2018年6月10日 (日)

親鸞聖人の教えられた二河白道の譬えの解説で高森顕徹会長を攻撃しておきます

本日も高森顕徹会長は、何が言いたいのかよく判らず、キリスト教などで言われる”神に救われたという体験によって死後に天国に行くことがハッキリした”という話と殆ど同じ内容でした。
更には未だに、阿弥陀仏の誓願は全てのものを信楽にしてみせるという約束だ、と言っていました。

高森会長の頭の中では、自分の言っていることも良く判っていないでしょうし、過去の記憶を継ぎ合わせてとりあえず話をしているだけという印象を受けます。

さて、二河白道の譬えの中で出てくる、西岸上の人の喚び声が18願を譬えられたものであることは、高森会長も認めています。

西岸上の人の喚び声、

なんぢ、一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ

この「一心正念にしてただちに来れ」は、18願文では「至心・信楽・欲生 乃至十念 若不生者」です。
一心正念にしてただちに来れ」にあてはめて18願文を言うと

信楽の心で念仏して生まれさせる

ということになります。
では「生まれさせる」はどう生まれさせるのか。

1.信楽に生まれさせる
2.浄土に生まれさせる

どちらかでしょうか。
1では意味が通じません。

信楽の心で念仏して信楽に生まれさせる

訳が判りません。
2ですとすんなり理解できます。

信楽の心で念仏して浄土に生まれさせる

当たり前のことです。
二河白道の譬えでも、「ただちに来れ」は

ただちに西の岸に来れ

です。

ただちに一心へ来れ

になることはあり得ません。

一心に正念にしてただちに来れ」について親鸞聖人は『愚禿鈔』で、

「一心」の言は、真実の信心なり。「正念」の言は、選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり。
「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。
「来」の言は、去に対し往に対するなり。また報土に還来せしめんと欲してなり。

と教えられています。

18願文の「若不生者」に当たる「直ちに来れ」について、遠回りで「方便仮門」である聖道門や19願・20願を捨てて、近道である18願に帰し、「報土に還来せしめんと欲してなり」と教えられています。ですから、「」は浄土に生まれさせるという意味になります。「信楽」の身に生まれさせるという意味にはなりません。

ではどのようにして来なさい、と仰っているのかというと、「一心正念にして」です。簡単に言うと「一心」真実の信心で「正念」念仏して、です。

この「一心正念」については『浄土文類聚鈔』で更に詳しく解説なされています。

しかれば、「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり。深心はすなはちこれ堅固深信なり。堅固深信はすなはちこれ真心なり。真心はすなはちこれ金剛心なり。金剛心はすなはちこれ無上心なり。無上心はすなはちこれ淳一相続心なり。淳一相続心はすなはちこれ大慶喜心なり。大慶喜心を獲れば、この心三不に違す、この心三信に順ず。この心はすなはちこれ大菩提心なり。大菩提心はすなはちこれ真実信心なり。真実信心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。
度衆生心はすなはちこれ衆生を摂取して、安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心はすなはちこれ畢竟平等心なり。この心はすなはちこれ大悲心なり。この心作仏す。この心これ仏なり。これを「如実修行相応」と名づくるなり、知るべし。

正念」は念仏ですが、問題は「一心」の内容です。18願文の「信楽」にあたる「一心」の言い換えをたくさん出されていますが、図式にすると

信楽
=一心
=深心
=堅固深信
=真心
=金剛心
=無上心
=淳一相続心
=大慶喜心
=三信に順ず
=大菩提心
=真実信心
=願作仏心
=度衆生心
=衆生を摂取して、安楽浄土に生ぜしむる心
=畢竟平等心
=大悲心
=作仏す
=仏なり

となります。
詳しい説明はしませんが、「信楽」とは、最後にある仏のはたらきそのものになりますから、

信楽」の身に生まれ変わる
=「仏なり」の身に生まれ変わる

になりまして、「信楽」の身に生まれ変わるなどと軽々しくいうものではありません。我々の煩悩に汚れた心が、仏の心になるのではないことは、少し考えれば判ると思います。
信楽」を頂くことと、、「信楽」の心になることの違いは、ここでも明らかです。

こんな頓珍漢な高森会長の話を聞いても、キリスト教などの他宗教で言われるような体験なら得られるかもしれません。しかし、仏の心である「信楽」を頂いても「信楽」の身になれないという親鸞聖人と同じ体験をすることは不可なりです。

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2018年6月 6日 (水)

