2018年4月 8日 (日)

嘘体験至上主義の与太話を60数年し続けてきた高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話も、よく判らない与太話でした。会員は理解できないことを、不可称不可説不可思議だから仕方がないと思っているのでしょうが、話自体が竜頭蛇尾、支離滅裂の妄想だから最初から最後まで理解などできるわけがないのです。

具体的には、

大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わるとは、どう変わるのでしょうか

という質問に対しての珍問答でした。

最初に、『歎異抄』第1条を出して

罪悪深重の私であったと判るまで聞く

と言っていましたが、見当違いです。

『散善義』で善導大師は

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、 心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

(現代語訳)

わが身は、 無始よりこのかた、 他のものと同時に、 発願し、 悪を断ち、 菩薩の道を行じたのに、 他のものはことごとく身命を惜しまず、 修行して位を進め、 因が円満し、 果が成就して、 聖者の位を証した。 その数は、 大地を微塵にくだいたよりもなお多い。 しかるに、 われら凡夫は過去より今日に至るまで、 いたずらに流転して、 煩悩の悪障が次第にますます多くなり、 福徳智慧のきわめて少ないことは、 重昏をもって明鏡に望むがようである。 今このことを考えると、 どうして心驚き悲しまずにおられようか。

と仰っています。

善導大師のように聖道門の修行に真剣に取り組まれた方がこのように仰っているのです。諸善はできてもその程度ではとてもではないが罪悪深重で出離などできないと知らされ嘆かれているのですが、あくまで聖道門で出離ができると思っていた人の嘆きです。では我々はどうかと言えば、聖道門の修行などできるとも思っていませんから、出離できるとは最初から思いもしません。
つまりは、聖道門で出離を目指している人はそこそこの善ができて、罪悪深重と思っていないので、そんな善人が18願で救われるには罪悪深重で出離できない者と知らされる必要はあっても、我々のような底下の者は、今更罪悪深重と判る意味がないです。
要するに、聖道門で出離できない者と判っているかどうかが重要なのであって、それ以上に何を条件としようというのか、全くナンセンスな話です。

また、ガラリと変わるの珍答が前回同様

与韋提等獲三忍

で説明していましたが、これもピントがずれています。
もちろん言葉の上では間違いではないのですが、以前にも言いましたように、三忍を獲たことと、三忍を獲た体験がハッキリするのとは、雲泥の差があります。

もう一度言っておきますと、韋提希が獲信したと高森会長が説明している『観無量寿経』の「除苦悩法」の場面で、韋提希がガラリと変わった体験が、『観無量寿経』にも説かれていないですし、善導大師も親鸞聖人も全く仰っていないのです。それどころか、理論によって、「除苦悩法」の直後に三忍を獲たと善導大師が結論付けられただけであって、「除苦悩法」の直後に韋提希が三忍を獲たという直接の証拠になるものはどこにもないのです。

念のため、韋提希が「除苦悩法」の直後に三忍を獲ていないと主張したいのではなく、三忍を獲たこと自体が曖昧にしか表面に現われてこないのが現実だということです。

更には、高森会長は三忍を獲て幸せな人生にガラリと変わるのだと言っていても、それ以上の具体的な話を高森会長はしません。なぜなら、高森会長自身が幸せな人生に変わっていないからです。一般の人が旨いと思える食事では薄過ぎて不味いと怒りだし、損をしたと公認会計士を呼び出して叱り付け、僧籍を奪った本願寺憎し、トップになれなかった華光会を妬み、かつての弟子であった退会者からの非難に怯えまくる高森会長が幸せであろうはずがないです。

結局のところ、体験もしていないことを体験したかのように装い、誰も体験できない架空の話を60数年もしてきたのですから、高森会長の与太話は根拠のない体験至上主義というより、嘘体験至上主義とでもいうべきでしょう。

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2018年4月 5日 (木)

高森顕徹会長が味わった最大の屈辱

mixiでの三願転入の法論について質問された方がありましたので、簡単に説明しておきます。

今から8年前の3月末から、mixi上で親鸞会と退会者による法論が展開されました。結果は、親鸞会の大惨敗で、単なる沈黙逃亡だけでなく、法論の記録自体をトピック管理人であった親鸞会会員に命じて消し去るということまでしました。

親鸞会の法論の歴史上、自他共に認めざるを得ない親鸞会最初の敗北でした。尤も、それまでの法論も親鸞会は議論で負けてはいたのですが、相手が呆れていなくなってから、勝った勝ったと騒ぎ続けて、親鸞会の勝利と宣伝してきたことが大半でしたので、親鸞会が法論に勝ち続けていたというのはフェイクニュースです。勝利を偽装できない程の屈辱的な敗北で、高森顕徹会長は荒れに荒れたことでしょう。

この法論の主題は、三願転入なる教えについてでした。親鸞会側の直接の相手は、講師部のこうへい氏でした。こうへい氏は、他の布教使や同行の間違いを徹底的に正してきた真宗学に極めて詳しいヒーローとしてmixiの中で扱われてきました。その自信と勢いそのままに三願転入の教えを布教してきたのですが、それを完膚無きまでに叩きのめされ、一矢も報いることもできずに、こうへい氏はmixiから姿を消しました。もちろん、こうへい氏を使って高森会長が退会者と対峙していたのは、隠しようのない事実でした。

この三願転入の法論の内容を消し去ったとはいいながらも、途中途中で保存してありますので、記録が残っていない訳ではありませんが、それを公開すると親鸞会お得意の法的手段に訴えてくるでしょうから、公開しないだけです。

当時の内容は、当ブログで取り上げていますので、それを御覧になられれば、概要は理解できると思います。

それをまとめたものは

ですので、興味のある方はこちらを見てください。

このmixiでの大惨敗を知った会員が続々退会したものの、為す術もなかったのですが、私が煽りに煽った結果、『なぜ生きる2』という高森会長の最高傑作を出版するに至ったのです。『なぜ生きる2』は、mixiでの法論の内容そのままです。進歩も発展も勉強もしていない駄作です。

