2017年7月25日 (火)

念仏一行を勧めるのが善知識、念仏一行を否定するのが悪知識高森顕徹会長

前回のエントリーで、親鸞聖人は「念仏正因」と仰っていると書きましたので、「信心正因」との関係で、親鸞会の会員は頭が混乱していることと思います。しかし、当ブログを以前から読まれている退会者の皆さんなら、普通に理解されていることと思います。

簡単なことで、

信心とは、念仏1つで往生できると深く信じた心のことですから、

「信心正因」=「念仏正因」と深く信じた心が正因

ということです。
他力の信心に疎い高森顕徹会長と愉快な会員達には理解できないことですが、これだけのことです。

以前に同じようなことをエントリーで書いた時に、会員が挙げ足を取ったつもりでこのようなコメントしてきたことがあります。

念仏称えて助かると深く信じていますが、救われていないのはどうしてですか?

思考停止の会員らしいコメントですが、深く信じるとは深信、つまり真実の信心のことを指して親鸞聖人は仰っているのですから、会員のコメントを言い換えるなら、

真実の信心を獲ましたが、救われていないのはどうしてですか?

これなら思考停止の会員でもおかしさが理解できるのではないかと思います。深く信じるを自力だとかいう愚かさを恥じて、その会員はコメントしなくなりましたが、恥を知らずに同じようなことを未だに言っている会員もいるようで、呆れ果てます。

もう一度言いますと、真実の信心、他力の信心とは「念仏1つで往生できると深く信じた心」ですので、「念仏1つで往生できると浅く信じた心」が自力の信心になります。
共通しているのは「念仏1つで往生できると信じた心」で、違いは「深く」か「浅く」かです。

ここまで説明すれば、思考できる人ならお判りかと思いますが、「念仏1つで往生できると深く信じた心」の前には、通常「仏1つで往生できると浅く信じた心」がある筈です。「諸善をして往生しようと信じた心」をいくら積み重ねても、「念仏1つで往生できると深く信じた心」にはなれません。「諸善をして往生しようと信じた心」を自ら捨てさって、「念仏1つで往生できると浅く信じた心」になれば、「念仏1つで往生できると深く信じた心」になることはあります。

諸善をすれば、1つの善もできないことが知らされる

と本気で思っているのが会員ですが、善をしてもそんなことは永久に知らされません。

諸善をすれば、諸善がそれなりにできることが知らされる

です。
高森会長が詭弁でよく使う例えが、

親孝行をしようと真剣になれば本当の親孝行のできないことが知らされる

ですが、これを会員はまともに信じているから思考停止だというのです。
私が会員の時でも、これが詭弁であることは判っていました。
正しくいうなら、

親孝行をしようと真剣になれば、親孝行は他人よりもできるが、親を心から喜ばせるような本当の親孝行のできないことが知らされる

です。親孝行のできないことが知らされることなど、絶対にありません。

こんな簡単な詭弁に騙されて、未だに諸善だの宿善だの19願だの言っているから、他力の信心の1歩手間の「念仏1つで往生できると浅く信じた心」さえも馬鹿にして念仏軽視しているのです。

念仏1つで往生できると深く信じた心」とは異なる信心の高森会長を、善知識と思っているのは、鰯の頭を信じているのと何ら変わりがないのです。

今回は思考停止でも理解しやすいように根拠なしで説明しましたが、最後に一つだけ根拠を出しておきます。

『正信偈大意』

この三国の祖師等、念仏の一行をすすめ

善知識は念仏の一行を勧められる方、悪知識は念仏の一行を否定する輩です。

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2017年7月23日 (日)

「往生の正因は念仏を本とす」という親鸞聖人のお言葉を全否定する高森顕徹会長

高森顕徹会長は必死になって、聖教にない理屈を捏ね繰り回して、訳の判らない超珍しき法を生み出して、真宗界から鼻で笑われているのですが、それを知ってか知らずか、親鸞会の会員は高森会長のヘンテコ理屈に輪を掛けた???理屈で反論してくることが多いです。
師匠があんなのですから、弟子がこうなるのも無理はありませんが、少なくとも、親鸞聖人が仰ったことを否定するような理屈は止めておかないと、恥を何重にも上塗りするだけです。

