2018年1月 9日 (火)

高森顕徹会長の言う因果の道理は無明の闇、疑情そのもの

因果の道理について解説をして欲しいとの要望がありましたので、簡単にまとめておきます。

蓮如上人が「金をほりいだすやうなる聖教なり」とまで絶賛された『安心決定鈔』にはこうあります。

まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。和尚(善導)はこれを「別異の弘願」とほめたまへり。衆生にかはりて願行を成ずること、常没の衆生をさきとして善人におよぶまで、一衆生のうへにもおよばざるところあらば、大悲の願満足すべからず。面々衆生の機ごとに願行成就せしとき、仏は正覚を成じ、凡夫は往生せしなり。

とあります。18願によって報土に往生するということは、「世間・出世の因果のことわりに超異せり」ですので、因果の道理といっても3種類あることになります。

1.世間の因果
2.出世の因果
3.報土の因果

1の世間の因果とは、倫理道徳の因果です。親鸞会的にいうなら、どう生きるかについての因果になります。善い事をすれば善い結果が来ますよ、悪い事をすれば悪い結果が来ますよ、自分のやったことは自分に返ってきますよ、という親鸞会で教えていることとほとんど同じことです。

2の出世の因果は、迷いの世界を出る因果ということで、聖道門で教えられている因果の道理です。1との違いは、目的の違いだけではありません。難しい話を抜きに突き詰めると煩悩によって苦しみがやってきますので、煩悩を滅するというのが最終的な結論になります。これが通仏教でのいわゆる因果の道理になるのですが、親鸞会の因果の道理は、往生成仏という結果だけをみると2らしきことも混ざっているといえます。

しかし、親鸞聖人が教えられたのは3の報土の因果で、これは1でも2でもない全く違う道理になるのです。

『安心決定鈔』にはそれを「まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。」とありますが、本来、往生という果を受けるには「衆生こそ願をもおこし行をもはげむべき」でありますが、衆生はそのような願も行もない状態で、「願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず」なのです。

したがいまして『安心決定鈔』では3の報土の因果を、「世間・出世の因果のことわりに超異せり」と表現なされているのです。

また覚如上人は『改邪鈔』で

しかりといへども、弥陀超世の大願、十悪・五逆・ 四重・謗法の機のためなれば、かの願力の強盛なるに、よこさまに超截せられたてまつりて、三途の苦因をながくたちて猛火洞燃の業果をとどめられたてまつること、おほきに因果の道理にそむけり。もし深信因果の機たるべくんば、植うるところの悪因のひかんところは悪果なるべければ、たとひ弥陀の本願を信ずといふとも、その願力はいたづらごとにて、念仏の衆生、三途に堕在すべきをや。もししかりといはば、弥陀五劫思惟の本願も、釈尊無虚妄の金言も、諸仏誠諦の証誠も、いたづらごとなるべきにや。おほよそ他力の一門においては、釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なりといふは、凡夫の報土に生るるといふをもつてなり。もし因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし。そのゆゑは、たすけましまさんとする十方衆生たる凡夫、因果相順の理に封ぜられて、別願所成の報土に凡夫生るべからざるゆゑなり。

(現代語訳 石田瑞磨著『親鸞全集』より引用)

しかしそうではあっても、いつの世の仏にも見ることができない阿弥陀仏の大願は、十悪・五逆・四重・謗法などの罪を犯すひとのためであるから、阿弥陀仏の願の絶大なはたらきをもって一切の因果を断ち切られ、三つの悪道に堕ちて受ける苦の原因を永遠に断たれて、もえさかる猛火ののようにはげしい悪業の果報を受けないですむならば、それははなはだしく因果の道理に背くわけである。もし「深く因果を信ずる」ものであるためには、前世に植えた悪因が引くものは、悪果でなければならないから、たとい阿弥陀仏の本願を信ずるとしても、そのときは阿弥陀仏の誓いのはたらきも役に立たないし、念仏のひとも三つの悪道に堕ちなければならないのではないか。もしそうだとすれば、阿弥陀仏が五劫という長いあいだ熟思を重ねた末に立てられた本願も、釈尊が真実を示された金言も、所仏が誠をつくして示された証明も、無意味とならなければならないのだろうか。おおよそ他力の教えは、釈尊一代の説法に一度も例がない、通常一般の聖道門の教えとはまったく別のものであって、言語を超絶した、思惟のとどかないものである、といわれるが、それは、愚かなひとが真実の浄土に生れるということから、そういわれるのである。もし因果は相互にめぐりあうという道理にしたがうならば、釈尊と阿弥陀仏と諸仏が骨折られた、他力という、勝れた浄土への特別な教えも空しくなってしまうだろう。その理由は、お助けになろうとする目当てである、生をうけたすべてのものが、因果は相互にめぐりあうという道理にとじこめられて、独自の誓いによってつくられた真実の浄土に生れることができないからである。

と仰っています。

倫理の因果の道理と聖道門の因果の道理に超越し異なった因果の道理だということです。三悪道にいく衆生が、その因果を断ち切られて報土に往生するというのは、「おほきに因果の道理にそむけり」なのです。また「釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なり」と、出世の因果からは「言語道断」とまで言わざるを得ない程の「不思議」なのです。
更には、「もし因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし」と仰っているように、「因果相順の理」とは全く次元の違うのが報土の因果ということになります。