善導大師と親鸞聖人の信心でも高森顕徹会長を攻撃しておきます

善導大師と親鸞聖人は、大悲の願船に乗った後、どのようになると仰っているのかについて述べておきます。

白道と火の河・水の河について、旅人が東岸にいる時に善導大師と親鸞聖人は

一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし、南北辺なし。まさしく水火の中間に一つの白道あり、闊さ四五寸ばかりなるべし。この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿す。その火焔(焔、けむりあるなり、炎、けむりなきほのほなり)また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなけん。

(現代語訳)

一つは火の河で南にあり、もう一つは水の河で北にある。その二つの河はそれぞれ幅が百歩で、どちらも深くて底がなく、果てしなく南北に続いている。その水の河と火の河の間に一すじの白い道がある。その幅はわずか四、五寸ほどである。水の河は道に激しく波を打ち寄せ、火の河は炎をあげて道を焼く。水と火とがかわるがわる道に襲いかかり、少しも止むことがない。

と仰っています。

旅人が白道に乗った後、そして白道を進んでいる時、これがどう変わると仰っているかと言えば、何も仰っていません。

つまり、

・旅人の姿は変わらない。
・東の岸も変わらない。
・白道は四五寸のまま変わらない。
・水の河と火の河も変わらない。
・東の岸と西の岸の距離も変わらない。
・西の岸も変わらない。
・東の岸の人も変わらない。
・西の岸の人も変わらない。
・西の岸の人から新たな喚び声はない。

要するに何も変わっていないのです。ついでに言えば、群賊悪獣悪知識も変わっていません。

これが何を意味するかは説明するまでもないですが、高森会長のいう絶対の幸福とやらには、ならないのです。救われたことが火に触ったよりもはっきりすると高森会長が言っていますが、善導大師と親鸞聖人には、それらしき譬えも解説もないのです。

救われた後の境地として親鸞聖人が説明されているのは『一念多念証文』の

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。
かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず安楽浄土へいたれば

です。白道に乗って白道を歩んでいる人のことを「無明煩悩われらが身にみちみちて…」と仰り、信後の境地がこれだということです。煩悩が障りとなって苦しむことは大悲の願船に乗る前も乗った後も変わりません。

せめて、

・白道の四五寸が広い広い大道に変わった。
・水の河と火の河が白道を隠すことがなくなった。
・西の岸が光り輝いてよく見えるようになった。

この程度の変化を善導大師も親鸞聖人も仰っているなら、高森会長の言うことにも一理あるかといえますが、何もないのです。

では何も変わらないのかと言えば、白道に乗ったということです。

白道に乗った=大悲の願船に乗った

で、ようやく辻褄が合うのです。
どんなに贔屓目に見ても、高森会長の教えも信心も、善導大師とも親鸞聖人とも違うのです。

善導大師と親鸞聖人が仰った内容を改竄することはできません、残念でした。

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2018年6月 2日 (土)

善導大師の教えられ方でも高森顕徹会長を攻撃しておきます

高森顕徹会長は前回の話で、「どうすれば大悲の願船に乗れるのかは、次回話をする」と言って終わりました。

次回本当にその話をするかどうかは怪しいですが、先出しじゃんけんでその答えを先に言っておきます。

阿弥陀仏の18願を聞いて乗る

です。高森会長といえど、流石にこれを否定はしないでしょう。

もう一つ、高森会長が否定しないことは、二河白道の譬えで西岸の方の喚び声が18願を譬えられたということです。ですから西岸の方の喚び声を東岸で聞いた旅人が、白道に乗った時に他力になるのは言うまでもありません。

まず善導大師は『散善義』の二河白道の譬えの解説で

「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。

と仰っていますので、高森会長の言っていることは珍しく正しいです。

では18願の内容について善導大師はどう仰っているかということですが、二河白道の譬えでは、

なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ

です。『往生礼讃』では

もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ

とあり、『観念法門』では

もしわれ成仏せんに、十方 の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、 わが願力に乗じて、もし生ぜずは、正覚を取らじ

と18願を言い換えられています。

なお、親鸞聖人の教えられ方では『末灯鈔』に

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

とあります。

ところが高森会長の説明は

どんな人をも 必ず救う 絶対の幸福に

です。

もし、善導大師、親鸞聖人と高森会長の言っていることが同じだというなら、その人は思考が完全に停止しているのでしょう。

一応解説しておきますと、喚び声の「正念」に当たる

善導大師の

わが名号を称すること下十声に至るまで

わが名字を称すること、下十声に至るまで
親鸞聖人の

名号をとなへんものをば

が高森会長にはないのです。阿弥陀仏の18願にある「乃至十念」を救われた後のお礼の念仏、つまりは18願の念仏は救われるには関係のない、いわばおまけとしか考えていないのが高森会長だということです。

善導大師も親鸞聖人も、念仏を称えることが救いの条件として明確に仰っているのです。親鸞聖人の場合は厳密に言えば、念仏を称えて極楽に往生できると深く信じることが救いの条件として仰っています。救われていない人に対して、念仏はお礼だから救いには不要だとは仰っていないのです。念仏は救いの絶対条件です。

ということで本日のまとめ

どうすれば大悲の願船に乗れるのか?