さて、信心と念仏の関係に無知な高森会長と愉快な会員達に、もう少し親鸞聖人のお言葉を紹介したいと思います。

親鸞聖人は法然上人の念仏一行で救われるという教えを聞いて、救われたのは、マインドコントロールの良く効いている会員でも認めることと思います。

法然上人は『選択本願念仏集』の結論で

正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。

(現代語訳)

正定の業とは、 すなわち仏のみ名を称えることである。 称名する者はかならず往生を得る。 阿弥陀仏の本願にもとづくからである。

と仰って、その通りに救われたのが親鸞聖人です。
この法然上人のお言葉を親鸞聖人は『尊号真像銘文』で

「正定之業者即是称仏名」といふは、正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。 「称名必得生依仏本願故」といふは、御名を称するはかならず安楽浄土に往生を得るなり、仏の本願によるがゆゑなりとのたまへり。

(現代語訳)

「正定之業者即是称仏名」 というのは、 正定の因となる行いは、 すなわち阿弥陀仏の名号を称えることであるというのである。 正定の因というのは、 必ずこの上ないさとりを開く因ということである。  「称名必得生依仏本願故」 というのは、 名号を称えると間違いなく安楽浄土に往生することができるのであり、 それは阿弥陀仏の本願のはたらきによるからであるというのである。

と解説しておられます。
仏名をとなふる」つまり念仏を称えることが「正定の因」「無上涅槃のさとりをひらくたね」だと明言されているのです。

こういうと、親鸞聖人のお言葉を否定するために

親鸞聖人の教えは「信心正因」だ、「念仏正因」ではない!

と、間の抜けたことを言うでしょうが、親鸞聖人は同じく『尊号真像銘文』で法然上人のお言葉を解説して

「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。

(現代語訳)

「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」 というのは、 安養浄土に往生する正因は本願の念仏を根本とするというお言葉であると知らなければならない。 「正因」 というのは、 浄土に生れて間違いなく仏になる因ということである。

と親鸞会を完膚なきまでに否定されています。

往生の正因は念仏を本とす

ここまできても、信心と念仏の関係が高森会長の言っている通りだと思うようなら、思考が完全に停止している状態です。

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2017年7月21日 (金)

”親鸞聖人の教えの根基”の話をしない高森顕徹会長

最近は、”親鸞聖人の教えの根基”である三願転入についての話がありません。高森顕徹会長は”親鸞聖人の教えの根基”の抜けた話しかしていません。

この状況を会員はどう考えているのか訊いてみたいです。
もう一度いいますが、”親鸞聖人の教えの根基”の話をしないことについてどう思っているのか。

高森会長が話をしなくなった理由は簡単です。”親鸞聖人の教えの根基”だと思っていた三願転入の教えが、親鸞聖人の教えではなかったと、高森会長が認めざるを得なくなったからです。

どんな詭弁を使おうが、どんな超飛躍的論理を用いようが、親鸞聖人の御著書では、三願転入の教えなるものは完全に否定されているのですから当然です。
七高僧のどなたも三願転入について仰っていませんし、19願自体を殆ど無視されています。蓮如上人も、三願転入についても19願についても、何一つ仰っていません。
この状態で”親鸞聖人の教えの根基”とか言い切ることの無謀さを、高森会長はようやく理解しただけのことです。

mixiでの法論で大惨敗した時点で、”親鸞聖人の教えの根基”である三願転入の教えを引っ込めておけば、『なぜ生きる2』を出版することもなく、真宗史上最悪の知識が定着することも防げたのかもしれませんが、既に時遅しです。

ところで、高森会長がこのように悲惨な教義を生み出した出発点は、信心と念仏との関係が全く判っていなかったことによるのでしょう。念仏は信心のオマケ、信前の念仏は信心獲得するのに無意味、との異安心から、宿善だの三願転入だのと真宗とはかけ離れた教義へ向かったのだと思われます。

信心と念仏との関係が良く判るのが、『教行信証』で行巻と信巻の二回も引かれている

深心はすなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく

です。
真実の信心とは、自分の修した善程度では出離できず、「名号を称すること下至十声聞等」によって往生できると信知したことです。

『末灯鈔』ではもっと判り易く、

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

と仰っています。
真実の信心とは、「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じ」たことです。

要するに、念仏を称えて往生できると深く信じたことが真実の信心ですから、信前に念仏を疎かにしてもよいと考えることはあり得ませんし、信後に未だ命があるのに、念仏を称えなくても良い、などという考えがでてきようもありません。