この報土の因果を親鸞聖人は、本願力回向で説明なされました。『教行信証』信巻に

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

(現代語訳)

このようなわけであるから、往生の行も信も、すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。如来より与えられた行信が往生成仏の因であって、それ以外に因があるのではない。よく知るがよい

とあり、この御言葉は、『浄土文類聚鈔』にもあります。

親鸞聖人が教えられた因果の道理とは、衆生が報土往生する因は、100%阿弥陀仏が用意なされたものであるということです。ですから、私の方で何かを付け加えることは不要ですし、付け加えようとすること自体が間違いになるのです。

世間・出世の因果と報土の因果とを同一視していることを親鸞聖人は、無明の闇とか疑情とか仏智不思議を疑う心と仰っているのですから、高森顕徹会長の教えは無明の闇の教えであり、報土往生を完全に妨げる教えです。

親鸞会で教える因果の道理に背かない限りは、報土往生はあり得ないと「知るべし」でしょう。

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2018年1月 6日 (土)

正しい解釈を全くできないで恥を曝し続ける高森顕徹会長

親鸞会と退会者の間で、この10年の間に、百回を越える法論をしてきました。結果は、親鸞会の全敗、退会者の全勝です。別に驚く結果でも何でもありません。当然の結果です。

昔、親鸞会では討論会というものをよく行っていました。あるテーマに対して、2つの主張の側に分かれて、討論をして勝者を決めるというものです。高森顕徹会長の考えでは、真実開顕には討論術が必要だということでした。かつて親鸞会が勝ち続けてきた法論と言われるものは、討論術、詭弁と呆れさせにより、勝ちを演出してきただけでした。

ところが今では、如何なる討論術、詭弁を弄しても、退会者には全く手も足も出ません。討論術、詭弁のレベルが低いからではありません。理由は、聖教を読んでいない、そして知っている僅かな聖教上の御文の解釈も破滅的であるからです。

親鸞会が法論で負けを決定的にする要因の多くが、親鸞会が自信満々に出してきた聖教上の根拠の解釈を退会者によってひっくり返されることです。

退会者はこのことを知っていますから、親鸞会に法論で勝つことは赤子の手を捻るほど容易いのです。退会者がちょっと隙を見せて親鸞会に突っ込ませると、見事に術中にはまり上から目線で根拠を出してきて墓穴を掘ってすぐに終わりです。

さて、先日の高森会長の話では、『正信偈』の

譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇

を出して、恥を曝しています。「」が晴れたのを絶対の幸福と高森会長は説明していますが、「」の意味が良く判っていないのです。高森会長は、「」とは、「後生暗い心」「死に向かったら真っ暗になる心」と信じているようですが、違います。

まずは蓮如上人の『正信偈大意』を見てみましょう。

「摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」といふは、弥陀如来、念仏の衆生を摂取したまふひかりはつねに照らしたまひて、すでによく無明の闇を破すといへども、貪欲と瞋恚と、雲・霧のごとくして真実信心の天に覆へること、日光のあきらかなるを、雲・霧の覆ふによりてかくすといへども、そのしたはあきらかなるがごとしといへり。

光(日光)」「雲霧」「闇(無明の闇)」の3つで構成された話ですが、
」=阿弥陀仏の光明
雲霧」=煩悩
ですので、
」=阿弥陀仏の救いを疑う心
となります。難しい話ではありませんので、思考停止の会員でも理解できると思います。
ただし、この阿弥陀仏の救いを疑う心が何かを会員は知りませんし、高森会長自身も判っていませんので、

無明の闇(阿弥陀仏の救いを疑う心)=後生暗い心=死に向かったら真っ暗になる心

という破滅的な勘違いをするのです。

無明の闇=疑情=仏智不思議を疑う罪

ですが、これを親鸞聖人は『正像末和讃』で、

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

自力称名のひとはみな
 如来の本願信ぜねば
 うたがふつみのふかきゆゑ
 七宝の獄にぞいましむる

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

仏智不思議をうたがひて
 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば
 胎生のものとときたまふ

などとありますように、

罪福信ずる」「自力称名」「自力諸善」が「仏智不思議を疑う」(=無明の闇)です。
自力称名」も「自力諸善」も根本にあるのは阿弥陀仏の救いに対する「罪福信ずる心」(=自力)ですから、

無明の闇=疑情=仏智不思議を疑う罪=罪福信ずる心

つまり

無明の闇が晴れる=(阿弥陀仏の救いに対して)罪福信ずる心が無くなる

です。

要するに、阿弥陀仏の光明によって、阿弥陀仏の救いは因果の道理に順じていると思う闇の心を破られて、阿弥陀仏の救いは因果の道理に反していると明らかになったことを「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」と仰っているのです。
煩悩に覆われている我らの心が明るくなるのではなく、因果の道理に支配された闇の心が破られるのです。もちろん、死後のことについて明るくなることもありませんし、絶対の幸福という創価学会の信心も得られません。

