2019年4月21日 (日)

高齢者による事故が問題になっていますが、高森顕徹会長の話も重大な事故です

本日の高森顕徹会長の話は、迷いに陥った内容です。
たとえば、

阿弥陀仏の本願は、「死んだらどうなるか判らぬ心を無くす」お約束

だとか、

苦しみの根源が、「死んだらどうなるか判らぬ心」

さらには、

日々煩悩で苦しんでいるが、それは葉や花のことで、苦しみの根幹でない

とか言っていましたが、一体どこの宗教の話をしているのかと言わざるを得ません。
超高齢でまともでない高森会長とその信者のために、仏教と真宗のイロハの話をしておきます。

親鸞聖人は曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』を『教行信証』真仏土巻に引かれて

われ無始より三界に循りて、虚妄輪のために回転せらる。
一念一時に造るところの業、足六道に繋がれ三塗に滞まる。

(現代語訳)

わたしははかり知れない昔から迷いの世界にあって、生れ変り死に変りし続けている。
わたしの行いはすべて、わたしの足を迷いの世界につなぎとめ、苦しみの世界にとどまらせる。

と仰っています。死んだらどうなるか、という問いに対して

足六道に繋がれ三塗に滞まる

その苦しみの根源は、

一念一時に造るところの業

です。

次に、親鸞会でも知っているであろう『教行信証』信巻の

しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。
一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。

(現代語訳)

ところで、はかり知れない昔から、すべての衆生はみな煩悩を離れることなく迷いの世界に輪廻し、多くの苦しみに縛られて、清らかな信楽がない。本来まことの信楽がないのである。このようなわけであるから、この上ない功徳に遇うことができず、すぐれた信心を得ることができないのである。
すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに修めた自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。

です。死んだらどうなるかについて

無明海に流転し、諸有輪に沈迷し

で、苦しみの根源は、

愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く

と仰っています。

他にもたくさんありますが、結論としては、

死んだら迷いの世界を流転輪廻すると教えられてそれを信じていることを前提として、阿弥陀仏の本願を求めているのですから、今更、それ以上判る必要もありませんし、救われたらそれがハッキリするとも教えられていません。そして、流転輪廻している原因は、煩悩だと教えられているのが、仏教であり、親鸞聖人だということです。

ただし、別の言い方として、阿弥陀仏の本願を深信すれば迷いの世界を出ることができるので、流転輪廻の原因を阿弥陀仏の本願を疑っていることだとも言える訳です。

いずれにしても、「死んだらどうなるか判らぬ心」が苦しみの根源とか、意味不明の妄想以外の何物でもありません。

高森会長の年齢も年齢ですから、エビデンスを期待する方が無理なのでしょう。

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2019年4月14日 (日)

18願文さえもまともに理解できない高森顕徹会長とその信者達

本日も、間抜けな話をした高森顕徹会長でした。その典型が、18願文を出して、「信楽」の身にさせるのが18願、という勘違いです。
会員には、どこが間違いか全く判らないでしょうが、「信楽」は信心であって、「信楽」の身にさせるというものではないです。

18願は、「信楽」という信心を獲た人を浄土に生まれさせるという誓いです。

『尊号真像銘文』に

至心信楽をえたるひと、 わが浄土にもし生まれずは、 仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。

とある通りです。

これでも会員は理解できないと思いますので、もう少し説明すると、「信楽」が因で「浄土に生まれる」が果です。「信楽」は果ではありません。
会員は混乱していると思いますので、18願文の言い換えを紹介します。親鸞聖人は『大無量寿経』の異訳経で18願文を説明されています。
『教行信証』行巻に『大阿弥陀経』と『平等覚経』とを引かれて

諸天・人民・蜎飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。

諸天・人民・蠕動の類、わが名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、わが国に来生せしめん。しからずはわれ作仏せじ

歓喜踊躍せんもの」を「わが国に来生せしめ」です。
歓喜踊躍」=「信楽」=因
わが国に来生せしめ」=果
歓喜踊躍せんもの」を「歓喜踊躍させる」という誓いではありません。

言い換えると、

信心を獲た人を信心の身にさせるという誓いではありません。

もう一つ言い換えると

「信楽」を獲た人を「信楽」の身にさせるという誓いではありません。

もっと言うと、18願は信心を獲させる願ではなく、信心を獲た人を浄土に生まれさせる願です。もし、18願が信心を獲させる願ならば、阿弥陀仏が成仏された時点で「十方衆生」は信心を獲ていることになりますが、そうではありません。なぜなら、信心を獲させる願ではなく信心を獲た人を浄土に生まれさせる願であるからです。