念仏と諸善とは対極関係にありますので、善が信心に何らかの関わりがあるのかという発想も、真実信心からは出てきません。

この単純な話も、高森会長には理解できないでしょうし、”親鸞聖人の教えの根基”を話しない高森会長に疑問を持たないマインドコントロールのよく効いた会員には、チンプンカンプンなことでしょう。

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2017年7月 9日 (日)

高森顕徹邪義を信じることを自力の心、疑情という

本日の高森顕徹会長の話は、いつもの話でした。と何度も言ってきたために、今回は少し変えてきたつもりでしょうが、やはりいつもの間が抜けた頓珍漢な話でした。

本日強調していたことは、

苦しみの原因は、自力の心、疑情である

です。これ自体は間違ってはいませんが、自力の心、疑情とは、高森会長の邪義を信じることだということに全く気が付いていないところが、お目出度いです。

自力の心、疑情とは、仏智不思議を疑う心とも言われ、阿弥陀仏のお力を疑う心、阿弥陀仏の本願を疑う心のことです。

高森先生もそう教えている

と会員は反論するでしょうが、それは阿弥陀仏のお力、阿弥陀仏の本願(18願)を知らないからです。

阿弥陀仏のお力、18願とは、善が不要、私たちが何かをすることを全く必要としないで浄土に往生させることができることです。

つまりは、往生・獲信のために、善をしなければならないとか、過去にどれだけ善をしてきたかとか、19願・20願を必ず通るか通らなければならないとか、因果の道理を信じなければならない、などと信じていることを、自力の心、疑情というのです。

このことについて最も判りやすい根拠が『正像末和讃』誡疑讃23首です。
代表的なものを紹介すると、

仏智の不思議をうたがひて
 自力の称念このむゆゑ
 辺地懈慢にとどまりて
 仏恩報ずるこころなし

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

自力称名のひとはみな
 如来の本願信ぜねば
 うたがふつみのふかきゆゑ
 七宝の獄にぞいましむる

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

罪福ふかく信じつつ
 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆゑに
 方便化土にとまるなり

仏智不思議をうたがひて
 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば
 胎生のものとときたまふ

自力の心をむねとして
 不思議の仏智をたのまねば
 胎宮にうまれて五百歳
 三宝の慈悲にはなれたり

仏智不思議を疑う心とは、

自力諸善
自力の称念
罪福信じる
自力の心

であり、

19願を信じる心
20願を信じる心
因果の道理を信じる心

です。

要するに、高森会長が教え勧めていることが、自力の心、疑情そのものですから、高森会長の言っていることが間違いと信じない限りは、苦しみの原因である自力の心、疑情は無くならないのです。

別に難しい話でも何でもないのです。高森会長の教えていることは、ほとんどすべてが間違い。単にそれだけのことです。高森会長が批判を交わすために、小手先で何か変えたところで、元が間違っていますから、何を言っても間違いなのです。

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2017年6月28日 (水)

体失往生を否定しながら肯定する高森顕徹会長

追悼法要の演題は、また「白骨の章」だそうです。高森顕徹会長は、片手に余るレパートリーの同じ話を繰り返すことしかできないようで、会員もさぞや退屈でしょう。

さて、前回言及した体失不体失往生の諍論について、本当はどんな内容であったのかを説明したいと思います。

まず善恵房証空上人は不体失往生を教えていなかったのかといえば、そうではありません。

『定善義他筆抄』に

此世とは、即便往生を云ひ、後生とは、当得往生を云う也。

とあります。
死んだ後の「即便往生」と、平生の「当得往生」の2つを明言しています。高森会長の言う、死んでからの救いのみを教えられたのが証空上人であるということが全くのデタラメであることがこの一文ではっきりします。

一方で『女院御書』には

他力本願をたのみて、過去の罪をも、今生の罪をも懺悔して、仏かならず迎給へと思ひて念仏せば、かならず本願にも相叶ひて臨終には仏の来迎にもあづかるべきものなり。

とあるように、臨終来迎についての言及もあります。

ところが親鸞聖人は、臨終来迎については否定的にしか仰っていません。
たとば『末灯鈔』には

来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。
(中略)
この自力の行人は、来迎をまたずしては、辺地・胎生・懈慢界までも生るべからず。このゆゑに第十九の誓願に、「もろもろの善をして浄土に回向して往生せんとねがふ人の臨終には、われ現じて迎へん」と誓ひたまへり。臨終まつことと来迎往生といふことは、この定心・散心の行者のいふことなり。

