2018年9月16日 (日)

国語の問題よりもさらに深刻な人間性に問題のある高森顕徹会長と愉快な仲間達

本日の高森顕徹会長の話は、意地になっての二河白道の譬えを入れてきました。二河白道の譬えを話することができない、と煽ったので、反応した、といういつも私が言っている通りの展開です。高森会長の単純な性格が皆さんにも判られたと思います。

内容については、修正があるどころか、開き直りで、いつもの創作ヘンテコ話でした。

白道は仏教を聞こうと思う弱い聞法心

としたり、

見えない彼岸
仏教を聞くということは、白道を見えない西に向かって進むことだ

と言ったり、親鸞聖人の教えを正しく伝えようとか、間違えて伝えたら腹を切るとか、そんな気の更々ない無責任極まりない、会員を騙す気満々です。

今更ですが、

白道=他力信心

は揺るぎないし、高森会長自身が、

親鸞聖人は白道を他力で教えられている

と言っていたことも、ワシはそんなこと言ってない、で済ますのでしょう。

これが高森顕徹と言う人物の実相です。

白道については、散々説明してきましたので、今回は彼岸、西の岸が見えないのかどうかについて説明します。

『教行信証』信巻でも、元の『散善義』でも

この道東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩

この河、南北に辺畔を見ず、中間に一つの白道を見る、きはめてこれ狭少なり。二つの岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべき。

となっています。東と西の岸との距離は「百歩」「二つの岸あひ去ること近し」です。

これをどう読んだら、西の岸、彼岸が見えないとなるのでしょうか。ここまでくると国語の問題ではありません、人間性の問題です。

これでも高森会長を擁護する会員は、同類で人間性に問題があるのです。

ついでに、本日の高森会長の話で、親鸞聖人が善導大師のことを「大心海化現の善導」と仰っているとありました。それが間違いと言いたいのではなく、親鸞聖人は、遭われたこともない他人である善導大師のことを仏の化身だと断言されていることです。

『高僧和讃』に

大心海より化してこそ
 善導和尚とおはしけれ
 末代濁世のためにとて
 十方諸仏に証をこふ

とあります。善導大師だけではありません。他の高僧方も仏や勢至菩薩の化身と親鸞聖人は断言されていますし、当然ながら七高僧方が往生されたことも断言されています。
親鸞聖人の体験でこのように知らされたのかと言えば、前回のエントリーで紹介したW氏の日本語講座で、

他人の体験は自覚できない

と教えてくだされた通りです。それなのに親鸞聖人は断言されています。
親鸞聖人の断言、「まことに知んぬ」が何を意味しているかは、基礎学力があれば簡単にわかる話です。

会員も国語の能力を一般人並みにするように勉強し直してみてはいかがでしょう。その前の人間性に問題がある会員は、高森会長と同じ所へ行ってください。

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2018年9月15日 (土)

親鸞会で切れ者と思われる人物でも、実は大したことないという実例を通しての国語の授業です

今日は、高森顕徹会長の側近で、親鸞会の中では切れ者と思われていて、しかも文章を書くことを任務としているW氏でも、国語の能力に問題があった実例を通して、授業をします。

それは4年前にあった法論で、全文は以下にあります。

「宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)へ」
http://shinrankaidakkai.hatenablog.com/entry/2014/07/29/162012

名前を「ゼロ」とか「JB」と名乗っていますが共にW氏です。
論点の中心は、

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

について「まことに知んぬ」がどういう意味なのかについてでした。

文法から言うと、「まことに知んぬ」は「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」と「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す」の両方にかかっています。これは説明するまでもないことですよね。
まさか、「まことに知んぬ」は「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」にはかかっていない、というなら落第です。

W氏は、文を書いているだけに、流石にそれを認めざるをえなくなり、苦し紛れに書いたコメントから最終結論までを以下に抜粋します。

JB

宮田教の信者の言語はほんとに凄いですね(笑)
念のため日本語と比較しておきましょうか。

■宮田語基礎講座■

【1】

昨年、A君がインフルエンザにかかって、とてもつらい思いをした。(A)
今年、私もインフルエンザにかかり、とてもつらかった。(B)

(A)と(B)は、ともに断言していますが、同じレベルの断言でしょうか、違うレベルでしょうか? 正しいと思う方の( )に○を入れてください。

(答え)

1:同じ(○)
2:違う( )

【2】

Mくんは3年間の勉強の末、T高校に合格して、春から高校生になる。
(C)
私は、喜ばしいことに、中高一貫校だから、すでに高校進学が決まっている。
(D)

(C)の文章と(D)の文章と、より言いたいことはどちらの文章でしょう?
正しいと思う( )に○を入れてください。

1:C( )
2:D( )
3:どちらも同じくらい言いたい(○)

【3】

「断定文」は「疑問文」である。

【4】

「まことに知んぬ」は、「信じるに過ぎない」という意味である。

■日本語基礎講座■

【1】

昨年、A君がインフルエンザにかかって、とてもつらい思いをした。(A)
今年、私もインフルエンザにかかり、とてもつらかった。(B)

(A)と(B)は、ともに断言していますが、同じレベルの断言でしょうか、違うレベルでしょうか? 正しいと思う方の( )に○を入れてください。

(答え)

1:同じ( )
2:違う(○)他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。

【2】

Mくんは3年間の勉強の末、T高校に合格して、春から高校生になる。
(C)
私は、喜ばしいことに、中高一貫校だから、すでに高校進学が決まっている。
(D)

(C)の文章と(D)の文章と、より言いたいことはどちらの文章でしょう?
正しいと思う( )に○を入れてください。

1:C( )
2:D(○) 「C]の文章は、引き合いに出して比較したもの。
3:どちらも同じくらい言いたい( )

【3】

「断定文」が「疑問文」になることは決してない。

【4】

「まことに知んぬ」が、「信じるに過ぎない」という意味にはならない。

=============================

※義務教育をちゃんと受けた人は誰でも分かることですよね。
 宮田教の信者さんからすると驚かれるかもしれませんが!

宮田語しか分からない人には、

> 宮田さんの主張は、誰が読んでも良く分かります。
>
> でも、ゼロさんの言っていることは、チンプンカンプンなのです。

となるでしょう。お気持ちよく分かります。

ですが、『教行信証』をはじめ、親鸞聖人のご著書が、宮田語で書かれているという説は見たことがないですね。(当たり前・笑)

「真に知んぬ」が、弥勒菩薩のことと、念仏の衆生と同等だと主張するのは、

宮田教内部にしか通用しない理屈です。日本語で、他人のことと自分のことを同じレベル

で、「本当だったと知らされた」などありえませんから!(【1】参照)

なので、ゼロさんも前に書いていたとおり、弥勒菩薩は、比較の対象として

引き合いに出されただけで、メインではないのです。

これも日本語基礎講座【2】にあるとおりで、普通の日本人なら皆、分かる

ことなので、逆にいえば、宮田語しか分からない人には毛頭わからないことですね。

なので、お互い言語が違うとしかいいようがないです。

★反論があるなら、【1】~【4】について、宮田語のほうが正しいという

国語辞典なりの根拠をお示しくださいな(^^)

まったくもって、法論レベルまでいかない人たち相手に、ゼロさんも忍耐で

がんばられたことと思います!

