思います。
私自身はなにやらごまかされたように感じたものの、特に反論は浮かびませんでした。
この説明もやっぱりおかしいのでしょうか。

投稿: ちょこぼ | 2010年2月19日 (金) 00時23分

ちょこぼ 様

『持名鈔』のこの後に、

されば仏法を行ずるには、家をもすて欲をもすてて修行すべきに、世をもそむかず名利にもまつはれながら、めでたき無上の仏法をききて、ながく輪廻の故郷をはなれんことは、ひとへにはからざるさいはひなり。まことにこれ、本師知識の恩徳にあらずといふことなし。

とあります。聖道門では、捨家棄欲しなければなりませんが、浄土門では、世の倣いにしたがって名利に執着したまま、無上の法を聞い出離すると書かれています。聖道門の道理を浄土門に都合よく当て填める悪意が感じられます。

親鸞会はなぜ、諸行往生と非難され、聖道門と揶揄されているのかは、このことで分かると思います。

なお存覚上人が勧められていることは

おほよそ「一向専念無量寿仏」といへるは、『大経』の誠説なり。諸行をまじふべからずとみえたり。「一向専称弥陀仏名」(散善義 五〇〇)と判ずるは、和尚(善導)の解釈なり。念仏をつとむべしときこえたり。このゆゑに源空聖人このむねををしへ、親鸞聖人そのおもむきをすすめたまふ。 一流の宗義さらにわたくしなし。まことにこのたび往生をとげんとおもはんひとは、かならず一向専修の念仏を行ずべきなり。

だけです。表面上の形ばかりを問題にする親鸞会には、このお言葉の意味が理解できないでしょうね。

投稿: 飛雲 | 2010年2月19日 (金) 06時14分

「どんな犠牲を払っても」とか「財宝をも惜しむな」とか、
自分とこの会員に対して、よくそんなことが平気で説明できるもんですね。
しかも、こうやって求めろと言わんばかり。
財宝と信心とを取引だと言ってるのと同じですね。

投稿: YGM | 2010年2月19日 (金) 08時17分

飛雲 様

返答いただきありがとうございます。
どうも私は聖道門と浄土門がまだまだ混同してしまっているようです。

そういえば親鸞会では、親鸞聖人の比叡山時代、慧可の達磨弟子入りエピソード、求法太子の話など、
浄土門にも当てはまることなのか何の根拠もなく、「求める心は同じだ」と繰り返し言われました。
私はすでに退会しており、親鸞会の話はもう数年聞いていないのに、この混同を区別つけるのは思ったよりもず~~~っと大変だと感じています。
少しでも疑問をもった会員の方は早く偏向から脱してほしいです。

投稿: | 2010年2月19日 (金) 12時05分

聖道門も大聖釈尊が説きたもうた尊い法ですよ。

投稿: | 2010年2月19日 (金) 17時55分

聖道門も実践できる人には、正しい教えです。
しかし、悲しいかな末法の我々には、聖道門の修行にたえることができません。
そんな人のために浄土門があり、阿弥陀仏が本願を建ててくださいました。

聖道門の修行をされたい尊い方を非難するつもりは毛頭ありません。

ただ、浄土門に聖道門の論理を持ち込んで、これこそが親鸞聖人の正しい教えだということに対して非難をしているのです。

投稿: 飛雲 | 2010年2月19日 (金) 18時08分

小釈迦とまで言われた龍樹菩薩でさえ救われない聖道門を何故釈尊は説かれたのでしょうか。しかも一切経のほとんどを費やしてまで。
これが弥陀の救いに無関係ならば不可解極まりないことなのですが。

投稿: | 2010年2月19日 (金) 18時46分

聖道門でも成仏できます。ただし、正法の時期であれば、と親鸞会でも教えている筈です。
龍樹菩薩は像法の方ですので、聖道門で仏のさとりまで到達することができなかったというのも、釈尊が教えられた通りと言えます。