(現代語訳)

来迎は諸行往生すなわちさまざまな行を修めて浄土に往生しようとする人についていうのであり、 それは、 自力の行者だからです。 臨終の時に往生が定まるということは、 諸行往生の人についていうのであり、 それは、 まだ真実の信心を得ていないからです。 また十悪・五逆の罪を犯した人が、 臨終の時にはじめて善知識に出会い、 念仏を勧められる際にいうことなのです。 ^真実の信心を得た人は、 阿弥陀仏が摂め取ってお捨てにならないので正定聚の位に定まっています。 だから、 臨終の時まで待つ必要もありませんし、 来迎をたよりにする必要もありません。 信心が定まるとのときに往生もまた定まるのです。 来迎のための儀式を当てにする必要はありません。
(中略)
このような自力の行を修める人は、 来迎がないと辺地や胎宮や懈慢界などといわれる方便の浄土にさえ生れることができません。 だから第十九願に、 「さまざまな善を積み、 浄土に回向し、 往生したいと願う人が、 命を終えようとする時、 わたしはその人の前に現れて迎え取りましょう」 と誓われているのです。 臨終の時まで待つということと来迎により往生するということは、 このような定善や散善を修める人がいうことです。

このように、親鸞聖人は臨終来迎については、諸行往生であり、定散の機に限られるという解釈をなされています。

つまり、平生の往生を主張していたという点では、証空上人は親鸞聖人と同じではあったが、証空上人は臨終来迎に肯定的、親鸞聖人は否定的の違いがあります。

ここで、『口伝鈔』の法然上人の御言葉を見てみましょう。

善恵房の体失して往生するよしのぶるは、諸行往生の機なればなり。善信房の体失せずして往生するよし申さるるは、念仏往生の機なればなり。〈如来教法元無二〉なれども、〈正為衆生機不同〉なれば、わが根機にまかせて領解する条、宿善の厚薄によるなり。念仏往生は仏の本願なり、諸行往生は本願にあらず。念仏往生には臨終の善悪を沙汰せず、至心信楽の帰命の一心、他力より定まるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ、この穢体亡失せずといへども、業事成弁すれば体失せずして往生すといはるるか。本願の文あきらかなり、かれをみるべし。つぎに諸行往生の機は臨終を期し、来迎をまちえずしては胎生辺地までも生るべからず。このゆゑにこの穢体亡失するときならでは、その期するところなきによりてそのむねをのぶるか。第十九の願にみえたり。勝劣の一段におきては、念仏往生は本願なるについて、あまねく十方衆生にわたる。諸行往生は、非本願なるによりて定散の機にかぎる。本願念仏の機の不体失往生と、非本願諸行往生の機の体失往生と、殿最懸隔にあらずや。いづれも文釈ことばにさきだちて歴然なり

先ほどの『末灯鈔』の御言葉と共通するお言葉が出てきます。

諸行往生」「第十九の願」「定心・散心の行者(=定散の機)」

そうなりますと、勘の良い方ならお判りでしょうが、

臨終まつことと来迎往生」と「体失往生」とは同じ説明になっていますので、

臨終来迎=体失往生

となります。

要するに、体失不体失往生の諍論とは、臨終来迎を認めた証空上人と臨終来迎を認めない親鸞聖人の諍いだということなのです。

不体失往生を死んでからの往生と固定してしますと、親鸞聖人は死んでからの往生を否定された方になってしまいます。この世で往生を遂げてこの世で浄土に往く、と主張されたのが親鸞聖人だということになりますが、明らかな間違いです。

高森会長には、この単純な理屈が理解できないのでしょう。

高森会長の主張を簡単にまとめると

1.親鸞聖人は体失往生(死んだ後に浄土に往生すること)を否定された
2.往生には、不体失往生と体失往生の2つがある

これが矛盾だと気が付かないから、同じ間違った話を何度も何度もするのでしょう。

念のため、正しくはこうなります。

1.親鸞聖人は体失往生(臨終来迎)を否定された
2.往生とは、平生に往生が定まり、死んだ後に浄土に往生を遂げる

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2017年6月25日 (日)