もう、これ以上はどれだけ頑張っても、宮田教の信者さんたちには理解不能だと思いますね、ハッキリいってこれらの人は、言語が違うのですから。

> 2.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、仏の智慧を以ってしか断言できないことであるので、親鸞聖人御自身が智慧を体得せられて知らされたのではない。
> >
> >は、そうでしょうね。

については、まだ話が早いと思いましたので、とりあえず、善意に解釈した上で、「そうでしょうね」とぼかした返事にしておきました。

厳密にいうと、「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は【仏】にならないと本当の意味で分からないことです。

親鸞聖人は、南無阿弥陀仏の智恵をいただかれ、仏説まこと、仏語に虚妄なしと知らされたことです。

そういう意味では、

2.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、成仏しないと断言できないことであるので、親鸞聖人御自身がハッキリと知らされたのではない。
>
となります。

つまりゼロさんと同じ意味と理解しておりますが? いつもの調子で「ゼロさんと違う!」という妄想が多いですね、宮田教の人々は。

まとめると

「真に知んぬ」は、まことだったとハッキリ知らされること(「信じるに過ぎない」という意味は日本語にない)ですから、

その内容は、日本語の基礎、【1】【2】に基づき「念仏の衆生は~」のお言葉にかかっている。

「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」も【1】【2】の日本語の大前提にもとづき、

ご自身のことではありませんから、まことだったとハッキリ知らされたわけではない。

(※もう少し詳しく解説しますと、これは日本語レベルを超えて教学が必要となりますが、「仏語に虚妄なし」と知らされたお言葉)

これが中学生レベルでもわかる文章の構造です。ごくフツーです。

自分の体験や、自分の都合に合わせてよむと、「真に知んぬ」が「信じるに過ぎない」とまでなってしまうので驚きです!

これが宮田教の教義。

じゃあ、

「まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり」

などはどうなるんだ!こんな教学的なことがハッキリ知らされるのか!と叫びたいのが宮田教の信者さんでしょうから、これも答えておきますね。

親鸞聖人は、弥陀に救われた体験に裏付けられた教えを明らかにされて書いておられるのです。
だから、「まことに知んぬ」なのです。

「まことに知んぬ」に、「信じるに過ぎない」という意味がない大原則は変わりようがありません。

もし「信じるに過ぎない」なら、「思う」「味わう」などの表現をなされるはずです。日本語を無視なされるはずがありません。

それでも、納得されないのでしたら、親鸞聖人は、そのお言葉を読まれて、「お聖教にあるから信じよう」と思われたのですか?

根拠を示してください。なるほど、パッと拝読して、このお言葉とピッタリ同じだな、というお聖教のお言葉です。

★もし、そのようなご文がないのに「お聖教にあるから信じよう」とはなられないですから。

パッと拝読しても、私たちにはそうは読めないところを、聖人は、体験を通して知らされたのです。
そうでないと、「まことに知んぬ」の強烈な断言はできません。
(あ、日本語では、強烈な断言なんですよ、「まことに知んぬ」は。信じるに過ぎないのは、宮田語ですからね)

★根拠を示せなければ、あなたの妄想ということになりますね。
(きっと、ここを無視して、好き勝手なことをいうのでしょうけれど、根拠がなければ、どんなに強がっても、
 自信いっぱいに見せかけても【ムダ】ですからね。
 根拠なく騒げば騒ぐほど、痛いところを突かれたことが丸分かりになるということを教えてあげておきましょう)

あと、「浄土往生できることは弥勒菩薩でも分かられないのに、凡智で分かるのか!」といまだに言っている人がありますが、

凡智で分かるなどと、ゼロさんがいつそんなことを言われましたでしょうか?

凡智では分からないけれど、南無阿弥陀仏の智恵で分かるとハッキリ書かれてますでしょう。

そうすると今度は、「仏さまになったのか」と宮田教の信者さん理解しますが、あまりにも極端ですね。

「南無阿弥陀仏の智恵」をいただくのであって、仏になることとは違います。

「令諸衆生」の仏智満入して不成の迷心を他力より成就して、「願入弥陀界」の往生の正業成ずるときを、「能発一念喜愛心」とも、「不断煩悩得涅槃」とも、「入正定聚之数」とも、聖人釈しましませり。これすなわち「即得往生」の時分なり。(改邪鈔)

とあるように、仏智満入して信心決定するのです。(でも仏になったのではありません)

宮田教では、仏智満入しないのでしょうか?

もし、「仏智満入する」と言ったとしても、独自の解釈をして、【満入】の意味と正反対の理解をしてそうですけどね。

大体、想像つくというもの。
(満入しても、満ちない、入ってない、とか。かな? 日本語の正反対な理解が得意ですものね、宮田教の皆さんは)

「仏心と凡心と一つになるところをさして、信心獲得の行者とはいふなり」
                          (御文章 二帖目第九通)

仏心と凡心がひとつになるから、仏心のお働きで、凡夫にも「往生一定」とハッキリするのです。(でも、仏になったのではありません。正定聚の菩薩になったのです)

それは、浄土がアリアリと見えるのでもなければ、仏が見えるのでもありません。文字通り、浄土へ往生できることがハッキリ(一定)するのです。
それ以上でも以下でもありません。

これも、宮田教の人たちは、根拠のない解釈をして、
「仏心と凡心と一つになったら、心じゃなくなる」、とかいう珍釈でしょうか?

ちょっと、ここはまだ、あなた方の妄想を破るには字数が足らないかも知れませんね。
将来、分かる日がくることを念じておきますね。

紅楳英顕氏の根拠を出したこと自体に、何か凄く反応してますけど、

「紅楳英顕氏【でさえ】分かっていることが、宮田教の人々には分かってない」

という意味で出されているのは明らかではないですか。

宮田教の人々には、その流れが分かってないようですが、

日本語が分かる人には誰でもわかることです。分からないのは、宮田教信者の証です。

分かるのは、普通の日本人。

ちなみに、「信じるに過ぎない」なら、「自覚する」の言葉は出てきようがないんじゃないですか?

紅楳英顕氏があれほど「自覚」「確信」を連発していますが、それでもこの場合は、「自覚」「確信」と言っていいなんて、それこそ【詭弁!】ですね。

間接的、それっぽい反論はたくさんしてくるでしょうが、直接的な反論はきっとムリでしょうね。

本願寺とも違う、宮田教の珍しき解釈、ということがここで明らかになっているのです。
別に紅楳英顕氏を敬ってのことでないのは、日本人なら誰でも理解できるゼロさんの文章です。

まあ、これが最後かも知れないと思ってたくさん書かせてもらいました。

本当なら、もっと議論をしたかったのですが、いかんせん言語が違うとこれ以上どれだけやりとりしても、進展は望めませんからね。
残念です。

日本語が理解できるようになったら、またお話しするかもしれませんが、それまでは議論は無理ですね。

すでに、【1】~【4】をもとに説明しましたが、宮田語しか解せない方々には、とても受け入れられなかったでしょう?

言語が違うからです。

では、以下の理解ができるようになったら連絡ください。
それまでは「議論不可能」というのが私の結論です。

だって、文法も単語の意味も違うのですから。

どれだけ、煽ったり、あざけっても【ムダ】ですから、そんな時間があったら、日本語の勉強してくださいね。

以下の【1】~【4】の日本語が理解できるようになったら連絡ください。

もしくは、宮田語辞典などがネットや書店で購入できるようでしたら、教えてくださいな。
興味あるので勉強してみます。
ないのなら、議論は残念ながら不可能ということです。

★議論したいのなら、【1】~【4】の日本語が理解したむねを伝えるか、宮田語辞典の存在を教えてください!