善導大師 念仏を称えたものを救うという18願を聞いて
親鸞聖人 念仏を称えたものを救うという18願を聞いて
----------------------------------------------------
高森会長 救いに念仏は不要という18願を聞いて

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2018年5月30日 (水)

「親鸞聖人の読まれ方で攻撃してきている」に加え「善導大師の譬えられ方で攻撃してきている」と退会者を非難する高森教祖

最近、スパムコメントが一日に数十もついていました。嫌がらせのつもりなのでしょうが、対策は簡単ですし、私は特に気にしていませんので、無駄な苦労というものです。それを知ってか、突然スパムコメントが昨日夕方から無くなりました。

嫌がらせをするなら徹底的にするか、最初かしないのどちらかでしょう。中途半端過ぎて呆れます。親鸞会がやらせているのか会員が独断でしているかはしりませんが、いずれにしてもその程度の団体なのです。

さて、退会者を

親鸞聖人の読まれ方で攻撃してきている

と爆笑講義を以前にしてきた親鸞会の高森顕徹会長ですが、では善導大師の御心はどうであったのか、説明しておきます。

まず、善導大師は他力・自力という言葉を使われていませんので、直接的に、「白道」が他力か自力かについて仰っていません。善導大師の説明のされ方は、『往生礼讃』にあるように

この三心を具すれば、かならず生ずることを得。もし一心も少けぬれば、すなはち生ずることを得ず。

です。至誠心・深心・回向発願心の三つが揃えば必ず往生できるが、一つでも欠けると往生できない、ということです。

つまり
他力=至誠心・深心・回向発願心の三つが揃った信心
自力=至誠心・深心・回向発願心のどれかが欠けた信心

という説明のされ方です。

高森会長の話しか聞いたことがない人には、カルチャーショックを受けるほど、信心の説明が違うと思います。

簡単に説明すると、至誠心・深心・回向発願心には、他力の部分と自力の部分があって、それを混在して善導大師は説明されているのです。

要するに善導大師と親鸞聖人とは、信心の説明の仕方が違うのです。

それでは判りにくいので、親鸞聖人が至誠心・深心・回向発願心について、他力の部分と自力の部分とに分けられて説明されたのが、『教行信証』の信巻と化土巻です。

他力の至誠心・深心・回向発願心=信巻に引かれた善導大師のお言葉
自力の至誠心・深心・回向発願心=化土巻に引かれた善導大師のお言葉

こういうことです。
ここで、二河白道の譬えに戻りますと、二河白道の譬えは回向発願心の説明で使われた話で、これを親鸞聖人は信巻に引かれていて、化土巻には引かれていません。

結論は、

二河白道の譬えは、善導大師が他力の信心について説明された箇所だと親鸞聖人が顕かにされた

ということです。

いやいや、善導大師の本心と親鸞聖人の解釈は違うのではないか?

という親鸞聖人の教えられ方を否定する親鸞会会員のために、善導大師の譬え話の内容を見ると、
旅人は

・三定死の後に、初めて白道に乗っている
・西岸におられる方の喚び声を聞いた後に、初めて白道に乗っている
・白道を歩んでいる途中で、三定死になっていない
・白道を歩んでいる途中で、西岸におられる方の喚び声を再び聞いたとはなっていない

自力と他力の水際があるなら、どう判断しても、「白道」は他力にしかなりません。もし白道を歩んでいる途中で自力から他力に入ったとするなら、何一つ変化がない、それこそガラリと変わるどころかいつとはなしに他力になることを善導大師が教えられたことになります。

鈍い高森会長と会員のためにまとめますと、

1.善導大師は白道に乗る前と後とで自力と他力の水際を表現されている
2.善導大師は白道の途中で自力から他力にいつとはなしに何も変わらずに入ると表現された

どちらをとるかという単純な二者択一です。
どんなに鈍い頭をもってしても、1を選択するしかないのです。2だというなら今までの、ガラリと変わるという話は間違いであったと謝罪会見をしましょう。

それとも今度は

善導大師の譬えられ方で攻撃してきている

と私を非難しますか?