レベルが下がり続けて、言っていることが訳判らなくなった高森顕徹会長

最近の高森会長の話は、毎回同じ話の繰り返しです。18願と18願成就文を出して、

一念で絶対の幸福にしてみせると阿弥陀仏が約束しておられる

と相も変わらず愚かなことを言っています。会員が居眠りするのも当然でしょう。

本日の話で少しおもしろいのが、「往生」には「不体失往生」と「体失往生」の2つの意味があると説明したことでしょう。「体失往生」を間違いだと否定しなかったことです。要するに、「体失往生」を主張した善慧房証空上人は間違ったことを言ったのではないことを認めたのです。なぜ高森顕徹会長が「体失往生」を認めたのかは、私がそう書いたからでしょう。

信楽と正定聚との関係も判らない高森顕徹会長の信心

今頃修正したところで、アニメや著書で散々「体失往生」が間違いだと言ってきたことまでなかったことにできませんので、いつもの恥さらしです。

さて、何かの一つ覚えで言い続けている「一念」ですが、この意味も間違っています。
18願成就文の「乃至一念」は、元々は1回の念仏として、法然上人まで解釈されてきたのですが、親鸞聖人がそれを否定されたのではなくそこに信心の意味を加えられたということを

念仏往生の願の成就文に「念仏の意味はない」としか考えられない浅はかな高森顕徹会長

でも説明してきました。
ここの「一念」は、高森会長の大好きな「一瞬」「瞬間」という意味で親鸞聖人が直接仰っているのではありません。
『教行信証』信巻の

しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。

を読めば判りますが、「信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。」つまりは念仏に一心になったことを仰っているのです。その説明を高森会長は絶対にしません。知らないからです。

一応言っておきますと、もちろん「一瞬」「瞬間」で頂ける信心ではありますから時剋の意味を含んではいますが、高森会長の意図としては、そんな深い御心ではなく、摩訶不思議な信心と会員に思わせることだけでしょう。

なお時剋の「一念」については、天台宗で教えられていて、真宗独自の教えではありません。天台宗や日蓮系の宗派では「一念三千」ということをよく言われますが、またもや創価学会のパクリがここでも露呈しています。

ちなみに、高森会長が最近毎回出す『口伝鈔』の

如来の大悲、短命の根機を本としたまへり。もし多念をもつて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。

ですが、これは簡単にいうと、阿弥陀仏に救われるのに時間はかかりませんよ、ということで、

10年や20年聞いたくらいで判るものではない!
そんな簡単に救われることはない!
一生や二生で救われるものではない、多生の目的だ!

という親鸞会の教えを徹底的に否定されたお言葉なのです。

頭の鈍い会員はこう反論するでしょう。

救われるまでに時間が掛かるが、救われる時は一瞬ということだ!

それを多念と覚如上人は仰っているのです。

一応解説しておきます。

「救われるまでに時間が掛かる」が「多念」
「救われるまでに時間が掛からない」が「一念」

これでも判らないなら、小学校で国語の勉強をし直しましょう。

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2017年6月 4日 (日)

”絶対の幸福”は還相回向の話であることも当然知らない高森顕徹会長

本日も高森顕徹会長は、毎度毎度の創価学会亜流の話をしていたそうです。絶対の幸福の連呼です。
高森会長は、自らの無知を曝し続けていることが判らないほど呆けているのか。あるいは親鸞会の存亡がかかっているため恥など気にしておれないのか。いずれにしても親鸞聖人の教えとはかけ離れた話です。

高森会長は知る由もないでしょうから、親鸞聖人が3種の楽しみについて教えておられることを少し紹介しておきます。

『教行信証』証巻に『浄土論註』を引かれてこうあります。

楽に三種あり。一つには外楽、いはく五識所生の楽なり。二つには内楽、いはく初禅・二禅・三禅の意識所生の楽なり。三つには法楽楽、いはく智慧所生の楽なり。この智慧所生の楽は、仏の功徳を愛するより起れり。これは遠離我心と遠離無安衆生心と遠離自供養心と、この三種の心、清浄に増進して、略して妙楽勝真心とす。妙の言はそれ好なり。この楽は仏を縁じて生ずるをもつてのゆゑに。勝の言は三界のうちの楽に勝出せり。真の言は虚偽ならず、顛倒せざるなり。

(現代語訳)

