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2010年2月

2010年2月27日 (土)

カルト思考の愚かさ

カルト思考は、他人のことばかりに目が向いて、自分のことが判らないのが特徴です。

M野支部長を擁護する例の1会員さんは、19願を勧められた親鸞聖人のお言葉として提示した御和讃は、全くの見当違いであったということで答えに窮し、完璧な敗北となりました。
プライドの高い1会員さんは、それを誤魔化すために、相変わらず下らないコメントを書いています。

前回、

蓮如上人のお手紙は、これにより、1人でも多くの人達に親鸞聖人の御教えをお伝えする手段として使われたのであるから、当然、不特定多数の人が読まれることを前提として書かれたはず

とコメントしたのだが、ここは非常に都合が悪いのか、これに関しては一切、触れていないね。そして私をM野支部長と決めつけカルト思考扱いにする。歪曲が実に上手いねえ。

さて、このコメントが非常に都合悪いのは、これを書いた自分の方だ、と気が付かないのでしょうね。実にお目出たいことです。

解説するのもアホらしいことですが、前回の『御文章』

これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もってのほか相違す。そのゆえは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といい、これを信心のひとといえり。これおおきなるあやまりなり。また弟子は、坊主にものをだにもおおくまいらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきようにおもえり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあいだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに、極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことはうたがいなし。(一帖目第十一通)

それ越前の国にひろまるところの秘事法門といえることは、さらに仏法にてはなし。あさましき外道の法なりこれを信ずるものは、ながく無間地獄にしずむべき業にて、いたずらごとなり。(二帖目第十四通)

されば、死出の山路のすえ、三途の大河をば、ただひとりこそゆきなんずれ。(一帖目第十一通)

はやめにみえてあだなる人間界の老少不定のさかいとしりながら、ただいま三途八難にしずまん事をば、つゆちりほども心にかけずして、(二帖目第一通)

されば、五道六道といえる悪趣に、すでにおもむくべきみちを、弥陀如来の願力の不思議として、これをふさぎたまうなり。(二帖目第四通)

1会員さんによれば、二帖目第二通だけは不特定多数の人が読むことを前提に書かれてあるが、「一切衆生必堕無間」を否定するこれらのお手紙は不特定多数の人が読むことを前提に書かれていないということだそうです。
もっといえば、「一切衆生必堕無間」を否定された多くの経典、七高僧方と親鸞聖人の膨大な御著書も、不特定多数の人が読むことを前提として書かれていないということですね。

蓮如上人の御著書である『正信偈大意』にも、化土のことが書かれてありますが、これも不特定多数の人が読むことを禁じられたのでしょうね。

しかし、「一切衆生必堕無間」を否定した読んでもらっては困る膨大な秘密の法文が、なぜか善知識方の生前に公開されてしまった。
以前の高森会長の言葉を使って1会員さんの気持ちを表現すれば、秘密の法文を公開した善知識方は

あなた、頭がおかしくなったのではないですか?

ということになるのでしょう。

知恵の足りない人には、理屈は通りませんが、次の質問をされたらどうしますか?

「浄土真宗親鸞会」と名乗るからには、親鸞聖人が「一切衆生必堕無間」という意味で仰ったお言葉をいくつか知っている筈ですので、それを提示して下さい。

同じ石で二度つまずく者は馬鹿者である

親鸞会でよく聞いた言葉ですが、これは、誡疑讃での失敗と同じことをまた繰り返すことが判らない人物のことですよ。

過去の2chでのカキコを見れば、回答できないことは判っています。従ってまた、論点ずらしの下らないコメントを書くのでしょうから、質問に対する回答以外は荒らしとして報告し、削除します。

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2010年2月26日 (金)

正常な思考とカルト思考

例の誡疑讃は、19願の自力修善を勧められたものでないことで、決着しました。コメントを頂きました皆様、有難うございました。もし、例の1会員さんが、「この件はまだ決着していない」と言われるのであれば、論点をずらさずに、このことのみのコメントをしましょう。誰がどう見ても、「答えられませんので、論点をずらしました」としか思えません。

さて、論点ずらしは親鸞会の常套手段ですが、その思考も正常ではなくカルト思考です。

正常思考では、

釈尊、七高僧の「一切衆生必堕無間」を否定された御心を最も顕かになされた御方が親鸞聖人、その親鸞聖人の「一切衆生必堕無間」を否定された御心を最も顕かになされた御方が蓮如上人であるから、親鸞聖人がすべての人の後生をどのように教えられたかを蓮如上人からお聞きしているだけです。

『御文章』を見てみますと、

これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もってのほか相違す。そのゆえは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といい、これを信心のひとといえり。これおおきなるあやまりなり。また弟子は、坊主にものをだにもおおくまいらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきようにおもえり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあいだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに、極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことはうたがいなし。(一帖目第十一通)

それ越前の国にひろまるところの秘事法門といえることは、さらに仏法にてはなし。あさましき外道の法なりこれを信ずるものは、ながく無間地獄にしずむべき業にて、いたずらごとなり。(二帖目第十四通)

とあります。釈尊、七高僧、親鸞聖人が仰った地獄に堕ちる人と同じことを教えておられます。さすがは蓮如上人です。

また一般論として

されば、死出の山路のすえ、三途の大河をば、ただひとりこそゆきなんずれ。(一帖目第十一通)

はやめにみえてあだなる人間界の老少不定のさかいとしりながら、ただいま三途八難にしずまん事をば、つゆちりほども心にかけずして、(二帖目第一通)

されば、五道六道といえる悪趣に、すでにおもむくべきみちを、弥陀如来の願力の不思議として、これをふさぎたまうなり。(二帖目第四通)

と仰っています。死後は六道輪廻か三悪道へ堕ちるということで、これも、釈尊、七高僧、親鸞聖人と同じで、さすがは蓮如上人とますます尊敬します。

ところで、

この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。(二帖目第二通)

は、釈尊、七高僧、親鸞聖人の教えられたこと、そして蓮如上人が他で仰ったことと矛盾するように思いますが、どういうことでしょうか。誰に対して書かれたお手紙か判りませんが、当時は異安心の人、邪義の人ばかりでありましたので、それらの人に対して仰ったと考えれば、何の矛盾もないですね。

全体のバランスがとれていて、総合的論理的な考察ができます。これが正常な思考の人です。
一方カルト思考の人は、

釈尊、七高僧の御心を最も顕かになされた御方が親鸞聖人、その親鸞聖人の御心を最も顕かになされた御方が蓮如上人であるから、親鸞聖人がすべての人の後生をどのように教えられたかを蓮如上人からお聞きしているだけです。

蓮如上人は、はっきりと、

この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。

と教えておられるから、必堕無間と主張しているのです。

釈尊、七高僧、親鸞聖人がどう教えられようが、蓮如上人がこのように書かれているのだからこれがすべて。蓮如上人の他のお言葉と矛盾しようが関係ない。蓮如上人のこのお言葉1つがすべての基準で、釈尊、七高僧、親鸞聖人、そして他の『御文章』の解釈もそれにあわせるのが当然ではないか。

独善的でバランスを欠いた論理であり、基本的にカルト思考は断章取義になります。これでは議論もできないし、救いようがないですね。

カルト思考の人は、この件でのコメントは不要です。誡疑讃の件のみコメントして下さいね。

こう書けば、また自信がない、とか、恐れている、と書いてくるのでしょう。やっぱりカルト思考です。

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2010年2月25日 (木)

「一切衆生必堕無間」の根拠は?

親鸞会では、釈尊、善知識方の誰も仰ったことのない「一切衆生必堕無間」を、未だに主張し続けています。善知識方を悪知識にしてしまうデタラメ教義がどこからでてきたのかを検証したのが、

「親鸞会教義の誤り」一切衆生は必堕無間なのか1

です。そのまま読まれた方がいいと思いますので、全文掲載します。

親鸞会では、「一切衆生必堕無間」だから、親鸞会に入って信心決定しなければならないといいます。この「一切衆生必堕無間」とは、全ての人は死んだならば、必ず無間地獄に堕ちるということです。しかし、本当に一切の衆生は必堕無間なのでしょうか。

まず「一切衆生必堕無間」と言う言葉は、経典にも、七高僧、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の著書にもありません。では高森会長の造語なのかといいますと、日蓮著『撰時抄』には、以下のようにあります。

教主釈尊の金言まことならば多宝仏の証明たがずば十方の諸仏の舌相一定ならば今日本国の一切の衆生無間地獄に堕ちん事疑うべしや

ここから拝借した可能性は大いにあります。
参考までに、親鸞会でよく使われる「絶対の幸福」「相対の幸福」は、創価学会の「絶対的幸福」「相対的幸福」を真似たのは、間違いないでしょう。

高森会長が創価学会を真似ているところは多々指摘されています。分かりやすいところでは「正本堂」という言葉は、大石寺に創価学会がかつて建設した建物の名称です。「正本堂」という言葉は歴史的にも真宗では使われたことがありません。その他、組織拡大方法も創価学会を参考にしてきたといわれています。

ですから、親鸞会の根幹をなす言葉「一切衆生必堕無間」も、創価学会を真似たものと考えるのが自然です。

このように言いますと、「必堕無間」は親鸞会以外の真宗関係団体でも使っているとの反論があるでしょう。高森会長が著作の大半を盗作したといわれている大沼法竜師の『魂のささやき』には、

三千世界の者はみな助かっても、法竜一人は助からないのだ、と往生の望みの綱が切れたとき、無間のどん底に投げ込まれたのが先か、その機のままを摂取するのだぞの勅命が届いたが先か、必堕無間が先か、十方法界唯であったの自覚が先か、明来闇去か、闇去明来か、そんなことなど考える余裕あればこそ、この極悪最下の機が極善最上の法に生かされたのだ。

とあります。また高森会長が18才で獲信体験をした時の所属団体である華光会でも、「必堕無間」という言葉は使用されています。本願寺系発行の書物にも、「必堕無間」の言葉は見られます。その元になったのが『歎異抄』の、

いづれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

です。『歎異抄』は親鸞聖人の書かれた書物ではありませんので、これが親鸞聖人のお言葉と断定はできませんが、親鸞聖人のお言葉であるとして、親鸞会では、「親鸞聖人でさえ、地獄しか行き場のないものであると仰っているのだから、全人類は必堕無間で間違いない」、と主張します。

しかしここに論理の飛躍があります。親鸞聖人は御自身を非常に厳しく見つめられたお方ですので、御自身を顧みられたときに、懺悔のお言葉としてこのように仰った可能性は否定できませんが、他の人も「地獄一定」とはどこにも仰っていません。またこの「地獄」も「無間地獄」と特定されていません。

親鸞聖人の書かれた『教行信証総序』には

もしまたこのたび疑網に覆蔽せられなば、かえってまた曠劫を径歴せん。

と仰っています。「曠劫を径歴」ですから、六道(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界)を輪廻するということです。信心決定できずに死んだならば、地獄に堕ちるとも仰っていません。ましてや「必堕無間」ではありません。

曇鸞大師は『讃阿弥陀仏偈』に御自身のことを


我無始より三界に循りて、虚妄輪の為に廻転せらる。
一念一時に造る所の業、足六道に繋がれ三塗に滞まる。


と仰っています。
善導大師は『観経疏』散善義に機の深信として、


自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より巳来常に没し、常に流転して、出離の縁有ること無しと深信す。