現在の親鸞会において、『なぜ生きる2』がどんな位置にあるかを見れば、高森会長の後悔の念がひしひしと伝わってきます。

mixiでの法論で、最初から最後まで一貫していた問題は、

  • 親鸞聖人が三願転入の教えなるものを教えられた根拠
  • 親鸞聖人が19願を勧められた根拠

でした。

共にないのでこうへい氏は話題を逸らしますが、それをさせませんでしたので、三願転入なる教えは、親鸞聖人の教えではないし、親鸞聖人は19願を勧められてもいないことが証明されてしまったのです。

簡単に言うとこれだけの内容です。

宿善とか方便とかいろいろと言い訳をしても全て論破されて、何一つ言い返すことができない無様な姿を曝しただけでした。

そんな無知の高森会長を信じている会員の哀れさには、嘆息しかでないです。

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2018年3月17日 (土)

退会者からの非難に怯え、更なる退会者続出にも指を咥えて見ているだけの親鸞会

予想されたことですが、最近は退会者が続出しているそうで、大変良い傾向です。朝令暮改ならぬ朝令朝改で、ころころ方針も教義も変わり、今が辞め時と思う会員が増えるのも当然なことです。

ちなみに、当ブログを含む親鸞会批判ブログを読んでいる会員は、結構いるようです。批判サイトやブログを見るな、と言うだけで何一つ反論しないのですから、会員に疑念を起こさせる方針だということに気が付かないところが、独裁者らしい思考です。

さて今から6年前、こんなエントリーを書きました。

書面で法論を申し込んだら、”検討する”だそうです

その後、連絡もなく、内輪でのみ反論したように偽装しただけです。

昨日、ある集まりに、弘宣局長とK講師、他2名の講師部員が乗り込んできて、親鸞会の邪義を喚き散らしていったそうです。その際に、私が弘宣局に書面で正式に法論を申し込めば、検討する、と弘宣局長は言っていたそうです。

そこで本日、法論申し込みの書面を書留で送付しました。それに加えて以下のメールも送っておきました。

W 様


御無沙汰しております、○○です。
昨日の件は、聞いております。法論の申し込みを書面でせよ、とのことですので、本日申し込みの書面を書留で送りました。
内容は以下の通りです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
              法論の申し込み
                            平成24年3月18日
弘宣局長 W 様

御無沙汰しております、○○です。

昨年、K講師を通して、法論を申し込みましたが無視されました。
しかしその件で、「弘宣局に直接法論を申し込むように」と貴方が言われたそうですので、ここに書面をもって法論を正式に申し込みます。

法論の条件は、

1.法論の土俵はお聖教であり、お聖教にない文底秘沈のような主張はしない
2.文章でやりとりをする
3.法論の場は、以下とする
  mixi内の信仰と対話コミュニティ*「三願転入」議論継続トピック*
  
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=53217382&comm_id=2135313
4.相手の質問に対して質問で返さず、相手の質問に答えてから新たな質問をする

以上の4点です。

かつて親鸞会は公約していた筈です。

「親鸞会は公約しています。親鸞会の主張に対して異議、反論のある方は遠慮なく申し出てください。相手が集団であれ、個人であれ、公開であれ、非公開であれ、討論であれ、文書討論であれ、相手の希望される方法で、時と場所を問わず、本当の親鸞聖人のみ教えを開顕するために、喜んで対決に応じます。」

これが口先だけであったとは、言わせません。

私の主張は、「親鸞会教義の誤り」「飛雲」「親鸞会の邪義を正す」等のブログで書かれている通りです。一読された上で、法論に臨んで頂きたいと思います。
親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張との相違点を以下に列記しておきます。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

なお、法論に応じられても応じられなくても、返事を頂いても頂かなくても、すべて公開しますので、御了承ください。
                                           ○○○○
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

mixiでの三願転入の法論は、親鸞会の逃亡とトピック削除で幕を閉じましたが、とりあえずその続きをしたいと考えております。

なお、上に挙げたブログをすべて読まれるのは大変でしょうから、最低限、添付ファイルのところだけでも読んでおいて頂けませんでしょうか。

目的は親鸞聖人のみ教えを開顕するためですので、よいお返事をお待ちしております。

○○○○

法論の実現も、返事も期待しておりませんが、万が一法論が実現すれば、また退会者が増える縁になるでしょうから、喜ばしいことです。

親鸞会は、私を相手にしていないのではありません、相手にして酷い目に遭った経験があるから、怯えて逃げに逃げ回っているのです。

後日、上記の項目に追加して、その解説もしてありますので、以下を会員は是非とも読んで、高森顕徹会長の嘘を知って退会しましょう。

浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?

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2018年3月11日 (日)

真実あること無しの話をするしか能のない高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話は、

「煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もって空事・たわごと・真実あること無し」について

という質問に答える形でした。いつもいつも同じ話だという、退会者からの嘲笑に堪え切れずに、質問の内容を変えたのでしょう。
何度も言っていますが、高森会長は単純ですので、煽るとすぐに反応します。信念もなく忍耐もできない性格なのです。

さて、これは『歎異抄』の後序にある親鸞聖人が仰ったとされるお言葉の一節ですが、肝心要の後のお言葉が抜けています。

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします

お判りの方もあるでしょうが、これは二種深信の内容と同じです。
二種深信とは、善導大師の『散善義』を『教行信証』信巻に引かれてある

一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。

で、親鸞会の会員でも知っている有名な御文です。
ところが言葉を換えられて、親鸞聖人はもう一つの表現を引かれています。

自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。
いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。

これは『教行信証』の行巻と信巻に2回も引かれていますので、親鸞聖人が極めて重要視されたお言葉と言えます。
比較のために『歎異抄』のお言葉と並べてみます。

まずは機の深信から。

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき

自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし

自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でず

同じ内容です。

高森会長は、汝自身を知れ・名利の二艘・蜘蛛の糸などの話をして、得意の絶頂であったようですが、それが実に薄っぺらい内容だということが、ここからも判ります。「煩悩具足の凡夫」が因で、「出離の縁あることなし」「三界に流転して火宅を出でず」が果になることが重要なのです。