その他、どれだけ煽ってもムダです。

■日本語基礎講座■

【1】

昨年、A君がインフルエンザにかかって、とてもつらい思いをした。(A)
今年、私もインフルエンザにかかり、とてもつらかった。(B)

(A)と(B)は、ともに断言していますが、同じレベルの断言でしょうか、違うレベルでしょうか? 正しいと思う方の( )に○を入れてください。

(答え)

1:同じ( )
2:違う(○)他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。

【2】

Mくんは3年間の勉強の末、T高校に合格して、春から高校生になる。
(C)
私は、喜ばしいことに、中高一貫校だから、すでに高校進学が決まっている。
(D)

(C)の文章と(D)の文章と、より言いたいことはどちらの文章でしょう?
正しいと思う( )に○を入れてください。

1:C( )
2:D(○) 「C]の文章は、引き合いに出して比較したもの。
3:どちらも同じくらい言いたい( )

【3】

「断定文」が「疑問文」になることは決してない。

【4】

「まことに知んぬ」が、「信じるに過ぎない」という意味にはならない。

=============================

では、【1】~【4】の勉強、がんばってください!

JB

ちょっと修正

それでも、納得されないのでしたら、親鸞聖人は、【どのお言葉】を読まれて、「お聖教にあるから信じよう」と思われたのですか?

根拠を示してください。なるほど、パッと拝読して、このお言葉とピッタリ同じだな、というお聖教のお言葉です。

id:shinrankaiuso

ではもう1つ教えてあげましょう。

「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」

について
**********************************************
【1】

昨年、A君がインフルエンザにかかって、とてもつらい思いをした。(A)
今年、私もインフルエンザにかかり、とてもつらかった。(B)

(A)と(B)は、ともに断言していますが、同じレベルの断言でしょうか、違うレベルでしょうか? 正しいと思う方の( )に○を入れてください。

(答え)

1:同じ( )
2:違う(○)他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。
**********************************************

これを往生即成仏について言い換えてみると

**********************************************
【1】

昨年、A君が臨終に往生し即成仏した。(A)
今年、私も往生が定まり、臨終に往生し即成仏する。(B)

(A)と(B)は、ともに断言していますが、同じレベルの断言でしょうか、違うレベルでしょうか? 正しいと思う方の( )に○を入れてください。

(答え)

1:同じ( )
2:違う(○)他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。
**********************************************

こうなりますが如何ですか?

「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」

主語は「念仏の衆生は」

つまり、私だけでなく、A君とその他多くの人が含まれる。

もう一度答えは、

2:違う(○)他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。

でしょ。

愚かですね。

それと、「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」と七高僧も聖覚法印も仰っていない。
知らされ方が違うんですよ。

id:shinrankaiuso

鈍いJBさんのためにもう少し説明

「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」

これをインフルエンザに置き換えると、

「インフルエンザにかかった人は、とてもつらい」

わかりましたか?

他人の体験も含まれています。

id:shinrankaiuso

JBさんの日本語講座を受講して以下のことが真に知らされました。

「他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。」

親鸞聖人以外の念仏の衆生の体験は、自覚はできない。親鸞聖人御自身の体験は自覚している。だから違う。

親鸞聖人の「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」を分りやすく言うと、

 私以外の念仏の衆生について、臨終に往生即成仏できると自覚できない。
 私の体験は自覚している。
 だからこの2つは違うが、一緒に「真に知んぬ」

このように真に知らされました。

id:shinrankaiuso

一応解説しておくと、「弥勒大士は…」を出されたのは、聖道門での成仏と18願での成仏を比較されるため。

よって

真に知らされた、聖道門では弥勒菩薩でさえ成仏するのに五十六億七千万年かかるのに、18願の救いは臨終に成仏できる。

親鸞聖人の個人的な体験を仰ったのではなく、教義解釈についての話です。

往生即成仏と、経典にもなく、七高僧方も仰っていないが、論理的にそうならないとおかしいと真に知らされた

これがこの御文の意味。自覚の問題ではないから、七高僧方と違ったことを仰っていても、信心が同じかどうかには関係しない話。

JB

おはようございます。

shinrankaiusoさん、遅くまで詭弁を展開していただき有難うございます。

でも、その努力は日本語習得のために使ってほしいものですね。

宮田さんもshinrankaiusoさんと同じ意見でしょうか?

この先の二つのコメントについてです。

日本語について少し触れてきましたので、今回はお答えしようと思っていますが、宮田さんの意見を聞いてからにしたいと思います。

あと、私の言葉遣い云々についてのコメントがいくつかありますね。

これについては、もう少し落ち着いてからお話ししようと思っていましたが、ちょっとだけ話しておきましょう。

言葉遣いのまずさは、自分や自分の仲間に関してはなかなか気づかないものです。特に反対意見を述べているときには。
そして議論をかわしているときには、あまりお上品にもやっておれませんので、ある程度、激しくなることはやむをえないものもあるでしょう。

ですが、度を越してはなりません。

例えば、たびたび取り上げられるこのような言葉です。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。
>
> 何度でも言ってやるよ 馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿
> 馬鹿を誹謗したところで功徳になりすれ、悪にはならないから
>
> 。。。。。。。。。。。。。。。。。。
>
> 高森教の邪義しか聞いていないゼロさんのことですから、「二つの心が同時に起こる。」などと、
> ど~せトンデモナイ説明で済ますんでしょうけどね。
> そんな人が実際にいたら、それこそ“【精神病患者】”ですよ。
>
> 。。。。。。。。。。。。。。。。。。
>
> 二千年かけて、どうぞ“無間地獄”に堕ちていって下さい。
>
> 。。。。。。。。。。。。。。。。。。

特に世間一般にみて、【精神病患者】発言は看過さるべきではものではないですね。
見てみぬふりをしては同罪になってしまいます。
管理人である宮田さんは、この発言についてどう思われますか?

このことについてはお尋ねしたく思います。

通りすがりさんは、通りすがりのわりに何度も通られるのですね(笑)
そして第三者の目で見て、【精神病患者】は問題なしだそうですが、一体どこの国の第三者の目なのでしょうね。

朝から笑いを提供してくださり有難うございました。

id:shinrankaiuso

おはようございます、笑いを提供しておきます。

JBさんの日本語基礎講座受講を踏まえて整理し直しました。

1.「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」と七高僧は、仰っていない。(親鸞聖人とは異なる知らされ方)

2.親鸞聖人以外の念仏の衆生の体験について、親鸞聖人は自覚できない。親鸞聖人御自身の体験については自覚できる。だからこの2つは違う。

3.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、仏の智慧を以ってしか断言できないことであるので、親鸞聖人御自身が智慧を体得せられて知らされたのではない。

4.弥勒菩薩の成仏と親鸞聖人以外の念仏の衆生が臨終に往生即成仏できることについて、親鸞聖人が自覚できることではないが、親鸞聖人御自身の体験と併せて、「真に知んぬ」と一括りで仰っている。

よって結論は、
「念仏の衆生は…」は、親鸞聖人御自身が実感として知ることができたのではなく、阿弥陀仏に救われたのだから、往生即成仏できるに違いない、とお聖教の解釈をされたに過ぎない。

W氏は、文章を書くのが任務でも、国語の能力に問題があって、自信満々に出した詭弁を暴かれて、あっけなく幕切れとなりました。

W氏の今回の間違いは、主語です。親鸞会との法論では、相手が親鸞会一の切れ者であっても、国語の能力が人並み以上なら誰でも勝てるという実例でした。

今日の授業のポイント。

皆さん、文章を読むとき、書くときは、主語に気を付けましょう。それだけで、高森会長の嘘が判ります。

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2018年9月14日 (金)

思考停止の会員のために国語の授業をします

思考停止の会員には、まず国語の授業が必要ですので、中学校程度の授業をします。

まことに知んぬ」を現代語訳すると、

まことに知ることができた

です。ここで躓くようなら、小学校に戻ってください。

ここをクリアした会員には、次のステップです。
知ることができたその手段としては2通り考えられます。

1.体験を通して実感として知ることができた
2.書物や実験などを通して理屈として知ることができた

そんなのおかしい、「まことに知んぬ」は1の意味しかない!

