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2010年1月26日 (火)

我々の実機

我々の実機、機の深信について、親鸞会では、「いままでも、いまも、いまからも、救われることの絶対にない極悪最下の私であった、とハッキリ知らされた」こととしていますが、これは間違いです。
このことについては、
「21世紀の浄土真宗を考える会」DABADA ならいいけど DAMEDA こりゃ
にたとえを用いて非常に判りやすく説明されています。

A いままでも、いまも、いまからも、救われることの絶対にない極悪最下の私であった、とハッキリ知らされた
B いままでも、いまも、いまからも、極悪最下の絶対に救われることのない私であった、とハッキリ知らされた

この2つの文章の違いについて説明します。
共通部分(“いままでも、いまも、いまからも”と“であった、とハッキリ知らされた”)を省き、違う部分だけを抽出します。
A’ 救われることの絶対にない極悪最下の私
B’ 極悪最下の絶対に救われることのない私
この2つのフレーズの違いをたとえます。

「救われることの絶対にない」-日本からアメリカまで自分で泳いで行けない
「極悪最下」-カナヅチ

これを挿入します。

A’’ 日本からアメリカまで自分で泳いで行けないカナヅチの私
B’’ カナヅチで日本からアメリカまで自分で泳いでいけない私

この2つの違いは分かりますでしょうか。

A’’は私はカナヅチであることを示しています。
B’’は日本からアメリカまで自分で泳いで行けないことを示しています。カナヅチであることはその理由です。

ですから、もっと縮めれば

A’’’ カナヅチの私
B’’’ 日本からアメリカまで自分で泳いで行けない私

となります。
A’’’とB’’’は明らかに違いますね。

さてここでアメリカまで自分で泳いで行けないのはカナヅチの人だけでしょうか。
アメリカという国がどこにあるのか知っている人は、カナヅチかどうか関係なく、泳いで行けないことは分かりますので、泳いで行こうとはしません。
故古橋廣之進氏や入江陵介さん、北島康介さんのような泳ぎの上手な人から、普通に泳げる人、カナヅチの人、歩行さえ困難な人、寝たきりの人、意識の無い人まで、泳いで行ける人はいません。
では、日本からアメリカまで泳いで行こうと思っている人はどんな人かというと、
①アメリカがどこにあるか知らない人
②アメリカがどこにあるか知ってはいるが、飛行機や船などの手段があることを知らない人
③アメリカがどこにあるか知ってはいるし、飛行機や船などの手段があることも一応は知っているが、飛行機や船に乗るには、まずある程度泳いで、死にかけないと乗ることができないと思っている人。
などではないでしょうか。
現実的には②はほとんど考えられませんが、これはたとえですので御了承下さい。
また、③の場合はやっかいですね。

ここで元の文章のAとBをもう一度読めば、「極悪最下」ということと「絶対に救われることのない」こととは無関係ではないけれども、違うことを表していると分かるのではないでしょうか。

ところで

①自分はアメリカがどこにあるのか知っていながら、カナヅチほどではなくても泳ぎが苦手な人に「泳げ、泳いでみて泳げないと分かったら別の方法を教えてやろう」と言う人がいれば・・・
→この人は無慈悲な人です

②アメリカがどこにあるのか知っているから、とても泳ぎ着くこともできないと分かっているが、①の人が「泳げ、泳げ」と言うから泳いでいる人は・・・
→この人は可哀そうですとも言えますが、アメリカまで行く気のない人とも言えます。本当に行きたい気持ちがあれば、別の手段を探すでしょう。

なお、機の深信を説明する文章として「絶対に救われることのない」は誤解を招きますのであまりよくないでしょう。
取り上げたのは、違いを示すためだけです。
「生死を出離することのできるものを全く持っていない」
などとした方がよろしいと思います。

参考までに『教学聖典(2)』の問24をみてみましょう。


 我々の実機を七高僧は何と言われているか示せ。

 龍樹菩薩──寧(にんべんをつける)弱怯劣
 天親菩薩──普共諸衆生
 曇鸞大師──造罪の人
 道綽禅師──若し悪を造ることを論ずれば
       何ぞ暴風駛雨に異ならん
 善導大師──機の深信
 源信僧都──予が如き頑魯の者
 法然上人──愚痴の法然房・十悪の法然

七高僧のお言葉から、我々が極悪最下の者とか、逆謗の必堕無間の者という意味にはなりません。近藤さんのたとえでいえば、アメリカまでは泳げない人ということです。龍樹菩薩のような方にももちろん機の深信がありました。龍樹菩薩ならば、普通の人とは桁違いの距離を泳げる方といえるでしょうが、アメリカまではとても泳ぎ切れないということであって、それをカナヅチとはいいません。
また法然上人は御自身のことを、愚痴と十悪と仰っていますが、極悪最下という逆謗らしき意味のことを全く仰っていません。『往生大要鈔』には、

われら罪業重しと云へども、いまだ五逆をばつくらず。

というお言葉からも明らかです。親鸞聖人が同行に読むように勧められた聖覚法印の『唯信鈔』にも同様のことが書かれてあります。

もしすべての人が例外なく極悪最下で必堕無間の者と知らされなければ救われないのならば、七高僧方や聖覚法印は異安心ということになります。それとも例外はあるのでしょうか?