なお『教行信証』行巻には、

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。

また

しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵ふなり、知るべしと。

と親鸞聖人は仰っています。後の御文も行巻という真実の行である念仏についての説明の結論として仰っていますので、念仏によって「無明の闇を破し」とも親鸞聖人は仰っています。

そんなことも知らないで、善がどうのこうの、聞法善が大事だの、寝惚けたことを言って、念仏を謗り続けている高森会長と愉快な仲間達に、無明の闇が破れることはありません。まさに「知るべし」です。

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2018年1月 2日 (火)

自力の聞しか知らない高森顕徹会長と会員の関係は、善鸞と善鸞の言うことを信じて親鸞聖人の元に行く気のない同行

年頭所感もそうですが、昨年後半から高森顕徹会長の話の結論は、「とにかく命がけでワシの話を聞け」です。これなら批判も少ないと思ってのことでしょうが、本当に間が抜け過ぎています。

高森会長が命がけで聞けと言っている根拠として挙げているのが『歎異抄』第2条や『浄土和讃』の

たとひ大千世界に
 みてらん火をもすぎゆきて
 仏の御名をきくひとは
 ながく不退にかなふなり

などですが、異安心で聖教を読んだことのない高森会長に、親鸞聖人がどのような御心でこれを仰ったのか判る筈もないでしょう。
間違いを指摘しないと、良い気になっていつまでも言い続けますので、正しい意味を教えて差し上げます。

この和讃の元になった根拠が、『教行信証』行巻にいくつか引かれています。

まずは『平等覚経』から

かくのごときの人、仏の名を聞きて、快く安穏にして大利を得ん。
われらが類この徳を得ん。もろもろのこの刹に好きところを獲ん。
無量覚その決を授けん。
《われ前世に本願あり。一切の人、法を説くを聞かば、みなことごとくわが国に来生せん。
わが願ずるところみな具足せん。もろもろの国より来生せんもの、
みなことごとくこの間に来到して、一生に不退転を得ん》と。
すみやかに疾く超えて、すなはち安楽国の世界に到るべし。
(中略)
たとひ世界に満てらん火にも、このなかを過ぎて法を聞くことを得ば、
かならずまさに世尊となりて、まさに一切生老死を度せんとすべし〉

(現代語訳)

釈尊は、<このような人々は、仏の名号を聞いて心楽しく安らかに大きな利益を得るであろう。わたしたちもこの功徳をいただいて、それぞれこのようなよい国を得よう。無量清浄仏は衆生の成仏を予言して、≪わたしは前世に本願をたてた。どのような人も、わたしの法を聞けば、ことごとくわたしの国に生れるであろう。わたしの願うところはみな満たされるであろう。多くの国々から生れてくるものは、みなことごとくこの国に至ることができるのである。すなわち、来世をまたずに不退転の位を得るのである≫とお述べになった。阿弥陀仏の安楽国に、速やかに往くことができる。
(中略)
たとえ世界中に火が満ちみちていても、その中を通り過ぎて法を聞くことができるなら、必ず仏となって、すべての迷いを超えるであろう>と仰せになった

次に『安楽集』に引用されている曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』から

もし阿弥陀の徳号を聞きて歓喜讃仰し、心帰依すれば、下一念に至るまで大利を得。すなはち功徳の宝を具足すとす。たとひ大千世界に満てらん火をも、またただちに過ぎて仏の名を聞くべし。阿弥陀を聞かばまた退せず。このゆゑに心を至して稽首し礼したてまつる

(現代語訳)

もし阿弥陀仏の功徳の名号を聞き、喜びたたえて信じれば、わずか一声念仏するだけで大きな利益を得て、功徳の宝を身にそなえることができる。たとえ三千大千世界に火が満ちみちていても、その中をひるまずに進んでいき阿弥陀仏の名号を聞くがよい。仏の名号を聞けば、不退転の位に至る。だから心をこめて礼拝したてまつる

更には『往生礼讃』より

弥陀の智願海は、深広にして涯底なし。名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に到る。たとひ大千に満てらん火にも、ただちに過ぎて仏の名を聞け。名を聞きて歓喜し讃ずれば、みなまさにかしこに生ずることを得べし。

(現代語訳)

阿弥陀仏の智慧の誓願は、海のようであり、限りなく深く果てしなく広い。名号を聞いて往生を欣えば、みなことごとく阿弥陀仏の国に至る。たとえ三千大千世界に火が満ちみちていても、その中をひるまずに進んでいき、仏の名号を聞け。名号を聞いて喜びたたえるなら、みな間違いなくその国に往生することができる。

とあります。
古文も現代文も読みこなす力のない高森会長と愉快な仲間達には上記の御言葉を理解することは無理でしょうから、簡単な説明だけすると、親鸞聖人はこれらを行巻に引かれていて、化土巻には引かれていないということがポイントです。行巻は真実の行、化土巻は方便の行と信について書かれてあることは高森会長でも知っている基礎の基礎です。

つまり、「たとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて」聞くことは、真実の行なのです。言い換えると他力の行です。

要するに、自力で命がけで聞けと親鸞聖人が仰ったのではないということです。

それと関東の同行が命がけで親鸞聖人の元まで来たのは、教え自体に対する疑問が出てきたからです。念仏では救われないのでは、念仏以外の行をしなければならないのでは、という根本的な疑問を解消するために京都まで来たのであって、親鸞聖人の御説法を聞きに命がけで来たのではないのです。