これに法の深信の

ただ念仏のみぞまこと

かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得

いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむ

が対句になるのです。「さだめて往生を得」という果の因は何になるのかは言うまでもなく、「ただ念仏のみ」「かの願力に乗じて」「名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで」です。

以上を簡単に言うなら、

煩悩具足の凡夫」だから「出離の縁あることなし」なので、「ただ念仏のみ」で「さだめて往生を得

なのです。

ついでに言っておきますと、高森会長は一番の極悪人の私を救うのが弥陀の本願と言っていましたが、機の深信には「善根薄少にして」とあって、「善根有ること無し」となっていないのです。善導大師が悪人として定義されているのは、『玄義文』の

仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。

ですから、一番の極悪人などと善導大師は知らされたのでもないし、それを引かれている親鸞聖人も一番の極悪人だとは思われていなかったでしょう。

薄っぺらい内容に加えて、実際とは異なる自己の機を無理やり知らされる必要があるというヘンテコ理論を聞いて、会員は何一つ得るもののない無駄な一日を過ごしただけです。

会員は、金と時間と体力を消耗して、「みなもつてそらごとたはごと、まことあることなし」の高森会長の話をいつまで聞こうというのでしょうか。

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2018年2月25日 (日)

親鸞聖人は法然上人の教えを聞いて救われた、と言いながら法然上人の教えを完全否定する高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話は、『歎異抄』第二条についてでした。
親鸞聖人がおられた京都まで、関東の同行が訪ねにきた際に、親鸞聖人が仰った

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。

を出して、親鸞聖人は法然上人から教えを聞いて救われたのだということを強調していました。
ということは、法然上人の教えを聞くことで、親鸞聖人と同じように救われることができるはずですので、法然上人の教えられたことを語るのが筋でしょうが、その話はありませんでした。
法然上人の教えられたことを話をしたら、高森会長の教えがひっくり返るからです。

法然上人の『選択本願念仏集』に何が書かれてあるかは、少しでも日本の仏教について知識があるなら、超常識ですが、念仏一行、唯念仏を称えて往生できるということです。

そのお言葉を挙げるときりがないのですが、代表的なものを紹介すると、

諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説くといふは、善導の『観経疏』(散善義)のなかに、「上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」といふ釈の意に准じて、しばらくこれを解せば、上輩のなかに菩提心等の余行を説くといへども、上の本願(第十八願)に望むるに、意ただ衆生をしてもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。
しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」といふ。

(現代語訳)

諸行を廃して念仏に帰せしめるために諸行を説くというのは、善導の《観経疏》の中に、
《観経》の初めから、定善・散善の両門の利益を説いてきたけれども、阿弥陀仏の本願に望めてみると、世尊の思し召しは、人々をして一向に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあるのである。
といわれた釈の意に準じて、しばらくこれを解釈すると、上輩の中に菩提心などの余行を説かれているけれども、上の本願に望めてみると、世尊の思し召しはただ衆生をして専ら阿弥陀仏の名号を称えさせるにある。ところが、本願の中に更に余行はない。三輩共に上の本願に依るから「一向に専ら無量寿仏を念ずる」と説かれているのである。

とありますし、また

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
例するに『法華』の三説の上に秀でたるがごとし。もし三説なくは、なんぞ『法華』第一を顕さん。ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。

(現代語訳)

また定・散の諸行を説くことは、念仏がその他の善に超え勝れていることを顕わすためである。もし定散の諸行がなかったならば、どうして念仏が特に秀でた行であることを顕わされようか。例えば《法華経》が、それ以前の説、同時の説、それ以後の説の三説の上に秀でているようなものである。もし三説がなかったならば、どうして《法華経》が第一に秀でていることを顕わされようか。ゆえに今、定散の諸行はこれを廃するために説き、念仏三昧はそれを立てるために説かれるのである。

と教えられています。

このように諸善を廃して念仏を立てることを仰っています。諸善を捨てて唯念仏を称えなさい、これが法然上人の一貫した教えです。もちろん法然上人は三心を具した念仏、つまり他力念仏を勧められていることは当然ですが、三心を具していない念仏、つまり自力の念仏も法然上人は勧められています。これは常識ですから、根拠は要らないかもしれませんが、高森会長も、親鸞会の会員も、本当に何も知りませんので、一応根拠を挙げておきます。

『十二箇条問答』

浄土を欣えどもはげしからず、念仏すれども心のゆるなることを嘆くは往生のこころざしのなきにはあらず。こころざしのなき者はゆるなるを嘆かずはげしからぬをも悲しまず。
急ぐ道には足の遅きを嘆く、急がざる道にはこれを嘆かざるがごとし。
また好めばおのずから発心すと申す事もあれば、漸漸に増進して必ず往生すべし。

日ごろ十悪五逆を造れる者も臨終に初めて善智識に遇いて往生する事あり。いわんや往生を願い念仏を申して我が心はげしからぬことを嘆かん人をば仏も哀れみ菩薩も護りて、障を除き知識に遇いて往生を得べきなり。

『念仏往生義』

また念仏すれども心の猛利ならざる事は末世の凡夫のなれる癖なり。その心の内にまた弥陀を憑む心のなきにしもあらず。
譬えば主君の恩を重くする心はあれども、宮仕する時いささか物憂き事のあるがごとし。
物憂しといえども恩を知る心のなきにはあらざるがごとし。
念仏にだにも猛利ならずば、いずれの行にか勇利ならん。いずれも猛利ならざれば、なれども一生空しく過ぎば、その終わりいかん。
たとい猛利ならざるに似たれども、これを修せんと思う心あるは、こころざしの験なるべし。
「好めばおのずから発心す」という事あり。功を積み徳を累ぬれば時々、猛利の心も出で来るなり。始めより、その心なければとて空しく過ぎば、生涯徒に暮れなん事、後悔先に立つべからず。