これでも思考停止の会員には、理解できないかもしれません。

カルトは恐ろしいです。

 

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2019年4月13日 (土)

基本的な言葉である「自力」さえ親鸞聖人の定義とは、無関係の高森顕徹会長

今日と明日は、高森顕徹会長の話の少ない親鸞会の降誕会です。本日も、高森会長は何教なのか判らない話をしていました。
特に、自力についての説明が

親鸞聖人の仰る自力とは、死んだらどうなるか判らない心

と言っていました。親鸞会の会員はこれで納得しているのでしょうが、親鸞聖人がそのようなことを仰った箇所は皆無です。

親鸞聖人の自力の説明を、9年前のmixiでの三願転入の法論で退会者から明示されているにも関わらず、妄想で創りあげた高森定義を改めずにいます。改める以前の問題として、高森会長には親鸞聖人の自力の定義を理解できないのだと思います。
思考力がある人向けに親鸞聖人のお言葉を列記しておきます。

『唯信鈔文意』

自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。

(現代語訳)
自力の心を捨てるということは、大乗・小乗の聖人、善人・悪人すべての凡夫、そのような色々な人々、さまざまなものたちが、自分自身を是とする思いあがった心を捨て、わが身をたよりとせず、こざかしく自分の悪い心を顧みたりしないことである。それは具縛の凡愚・屠沽の下類も、ただひとすじに、思いはかることのできない無礙光仏の本願と、その広く大いなる智慧の名号を信じれば、煩悩を身にそなえたまま、必ずこの上なくすぐれた仏のさとりに至るということである。

『一念多念証文』

自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。

(現代語訳)
自力というのは、わが身をたのみとし、わが心をたのみとすることであり、自分の力を頼って行にはげみ、自分がつくるさまざまな善を頼りにする人のことである。

『末灯鈔』

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。

(現代語訳)
まず自力ということは、行者がそれぞれの縁にしたがって、阿弥陀仏以外の仏の名号を称え、あるいは念仏以外の善を修めて、自身をたのみとし、自らのはからい心で、身・口・意の三業の乱れをとりつくろい、立派に振舞って浄土に往生しようと思うことを自力というのです。

『教行信証』化土巻

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。

(現代語訳)
定善の専心・散善の専心とは、罪を恐れ自分の善をあてにする心で本願力を願い求めるのであり、これを自力の専心というのである。

以上をまとめると親鸞聖人の言い方は

・みづからが身をよしとおもふこころ
・わが身をたのむ
・わが心をたのむ
・あしきこころをかへりみる
・余の仏号を称念する
・余の善根を修行する
・身・口・意の三業の乱れをとりつくろう
・めでたうしなす
・罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す

となります。かなり具体的に説明されてされていて、ほとんどが、親鸞会の教えと真っ向から対立するものです。

以上のどこに、

死んだらどうなるか判らない心

というようなお言葉があるでしょうか。近いニュアンスさえありません。
明日の座談会でも、更に迷走するでしょうが、とりあえず今日はこのくらいで。

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2019年3月18日 (月)

毎年恒例ですが、これが高森顕徹会長と親鸞会の実態

本願寺をはじめ、外部からの非難攻撃に対して、全て法論を仕掛けて全戦全勝だと親鸞会内で宣伝していますが、実際は全戦全敗です。法論の相手が呆れて、法論を止めたことで表面上は親鸞会が勝利したように装ってきましたが、ここ10年はその偽装もできなくなり、実際も表面上も親鸞会の大惨敗の連続です。

ただ、その事実を知らずに、高森顕徹会長を唯一無二の善知識として、崇めさせられている会員は、哀れなものです。顕正新聞でも、未だに『歎異抄をひらく』発刊から未だに反論がない、その時が11年だ、とか一面に書き続ける根性には、敬意を表したいくらいです。

高森先生が法論に負けたことなどあろう筈がない

という妄想を抱いている会員のために、毎年恒例ですが、その証拠のほんの一端を紹介しておきます。

今から7年前、こんなエントリーを書きました。

書面で法論を申し込んだら、”検討する”だそうです

その後、連絡もなく、内輪でのみ反論したように偽装しただけです。

昨日、ある集まりに、弘宣局長とK講師、他2名の講師部員が乗り込んできて、親鸞会の邪義を喚き散らしていったそうです。その際に、私が弘宣局に書面で正式に法論を申し込めば、検討する、と弘宣局長は言っていたそうです。

