2021年2月24日 (水)

親鸞会の根本聖典『歎異抄をひらく』の邪義2

高森顕徹会長が、本心から自信満々に言っていることの一つに、『歎異抄』第二条の

弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。

の解釈を『歎異抄をひらく』の意訳

弥陀の本願がまことだから、唯その本願を説かれた、釈尊の教えにウソがあるはずはない。釈迦の説法がまことならば、そのまま説かれた、善導大師の御釈に偽りがあるはずがなかろう。

としていることがあります。その解説を

だが親鸞聖人には、弥陀の本願以外、この世にまことはなかったのだ。

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法(教行信証)
|まことだった、まことだった。弥陀の本願まことだった。

の大歓声や、

煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします(歎異抄)
|火宅のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間の総ては、そらごと、たわごとであり、まことは一つもない。ただ弥陀の本願念仏のみがまことなのだ。

『歎異抄』の「念仏のみぞまこと」は、「弥陀の本願念仏のみぞまこと」の簡略である。聖人の「本願まことの信念」は明白であろう。
親鸞聖人の著作はどこも、「弥陀の本願まこと」の讃嘆で満ちている。「弥陀の本願まこと」が、常に聖人の原点であったのだ。その聖人が、仮定で「本願」を語られるはずがなかろう。
弥陀の本願まことにおわしまさば」は、「弥陀の本願まことだから」の断定にほかならない。

としています。もちろんこれは文法的に誤りです。

おはしまさば」は、未然形+接続助詞「ば」で、仮定を表わします。

文法上の誤りくらいどうでも良いと会員は思うかもしれませんが、もし文法上の誤りを知っているのに敢えてそうされたのであれば、親鸞聖人が、命懸けで尋ねに来た関東の同行に対して誤解を生じさせる表現をされたこととなり、親鸞聖人の真意を理解する妨げることになります。したがってもしこれが断定であるならば、親鸞聖人は意地悪な不適切な回答をされたことになってしまします。
また『歎異抄』第二条の他所では、

総じてもって存知せざるなり。

と断定を避けて仰っていることからも、ここを断定とする必然性がありません。
ここは真実信心とはこのようなものだ、と示された箇所と思われます。
その理由は『歎異抄』の著者とされる唯円から直接話を聞かれた覚如上人が『執持鈔』で、この『歎異抄』第二条の内容を違う表現でされています。
真実信心について親鸞聖人の御言葉として紹介されているのが、

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

です。
本願まことの信念」とは、「本願まこと」が判る智慧を得ることではなく、「如来の御ちかひにまかせたてまつる」つまり「本願まこと」をそのまま受け入れていくことに他ならないのです。
高森会長のように「弥陀の本願まことだから」と断定するには、「弥陀の本願まこと」が判らなければならないですが、それは補処の弥勒菩薩の智慧をもってしても無理なことなのです。

高森会長が「弥陀の本願まことにおわしまさば」を誤解して、その誤解を本心から自信満々で言えるのは、親鸞聖人、覚如上人とは違う信心であるからという理由以外にはないでしょう。それでも高森会長が正しいと思うのであれば、それは浄土真宗とは別の宗か別の宗教です。

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2021年2月18日 (木)

親鸞会の根本聖典『歎異抄をひらく』の邪義1

最近、親鸞会は書籍の新聞広告をやたらと出していることに気が付かれた方も多いと思います。その理由は単純なことで、コロナの不況で、新聞広告費が激安になっているからです。週刊誌の新聞広告を見ればよく判りますが、以前の二倍の面積で、しかも回数も複数回だったりします。親鸞会の集金システムから言えば、おいしい話で、新聞広告の回数を増やせば、会員に広告費名目で金集めが頻繁にできるからです。
その新聞広告で力を入れているのが高森顕徹著『歎異抄をひらく』です。平成の『教行信証』と会員に宣伝していた『なぜ生きる2』は、全く宣伝されていません。『なぜ生きる2』は、高森邪義の最たるものであるから、厚顔無恥の親鸞会でも宣伝するのに憚られるのでしょう。

ということで、親鸞会の自信作『歎異抄をひらく』についての邪義を暫く説明していきたいと思います。

今回は第二条の「ただ念仏して」についてです。

親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。

高森会長は「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」の「ただ」を以下の『歎異抄をひらく』にあるように常々言ってきました。