前回詳しく書いたつもりですが、御理解頂けていないようですので、再度説明させて頂きます。
外道を信じている人を仏教へ導くためには、因果の道理に従って、善を修することで仏になることができるという聖道門は、信じやすい教えです。当然なことですが、釈尊が仏になられる前に、仏教はありませんでした。外道を信じている人しかいませんので、聖道門の教えが中心になるのも致し方ないことと考えます。しかし、先ほど述べたように末法の我々には、修行にたえることができません。それで、成仏を断念した人のために、浄土往生によって成仏という道のあることを示されます。ただし、すべて他力と言われると、聖道門とのギャップが余りにも大き過ぎますので、修善という自力に阿弥陀仏のお力を賜わって往生するという観無量寿経を釈尊は説かれ、阿弥陀仏は19願を建てられました。しかし、それは、あくまで浄土を願わせるための方便であり、真実の絶対他力18願へ導くためのステップの願と教えられたのが親鸞聖人です。

18願に入るためには19願を必ず通らなければならないと高森会長が教えていますが、それは18願を信じることができず18願で救われたいと思わない人に対しては、正しいといってもよいかも知れません。しかしすでに18願で救われたいと思っている人に対して、19願からスタートせよということではないことは、常識的に考えればお判り頂けるのではないかと思います。

投稿: 飛雲 | 2010年2月19日 (金) 19時37分

平生の一念で無条件で救う18願と善が必要で死後でしか救われない19願では、誰しも18願を信じ18願で救われたいと思うのではないのでしょうか。
が、現実は18願で救われている人は非常に少ないです。そこまで導くための19,20願という親鸞会の主張の方が説得力があるように思うのですが。

投稿: | 2010年2月19日 (金) 20時28分

18願での救いを求めても救われていないのに、19願、20願の行をすることがより遠回りになると思われないのでしょうか。

親鸞聖人が定散二善を、迂回の善と仰った通りです。自力念仏を厳しく戒められた通りです。

親鸞聖人の教えられたことと高森会長の教えが違うと言っているのであって、高森宗という新しい宗派のことを論じているのではありません。

親鸞聖人、蓮如上人のお言葉での議論なら意味がありますが、高森会長の言葉で議論しても、それは浄土真宗という土俵を外れていますので、議論になりません。

私は親鸞会で20数年遠回りをさせられました。しかし、19願の修善は捨てるべきものという親鸞聖人の正しい教えを知り、18願での救いを正しく聞いて、他力に帰すことができました。

投稿: 飛雲 | 2010年2月19日 (金) 20時46分

19、20願の行をすることがより遠回りとなるのなら、何故、弥陀は十方衆生相手に19願、20願を建てられたのでしょうか。

投稿: | 2010年2月19日 (金) 21時04分

前のコメントの通りです。
『教行信証』化土巻の要門釈についても前回書きました。

読まれたのですか?

親鸞聖人の教えられたことがおかしいと言われるのであれば、当然ながら浄土真宗ではありません。

投稿: 飛雲 | 2010年2月19日 (金) 21時07分

一応お知らせしておきますが、19願、20願の十方衆生と18願の十方衆生とは意味が違うと

「21世紀の浄土真宗を考える会」
生因三願の「十方衆生」についての考察
http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-180.html
十方衆生とはいうものの…
http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-386.html

に解説があります。
読まれるとよいでしょう。

投稿: 飛雲 | 2010年2月19日 (金) 21時18分

>が、現実は18願で救われている人は非常に少ないです。そこまで導くための19,20願という親鸞会の主張の方が説得力があるように思うのですが。

親鸞会の中では救われている人は、非常に非常に少ないです。なぜなら19願、20願という遠回りをさせているからです。
遠回りをやめて、18願での救いを直接願われた人は、救われている人が何人もいますよ。現に、管理人さんも救われたと仰ってますよね。