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2018年5月29日 (火)

親鸞聖人は、「白道」は他力だと教えられていることを、高森顕徹会長自身が認めた過去を無きものとするいつもの行き当たりばったり教義

親鸞聖人は、「白道」を他力の意味でしか仰っていないことは説明するまでもないことですが、前回出したものとは別の根拠も紹介しておきます。

『教行信証』信巻の

まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり。

(現代語訳)

いま、まことに知ることができた。善導大師の二河の喩えの中に「四、五寸ほどの白い道」といわれているが、「白い道」の「白」という言葉は「黒」に対するものである。「白」とはすなわち、阿弥陀仏が因位のときにあらゆる行の中から選び取られた清らかな行であり、浄土往生のために如来より回向された清らかな行であることをいう。「黒」とはすなわち、無明に汚れた行であり、また、声聞や縁覚、人間や神々の修める煩悩のまじった善であることをいう。「道」という言葉は「路」に対するものである。「道」とはすなわち、第十八願の唯一信心の道であり、この上ないさとりを開くすぐれた道である。「路」とはすなわち、二乗・三乗の法、さまざまな行を修めなければならない劣った路である。「四、五寸」とはすなわち、衆生の心身を構成している四大・五陰にたとえたのである。

白道」についてのみ抽出すると

白=選択摂取の白業、往相回向の浄業
道=本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道

つまり、「白道」とは本願他力の道の意味しかないのです。

また『愚禿鈔』には

「念道」の言は、他力白道を念ぜよとなり。

となっていますので、どんな詭弁を弄しようとも、「白道」に自力の意味は全くないのです。

そのことを指摘し続けてきた結果、平成24年12月に行われた講師部講義(特専部も参加)で、とんでも珍釈が高森会長の口から語られました。その内容は、平成25年2月号の『顕真』に載っています。しかし、講義の内容を直接載せることなく、講師部員・特専部員の手紙でその内容を会員に推測させる、といういつもの秘事法門です。

最初に、講義の趣旨が書いてあります。

「白道」は自力か、他力か

 講師部・特専部への昨年12月のご講義で、高森先生は、本誌10月号の「ひと口問答」を詳しくご解説くださった。
「白道」を自力の心というのは間違いだ、と非難してくるのは、本願寺でもかなりの学者と見られる。それを、どう破られているのだろうか。

これだけでも読まれれば、退会者なら失笑するでしょう。「白道」を自力の心というのは間違いだ、と非難してくるのは、退会者です。退会者からの非難を、「本願寺でもかなりの学者と見られる」としたいのですから、思いもよらない指摘に高森会長が動揺し、高森会長のプライドが、「本願寺でもかなりの学者と見られる」と言わせたのでしょう。

ちなみに平成24年3月18日付けで、私が弘宣局長宛てに法論の申し込みをした内容にも、

「白道」を自力の心というのは間違いだ

ということを入れています。10項目の5番目

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

を指していることは言うまでもありません。

もちろん私は一退会者で、「本願寺でもかなりの学者」ではありません。高森会長もそのことを十二分に知っています。

さて、その講義の内容を、講師部員・特専部員に語らせて、都合が悪くなれば、

ワシはそんなことを言っておらん

の逃げ道を作っている卑怯さも相変わらずです。
一応手紙の内容を抜粋します。

K特専部長

 善導大師が、二河白道の譬えで「自力」だと教えられた「白道」を、親鸞聖人は「他力」と読まれたことを教えて頂きました。
 また、高森先生は、「白道」とは「他力」ではないかという非難が来ることをとっくの昔に予測され、相手に打ち込ませるようにご説法なされていたことにも驚きました。

T講師部員

「二河白道の譬え」の「白道」は、自力か、他力か。それは、
「能生清浄願往生心」
  (善導大師・観無量寿経疏)
の「生」の1字で明らかとは、驚きました。
 善導大師は、前段では「生ず」と書かれて自力だと教えられ、それを親鸞聖人は、「生ぜしむ」と読み替えられ、他力だと明らかにされています。

Y講師部員

「能生清浄願往生心」の「生」を、「生ず」と読むか、「生ぜしむ」と読むかで、自力と他力が分かれると教えていただきました。本会を非難している者は、親鸞聖人の読まれ方で攻撃してきていることも分かりました。
 邪を破るには、まず、相手をよく知らねばなりません。

如何でしょうか。高森会長のうろたえぶりが見えるようです。

高森先生は、「白道」とは「他力」ではないかという非難が来ることをとっくの昔に予測され、相手に打ち込ませるようにご説法なされていた

親鸞聖人は、「生ぜしむ」と読み替えられ、他力だと明らかにされています

親鸞聖人の読まれ方で攻撃してきていることも分かりました

と必死になって、過去の間違いを誤魔化そうとしています。
つまり、

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

を完全に認めてしまっているのです。

「白道」は聞法心を表している

なんて、また言いだしたとは、喜劇としては完璧なストーリーです。

なお、善導大師が「白道」を自力の意味で仰っている根拠が存在しないことは言うまでもありません。

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2018年5月27日 (日)