 聖人の教えは一貫して、信心一つの救いだから、「唯信独達の法門」といわれることは、既に詳述した(150ページ)。
『歎異抄』では「ただ信心を要とす」(第一章)と明示し、蓮如上人の証文も多数にのぼる。
ほんの数例、『御文章』から挙げてみよう。

 |往生浄土の為にはただ他力の信心一つばかりなり(二帖目五通)
 |浄土へ往くには、他力の信心一つで、ほかは無用である。

 |信心一つにて、極楽に往生すべし(二帖目七通)
 |信心一つで、極楽に往生するのだ。

 |他力の信心一つを取るによりて、極楽にやすく往生すべきことの、更に何の疑いもなし(二帖目十四通)
 |他力の信心一つ獲得すれば、極楽に往生することに何の疑いもないのである。

最も人口に膾炙されるのは、次の『御文章』だろう。

 |聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候(五帖目十通)
 |親鸞聖人の教えは《信心一つで助かる》という教示である。

蓮如上人は断言されている。

では「ただ念仏して」とは、どんなことなのであろうか。

(中略)

これではならぬと真剣に聞こうとすれば、キョロン、トロン、ボーとした心が腹底にドタ牛のように寝そべっていて、ウンともスンとも聞く気がない。「屍の心」と聖人がいわれたのはこのことか。

金輪際、仏法聞くような奴ではありませんと愚痴れば、そんなお前であることは、とうの昔から万々承知だ、だから〝そのまま任せよ〟の弥陀の仰せに、ただただ、びっくり仰天。

どうせ地獄より行き場のない私だ、どうにでもして下さいと、弥陀に一大事の後生を、ぶちまけた〝ただ〟なのだ。

どんな難聴の者にも届く、不可称不可説不可思議の声なき〝ただ〟であり、弥陀と私が同時に生きた「他力信心」をあらわす〝ただ〟である。

これは、念仏と信心との関係がよく判っていないことを物語る解釈です。

ただ念仏して」の「ただ」は、法然上人の教えられた通り、念仏一行が往生の行だということです。これと他力信心とを混同しているだけのお粗末さです。

法然上人は『選択本願念仏集』の「三選の文」において、


それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、し ばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。正定 の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。


と示されています。親鸞聖人が『教行信証』において唯一法然上人の御言葉を引用された御文であり、『教行信証』はこの「三選の文」の解説書と言われます。

法然上人は、浄土門を選び、正行を選び、正定の業を選びとることで、生死を離れることができる、と仰せられている。念仏一行が往生の行であり、他はそうではないことになります。つまり、法然上人の「名を称すれば、かならず生ずることを得」を、親鸞聖人が「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と言い換えられたに過ぎないのです。

このことから、「ただ念仏を称えて救われる」という阿弥陀仏の本願を高森会長は全く理解していないのでしょう。

なお、これは法然上人が勝手に仰ったことではなく、善導大師の『観無量寿経疏』にある


一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。


に基づいていることは言うまでもありません。
親鸞聖人も『正信偈』において、


極重の悪人はただ仏を称すべし。

と仰っていますが、これは源信僧都の『往生要集』にある


『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

を言い換えられたものです。その基はもちろん『観無量寿経』下品下生にあります。要約すると
一生涯悪を造り通しの極重の悪人が、臨終になって善知識に遇い、念仏を称えることを勧められて、臨終の苦しさの中で十回の念仏を称えて往生を遂げる
ということです。
これらの御文を高森会長は知らず、念仏とは別に信心があるかのように誤解しているのです。基礎知識として「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」を専修念仏といい、それが他力の念仏です。

源信僧都の御言葉を用いるなら、「他の方便なし」(念仏以外の方便はない)となり「ただ念仏して」の念仏一行に定まったこと、すなわち専修念仏がそのまま信心ということです。

結論は、高森会長の言うような、「びっくり仰天」することが「ただ」なのではなく、念仏一行の「ただ」(唯)なのです。

この程度のことも理解していない高森会長を無二の善知識と未だに崇めて『歎異抄をひらく』を根本聖典にしていること自体が教団として終わっています。

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2021年2月 1日 (月)