井の中の蛙が、見たこともない大海のことを語っても説得力がありませんよ。

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2010年2月19日 (金) 21時59分

親鸞会で救われた人は何十人といますよ。
過去の顕正新聞や顕真に多く載っています。
それ以外にも数名の人に直接会って話をしたこともあり、その中の2人とは手紙のやりとりをしたことがあります。

投稿: | 2010年2月20日 (土) 03時38分

華光会時代の人ですよね。親鸞会ができてからでは、臨終の人が何人かおられましたが、平生に救われたといっていた人は、その後姿を見せなくなりました。亡くなった方、親鸞会を離れた方は確認のしようがありませんが、華光会時代の方では、私も何人か知っています。

でも、先ほどの18願で救われた人は非常に少ないとのカキコと矛盾しませんか?

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2010年2月20日 (土) 04時48分

何十人というのは、かの有名な華光会時代の人を除いてです。
以前、私が所属していた支部でも支部の会員さんが臨終間際に救われたと会合で支部長から報告がありました。
今も2000畳でよく見かける人で、平生に救われたと顕正新聞か顕真に載り、その体験発表までした人を2人知っています。そのうちの1人とは何度か話をしましたが、何時も法を尊く思っておられ、タクシーに同乗した時も運転手が全く聞く素振りを見せていないのに、ずっと因果の道理を話しておられました。

非常に少ないと言ったのは、親鸞聖人の御教えにあった人の中でのことです。おそらく何百万、何千万人の中の何十人というのは非常に少ないと思うのですが。

投稿: | 2010年2月20日 (土) 07時54分

私も2人知っています。
臨終間際に救われたと言われている人も何人か聞いたことがあります。
亡くなった方は、確かめようがないですし、救われたと言って会員を辞めていった人を差し引くと、それ以外にはおられないように思います。

ところで、親鸞聖人の

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。
偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。(教行信証化土巻)


経家によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。(教行信証化土巻)

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。(教行信証化土巻)

また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。(教行信証信巻)

これらのお言葉を否定されるのでしょうか、肯定されるのでしょうか。返答を頂きたいと思います。
また法然上人の

おほよそかくのごときの三義不同ありといへども、ともにこれ一向念仏のための
所以なり。初めの義はすなはちこれ廃立のために説く。いはく諸行は廃せんがために
説く、念仏は立せんがために説く。次の義はすなはちこれ助正のために説く。
いはく念仏の正業を助けんがために諸行の助業を説く。後の義はすなはちこれ
傍正のために説く。いはく念仏・諸行の二門を説くといへども、念仏をもつて正
となし、諸行をもつて傍となす。ゆゑに三輩通じてみな念仏といふ。ただし
これらの三義は殿最知りがたし。請ふ、もろもろの学者、取捨心にあり。いまもし
善導によらば、初め(廃立)をもつて正となすのみ。
(選択本願念仏集)


故に知んぬ。諸行は機に非ず、時を失えり。念仏往生は機に当り、時を得たり。
感応あに唐捐ならんや。まさに知るべし。隨他の前には暫く定散の門を開くと
いえども、隨自の後には還って定散の門を閉づ。一たび開いて以後永く閉じざるは
ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意ここに在り、行者まさに
知るべし。(選択本願念仏集)


それ速やかに生死を離れんと思わば、二種の勝法の中に、
しばらく聖道門を閣きて、選びて、淨土門に入れ。
浄土門に入らんと思わば、正雑二行の中に、
しばらく諸々の雑行を抛てて、選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと思わば、正助二業の中に、なお助業を傍にして、
選びて正定を專にすべし。
正定の業というは、すなはち、これ佛の御名を称するなり。
名を称すれば必ず生まるることを得。
佛の本願によるが故に。(選択本願念仏集)

のお言葉についてもあなたの意見を教えて下さい。

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2010年2月20日 (土) 08時31分

救われた体験だけではその真偽は分からないので、教学できましたね。

当方、お粗末ではありますが、親鸞学徒ですから、親鸞聖人の御言葉は当然肯定致します。
選択本願念仏集を解釈なされたのが教行信証と心得ておりますので、意見の要求につきましては、親鸞聖人の御言葉に対してお願い致します。