あれだけ醜態を曝しながらいまだに二河白道の譬え話をする厚顔無恥な高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話は、まだ寝惚けた二河白道の偽譬え話でした。しかも途中までしか話をしないという前代未聞の有様です。後で指摘されることを嫌い、私に先に言わせておいて後出しジャンケンをするつもりなのかもしれませんが、それなら先に私の手を出して十二分に見せておきます。

まずは二河白道の譬えについて基本的なことを少し説明します。

高森会長は白道について

白道は聞法心を表している

と寝とぼけたことを未だに言っていました。

言うまでもなく、二河白道の譬えは善導大師が作られた話です。『散善義』の中で『観無量寿経』の回向発願心を解釈なされたところで出てくるのですが、この譬えの前に

また一切の往生人等にまうさく、いまさらに行者のために一の譬喩を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。

と仰っています。
信心守護の譬えですから、真実信心についての解説であり、求道の譬えではないことは明白です。

この譬えを親鸞聖人は『教行信証』信巻に引かれていますので、親鸞聖人も、真実信心を顕わされたのが二河白道の譬えとされたのは、疑いようのない事実です。19願の意味があるなら、化土巻に二河白道の譬えを引かれるでしょうが、それはありません。

『教行信証』は高森会長にも会員にも難しすぎるでしょうから、『教行信証』をまとめられた『浄土文類聚鈔』で再度説明しますと、二河白道の譬えの解説があるのは、

問ふ。念仏往生の願、すでに三心を発したまへり。論主、なにをもつてのゆゑに一心といふや。

という問いに対する答えの中です。
答えとして18願の三心(至心・信楽・欲生我国)の説明をされた後に

これによりて師釈を披きたるにいはく、「西の岸の上に人ありて喚ばひてのたまはく、〈なんぢ、一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉」と。また〈中間の白道〉といふは、すなはち、貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。仰いで釈迦の発遣を蒙り、また弥陀の招喚したまふによりて、水火二河を顧みず、かの願力の道に乗ず」と。{略出}
ここに知んぬ、「能生清浄願心」は、これ凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なるがゆゑに清浄願心とのたまへり。しかれば、「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり。(後略)

(現代語訳)

そこで、 善導大師の 『観経疏』 をひらくと、 次のようにいわれている。
「西の岸に人がいて、 <そなたは一心に正念してまっすぐに来るがよい。 わたしがそなたを護ろう。 水の河や火の河に落ちるのではないかと恐れるな>と喚ぶ声がする」
また次のようにいわれている。
<水の河と火の河の間にある白い道> というのは、 貪りや怒りの心の中に、 往生を願う清らかな信心がおこることをたとえたのである。 浄土へ往生せよという釈尊のお勧めと、 浄土へ来たれと招き喚ぶ阿弥陀仏の仰せにしたがって、 貪りや怒りの水と火の河を気にもかけず、 阿弥陀仏の本願のはたらきに身をまかせるのである」
これによって知ることができた。 「清らかな信心が起こる」 とは、 凡夫が自力で起す心ではない。 大いなる慈悲により回向された心であるから、 清らかな信心といわれているのである。 そして 「一心に正念して」 というのは、 「正念」 とはすなわち称名である。 称名はすなわち念仏である。 「一心」 とは深い心、 すなわち深心である。

と続きます。

白道=能生清浄願心=凡夫自力の心にあらず

と明確に仰っていますから、二河白道の譬えは、他力の真実信心についてです。

一度に多くのことを書くと理解できないでしょうから、今回はこれだけとしておきます。

本日のまとめ

白道は何を譬えられたものか?

善導大師 真実の信心
親鸞聖人 真実の信心
-----------------------
高森会長 聞法心

反論があるなら、いつでもどうぞ。

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2018年5月15日 (火)

親鸞聖人が問題にされた自力の信心の範疇にさえも入っていない高森顕徹会長の信心

近年にない多くの人が集まった先日の降誕会ですが、それでも正本堂落慶法要の時には及ばず、正本堂落慶当時も広告を出していましたので、結果的には親鸞会の衰退が顕著になったということです。

さて、コメント欄で高森顕徹会長を妄信する愉快な仲間が、頓珍漢なことを書いていますが、これはここ数年の傾向で、親鸞聖人のお言葉はどうでもよく信心決定している特異な高森会長と異なっている信心について、退会者を非難してくるのです。

法論に敵なしの親鸞会を自負しているなら、あり得ないコメントですが、これが現実です。高森会長の言っている教義が親鸞聖人の教えとは無関係であり、親鸞聖人と高森会長の信心までも違うとまで思いが及ばないところが、会員の哀れさを際立たせています。