と仰っています。
親鸞聖人、曇鸞大師、善導大師ともに、六道輪廻もしくは三悪道(地獄界・餓鬼界・畜生界)を経巡ると表現なされています。

親鸞聖人が地獄に堕ちると表現なされたのは御和讃では、
『浄土和讃』の


衆生有碍のさとりにて
無碍の仏智をうたがえば
曾婆羅頻陀羅地獄にて
多劫衆苦にしずむなり


と、『正像末和讃』の


念仏誹謗の有情は
阿鼻地獄に堕在して
八万劫中大苦悩
ひまなくうとぞときたまう


だけです。「衆生有碍のさとり」という異安心の人と、「念仏誹謗の有情」という謗法罪を造った人を限定に仰っています。「一切衆生」とは全く違います。

蓮如上人の『御文章』には


これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もってのほか相違す。そのゆえは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といい、これを信心のひとといえり。これおおきなるあやまりなり。また弟子は、坊主にものをだにもおおくまいらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきようにおもえり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあいだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに、極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことはうたがいなし。(一帖目第十一通)

それ越前の国にひろまるところの秘事法門といえることは、さらに仏法にてはなし。あさましき外道の法なりこれを信ずるものは、ながく無間地獄にしずむべき業にて、いたずらごとなり。(二帖目第十四通)

と地獄に堕ちる人の条件を限定されて仰っています。
親鸞会が「一切衆生必堕無間」の根拠として挙げるのが、


この信心を獲得せずは、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。(二帖目第二通)

です。『御文章』がお手紙であることと、他では限定した人に対して「地獄に堕ちる」と蓮如上人が仰っているところからすると、ここも、異安心や邪義を称えていた人に対して仰ったお言葉であったと考える方が、理解しやすいと思います。


蓮如上人のこの一文をもって、「一切衆生必堕無間」と主張するのは、釈尊、七高僧、親鸞聖人が決してされなかった脅しでの信者獲得を目指すものであり、外道です。

さて、高森会長が説いている「一切衆生必堕無間」の根拠は、創価学会なのか、華光会なのか、大沼法竜師なのか。その前は、江戸宗学でしょうが、いずれにしても、不安を煽って、会員に金集め人集めさせるカルト教義に仕立て上げたのは高森会長であり、悪意が感じられますね。

「一切衆生必堕無間」などという教えは浄土仏教でもありません。浄土を願う教えだから浄土仏教といわれるのです。地獄に向かっている教えを地獄秘事といいます。

地獄秘事の会員をやめて浄土仏教に帰依しましょう。

なお、地獄秘事を信奉している例の1会員さんは、このエントリーの件でのコメントは受け付けません。論点をずらさず、誡疑讃の質問に答えてからにしましょう。

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2010年2月24日 (水)

ひがことを申し候はば、その身ひとりこそ地獄にもおち、天魔ともなり候はめ

コメント欄では、相変わらずの論点ずらしをしています。
毎度毎度のことで驚くこともありませんが、例の1会員さんが立派と誉めるチビ丸(M野支部長)のカキコが2chの過去スレに残されていますので紹介しておきましょう。

【法論出来ない】カルト親鸞会【教義ボロボロ】

347 名前:チビ丸:2009/09/05(土) 13:06:45 ID:Wf87EChB
>「生死の大海」「三塗」の意味も知らないとはね。
>これが地獄という解釈をするのは、仏教のイロハも知らない外道の輩ですね

生死流転というのは六道を回るから必ず阿鼻地獄にも行きます。
「阿鼻地獄だけには行かない六道輪廻というのがある」という
すうごいでたらめですね。

 第三門のなかに五番あり。第一に無始劫よりこのかたここにありて、
輪廻無窮にして身を受くること無数なることを明かすとは、
『智度論』(意)にいふがごとし。
「人中にありて、あるいは張家に死して王家に生じ、王家に死して李家に生ず。
かくのごとく閻浮提の界を尽して、あるいはかさねて生じ、あるいは異家に生ず。
あるいは南閻浮提に死して西拘耶尼に生ず。閻浮提のごとく余の三天下もまたかくのごとし。
四天下に死して四天王天に生ずることもまたかくのごとし。
あるいは四天王天に死してとう利天に生ず。とう利天に死して余の上四天に生ずることも
またかくのごとし。色界に十八重天あり、無色界に四重天あり。ここに死してかしこに生ず。
一々にみなあまねきことまたかくのごとし。あるいは色界に死して阿鼻地獄に生ず。
阿鼻地獄のなかに死して余の軽繋地獄に生ず。軽繋地獄のなかに死して畜生のなかに生ず。
畜生のなかに死して餓鬼道のなかに生ず。餓鬼道のなかに死してあるいは人天のなかに生ず。
かくのごとく六道に輪廻して苦楽の二報を受け、生死窮まりなし。胎生すでにしかなり。
余の三生もまたかくのごとし」と。(安楽集)

皆さんお判りとは思いますが、これは高森会長の「一切衆生必堕無間」説を否定するものです。
それですぐにツッコミが入りました。

351 名前:チビ丸、とうとう高森会長を誹謗!:2009/09/05(土) 13:21:14 ID:U7hbfY+J
>>347
> 生死流転というのは六道を回るから必ず阿鼻地獄にも行きます。
>「阿鼻地獄だけには行かない六道輪廻というのがある」という
> すうごいでたらめですね。

 チビ丸が、とうとう高森会長の間違いを指摘しました!!

●親鸞聖人や蓮如上人が不惜身命の覚悟で教示下された生死の一大事とは、どんなことかといゝますと、これは後生の一大事ともいわれていますように、
総ての人間はやがて死んでゆきますが、一息切れると同時に無間地獄へ堕ちて、八万劫年苦しみ続けねばならぬという大事件をいうのです。
(こんなこと知りたい1)

高森説 → 総ての人間は、死ぬと同時に無間地獄へ堕ちる。
チビ丸説→ 総ての人間は、流転輪廻の中で、無間地獄にも堕ちる。

高森vsチビ丸の法論の行く末は如何に?

357 名前:チビ丸、とうとう高森会長を誹謗!:2009/09/05(土) 13:34:12 ID:U7hbfY+J
>>353

一切衆生(いっさいしゅじょう)必堕無間(ひつだむけん)

一切衆生とは、人間だけでなく、すべての生命のこと。
必堕無間とは、「一息切れると同時に無間地獄へ堕ちる」こと。

畜生が死んで餓鬼道に生まれることもなく、餓鬼道で死んで人天に生まれることも無いという考え方。

これに反論したチビ丸の根拠は以下の通り。

阿鼻地獄のなかに死して余の軽繋地獄に生ず。軽繋地獄のなかに死して畜生のなかに生ず。
畜生のなかに死して餓鬼道のなかに生ず。餓鬼道のなかに死してあるいは人天のなかに生ず。
かくのごとく六道に輪廻して苦楽の二報を受け、生死窮まりなし。胎生すでにしかなり。
余の三生もまたかくのごとし」と。(安楽集)

358 名前:チビ丸、とうとう高森会長を誹謗!:2009/09/05(土) 13:40:36 ID:U7hbfY+J

>「人中にありて、あるいは張家に死して王家に生じ、王家に死して李家に生ず。
> かくのごとく閻浮提の界を尽して、あるいはかさねて生じ、あるいは異家に生ず。
(安楽集)

人中にありて、あるいは張家に死して無間地獄に生じ、王家に死して無間地獄に生ず。
(高森集)

どちらが正しいのでしょうか?

359 名前:チビ丸、とうとう高森会長を誹謗!:2009/09/05(土) 13:42:50 ID:U7hbfY+J
人間が死んだら、次の生で必ず無間地獄へ堕ちるという高森会長の説は、
チビ丸の提示した安楽集の根拠で論破されました。

如何でしょうか。

前々回と前回で紹介しましたように、自力念仏の人は化土往生すると、『大無量寿経』『往生要集』『教行信証』『正像末和讃』『浄土三経往生文類』『末灯鈔』に書かれてあります。
不当な罪意識から民衆の心を解き放たれた法然上人のお言葉も以前に紹介しました。

例の1会員さんによれば、「一切衆生必堕無間」を否定された、釈尊、龍樹菩薩、道綽禅師、源信僧都、法然上人、親鸞聖人は、悪知識だそうです。

「親鸞会教義の誤り」宿善とは4 には以下のように書かれています。

『親鸞聖人御消息』に、

弥陀の御ちかひにまうあひがたくしてあひまゐらせて、仏恩を報じまゐらせんとこそおぼしめすべきに、念仏をとどめらるることに沙汰しなされて候ふらんこそ、かへすがへすこころえず候ふ。あさましきことに候ふ。ひとびとのひがざまに御こころえどもの候ふゆゑ、あるべくもなきことどもきこえ候ふ。申すばかりなく候ふ。ただし念仏のひと、ひがことを申し候はば、その身ひとりこそ地獄にもおち、天魔ともなり候はめ。よろづの念仏者のとがになるべしとはおぼえず候ふ。

と書いておられます。親鸞聖人は関東の同行に宛てたお手紙の中で、
「遇いがたい阿弥陀仏の本願に遇わせせて頂き、仏恩に報いようと思わなければならないのに、念仏を妨げようとすることは、全く理解できないことであり、浅ましいことです。間違って理解している人達がいますので、あってはならないことが聞こえてくるのです。念仏の人といいながら、間違ったことを教えている人こそが、地獄に堕ち、天魔になるのです。すべての念仏者の罪になるのではないと思います。」
と仰っています。

親鸞聖人が"地獄に堕ちる"と仰っているのは、誰のことでしょうか。お前たちは一人残らず無間地獄に堕ちると説き、獲信のための善を勧めて念仏を妨げている人物のことです。会員さんのことではありません。

ここでも「一切衆生必堕無間」を親鸞聖人は否定されています。

親鸞会指導者と例の1会員さんの後生が案じられます。

なお、例の1会員さんは、このエントリーについてコメントは一切不要です。まず、先の誡疑讃についてのみコメントをしましょうね。ただし、「ひがことを申し候」ことのないように。

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2010年2月23日 (火)

浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし

諸善(金集め、人集め)をさせたいとの思惑から、19願を必ず通らなければならないという結論から、後付けで理屈を組立てますので、根拠も解釈も創作にならざるをえません。
M野支部長のような立派でない一会員を名乗る人物が、コメント欄でしつこく下らないことを未だに書いていますが、私よりも優秀な方々が、遊んで下さっていますので、お任せしたいと思います。

興味のある方は、前回エントリーのコメント欄を御覧下さい。論点ずらしと詭弁の手口を勉強するには良い教材です。

さて、仏智疑惑と念仏、そして往生との関係について『大無量寿経』胎化段、『往生要集』、『教行信証』化土巻、『正像末和讃』誡疑讃、『浄土三経往生文類』の御文を紹介してきましたので、御理解頂けたとは思いますが、簡潔に分かりやすく書かれたものが『末灯鈔』にあります。

尋ね仰せられ候ふ念仏の不審の事。念仏往生と信ずる人は、辺地の往生とてきらはれ候ふらんこと、おほかたこころえがたく候ふ。そのゆゑは、弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき。このやうをよくよく御こころえ候うて御念仏候ふべし。

 この身は、いまは、としきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。あなかしこ、あなかしこ。

念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずる」人は、報土往生は間違いない。
名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらん」人は、化土往生する。

と仰っています。親鸞聖人の御著書は、同じことしか書かれていません。

一言でいえば、、他力念仏の人は報土往生、自力念仏の人は化土往生ということです。自力念仏の人は必堕無間などとは書かれていません。
ならば、念仏さえ称えていれば、地獄に堕ちないのだからそれでいい、と思ってしまいますので、繰り返し繰り返し化土往生を誡めておられるのです。

以前にも書きましたが、必堕無間から逃れようと思って浄土仏教を聞くことは、最初から向きが違っているのです。常に報土往生を願って聴聞するのが、正しいといえるでしょう。