投稿: | 2010年2月20日 (土) 09時35分

もともと飛雲さんは、教学の話をしてきましたのに、あなたが、それに答えないからでしょう。親鸞聖人のお言葉を肯定されるなら、

>19、20願の行をすることがより遠回りとなるのなら、何故、弥陀は十方衆生相手に19願、20願を建てられたのでしょうか。

この回答が理解できるでしょう。理解できないから、話題をそらしたのでしょ。

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2010年2月20日 (土) 09時43分

1つだけ質問しておきましょう。
親鸞聖人が19願を勧められたお言葉を出して下さい。
念の為申しておきますが、19願の意味は善を修めることですというような説明と19願を勧められたこととの違いは判りますよね。
観経でいえば、顕説と隠彰の違いも、当然理解されている筈と言う前提で質問しています。

もし意味が判らなければ、このブログを初めからしっかり読むか、親鸞会教義の誤りを十分に理解してからきて下さい。

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2010年2月20日 (土) 09時55分

理解出来ていますよ。

投稿: | 2010年2月20日 (土) 09時59分

それなら結構なことです。高森会長の間違いを会員さんに伝えてあげてくださいな。

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2010年2月20日 (土) 10時02分

理解出来ていますよ。
のコメントは2つ上のことについてです。
高森先生こそ親鸞聖人の御心を最も顕かになされた御方だと大尊敬致しておりますので。

投稿: | 2010年2月20日 (土) 10時11分

親鸞聖人のお言葉と反することを教えている高森会長が、親鸞聖人の御心を顕かにしたとは笑えますね。その根拠は出せない訳ですね。

文底秘沈といっているどこかの団体を馬鹿にしていますが、親鸞会も同じですよ。

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2010年2月20日 (土) 10時18分

>高森先生こそ親鸞聖人の御心を最も顕かになされた御方だと大尊敬致しておりますので。

この根拠は、やはりないのですね。自分も高森会長を信じたいと思ってきましたが、もう限界です。
それにしてもM野支部長(?)は、ワンパターンです。威勢はよく、論点ずらしは得意なのでしょうが、議論の中身がないですよ。親鸞会擁護になってないです。

でもそのお陰で目が覚めました。近々退会します。

投稿: 現役会員 | 2010年2月20日 (土) 11時57分

親鸞会のネット対策員なのか、弘宣部員なのか、単なる現役会員なのか、それともM支部長なのかは知りませんが、高森会長を擁護する人の意見は、本当にワンパターンですね。
親鸞聖人その他の善知識と呼ばれる方の御文を提示せず、自分の考えを言う。根拠を提示したかと思うと、断章している(前後を読むと意味が違う)。世間一般の常識を無理矢理教義に当てはめる。
自分が信じて人生をつぎ込んだ会長が間違っているとわかるのが、そんな人達には耐えられないんでしょうね。

投稿: | 2010年2月20日 (土) 14時16分

皆さん、お待たせしました。

如来の諸智を疑惑して
信ぜずながらなをもまた
罪福ふかく信ぜしめ
善本修習すぐれたり(正像末和讃)

この「罪福ふかく信ぜしめ」が19願を勧められた御言葉です。それは次の「善本修習」(20願)へ導くためです。

なお、私はM野支部長でも講師部員でもありません。世間の仕事に従事しながら聞法している単なる(お粗末で不真面目な)会員です。私を立派なM野支部長と間違えるのは、M野支部長に失礼ですよ。