未信の人に対して、自力の念仏を励むように勧められています。信前に、諸善を廃して念仏を立てなさいと、法然上人は仰っています。

まとめると、法然上人は

信前において諸善を捨てて自力でも唯念仏を称え続けなさい、そうすれば必ず往生できる

と教えられた方です。

唯念仏を称えなさい

これを完全否定しているのが、高森会長です。

金集め人集めを目的として、捨てなさいと法然上人が強調された諸善をさせて自力の念仏を蔑ませている高森会長の教えを聞いて、親鸞聖人と同じ救いにあずかる道理がありません。

会員は、法然上人の教えを知りましょう。

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2018年2月11日 (日)

『観経』も『観経疏』も『教行信証』も全く読んだことがないから韋提希の話を創作するしかない高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話は、毎度毎度の

大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わるとは、どう変わるのでしょうか

という質問に対して答える内容でした。

ただし、本日は久しぶりに王舎城のアニメを使って話をしました。韋提希が獲信して三忍を獲て、ガラリと変わったと示したかったようですが、ここでも高森会長の無知が明白です。

まず『観無量寿経』を読んでみれば判りますが、韋提希がどこで獲信したのか明確ではありません。

釈尊が華座観を説かれる前に決まっている

と高森会長と愉快な仲間達は反論するでしょうが、そこには

仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「あきらかに聴け、あきらかに聴け、よくこれを思念せよ。仏、まさになんぢがために苦悩を除く法を分別し解説すべし。なんぢら憶持して、広く大衆のために分別し解説すべし」と。
この語を説きたまふとき、無量寿仏、空中に住立したまふ。観世音・大勢至、この二大士は左右に侍立せり。光明は熾盛にしてつぶさに見るべからず。百千の閻浮檀金色も比とすることを得ず。
ときに韋提希、無量寿仏を見たてまつりをはりて、接足作礼して仏にまうしてまうさく、「世尊、われいま仏力によるがゆゑに、無量寿仏および二菩薩を観たてまつることを得たり。未来の衆生まさにいかんしてか、無量寿仏および二菩薩を観たてまつるべき」と。

(現代語訳)

釈尊はさらに阿難と韋提希に仰せになった。
「 そなたたちは、わたしのいうことをよく聞いて、深く思いをめぐらすがよい。わたしは今そなたたちのために、苦悩を除く教えを説き示そう。そなたたちはしっかりと心にとどめ、多くの人々のために説きひろめるがよい 」
釈尊のこのお言葉とともに、無量寿仏が突然空中に姿を現してお立ちになり、その左右には観世音、大勢至の二菩薩がつきそっておられた。その光明はまばゆく輝いて、はっきりと見ることができない。黄金の輝きをどれほど集めても、そのまばゆさにくらべようもなかった。ここに韋提希は、まのあたりに無量寿仏を見たてまつることができのたで、釈尊の足をおしいただき、うやうやしく礼拝して申しあげた。
「 世尊、わたしは今世尊のお力によって、無量寿仏と観世音・大勢至の二菩薩を拝ませていただくことができましたが、世尊が世を去られた後の世の人々は、どうすれば無量寿仏とその菩薩がたを見たてまつることができるでしょうか 」

とあるだけです。韋提希が三忍をここで獲たとか、韋提希がガラリと変わったという表現は一切ありません。
『観無量寿経』の中で、韋提希が三忍を獲たと言えそうな表現のある箇所は、釈尊が韋提希に諸仏の浄土を見せられて定善を説かれる前に

かの国土の極妙の楽事を見て、心歓喜するがゆゑに、時に応じてすなはち無生法忍を得ん

(現代語訳)

そしてその国土のきわめてすぐれたすがたを見て、心は喜びに満ちあふれ、そこでただちに無生法忍を得るであろう

と仰った箇所と、下品下生まで釈尊が説き終わられた後の

仏身および二菩薩を見たてまつることを得て、心に歓喜を生じて未曾有なりと歎ず。廓然として大悟して無生忍を得たり。

(現代語訳)

さらに阿弥陀仏と観世音・大勢至の二菩薩を見たてまつることができて、心から喜び、これまでにはない尊いことであるとほめたたえ、すべての迷いが晴れて無生法忍のさとりを得た。

です。この『観無量寿経』の表現に対して、韋提希が三忍(無生忍)を獲たのは華座観を説かれる前だと解釈されたのが、善導大師です。その理由については、長くなるのでここでは述べませんが、皆さんの関心事は親鸞聖人がどう仰っているかでしょう。

実は親鸞聖人はそのことについて仰っていません。それどころか、定善を説かれる前に釈尊が仰った「かの国土の極妙の楽事を見て、心歓喜するがゆゑに、時に応じてすなはち無生法忍を得ん」を解釈された善導大師の『序分義』を『教行信証』信巻に引かれて、

またいはく、「心歓喜得忍といふは、これは阿弥陀仏国の清浄の光明、たちまちに眼の前に現ぜん、なんぞ踊躍に勝へん。この喜びによるがゆゑに、すなはち無生の忍を得ることを明かす。また喜忍と名づく、また悟忍と名づく、また信忍と名づく。これすなはちはるかに談ずるに、いまだ得処を標さず、夫人をして等しく心にこの益を悕はしめんと欲ふ。勇猛専精にし心に見んと想ふときに、まさに忍を悟るべし。これ多くこれ十信のなかの忍なり、解行以上の忍にはあらざるなり」と。

(現代語訳)

また『観経疏』にいわれている(序分義)。
「『観無量寿経』に、<心が喜びに満ちて無生法忍を得る>と説かれているが、これは阿弥陀仏の浄土の清浄な光明がたちまち目の前に現れると、踊りあがるほどの喜びに満ちあふれ、その喜びによって、無生法忍を得るということを明かされるのである。この無生法忍を喜忍ともいい、悟忍ともいい、信忍ともいう。『観無量寿経』の序分では、まだそれがどこで得られるかということをはっきりとあらわさず、ただ韋提希などにこの利益を願わせようとされるのである。心を励ましてただひとすじに、自らの心のうちに仏を見たてまつろうとするとき、まさしくこの無生法忍を得るのである。だから『観無量寿経』に説かれる無生法忍は、凡夫の位で得るものであって、高位の菩薩が得るものではない」

とあるだけです。『観無量寿経』を直接引かれることもなく、高森会長の大好きな「除苦悩法」の場面の言及さえもありません。

私がここで言いたいのは、韋提希の獲信の時がいつかという話ではなく、韋提希が獲信して三忍を獲ても、ガラリと変わったと釈尊も善導大師も親鸞聖人も仰っていないということです。

三忍を獲たのだからガラリと変わったということに決まっている!