『なぜ生きる2』の出版から7年ー8

『なぜ生きる2』には、韋提希の話が書かれていますが、この話は『観無量寿経』にはない創作話です。

細かい話まで言うとキリが無いので、ポイントだけ言うと、

釈尊は韋提希に定善をさせてみて、韋提希ができないことを知らされて阿弥陀仏に救われた、ということは全くの出鱈目

ということです。
釈尊は、韋提希に定善をしなさいと仰っていませんし、韋提希も定善をしようとも思っていませんでした。
この経緯は『観無量寿経』を読めば誰でも判る内容です。

釈尊が定善を説かれる経緯について、

仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣にして、いまだ天眼を得ざれば、遠く観ることあたはず。諸仏如来に異の方便ましまして、なんぢをして見ることを得しむ」と。ときに韋提希、仏にまうしてまうさく、「世尊、わがごときは、いま仏力をもつてのゆゑにかの国土を見る。もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」と。

(現代語訳)

さらに釈尊は韋提希に仰せになった。
「そなたは愚かな人間で、力が劣っており、まだ天眼通を得ていないから、はるか遠くを見とおすことができない。しかし仏には特別な手だてがあって、そなたにも極楽世界を見させることができるのである 」
そのとき韋提希が釈尊に申しあげた。
「世尊、わたしは今、仏のお力によってその世界を見ることができます。でも、世尊が世を去られた後の世の人々は、さまざまな悪い行いをして善い行いをすることがなく、多く苦しみに責められることでしょう。そういう人たちは、いったいどうすれば阿弥陀仏の極楽世界を見ることができるでしょうか 」

とあり、この後、釈尊は定善を説かれます。
簡単に言えば、韋提希の能力では浄土を見ることのできないことを釈尊は宣告された上で、釈尊のお力によって浄土を見ることのできた韋提希が、釈尊入滅後の衆生を心配して、衆生が自分の力で浄土を見る方法を釈尊に尋ねたということです。

つまり、すでに浄土をみている韋提希にとっては、定善はする必要もなく、できるとも最初から思っていなかったのです。韋提希にとっては定善は他人事です。

なお、定善のできる人とできない人との違いにつて善導大師は、『定善義』で次のように仰っています。

ただ万事ともに捨てて、なほ失意・聾盲・痴人のごとくなれば、この定かならずすなはち得やすし。もしかくのごとくならざれば、三業縁に随ひて転じ、定想波を逐ひて飛ぶ。 たとひ千年の寿を尽せども、法眼いまだかつて開けず。

(現代語訳)

ただよろずの事をともにすてることが、 失意の人・聾・盲・無智の人のようになれば、 この定は必ず成じやすい。 もしこのようにしなければ、 身口意業が所縁の境にしたがって移り、 禅定の想も波のように動いて、 たとい千年の命をかけても智慧の眼は開けない。

世間から隔離されたところで、五感を停止させることができれば定善は簡単にできるが、そうでなければできない、ということです。したがって世俗の中にいる韋提希には到底無理なこととです。

それに定善十三観は、日想観ができたら水想観、水想観ができたら地想観というようにステップアップしていくものです。日想観ができなかったら水想観、水想観ができなかったら地想観ではありません。
実際『観無量寿経』には

この想成ずるとき、一々にこれを観じて、きはめて了々ならしめよ。

地想成じをはりなば、次に宝樹を観ぜよ。

等とあります。もし韋提希が日想観を実践しようとしてできなかったとするのなら、水想観は韋提希とは完全に無関係に説かれたことになります。

なお、親鸞聖人は韋提希の獲信の道程の話は全く紹介されていません。韋提希がどこで獲信したかも言及がありません。ところが、阿闍世に対しては事細かに『涅槃経』を引かれて、どのような状況で、いつ獲信したかも、明確に判るようにされています。

要するに、高森顕徹会長は親鸞聖人の教えを何も知らないと言っても過言ではありません。

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2021年1月18日 (月)

『なぜ生きる2』の出版から7年ー7

12年前のmixiでの三願転入の法論で高森顕徹会長が最後に言ったのが、

未信の人が、18願だけで導かれるということですか?
19願力も、20願力も不要と言われるのでしょうか?
もしそうでしたら、19願力や20願力以外の、
18願力に方便(信前)もある、ということになりますが、
そのようなことを、親鸞聖人はどこにおっしゃっているのでしょう?