この『末灯鈔』でも最後に、

さきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。

と書かれて、浄土(報土)にて必ず必ず待っているぞ、化土に往くなよと念を押しておられるのです。

報土往生の他力念仏のみを勧められて、化土往生の自力念仏を誡められています。まして言わんや自力修善を勧められたなどとは、論外です。

親鸞聖人は私たちに今も

浄土にてかならずかならずにてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし

と仰っています。他力念仏ただ1つです。

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2010年2月22日 (月)

実は、『正像末和讃』『浄土三経往生文類』も読んだことがありません、を追加

前回のエントリーに対して、以下の反論がありました。

19願は修諸功徳の願と言って平たくいうと「善をやりなさい。そうすれば助ける。」という願です。
つまり廃悪修善を勧めた願です。
どれだけ廃悪修善に向かえるかは因果の道理をどれだけ深く信じているかにかかっています。
その因果の道理を親鸞聖人は罪福という御言葉で教えられたのです。
罪福ふかく信じたならそれは必ず善の実行となってあらわれます。
もし、19願が単に浄土を願わせるためだけの願ならば、別段、ふかく信ぜしめる必要はありません。

前回は、勢いで書きましたので、説明不足のところがあったとはいえ、こんな幼稚な反論があるとは予想もしていませんでした。

『浄土三経往生文類』に、『大無量寿経』胎化段から引文されてあるのが前回紹介した以下の御文です。

此の諸智に於いて疑惑して信ぜず。然るに猶ほ罪福を信じて善本を修習して其の国に生んと願ぜむ、此の諸の衆生彼の宮殿に生まれて寿五百歳ならむに、常に仏を見たてまつらず(中略)之を胎生と謂ふ。

ここは、

弥陀経往生といふは

で始まる20願について書かれた部分です。『大無量寿経』胎化段を引文される前に、

願成就の文、『経』にのたまはく

と書かれています。
幹部会員歴数十年さんも指摘されているように、この御文は、20願成就文であります。
これと『正像末和讃』誡疑讃の

如来の諸智を疑惑して
 信ぜずながらなほもまた
 罪福ふかく信ぜしめ
 善本修習すぐれたり

を比較してみれば一目瞭然ですが、言葉をかえて御和讃にされただけです。この御和讃だけ読めば、高森会長やその弟子のいうことが一理あるように錯覚しますが、『教行信証』『浄土三経往生文類』『正像末和讃』誡疑讃を読めば、全く正反対のことを親鸞聖人が教えられていることが分かります。

19願と関係付けるための強引な理論には、いつもながら感心します。

なお、『往生要集』には、

問ふ、若し深信無くして疑念を生ずる者は終に往生せざるや。
答ふ、若し全く信ぜず。彼業を修せず、願求せずば理として生るべからず。若し仏智を疑と雖も爾も猶彼土を願ひ、彼の業を修するは亦往生することを得。『双巻経』に云ふが如し。若し衆生有りて(中略)此の諸智に於て、疑惑して信ぜず。然も猶罪福を信じて善本を修習して其の国に生せんと願せん。此の衆生、彼の宮殿生まれて、寿五百歳常に仏を見たてまつらず。(中略)之を胎生と謂ふと。仏の智慧を疑ふ罪は悪道に当たれり。然れども願に随いて往生するは是れ仏の悲願力なり。

とあります。仏智疑惑は悪道に堕する罪ではあるが、因果の道理を信じて念仏を称えれば、阿弥陀仏の悲願力によって化土往生できる、と教えられています。

しかし、親鸞聖人は徹底して、化土往生を誡めておられます。19願を勧められたなど、もっての外の邪義です。

親鸞会は、断章取義で貫かれています。
先日

私は『教行信証』を読んだことがありません

と告白しているようなものだと書きましたが、

実は、『正像末和讃』『浄土三経往生文類』も読んだことがありません

を追加しておきましょう。エントリーが増える度に、読んだことが無いと告白するお聖教が増えていくことでしょう。

なんとも御粗末な子弟です。

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2010年2月20日 (土)

信罪福心は自力であり、19願の勧めではない

以下のコメントを頂きました。

如来の諸智を疑惑して
信ぜずながらなをもまた
罪福ふかく信ぜしめ
善本修習すぐれたり(正像末和讃)

この「罪福ふかく信ぜしめ」が19願を勧められた御言葉です。それは次の「善本修習」(20願)へ導くためです。

この御和讃が19願を勧められた親鸞聖人のお言葉といわれるのですが、どうしてそのような解釈になるのか不思議です。

ちなみに、この御和讃は『正像末和讃』の中の誡疑讃と呼ばれる23首のうちの1首です。この誡疑讃の最後に

以上二十三首、仏不思議の弥陀の御ちかひをうたがふつみとがをしらせんとあらはせなり。

と親鸞聖人は書いておられます。仏智疑惑の罪の重いことを教えられるための御和讃ということです。仏智疑惑があるうちは、化土にしか往けないと厳しく厳しく誡められたものです。一切衆生必堕無間と脅されている親鸞会会員からすれば、化土へ往けるのなら本望ではないかと思われるかもしれませんが、親鸞聖人にはそのようなお考えは全くないのです。

前後の御和讃を紹介すれば、

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

仏智不思議をうたがひて
 善本・徳本たのむひと
 辺地懈慢にうまるれば
 大慈大悲はえざりけり

本願疑惑の行者には
 含花未出のひともあり
 或生辺地ときらひつつ
 或堕宮胎とすてらるる

如来の諸智を疑惑して
 信ぜずながらなほもまた
 罪福ふかく信ぜしめ
 善本修習すぐれたり

仏智を疑惑するゆゑに
 胎生のものは智慧もなし
 胎宮にかならずうまるるを
 牢獄にいるとたとへたり

七宝の宮殿にうまれては
 五百歳のとしをへて
 三宝を見聞せざるゆゑ
 有情利益はさらになし

辺地七宝の宮殿に
 五百歳までいでずして
 みづから過咎をなさしめて
 もろもろの厄をうくるなり

罪福ふかく信じつつ
 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆゑに
 方便化土にとまるなり

と19願自力修善と20願自力念仏を厳しく誡めておられるのがお判り頂けると思います。
信罪福心とは、因果の道理を信じる心であり、因果の道理から善を修したり念仏を称える心、つまり自力心です。
『教行信証』化土巻真門釈に

定散之専心者、罪福を信ずる心を以て本願力を願求す、是を自力の専心と名くる也。

とあります。信罪福心は自力の心であるから捨てよと仰っているのです。因果の道理を強調する親鸞会とは全く反対です。

『浄土三経往生文類』にも

此の諸智に於いて疑惑して信ぜず。然るに猶ほ罪福を信じて善本を修習して其の国に生んと願ぜむ、此の諸の衆生彼の宮殿に生まれて寿五百歳ならむに、常に仏を見たてまつらず(中略)之を胎生と謂ふ。

とあります。すべて20願自力念仏の誡めです。

コメントで出された御和讃も20願自力念仏を誡められたものであるのですが、断章取義して20願自力念仏を勧められたと理解させようとの意図でしょうか。
いずれにしても、それがどうして19願を勧められた根拠になるのか、その思考がさっぱり理解できません。

高森会長は、親鸞聖人が捨てよと仰るものを会員に必死に拾わせようとしています。

親鸞聖人の教えをネジ曲げて平然としている念仏誹謗の有情はかわいそうです。

もしこのコメントを書かれた方が、皆さんのいわれるようにM野支部長であるとすれば、極めて残念なことです。

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2010年2月19日 (金)

聖道門と浄土門、上輩・中輩・下輩の意味も知らないの?

身命をも捨て、財宝をも惜しまずに、仏法を求めなければならない、というのは聖道門の教えであり、上輩・中輩の人に対しての教えです。

『大無量寿経』には上輩・中輩の行について書かれてあります。

仏、阿難に告げたまはく、「十方世界の諸天・人民、それ心を至して、かの国に生れんと願ずることあらん。おほよそ三輩あり。それ上輩といふは、家を捨て欲を棄てて沙門となり、菩提心を発して一向にもつぱら無量寿仏を念じ、もろもろの功徳を修してかの国に生れんと願ぜん。これらの衆生、寿終らんときに臨んで、無量寿仏は、もろもろの大衆とともにその人の前に現れたまふ。すなはちかの仏に随ひてその国に往生す。すなはち七宝の華のなかより自然に化生して不退転に住せん。智慧勇猛にして神通自在ならん。このゆゑに阿難、それ衆生ありて今世において無量寿仏を見たてまつらんと欲はば、無上菩提の心を発し功徳を修行してかの国に生れんと願ずべし」と。

仏、阿難に語りたまはく、「それ中輩といふは、十方世界の諸天・人民、それ心を至してかの国に生れんと願ずることありて、行じて沙門となりて大きに功徳を修することあたはずといへども、まさに無上菩提の心を発して一向にもつぱら無量寿仏を念ずべし。多少、善を修して斎戒を奉持し、塔像を起立し、沙門に飯食せしめ、繒を懸け灯を燃し、華を散じ香を焼きて、これをもつて回向してかの国に生れんと願ぜん。その人、終りに臨みて、無量寿仏はその身を化現したまふ。光明・相好はつぶさに真仏のごとし。もろもろの大衆とともにその人の前に現れたまふ。すなはち化仏に随ひてその国に往生して不退転に住せん。功徳・智慧は、次いで上輩のもののごとくならん」と。

親鸞会で教えていることは、下輩の我々に対しての教えではないのです。講師部は信心決定する近道というのは、上輩の

家を捨て欲を棄てて沙門となり

に当ります。善をしなければ信仰は進みませんよ、と教えて、正本堂やF館、壁画の財施、高森会長への法礼を強く勧めるのは、中輩の

多少、善を修して斎戒を奉持し、塔像を起立し、沙門に飯食せしめ、繒を懸け灯を燃し、華を散じ香を焼きて、これをもつて回向して

に相当する行です。上輩・中輩の行もできないのが圧倒的多数の下輩です。下輩には、善を勧められていません。

仏、阿難に告げたまはく、「それ下輩といふは、十方世界の諸天・人民、それ心を至してかの国に生れんと欲することありて、たとひもろもろの功徳をなすことあたはざれども、まさに無上菩提の心を発して一向に意をもつぱらにして、乃至十念、無量寿仏を念じたてまつりて、その国に生れんと願ずべし。もし深法を聞きて歓喜信楽し、疑惑を生ぜずして、乃至一念、かの仏を念じたてまつりて、至誠心をもつてその国に生れんと願ぜん。この人、終りに臨んで、夢のごとくにかの仏を見たてまつりて、また往生を得。功徳・智慧は、次いで中輩のもののごとくならん」と。

この解説は

「苦笑の独り言」【ツッコミ依頼】三輩の話をするなら、『選択集』ぐらい読めよ(苦笑)

にありますので、そちらを御覧下さい。
前回のコメントでも書きましたが『持名鈔』には

されば仏法を行ずるには、家をもすて欲をもすてて修行すべきに、世をもそむかず名利にもまつはれながら、めでたき無上の仏法をききて、ながく輪廻の故郷をはなれんことは、ひとへにはからざるさいはひなり。

と聖道門と浄土門の違いが教えられています。
しかし我々は「家をもすて欲をもすて」ることができず、聖道門の修行で仏果を得ることは極めて難しいことです。そんな者の為に浄土門を用意して下されたのです。

『持名鈔』には、

おほよそ「一向専念無量寿仏」といへるは、『大経』の誠説なり。諸行をまじふべからずとみえたり。「一向専称弥陀仏名」(散善義 五〇〇)と判ずるは、和尚(善導)の解釈なり。念仏をつとむべしときこえたり。このゆゑに源空聖人このむねををしへ、親鸞聖人そのおもむきをすすめたまふ。 一流の宗義さらにわたくしなし。まことにこのたび往生をとげんとおもはんひとは、かならず一向専修の念仏を行ずべきなり。

