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2010年1月23日 (土)

後生の一大事

親鸞会でも、また他の団体でも、後生の一大事という意味を死んだら必堕無間という意味で使っていますが、これもおかしなものです。

「親鸞会教義の誤り」に掲載されている紅楳英顕師の『派外からの異説について』にもその誤りが30年近く前に指摘されています。

他のブログでも、このことについて取り上げられていますが、最も明快な解説がなされているのが「安心問答」の後生の一大事について思うことです。以下に抜粋します。

「親鸞会でいう後生の一大事」は、上記にあるように「死後、ながく地獄におちること」であり、これが前提ですから、その解決は限りなく可能性が低いということで語られます。

99.99999%の確率で、地獄に堕ち、0.00001%の確率で阿弥陀仏に救われるという理解です。

そのため、「阿弥陀仏に救われることがあれば、それこそ一大事だ!」という考え方になります。そこから転じて、阿弥陀仏に救われる時には「なにかすごいことが起きるのだろう」と考える方も多くおられます。

どうしてこのような理解になるのかといいますと、阿弥陀仏の本願が抜けているからです。

阿弥陀仏の本願は、ただ今救う本願であり、どんな人も報土往生させ仏のさとりをひらく身にしてみせるという阿弥陀仏の願いです。

その阿弥陀仏の本願力からいえば、助からない人は一人もありません。

法から言えば、100%救われます。地獄には堕ちることは確率的にありえません。阿弥陀仏に救われた人の中で0.0001%でも報土往生できない人はいません。

私たちの機からいえば、報土往生をするタネはなにもありませんので、自力での往生極楽は0%です。確率でいうなら100%極楽往生できません。

その100%救う本願があるのに、無常が先に来てしまったら、阿弥陀仏でも救うことはできませんので、「一大事」といわれるのです。

絶対助かるのに、万が一にも助からないということがあれば一大事だという阿弥陀仏の御心なのです。

私の味わい(昨日私が書いた内容)とあわせて、感慨深くこれを読んだものでした。

一切衆生必堕無間という方向で仏教を聞くことは、親鸞聖人の精神から外れたものと思う次第です。

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