と言うなら、その理由は何でしょうか?
世の中のことで「まことに知んぬ」ということは山ほどあります。事件や事故の原因がスッキリ判ったことも「まことに知んぬ」と古文では表現されます。
仏教においても、教えを聞いて、
今までの理解は間違っていた、「まことに知んぬ」
と納得することもよくあります。

そんなこと関係ない、体験に限った話だ!

というのなら、その理由を示しましょう。

示せないが1に決まっている!!!

という粋がるだけの会員は落第ですから、教室から出ていきましょう。

では、しっかり見極めたいという気持ちのある人には更に次のステップです。
1か2のどちらであるのか検証しましょう。
検証する方法は、前後の文脈から判断するしかありません。

前の部分は少し長いですが、

王日休がいはく、「われ『無量寿経』を聞くに、〈衆生、この仏名を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せんもの、かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す〉と。不退転は梵語にはこれを阿惟越致といふ。『法華経』にはいはく、〈弥勒菩薩の所得の報地なり〉と。一念往生、便ち弥勒に同じ。仏語虚しからず、この『経』はまことに往生の径術、脱苦の神方なり。みな信受すべし」と。{以上}

『大経』にのたまはく、「仏、弥勒に告げたまはく、〈この世界より六十七億の不退の菩薩ありて、かの国に往生せん。一々の菩薩は、すでにむかし無数の諸仏を供養せりき、次いで弥勒のごとし〉」と。

またのたまはく、「仏、弥勒に告げたまはく、〈この仏土のなかに七十二億の菩薩あり。かれは無量億那由他百千の仏の所にして、もろもろの善根を種ゑて、不退転を成ぜるなり。まさにかの国に生ずべし〉」と。{抄出}

律宗の用欽師のいはく、「至れること、華厳の極唱、法華の妙談にしかんや。かつはいまだ普授あることを見ず。衆生一生にみな阿耨多羅三藐三菩提の記を得ることは、まことにいふところの不可思議功徳の利なり」と。{以上}

です。
古文で難しいでしょうから現代語訳を載せます。

王日休が『龍舒浄土文』にいっている。
「『無量寿経』をうかがうと、<すべての人々は、阿弥陀仏の名号のいわれを聞いて信じ喜ぶまさにそのとき、浄土に生れようと願うたちどころに往生すべき身に定まり、不退転の位に至るのである>と説かれている。不退転の位とは、インドの言葉では阿惟越致という。『法華経』には、<弥勒菩薩が長い間行を修めて得られた位である>と説かれている。信じ喜ぶまさにそのとき往生する身に定まれば、すなわち弥勒菩薩と同じくらいになる。仏のお言葉にいつわりはない。この『無量寿経』はまことに往生の近道であり、迷いを離れることができる不可思議な方法である。みなこの経を信じるべきである。

『無量寿経』に説かれている。
「釈尊が弥勒菩薩に、<この世界からは、不退転の位にある六十七億の菩薩が阿弥陀仏の浄土に往生するであろう。その菩薩たちはみなすでに数限りない仏がたを供養しており、その位は、弥勒よ、そなたと同じである>と仰せになる」

また『如来会』に説かれている。
「釈尊が弥勒菩薩に、<この娑婆世界に七十二億の菩薩がいるが、その菩薩たちは数限りない仏がたのもとで多くの功徳を積んで不退転の位を得ており、みな阿弥陀仏の浄土に生れるであろう>と仰せになる」

律宗の用欽師がいっている。
「教えの深いことは、『華厳経』の説く至極の法、『法華経』の説く至妙の法に及ぶものはない。しかしながら、すべての衆生が将来さとりを得ることを約束されているのではない。すべての衆生がこの世の命を終えて後に、みなこの上ないさとりを得ることを約束されるのは、まことに阿弥陀仏の不可思議な功徳による利益である。

弥勒菩薩と念仏の衆生との関係について、経典と親鸞聖人が尊敬されている中国の高僧の文が示されています。

以上を請けて、

まことに知んぬ

です。

はい、もう判りましたよね、2ですね。

えっ、まだ判らない?

じゃあ、後の文を見ましょう。

弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。ゆゑに便同といふなり。

前の文を考察した結果として、弥勒菩薩と念仏の衆生の関係を親鸞聖人の見解として述べられています。
やっぱり、2ですよね。とどめが「ゆゑに便同といふなり」とあって、前の文にある「便ち弥勒に同じ」の意味を親鸞聖人が述べられているのは、小学生でもわかるでしょ。

前後の文に、親鸞聖人の体験らしきことはどこにもないので、1はあり得ないですよね。

参考までに親鸞聖人が「まことに知んぬ」と仰っている他の箇所を見てみましょう。

これすなはち真実の行を顕す明証なり。まことに知んぬ、選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行なり、知るべしと。」(行巻)
まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。」(信巻)
しかれば大聖の真言、宗師の釈義、まことに知んぬ、この心すなはちこれ不可思議不可称不可説一乗大智願海、回向利益他の真実心なり。これを至心と名づく。」(信巻)
まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。」(信巻)
まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。」(信巻)
しかれば大聖の真言、まことに知んぬ、大涅槃を証することは願力の回向によりてなり。」(証巻)
まことに知んぬ、これいましこの『経』に顕彰隠密の義あることを。」(化土巻)

ちょっと難しいですが、これらみんな、難しい教義の内容をスッキリ理解できたということですよね。体験で難しい教えが知らされたのではなく、他の聖教からこのような結論に達した、ということです。

あれれ、まさかこれらみんな体験で知らされたことだとか言わないですよね。体験によって特殊な智慧が獲られるとでも思っていないですよね。

なお、余談ですが、親鸞聖人が初めて出された見解というのがいくつもあって、それまでの七高僧とは違う見解のところもあります。ここからも、同一体験(同一信心)で知らされることではないと中学生程度の頭なら判りますよね。

今日の授業はここまでとします。

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2018年9月13日 (木)

四種深信を主張し七高僧を異安心呼ばわりする高森顕徹会長と思考停止の会員たち

前々回と前回とで

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

の「まことに知んぬ」と言われても、これは体験上の知らされたではなく、理屈の上での知らされたことだと説明しました。まさかこれで理解できない人はいないだろうと思っていたら、いたのです。親鸞会会員を甘く見ていました。思考停止は私の認識を超えていたのです。

コメント欄で具体的に説明もしましたが、思考停止では理解できないでしょうから、今回は違う観点から説明します。

高森顕徹会長は、真実の信心を判定するのは、二種深信が立っているかどうかだ、と言い続けてきました。二種深信とは、

一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。

です。
機の深信は簡潔に言うと、我らは罪悪生死の凡夫で出離することができないと深く信じることです。
法の深信を簡潔に言うと、阿弥陀仏の本願によってのみ出離して浄土に往生できると深く信じることです。
いうまでもなく、深く信じるとは他力の信心を顕わしています。