と諸行をまじえず、一向専修の念仏を行じなさいと教えられています。世の倣いに従って名利に執着したままで、出離できるという親鸞聖人の教えに反することを教えているのが高森会長です。

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2010年2月18日 (木)

典型的な断章取義教学

教学聖典の中にある典型的な断章取義問答が、次のものです。


 「後生の一大事は、どんな犠牲を払っても解決せね
 ばならぬものである」と教えられた、存覚上人の
 お言葉と、その根拠を示せ。


 ○仏法の為には身命をも捨て、財宝をも惜しむ
  べからず。
                        (持名鈔)

これも以前の教学短冊にはなく、新たに加えられたものです。

ではこの問答が正しいのか、前後を併せて『持名鈔』を見てみましょう。

ここに弥陀如来、無縁の慈悲にもよほされ、深重の弘願を発して、ことに罪悪生死の凡夫をたすけ、ねんごろに称名往生の易行を授けたまへり。これを行じこれを信ずるものは、ながく六道生死の苦域を出でて、あまつさへ 無為無漏の報土に生れんことは、不可思議のさいはひなり。しかるに弥陀如来超世の本願を発したまふとも、釈迦如来これを説きのべたまはずは、娑婆の衆生いかでか出離のみちをしらん。されば『法事讃』(下 五八七)の釈に、 「不因釈迦仏開悟 弥陀名願何時聞」といへり。こころは、「釈迦仏のをしへにあらずは、弥陀の名願いづれのときにかきかん」となり。たとひまた、釈尊西天(印度)に出でて三部の妙典を説き、五祖東漢(中国)に生れて西方の往生ををしへたまふとも、源空・親鸞これをひろめたまふことなく、次第相承の善知識これを授けたまはずは、われらいかでか生死の根源をたたん。まことに連劫累劫をふとも、その恩徳を報ひがたきものなり。これによりて善導和尚の解釈(観念法門・意 六三七)をうかがふに、「身を粉にし骨を砕きても、仏法の恩をば報ずべし」とみえたり。これすなはち、仏法のためには身命をもすて財宝をも惜しむべからざるこころなり。このゆゑに『摩訶止観』(意)のなかには、「一日にみたび恒沙の身命を捨つとも、なほ一句の力を報ずることあたはじ。いはんや両肩に荷負して百千万劫すとも、むしろ仏法の恩を報ぜんや」といへり。恒沙の身命を捨てても、なほ一句の法門をきける報ひにはおよばず。まして順次往生の教をうけて、このたび生死をはなるべき身となりなば、一世の身命を捨てんはものの数なるべきにあらず。身命なほ惜しむべからず。いはんや財宝をや。

少し長いですが、如何でしょうか。これは、恩徳讃の気持ち、つまり救われた人が、阿弥陀仏、釈尊、次第相承の善知識方の御恩に報いる心構えについて教えられたものです。救われていない人のこととして書かれたものではありません。

最も判りやすい最後の

このたび生死をはなるべき身となりなば、一世の身命を捨てんはものの数なるべきにあらず。身命なほ惜しむべからず。いはんや財宝をや。

が全てを物語っています。

不勉強の高森会長が『持名鈔』を読んで、これを教学聖典に加えたとは思えません。大沼法竜師、伊藤康善師、香樹院師の著書にあったものを参考にしたか、誰かの入れ知恵でしょう。

いずれにしましても、『持名鈔』を断章取義して、会員に金集め人集めを命懸けでさせるための道具に使用しているのは、断じて許されるものではありません。

多くの会員さんが、何千万、人によっては億を越える財施をして、それでもまだ命懸けではないだろうと叱咤されて、まさに骨身を削って財産を提供されたのです。

そのお金が、会長一族しか使えない多くの会長御殿へと変わりました。今は、会長が使う予定のないF館にまで、終の住み家を密かに建設中です。

仏法を私利私欲の為に使い、教えを平気でネジ曲げ続ける高森会長を、それでもまだ信じますか?

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2010年2月17日 (水)

私は『教行信証』を読んだことがありません、と告白

教学聖典で新たに加わった善の勧めの他の問答が、以下です。


 「後生の一大事を知らされるほど、善根功徳を修め
 ずにおれなくなる」と教えられた蓮如上人のお言葉
 と、その根拠を書け。


 これにつけても、人間は老少不定と聞く時は、急ぎ
 いかなる功徳・善根をも修しいかなる菩提・涅槃
 をも願うべき事なり。
                         (御文章)

最近、親鸞会ではこれを蓮如上人の善の勧めの根拠と声高に叫んでいるようです。これに関しては、親鸞会批判のブログでも取り上げていない根拠であるからかもしれません。しかし、この蓮如上人のお言葉は、『教行信証』化土巻の要門釈の内容が書かれてあるものですので、これを善の勧めと思っているようでは、

私は『教行信証』を読んだことがありません

と、告白しているようなものです。
最初に『御文章』4帖目第3通全体を読んで下さい。

それ、当時世上の体たらく、いつのころにか落居すべきともおぼえはんべらざる風情なり。しかるあひだ、諸国往来の通路にいたるまでも、たやすからざる時分なれば、仏法・世法につけても千万迷惑のをりふしなり。これによりて、あるいは霊仏・霊社参詣の諸人もなし。これにつけても、人間は老少不定ときくときは、いそぎいかなる功徳善根をも修し、いかなる菩提涅槃をもねがふべきことなり。

しかるに今の世も末法濁乱とはいひながら、ここに阿弥陀如来の他力本願は今の時節はいよいよ不可思議にさかりなり。さればこの広大の悲願にすがりて、在家止住の輩においては、一念の信心をとりて法性常楽の浄刹に往生せずは、まことにもつて宝の山にいりて手をむなしくしてかへらんに似たるものか。よくよくこころをしづめてこれを案ずべし。

しかれば諸仏の本願をくはしくたづぬるに、五障の女人、五逆の悪人をばすくひたまふことかなはずときこえたり。これにつけても阿弥陀如来こそひとり無上殊勝の願をおこして、悪逆の凡夫、五障の女質をば、われたすくべきといふ大願をばおこしたまひけり。ありがたしといふもなほおろかなり。これによりて、むかし釈尊、霊鷲山にましまして、一乗法華の妙典を説かれしとき、提婆・阿闍世の逆害をおこし、釈迦、韋提をして安養をねがはしめたまひしによりて、かたじけなくも霊山法華の会座を没して王宮に降臨して、韋提希夫人のために浄土の教をひろめましまししによりて、弥陀の本願このときにあたりてさかんなり。

このゆゑに法華と念仏と同時の教といへることは、このいはれなり。これすなはち末代の五逆・女人に安養の往生をねがはしめんがための方便に、釈迦、韋提・調達(提婆達多)・闍世の五逆をつくりて、かかる機なれども、不思議の本願に帰すれば、かならず安養の往生をとぐるものなりとしらせたまへりとしるべし。あなかしこ、あなかしこ。

全体を読まれれば、判ると思いますが、聖道仏教と浄土仏教との関係について書かれたものです。それは

霊山法華の会座を没して王宮に降臨して
法華と念仏と同時の教

で明らかです。
同様に

これにつけても、人間は老少不定ときくときは、いそぎいかなる功徳善根をも修し、いかなる菩提涅槃をもねがふべきことなり。
しかるに今の世も末法濁乱とはいひながら、ここに阿弥陀如来の他力本願は今の時節はいよいよ不可思議にさかりなり。

も前半の文と後半の文を繋いでいるのが「しかるに」ですから、聖道仏教と浄土仏教を比較されていることがお判りになるでしょう。

次に、ここで蓮如上人が仰っていることは、『教行信証』化土巻要門釈の

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。
偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

との説明をされたものです。意味は、
外道を信じていた人が聖道門に入っても、真実のものははなはだ少なく、虚偽のものははなはだ多いので、釈尊は善を修して浄土往生する教えを説いて衆生を誘引し、阿弥陀仏は19願を発して衆生を導かれる、ということです。

それと『観無量寿経』の顕彰隠密を合わせてここで18願意までも蓮如上人は明らかにされたのです。
『教行信証』化土巻要門釈の

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。
すなはちこれ顕の義なり。彰といふは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。達多(提婆達多)・闍世(阿闍世)の悪逆によりて、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなはちこの経の隠彰の義なり。
 

の部分です。この意味をまとめると

『観無量寿経』
  顕説(方便)如来の異の方便、欣慕浄土の善根-19願意
  隠彰(真実)弥陀大悲の本願-18願意

となります。
蓮如上人のお言葉で言えば、
  顕説末代の五逆・女人に安養の往生をねがはしめんがための方便
  隠彰五逆をつくりて、かかる機なれども、不思議の本願に帰すれば、かならず安養の往生をとぐるものなり
です。

もう少し砕いていえば、蓮如上人は高森会長の言う三重廃立を教えられているのです。
外道を信じている人のために聖道仏教を方便として説かれて、まず仏教に導き入れられたのですが、聖道仏教を信じている人には、観無量寿経の定散二善、19願によって浄土仏教へ誘引せられ、19願を信じている人を18願他力に導き入れられているということです。

違う言い方をすれば、聖道仏教を説かれたのは、誰に対して、何の目的かといえば、外道を信じている人に対して、仏教を信じさせるためでしょう。仏教を信じている人にまず外道を信じてみなさいと教えられません。
では定散二善、19願を説かれたのは、誰に対して、何の目的か。聖道仏教を信じている人に対して、浄土仏教を信じさせるためでしょう。浄土仏教を信じている人にまず聖道仏教を実践してみなさいとは教えられません。
ならば、18願を信じて、他力念仏往生を願っている人に対して、まず19願を実践してみなさい、という理屈が通りますか?

蓮如上人がここで仰りたかったことは、

かかる機なれども、不思議の本願に帰すれば、かならず安養の往生をとぐるものなりとしらせたまへりとしるべし。

ということであり、

いそぎいかなる功徳善根をも修し、いかなる菩提涅槃をもねがふべきこと

の誤りを正されたのです。
そういえば、善の強調満載の教学聖典ができた平成12年は、正本堂の募財が思うように進まず、『なぜ生きる』を世に出せば、正本堂はオートマチックで建つと豪語していた時ですね。

これが善知識の本当の姿です。

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2010年2月16日 (火)

「宿善すくなきもの」から「宿善あつきもの」になれと言われても

昔は、教学短冊、教学テキストと言われていたものが、平成12年から教学聖典というものになり、内容もかなり変わりました。変わったところはいくつもありますが、その代表が善の強調です。

たとえば、


 宿善の厚き人と、薄き人との違いを教えられた『唯信鈔』の御文を示せ。


 宿善の厚きものは今生も善根を修し悪業をおそる。
 宿善少きものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。

は以前のものにはありませんでした。これを読めば、悪業を好み善根をしていないと自覚する人は、宿善薄いものだから、高森会長の言う通りに、善(特に財施と法施)に励まなければならないと思うようになります。

しかし、この『唯信鈔』で言われていることは、親鸞会で教えていることとまるっきり逆の事であったのです。「親鸞会教義の誤り」にある宿善とは1宿善とは2を読まれれば、そのことがはっきりします。以下引用します。

宿善とは1より

更には親鸞聖人が尊敬されていた聖覚法印の『唯信鈔』には、

つぎにまた人のいはく、「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生することを得んや」と。
これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。