と浅知恵の高森会長と愉快な仲間達は反論するでしょうが、親鸞聖人が御自身のお言葉で三忍について言及されたのは信巻の、これまた高森会長の大好きなお言葉の後です。

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。ゆゑに便同といふなり。しかのみならず金剛心を獲るものは、すなはち韋提と等しく、すなはち喜・悟・信の忍を獲得すべし。

(現代語訳)

いま、まことに知ることができた。弥勒菩薩は等覚の金剛心を得ているから、竜華三会のときに、この上ないさとりを開くのである。念仏の衆生は他力の金剛心を得ているから、この世の命を終えて浄土に生れ、たちまちに完全なさとりを開く。だから、すなわち弥勒菩薩と同じ位であるというのである。そればかりでなく、他力の金剛心を得たものは、韋提希と同じように、喜忍・悟忍・信忍の三忍を得ることができる。

学術論文である『教行信証』を体験記と見做す体験至上主義の高森顕徹会長

でも述べましたが、これは、親鸞聖人の学術的な理論なのです。ガラリと変わった体験を仰ったものではありません。

頭の鈍い高森会長と愉快な仲間たちのために、もっとはっきり言うと、自力から他力へと信心はガラリと変わっても、私たちの心も幸福もガラリとは変わらないのです。阿弥陀仏にすべておまかせをしたという点においてのみ、変わるだけです。

以上は真宗の教えについてですので、絶対の幸福と言う創価学会の信心を獲た高森会長には関係のない話です。創価学会の信心を獲たい人は創価学会に行った方が早いでしょうが、親鸞聖人と同じ他力の信心を獲たいのなら、創価学会亜流の親鸞会を直ちに捨てましょう。

なお、真宗の本尊についても高森会長はこんなことを言っていました。

親鸞聖人も蓮如上人も、絵像・木像を本尊にされたことはない

これが間違いであることは、遠の昔に本願寺から指摘されて反論できないことなのですが、どこどこまでも恥知らずですね。以下を参照。

「真宗の本尊について」山田行雄著

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2018年1月26日 (金)

愉快な信心の高森顕徹会長と愉快な仲間たち

絶対の幸福という創価学会パクリ信心を正当化するために、高森顕徹会長が最近よく使う根拠が、『正信偈』の

譬如日月覆雲霧 雲霧之下明無闇

です。
この意味についての解釈が、いつものように面白いです。

雲や霧がどんなに天を覆っていても、日光で雲霧の下は明るいように、欲や怒り、妬みの煩悩いっぱいあるがままで、心は浄土に遊んでいるように明るく愉快である

1月15日号の顕正新聞にこのようにありますから、高森会長の解釈で間違いないです。これが絶対の幸福の境地だということなのでしょうが、創価学会の信心ではあっても真宗の信心とは無関係です。

高森会長は知らないでしょうが、親鸞聖人は『尊号真像銘文』でこの解説をなされています。

「譬如日月覆雲霧雲霧之下明無闇」といふは、日月の、雲・霧に覆はるれども、闇はれて雲・霧の下あきらかなるがごとく、貪愛・瞋憎の雲・霧に信心は覆はるれども、往生にさはりあるべからずとしるべしとなり。

往生にさわりがないことを譬えられたのであって、心が明るく愉快な状態になることではありません。
往生にさわりがなくなる譬えが二河白道の譬喩です。この譬えにおいて、信前と信後で何が変わったのかと言えば、白道に乗ったか乗らないかの違いだけです。煩悩を譬えられた水と火の勢いも白道を潤し焼いているのも変わっていませんし、白道の長さも幅も変わっていません。親鸞聖人の譬えの雲と霧を二河白道の譬喩で言い換えるなら

貪愛・瞋憎の水・火に信心は覆はるれども、往生にさはりあるべからずとしるべしとなり。

です。明るく愉快になるという内容は、二河白道の譬喩にも全くありません。

それでも苦し紛れで高森流ヘンテコ理論の反論があるでしょうから、その反論を論破する根拠を出しておきます。それは同じ『尊号真像銘文』のこの前にある

「摂取心光常照護」といふは、信心をえたる人をば、無碍光仏の心光つねに照らし護りたまふゆゑに、無明の闇はれ、生死のながき夜すでに暁になりぬとしるべしとなり。「已能雖破無明闇」といふは、このこころなり、信心をうれば暁になるがごとしとしるべし。

です。「無明の闇はれ、生死のながき夜すでに暁になりぬとしるべし」「信心をうれば暁になるがごとしとしるべし」です。「」で明るさを表現なされていますが、「」とは夜中の漆黒の闇からほんのり明るくなった状態のことを言います。

『デジタル大辞泉』(小学館)では、

1 太陽の昇る前のほの暗いころ。古くは、夜半から夜の明けるころまでの時刻の推移を「あかつき」「しののめ」「あけぼの」と区分し、「あかつき」は夜深い刻限をさして用いられた。夜明け。明け方。

2 待ち望んでいたことが実現する、その際。「当選の暁には」

とあります。ここでは1の意味です。
夜深く仄暗い時を指します。ただし、街路灯や住宅、店などの照明が夜中でも消えない状態しか知らない現代の日本人には理解しにくいかもしれませんが、親鸞聖人の時代の夜は、月が見えないと漆黒で明かりがないに等しいのです。現代でそれを再現するには、窓のない部屋で照明を消した状態でしょう。そこにドアの隙間から光が洩れたような状態が「暁」です。明るさといっても、その程度のものであり、昔高森会長がよく言っていたような日本晴れの心とは程遠い明るさです。
高森会長の信心である絶対の幸福は、明るく愉快な心だそうで、子供だましの煩悩のレベルです。