この2つがあるかないかで他力の信心かどうかを判定するのだと高森会長が断言し、会員もそう言っているはずです。

ここで最初の「まことに知んぬ」に戻りますと、これと二種深信との関係は何、という話です。
他力の信心を獲たら「まことに知んぬ」以下のことも必ず知らされるとも言っていますが、

弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。
念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

の二つは二種深信の内容と同じか違うかと言えば、明らかに違います。

先の文は、弥勒菩薩の成仏の時期について、
後の文は、獲信した人は臨終に往生すると同時に成仏するということ。

共に二種深信とは違う内容です。後の方は法の深信と関連はしていますが、浄土往生と往生即成仏とは違う話です。

二種深信を仰った善導大師をはじめ、七高僧方は、浄土に往生した後に菩薩の行をして成仏するという解釈です。往生と同時に成仏するとは七高僧のどなたも仰っていません。

ということは、高森会長と思考停止の会員の主張は、二種深信とは別に二つのことも深信する、つまり四種深信だということになり二種深信で判定するというのは嘘だということです。更には、七高僧方は四種深信が立っていないので、七高僧方は異安心だと言っているわけです。

実に判りやすい矛盾を何も考えずに平気で言えるのが、思考停止の為せる業なのでしょう。

ここのように国語の能力も、論理的思考も、もちろん学術的素養の欠片もない低脳集団にまで落ちぶれた親鸞会に、明るい未来があるわけもなく、必死の広告投入で形式上の体裁を整えているに過ぎません。

今回は、聖教の文を最低限にして、微かな思考でもあるなら理解できる内容にしました。
思考力が無い会員には、これでも理解できないのでしょう。
哀れ哀れ。

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2018年9月10日 (月)

浄土を願う心もなく、念仏誹謗宗の信心を目指す高森顕徹会長と愉快な仲間達

高森顕徹会長の前回の話で出てきた『教行信証』信巻の

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

ですが、この後には

ゆゑに便同といふなり。

と続きます。
つまり、「便同弥勒」についての親鸞聖人の解釈が上記のお言葉だということです。
くどいようですが、親鸞聖人は体験で知らされたのではなく、経釈を通りて理屈として知らされたという話です。

その証拠にこのお言葉の直前は

王日休がいはく、「われ『無量寿経』を聞くに、〈衆生、この仏名を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せんもの、かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す〉と。不退転は梵語にはこれを阿惟越致といふ。『法華経』にはいはく、〈弥勒菩薩の所得の報地なり〉と。一念往生、便ち弥勒に同じ。仏語虚しからず、この『経』はまことに往生の径術、脱苦の神方なり。みな信受すべし」と。

『大経』にのたまはく、「仏、弥勒に告げたまはく、〈この世界より六十七億の不退の菩薩ありて、かの国に往生せん。一々の菩薩は、すでにむかし無数の諸仏を供養せりき、次いで弥勒のごとし〉」と。

とありまして、経釈にある「便ち弥勒に同じ」「次いで弥勒のごとし」とはどういうことかについて親鸞聖人の見解を述べられたところになるからです。

一連の流れを見たらこれが親鸞聖人の体験で知らされたことなどとは言えないことです。
今更言うまでもないことですが、要するに、高森会長は『教行信証』を全く読んでいないのです。

ついでですから、信心を獲たら、51段のさとりまで高跳びして特別な智慧が授かるのかどうか、親鸞聖人のお言葉で見てみます。

『高僧和讃』曇鸞讃に

世俗の君子幸臨し
 勅して浄土のゆゑをとふ
 十方仏国浄土なり
 なにによりてか西にある

鸞師こたへてのたまはく
 わが身は智慧あさくして
 いまだ地位にいらざれば
 念力ひとしくおよばれず

一切道俗もろともに
 帰すべきところぞさらになき
 安楽勧帰のこころざし
 鸞師ひとりさだめたり

とあります。
現代語訳は

東魏の孝静帝は、 曇鸞大師のもとを訪れ、 浄土への往生を願う理由について、 「あらゆる仏がたの国々はみな清らかである。 なぜ西方にある阿弥陀仏の浄土に限るのか」 と問うた。

曇鸞大師は、 「私は智慧が浅い凡夫であり、 いまだ不退転の位に至っていないので、 あらゆる浄土を等しく念じるには力がとうてい及ばない」 と答えられた。

出家のものも在家のものも、 みな帰依するところをもたずに迷っている中で、 曇鸞大師はただ一人、 阿弥陀仏に帰依し、 その浄土への往生を願うよう勧められた。

です。曇鸞大師のお言葉として「わが身は智慧あさくして いまだ地位にいらざれば 念力ひとしくおよばれず」と紹介されています。ここで言う「地位」とは初地以上のさとりのことですから、41段以上には至っていないので智慧が浅いのだ、と曇鸞大師が仰ったと親鸞聖人が紹介されています。51段高跳びしてそれなりの智慧を獲ると思っている親鸞会会員には、驚きのお言葉かもしれませんが、これが現実です。
なお、この和讃の基は『安楽集』の

曇鸞法師のごときは、康存の日つねに浄土を修す。
またつねに世俗の君子ありて、来りて法師を呵していはく、「十方仏国みな浄土たり、法師なんぞすなはち独り意を西に注むる。 あに偏見の生にあらずや」と。
法師対へていはく、「われすでに凡夫にして、智慧浅短なり。 いまだ地位に入らざれば、念力すべからく均しくすべけんや。 草を置きて牛を引くに、つねにすべからく心を槽櫪に繋ぐべきがごとし。 あにほしいままにして、まつたく帰するところなきことを得んや」と。
また難者紛紜たりといへども、法師独り決せり。 ここをもつて一切道俗を問ふことなく、ただ法師と一面あひ遇ふものは、もしいまだ正信を生ぜざるには、勧めて信を生ぜしめ、もしすでに正信を生ぜるものには、みな勧めて浄国に帰せしむ。

です。

以上から

1.信心を獲ても弥勒菩薩と同じさとりになるのでも、特別な智慧を獲るのでもない。
2.曇鸞大師は初地にも至っていないと仰っているので、信心を獲ても51段高跳びしたという実感が獲られることもない。
3.曇鸞大師は阿弥陀仏の浄土を念じられていて、人にも浄土を念じて帰すように勧められているので、衆生には浄土を願う心はない、というのは間違いである。

が、「まことに知んぬ」です。

聖教を読んでいない上に、絶対の幸福という念仏誹謗宗の信心を目指している高森会長と愉快な仲間達は、浄土を願うこともなく、浄土真宗ではなく浄土非宗になっていることを「まことに知んぬ」です。

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2018年9月 2日 (日)

国語力の乏しい高森顕徹会長とそれを信じる思考停止の会員

本日の高森顕徹会長の話は、「幸せな人生にガラリと変わる」という代り映えのしないいつもの現世利益の内容でした。

救われたならガラリと変わるとの根拠としてあげた1つが『教行信証』信巻の

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

ですが、なぜそんな珍釈になるのかは、国語力の問題です。

まことに知んぬ」だから救われたらハッキリと正定聚に入ったことが判るのだ、という短絡的な思考です。

一応解説すると、「まことに知んぬ」に直接かかっているのは「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」ですが、弥勒菩薩の成仏の時期を、親鸞聖人が体験で知らされたのなら、親鸞聖人は仏の智慧を得られたことになります。しかし、親鸞聖人はこの時に仏智を得られていないことは御自身も仰っているし、常識的に考えてもないことです。
ではなぜ「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」が「まことに知んぬ」であったのかと言えば、経典にそのように説かれているからです。
同じことで、「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」も経典や釈文を読み解くとこの結論になるだと明らかになったことを「まことに知んぬ」と仰っているのです。