でした。方便からしか真実に入れない、という詭弁です。

『なぜ生きる2』5章にもこうあります。

聖人の方便とは、市中で使われる「ウソも方便」などとは全く異なり、真実まで導くに必要不可欠の教えをいう。

親鸞会でしか通用しないであろう詭弁です。仏教各宗では通常他宗を非難する時に、あの経は方便だから真実のこの経を信ずればよい、と言って、自分の宗の正統性を主張し、方便≒不要という意味で使われます。
大沼法竜師が同様の言葉をよく使われていたので、その言葉だけをパクって意図を変えたのが高森会長です。

これに対しての退会者の反論として出したのが『教行信証』行巻にある『往生要集』の

極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得

と『高僧和讃』の

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

でした。「極重の悪人」には「他の方便なし」と否定のしようのない根拠を突き付けられて、高森会長は絶句し、惨敗が確定しました。

少し解説しておくと、善人には「他の方便」があります。『玄義分』に九品の説明がありますが、上品上生から中品下生までを

上品上生……まさしくこれ仏世を去りたまひて後の大乗極善の上品の凡夫、日数少なしといへども、業をなす時は猛し
上品中生……またこれ仏世を去りたまひて後の大乗の凡夫、行業やや弱くして
上品下生……ただこれ仏世を去りたまひて後の一切の大乗心を発せる衆生、行業強からずして
中品上生……またこれ仏世を去りたまひて後の小乗戒を持てる凡夫なり。
中品中生……ただこれ仏世を去りたまひて後の無善の凡夫、命延ぶること日夜、小縁のその小戒を授くるに逢遇ひて、回して往生を願ず。
中品下生……ただこれ仏法に遇はざる人、孝養を行ずといへども、またいまだ心に出離を希求することあらず。ただこれ臨終に善の勧めて往生せしむるに遇ふ。この人勧めによりて回心してすなはち往生を得。またこの人世にありて自然に孝を行ず、また出離のためのゆゑに孝道を行ぜず。

と解説されています。
簡単にまとめると

上品上生・上品中生・上品下生が、行福のできる凡夫です。
中品上生・中品中生が、戒福のできる凡夫です。
中品下生が、世福のできる凡夫です。

善人に行福・戒福・世福という方便があるのですが、下品上生・下品中生・下品下生という悪人には善という方便がないのです。善という方便なしで、「ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得」が18願だと親鸞聖人は教えられているのです。

通仏教でも、真宗でも通用しない詭弁を使っても、親鸞聖人のお言葉で反論すれば、それで終わりです。

数百年に一人という無二の善知識の正体が、mixiの法論と『なぜ生きる2』を通して白日の下に晒されました。

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2021年1月12日 (火)

『なぜ生きる2』の出版から7年ー6

親鸞聖人が19願を勧められた根拠も、善を勧められた根拠も全くありません。高森顕徹会長が、勘違いしていた根拠はありますが、その勘違いを指摘すると反論できず沈黙するしかありません。日本語が判るなら、そうせざるを得なくなります。
これですんなり引き下がるのならかわいいのですが、醜態を晒すために最後の奥の手を出してきます。それが因果の道理です。

仏教の根幹は因果の道理だ!

高森会長お得意のフレーズです。
『なぜ生きる2』10章には

 悲しむべきこの実態を見られて釈迦は、諸善を勧める弥陀の十九の願(修諸功徳の願)を生涯、説き明かされた。
 弥陀の十九願は、十方衆生(すべての人)を弥陀の十八願・真実(絶対の幸福)へ導くに、極めて重要な方便願であるからだ。

 まず釈迦は、誰もが納得する三世十方を貫く因果の道理を説き刻まれる。
 因果の道理は釈迦のみならず、大宇宙の諸仏共通の教えである。

諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教
                  (七仏通戒偈)

”諸々の悪を作すこと莫れ、衆の善を奉行し、自ら其の意を浄くせよ、是れ、諸仏の教えなり”
 因果の道理は仏教の入口であり、教えの定規である。仏教の根幹と言われる所以だ。

とあります。ところが、それを聞いて疑問に思われたことがある方もあるでしょう。

仏教の根幹の因果の道理を教えられた親鸞聖人のお言葉は?