と教えられています。ここで言われていることは次の通りです。

宿善の薄い人と厚い人があるが、それは今生で善悪をしている有様でわかる。自分は善いことを行おうという心がなく宿善が薄いが、五逆罪を犯しておらず、阿弥陀仏の本願を深く信じさせて頂いている。五逆罪の者の十回の念仏が宿善によるものであって、我々の一生の念仏をもって宿善の浅いこととどうして思うのか。その考えが往生の妨げになっている。

つまり宿善の厚薄を問題にすることが間違いであると言われているのです。

宿善とは2より

『唯信鈔』ならば

宿善あつきもの=善人
宿善すくなきもの=悪人

ということです。

親鸞会で教えているように、宿善薄い人は厚くなるようにしなければならないというのは、悪人は善人にならなければ救われないといっているのと同じことになるのです。
親鸞聖人が『教行信証』信巻で、五逆罪を犯した阿闍世でも救われることを『教行信証』全体の1割も費やして教えられた御心を根底から覆すことになります。

昨日私が述べたことと同じです。
親鸞会の宿善論、三願転入論は、世間の人よりも遥かに善に励んだ人、つまり結局は善人になれた人しか救われないということを言っている邪説です。

悪人は悪人のまま、そのまま救うのが阿弥陀仏の18願です。悪人は善人になってこいと誓われていません。だからといって、造悪無碍であってよいという極論をいうのは、思考がおかしいでしょう。

高森会長が『唯信鈔』を読んで、この問答を作ったとは思えません。誰かの入れ知恵があったのではなかろうかと想像していますが、いずれにしても、阿弥陀仏の本願をねじ曲げる謗法罪を犯していることに間違いないでしょうね。金集め、人集めのためには邪説を平気で主張するというのは、どんな育てられ方をしたのでしょうか。

謗法の限りを尽くす「宿善すくなき」高森会長から「宿善あつきもの」になれと言われてもね、説得力はありませんよ。

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2010年2月15日 (月)

善人正機の親鸞会

親鸞会の教えは、悪人は悪人のままでは救われない、善を一生懸命してからでないと救われないのという教えです。悪人というのは、善のできない人のことをいうのです。善のできる人は善人です。
もう少し詳しく言えば、善のできない悪人と知らされるところまで善に励むことのできる人は善人であり、本当の悪人は、善のできないと知らされるところまで善をしようという気持ちのおきない人です。

全人類の99.99%は後者になるでしょう。

善をせよ、善をせよ、と常に善を強要されていましたが、そんなことをいくら言われても高森会長のいうような命懸けの善のできないのが私ですから、私は今生では救われないと絶望していました。

阿弥陀仏のお救いは、悪人正機とはいいながら、結局は善人正機だとしかどうしても思えませんでした。

『歎異鈔』第3章

善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。

『御文章』1帖目第3通

まづ当流の安心のおもむきは、あながちにわがこころのわろきをも、また妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよといふにもあらず。ただあきなひをもし、奉公をもせよ、猟・すなどりをもせよ、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬるわれらごときのいたづらものを、たすけんと誓ひまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあづかるものなり。

ここを拝読する度に、矛盾ではないかと感じていました。

しかし、親鸞聖人の教えを自分で学んで、矛盾があるのは親鸞会教義であり、親鸞聖人の教義には何も矛盾していないことが判ったのです。

宿善だの19願を建てられた阿弥陀仏の御心だのと、嘘八百を並べ立てて、できもしないことをやらせていたのが、高森会長です。

昔、高森会長が話をしていた譬えで言えば、高森会長はゴールのないマラソンを会員にさせているのです。長時間走らされて、「まだ全力で走っていないだろう」と言われれば、確かに全力では走っていないと誰でも思うでしょう。マラソンを全力で走ることなど有り得ませんから。高森会長のトリックに填まって、厳しい叱責を受けた時は、スピードを上げ、暫くするとスピードを落として体力の回復に努め、それが見つかってまたスピードを上げ、またスピードを落とす。この繰り返しを延々と行うのが親鸞会の求道です。

強靱な体力と精神力の持ち主でなければ、長年、このマラソンを続けることはできません。走者は、体調不良と精神障害を訴える者が続出します。しかし、もともとゴールがないのですから、選択肢は途中で棄権するか、力尽きて死んでいくかの2つしかないのです。

私は狂人の主催するゴールのないマラソンを棄権して、ゴールまで1歩にも満たない超短距離走を完走しました。これこそが、悪人正機の横超の直道です。

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2010年2月14日 (日)

論なし証拠なし

一昨年だったと記憶していますが、「私の白道」等によって、高森会長のルーツが明らかになり、華光会に会員が流れ始めた時に、高森会長が言ったのが、

世間では論より証拠といわれるが、証拠より論ということもある

というようなことでした。つまり、華光会では救われたという人が沢山いて、それこそが証拠という流れを食い止めようと考えたのが、上の理屈です。当時、私は会員ではありましたが、華光会のこともすでに知っていましたので、高森会長の心情が読み取れて、苦笑したものです。

当時は、教義的にはおかしなところはあるものの、概ね論は正しいという雰囲気が退会者の中にもありました。それが昨年一年で、やっぱり高森会長の説いている教義は根本的におかしかった、と大きく変わりました。数人のブロガーによって、高森会長の論は地に堕ちたのです。

救われた人がいないという証拠は従来のままで、論までも親鸞聖人の教義とは掛け離れたものと判明し、古参の会員までもが次々と退会していきました。

一年前までは、田中氏との法論で完全勝利を偽装するために、トンデモ発言を連発し、録音までされてネットに公開されたりしました。それでも、まだ、教義批判に対して反論しようという意欲が感じられましたが、今や、高森会長も上層幹部も、支部長、支部幹部に至るまで、誰一人として反論しようとする者が現われません。

高森会長も、これまでのデタラメ教義を、何とかの一つ覚えのようにただひたすら繰り返すだけです。

とにかく、善の強調です。なぜか。それは金集め、人集めをしないと教団維持が困難になるからです。

私を含め、周りの古参の会員は、高森会長の説く教えが以前とは違っていることに気が付き、特に善の勧めについて疑問を持って、上司に質問しても、高森会長の教えに間違いない、の一点張りであったため退会したのです。

「なぜ私は親鸞会をやめたのかを読んで」というサイトにある

「すべての人を、必ず、人生の目的である絶対の幸福(往生一定の身)にしてみせる。もしできなかったら命を捨てる」
と弥陀が本心を誓われた十八願には、十方衆生を「唯除五逆誹謗正法」と仰せられている。

"金輪際、助かる縁なき者"ということだが、この真実を素直に受持する者は、十方衆生に一人もいないと、弥陀は五劫思惟で見抜かれた。
 だからこそ、何とか真実の十八願へ導入するために、どうしても必要不可欠と建立されたのが、弥陀の十九、二十の方便願なのだと、親鸞聖人は教えられている。

 その第十九願は、修諸功徳の願と言われ、「諸の功徳を修するよう努力精進しなさい」と諸善が勧められている。
 この方便を通らずして真実に入れる人は、誰一人いないのだ。

 善に向かう必要ない、善の勧めは遠回り、などと言う者は、いかに弥陀の願心を踏みにじっている輩であろうか。
 そのようなことを言い続けて、どんな結果を引き起こすか、まだ目が覚めていないのだろうか。

 方便が方便と知らされていないのは、全く真実が分かっていない証拠であろう。

これが親鸞会の善の勧めの根拠のすべてです。
この間違いは「親鸞会教義の誤り」で完膚なきまでに論破されていますが、ここでは『教行信証』の根拠だけ紹介しておきましょう。

また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。(信巻横超釈)

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。(化土巻要門釈)

善に向かう必要ない、善の勧めは遠回り、などと言う親鸞聖人は、いかに弥陀の願心を踏みにじっている輩であろうか。

だそうです。

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。
偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

(中略)

経家によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。(化土巻要門釈)

方便が方便と知らされていないのは、全く真実が分かっていない証拠であろう。

とは誰のことですか?

論なし証拠なしの親鸞会に、存在価値は全くありません。

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2010年2月13日 (土)

知識の仕分けと会員の一揆

2月号『顕真』の「巻頭言」がUPされていました。

● 人間の仕分けと逆謗の一機

阿弥陀仏が五劫思惟の徹底調査の末、
全人類(十方衆生)は助かる縁なき逆謗の一機と診断なされ、
その逆謗を助ける十八願を建てられたのだが、
自惚れ強い人類は自分が助かる縁なき極悪人とはユメにも思っていないのだ。

そんな我々を見抜いた弥陀が、自惚れ心を打ち砕き真実の機を知らせるために
建てられたのが十九願である、と親鸞聖人は教えられる。
その弥陀の十九の願意を開顕するために、
全人類(十方衆生)をはじめは八十一種類(八十一品)に分けられた釈迦が
『観無量寿経』では、「定善の一機」と「散善の九機」(上品上生、上品中生、
上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生)
の十種類に要約されている。
『大無量寿経』にはそれをまた、上輩者・中輩者・下輩者の三種類にまとめ、
遂には弥陀が見抜いた逆謗の一機を知らせるために
種々に方便なされているのが一切経である。

自惚れ強い人類に頭から「お前たちは、みな助かる縁なき逆謗だよ」と
どれだけ教えても聞く耳全く持たないから、
全人類を八十一種類に分類したり九種類になされたり三種類に分けたりされたのは、 十方衆生は逆謗の一機である真実を知らせるための、
釈迦弥陀の善巧方便の人間の仕分けであったのである。

親鸞会の説く珍しき教え、善のすすめという邪義についての非難に対する内部向けの反論です。相変わらずの御粗末さです。

以前に書きました我々の実機を参照して下さい。

十方衆生は逆謗の一機である真実

の大嘘がお判り頂けると思います。

『教学聖典(2)』の問24をよく見なさいよ。


 我々の実機を七高僧は何と言われているか示せ。

 龍樹菩薩──寧(にんべんをつける)弱怯劣
 天親菩薩──普共諸衆生
 曇鸞大師──造罪の人
 道綽禅師──若し悪を造ることを論ずれば
          何ぞ暴風駛雨に異ならん
 善導大師──機の深信
 源信僧都──予が如き頑魯の者
 法然上人──愚痴の法然房・十悪の法然

高森会長が考えた問答でしょうが。七高僧が逆謗とどこに仰っていますか?
法然上人は、『往生大要鈔』に、

われら罪業重しと云へども、いまだ五逆をばつくらず。

と仰っていますし、聖覚法印も『唯信鈔』に

われら、罪業おもしというとも、五逆をばつくらず。

と仰っているでしょう。

「親鸞会教義の誤り」
一切衆生は必堕無間なのか5
一切衆生は必堕無間なのか8
一切衆生は必堕無間なのか9

には、五逆罪と謗法罪について詳しい説明をされています。
親鸞聖人も、我々の実機を逆謗とはどこにも仰っていません。
大体、龍樹菩薩も逆謗ですか?