そこで本日、法論申し込みの書面を書留で送付しました。それに加えて以下のメールも送っておきました。

W 様


御無沙汰しております、○○です。
昨日の件は、聞いております。法論の申し込みを書面でせよ、とのことですので、本日申し込みの書面を書留で送りました。
内容は以下の通りです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
              法論の申し込み
                            平成24年3月18日
弘宣局長 W 様

御無沙汰しております、○○です。

昨年、K講師を通して、法論を申し込みましたが無視されました。
しかしその件で、「弘宣局に直接法論を申し込むように」と貴方が言われたそうですので、ここに書面をもって法論を正式に申し込みます。

法論の条件は、

1.法論の土俵はお聖教であり、お聖教にない文底秘沈のような主張はしない
2.文章でやりとりをする
3.法論の場は、以下とする
  mixi内の信仰と対話コミュニティ*「三願転入」議論継続トピック*
  
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=53217382&comm_id=2135313
4.相手の質問に対して質問で返さず、相手の質問に答えてから新たな質問をする

以上の4点です。

かつて親鸞会は公約していた筈です。

「親鸞会は公約しています。親鸞会の主張に対して異議、反論のある方は遠慮なく申し出てください。相手が集団であれ、個人であれ、公開であれ、非公開であれ、討論であれ、文書討論であれ、相手の希望される方法で、時と場所を問わず、本当の親鸞聖人のみ教えを開顕するために、喜んで対決に応じます。」

これが口先だけであったとは、言わせません。

私の主張は、「親鸞会教義の誤り」「飛雲」「親鸞会の邪義を正す」等のブログで書かれている通りです。一読された上で、法論に臨んで頂きたいと思います。
親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張との相違点を以下に列記しておきます。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
- - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善知識に無条件服従せよ

なお、法論に応じられても応じられなくても、返事を頂いても頂かなくても、すべて公開しますので、御了承ください。
                                           ○○○○
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

mixiでの三願転入の法論は、親鸞会の逃亡とトピック削除で幕を閉じましたが、とりあえずその続きをしたいと考えております。

なお、上に挙げたブログをすべて読まれるのは大変でしょうから、最低限、添付ファイルのところだけでも読んでおいて頂けませんでしょうか。

目的は親鸞聖人のみ教えを開顕するためですので、よいお返事をお待ちしております。

○○○○

法論の実現も、返事も期待しておりませんが、万が一法論が実現すれば、また退会者が増える縁になるでしょうから、喜ばしいことです。

親鸞会は、私を相手にしていないのではありません、相手にして酷い目に遭った経験があるから、怯えて逃げに逃げ回っているのです。

後日、上記の項目に追加して、その解説もしてありますので、以下を会員は是非とも読んで、高森顕徹会長の嘘を知って退会しましょう。

浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?

この程度の内容でさえ、全く反論できないのが、高森顕徹という無知な人物なのです。

反論する元気のある会員は、コメントをください。ただし、聖教の根拠を基として。

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2019年3月10日 (日)

本日も「オカシナ話」をし続ける高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話も、人間の実相でした。『仏説譬喩経』とは異なる「オカシナ話」を、釈尊の創られた譬えとしているところが、厚顔無恥の至極と言ったところでしょうか。

さて、(『仏説譬喩経』にはない)「底なしの海」を地獄に譬えられた、と説明していましたが、カルト教団定番の地獄脅しが復活したようです。釈尊が、すべての人の死後は皆地獄だ、と説かれたことなどあり得ないのですが、カルトではそう言い切ります。恐怖で信者を繋ぎとめ、服従させるためです。親鸞会でも、長らくこの手法を用いてきましたが、一時封印した時期もあります。しかし、カルトは正体を隠してもカルトなのです。

一応言っておきますが、釈尊も、七高僧方も、親鸞聖人も、覚如上人も、蓮如上人も、すべての人の死後が地獄だなどというカルト教義を伝えられたことはありません。限定的な人に対して、地獄に堕ちる、という言い方はされていますが、一般の人が地獄に堕ちるという説明も理屈もありません。それを裏付ける最も顕著な根拠は、『教行信証』信巻に長々と引かれている『涅槃経』にある阿闍世に対する釈尊の御説法です。「阿闍世は地獄に堕ちない」、と釈尊が連呼されていることは、『教行信証』を一度でも読んだことがあれば知っているでしょう。