そう、親鸞聖人が因果の道理について教えられたお言葉を高森会長は一度も出したことがありません。なぜなら、無いからです。

親鸞聖人が因果の道理について教えられていないと言うことはどういうことか考えてみれば良いですが、普通に考えれば18願の救いには関係ないという結論に達するでしょう。正確には、

因果の道理は18願の救いの妨げになる

が親鸞聖人の教えです。
根拠は山ほどありますが、最も判りやすいのが『正像末和讃』誡疑讃の

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

仏智不思議をうたがひて
 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば
 胎生のものとときたまふ

などです。因果の道理を否定的、それ以上に、仏智の不思議をうたがう心、つまり疑情と親鸞聖人は断言されています。

親鸞聖人が因果の道理を教えられていない理由は、因果の道理を信じることが阿弥陀仏の18願を疑う心そのものだからです。18願を疑う心を無くそうとして、疑心を煽ることをする知識があれば、その知識を悪知識というのです。

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2020年12月29日 (火)

『なぜ生きる2』の出版から7年ー5

三願転入の理屈が覆されると次に出てくるのが、宿善です。宿善については、定義が善知識方によって異なってくるので、説明がややこしいのですが、『なぜ生きる2』18章では『御一代記聞書』の

陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。
弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。
とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。
已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。

を出して以下のような意訳を付けています。

陽の当たるところの花は速く咲き、日蔭の花は遅いだろう。
陽の当たるところの花が速く咲くように、弥陀の本願を真剣に聞き速く救われる人もある。聞法を怠れば日蔭の花のように救われるのも遅くなる。
同じく弥陀の光明(聞法)に遇っても、救われるのが速い人と遅い人があるのは、人それぞれの宿善(過去の善根)に遅速(厚薄)があるからだ。
救われている人も、救われていない人も、ともかくも、大事なことは真剣な聴聞である。

としています。ここで最も問題なのが

かように宿善も遅速あり

ですが、この意味は高森顕徹会長は、「人それぞれの宿善(過去の善根)に遅速(厚薄)があるからだ 」としていますが、正しくは

同じく弥陀の光明(聞法)に遇っても、信心を獲るのが速い人と遅い人がある

です。この『御一代記聞書』の基になっているのが蓮如上人が「金を掘り出すような聖教」とまで絶賛されました『安心決定鈔』にあるお言葉です。事実、『御一代記聞書』には、『安心決定鈔』からの引用が多数あります。
ここの関連部分は

かるがゆゑに仏の正覚のほかは凡夫の往生はなきなり。十方衆生の往生の成就せしとき、仏も正覚を成るゆゑに、仏の正覚成りしとわれらが往生の成就せしとは同時なり。仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。機によりて三世は不同なれども、弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり。
(中略)
かくこころうれば、われらは今日今時往生すとも、わがこころのかしこくて念仏をも申し、他力をも信ずるこころの功にあらず。勇猛専精にはげみたまひし仏の功徳、十劫正覚の刹那にわれらにおいて成じたまひたりけるが、あらはれもてゆくなり。覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり。已・今・当の三世の往生は不同なれども、弘願正因のあらはれもてゆくゆゑに、仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり。

です。
ここに書かれてあることは、
阿弥陀仏が十劫の昔に、本願を成就されているのに、人によって往生の時期に前後ができるのはなぜかということについてです。
『御一代記聞書』と比較するとよく判ります。

已今当の往生あり(『御一代記聞書』)

すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり(『安心決定鈔』)

已・今・当の三世の往生は不同なれども(『安心決定鈔』)

このことより、

宿善も遅速あり(『御一代記聞書』)

仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば(『安心決定鈔』)

覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり(『安心決定鈔』)

となります。

に当ります。「ことわりをしる」「あらわす」とありますし、『御一代記聞書』の最後に

昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もあり

とありますので、『御一代記聞書』の「宿善」とは、信心のことを指していることがお判り頂けると思います。

つまり『御一代記聞書』では、信心をうることに遅速があるから、已今当の往生がある、と教えられたお言葉と理解できます。

『安心決定鈔』の「ことわりをしる」「あらわす」ことは、自分のやった善とは全く関係ないのです。『安心決定鈔』の、

弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり

仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり

に、そのことが明確に解説されています。
要するに、『御一代記聞書』の「宿善」には、自力的な意味の善は含まれていないのです。

人それぞれの宿善(過去の善根)に遅速(厚薄)があるからだ。

こんな意味になることは、100%あり得ません。

宿善とは、「善」の文字があるから善と関係があるに違いない

という高森顕徹会長の妄想が生み出した珍釈です。

mixiでの法論の際には、

いづれの経釈によるともすでに宿善に限れり

とだけ述べて、伝家の宝刀を抜いた気持ちだったのでしょうが、あっけなく破邪されています。ここでの宿善は、この前後を見れば

親鸞聖人の教えを聞く気がある

という意味にしかなりません。『御文章』3帖目12通

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本 不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。 このおもむきをくはしく存知して、ひとをば勧化すべし。 