親鸞会の会員に置き換えるなら、高森会長と本願寺や退会者とは言っていることが全く違うのだから、それを確かめようと親鸞聖人の元に来る=親鸞聖人の御著書を読むことになる筈です。ところがそれをしていないのは、善鸞や他宗の僧侶の言うことを真に受けて確かめようとしないのと同じです。
親鸞聖人の仰ったことと違っていても良い、善鸞の言うことを信じます、と言っているのが現在の親鸞会会員の心です。

そんな会員に、関東の同行の心など、到底理解できないでしょう。土蔵秘事に類する高森会で搾取されながら満足するしかない会員は哀れと言うより言いようがありません。

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2017年12月13日 (水)

学術論文である『教行信証』を体験記と見做す体験至上主義の高森顕徹会長

高森顕徹会長が、mixiでの法論で大惨敗を喫してより、当ブログで煽りまくった結果『なぜ生きる2』を出版したのが丁度4年前です。もちろん更なる失態を重ねて、今では、会の中で話題にさえしない駄作です。

『なぜ生きる2』は、三願転入についてがメインテーマで、
親鸞聖人の教えの根基は三願転入の教え
という、トンデモ邪義満載です。当時は三願転入を毎回話をしていた高森会長ですが、最近は根基である筈の三願転入の話を全くしません。間違いを認めざるを得なくなった高森会長の苦悩が手に取るように判ります。

さて、『なぜ生きる2』の前半には現生十種の益について書かれていますが、総益である入正定聚の益について、少し述べておきます。

親鸞会で有名な御文である『教行信証』信巻の

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

ですが、これを『なぜ生きる2』では

「真に知んぬ」とは、「あまりにも明らかに知らされた」聖人の驚嘆である。
「今は弥勒と肩を並べるけれども、死ねば先に仏のさとりを得るのだ」
「入正定聚の大益」を讃える、聖人の大慶喜である。

と書いています。この御文をもって、信心を獲たら絶対の幸福になると親鸞聖人が知らされたことを仰ったのだ、という寝惚けたことを高森会長は言っていますが、高森会長は『教行信証』が体験記だという認識しかないのでしょう。高森会長の愛読書である伊藤康善師の『仏敵』や大沼法竜師の著書の多くは、体験記や随筆に近いものですが、それと『教行信証』とは全く異なります。『教行信証』は学術論文です。
高森会長は、学問とは縁遠いでしょうから、学術論文の表現が体験にしか認識できないのも仕方のないことです。

学術論文には、多くの資料や引用文献があり、それらをまとめて私見を述べていくのです。親鸞聖人が「まことに知んぬ」と仰っているのは、体験から知らされた内容ではなく、経典や七高僧方や先哲の釈文から、理屈の上で知らされた内容なのです。

高森会長の嘘に騙されきっている会員には、信じがたいことでしょうが、親鸞聖人が断言されている内容の大半は、体験ではなく、理論的なことです。

この御文だけでもそれが証明できます。
まことに知んぬ」にかかっているのは「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」だけではありません。「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」にもかかっています。弥勒菩薩の成仏の時期を、親鸞聖人が体験で知らされたのなら、親鸞聖人は仏の智慧を得られたことになります。しかし、親鸞聖人はこの時に仏智を得られていないことは御自身も仰っているし、常識的に考えてもないことです。ではなぜ「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」が「まことに知んぬ」であったのかと言えば、経典にそのように説かれているからです。
同じことで、「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」も経典や釈文を読み解くとこの結論になるだと明らかになったことを「まことに知んぬ」と仰っているのです。

それは七高僧方の仰っていることは異なります。信心を獲た人が死ぬと同時に仏になるとは、七高僧のどなたも仰っていません。もし「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」が知らされなかったなら、信心を獲ていないのだとするなら、七高僧方は異安心になります。

もう一つ言うと、親鸞聖人は御自身のことはたとえ体験で知らされたとしても、他人のことまで体験で知らされることはありません。「念仏の衆生は」であって「親鸞は」でないところが重要です。親鸞聖人以外の「念仏の衆生」も「横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」と体験で知らされることはあり得ません。
ついでに言うなら、『高僧和讃』で曇鸞大師について

六十有七ときいたり
 浄土の往生とげたまふ
 そのとき霊瑞不思議にて
 一切道俗帰敬しき

と仰り、法然上人についても

本師源空命終時
  建暦第二壬申歳
 初春下旬第五日
 浄土に還帰せしめけり

と断言されています。遭われたこともない曇鸞大師の往生や、臨終に立ち会われなかった法然上人の往生を親鸞聖人は体験で知らされたのかという話です。
あるいは御消息で

明法御房の往生のこと、おどろきまうすべきにはあらねども、かへすがへすうれしく候ふ。

またひらつかの入道殿の御往生のこときき候ふこそ、かへすがへす申すにかぎりなくおぼえ候へ。

明法御房の御往生のことをまのあたりきき候ふも、うれしく候ふ。

などと、仰っていて、お弟子達の往生も断言されています。
体験上の断言ではなく、理論上の断言ですが、それが体験至上主義の高森会長には理解できなかったのでしょう。学術的素養もなく、聖教を読んだこともない高森会長には、幼稚な発想で無知な会員を騙すことしかできません。これが高森会長の実像です。