<楽>に三種がある。一つには外楽、すなわち五識による楽しみである。二つには内楽、すなわち禅・第二禅・第三禅の禅定の意識による楽しみである。三つには法楽楽、すなわちさとりの智慧による楽しみである。この智慧による楽しみは、阿弥陀仏の功徳を願い求めることからおこるのである。自分自身に執着する心を遠く離れ、衆生を安らかにすることのない心を遠く離れ、自分自身を供養し敬愛する心を遠く離れるという、この三つが清らかに進展して一つの妙楽勝真心となる。妙とは、よいという意味である。この楽は阿弥陀仏を縁としておこるからである。勝とは、迷いの世界の楽しみに超えすぐれていることである。真とは、いつわりでなく真実にかなっていることをいうのである。

外楽」とは、五識を喜ばせる楽しみで、高森会長が言う相対の幸福と言ってもよいでしょう。
内楽」とは、精神的な楽しみですが、未だ迷いの楽しみですから、これも相対の幸福と言っていいかもしれません。
最後の「法楽楽」は、「智慧所生」とあり、無漏の智慧より生ずる楽で、説法等の音声を聞く楽しみのことです。

これが絶対の幸福だ

ともし言うのであれば、これは無漏の智慧ですから、獲信したといっても有漏の智慧しか持ち合わせていない凡夫がなれる境地ではありません。
その証拠に
遠離我心と遠離無安衆生心と遠離自供養心と、この三種の心、清浄に増進して、略して妙楽勝真心とす
と教えられています。
自分の執着心を遠く離れ、他人のことに無頓着でどうでもいいという心を遠く離れ、自分のため自分のためという心を遠く離れた楽のことです。またここは、親鸞聖人が還相回向について説明されているところで引かれていますので、浄土往生後に仏となってからの話です。

要するに、「法楽楽」とは浄土往生する前のことではありませんので、当ブログをパクって、

親鸞聖人が外楽・内楽と教えられていることを相対の幸福、法楽楽と教えられていることを絶対の幸福と言い換えただけだ

と高森会長が突如言い始めたとしても、その”絶対の幸福”は浄土往生の前にはなれないことを親鸞聖人が教えられたのですから、高森会長の間違いを証明する根拠になります。

私の予想では、それほど遠くない時期に、外楽・内楽・法楽楽の話が出ると思います。その際には、今回のエントリーを参照して、高森会長のパクリ根性を皆で指摘してあげてください。

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2017年5月21日 (日)

「念仏は無碍の一道なり」が判らず否定する高森顕徹会長

本日の講師部講義で、高森顕徹会長はまたまた面白い説明をしていました。

18願を「十方衆生を相手に信楽の身にしてみせる」とするいつもの解釈の説明として、今回は銀行の融資に譬えて、

全ての日本人に対して1億円の融資

と言っていたそうです。
頓珍漢というか、無茶苦茶な譬えです。

まず、なぜ融資なのか。融資とは借金です。当然返済しなければなりません。阿弥陀仏の救いを報恩で返済しろと言いたいのでしょうか。
次に、融資が誰にでも無条件で受けられることはあり得ない話で、どうしてもそう譬えたいのなら、19願の「十方衆生」とは切り離した譬えとすべきです。親鸞聖人の『尊号真像銘文』のお言葉からすると、18願は「五逆誹謗正法」という債務超過に陥っている人にも融資をするが、19願には「五逆誹謗正法」がないので、債務超過の人は融資対象から除かれているとしなければならないからです。
それに、以前の譬えは選挙公約の税金の話だった筈です。もし当選したら税金を撤廃する、あるいは税金を還付する、という公約で譬えていたのですが、これも19願の「十方衆生」との関連で、税金(特に所得税)は払っている人には関係があるが、元々払っていない人には関係ないと私が言ったことで、こっそり修正したつもりなのでしょう。

今までの話を修正するのは結構なことですが、より悪い方向に変えているようでは、話にもなりません。これが、会員に無二の善知識と呼ばせている高森会長の実態です。

さて、今回も絶対の幸福の強調をしていましたが、無碍の一道についてもう少し説明しておきます。

元々は『浄土論註』のお言葉ですが、それを親鸞聖人は『教行信証』行巻に引かれています。

いま〈速得阿耨多羅三藐三菩提〉といへるは、これはやく仏になることを得たまへるなり。〈阿〉をば無に名づく、〈耨多羅〉をば上に名づく、〈三藐〉をば正に名づく、〈三〉をば遍に名づく〈菩提〉をば道に名づく、統ねてこれを訳して、名づけて無上正遍道とす。
(中略)
道は無碍道なり。『経』(華厳経)にいはく、〈十方の無碍人、一道より生死を出でたまへり〉と。〈一道〉は、一無碍道なり。無碍は、いはく、生死すなはちこれ涅槃なりと知るなり。