とある通り、善の意味はありません。ちなみに「善本」は親鸞会でも教えているように、念仏のことです。それが判っていたから、mixiでの法論の際には、高森会長は宿善についてこれ以上言いませんでしたし、『なぜ生きる2』でも宿善論を展開しませんでした。

40年前の本願寺との宿善論争が嘘のようです。ハッキリ言えば、嘘だったという結論です。

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2020年12月24日 (木)

『なぜ生きる2』の出版から7年ー4

mixiでの三願転入の法論で、高森顕徹会長が19願の必要性を訴える根拠として出したのが、『一念多念証文』の

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。いま一乗と申すは本願なり。

でした。この御文は、実は某除名元講師部員が三願転入の根拠として主張していたのを、別の除名元講師部員がそれを否定するためにブログで紹介して、それを親鸞会がパクったという経緯です。mixiでの法論が始まる数ヶ月前のことです。

そこで自信満々にこの御文を出して三願転入を声高に叫んだのですが、特に拘ったのが「浄土の方便の善」です。浄土に往生するために必要な善と解釈していたのですが、それを退会者は覆しました。

19願の善、定散二善のことを親鸞聖人が他所でどう仰っているかを出したのです。

『教行信証』信巻には、

また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。

とあり、化土巻には

釈家の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。

とあります。
浄土の方便の善」を「迂回の善」「欣慕浄土の善根」と仰っています。「迂回の善」は文字通り遠回りの善ということで、三願転入が近道という高森会長の主張を完全否定するものです。もう一つの「欣慕浄土の善根」とは、浄土を願い慕う善ということですが、これはどういうことかと言えば、浄土を願っていない人に浄土を願わせるための善という意味です。具体的に言いますと、浄土を願っていない人とは聖道門の人です。聖道門は

この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく

と親鸞聖人が定義されているように、この世で聖者の位に入り出離の果、最終的には成仏の果を得ることを目指すものです。浄土を目指していないのです。浄土を目指していない聖道門の人を浄土門に導くためには方便が必要です。それを「浄土の方便の善」と親鸞聖人が仰ったということなのです。

前々回、前回のエントリーの内容と完全に一致する内容になります。聖道門で修行をしながら、聖者となれない凡夫は、聖道門を断念せざるを得ません。そこに、聖道門と同じ行で、浄土を目指すならば浄土に往生させるという19願を知れば、聖道門を目指しながら途中で断念した人は19願を求めることになるのです。もちろん、阿弥陀仏の本意はあくまで18願の他力念仏ですが、いきなり他力念仏では聖道門とはかけ離れているので、聖道門に近い19願が「方便の善」となると親鸞聖人が仰ったのです。

この「欣慕浄土の善根」は、高森会長にとっても親鸞会の講師部員にとっても、完全に未知の領域であったために、mixiでは呆然とするしかありませんでした。

『なぜ生きる2』においても、「欣慕浄土の善根」については説明も反論もできなかったことから、高森会長の衝撃の大きさが判ります。mixiでの法論では衝撃の連続であったとはいえ、「欣慕浄土の善根」が最も大きな衝撃だったと思われます。

これまでの3回をまとめれば、19願の善は「欣慕浄土の善根」に収まると言っても良いでしょうが、会員には全く理解できない真宗の教義です。

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2020年12月18日 (金)

『なぜ生きる2』の出版から7年ー3

親鸞聖人は、『大無量寿経』の異訳経である『平等覚経』『大阿弥陀経』を引かれて『大無量寿経』をより掘り下げて解釈をされていますが、前回紹介した『大無量寿経』の19願に相当する部分については、異訳経との比較をされていません。そのことを親鸞会は知って、

19願の「十方衆生」は全人類ということだ

とぬか喜びをしたこともありますが、それは親鸞聖人が19願をどう位置付けられているかを知らなかったからです。
mixiでの三願転入の法論の際にも問題になっていたのが、『教行信証』化土巻の