投稿: | 2010年2月20日 (土) 18時49分

つまらない珍説ですね。

これが19願を勧められたお言葉とはね。

M野支部長に、もう少しおもしろい珍説を習ってきてください。

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2010年2月20日 (土) 19時45分

19願は修諸功徳の願と言って平たくいうと「善をやりなさい。そうすれば助ける。」という願です。
つまり廃悪修善を勧めた願です。
どれだけ廃悪修善に向かえるかは因果の道理をどれだけ深く信じているかにかかっています。
その因果の道理を親鸞聖人は罪福という御言葉で教えられたのです。
罪福ふかく信じたならそれは必ず善の実行となってあらわれます。
もし、19願が単に浄土を願わせるためだけの願ならば、別段、ふかく信ぜしめる必要はありません。

投稿: | 2010年2月21日 (日) 21時03分

懲りない人ですね。

『大無量寿経』胎化段にあるお言葉を、『浄土三経往生文類』にも引かれて、それを管理人さんはエントリーで紹介されました。その内容を御和讃で表現されたことが分からないとはね。

此の諸智に於いて疑惑して信ぜず。然るに猶ほ罪福を信じて善本を修習して

如来の諸智を疑惑して 信ぜずながらなをもまた
罪福ふかく信ぜしめ 善本修習すぐれたり

比較しろよな。どうしてこれが19願になるの。

もう少し言えば、

罪福ふかく信じつつ 善本修習するひとは
疑心の善人なるゆゑに 方便化土にとまるなり

これも19願か。
立派なM野支部長ともう少し無い智慧を絞れよ。

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2010年2月21日 (日) 21時49分

教学力がないでしょうから補足説明すれば、

此の諸智に於いて疑惑して信ぜず。然るに猶ほ罪福を信じて善本を修習して

これは20願成就文です。

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2010年2月21日 (日) 21時59分

現役の人の主張・・・

「如来の諸智を疑惑して 信ぜずながらなをもまた
 罪福ふかく信ぜしめ 善本修習すぐれたり」

   この和讃は、①「十九願」を②「勧めた」和讃である。


この①②に対して、

1.十九願のことを言ってる和讃だ、という主張がおかしい
 →この和讃は「此の諸智に於いて疑惑して信ぜず。然るに猶ほ罪福を信じて善本を修習して」と
  20願に関連する言葉であるから。

2.十九願を「勧めている」という主張がおかしい
 →この和讃の前後含めて誡疑讃という、「本願を疑うこと=自力心、を誡めた和讃」だから
 「自力心を誡める」内容であって、「自力の善を行なえ」という和讃ではない


だから現役の人は「十九願はどういう願か」の講釈をする必要ない。
反論するなら

・「猶ほ罪福を信じて善本を修習して」という言葉を覆して
 この和讃が19願のことを言ったものである証拠を提示して反論する。

・疑いを誡めるための和讃という言葉を覆して、
 「19願で説かれた善を勧める」ものであるという証拠を提示して反論する。

これ以外の話をする必要はない。

色んなところで指摘されてるけど、親鸞会の人は「すぐ論点をすり替える」って言われてるし、
ちゃんと「"自分の提示した和讃"が19願のものかどうか、19願の善を勧めたものかどうか」という
論点からずれないで話をしてほしいもんだわ

投稿: | 2010年2月22日 (月) 00時26分

M野支部長(?)、みっともないからやめてください。

教学力のない私でも、この御和讃が20願についていわれたものとわかります。

親鸞会はいつも無理やり解釈しているのが嫌でした。古語の常識も無視して都合よく解釈して、おかしいだろうと思いながら続けてきましたが、このごに及んでも、まだ謗法罪を重ねるとは、罪福信じていない証拠です。

恥ずかしい団体ですね。もうやめます。

投稿: 現役会員 | 2010年2月22日 (月) 11時12分

幹部会員歴数十年 様
名無し 様
現役会員 様

コメント有難うございます。新たにエントリーを書きましたが、参考にさせて頂きました。
またよろしくお願いいたします。

投稿: 飛雲 | 2010年2月22日 (月) 20時56分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 典型的な断章取義教学:

« 私は『教行信証』を読んだことがありません、と告白 | トップページ | 聖道門と浄土門、上輩・中輩・下輩の意味も知らないの? »