高森会長の愉快な信心に付き合っている会員は、哀れ哀れです。

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2018年1月19日 (金)

「正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。」が絶対に理解できない高森顕徹会長

会館建設による搾取システムも限界が見え始め、新規会員獲得による錬金術を模索している親鸞会ですが、思うように成果があがっていません。親鸞会の情報は至る所にありますので、訳の判らない行事を催しても、主催が親鸞会だとすぐに察知されて逃げられているのが実情です。

さて、高森顕徹会長を筆頭とする異安心集団では、親鸞聖人の教えの基本も基礎も根本も全く判っていないので、お笑い教義となっていますが、親鸞会に毒された会員と退会者が混乱している最大の要因は、念仏と信心との関係でしょう。
これまでに、何十回もこのことについては根拠を挙げて述べてきましたが、今までとは少し違う根拠で説明したいと思います。

親鸞聖人は『尊号真像銘文』で法然上人のお言葉を説明されています。少し長いですが、このように仰っています。

 『選択本願念仏集』といふは、聖人(源空)の御製作なり。「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。
 またいはく、「夫速欲離生死」といふは、それすみやかに疾く生死をはなれんとおもへとなり。「二種勝法中且閣聖道門」といふは、「二種勝法」は、聖道・浄土の二門なり。「且閣聖道門」は、「且閣」はしばらくさしおけとなり、しばらく聖道門をさしおくべしとなり。「選入浄土門」といふは、「選入」はえらびていれとなり、よろづの善法のなかに選びて浄土門に入るべしとなり。
「欲入浄土門」といふは、浄土門に入らんと欲はばといふなり。「正雑二行中且抛諸雑行」といふは、正雑二行二つのなかに、しばらくもろもろの雑行をなげすてさしおくべしとなり。「選応帰正行」といふは、選びて正行に帰すべしとなり。「欲修於正行正助二業中猶傍於助業」といふは、正行を修せんと欲はば、正行・助業二つのなかに助業をさしおくべしとなり。「選応専正定」といふは、選びて正定の業をふたごころなく修すべしとなり。「正定之業者即是称仏名」といふは、正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。 「称名必得生依仏本願故」といふは、御名を称するはかならず安楽浄土に往生を得るなり、仏の本願によるがゆゑなりとのたまへり。
 またいはく、「当知生死之家」といふは、「当知」はまさにしるべしとなり、「生死之家」は生死の家といふなり。「以疑為所止」といふは、大願業力の不思議を疑ふこころをもつて、六道・四生・二十五有・十二類生[類生といふは一、卵生 二、胎生 三、湿生 四、化生 五、有色生 六、無色生 七、有相生 八、無相生 九、非有色生 十、非無色生 十一、非有相生 十二、非無相生]にとどまるとなり、いまにひさしく世に迷ふとしるべしとなり。
「涅槃之城」と申すは、安養浄刹をいふなり、これを涅槃のみやことは申すなり。「以信為能入」といふは、真実信心をえたる人の、如来の本願の実報土によく入るとしるべしとのたまへるみことなり。信心は菩提のたねなり、無上涅槃をさとるたねなりとしるべしとなり。

(現代語訳)

『選択本願念仏集』というのは、 法然上人が著された書物である。 「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」 というのは、 安養浄土に往生する正因は本願の念仏を根本とするというお言葉であると知らなければならない。 「正因」 というのは、 浄土に生れて間違いなく仏になる因ということである。
 また 「夫速欲離生死」 というのは、 速やかにはやく迷いの世界を離れたいと思えというのである。 「二種勝法中且閣聖道門」 ということについて、 「二種勝法」 とは、 聖道門と浄土門という二つの法門である。 「且閣聖道門」 というのは、 「且閣」 とはまずさしおけということであり、 聖道門をさしおくがよいというのである。 「選入浄土門」 というのは、 「選入」 とは選んで入れということであり、 あらゆる教えの中から浄土門を選んで入らなければならないというのである。 「欲入浄土門」 というのは、 浄土門に入ろうと思うならということである。 「正雑二行中且抛諸雑行」 というのは、 正行と雑行の二つの中から、 さまざまな雑行を捨ててさしおくがよいというのである。 「選応帰正行」 というのは、 正行を選んでこれに依らなければならないというのである。 「欲修於正行正助二業中猶傍於助業」 というのは、 正行を修めようと思うなら、 正定業と助業の二つの中から、 助業をさしおくがよいというのである。 「選応専正定」 というのは、 正定業を選んでひとすじに修めなければならない。 「正定之業者即是称仏名」 というのは、 正定の因となる行いは、 すなわち阿弥陀仏の名号を称えることであるというのである。 正定の因というのは、 必ずこの上ないさとりを開く因ということである。 「称名必得生依仏本願故」 というのは、 名号を称えると間違いなく安楽浄土に往生することができるのであり、 それは阿弥陀仏の本願のはたらきによるからであるというのである。
 また 「当知生死之家」 ということについて、 「当知」 とはよく知るがよいということであり、 「生死之家」 とは生れ変り死に変りし続ける迷いの世界のことをいうのである。 「以疑為所止」 というのは、 大いなる本願の思いはかることのできないはたらきを疑う心によって、 六道・四生・二十五有・十二類生という迷いの世界にとどまるというのであり、 今に至るまでの長い間このような世界に迷い続けてきたと知るがよいというのである。 「涅槃之城」 というのは、 安養浄土のことをいうのであり、 これは涅槃の都ということである。 「以信為能入」 というのは、 真実信心を得た人は阿弥陀仏の本願に誓われた真実の浄土に往生することができると知るがよいというお言葉である。 信心はさとりを開く因であり、 この上ない涅槃に至る因であると知るがよいというのである。

いわゆる三選の文と信疑決判ですが、現代語訳を読まれれば文章として難しい内容ではないと思います。念仏一行ということと信心についてまとめられたものですが、ここで注目して頂きたいのが、