(現代語訳)

いま<速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得られた>といっているのは、法蔵菩薩が速やかに阿弥陀仏になられたことをいう。<阿>は無と訳し、<耨多羅>は上と訳し、<三藐>は正と訳し、<三>は遍と訳し、<菩提>は道と訳す。まとめてこれを訳すと無上正遍道という。
(中略)
<道>とは、無礙道である。『華厳経』に<すべての世界の無礙人である仏がたは、ただ一つの道によって迷いを出られた>と説かれている。<ただ一つの道>とは、ただ一つの無礙の道のことである。<無礙>とは、迷いとさとりとが本来別なものではないとさとることである。

結論を言うと、無碍人である仏方は、ただ一つの道である念仏によって迷いを出られ仏になられたことを、無碍の一道と親鸞聖人は仰っているのです。

したがいまして、『歎異抄』第7条の

念仏者は無碍の一道なり

は本来の意味では

念仏は無碍の一道なり

であったのを、親鸞聖人が「念仏者は」と敢えて仰ったのか、それとも『歎異抄』の著者が「念仏は」を「念仏者は」と書き間違えたのか、或いは『歎異抄』の原本が残っていないので、書写される過程で間違ったのか、そこは明確にはなっておりません。

いずれにしましても、絶対の幸福なる意味が全くないどころか、高森会長が必死で否定する「ただ念仏」、つまり獲信も往生も成仏にも善が全く不要である根拠にしかならないのです。

高森会長も教えを修正するなら、まずは善の否定からでしょうが、それは教団存続のためには絶対にしないでしょう。そんな高森会長の強欲に振り回されて、同朋の里に映画館まで建てさせられる会員は、哀れとしか言い様がありません。

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2017年5月14日 (日)

無碍の一道と絶対の幸福の違い

昨日と今日の降誕会では、「白骨の章」の話だったそうですが、無常観という真実の自己がハッキリと知らされないと救われないとか高森顕徹会長は言って、当ブログへの反論を試みたようです。もちろん、そんな根拠はありません。
また『なぜ生きる』を「平成の教行信証」と呼ばせて、高森顕徹会長は御満悦な様子で、良くできた落語のようです。

さて相変わらず、絶対の幸福の連呼をしていますが、絶対の幸福は「無碍の一道」の言い換えと妄想を膨らませているとしか言いようがありません。

まずは『歎異抄』第7条

念仏者は無碍の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなりと[云々]。

ここの「信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなき」ですが、これは二河白道の譬えの白道に乗った後の話と同じ内容です。

”親鸞聖人の教えられた”二河白道の譬えでは、

この人、すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに、東の岸の群賊等喚ばひていはく、〈きみ回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。かならず死せんこと疑はず。われらすべて悪心あつてあひ向かふことなし〉と。この人、喚ばふ声を聞くといへども、またかへりみず、一心にただちに進んで道を念じて行けば、

(現代語訳)

この人は、もはや、こちらの岸から<行け>と勧められ、向こうの岸から<来るがよい>と喚ばれるのを聞いた以上、その通りに受けとめ、少しも疑ったり恐れたり、またしりごみしたりもしないで、ためらうことなく、道をたどってまっすぐ西へ進んだ。そして少し行った時、東の岸から、盗賊などが、<おい、戻ってこい。その道は危険だ。とても向こうの岸までは行けない。間違いなく死んでしまうだろう。俺たちは何もお前を殺そうとしているわけではない>と呼ぶ。しかしこの人は、その呼び声を聞いてもふり返らず、わき目もふらずにその道を信じて進み、

です。
譬えの解説部分では、

〈あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚び回す〉といふは、すなはち別解・別行・悪見の人等、みだりに見解をもつてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失すと説くに喩ふるなり。

(現代語訳)

<少し行くと盗賊などが呼ぶ>というのは、本願他力の教えと異なる道を歩む人や、間違った考えの人々が、<念仏の行者は勝手な考えでお互いに惑わしあい、また自分自身で罪をつくって、さとりの道からはずれ、その利益を失うであろう>とみだりに説くことをたとえたのである。