ここまで侮辱されて黙っておれるかと憤る元気があるのなら、高森会長自身でも講師でも会員でも問いませんので、学術的に反論をしてきてください。

どうぞ遠慮なく。

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2017年12月10日 (日)

親鸞聖人の教えを知らないのだから七高僧方の教えなど何一つ知らない高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話は、いつも通り支離滅裂です。仏教と親鸞聖人の教えの基本が判っていないからこんな話になるのだと思います。

18願成就文の「即得往生、住不退転」の説明を、

生きている時に絶対の幸福になること

としていました。元々、高森会長の言う絶対の幸福とは信楽の身になることでしたので、以前から言い続けている「若不生者」の「」を信楽に生まれさせるが、成就文の「即得往生、住不退転」から邪義と明らかになります。
『唯信鈔文意』には、

「即得往生」は、信心をうればすなはち往生すといふ、すなはち往生すといふは不退転に住するをいふ、不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まるとのたまふ御のりなり、これを「即得往生」とは申すなり。「即」はすなはちといふ、すなはちといふはときをへず日をへだてぬをいふなり。

(現代語訳)

「即得往生」 は、 信心を得ればすなわち往生するということである。 すなわち往生するというのは、 不退転に住することをいう。 不退転に住するというのは、 すなわち正定聚の位に定まると仰せになっているみ教えである。 このことを 「即得往生」 というのである。 「即」 は 「すなわち」 というのである。 「すなわち」 というのは、 時を経ることもなく日を置くこともないことをいうのである。

とありますが、お判りでしょうか。
信心をうればすなはち往生す」ですから、信楽をうれば往生する、なので、この「往生」は信楽の身に生れるではあません。もし信楽の身に生まれるなら、信楽をうれば信楽の身に生まれる、となって意味が通じなくなります。

もし、高森会長が絶対の幸福と信楽の身とは別という意味で、「住不退転」を絶対の幸福にさせるという言い方をしたとしたら、一歩前進とも言えなくもないですが、絶対の幸福自体が最初からおかしいので、訳の判らない無茶苦茶な話になってくるのです。

不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まる」と親鸞聖人が仰っていますように、

不退転=正定聚の位

ということです。
高森会長の理論でいくと

不退転=正定聚の位=絶対の幸福

ですが、ここがポイントです。
現生で正定聚になると教えられたのは歴代の善知識方では親鸞聖人が初めてです。つまり、七高僧方は死後に正定聚になるとしか仰っていませんので、

不退転=正定聚の位=絶対の幸福

であるなら、死後に絶対の幸福になると教えられたのが七高僧方となります。
会員にはチンプンカンプンだと思いますが、
現生で正定聚になると親鸞聖人が教えられたのは、親鸞聖人の理論であり、独特の解釈ですから、正定聚の位に入ったという自覚も実感も確かな証拠も何もないのです。
要するに、仮に

不退転=正定聚の位=絶対の幸福

だとしても、高森会長の説明するような現生で絶対の幸福になど絶対になれないのです。

妄想、空想、創価学会のパクリで創り上げた高森会長の偽の信心を正信心と騙されている会員は、一刻も早く高森会長に三下り半を突き付けてください。

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2017年11月30日 (木)

願成就文の「聞」についても当然知らない高森顕徹会長

高森顕徹会長は本願寺批判を繰り返しながら、必死になって、正しい信心を獲て理解している類希なる希少価値の極めて高い善知識を演じていますが、マインドコントロールのよく効いている会員以外からは、冷ややかな目で見られています。高森会長の演技も嘘も、全く通用しないからです。

さて、高森会長が最近拘って多用している18願成就文の「」ですが、そのことについて親鸞聖人は以下のように解説なされています。

『教行信証』信巻

しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。

『一念多念証文』

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。

」とは信心を指しているのであり、言い換えると「」とは信じることです。
もちろんここでの信じるは、深信であり、前回紹介した『末灯鈔』の

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

のことです。
要するに、「」を勧めることを、「信心を頂きなさい」=「信じなさい」と表現するのです。それを否定するのは、他力の信心が判っていないからです。

また『教行信証』行巻と信巻の二か所に引かれている法の深信

いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。

も同じです。「」で信心を表現されています。

更には存覚上人は18願成就文について更に詳しく解説なされています。『浄土真要鈔』に

しかのみならず、おなじき第十八の願成就の文にいはく、「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」といへり。この文のこころは、「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜し、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す」となり。こころは、「一切の衆生、無礙光如来の名をきき得て、生死出離の強縁ひとへに念仏往生の一道にあるべしと、よろこびおもふこころの一念おこるとき往生は定まるなり。これすなはち弥陀如来、因位のむかし、至心に回向したまへりしゆゑなり」となり。

とあります。どう「聞」するかについて「無礙光如来の名をきき得て、生死出離の強縁ひとへに念仏往生の一道にあるべしと」だと説明されています。『末灯鈔』の御言葉と同じ事です。