「正定之業者即是称仏名」といふは、正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。

信心は菩提のたねなり、無上涅槃をさとるたねなりとしるべしとなり。

です。
仏名をとなふる」という念仏と信心は共に、「無上涅槃のさとりをひらくたね」だと仰っています。最初にも「安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。」とありますので、念仏正因であり、信心正因でもあるということです。

ところが高森会長の元来の教えだと、

必堕の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり

です。流石に最近はそこまでは言っていないようで、

流転の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり

くらいでしょうが。

高森顕徹流の信行両座の諍論を信じていると全く理解できない親鸞聖人のお言葉になります。しかし、念仏と信心との関係が判っていれば簡単な話です。
いつも言っているように、信心とは念仏称えて往生できると深く信じた心のことです。言葉を換えると、念仏一行と心が定まったことを信心というのです。
つまりは、信行両座の諍論とは念仏の行で救われるのか、念仏の信で救われるのかという微妙な設問であったことになります。それで法然上人のお弟子は

そのとき三百余人の門侶みなその意を得ざる気あり。

という状態なったのだと覚如上人は『御伝鈔』で記されたのです。

まとめると、親鸞聖人の教えは

正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。」と深く信じた心が、「無上涅槃をさとるたねなりとしるべし」なのです。

念仏を謗り軽視する高森会長の異安心では、絶対に理解できない内容です。

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2018年1月 9日 (火)

高森顕徹会長の言う因果の道理は無明の闇、疑情そのもの

因果の道理について解説をして欲しいとの要望がありましたので、簡単にまとめておきます。

蓮如上人が「金をほりいだすやうなる聖教なり」とまで絶賛された『安心決定鈔』にはこうあります。

まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。和尚(善導)はこれを「別異の弘願」とほめたまへり。衆生にかはりて願行を成ずること、常没の衆生をさきとして善人におよぶまで、一衆生のうへにもおよばざるところあらば、大悲の願満足すべからず。面々衆生の機ごとに願行成就せしとき、仏は正覚を成じ、凡夫は往生せしなり。

とあります。18願によって報土に往生するということは、「世間・出世の因果のことわりに超異せり」ですので、因果の道理といっても3種類あることになります。

1.世間の因果
2.出世の因果
3.報土の因果

1の世間の因果とは、倫理道徳の因果です。親鸞会的にいうなら、どう生きるかについての因果になります。善い事をすれば善い結果が来ますよ、悪い事をすれば悪い結果が来ますよ、自分のやったことは自分に返ってきますよ、という親鸞会で教えていることとほとんど同じことです。

2の出世の因果は、迷いの世界を出る因果ということで、聖道門で教えられている因果の道理です。1との違いは、目的の違いだけではありません。難しい話を抜きに突き詰めると煩悩によって苦しみがやってきますので、煩悩を滅するというのが最終的な結論になります。これが通仏教でのいわゆる因果の道理になるのですが、親鸞会の因果の道理は、往生成仏という結果だけをみると2らしきことも混ざっているといえます。

しかし、親鸞聖人が教えられたのは3の報土の因果で、これは1でも2でもない全く違う道理になるのです。

『安心決定鈔』にはそれを「まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。」とありますが、本来、往生という果を受けるには「衆生こそ願をもおこし行をもはげむべき」でありますが、衆生はそのような願も行もない状態で、「願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず」なのです。

したがいまして『安心決定鈔』では3の報土の因果を、「世間・出世の因果のことわりに超異せり」と表現なされているのです。

また覚如上人は『改邪鈔』で

しかりといへども、弥陀超世の大願、十悪・五逆・ 四重・謗法の機のためなれば、かの願力の強盛なるに、よこさまに超截せられたてまつりて、三途の苦因をながくたちて猛火洞燃の業果をとどめられたてまつること、おほきに因果の道理にそむけり。もし深信因果の機たるべくんば、植うるところの悪因のひかんところは悪果なるべければ、たとひ弥陀の本願を信ずといふとも、その願力はいたづらごとにて、念仏の衆生、三途に堕在すべきをや。もししかりといはば、弥陀五劫思惟の本願も、釈尊無虚妄の金言も、諸仏誠諦の証誠も、いたづらごとなるべきにや。おほよそ他力の一門においては、釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なりといふは、凡夫の報土に生るるといふをもつてなり。もし因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし。そのゆゑは、たすけましまさんとする十方衆生たる凡夫、因果相順の理に封ぜられて、別願所成の報土に凡夫生るべからざるゆゑなり。

(現代語訳 石田瑞磨著『親鸞全集』より引用)

しかしそうではあっても、いつの世の仏にも見ることができない阿弥陀仏の大願は、十悪・五逆・四重・謗法などの罪を犯すひとのためであるから、阿弥陀仏の願の絶大なはたらきをもって一切の因果を断ち切られ、三つの悪道に堕ちて受ける苦の原因を永遠に断たれて、もえさかる猛火ののようにはげしい悪業の果報を受けないですむならば、それははなはだしく因果の道理に背くわけである。もし「深く因果を信ずる」ものであるためには、前世に植えた悪因が引くものは、悪果でなければならないから、たとい阿弥陀仏の本願を信ずるとしても、そのときは阿弥陀仏の誓いのはたらきも役に立たないし、念仏のひとも三つの悪道に堕ちなければならないのではないか。もしそうだとすれば、阿弥陀仏が五劫という長いあいだ熟思を重ねた末に立てられた本願も、釈尊が真実を示された金言も、所仏が誠をつくして示された証明も、無意味とならなければならないのだろうか。おおよそ他力の教えは、釈尊一代の説法に一度も例がない、通常一般の聖道門の教えとはまったく別のものであって、言語を超絶した、思惟のとどかないものである、といわれるが、それは、愚かなひとが真実の浄土に生れるということから、そういわれるのである。もし因果は相互にめぐりあうという道理にしたがうならば、釈尊と阿弥陀仏と諸仏が骨折られた、他力という、勝れた浄土への特別な教えも空しくなってしまうだろう。その理由は、お助けになろうとする目当てである、生をうけたすべてのものが、因果は相互にめぐりあうという道理にとじこめられて、独自の誓いによってつくられた真実の浄土に生れることができないからである。