教義について反論できないことは、高森会長も会員も判っているようですので、信心についても親鸞聖人とは異なっていることを、根拠を挙げて、説明しておきます。

他力の信心あるいは他力の念仏と、自力の信心あるいは自力の念仏との違いについて、親鸞聖人は対比して、度々教えられています。
最も判りやすいのが『浄土和讃』の最初の

弥陀の名号となへつつ
 信心まことにうるひとは
 憶念の心つねにして
 仏恩報ずるおもひあり

誓願不思議をうたがひて
 御名を称する往生は
 宮殿のうちに五百歳
 むなしくすぐとぞときたまふ

です。

念仏を称えている前提で、「信心まことにうる」と「誓願不思議をうたがひて」の違いが他力と自力の違いだということです。

では「誓願不思議をうたがひて」とは具体的にどんなことかというと、他宗教や他宗を信じているというようなレベルの話ではなく、『正像末和讃』にあるように

不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

如来の諸智を疑惑して
 信ぜずながらなほもまた
 罪福ふかく信ぜしめ
 善本修習すぐれたり

罪福ふかく信じつつ
 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆゑに
 方便化土にとまるなり

仏智不思議をうたがひて
 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば
 胎生のものとときたまふ

仏智の不思議を疑惑して
 罪福信じ善本を
 修して浄土をねがふをば
 胎生といふとときたまふ

ということです。つまり、「罪福信ずる」こと「自力諸善」という高森会長が勧めていることが「仏智不思議をうたがう」ことになるのです。

他力と自力の違いをもっと端的に仰ったのが、『末灯鈔』にある

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。

です。

18願のことを「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる」あるいは「念仏往生」と仰った上で、他力の信心を「ふかく信じて」と仰り、自力の信心を「信心あさく」と仰っています。

簡単にまとめると、

他力の信心=念仏を称えて往生できると深く信じた心
自力の信心=念仏を称えて往生できると浅く信じた心

ということです。

他力と自力の信心に共通することは「念仏を称えて往生できると信じた心」です。

では高森会長はどう言っているかと言うと、

念仏を称えて往生できると思うのは間違いで、往生できない

です。昔はこれを必堕無間とまで言い切っていましたが、最近はそこまでは言わなくなりました。

この高森会長の言っていることから判断すれば、高森会長が他力の信心を獲ていないどころか、親鸞聖人が問題にされた自力の信心の範疇にさえ入っていないことが明確です。

ちなみに、蓮如上人が『御文章』5帖目11通で仰っている

なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなき次第なり

は、

他力の信心=念仏を称えて往生できると深く信じた心
自力の信心=念仏を称えて往生できると浅く信じた心

を踏まえられた上で、「念仏を称えて往生できると信じた心」だけでは往生できるかどうか覚束ない、つまりは不確実だということで、「深く」と「浅く」の違いを弁えなさいとの誡めです。「念仏を称えて往生できると信じた心」だけでは、往生は不可とも仰っていませんし、ましてや必堕無間でもありません。

ということで、今回は少し長くなりましたが、高森会長が他力の信心と思い込んでいる信心は、念仏誹謗の創価学会の信心と同レベルだということです。高森会長が、他力の信心のことを絶対の幸福と言っていることからも、それが裏付けられるというものです。

なお余談ですが、正本堂も創価学会のパクリで、今はそこだけ2000畳と変更しています。肝心な信心は創価学会のパクリそのままで。

悔しいと憤る元気がある会員で、反論があるならいつでもコメントをください。ただし、体験至上主義で高森会長の信心を基準にしてのコメントは無意味ですので、そんな愚かなコメントはしない方が宜しいかと思います。

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2018年5月13日 (日)

高森顕徹会長の総括?がこの程度の噴飯話

昨日と本日、高森顕徹会長の自己満足話がありました。駄作『歎異抄をひらく』発刊10周年記念という建前で、多額の費用を費やした大々的な広告により、近年にない多数の人が参加したようです。邪教と罵っている他の宗教団体と同様の手法で同様の結果を得たことで、得意の絶頂にいることでしょう。

期待に違わず内容も、創価学会の真似事でした。『歎異抄』にある「無碍の一道」を絶対の幸福と勘違いし、親鸞聖人の教えを現世利益に貶めた話にしていました。珍釈の最たるものが、「無碍の一道」の「一道」を幸福だとしたことです。噴飯物以外の何物でもありません。