それに

そんな我々を見抜いた弥陀が、自惚れ心を打ち砕き真実の機を知らせるために
建てられたのが十九願である、と親鸞聖人は教えられる。

これもワンパターンですが、どこにそんなことを教えられているというのでしょうか?根拠を示しなさいよ。

「親鸞会教義の誤り」
親鸞会は諸行往生10
親鸞会は諸行往生11
親鸞会は諸行往生12
親鸞会は諸行往生13

を読めば、明々白々な邪義です。

いつもいつも根拠のない新しき法を創作する、無知無恥の善知識様よ、と言いたい。
適当なことを言ってもすぐに騙されるからとどこまでも会員を馬鹿にしているのです。

会員も怒って、知識を仕分けして一揆を起こしてもいいでしょう。

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2010年2月12日 (金)

弥陀一仏を念じたてまつるほかに二つをならぶることなかれ

前回、一向専念無量寿仏と説きながら諸善を勧めることは、完全に矛盾していることを蓮如上人の『御文章』のお言葉を通して述べました。ただ、あれでは判りにくいという方もあると思います。

それでいつもの元会員さんからコメントを頂きました。前回私が述べたかったことを補足する内容で、コメント欄で埋もれてしまうのはもったいないので、ここに紹介させて頂きます。

会員の皆さまは、獲信の因縁としての諸善の勧めと一向専念無量寿仏が相容れないことが理解できないのでしょう。

会員でここを見ている方がおられましたら、下に『浄土真要鈔』のお言葉を引用しましたので、拝読してみて下さい。「一向専念無量寿仏」とはどんなことなのかが分かりやすく教えられています。

それ一向専修の念仏は、決定往生の肝心なり。これすなはち『大経』(上)のなかに弥陀如来の四十八願を説くなかに、第十八の願に念仏の信心をすすめて諸行を説かず、「乃至十念の行者かならず往生を得べし」と説けるゆゑなり。しかのみならず、おなじき『経』(下)の三輩往生の文に、みな通じて「一向専念無量寿仏」と説きて、「一向にもつぱら無量寿仏を念ぜよ」といへり。「一向」といふはひとつにむかふといふ、ただ念仏の一行にむかへとなり。「専念」といふはもつぱら念ぜよといふ、ひとへに弥陀一仏を念じたてまつるほかに二つをならぶることなかれとなり。
これによりて、唐土(中国)の高祖善導和尚は、正行と雑行とをたてて、雑行をすてて正行に帰すべきことわりをあかし、正業と助業とをわかちて、助業をさしおきて正業をもつぱらにすべき義を判ぜり。ここにわが朝の善知識黒谷の源空聖人、かたじけなく 如来のつかひとして末代片州の衆生を教化したまふ。そののぶるところ釈尊の誠説にまかせ、そのひろむるところもつぱら高祖(善導)の解釈をまもる。かの聖人(源空)のつくりたまへる『選択集』にいはく、「速欲離生死 二種勝法中 且閣聖道門 選入浄土門 欲入浄土門 正雑二行中 且抛諸雑行 選応帰正行 欲修於正行 正助二業中 猶傍於助業 選応専正定 正定之業者 即是称仏名 称名必得生 依仏本願故」といへり。この文のこころは、「すみやかに生死をはなれんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業をかたはらにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業といふはすなはちこれ仏名を称するなり。名を称すればかならず生るることを得。仏の本願によるがゆゑに」となり。すでに南無阿弥陀仏をもつて正定の業と名づく。「正定の業」といふは、まさしく定まるたねといふこころなり。これすなはち往生のまさしく定まるたねは念仏の一行なりとなり。自余の一切の 行は往生のために定まれるたねにあらずときこえたり。しかれば、決定往生のこころざしあらんひとは、念仏の一行をもつぱらにして、専修専念・一向一心なるべきこと、祖師の解釈はなはだあきらかなるものをや。

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2010年2月11日 (木)

一向専念?

現役の幹部会員さんから、「間違いはあるとしても高森先生の話を聞いていて救われないのですか」と質問を受けました。
はっきり申しました、「救われません」と。

  • 阿弥陀仏に救われるには、一向専念無量寿仏せよ

と昔は高森会長からよく聞きました。アニメにも何十回も出てくるお言葉です。
最近は聞かなくなりました。その代わりに、

  • 善をしなければ信仰は進みませんよ
  • 善行をしていないものに、雑行をすてよといわれるはずがない
  • 諸善を「間違いやすいから説くな」の非難は、「誤解されやすい本願を建てるな」と弥陀に楯突き、文句を言っているのだ。それだけではない。十九の願意を開かれ修善を勧められた釈迦一代の教えを”誤解の元凶”と謗法し、仏教を否定する暴言でもある。

など、善の勧めばかりです。
もっといえば、

  • 阿弥陀仏と我々との一直線上に善知識がおられるから、善知識の仰せに無条件服従しなければならない

とか、

  • 必堕無間と知らされた時に、救われる

などと教えられてきました。
これらは、

一向専念無量寿仏

と反対です。
蓮如上人は『御文章』2帖目第9通に

そもそも、阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらえるそのこころはいかんぞなれば、それ、弥陀仏のちかいましますようは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、いかなるつみふかき機なりとも、すくいたまわんといえる大願なり。しかれば、一心一向というは、阿弥陀仏において二仏をならべざるこころなり。

と仰っていますように、善に向かったら一心一向にならないのは当たり前です。捨てよといわれているものを一生懸命拾って、捨てられますか?

高森会長に無条件服従せよと教えられてきましたが、高森会長に向かっていたら、阿弥陀仏に向かえないでしょう。高森会長は一般会員から遠い存在です。その高森会長の更に向こうに阿弥陀仏がおられると皆思っています。譬えはよくないですが、皆既日食の時に、月という高森会長の姿で太陽という阿弥陀仏が完全に隠されているようなものです。月に向かうのではなく太陽に向かうのです。月を横にしないと太陽は見えません。

必堕無間と地獄に目がいっていては、阿弥陀仏の浄土に向かっていません。本願でも、本願成就文でも、その他善知識方のお聖教でも、浄土に生ぜんと願じて、と仰っています。地獄に目が向いていたら逆です。釈尊も、韋提希夫人に対して、地獄のことを全く説かれず、浄土往生を願わせるような説法をなされました。

阿弥陀仏と阿弥陀仏の浄土に向かわずして、救われると思いますか?

高森会長は、阿弥陀仏に向かわせない話しかしていません。「親鸞会教義の誤り」には、そのことばかり書かれてあります。長年幹部会員だった方からのコメントが紹介されたり、一般会員の知らない高森会長の姿まで書かれていて、全くもって、一向専念無量寿仏を否定しているのが今の高森会長です。

会員さんは今の自分が阿弥陀仏に向いているかどうか、冷静に考えてみて下さい。

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2010年2月10日 (水)

念仏と六度万行

聴聞の心構えとして、
 (1)骨折って聞け
 (2)衣食忘れて聞け
 (3)間断なく聞け
 (4)聞けぬ時は思い出せ
と親鸞会で教えられてきました。
更に宿善を厚くするものとして
 (1)熱心な聞法
 (2)五正行の実践(お勤め)
 (3)六度万行の実践(特に法施と財施)
と会員であった20数年間、聞かされ続けました。阿弥陀仏の救いへの最短コースを教えてもらっているのだと堅く信じていました。

しかし、これも創作教義であり、デタラメと「親鸞会教義の誤り」に書かれてあり、驚きました。
親鸞会教義の誤り」親鸞会は諸行往生4
にも紹介されていますが、高森会長がこの根拠としていたのが、加藤智学編『香樹院講師語録』にあります。

禅僧弘海曰く。予かつて師に問う、
私、浄土真宗の教えに帰し、
御講師に随い聴聞いたせども、
未だ心に聞え申さず、如何致すべく候や、と。
師の仰せに、
汝まづ聖教を熟覧せよ、と。

則ち命のごとく拝見候いしが、文義はわかれども、
我が出離にかけて思えば、往生一定ならず。
再び、如何せんと問い参らす。
師曰く、よく聞くべし、と。

予聞いて云わく、
よく聞くとは如何聞くべきや。
師曰く、骨折って聞くべし

予云わく、
骨折るとは、遠路を厭わず聞き歩くことに候や、
衣食も思わず聞くことに候や
師曰く、しかり。

予また問うて云わく、
しからば、それほどに苦行せねば聞えぬならば、
今までの禅家の求法と何の別ありや。
師呵して曰く、
汝法を求むる志なし、いかに易行の法なりとも、
よく思え、今度佛果を得る一大事なり。
しかるに切に求法の志なき者は、
これを聞き得ることをえんや、ああうつけ者かな、と。

予云わく、
しからば身命を顧みぬ志にて、聞くことなりや。
師曰く、
もっともしかり。切に求むる志なくして、
何ぞ大事を聞きえんや。
また曰く、常に絶え間なく聞くべし、と。

予問い参らするよう、
それはその志にて聴聞つかまつれども、
法縁の常になきを如何致すべきや、と。
師その時に、
何ぞ愚鈍なることを云うぞ。法話なき時は、
聞きたることを常に思うべし

聞く間ばかり聞くとは云わぬぞ。
また曰く、
汝眼あり、常に聖教を拝見すべし
これまた法を聞くなり。
もしまた世事にかかりあい、聞見常に縁なき時は、
口に常に名号を称すべし、これまた法を聞くなり

汝信を得ざるは業障の故なり。
さればいよいよ志を励まし、かくの如く常に心を砕き、
よく聞けよ。信を得る御縁は聞思に限るなり、と。

予問うて云わく、
法話を聞くことと、
自ら聖教を読んで我が耳に聞くということとは、
有り難く承りぬ。ただ、念佛するを聞くと申すは、
われ称えて我が声を聞くことに候や。
師大喝して曰く、
汝何事をか云う。我が称える念佛というものいづこにありや。
称えさせる人なくして、罪悪の我が身何ぞ称うることをえん。
称えさせる人ありて称えさせ給う念佛なれば、
そもそもこの念佛は、何のために成就して、
何のためにか称えさせ給うやと、心を砕きて思えば、
即ちこれ常に称えるのが、常に聞くのなり、と。

予、この一語心肝に徹し、はっと受けたり。
心に思うよう。
我至成佛道、名聲超十方、究竟靡所聞、誓不成正覚。
また第十七の願に、我が名を諸佛にほめられんとの誓いは、
名号を信ぜさせんとの御意なり。
かつまた、常に聞くと申すことは、
ただ法話のみを聞くことと思いしは誤りなりき。

あわれ、志の薄かりしことよと恥ぢ入り、
今まで禅門において、知識より、
汝今をも知れぬ命なれば、昼夜十二時思惟して、
この公安を拈底せよ、しばらくも忘るることなかれ、
と云われしことを思い浮かべ、
聞思して遅慮するなかれ、との祖訓を、
見聞集に尽したまいしことを感悟し、
それより常に法話なき時は聖教を拝聴し、
朝夕は『大經』、『正信偈』、『和讃』、『御文』を拝読し、
また常恒に念佛を拝聴し奉るに

われ今称うる念佛には、御主ありて称えさせ給うなり。
しかればただ称えさせるを詮としたまわず。
称えさせ給うは、助け給わんために、
一声をも称えさせて下さるることよと思えば、
それより称えることについて、
尊く称えさせてくださるる身となりしなり。
このこと今に耳にありて、忘るる能わず、
と申されけり。

六度万行の実践などとは、どこにも書かれていません。念仏に当る部分が六度万行にすり替えられています。香樹院師の教えられたことを宿善と結びつけ、六度万行の実践を加えて拵えた珍しき教えです。
あたかも昔から教えられてきたかのように振る舞って、金集め、人集めを正当化させる姑息さが滲み出ています。

今さら説明するまでもなく、法然上人は往生のために六度万行を捨てて念仏一行を勧められました。流刑に遭われても決して曲げられなかった法然上人の教えを、いとも簡単にねじ曲げるとは、完全な念仏誹謗です。

インターネットが普及していなければ、未だに高森会長の宿善論が正しいと信じ込んでいたことでしょう。情報化社会に感謝です。

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2010年2月 9日 (火)

宿善も遅速あり

『御一代記聞書』の「宿善も遅速あり」を「宿善も厚薄あり」と読み替えて、高森会長からいやというほど聞かされてきました。宿善に厚い人と薄い人があるから、宿善の薄い人は厚くなるようにしなければならない、この解釈には納得していました。