なお、往生即成仏という親鸞聖人の教えの特徴は、七高僧方の仰っていることは異なります。信心を獲た人が死ぬと同時に仏になるとは、七高僧のどなたも仰っていません。もし「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」が知らされなかったなら、信心を獲ていないのだとするなら、七高僧方は異安心になります。

もう一つ言うと、親鸞聖人は御自身のことはたとえ体験で知らされたとしても、他人のことまで体験で知らされることはありません。「念仏の衆生は」であって「親鸞は」でないところが重要です。親鸞聖人以外の「念仏の衆生」も「横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」と体験で知らされることはあり得ません。

ここまでの説明なら、中学生でも理解できることでしょう。

ついでに正定聚についても言っておきますと、『大無量寿仏経』の11願成就文には、

かの国に生るるものは、みなことごとく正定の聚に住す。

とありまして、「かの国に生るる」後に「正定の聚に住す」のです。つまり、浄土に往生後に正定聚に入るということです。
曇鸞大師は『浄土論註』でこのことを

もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得て、すなはち正定聚に入る

と教えられています。浄土に往生した後に正定聚に入るの意味です。

親鸞聖人は、曇鸞大師の解釈を踏まえられた上で、往生後に正定聚に入るとしか解釈のしようの無い11願を敢えて現生のことと解釈なされました。
それを表現されたのが、親鸞聖人が度々なされる漢文の読み替えという方法です。

曇鸞大師の

もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得て、すなはち正定聚に入る

を親鸞聖人は

もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ぜんものと、また往生を得るものとは、すなはち正定聚に入る

と読みかえられました。
また『一念多念証文』でも

もしひと、ひとへにかの国の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生れんと願ふひとと、またすでに往生を得たるひとも、すなはち正定聚に入るなり。

と言い換えられています。

この読み替えにより、「剋念して生ぜんと願ぜんもの」が「すなはち正定聚に入る」とされ、現生正定聚へと意を変えられてしまったのです。

親鸞聖人がこのように解釈をなされた理由は、親鸞聖人が信心を獲られて知らされたからではなく、阿弥陀仏の救いはこうでなければ理屈が通らないという親鸞聖人の理論です。

したがいまして、親鸞聖人の理論上では正定聚にガラリと変わるということは言えたとしても、体験上で正定聚にガラリと変わることはないのです。

この単純なトリックに引っ掛かると、現生で正定聚に入ることができないだけでなく、高森会長が蔑んでいる邪教の信者と同じかもっと酷い末路を辿るのです。

理屈も理論も関係ないという高森会長と思考停止の会員には、理解できないことでしょうが、哀れ哀れです。

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2018年8月26日 (日)

謗法・闡提は「仏土に願生する」心がないから絶対に往生できないという釈尊・善知識方を完全否定する高森顕徹会長と愉快な仲間達

激しい非難攻撃に曝されて、何の反撃もできずに殻に籠りきった高森顕徹会長の邪義は、微妙な変化はあっても、大きな変更はありません。1つの例が、十方衆生は逆謗闡提の一機だ、というもので、未だに言っています。

謗法については、前回述べましたので、今回は闡提について説明します。

親鸞聖人は『教行信証』真仏土巻に『涅槃経』を引かれて、

またのたまはく(涅槃経・迦葉品)、「〈善男子、如来は知諸根力を具足したまへり。このゆゑによく衆生の上・中・下の根を解り分別して、よくこの人を知ろしめして、下を転じて中となす。よくこの人を知ろしめして、中を転じて上となす。よくこの人を知ろしめして、上を転じて中となす。よくこの人を知ろしめして、中を転じて下となす。このゆゑにまさに知るべし、衆生の根性に決定あることなし。定なきをもつてのゆゑに、あるいは善根を断ず、断じをはりて還りて生ず。もしもろもろの衆生の根性定ならば、つひに先に断じて、断じをはりてまた生ぜざらん。また一闡提の輩、地獄に堕して寿命一劫なりと説くべからず。善男子、このゆゑに如来、一切の法は定相あることなしと説きたまへり〉と。

(現代語訳)

また次のように説かれている(涅槃経)。

 「釈尊が仰せになる。<善良なものよ、如来は衆生の資質を知る力をそなえておられる。だから如来は、衆生の資質がすぐれているか劣っているかをよく見きわめ、その人の劣った資質があらたまり、よりすぐれたものとなることを知り、あるいは、その人のすぐれた資質が損なわれ、より劣ったものとなることを知っておられるのである。だからよく知るがよい。衆生の資質は定まったものではないのである。定まったものではないから、善い資質を失うようなことがあり、失ってしまっても、ふたたび善い資質を生じることがある。衆生の資質が定まったものであるなら、ひとたび善い資質を失ってしまうと、また生じるということはないであろう。したがって、一闡提のものは地獄に堕ちて寿命が一劫であると説くこともできないのである。善良なものよ、このようなわけで、如来はすべてのものには定まった相がない、と説くのである>と。

と教えられています。

釈尊は「衆生の根性に決定あることなし」「一切の法は定相あることなし」と断言されています。つまり私たちが固定不変な業をもっているなどという教えなどないということです。
ところが「衆生の根性に決定ある」「一切の法は定相ある」と釈尊の仰せを完全に否定しているのが高森会長です。十方衆生が五逆、謗法、闡提という「定相」があると説く高森会長と講師部員は、如来を超えた存在、絶対的な神とでも思っているのでしょう。

闡提は「下根」に当たりますが、「よくこの人を知ろしめして、下を転じて中となす。よくこの人を知ろしめして、中を転じて上となす。よくこの人を知ろしめして、上を転じて中となす。よくこの人を知ろしめして、中を転じて下となす。」とは、闡提が闡提でなくなったり、闡提でない者が闡提になったりするということです。

同じことで「あるいは善根を断ず、断じをはりて還りて生ず。もしもろもろの衆生の根性定ならば、つひに先に断じて、断じをはりてまた生ぜざらん」と説かれていて、

善根を断ず」=闡提
還りて生ず」≠闡提

ですので、十方衆生が闡提だなど言うことは、仏教にもないし、親鸞聖人の教えにもありません。闡提が闡提のままで救われることは絶対ありません。それが前回の「いづくんぞ仏土に願生するの理あらんや」になります。

闡提の者は浄土を願うことがないので、往生することはあり得ないのです。

闡提の者も謗法の者も、闡提でなくなる、謗法でなくなって、「断じをはりて還りて生ず」の状態になって、「仏土に願生する」心がおきて初めて、往生できる機になる訳です。

簡単な話なのですが、「仏土に願生する」心のない人が「仏土に願生する」心の無いままで救われる理屈が通る筈がありません。

ですから善導大師は『法事讃』で

謗法・闡提、回心すればみな往く

と仰って、それを親鸞聖人は『教行信証』信巻に引かれているのです。
回心」には自力から他力に帰すことのほかに『愚禿鈔』の

漸教回心の機は、自力なり。

のように、心を翻すという自力の意味も普通にあります。ですから、「謗法・闡提、回心すればみな往く」は、謗法・闡提の心を翻して謗法・闡提で無くなり、その上で自力から他力に帰したという「回心」です。

