三選の文
三重廃立の話がまだされていた頃、法然上人の有名な三選の文についても、何度か法話で話を聞きました。
はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、
しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。
浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて
選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定を
もつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。
名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。
親鸞聖人が『教行信証』に唯一引用された『選択本願念仏集』のお言葉です。これが高森会長の言っていた三重廃立のもととなったのだと思います。
聖道仏教を捨てて、浄土仏教に入りなさい。雑行を捨てて正行に帰しなさい。助業傍らにおいてもっぱら正定業を修めなさい。つまり念仏以外の行を捨てなさいと単刀直入に法然上人が教えて下さったのです。ここからどうして、善をしなさいという教えに変化できるのでしょうか。私には、疑問が当時からありました。しかし、高森会長のいうことが正しい筈、というマインドコントロール下では、疑問はすぐに吹き飛ばされてしまいました。
法然上人のこのお言葉は、すべての人に判りやすい形で説かれたものですが、当然聖道門からは総攻撃に遭うことは覚悟なされていたと思います。そのリスクを犯してでも伝えねばならなかった法然上人の信念を強く感じるのです。
親鸞聖人も法然上人の教えを受け継がれて、獲信のためには善を排斥せられたのは、歴史的にも史料的にも明らかなことです。法然上人、親鸞聖人が命をかけてまで護られた善の否定を根本から覆すことを、高森会長はやっていたのです。
私も、それに気が付くのに30年近くかかってしまったことが悔やまれます。法然上人と親鸞聖人の教えはかなり違う、という邪説を擦り込まれていましたので、三選の文が、そのまま親鸞聖人の教えである、と思うことができなかったのも原因の1つでした。
「苦笑の独り言」や「親鸞会教義の誤り」には、法然上人が善を否定されたお言葉がたくさん紹介されています。
善根なければ、此の念仏を修して、無上の功徳を得んとす。
余の善根多くば、たとひ念仏せずとも、頼む方も有るべし。
しかれば善導は、我が身をば、善根薄少なりと信じて、
本願をたのみ、念仏せよと、勧め給ヘリ。
経に、一たび名号を称ふるに、大利を得とす。
又すなわち、無上の功徳を得と、とせり。
いかにいわんや、念々相続せんをや。
しかれば善根なければとて、念仏往生を疑うべからず。
(『念仏往生義』)
酬因感果の理を、大慈大悲の御心のうちに思惟して、
年序そらにつもりて、星霜五劫におよべり。
しかるに善巧方便を巡らして、思惟し給えり。
しかも、我別願をもて浄土に居して、
薄地低下の、衆生を引導すべし。
その衆生の業力によりて生まるるといわば、かたかるべし。
我、すべからく、衆生のために永劫の修行をおくり、
僧祇の苦行を巡らして、万行万善の果徳円満し、
自覚覚他の覚行窮満して、その成就せんところの、
万徳無漏の一切の功徳をもて、我が名号として、衆生に称えしめん。
衆生もしこれにおいて、信をいたして称念せば、
我が願にこたえて、生まるる事を得べし。
(『勅伝』)
釈迦も、世に出で給ふ事は、弥陀の本願を、説かんと思しめす御心にて候へども、
衆生の機縁に随い給う日は、余の種々の行をも説き給うは、
これ随機の法なり。佛の、自らの御心の底には候はず。
されば、念仏は、弥陀にも利生の本願、釈迦にも出世の本懐なり。
余の種々の行には、似ず候うなり。
(『津戸三郎へつかはす御返事』)
念仏の行はかの仏の本願の行にてそうろう。
持戒誦経誦呪理観等の行はかの仏の本願にあらぬ行にてそうらえば、
極楽を欣わん人はまず必ず本願の念仏の行を勤めての上に、
もし異行をも念仏にし加えそうらわんと思いそうらわんと思いそうらわば、
さも仕りそうろう。
またただ本願の念仏ばかりにてもそうろうべき。念仏をつかまつりそうらわで、
ただ異行ばかりをして極楽を欣いそうろう人は、極楽へも、
え生まれそうらわぬ亊にてそうろう由、善導和尚の仰せられてそうらえば、
但念仏が決定往生の業にてはそうろうなり。
善導和尚は阿弥陀仏の化身にておわしましそうらえば、
それこそは一定にてそうらえと申しそうろうにそうろう。
また女犯とそうろうは不婬戒の亊にこそそうろうなり。
また御君逹どもの勘当とそうろうは不瞋恚戒の亊にこそそうろうなれ。
されば持戒の行は仏の本願にあらぬ行なれば、
堪えたらんに随いて持たせたまうべくそうろう。
孝養の行も仏の本願にあらず、堪へんに随いて勤めさせおはしますべくそうろう。
(『熊谷入道へ遣わす御返事』)
諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。
しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。
もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。
しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。
もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。
しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。
もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。
しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。
もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。
しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。
自余の諸行これに准じて知るべし。
まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。
しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。
ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。
(『選択本願念仏集』)
おほよそかくのごときの三義不同ありといへども、ともにこれ一向念仏のための
所以なり。初めの義はすなはちこれ廃立のために説く。いはく諸行は廃せんがために
説く、念仏は立せんがために説く。次の義はすなはちこれ助正のために説く。
いはく念仏の正業を助けんがために諸行の助業を説く。後の義はすなはちこれ
傍正のために説く。いはく念仏・諸行の二門を説くといへども、念仏をもつて正
となし、諸行をもつて傍となす。ゆゑに三輩通じてみな念仏といふ。ただし
これらの三義は殿最知りがたし。請ふ、もろもろの学者、取捨心にあり。いまもし
善導によらば、初め(廃立)をもつて正となすのみ。
(『選択本願念仏集』)
故に知んぬ。諸行は機に非ず、時を失えり。念仏往生は機に当り、時を得たり。
感応あに唐捐ならんや。まさに知るべし。隨他の前には暫く定散の門を開くと
いえども、隨自の後には還って定散の門を閉づ。一たび開いて以後永く閉じざるは
ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意ここに在り、行者まさに
知るべし。
(『選択本願念仏集』)
法然上人の教えられたことをもっと早く知りたかったと思うばかりです。そうすれば、時間とお金と体力を無駄に使わずに済んだことでしょう。それでも私は気が付きましたが、未だに何も知らずに苦しんでいるかつての仲間が哀れでなりません。
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