と仰っています。

倫理の因果の道理と聖道門の因果の道理に超越し異なった因果の道理だということです。三悪道にいく衆生が、その因果を断ち切られて報土に往生するというのは、「おほきに因果の道理にそむけり」なのです。また「釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なり」と、出世の因果からは「言語道断」とまで言わざるを得ない程の「不思議」なのです。
更には、「もし因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし」と仰っているように、「因果相順の理」とは全く次元の違うのが報土の因果ということになります。

この報土の因果を親鸞聖人は、本願力回向で説明なされました。『教行信証』信巻に

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

(現代語訳)

このようなわけであるから、往生の行も信も、すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。如来より与えられた行信が往生成仏の因であって、それ以外に因があるのではない。よく知るがよい

とあり、この御言葉は、『浄土文類聚鈔』にもあります。

親鸞聖人が教えられた因果の道理とは、衆生が報土往生する因は、100%阿弥陀仏が用意なされたものであるということです。ですから、私の方で何かを付け加えることは不要ですし、付け加えようとすること自体が間違いになるのです。

世間・出世の因果と報土の因果とを同一視していることを親鸞聖人は、無明の闇とか疑情とか仏智不思議を疑う心と仰っているのですから、高森顕徹会長の教えは無明の闇の教えであり、報土往生を完全に妨げる教えです。

親鸞会で教える因果の道理に背かない限りは、報土往生はあり得ないと「知るべし」でしょう。

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2018年1月 6日 (土)

正しい解釈を全くできないで恥を曝し続ける高森顕徹会長

親鸞会と退会者の間で、この10年の間に、百回を越える法論をしてきました。結果は、親鸞会の全敗、退会者の全勝です。別に驚く結果でも何でもありません。当然の結果です。

昔、親鸞会では討論会というものをよく行っていました。あるテーマに対して、2つの主張の側に分かれて、討論をして勝者を決めるというものです。高森顕徹会長の考えでは、真実開顕には討論術が必要だということでした。かつて親鸞会が勝ち続けてきた法論と言われるものは、討論術、詭弁と呆れさせにより、勝ちを演出してきただけでした。

ところが今では、如何なる討論術、詭弁を弄しても、退会者には全く手も足も出ません。討論術、詭弁のレベルが低いからではありません。理由は、聖教を読んでいない、そして知っている僅かな聖教上の御文の解釈も破滅的であるからです。

親鸞会が法論で負けを決定的にする要因の多くが、親鸞会が自信満々に出してきた聖教上の根拠の解釈を退会者によってひっくり返されることです。

退会者はこのことを知っていますから、親鸞会に法論で勝つことは赤子の手を捻るほど容易いのです。退会者がちょっと隙を見せて親鸞会に突っ込ませると、見事に術中にはまり上から目線で根拠を出してきて墓穴を掘ってすぐに終わりです。

さて、先日の高森会長の話では、『正信偈』の

譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇

を出して、恥を曝しています。「」が晴れたのを絶対の幸福と高森会長は説明していますが、「」の意味が良く判っていないのです。高森会長は、「」とは、「後生暗い心」「死に向かったら真っ暗になる心」と信じているようですが、違います。

まずは蓮如上人の『正信偈大意』を見てみましょう。

「摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」といふは、弥陀如来、念仏の衆生を摂取したまふひかりはつねに照らしたまひて、すでによく無明の闇を破すといへども、貪欲と瞋恚と、雲・霧のごとくして真実信心の天に覆へること、日光のあきらかなるを、雲・霧の覆ふによりてかくすといへども、そのしたはあきらかなるがごとしといへり。

光(日光)」「雲霧」「闇(無明の闇)」の3つで構成された話ですが、
」=阿弥陀仏の光明
雲霧」=煩悩
ですので、
」=阿弥陀仏の救いを疑う心
となります。難しい話ではありませんので、思考停止の会員でも理解できると思います。
ただし、この阿弥陀仏の救いを疑う心が何かを会員は知りませんし、高森会長自身も判っていませんので、

無明の闇(阿弥陀仏の救いを疑う心)=後生暗い心=死に向かったら真っ暗になる心

という破滅的な勘違いをするのです。

無明の闇=疑情=仏智不思議を疑う罪

ですが、これを親鸞聖人は『正像末和讃』で、

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

自力称名のひとはみな
 如来の本願信ぜねば
 うたがふつみのふかきゆゑ
 七宝の獄にぞいましむる

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

仏智不思議をうたがひて
 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば
 胎生のものとときたまふ

などとありますように、

罪福信ずる」「自力称名」「自力諸善」が「仏智不思議を疑う」(=無明の闇)です。
自力称名」も「自力諸善」も根本にあるのは阿弥陀仏の救いに対する「罪福信ずる心」(=自力)ですから、

無明の闇=疑情=仏智不思議を疑う罪=罪福信ずる心

つまり

無明の闇が晴れる=(阿弥陀仏の救いに対して)罪福信ずる心が無くなる

です。

要するに、阿弥陀仏の光明によって、阿弥陀仏の救いは因果の道理に順じていると思う闇の心を破られて、阿弥陀仏の救いは因果の道理に反していると明らかになったことを「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」と仰っているのです。
煩悩に覆われている我らの心が明るくなるのではなく、因果の道理に支配された闇の心が破られるのです。もちろん、死後のことについて明るくなることもありませんし、絶対の幸福という創価学会の信心も得られません。

なお『教行信証』行巻には、

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。

また

しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵ふなり、知るべしと。

と親鸞聖人は仰っています。後の御文も行巻という真実の行である念仏についての説明の結論として仰っていますので、念仏によって「無明の闇を破し」とも親鸞聖人は仰っています。

そんなことも知らないで、善がどうのこうの、聞法善が大事だの、寝惚けたことを言って、念仏を謗り続けている高森会長と愉快な仲間達に、無明の闇が破れることはありません。まさに「知るべし」です。

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