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

でした。高森顕徹会長は前段部分を無視して、後段だけを切り取り、

釈尊は定散二善を顕わされて「群生海」つまり全人類を導き、阿弥陀仏は19願を立てられて「あまねく諸有海」つまり全人類を導かれたのだ

としていました。しかし、ここには前段があるのです。しかも「ここをもつて」で前段と後段が繋がっていますので、前段を無視することはできません。前段は
外道を出て聖道門に入ったといいながら、「」「」なるものは極めて少なく、逆に「」「」なるものは極めて多い
ということですので、聖道門で「」「」なるもののために、釈尊は定散二善を説かれ、阿弥陀仏は19願を立てられた、となります。
もっと簡単に言うならば、

19願は、聖道門を断念したもののための願

ということになります。
これが前回の『平等覚経』『大阿弥陀経』の内容と一致しているのですから、断言まではできませんが、親鸞聖人が『平等覚経』『大阿弥陀経』を基にされてこのように解釈なされたと言えるでしょう。
mixiでの法論の際には、化土巻のお言葉の後に『平等覚経』『大阿弥陀経』を出したのですが、この化土巻のお言葉を巡っても高森会長は何ら反論できませんでした。そして『なぜ生きる2』では10章に

 弥陀は十九願を建てて善を勧め、釈迦が一代、廃悪修善を説かれたのは、知った分かったの観念の遊戯ではなく、実地にやらせるためであったと、聖人は仰せになっている。

以下は、その文証である。

然るに濁世の群萌・穢悪の含識、乃し九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入ると雖も、真なる者は甚だ以て難く、実なる者は甚だ以て希なり、偽なる者は甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋し。
ここを以て、釈迦牟尼仏、福徳蔵(十九願)を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願を発して普く諸有海を化したまう。既にして悲願有す、「修諸功徳の願」と名づく
                              (『教行信証』化身土巻・本)

と書いていますが、もはや口語訳さえも断章取義で誤魔化しているのですから、高森会長の悔しさが感じられる典型的な箇所でもあります。
これで19願が全人類のための願であるという根拠を高森会長は失ったのですが、mixiでの法論の際には駄目押しの根拠がこの後出されて、高森会長は絶句することとなりました。それは次回で。

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2020年12月 9日 (水)

『なぜ生きる2』の出版から7年ー2

高森顕徹会長が信頼していた人が、平均寿命に遠い年齢で、次々と亡くなっています。若くして亡くなった主治医についてはご存知の方も多いでしょうが、今年に入ってからでも、親戚でもないのにプライベートでも特別にかわいがっていた人、そして身内の中でも特別に信頼していた人です。
現生十種の益を得ているはずの高森会長には、現生の災いが降り注いでいます。

このことを取ってみても、高森会長の説明する現生十種の益や絶対の幸福が嘘であったと判るでしょう。高森会長の酷い人格が暴かれ、その上盤石と思われていた教義までもが豆腐のように軟弱であったと周知されたのですから、高森会長は怒りと悔しさに満ち溢れていることでしょう。ただし、思考ができる状態ならばです。

さて、mixiでの三願転入の法論で、19願が万人共通で必要不可欠であるとする最大の根拠が19願文にある「十方衆生」でした。実は、この法論までは、この「十方衆生」の理屈を退会者が直接論破してきませんでした。
ところがmixiでの法論ではこれを覆す根拠が出されたのです。
それが『大無量寿経』の異訳経である『平等覚経』と『大阿弥陀経』でした。親鸞聖人は、『教行信証』において、『大無量寿経』の異訳経を通して、『大無量寿経』を解釈された箇所があります。有名なところでは18願成就文の「乃至一念」を信心と解釈された根拠を『大無量寿経』ではなく『無量寿如来会』とされたところです。
『平等覚経』と『大阿弥陀経』も度々引かれていますので、親鸞聖人が異訳経を重要視されていたことは間違いありません。

そこで退会者は『大無量寿経』の19願文を『平等覚経』と『大阿弥陀経』で出したわけです。すると「十方衆生」の意味が明確になるのです。
その時の説明が

『大無量寿経』18願の「十方衆生
=『平等覚経』17願の「諸天人民蠕動之類者
=『大阿弥陀経』4願の「諸天人民蜎飛蠕動之類
諸々の神々や人々や虫の類

『大無量寿経』19願の「十方衆生
=『平等覚経』18願の「諸佛國人民有作菩薩道者
=『大阿弥陀経』7願の「八方上下無央數佛國諸天人民若善男子善女人有作菩薩道
諸々の仏国土の菩薩の行を行う者