矛盾も無理も、強引さもない、普通の思考と普通の論理ですので、普通以上の思考力がある人には、簡単に理解できる内容です。

仏土に願生する」心のないままの高森会長と愉快な仲間達には、最初から関係ない話ですが。

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2018年8月21日 (火)

謗法と疑情、地獄と化土の違いも全く理解できない無知な高森顕徹会長と愉快な仲間達

前回のエントリーで疑心について述べましたが、親鸞会会員は謗法と疑情との区別もつかないほどの無知です。高森顕徹会長が無知ですから、当然なことです。

『往生要集』でも明らかですが、親鸞聖人のお言葉で説明しておきます。

まず、謗法の定義は『浄土論註』を引かれて『教行信証』信巻に

問うていはく、なんらの相か、これ誹謗正法なるやと。
答へていはく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。

(現代語訳)

問うていう。正しい法を謗るとは、どのようなことをいうのか。
答えていう。仏もなく仏の教えもなく、菩薩もなく菩薩の教えもないというような考えを、自分自身でおこしたり、他の人に教えられて、その通りと心に定めることを、みな正しい法を謗るというのである。

これを読んでも、

全人類は謗法の者だ

というようなら、義務教育からやり直してください。
この謗法の者の死後はどうなるかについては、この前に

問うていはく、たとひ一人は五逆罪を具して正法を誹謗せざれば、経に得生を許す。また一人ありてただ正法を誹謗して、五逆もろもろの罪なきもの往生を願ぜば、生を得るやいなやと。
答へていはく、ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ。なにをもつてこれをいふとならば、『経』にいはく、〈五逆の罪人、阿鼻大地獄のなかに堕して、つぶさに一劫の重罪を受く。誹謗正法の人は阿鼻大地獄のなかに堕して、この劫もし尽くれば、また転じて他方の阿鼻大地獄のなかに至る。かくのごとく展転して百千の阿鼻大地獄を経〉と。仏、出づることを得る時節を記したまはず。誹謗正法の罪、極重なるをもつてのゆゑなり。また正法はすなはちこれ仏法なり。この愚痴の人、すでに誹謗を生ず、いづくんぞ仏土に願生するの理あらんや。たとひただかの安楽に 生ぜんことを貪じて生を願ぜんは、また水にあらざるの氷、煙なきの火を求めんがごとし。あに得る理あらんやと。

(現代語訳)

問うていう。経には、ある人がたとえ五逆の罪を犯しても、正しい法を謗らないなら往生することができるとある。では、ただ正しい法を謗るだけで、五逆などの罪を犯さないものが浄土の往生を願うなら、往生することができるのであろうか。
答えていう。ただ正しい法を謗るだけで、他に罪は何一つなくても、決して往生することはできない。なぜかといえば、経に、<五逆の罪を犯した人は無間地獄に堕ちて、一劫の間その重い罪の報いを受ける。正しい法を謗った人は無間地獄に堕ちて、一劫が尽きると、また続いて他の無間地獄に堕ちる。このようにして次々と、数多くの無間地獄をめぐるのである>と説かれていて、仏はこの人がいつ地獄から出ることができるのかを明らかにされていない。それは、正しい法を謗る罪がもっとも重いからである。また正しい法というのは、すなわち仏法である。この愚かな人は、すでに仏法を謗っているのであるから、どうして仏の浄土の往生を願うはずがあろうか。たとえ、浄土は安楽なところだから生れたいという貪りの心で往生を願っても、その願いは、水でない氷や煙の出ない火を求めるのと同じであって、往生することができるはずはないのである。

謗法の者は「ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ。」と、絶対に往生できないと教えられています。その理由は、「この愚痴の人、すでに誹謗を生ず、いづくんぞ仏土に願生するの理あらんや。」です。

謗法の者は、浄土を願っていないから往生できる道理がないという、単純明快な理屈です。

では浄土を願っている謗法でない人はどうなるのかについて、親鸞聖人は『浄土和讃』でこう仰ってます。

安楽浄土をねがひつつ
 他力の信をえぬひとは
 仏智不思議をうたがひて
 辺地・懈慢にとまるなり

他力の信心は獲ていないが、浄土を願っている人は化土往生になる、ということです。
前回の『往生要集』と同じことですが、親鸞会の会員は、これが全く信じられないと思います。高森会長から、嘘八百を教え込まれていてそれを信じているからです。

同じく『浄土和讃』には

誓願不思議をうたがひて
 御名を称する往生は
 宮殿のうちに五百歳
 むなしくすぐとぞときたまふ

とも仰っています。他にも同じ内容のことを、繰り返し繰り返し親鸞聖人は仰っています。

つまり、疑情とは、「安楽浄土をねがひつつ」その上で、「仏智不思議をうたがひて」「誓願不思議をうたがひて」ということです。

謗法と疑情とは、まったく違うのですが、この基本的な仏語さえも知らないで偉そうな顔をしている厚顔無恥が、高森会長と愉快な仲間達です。

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2018年8月11日 (土)

仏智疑惑・謗法・闡提を混ぜ合わせたものが真実信心だと教えている高森教

真実信心を知らないから18願を疑うことがどんなことかも判っていないのが、高森顕徹会長と愉快な仲間達です。

疑心についてまとめられているものが『往生要集』にあります。

問ふ。不信のもの、なんの罪報をか得る。

答ふ。
『称揚諸仏功徳経』の下巻にのたまはく、「それ、阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀するものは、五劫のうちに、まさに地獄に堕して、つぶさにもろもろの苦を受くべし」と。

問ふ。もし深信なくして疑念をなすものは、つひに往生せざるや。

答ふ。
まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるものは、理として生るべからず。もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。『双巻経』にのたまふがごとし、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了せず、このもろもろの智において疑惑して信ぜず、しかもなほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生は、かの宮殿に生じて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の衆を見たてまつらず、このゆゑにかの国土においては、これを胎生といふ」と。{以上}仏の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。しかも願に随ひて往生するは、これ仏の悲願の力なり。

(現代語訳)

問う。信じない者は、どのような罪の報を得るのであるか。

答える。《称揚諸仏功徳経》の下巻に説かれている。

もし、阿弥陀仏の名号の功徳を讃めたたえることを信じないで、謗り毀つ者があるならば、五劫のあいだ地獄に堕ちて、つぶさにもろもろの苦を受けねばならぬ。

問う。もし深心がなくて、疑念を生ずる者は、結局往生できないのであるか。

答える。もし、全く信ぜず、往生の業を修めず、浄土を願い求めない者は、道理として往生するはずがない。しかしながら、もし仏智を疑うけれども、それでもやはり、かの浄土に生まれたいと願い、往生の業を修める者は、これもまた往生することができるのである。

《無量寿経》に説かれているとおりである。

もし、人々の中で、疑いの心を持ちながら、いろいろの功徳を修めて、かの国に生まれたいと願い、仏智、思いもおよばぬ智慧 (不思議智)、はかり知られぬ智慧、すべての者を救う智慧、ならびなくすぐれた智慧を知らず、いろいろの仏の智慧を疑って信ぜず、しかもなお罪の報を恐れ、おのが善根をたのむ心をもって善の本を修め、それによってかの国に生まれたいと願うものがあれば、これらの人は、かの国に生まれても宮殿の中にとどまり、五百年のあいだ、少しも仏を拝むことができず、教法を聞くことができず、菩薩・声聞などの聖衆を見ることもできない。それゆえ、これをたとえて胎生というのである。