しかし、高森会長の邪義が自分の中で明らかになっていく中で、この解釈もおかしいのではないかと思い始めました。その答えが「親鸞会教義の誤り」宿善とは3に書かれてあります。

『御一代記聞書』のこの部分は、金を掘り出すような聖教と蓮如上人が仰った『安心決定鈔』を言葉を変えられて、已・今・当の往生について説明されたものです。詳しくは「親鸞会教義の誤り」を読まれることをお勧めします。この「宿善」に自力的な意味もありませんし、もちろん善をして「宿善」を厚くせよ、という意味も全くないことが明快に解説されています。

高森会長の創作教義には、驚きを通り越して、ただただ呆れるだけです。

なお、この『安心決定鈔』は、大変素晴らしい内容が書かれてあります。今、某ブログで話題の解答も示されています。それほど難しい文章ではありませんので、原文を読まれれば、阿弥陀仏の救いについての理解が深まると思います。
もちろん、高森会長の嘘もはっきりします。

関連箇所だけ紹介しますので、是非読んで下さい。

浄土真宗の行者は、まづ本願のおこりを存知すべきなり。弘誓は四十八なれども、第十八の願を本意とす。余の四十七はこの願を信ぜしめんがためなり。

この願を『礼讃』に釈したまふに、「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」といへり。この文のこころは、「十方衆生、願行成就して往生せば、われも仏に成らん、衆生往生せずは、われ正覚を取らじ」となり。かるがゆゑに、仏の正覚はわれらが往生するとせざるとによるべきなり。しかるに十方衆生いまだ往生せざるさきに、正覚を成ずることは、こころえがたきことなり。しかれども、仏は衆生にかはりて願と行とを円満して、われらが往生をすでにしたためたまふなり。十方衆生の願行円満して、往生成就せしとき、機法一体の南無阿弥陀仏の正覚を成じたまひしなり。

かるがゆゑに仏の正覚のほかは凡夫の往生はなきなり。十方衆生の往生の成就せしとき、仏も正覚を成るゆゑに、仏の正覚成りしとわれらが往生の成就せしとは同時なり。仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。機によりて三世は不同なれども、弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり。

たとへば日出づれば刹那に十方の闇ことごとく晴れ、月出づれば法界の水同時に影をうつすがごとし。月は出でて影を水にやどす、日は出でて闇の晴れぬことあるべからず。かるがゆゑに、日は出でたるか出でざるかをおもふべし、闇は晴れざるか晴れたるかを疑ふべからず。仏は正覚成りたまへるかいまだ成りたまはざるかを分別すべし、凡夫の往生を得べきか得べからざるかを疑ふべからず。「衆生往生せずは仏に成らじ」(大経・上意)と誓ひたまひし法蔵比丘の、十劫にすでに成仏したまへり。

仏体よりはすでに成じたまひたりける往生を、つたなく今日までしらずしてむなしく流転しけるなり。かるがゆゑに『般舟讃』には、「おほきにすべからく慚愧すべし。釈迦如来はまことにこれ慈悲の父母なり」といへり。「慚愧」の二字をば、天にはぢ人にはづとも釈し、自にはぢ他にはづとも釈せり。なにごとをおほきにはづべしといふぞといふに、弥陀は兆載永劫のあひだ無善の凡夫にかはりて願行をはげまし、釈尊は五百塵点劫のむかしより八千遍まで世に出でて、かかる不思議の誓願をわれらにしらせんとしたまふを、いままできかざることをはづべし。

機より成ずる大小乗の行ならば、法は妙なれども、機がおよばねばちからなしといふこともありぬべし。いまの他力の願行は、行は仏体にはげみて功を無善のわれらにゆづりて、謗法闡提の機、法滅百歳の機まで成ぜずといふことなき功徳なり。このことわりを慇懃に告げたまふことを信ぜず、しらざることをおほきにはづべしといふなり。「三千大千世界に、芥子ばかりも釈尊の身命をすてたまはぬところはなし」(法華経)。みなこれ他力を信ぜざるわれらに信心をおこさしめんと、かはりて難行苦行して縁をむすび、功をかさねたまひしなり。この広大の御こころざしをしらざることを、おほきにはぢはづべしといふなり。

このこころをあらはさんとて、「種々の方便をもつて、われらが無上の信心を発起す」(般舟讃)と釈せり。無上の信心といふは、他力の三信なり。つぎに「種々の方便を説く教文ひとつにあらず」(般舟讃)といふは、諸経随機の得益なり。凡夫は左右なく他力の信心を獲得することかたし。しかるに自力の成じがたきことをきくとき、他力の易行も信ぜられ、聖道の難行をきくに浄土の修しやすきことも信ぜらるるなり。おほよそ仏の方よりなにのわづらひもなく成就したまへる往生を、われら煩悩にくるはされて、ひさしく流転して不思議の仏智を信受せず。かるがゆゑに三世の衆生の帰命の念も正覚の一念にかへり、十方の有情の称念の心も正覚の一念にかへる。さらに機において一称一念もとどまることなし。

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2010年2月 8日 (月)

無宿善の機と宿善の機

18願は、十方衆生を救いたもうお誓いですが、未熟の機のために、阿弥陀仏は権仮方便を用いられて建てられたのが19願、20願です。18願の絶対他力は受け入れられなくとも、他力に自力を加えて浄土往生を願うことが信じられる人がいるからです。

それも信じられない、因果の道理からすべて自力で成仏するんだ、という人も当然あるでしょう。そういう人のために、聖道仏教が説かれているのです。

これらの教えはすべて正しいです。聖道仏教も、19願、20願も、教えの通りに実践できれば、最終的には成仏できます。ただ、悲しいかな実践できないのが私たちです。

それで法然上人も親鸞聖人も、激しい非難を浴びることを覚悟の上、18願のみを教えられて、他は排斥されたのです。18願から漏れる人は誰一人ありません。

しかし18願をとても信じられない人がたくさんいることも事実です。そういう人のことを、未熟の機と言い、蓮如上人は無宿善の機と仰っています。無宿善の機には親鸞聖人の教えを説くことは謗法罪を造らせることになるとも仰っています。
たとえば『御文章』3帖目第12通に

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。

とあります。
宿善の機には、親鸞聖人の教えをそのまま話をすればいいのでしょうが、無宿善の機には無理やり親鸞聖人の教えを押しつけることはしない方がよいと思います。

『末灯鈔』には

この信心をうることは、釈迦・弥陀・十方諸仏の御方便よりたまはりたるとしるべし。しかれば、「諸仏の御をしへをそしることなし、余の善根を行ずる人をそしることなし。この念仏する人をにくみそしる人をも、にくみそしることあるべからず。あはれみをなし、かなしむこころをもつべし」とこそ、聖人(法然)は仰せごとありしか。

と親鸞聖人が教えておられます。聖道仏教を信じている人も、19願、20願を信じている人も尊重した上で、早く方便の教えを離れて18願真実の教えを聞いて欲しいと念ずるべきでしょう。

ただし、親鸞聖人の教えが19願の実践とかいうようなおかしなことを説くものに対しては、それは親鸞聖人の教えではないと伝えていく必要があります。

親鸞会の会員の大半は宿善の機だと思います。18願を信じている人ばかりですから。しかし変な指導者を選んでしまったが故に、変な教えを信じ込まされているのです。

決して上から目線ということではなく、親鸞会の会員に対して「あはれみをなし、かなしむこころをもつべし」の気持ちたいものです。

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2010年2月 7日 (日)

よきひとびとの教え2

もう一人親鸞聖人が尊敬されていた聖覚法印は『唯信鈔』を著しておられます。『唯信鈔』を読まれればわかりますが、法然上人の『選択本願念仏集』をもとにして、法然上人の御心を明らかにされたものです。親鸞聖人が、関東の同行に勧められただけでなく、『唯信鈔』を解説された『唯信鈔文意』を書かれたことからも、その重要性がわかります。

『唯信鈔』の一部が「親鸞会教義の誤り」宿善とは1でも取り上げられています。それが以下のところです。

つぎにまた人のいはく、「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生することを得んや」と。
これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。

ここは非常に重要なところです。親鸞会の重大な誤りが2箇所あります。
1つは、

われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず

これは、ほとんどの人が五逆罪を造っていないということを言われたものです。親鸞会のように、何でもかんでも五逆罪・謗法罪に結びつけるようなことはないのです。法然上人も同様のお言葉があることは「親鸞会教義の誤り」一切衆生は必堕無間なのか9
に紹介されています。

もう1つは、宿善についてです。

宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。

これを親鸞会では、宿善に薄厚がある根拠とし、宿善薄い人は厚くなるように善に励まなければならないと教えていますが、驚くべき断章取義です。詳しくは「親鸞会教義の誤り」に解説がありますので、そちらを読まれればいいですが、結論だけいえば、『唯信鈔』にある宿善の厚い人、少ない人とは、善人悪人のことであり、宿善の少ない悪人でも救われるのが阿弥陀仏の本願ということを言われているのです。悪人正機というをここで言われたかったのであって、宿善厚くなるようにする根拠と教えて騙しているのは、会員を古文の読めない人と馬鹿にしているのです。

ここまで馬鹿にされて悔しくないですか?

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2010年2月 5日 (金)

よきひとびとの教え1

隆寛律師は、親鸞聖人が教義も信心も間違いのない方として、大変に尊敬された方です。『末灯鈔』に

さきにくだしまゐらせ候ひし『唯信鈔』・『自力他力』なんどのふみにて御覧候ふべし。それこそ、この世にとりてはよきひとびとにておはします。すでに往生をもしておはしますひとびとにて候へば、そのふみどもにかかれて候ふには、なにごともなにごともすぐべくも候はず。法然聖人の御をしへを、よくよく御こころえたるひとびとにておはしますに候ひき。さればこそ往生もめでたくしておはしまし候へ。

と親鸞聖人は書かれています。『唯信鈔』は聖覚法印著、『自力他力事』は隆寛律師著です。親鸞聖人は聖覚法印と隆寛律師の著書を御自身で書写されて関東の同行に拝読するようにと度々勧めておられます。お二人のことを「よきひとびと」と表現されていることからも、法然上人に次ぐ方々と大変に尊敬、信頼されていたことがわかります。

隆寛律師の著書である『弥陀本願義』に

念仏は易行なるが故に広く諸機に通ず。余の妙行は修し難きが故に、下根の類を隔つ。今は一切衆生をして平等に往生せしめんと欲する我が故に難を捨てて易を取りて本願となす。

と書かれてあります。法然上人の教えをよく心得た人と親鸞聖人が仰るように、法然上人の教えそのままです。

親鸞聖人の三願転入の文は、隆寛律師の著書の影響を受けられて書かれたという学説もあります。隆寛律師の弟子が書いた『広疑瑞決集』には、

先師律師つねにのたまはく、隆寛こそ十九願の機よ。其故は、本と円宗の菩提心を発して、聖道の出離を期せしほどに、末法に生をうけたる身、涯分をしる故に、聖道の出離の叶ふまじきいはれを心得て、浄土門に入れるなり。

とあります。隆寛律師が聖道門から浄土門へ入ることができたのは、19願の方便によるものと味わわれたのです。19願の修善を実践されたということではありません。法然上人があれだけ往生のための修善を否定されたのですから、浄土門の法然上人から諸善を勧められているわけがありません。

親鸞聖人の三願転入の文も同じです。

久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。

聖道門から浄土門に入られたことを隆寛律師と同じく19願で表現なされているのです。

この部分をもって19願を実践しなければならないと考えることは、幼稚な解釈といえます。もう少し勉強した方がよろしいかと思います。

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2010年2月 4日 (木)