でした。18願の「十方衆生」は、文字通りすべての衆生ですが、19願の「十方衆生」は、菩薩道を歩む者、つまりは聖道門で修行している人もしくは聖道門で修行をしてきた人の意味になるのです。18願と19願では同じ「十方衆生」でも意味が明確に違うのです。
高森会長には想定外の「十方衆生」の反論に、茫然自失状態でした。

mixiでの法論に反論したことになっている『なぜ生きる2』でも、このことについては全く触れていませんし、未だにこれに対する反論がないので、高森会長にとっては、この一発が如何に効いたかが判ると思います。高森会長でも、さすがに経典を否定することはできなかったのです。

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2020年12月 7日 (月)

『なぜ生きる2』の出版から7年―1

親鸞会は、高森顕徹の高森顕徹による高森顕徹のための会ですので、高森顕徹会長が出てくることがなくなった今、親鸞会は実質的に終わっています。
当ブログは、高森会長の教えを糾弾することが目的でしたので、更新が滞っているのはそういう事情です。高森会長を擁護する講師や会員も当然ながらいますが、影響力もないので、本腰を入れて糾弾しようとまでは思っておりません。ただし、当ブログを非難するようなことがあれば、その限りではありません。

ということで特に新しい話題はないのですが、7年前のこの時期に出版された『なぜ生きる2』について復習しておきます。

『なぜ生きる2』は、出版の3年以上前にmixi上で行われた三願転入の法論がベースとなっています。mixi上での法論では、高森会長が出してくる根拠の解釈が悉く間違いであることを明らかにし、高森会長の全く知らない根拠を豊富に出したために、高森会長は防戦一方で、一矢報いることすらできませんでした。
一番の論点は、

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉

についてでした。
今でこそ、そんなお言葉が存在しないことは明白ですが、当時としては思いもしない問いかけに、高森会長は狼狽えて醜態を晒すこととなりました。
その醜態を隠すために、mixiでのやりとりを全削除させるという暴挙にまででたことが、高森会長のショックの大きさを物語っています。

そこで当ブログでは、その内容を事あるごとに取り上げて、高森会長をこき下ろし、退会者も続出したことで、高森会長がその反論本として『なぜ生きる2』を出版したという経緯です。

とは言っても、mixiでの内容と何ら変わったところはなく、完全に論破された高森会長のこれまでの主張を例えで補強しただけです。新しい根拠が出てきたのではありません。

私としては煽りに煽って反論本を促してきたので、すぐに徹底的に糾弾し、結果、傷口を更に広げて、『なぜ生きる2』は親鸞会の中でも取り上げられることさえなくなってしまいました。その証拠に、『なぜ生きる2』は新聞広告で宣伝されることもなくなっています。

『なぜ生きる2』は、当ブログを巡って出版され実質的に消されていったのですから、私が責任をもって、『なぜ生きる2』の出鱈目を再度、取り上げていくこととします。

さしあたって

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉

に対する『なぜ生きる2』での直接的な反論は、6章の以下の部分です。

 もし三願転入の弥陀の救いが、親鸞聖人や一部の人に限定されることならば、十九願の人々に、折れず曲がらず速やかに二十願に進めよの、聖人の励ましは『教行信証』になかったであろう。
 それが幾たびも見かけるのだ。

 総ての人々よ。十九の願から二十願に進んでおくれ。必ず十八願・選択の願海へ転入させて頂けるのだから。

 以下は、その文証である。

  「それ濁世の道俗(すべての人)、速に円修至徳の真門(二十願)に入りて、難思往生を願うべし」(『教行信証』化身土巻・末)

 特定の人を「濁世の道俗」とは言われない。三願転入は、すべての人の道程だから「濁世の道俗」と言われているのである。

これが反論として成立していると思う人は、マインドコントロールの良く効いている会員だけでしょう。20願を勧められたお言葉ではあっても、19願を勧められたお言葉ではないので、高森会長の苦し紛れの詭弁しか思いつかなかったということです。

普通の思考なら、負けを認めるための本を出さないでしょうが、そこが高森会長の思慮の浅さだということです。

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