« 罪の軽ろき重きをも沙汰せず | トップページ | 三重廃立 »

2010年1月28日 (木)

聞名

先日、本願寺別院にて布教師の話を聞いてきました。

『歎異鈔』を通してのお話でしたが、どうすれば信心が頂けるのかということについて、

聞名

といわれました。名号を聞く、ということです。名号のいわれを聞いて、自分の力は何も間に合わなかったと知らされ、すべて阿弥陀仏のお力によって往生一定の身にして下された、と信知することと話をされました。

聞というは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて、疑心有ること無し、これを聞というなり。

親鸞聖人のお言葉を出されて、自分が聞いたことで助かるのではない、聞いたことも称えた念仏も何1つ間に合わないと聞いて、信心を頂くのです、と説明されました。

誠に尊いお話でありました。

本願寺では、念仏を称えていれば、死んだら極楽、ということしか説法で言わないと高森会長から吹き込まれていましたが、大嘘でした。

そういえば、「親鸞会教義の誤り」の中で、1月15日号の顕正新聞の大喝に

諸行往生とは”善をすれば助かる”という善慧房の主張である。

と書かれてあるとありましたが、親鸞会のアニメでも高森会長の説法でも、善慧房の主張とは、

念仏さえ称えていたら、死んだら極楽に生れる

ということである聞いてきましたが、いつから”善をすれば助かる”というように内容が変わったのでしょうか。少なくとも私は20数年、高森会長から話を聞いてきましたが、そんなことは一度も聞いたことがありませんでした。

「親鸞会教義の誤り」等のブログで、散々に、親鸞会は諸行往生だ、と非難されてきたのですから、ついつい感情的になって過去を忘れてしまったのでしょう。高森会長らしいです。

ちなみに、親鸞会は諸行往生と非難はしていますが、誰も本気で諸行往生を求めている団体だとは思っていません。聖道仏教、諸行往生の真似事をした外道と認識しています。

感情丸出しで、後先考えられない高森会長ですから、方針だけでなく、教えも時代によって変わります。30年、40年どころか万劫の間親鸞会で求めても救われませんよ。

だって聞名になっていないのですから。

|

« 罪の軽ろき重きをも沙汰せず | トップページ | 三重廃立 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 聞名:

« 罪の軽ろき重きをも沙汰せず | トップページ | 三重廃立 »