つまり、

=他力の信心
=阿弥陀仏の本願を信じること
=「弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じ」ること
=「いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし
=「無礙光如来の名をきき得て、生死出離の強縁ひとへに念仏往生の一道にあるべしと」信じること

です。

」とは、類希なる希少価値の極めて高いワシにか理解できない特別な意味があるのだ、と思わせたいのでしょうが、完全に失敗です。

高森会長が説法しなくなる日まで、或いは亡くなる日まで無理して親鸞会に残ることはないと思います。思考力の残っている会員は直ちに退会しましょう。

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2017年11月26日 (日)

親鸞聖人の仰ったことを、「そんなことは口が腐っても言ってはならない」と完全否定する高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話には、またまた、あっと驚くタメゴロー発言がありました。

阿弥陀仏の本願を信じなさいとはどこにも教えられていないし、そんなことを口が腐っても言ってはならない。

これを聞いた会員は平常心でいられるのだろうかと思います。

判らない高森会長と取り巻きのために、教えてあげます。

直接的な聖教上のお言葉として、『正像末和讃』の

弥陀の本願信ずべし
 本願信ずるひとはみな
 摂取不捨の利益にて
 無上覚をばさとるなり

には、阿弥陀仏の本願を信じなさい、と親鸞聖人が仰っておられますが、そんなことも知らないのかという話です。『正像末和讃』は読んだことなくても、『御文章』を読んだことのある会員は多いと思います。5帖目6通の

このこころをまた『和讃』にいはく、「弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益ゆゑ 等正覚にいたるなり」といへり。

は一部の会員でも知っているでしょう。

もっというなら、『正信偈』の

五濁悪時の群生海、如来如実の言を信ずべし。

道俗時衆ともに同心に、ただこの高僧の説を信ずべしと。

如来如実の言」「この高僧の説」とは、阿弥陀仏の本願以外にないでしょう。

五濁悪時の群生海」は阿弥陀仏の本願を信じなさい。
道俗時衆ともに同心に」阿弥陀仏の本願を信じなさい。

と親鸞聖人が一字一涙の思いで書き残されているのではないのですかね。それとも、「如来如実の言」「この高僧の説」とは、阿弥陀仏の本願ではないと言いたいのか、いずれにしても、無知を通り越して、会員さえも、あっと驚くタメゴロー状態ではないかと想像しています。

苦し紛れの反論として、

信じるのは自力だから

とか言うかもしれませんが、自力の聴聞を勧めているのに、自力で信じることは口が腐っても言ってはならないとは、どの口が言うのでしょう。

理解力の欠落した高森会長と講師と会員のために補足しておきますと、

阿弥陀仏を信じる気のない、言い換えると外道や聖道門を信じている人に、
阿弥陀仏の本願を信じなさい
と勧められていることは説明するまでもないですし、
阿弥陀仏の本願を信じて聞いている人にも、
阿弥陀仏の本願を信じなさい(他力の信心を頂きなさい)
と勧められているのが親鸞聖人です。

『末灯鈔』には

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

と親鸞聖人は教えられていますが、これを簡単に言うと

阿弥陀仏の本願(名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる)を深く信じて念仏を称えなさい

です。

異教の教祖である高森会長の言うことを信じなさい、と私は口が腐っても言いませんので、会員は、一刻も早く、高森会長を見限って親鸞会を離れることを強くお勧めします。

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2017年11月12日 (日)

自力の迷情とは後生どこへ行くかわからない心とか言っているお笑い悪知識

本日も、毎度毎度全くと言っていいほど同じ話で、高森顕徹会長の数少ないレパートリーが更に更に減ってきました。会員は何を思って聞いているのかと質問したくなりますが、大抵の会員は、高森会長が話ができなくなるか亡くなるまでの我慢と耐え忍んでいることでしょう。自分が信心決定できるとは思っていないです。

親切心で、聖教を読んだことのない高森会長と教学を補佐する講師部員のために、少しだけ教えてあげましょう。

最近いつも出す『改邪鈔』の

この娑婆生死の五蘊所成の肉身いまだやぶれずといへども、生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念にやぶれて

ですが、「共発金剛心の一念」は善導大師の『玄義分』が元になっていて、親鸞聖人は『教行信証』信巻に引文されています。

『観経義』に、
「道俗時衆等、おのおの無上の心を発せども、
生死はなはだ厭ひがたく、仏法また欣ひがたし。
ともに金剛の志を発して、横に四流を超断せよ。
まさしく金剛心を受けて、一念に相応してのち、
果、涅槃を得んひと」といへり。

(現代語訳)

『観経疏』にいわれている(玄義分)。
 「出家のものも在家のものも、今の世の人々は、それぞれ自力の菩提心をおこしても、迷いの世界は厭い離れることが難しく、またさとりへの路は求めて得ることが難しい。みなともに他力金剛の信心をおこして、ただちに迷いの流れを断ち切るがよい。まさしく他力金剛の信心を得て、本願にかなう一念の人はついには仏のさとりを得るものである」