です。
絶対の幸福と言えるような特別な境地の幸福感が獲られるのではなく、親鸞会的に言うなら、信心が金剛の心になったということを例えられただけです。
その証拠にこの二河白道の譬えの前に

この心、深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。

(現代語訳)

この心は金剛のようにかたい信であるから、本願他力の教えと異なるどのような人々によっても、乱されたり砕かれたりすることはない。

とありように、信心が「動乱破壊」されないことを説明する譬えなのです。重要なのは「信心が」です。「信心以外のことが」「動乱破壊せられず」ではありません。

話を戻しますと「無碍の一道」に出た人の説明だと高森会長が言っている「信心の行者」とは、要するに、「深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。」のことであって、大安心大満足というような、特殊な幸福感とは異質のものだと言うことです。

信心の内容が理解できないでいる高森会長にはチンプンカンプンで、会員には頭が混乱する内容かもしれませんので、まとめると、

『歎異抄』第7条の「何物も障りとならない」とは信心についてのことであって、他のことについては障りだらけで、信のない人と何も変わらない

ということです。

引用の根拠が殆どない『なぜ生きる』を、膨大な引文で埋め尽くされた『教行信証』と同列に考えるようなオカルトチックな感覚では、根拠を多用する当ブログ自体を理解できなくて当然でしょうが、信後の境地とはこういうことです。

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2017年5月 9日 (火)

”親鸞聖人の教えられた二河白道の譬え”から見る絶対の幸福

最近の親鸞会は、やたらと絶対の幸福を強調しています。大学の新入生を含めた非会員を意識しているのでしょうが、創価学会からのパクリ用語を未だに平気で使っているのですから、そのぶれない信念は尊敬に値します。
その絶対の幸福は、信後の境地として高森顕徹会長は説明していますが、親鸞聖人が信後の境地について教えられた話は、二河白道の譬えです。正確には善導大師の創られた譬え話ですが、5年前の講師部講義で、高森会長は突然に奇想天外な珍説を披露しました。

善導大師が、二河白道の譬えで「自力」だと教えられた「白道」を、親鸞聖人は「他力」と読まれた

その内容は、平成25年2月号の『顕真』にも紹介されています。
善導大師と親鸞聖人の教えられ方が違うと説明していることが間違いであることは、言うまでもありませんが、注目すべきは、

「白道」は、親鸞聖人が他力として教えられていることを高森会長が認めた

という事実です。
つまり、信後どのような境地になるのかを親鸞聖人が説明されたのが、二河白道の譬えだということになります。

したがいまして、二河白道の譬えを読めば、信後の境地である絶対の幸福なるものの本質が判る筈です。

”親鸞聖人の教えられた二河白道の譬え”では、水の河と火の河に挟まれ、二河の波のために細い細い白道が隠されて、旅人がなかなか進めない状態です。

念のため、『教行信証』信巻では

一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし、南北辺なし。まさしく水火の中間に一つの白道あり、闊さ四五寸ばかりなるべし。この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿す。その火焔(焔、けむりあるなり、炎、けむりなきほのほなり)また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなけん。

(現代語訳)

一つは火の河で南にあり、もう一つは水の河で北にある。その二つの河はそれぞれ幅が百歩で、どちらも深くて底がなく、果てしなく南北に続いている。その水の河と火の河の間に一すじの白い道がある。その幅はわずか四、五寸ほどである。水の河は道に激しく波を打ち寄せ、火の河は炎をあげて道を焼く。水と火とがかわるがわる道に襲いかかり、少しも止むことがない。

です。
ここは白道に乗る前の表現ですが、白道に乗った後も、この状態は変わっていませんので、親鸞聖人は『一念多念証文』で親鸞会でも有名な次の説明をされています。

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。
かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず安楽浄土へいたれば

白道に乗って白道を歩んでいる人のことを「無明煩悩われらが身にみちみちて…」と仰り、これが信後の境地と親鸞聖人が教えられている明確な根拠です。

では、高森会長の言う絶対の幸福とは、煩悩が身にみちみちて悩み煩い苦しんでいることをいうのなら辻褄があいますが、そんなつもりは毛頭ないでしょう。
要するに、絶対の幸福なんてものは、親鸞聖人の教えにはあり得ないものなのです。

次回は無碍の一道について、述べますので、高森会長も講師も会員も焦らず、まずはじっくり”親鸞聖人が他力で教えられた”二河白道の譬えを読んでみましょう。

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