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2010年2月16日 (火)

「宿善すくなきもの」から「宿善あつきもの」になれと言われても

昔は、教学短冊、教学テキストと言われていたものが、平成12年から教学聖典というものになり、内容もかなり変わりました。変わったところはいくつもありますが、その代表が善の強調です。

たとえば、


 宿善の厚き人と、薄き人との違いを教えられた『唯信鈔』の御文を示せ。


 宿善の厚きものは今生も善根を修し悪業をおそる。
 宿善少きものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。

は以前のものにはありませんでした。これを読めば、悪業を好み善根をしていないと自覚する人は、宿善薄いものだから、高森会長の言う通りに、善(特に財施と法施)に励まなければならないと思うようになります。

しかし、この『唯信鈔』で言われていることは、親鸞会で教えていることとまるっきり逆の事であったのです。「親鸞会教義の誤り」にある宿善とは1宿善とは2を読まれれば、そのことがはっきりします。以下引用します。

宿善とは1より

更には親鸞聖人が尊敬されていた聖覚法印の『唯信鈔』には、

つぎにまた人のいはく、「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生することを得んや」と。
これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。

と教えられています。ここで言われていることは次の通りです。

宿善の薄い人と厚い人があるが、それは今生で善悪をしている有様でわかる。自分は善いことを行おうという心がなく宿善が薄いが、五逆罪を犯しておらず、阿弥陀仏の本願を深く信じさせて頂いている。五逆罪の者の十回の念仏が宿善によるものであって、我々の一生の念仏をもって宿善の浅いこととどうして思うのか。その考えが往生の妨げになっている。

つまり宿善の厚薄を問題にすることが間違いであると言われているのです。

宿善とは2より

『唯信鈔』ならば

宿善あつきもの=善人
宿善すくなきもの=悪人

ということです。

親鸞会で教えているように、宿善薄い人は厚くなるようにしなければならないというのは、悪人は善人にならなければ救われないといっているのと同じことになるのです。
親鸞聖人が『教行信証』信巻で、五逆罪を犯した阿闍世でも救われることを『教行信証』全体の1割も費やして教えられた御心を根底から覆すことになります。

昨日私が述べたことと同じです。
親鸞会の宿善論、三願転入論は、世間の人よりも遥かに善に励んだ人、つまり結局は善人になれた人しか救われないということを言っている邪説です。

悪人は悪人のまま、そのまま救うのが阿弥陀仏の18願です。悪人は善人になってこいと誓われていません。だからといって、造悪無碍であってよいという極論をいうのは、思考がおかしいでしょう。

高森会長が『唯信鈔』を読んで、この問答を作ったとは思えません。誰かの入れ知恵があったのではなかろうかと想像していますが、いずれにしても、阿弥陀仏の本願をねじ曲げる謗法罪を犯していることに間違いないでしょうね。金集め、人集めのためには邪説を平気で主張するというのは、どんな育てられ方をしたのでしょうか。

謗法の限りを尽くす「宿善すくなき」高森会長から「宿善あつきもの」になれと言われてもね、説得力はありませんよ。

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