親鸞聖人がどのような意味で仰ったのかは、読まれた通りで、自力の菩提心、自力の信心では出離が難しいから他力の信心をおこして、仏のさとりをえなさい、ということです。

つまり、『改邪鈔』で仰っている「自力の迷情」とはその人その人の「無上の心」という自分の力で出離しようとする菩提心のことです。難しい話でも何でもないです。

ところが聖教を読んだことのない高森会長と愉快な仲間達は、

自力の迷情=後生暗い心=後生どこへ行くかわからない心

と妄想し、本日も説明しているのです。

無知の恥じ曝しも大概にしておいた方が宜しいかと思いますが、後生どこへ行くかなんてことは、仏の智慧をもってしか判らないことです。他力の信心とは後生どこへ行くかハッキリする心だ、なんて根拠はどこにもありません。

往生一定ということと、極楽が手に取るように判るようになった、阿弥陀仏のお姿が認識できた、ということとは全く違うのですが、それさえも理解できないのでしょう。

仮に、極楽や阿弥陀仏が判るようになったのなら、定善が楽々できるでしょう。

極楽も阿弥陀仏も判らないが、極楽に往生できることがハッキリ判るんだ!

と訳の判らない反論をしてくるのでしょうが、死後に往く世界も認識できないのに、極楽に往生できると認識できる訳がありません。

往生一定とは、阿弥陀仏に死んだ後のことは全ておまかせしたことであり、阿弥陀仏が必ず往生させると誓っておられるので、往生は間違いない、という以上のことではないのです。

難しい根拠を出すなら、『浄土論註』には

かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり。

(現代語訳)

かの下品の人は生即無生であると知らないけれども、 ただ仏の名号を称えて作願してかの土に生まれようと願うならば、 浄土に至ればかの国は無生の道理にかなった境界であるから、 実消実滅と見る煩悩の火は自然に消えるのである。

とあります。煩悩にまみれて智慧のない下品の人には、往生とはどんなことかまるっきり理解できないのですが、その状態のまま念仏の力によって往生できるということです。

『教行信証』さえ読んだことがないのですから、『玄義分』や『浄土論註』など見たこともないでしょうが、聖教には、高森会長の異安心の証拠が山ほど書かれてあるのです。絶対の幸福とか創価学会用語を未だにパクリ続けて、それで他力の信心を語っているつもりなのですから、後々までお笑い悪知識と愉快な会として名を残してください。

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2017年11月 3日 (金)

阿弥陀仏の約束を疑わないように諸行に励む異安心集団親鸞会

先日の高森顕徹会長の講義では、自力の信心と他力の信心との違いについての話がありました。異安心の高森会長に、自力の信心・他力の信心の説明が正しくできる筈もありません。
高森会長の説明は、

自力の信心とは、阿弥陀仏の約束を疑わないようにしている信心。
他力の信心とは、阿弥陀仏から頂いた信心で、まことの心になる。

でした。
他力の信心を、聖道門のさとりのように勘違いしているところから生じる、あるいは土蔵秘事の一念覚知と混同しているところから生じる、異安心の典型的な理解です。

まず、自力の信心とは、阿弥陀仏の18願を疑わないようにしているのではなく、18願を疑っている信心です。阿弥陀仏の18願とは、前回も言いましたように、因果の道理に相反する救いであり、衆生の側には救いの因は全くなく、当然、何かをしなければならないということは皆無でありますから、救われるために私たちが何かをしようと思っていること自体が、阿弥陀仏18願を疑っているのです。

『教行信証』信巻の

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

(現代語訳)

このようなわけであるから、往生の行も信も、すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。如来より与えられた行信が往生成仏の因であって、それ以外に因があるのではない。よく知るがよい

にある通りです。

仮に疑わないようにしているなら、何もしない筈です。しかし、親鸞会の会員を見れば判りますが、疑わないようにしようと思いながら聞くという行や善に励んでいます。その思い、その行為が疑いそのものでありますから、高森会長の説明は全く意味不明です。

よって、他力の信心とは、阿弥陀仏が全てを用意されているので私が何かをする必要がない、阿弥陀仏に全部おまかせします、という信心です。私の心が真実の心になる訳ではありません。阿弥陀仏にそのままおまかせをしたことを、蓮如上人は「まことの心」と表現されているのであって、私たちの心が「まことの心」にはなりません。

自力の信心と他力の信心の違いを最も端的に顕わされているのが、高森会長の好きな、いや好きだった二河白道の譬えです。

御文を紹介すると長いので、今回は省略しますが、旅人が阿弥陀仏の喚び声を聞く前から聞いた後に何が変わったのかと言えば、白道に乗ったことだけです。幅四、五寸の白道は広くも短くもなっていません。水の河と火の河の波が白道を潤し焼いているのも変わりません。群賊悪獣悪知識も存在したままです。白道に乗って進む以外には、何一つ周りの状況は変わっていません。

つまりは、阿弥陀仏の喚び声に従うか従わないか、疑うか信じるかの違いだけです。

自力の信心と他力の信心の違いは、救われるために自分で何かをしなければならないと思うか思わないかの違いと言えます。

救われたなら善は必要ないが、救われるまでには善をしていかなければ信仰は進まない

とか寝惚けた妄言を信じ続けている限り、他力の信心を頂くことはありません。

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2017年10月29日 (日)

釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途をむなしくする高森顕徹会長と親鸞会

本日の高森顕徹会長の話は、本当の自己を知るのが究極の目的で、本当の自己とは、五逆・謗法・闡提の者だという昔ながらの邪義を垂れ流した内容でした。

この邪義については過去に何十回も書いてきたことで、一口問答でも詳しく書いてきました。

「浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?」
②五逆・謗法・闡提について

ここを読んで頂ければ十分ですが、今回、高森会長が言った「機の真実」という言葉について説明します。

機の真実」という言葉は、『改邪鈔』にあります。

『観無量寿経』は機の真実をあらはして、所説の法は定散をおもてとせり。機の真実といふは、五障の女人・悪人を本として、韋提を対機としたまへり。

(現代語訳 石田瑞磨著『親鸞全集』より引用)

『観無量寿経』は、教えを受けるひとの側の真実の姿を表わし、そこに説かれた教えは定心や散心の善を表としたものである。そしてここに教えを受けるひとの真実というのは、五障を持つ婦人と悪人とが中心で、ここでは韋提希を説法の対象としておられる。

読まれた通りで、「機の真実」とは「五障の女人・悪人を本として、韋提を対機」のことを意味しています。「五障の女人・悪人を本として、韋提を対機」と五逆・謗法・闡提とは意味が違います。理解力の無い親鸞会の会員のために敢えて説明するなら、

悪人の一部に五逆・謗法・闡提がいるということです。

これでも判らないなら、『愚禿鈔』を見てみましょう。

また悪機について七種あり。
一には十悪、        二には四重、
三には破見、        四には破戒、
五には五逆、        六には謗法、
七には闡提なり。

悪人には七種あり、その中の三種が五逆・謗法・闡提だということです。

簡単な話ですが、この簡単な話さえも知らないのが、高森会長なのです。

なぜ知らないのかと言えば、高森会長は聖教を全く読んだことがないのですから当たり前の結果です。

ついでですから、『改邪鈔』の続きを紹介します。

しかりといへども、弥陀超世の大願、十悪・五逆・ 四重・謗法の機のためなれば、かの願力の強盛なるに、よこさまに超截せられたてまつりて、三途の苦因をながくたちて猛火洞燃の業果をとどめられたてまつること、おほきに因果の道理にそむけり。もし深信因果の機たるべくんば、植うるところの悪因のひかんところは悪果なるべければ、たとひ弥陀の本願を信ずといふとも、その願力はいたづらごとにて、念仏の衆生、三途に堕在すべきをや。もししかりといはば、弥陀五劫思惟の本願も、釈尊無虚妄の金言も、諸仏誠諦の証誠も、いたづらごとなるべきにや。おほよそ他力の一門においては、釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なりといふは、凡夫の報土に生るるといふをもつてなり。もし因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし。そのゆゑは、たすけましまさんとする十方衆生たる凡夫、因果相順の理に封ぜられて、別願所成の報土に凡夫生るべからざるゆゑなり。

(現代語訳 石田瑞磨著『親鸞全集』より引用)

しかしそうではあっても、いつの世の仏にも見ることができない阿弥陀仏の大願は、十悪・五逆・四重・謗法などの罪を犯すひとのためであるから、阿弥陀仏の願の絶大なはたらきをもって一切の因果を断ち切られ、三つの悪道に堕ちて受ける苦の原因を永遠に断たれて、もえさかる猛火ののようにはげしい悪業の果報を受けないですむならば、それははなはだしく因果の道理に背くわけである。もし「深く因果を信ずる」ものであるためには、前世に植えた悪因が引くものは、悪果でなければならないから、たとい阿弥陀仏の本願を信ずるとしても、そのときは阿弥陀仏の誓いのはたらきも役に立たないし、念仏のひとも三つの悪道に堕ちなければならないのではないか。もしそうだとすれば、阿弥陀仏が五劫という長いあいだ熟思を重ねた末に立てられた本願も、釈尊が真実を示された金言も、所仏が誠をつくして示された証明も、無意味とならなければならないのだろうか。おおよそ他力の教えは、釈尊一代の説法に一度も例がない、通常一般の聖道門の教えとはまったく別のものであって、言語を超絶した、思惟のとどかないものである、といわれるが、それは、愚かなひとが真実の浄土に生れるということから、そういわれるのである。もし因果は相互にめぐりあうという道理にしたがうならば、釈尊と阿弥陀仏と諸仏が骨折られた、他力という、勝れた浄土への特別な教えも空しくなってしまうだろう。その理由は、お助けになろうとする目当てである、生をうけたすべてのものが、因果は相互にめぐりあうという道理にとじこめられて、独自の誓いによってつくられた真実の浄土に生れることができないからである。

ここでは「機の真実」を「十悪・五逆・ 四重・謗法の機」とも言い換えられています。「十悪」と「四重」に、五逆・謗法・闡提の意味はありません。ちなみに、「四重」とは婬・偸盗・殺生・妄語の罪です。

注目すべきは、阿弥陀仏の救いは「おほきに因果の道理にそむけり」ということです。更には、「釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なり」と仰り、「因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし」とまで繰り返されて、阿弥陀仏の救いが因果の道理と相反することを教えられています。

高森会長が聖教を読んだことがないと、これでハッキリしましたかね。

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