一応説明しておきます。

元々は『浄土論註』のお言葉ですが、それを親鸞聖人は『教行信証』行巻に引かれています。

いま〈速得阿耨多羅三藐三菩提〉といへるは、これはやく仏になることを得たまへるなり。〈阿〉をば無に名づく、〈耨多羅〉をば上に名づく、〈三藐〉をば正に名づく、〈三〉をば遍に名づく〈菩提〉をば道に名づく、統ねてこれを訳して、名づけて無上正遍道とす。
(中略)
道は無碍道なり。『経』(華厳経)にいはく、〈十方の無碍人、一道より生死を出でたまへり〉と。〈一道〉は、一無碍道なり。無碍は、いはく、生死すなはちこれ涅槃なりと知るなり。

(現代語訳)

いま<速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得られた>といっているのは、法蔵菩薩が速やかに阿弥陀仏になられたことをいう。<阿>は無と訳し、<耨多羅>は上と訳し、<三藐>は正と訳し、<三>は遍と訳し、<菩提>は道と訳す。まとめてこれを訳すと無上正遍道という。
(中略)
<道>とは、無礙道である。『華厳経』に<すべての世界の無礙人である仏がたは、ただ一つの道によって迷いを出られた>と説かれている。<ただ一つの道>とは、ただ一つの無礙の道のことである。<無礙>とは、迷いとさとりとが本来別なものではないとさとることである。

結論を言うと、無碍人である仏方は、ただ一つの道である念仏によって迷いを出られ仏になられたことを、「無碍の一道」と親鸞聖人は仰っているのです。

一道」とは、同然ながら、ただ一つの道のことで、それは念仏を意味しています。

したがいまして、

念仏者は無碍の一道なり

は本来の意味では

念仏は無碍の一道なり

になるのですが、『歎異抄』では「念仏者は」となっているので、学者の間でも様々な説がでています。いずれにしましても、絶対の幸福なる意味が全くないどころか、高森会長が必死で否定する「ただ念仏」が迷いの世界を出て成仏するたった1つの道だと教えられたのです。

言うまでもないことですが、自力の念仏と他力の念仏の違いも判っていないので、涙のたとえで誤魔化していましたが、信心と念仏の関係も判っていません。
『歎異抄』を使って話をしているなら、『歎異抄』のお言葉を引用して説明すべきでしょう。
第1条には、

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

とあるのは、無知な高森会長でも知っていることです。

信心=往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころ

簡単なことですが、高森会長と取り巻きには理解できないでしょうね。

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2018年4月 8日 (日)

嘘体験至上主義の与太話を60数年し続けてきた高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話も、よく判らない与太話でした。会員は理解できないことを、不可称不可説不可思議だから仕方がないと思っているのでしょうが、話自体が竜頭蛇尾、支離滅裂の妄想だから最初から最後まで理解などできるわけがないのです。

具体的には、

大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わるとは、どう変わるのでしょうか

という質問に対しての珍問答でした。

最初に、『歎異抄』第1条を出して

罪悪深重の私であったと判るまで聞く

と言っていましたが、見当違いです。

『散善義』で善導大師は

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、 心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

(現代語訳)

わが身は、 無始よりこのかた、 他のものと同時に、 発願し、 悪を断ち、 菩薩の道を行じたのに、 他のものはことごとく身命を惜しまず、 修行して位を進め、 因が円満し、 果が成就して、 聖者の位を証した。 その数は、 大地を微塵にくだいたよりもなお多い。 しかるに、 われら凡夫は過去より今日に至るまで、 いたずらに流転して、 煩悩の悪障が次第にますます多くなり、 福徳智慧のきわめて少ないことは、 重昏をもって明鏡に望むがようである。 今このことを考えると、 どうして心驚き悲しまずにおられようか。

と仰っています。

善導大師のように聖道門の修行に真剣に取り組まれた方がこのように仰っているのです。諸善はできてもその程度ではとてもではないが罪悪深重で出離などできないと知らされ嘆かれているのですが、あくまで聖道門で出離ができると思っていた人の嘆きです。では我々はどうかと言えば、聖道門の修行などできるとも思っていませんから、出離できるとは最初から思いもしません。
つまりは、聖道門で出離を目指している人はそこそこの善ができて、罪悪深重と思っていないので、そんな善人が18願で救われるには罪悪深重で出離できない者と知らされる必要はあっても、我々のような底下の者は、今更罪悪深重と判る意味がないです。
要するに、聖道門で出離できない者と判っているかどうかが重要なのであって、それ以上に何を条件としようというのか、全くナンセンスな話です。

また、ガラリと変わるの珍答が前回同様

与韋提等獲三忍

で説明していましたが、これもピントがずれています。
もちろん言葉の上では間違いではないのですが、以前にも言いましたように、三忍を獲たことと、三忍を獲た体験がハッキリするのとは、雲泥の差があります。