善恵房証空上人の主張

親鸞会ではすっかり悪役にされている善恵房証空上人ですが、顕正新聞に書かれてあるように、”善をすれば助かる”という主張を善恵房証空上人が本当にしていたのでしょうか。

証空上人の著書をみてみましょう。

『定善義他筆抄』

此世とは、即便往生を云ひ、後生とは、当得往生を云う也。

これは現当二益をいわれたものです。親鸞会で聞かされた、死んでからの救いのみを教えられたのが証空上人であるということが全くのデタラメであることがこの一文ではっきりします。

『女院御書』

他力本願をたのみて、過去の罪をも、今生の罪をも懺悔して、仏かならず迎給へと思ひて念仏せば、かならず本願にも相叶ひて臨終には仏の来迎にもあづかるべきものなり。

前の現当二益の主張の一方で、臨終来迎についても言及されたものです。

阿弥陀仏の本願について直接書かれたものは、

『観念法門観門義』

第十八の願のちからにて凡夫往生の大事成じぬれば、一切善根ことごとく往生の業となるいはれあるをあらはして第十九の願に発菩提心、修諸功徳といふなり。別してこの願にその業をいだすにあらず。この願の本意は来迎引接を詮とするゆへなり。

十九願は諸行往生を誓われたものではなく、本意は来迎引接であるとしています。

また
『往生礼讃観門義』

一一の願みな念仏往生の願と文意を取りて釈するなり。「玄義分」に一一願言若我成仏十方衆生、称我名号願生我国、下至十念、若不生者、不取正覚と釈するが、これ則ち無三悪趣等の四十七の願は十方衆生の欣求のためなり。すでに欣求の心発れば、皆悉く第十八の念仏往生の願に帰すべき故に、一一の願の底を意得れば唯念仏往生の願といはるなり。

18願以外は欣慕の願であり、念仏往生の18願意に帰するものであると述べられています。

善をすれば助かるという主張はどこにもありません。

覚如上人が『口伝鈔』に仰った体失不体失往生の諍論とは、証空上人が臨終来迎を説いていたことを指しているのではなかろうかと想像しています。

親鸞会は2ch等で散々叩かれているように、捏造、改竄、断章取義もなんでもありですから、皆さんもこの程度のことでは驚くことはないかもしれませんね。

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2010年2月 3日 (水)

諸行は機にあらず時を失す

法然上人は、善導大師の教えに従って、阿弥陀仏の48の願は18願に帰結すると教えられていたのです。『選択本願念仏集』にある

釈尊の諸行を付属したまはざる所以は、すなはちこれ弥陀の本願にあらざるゆゑなり。
また念仏を付属する所以は、すなはちこれ弥陀の本願のゆゑなり。
いままた善導和尚、諸行を廃して念仏に帰する所以は、すなはち弥陀の本願たる上、またこれ釈尊の付属の行なり。ゆゑに知りぬ、諸行は機にあらず時を失す。
念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐せんや。
まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。
一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。

は、19願諸行往生は時を失しており、随他意の願であるから、それが必要な機があれば方便として説かれたものと仰っているのです。
また、『西方指南抄』には、

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也

と仰っています。聖道門の人を18願に導くための願ということですが、即身成仏の聖道門から、他力念仏で浄土往生の18願へは、隔たりが大き過ぎるので、その間に19願でワンクッションを置いたということであって、18願へ入るために必ず19願を通らなければならないというような意味ではありません。

この法然上人の教えをそのまま受け継がれたのが親鸞聖人です。

法然上人も親鸞聖人も、19願は方便の願であって、18願での念仏往生を願う人にとっては、全く意味のないものであると見られていたのです。

しかし、聖道門の人にとっては19願は極めて重要に思えた訳で、19願を無視した法然上人を許せなかったのも理解できます。
つまり法然上人、親鸞聖人が仰った通り、19願は聖道門の人のために阿弥陀仏が建てられたものということを、聖道門の学僧が見事に証明してくれたのです。

この聖道門の理屈を真宗の同行にあてはめて、18願に入るには、必ず19願を通らなければならないと説くことの愚かさをよく知るべきではないでしょうか。

F館を5階建てと偽って、6階の会長御殿を隠して建設していることと、19願の諸善のすすめはリンクしています。会員の皆さんは、諦観して下さい。

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2010年2月 2日 (火)

念仏往生と諸行往生

法然上人は、18願を念仏往生の願と名づけられ、阿弥陀仏は、称名念仏以外の一切の諸行を劣った、難行として選び捨て、称名念仏一行を勝れた易しい行であり、これを正定業として選び取られたのだと教えていかれました。『選択本願念仏集』には、そのことが書かれてあります。

 問ひていはく、あまねく諸願に約して粗悪を選捨し善妙を選取すること、その理しかるべし。なんがゆゑぞ、第十八の願に、一切の諸行を選捨して、ただひとへに念仏一行を選取して往生の本願となしたまふや。
 答へていはく、聖意測りがたし。たやすく解することあたはず。しかりといへどもいま試みに二の義をもつてこれを解せば、一には勝劣の義、二には難易の義なり。
初めの勝劣とは、念仏はこれ勝、余行はこれ劣なり。所以はいかんとならば、名号はこれ万徳の帰するところなり。しかればすなはち弥陀一仏のあらゆる四智・三身・十力・四無畏等の一切の内証の功徳、相好・光明・説法・利生等の一切の外用の功徳、みなことごとく阿弥陀仏の名号のなかに摂在せり。ゆゑに名号の功徳もつとも勝となす。余行はしからず。
おのおの一隅を守る。ここをもつて劣となす。たとへば世間の屋舎の、その屋舎の名字のなかには棟・梁・椽・柱等の一切の家具を摂せり。棟・梁等の一々の名字のなかには一切を摂することあたはざるがごとし。これをもつて知るべし。
しかればすなはち仏の名号の功徳、余の一切の功徳に勝れたり。ゆゑに劣を捨てて勝を取りてもつて本願となしたまへるか。次に難易の義とは、念仏は修しやすし、諸行は修しがたし。

これを読んだ聖道諸宗の学僧から、激しい非難が巻き起こることは当然なことです。それで彼らは、阿弥陀仏は19願に諸行往生も誓われているのだから、諸行往生こそが大願ではないのかと反論したのです。

承元の法難のきっかけともなった『興福寺奏状』には、

七、念仏を誤る失

ここに専修、此のごときの難を蒙らんの時、万事を顧みず、ただ一言に答へん、「是れ弥陀の本願に四十八あり、念仏往生は第十八の願なり」と。何ぞ爾許の大願を隠して、ただ一種を以て本願と号せんや。

とある通りです。
理屈の上からは、筋の通ったものです。それゆえ、法然上人がお亡くなりになられた後は、法然上人のお弟子の中にも、念仏往生の教義が揺らいで諸行往生を主張する人も実際に現れました。

そこで昨日も書きましたように、親鸞聖人が『教行信証』を著されて法然上人の教えられたことの正当性を明らかにされたのです。

詳しくは「親鸞会教義の誤り」親鸞会は諸行往生11にも書かれていますので、そちらを読まれることをお勧めしますが、簡単に説明しますと、親鸞聖人は諸行往生の19願では、報土往生ではなく化土往生しかできないし、聖道仏教を信じている人のために、浄土を欣慕させるために阿弥陀仏が建てられた願と明言されたのです。

この流れが判れば、化土巻に19願、20願を方便として説かれた御心が御理解頂けると思います。

三願転入の文は、親鸞聖人が聖道仏教を信奉されていた経験を通して、即身成仏を目指されていたところを欣慕浄土させて頂き、法然上人の諸行を捨てて念仏一行を専修せよの教えによって、18願念仏往生の体験をなされた告白です。
19願、20願を建てられた意味と、18願念仏往生の教えを明らかにされることが目的であって、18願に入るためには、19願、20願を通らなければならないという説明をされたのでないことは、普通に考えれば判る筈です。

「親鸞会教義の誤り」の管理人さんがいわれているように、浄土仏教の歴史を学ばれるだけでも、高森会長の教えが如何に頓珍漢なものか理解できると思うのですが、高森会長が絶対、と信じ込んでいたら、理性も思考力も飛んでいくのでしょうね。なんとかならないものでしょうか。

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2010年2月 1日 (月)

流刑の真因

承元の法難は、なぜ起きたのか。一向専念無量寿仏を強調されて、他の諸仏、諸神の不拝を叫ばれたから、と親鸞会では教えられてきました。しかし、私には少し引っ掛かるところがありました。他宗や神道でも、自分の本尊や神体が一番で、他を排斥するのは普通の事と思ったからです。

ところが昨年、

「用管窺天記」自業自得の救済論
「親鸞会教義の誤り」親鸞会は諸行往生10

を読んだ時は、驚きました。

善の否定がその原因であったのかと初めて知りました。確かに成仏を目指すものにとって、往生のための善の否定は、許しがたいことであったのでしょう。その立場にいれば、尤もなことです。

悪人正機との整合性も取れますし、聖道門の怒りも、現在の本願寺の主張も筋が通る。法然上人、親鸞聖人は善を否定されたのだと考えれば、すべて辻褄があいます。頭の中で絡まっていた糸が解けたような気がしました。

承元の法難の後でも、法然上人の善の否定は長く尾を引いていました。明恵は、法然上人の人柄に惹かれながらも、『選択本願念仏集』を読んで激怒したといわれています。

明恵の名は、高森会長が説法の中で話を出すこともあったほど有名な学僧です。明恵の著である『摧邪輪』の内容の一部が「親鸞会教義の誤り」で紹介されていました。

解して曰く、発菩提心は、是れ仏道の正因、是れ体声なり。専念弥陀は、是れ往生の別行、是れ業声なり。汝が体を捨てて業を取るは、火を離れて煙を求むるがごとし。咲ふべし、咲ふべし。まさに知るべし。これらの解釈の文は、皆菩提心においては、置いてこれを論ぜず、ただ所起の諸行についてこれを判ず。しかるに本願の中にさらに菩提心等の余行なしと言うは、何が故ぞ。第十九の願に云く、「発菩提心、修諸功徳」等と云々。是れ本願にあらずや。

明恵は菩提心にこだわりました。成仏を目指す者にとって当然なことです。法然上人の教えられたことが菩提心の否定としか思えなかったからです。浄土門でも、19願に「発菩提心、修諸功徳」とあるから、菩提心と善が必ず必要であると大層な剣幕で、法然上人を攻撃したのです。ただ、その時には法然上人はすでにお亡くなりになった後のことでした。

明恵の『摧邪輪』は、法然上人のお弟子でも正面から反論できないほどの内容でしたが、ただお一人、親鸞聖人だけが反論なされたのです。その反論書が『教行信証』です。

『教行信証』を読まれれば判りますが、膨大な引文があります。読み替え等もありますし、単なる知識だけでなく、超人的な思考の成せる業だと思います。これだけの書物は数百年に1人の天才でないと著せないとまで絶賛する人もあるくらいです。

親鸞聖人は明恵の『摧邪輪』をあらゆる角度から、徹底的に反論を展開なされたのです。もちろん、法然上人の教えの正しさを証明するためです。

ですから、『教行信証』を読まれれば判りますが、法然上人と同じく善の否定を延々と述べておられるのです。

歴史的背景、法然上人の教え、そして『摧邪輪』への反論、そして『教行信証』、どれを調べても、親鸞聖人の教えに獲信のための善のすすめはあり得ないのです。

それを、親鸞聖人の教えに善のすすめがあると言い続けてきた高森会長は、聖道門の回し者でしょうか。もちろんこれだけ教えに疎い高森会長は『教行信証』を読んだことはないでしょうから、無知も加わってのお山の大将なのでしょう。

無二の善知識と崇めてきた自分が恥ずかしいです。

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