謗法罪と五逆罪については、
「親鸞会教義の誤り」一切衆生は必堕無間なのか
の中に詳しく説明がなされていますので、お時間のある方は、そちらを読まれることをお勧めします。

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コメント

当流聖人の勧めまします安心というは、何のようもなく、まず我が身の浅ましき罪の深きことをばうち棄てて、もろもろの雑行・雑修の心をさしおきて、一心に「阿弥陀如来後生たすけたまえ」と、一念に深くたのみたてまつらん者をば、たとえば十人は十人、百人は百人ながら、皆もらさず助けたまうべし。これ更に疑うべからざるものなり。かようによく心得たる人を、信心の行者というなり。
(御文章5帖目18通)


当流の安心というは、何のようもなく、もろもろの雑行雑修の心を棄てて、わが身はいかなる罪業深くとも、其をば仏にまかせまいらせて、ただ一心に阿弥陀如来を一念に深くたのみまいらせて、「御助け候え」と申さん衆生をば、十人は十人、百人は百人ながら、悉くたすけたまうべし。これ更に疑う心露ほどもあるべからず。
(御文章5帖目21通)


このように蓮如上人は仰っていますが、明らかに親鸞会と異なります。

「我が身の浅ましき罪の深きことをばうち棄てて」
「わが身はいかなる罪業深くとも、其をば仏にまかせまいらせて」

と、私の悪い機の方をさしおいて、

「一心に「阿弥陀如来後生たすけたまえ」と、一念に深くたのみたてまつらん者をば」
「ただ一心に阿弥陀如来を一念に深くたのみまいらせて、「御助け候え」と申さん衆生をば」

と、阿弥陀仏に向かいなさいと勧められています。

必堕無間、地獄一定と知らされようとすることは、蓮如上人と正反対であることがわかります。

会員も、そうでない人も、阿弥陀仏の選択本願を聞いて頂きたいと思います。

投稿: 淳心房 | 2010年1月27日 (水) 00時29分

淳心房 様

親鸞会は、善知識方の教えられたことと対立することしか教えていません。それでは30年、40年聞いていても救われる筈がないですよね。
私も30年近く親鸞会で聞いてきても、何も理解できませんでしたが、昨年1年で正しい親鸞聖人の教えを理解でき、体得させていただきました。
本当の阿弥陀仏の本願を聞くには、時間はかかりません。皆さんも正しく聞いて頂きたいと願うばかりです。

投稿: 飛雲 | 2010年1月27日 (水) 07時52分

よくわかんね
極悪最下は救いと切り離せない気がするけどな
イコール一切衆生必堕無間、お前は地獄に堕ちるぞとなるのがいけないんじゃないのか
難しく考える必要ないよ
そもそも全員極悪最下なら誰一人最下じゃないじゃないか
心配するのは間違ってるよ
親鸞は自分を通して生物がもつ構造的な悪を実感していたとは思うよ俺は
でもそれは誰かが誰かに指摘するものではなくて
みな平等に理解できない悪なんじゃないか?
じゃあ何と比べて悪なのか
それはもう阿弥陀仏との一対一の関係においてでだろ

極悪最下の理解が足らないから
日ごろの悪行をあげつらい
懺悔を引き出すのは
阿弥陀仏を抜いた人間同士の善悪理解じゃないの?

人それぞれの悪行とそれに対する反省は知恵と同じで各別
しかし阿弥陀仏との関係において、よくわからんがみんな同じく同一の心構えを頂くのだろ
だからそいつは一人一人が極悪最下でありうるという矛盾した表現になりうるんじゃないのか

必死に救いと罪悪は関係ないと説明しているが
真宗の自殺にしか見えないのは俺だけか

投稿: | 2010年3月13日 (土) 22時19分

概ねそのように理解されれば良いのではないでしょうか。
罪悪深重の極悪最下の者と知らされることと自力無功との違いを説明しただけですので、これが同じと感じられる方はそれでいいと思います。

投稿: 飛雲 | 2010年3月14日 (日) 05時40分

極悪最下とは、仏の心を無視してきた自分への心の座りでもあるでしょう。
悪とは苦を産むから悪なのであって
ひとつには自力で成仏できないという己の悪もありますが、本願を知りながらそれを無視してきたこともまた悪です。
本願を知りながらにしてこれを聞かないことは
まるで宮殿の生活をしていながら仏教を聞けないようなものです。まさに正法を謗ることに似て、
助かる唯一の糸を切るという悪の最たるものではないでしょうか。
ところで、仏の心を無視するとは自力の功徳あるを疑わぬこと、
自力の楽果が弥陀の浄土の果とさして変わらぬと自惚れることです
であるから自力無功の自覚はすなわち極悪最下の自覚
と不可分のところにあるのではないでしょうか。

親鸞が逆謗闡提の救いについて論じられたのはまさに
救われない悪人が救われる本願と思われたからでしょう。

地獄にも落ちない悪なら悪のうちに入らない
と思うかもしれませんがその心は大変な悪果を産むのではありませんか?

投稿: キーワードを入力 | 2010年3月16日 (火) 00時35分

キーワードを入力 様

含蓄のあるコメント有難うございます。
ここは人によって受けとり方も理解も様々でしょうから、否定つもりはありません。

投稿: 飛雲 | 2010年3月16日 (火) 05時50分

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