もう一度言っておきますと、韋提希が獲信したと高森会長が説明している『観無量寿経』の「除苦悩法」の場面で、韋提希がガラリと変わった体験が、『観無量寿経』にも説かれていないですし、善導大師も親鸞聖人も全く仰っていないのです。それどころか、理論によって、「除苦悩法」の直後に三忍を獲たと善導大師が結論付けられただけであって、「除苦悩法」の直後に韋提希が三忍を獲たという直接の証拠になるものはどこにもないのです。

念のため、韋提希が「除苦悩法」の直後に三忍を獲ていないと主張したいのではなく、三忍を獲たこと自体が曖昧にしか表面に現われてこないのが現実だということです。

更には、高森会長は三忍を獲て幸せな人生にガラリと変わるのだと言っていても、それ以上の具体的な話を高森会長はしません。なぜなら、高森会長自身が幸せな人生に変わっていないからです。一般の人が旨いと思える食事では薄過ぎて不味いと怒りだし、損をしたと公認会計士を呼び出して叱り付け、僧籍を奪った本願寺憎し、トップになれなかった華光会を妬み、かつての弟子であった退会者からの非難に怯えまくる高森会長が幸せであろうはずがないです。

結局のところ、体験もしていないことを体験したかのように装い、誰も体験できない架空の話を60数年もしてきたのですから、高森会長の与太話は根拠のない体験至上主義というより、嘘体験至上主義とでもいうべきでしょう。

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2018年4月 5日 (木)

高森顕徹会長が味わった最大の屈辱

mixiでの三願転入の法論について質問された方がありましたので、簡単に説明しておきます。

今から8年前の3月末から、mixi上で親鸞会と退会者による法論が展開されました。結果は、親鸞会の大惨敗で、単なる沈黙逃亡だけでなく、法論の記録自体をトピック管理人であった親鸞会会員に命じて消し去るということまでしました。

親鸞会の法論の歴史上、自他共に認めざるを得ない親鸞会最初の敗北でした。尤も、それまでの法論も親鸞会は議論で負けてはいたのですが、相手が呆れていなくなってから、勝った勝ったと騒ぎ続けて、親鸞会の勝利と宣伝してきたことが大半でしたので、親鸞会が法論に勝ち続けていたというのはフェイクニュースです。勝利を偽装できない程の屈辱的な敗北で、高森顕徹会長は荒れに荒れたことでしょう。

この法論の主題は、三願転入なる教えについてでした。親鸞会側の直接の相手は、講師部のこうへい氏でした。こうへい氏は、他の布教使や同行の間違いを徹底的に正してきた真宗学に極めて詳しいヒーローとしてmixiの中で扱われてきました。その自信と勢いそのままに三願転入の教えを布教してきたのですが、それを完膚無きまでに叩きのめされ、一矢も報いることもできずに、こうへい氏はmixiから姿を消しました。もちろん、こうへい氏を使って高森会長が退会者と対峙していたのは、隠しようのない事実でした。

この三願転入の法論の内容を消し去ったとはいいながらも、途中途中で保存してありますので、記録が残っていない訳ではありませんが、それを公開すると親鸞会お得意の法的手段に訴えてくるでしょうから、公開しないだけです。

当時の内容は、当ブログで取り上げていますので、それを御覧になられれば、概要は理解できると思います。

それをまとめたものは

ですので、興味のある方はこちらを見てください。

このmixiでの大惨敗を知った会員が続々退会したものの、為す術もなかったのですが、私が煽りに煽った結果、『なぜ生きる2』という高森会長の最高傑作を出版するに至ったのです。『なぜ生きる2』は、mixiでの法論の内容そのままです。進歩も発展も勉強もしていない駄作です。

現在の親鸞会において、『なぜ生きる2』がどんな位置にあるかを見れば、高森会長の後悔の念がひしひしと伝わってきます。

mixiでの法論で、最初から最後まで一貫していた問題は、

  • 親鸞聖人が三願転入の教えなるものを教えられた根拠
  • 親鸞聖人が19願を勧められた根拠

でした。

共にないのでこうへい氏は話題を逸らしますが、それをさせませんでしたので、三願転入なる教えは、親鸞聖人の教えではないし、親鸞聖人は19願を勧められてもいないことが証明されてしまったのです。

簡単に言うとこれだけの内容です。

宿善とか方便とかいろいろと言い訳をしても全て論破されて、何一つ言い返すことができない無様な姿を曝しただけでした。

そんな無知の高森会長を信じている会員の哀れさには、嘆息しかでないです。

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«退会者からの非難に怯え、更なる退会者続出にも指を咥えて見ているだけの親鸞会