つまり、地獄と脅しているカルト教団の親玉は、『教行信証』を一度も読んだことがないのです。

ところで、今回は高森会長に少し進歩がありました。
『浄土和讃』の

若不生者のちかひゆゑ
 信楽まことにときいたり
 一念慶喜するひとは
 往生かならずさだまりぬ

を用いた説明で定番であった

若不生者と誓っておられるから、まことに信楽に生まれるときがあるのだ

というようなことを言いませんでした。こちらは封印したのかもしれません。
こちらも念のため説明しておきますと、

この和讃の前と併せて

十方諸有の衆生は
 阿弥陀至徳の御名をきき
 真実信心いたりなば
 おほきに所聞を慶喜せん

若不生者のちかひゆゑ
 信楽まことにときいたり
 一念慶喜するひとは
 往生かならずさだまりぬ

18願文を言い換えられたものです。正確に言えば、18願文を曇鸞大師が『讃阿弥陀仏偈』で言い換えられたものを、親鸞聖人が更に言い換えられたものです。

『讃阿弥陀仏偈』

あらゆるもの、阿弥陀の徳号を聞きて、信心歓喜して聞くところを慶び、
すなはち一念に曁ぶまで心を至すもの、回向して生ぜんと願ずればみな生ずることを得。
ただ五逆と謗正法とを除く。

したがいまして、この和讃の意味は

若不生者の誓いであるから、信楽がまことにとき至って一念慶喜する人は、往生が必ず定まるのだ

ということで、
信心を獲た人は往生が必ず定まるのだ
ということです。

ここから思い出すのは、『尊号真像銘文』の

「若不生者不取正覚」といふは、(略)このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。

です。
若不生者」の「」は、「浄土に生まれる」としか親鸞聖人は仰っていないことを高森会長も判っているのです。

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2019年2月24日 (日)

高森顕徹会長の70年の布教を根底から覆す「念仏のみぞまことにておわします」

本日の高森顕徹会長の話は、前回の続きで「オカシナ話」に対する「オカシクナイ話」をしたようです。その「オカシクナイ話」として

「煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」を親鸞聖人は一生涯教えられた

ということでした。
言葉としては確かに間違ってはいませんが、意図することは間違っています。それは「念仏のみぞまことにておわします」の部分です。

高森会長の70年間の話は、『なぜ生きる2』11章にもあるように

 無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。

です。要するに「念仏さえ称えていれば良いのだ」が間違いだと言い続けてきたのが、高森会長です。これと「念仏のみぞまこと」との整合性についてまともに説明したことがありません。

念仏とは阿弥陀仏の本願(18願)のことだ

と反論するのが関の山でしょうが、18願のことを念仏往生の願と親鸞聖人は仰っているのです。この念仏も18願なら、18願往生の願が18願という訳の判らない話になります。念仏往生の願とは、そのまま「念仏称えて往生する願」です。

訳の判らない、日本語も不自由な高森会長と会員のために、「念仏のみぞまこと」の根拠を教えてあげます。

『教行信証』行巻に

また「念仏成仏これ真宗」(五会法事讃)といへり。

(現代語訳)

また『五会法事讃』には、「念仏して成仏することこそ真実の仏法である」といわれ

念仏成仏これ真宗」は親鸞聖人が作られたお言葉ではないので、「真宗」は宗派の意味ではありません。

親鸞聖人は「念仏成仏これ真宗」というお言葉を好まれて度々使われています。
『浄土和讃』には

念仏成仏これ真宗
 万行諸善これ仮門
 権実真仮をわかずして
 自然の浄土をえぞしらぬ

(現代語訳)

念仏により仏のさとりを開くという教えこそが真実であり、
 さまざまな善い行いによりさとりを開くという教えは方便である。
 真実と方便を分けることなく、
 真実の浄土を決して知ることはできない。

とありますし、『入出二門偈』には

善導和尚、義解していはく、念仏成仏する、これ真宗なり。

(現代語訳)

善導大師は、念仏の教えを解釈していわれている。念仏によって仏のさとりを開く、これこそが真実の教えです。

とあります。
結論は「念仏のみぞまこと」とは、念仏称えて仏になるという教えのみが真実の教えだということで、高森会長の70年間の布教を根底から覆すお言葉だということです。