仏の智慧を疑うのは、悪道に堕ちる罪に相当する。けれども、その願いにしたがって往生するというのは、仏の大悲の願力によるのである。

宮殿」とは、化土のことです。

以上から判ることは、

謗法・闡提の者―地獄
一般の者―悪道
浄土を願う自力の者―化土往生
深信の者―報土往生

ということです。深信の者以外は無間地獄、などという愚かな教えもありませんし、その逆で「阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀する」謗法・闡提がそのまま救われることは、絶対にないのです。

謗法・闡提をそのまま救ってくださるのが阿弥陀仏だ

と間抜けなことを言っている高森会長と講師部員は、信心の基本中の基本を知らないのです。

謗法・闡提の者が報土往生するには、「阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀する」ことをまず止めないことには「阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを」深信できないという単純な理屈です。東に向かっている人を、西に向かわせるには、東に行くことをやめさせないと行けないです。東に向かったままで西に向かわせるなどと言っている愚かさに気が付かないのが、親鸞会思考です。

自力の信心については「このもろもろの智において疑惑して信ぜず、しかもなほ罪福を信じ」とありますから、阿弥陀仏が法蔵菩薩の時に兆載永劫の修行によって、我らが往生成仏の因をすべて用意されたことを疑って、因果の道理を信じて何かをしなければ救われないと考えていることだと教えられています。

親鸞会会員の信心そのものですが、この信心と親鸞会会員の信心との違いは「その国に生ぜんと願ぜん」の有無です。浄土に往きたいと願わずに、絶対の幸福になりたいと願っている親鸞会会員は、化土には往けません。
仏の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。
ですので、残念なことです。

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2018年8月 5日 (日)

創価学会の真似をして人集めに血眼になっている高森顕徹会長

本日は追悼法要という名目で、大大的に宣伝をし、高森顕徹会長の動画を一般に公開してまで必死の人集めの結果、人数だけは昨年の報恩講並であったようです。
それだけを見ると親鸞会は息を吹き返したのかと思われるかもしれませんが、かなり無理していることは、様々なところで表面に現われています。その1つが、御供物でしょう。一般の行事と変わりません。最も気を遣い、お金を使ってきたところへ回すお金が不足しているのです。かなり、切羽詰まっているところまで追い込まれているようです。

次回、御供物が増えたら、皆さんで笑ってあげてください。

さて、本日もはっきりしない話をだらだらしていましたが、絶対の幸福という創価学会の真似が主で、その説明に仏凡一体という言葉を使っていました。

真実信心を知らない高森会長ではこの程度の説明で誤魔化すしかないのでしょうが、真実信心と仏凡一体は、二河白道の譬えで説明できます。

先月のエントリー

白道は凡夫自力の迷心でも凡夫我執の心でもない、この当たり前の事実が理解できない高森顕徹会長と愉快な仲間達

でも紹介しました存覚上人の『浄土真要鈔』がそのことについて詳しいです。
上記のエントリーでは

この一念帰命の信心は、凡夫自力の迷心にあらず、如来清浄本願の智心なり。
しかれば、二河の譬喩のなかにも、中間の白道をもつて、一処には如来の願力にたとへ、一処には行者の信心にたとへたり。「如来の願力にたとふ」といふは、「念々無遺乗彼願力之道」といへるこれなり。こころは、「貪瞋の煩悩にかかはらず、弥陀如来の願力の白道に乗ぜよ」となり。「行者の信心にたとふ」といふは、「衆生貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心」といへるこれなり。こころは、「貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ず」となり。されば、「水火の二河」 は衆生の貪瞋なり。これ不清浄の心なり。「中間の白道」は、あるときは行者の信心といはれ、あるときは如来の願力の道と釈せらる。これすなはち行者のおこすところの信心と、如来の願心とひとつなることをあらはすなり。したがひて、清浄の心といへるも如来の智心なりとあらはすこころなり。もし凡夫我執の心ならば、清浄の心とは釈すべからず。

で、「白道」は、「如来の願力」と「行者の信心」の二通りで譬えられることを仰った後、「行者の信心」は、行者の「不清浄の心」に「如来の智心」である「清浄の心」がおきるのだと説明しました。
そしてこの後に存覚上人はこう続けられています。

このゆゑに『経』には、「令諸衆生功徳成就」といへり。こころは、「弥陀如来、因位のむかし、もろもろの衆生をして功徳成就せしめたまふ」となり。それ阿弥陀如来は三世の諸仏に念ぜられたまふ覚体なれば、久遠実成の古仏なれども、十劫以来の成道をとなへたまひしは果後の方便なり。これすなはち「衆生往生すべくはわれも正覚を取らん」と誓ひて、衆生の往生を決定せんがためなり。しかるに衆生の往生定まりしかば、仏の正覚も成りたまひき。その正覚いまだ成りたまはざりしいにしへ、法蔵比丘として難行苦行・積功累徳したまひしとき、未来の衆生の浄土に往生すべきたねをばことごとく成就したまひき。そのことわりをききて、一念解了の心おこれば、仏心と凡心とまつたくひとつになるなり。

難しい語はありませんので、概ねお判りになられると思いますが、最後の

法蔵比丘として難行苦行・積功累徳したまひしとき、未来の衆生の浄土に往生すべきたねをばことごとく成就したまひき。そのことわりをききて、一念解了の心おこれば、仏心と凡心とまつたくひとつになるなり。

で仏凡一体について説明されています。
法蔵菩薩の「難行苦行・積功累徳」によって「未来の衆生の浄土に往生すべきたね」を成就された、そのことを聞いて、それをそのまま聞いたことを「仏心と凡心とまつたくひとつになる」と仰っています。
もっと簡潔に言うなら、法蔵菩薩が我らが往生する因を法蔵菩薩が御修行によって用意されて、その通りと聞いたことを真実信心と言い、仏凡一体と言われるのです。

したがいまして、衆生の側で、何かをしなければならないことはないのです。
善をしなかれば、三願転入しなければ、宿善を厚くしなければ、
というのは間違いであるどころか、その通りと聞く妨げになるのです。
何かをする必要があると考えるのは、法蔵菩薩の「難行苦行・積功累徳」ではまだ不足だという考えであり、「そのことわりをききて、一念解了の心」が起きないからです。

そう聞くのは一念でも、それまでは何かをしなければ…

が間違いです。法蔵菩薩の「難行苦行・積功累徳」にケチをつけている心です。

二河白道の譬えでいうなら、阿弥陀仏の「浄土までいく白道に乗りなさい」との喚び声に、「はい」と白道に乗るだけです。白道に乗るために何かが必要だとはどこにも教えられていないのです。

そして白道の乗ったことを仏凡一体というのですが、白道に乗ったら、何かが変わったかと言えば、何も変わっていません。
白道の幅も長さも、水の河も火の河も、西の岸の様子も見え方も、東の岸の群賊悪獣悪知識も、何も変化していません。

ですから、真実信心を獲ても、表面上は何も変わりませんし、ましてや絶対の幸福なる空想の境地に出ることも絶対にありません。

信前信後の水際も変化も、仏凡一体も、全て二河白道の譬えで顕わされているのです。

この程度の簡単な説明もできない高森会長の話を聞いて、得られる物は、貧と恥のみです。

人集めには、創価学会の真似が手っ取り早いと考えている高森会長の浅はかさに、会員も早く気付くベきです。

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