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2019年2月17日 (日)

トルストイよりも仏教を知らない高森顕徹会長

本日は、高森顕徹会長が久しぶりに座談会で話をしました。座談会の質問は

蓮如上人が映画『なぜ生きる』の中で「オカシナ話」と言われているのは、どんな話でしょうか

というオカシナ質問で、それに対するオカシナ回答をしただけの、とてつもなく中途半端な内容でした。

高森会長のシナリオによる「オカシナ話」とは、

100%死ななければならないのにどう生きるかしか考えていない、死んだらどうなるかを考えていない

ことだそうです。一日かけてその話をして終わりです。「オカシナ話」だから阿弥陀仏の本願を求めましょう、ということすら言わないのです。自分が書いたシナリオを単に解説するだけの、どーでもよい話を聞いて、それで会員が満足したとしたら思考は完全停止しているのでしょう。

午後からは「オカシナ話」をまともに見せかけるために高森会長創作の「人間の実相」の話をしたのですが、この「人間の実相」の話が「オカシナ話」です。

御存知の方も多いでしょうが、一応、説明しておきます。
この元は『仏説譬喩経』の内容だとして今まで話をしてきたのですが、それは大嘘です。実際に見てみると

佛説譬喩經
大唐三藏法師義淨譯
如是我聞。一時薄伽梵。在室羅伐城逝多
林給孤獨園。爾時世尊於大衆中。告勝光王
曰。大王。我今爲王略説譬喩。諸有生死味
著過患。王今諦聽。善思念之。乃往過去。於
無量劫。時有一人。遊於曠野爲惡象所逐。怖
走無依。見一空井。傍有樹根。即尋根下。潜
身井中。有黒白二鼠。互齧樹根。於井四邊
有四毒蛇。欲螫其人。下有毒龍。心畏龍蛇
恐樹根斷。樹根蜂蜜。五滴墮口。樹搖蜂散。
下螫斯人。野火復來。燒然此樹。王曰。是人
云何。受無量苦。貪彼少味。爾時世尊告言。
大王。曠野者喩於無明長夜曠遠。言彼人者。
喩於異生。象喩無常。井喩生死。險岸樹根
喩命。黒白二鼠以喩晝夜。齧樹根者。喩念
念滅。其四毒蛇。喩於四大。蜜喩五欲。蜂喩
邪思。火喩老病。毒龍喩死。是故大王。當知
生老病死。甚可怖畏。常應思念。勿被五欲
之所呑迫。爾時世尊重説頌曰
    曠野無明路 人走喩凡夫
    大象比無常 井喩生死岸
    樹根喩於命 二鼠晝夜同
    齧根念念衰 四蛇同四大
    蜜滴喩五欲 蜂螫比邪思
    火同於老病 毒龍方死苦
    智者觀斯事 象可厭生津
    五欲心無著 方名解脱人
    鎭處無明海 常爲死王驅
    寧知戀聲色 不樂離凡夫
爾時勝光大王聞佛爲説生死過患。得未曾
有。深生厭離。合掌恭敬。一心瞻仰。白佛言。
世尊。如來大慈。爲説如是微妙法義。我今
頂戴。佛言。善哉善哉。大王。當如説行。勿
爲放逸。時勝光王及諸大衆。皆悉歡喜。信
受奉行
佛説譬喩經

漢文ですので、判りにくいかもしれませんが、明確に違うところがたくさんあります。参考までに『浄土真宗本願寺派総合研究所』にある「甘い蜜(黒白二鼠の譬え)」を転載しておきます。

昔、一人の旅人が広い野を歩いていると、後ろから悪ゾウが追いかけてきました。
周りを見まわしても、身を隠すところがありません。
木の根が垂れている、から井戸があるのを見つけました。
その木の根をつたってから井戸の中に身を潜めました。
ほっとするのも束の間、目の前に黒と白の二匹の鼠が出てきて、かわりがわりに木の根をかじっています。
下を見れば古井戸の底で、一匹の大きな毒龍が口をこちらに向けており、四匹の毒ヘビが井戸の四辺にいて、男の落ちてくるのを待ち受けているではないですか。このままでは確実に細い根はちぎれて、龍や蛇に食べられてしまいます。
男は恐怖に身を震わせていました。
木の根にはミツバチの巣がありました。その巣から甘い蜜が五滴、口のなかに堕ちてきました。そのなんとも言えない蜜の甘さに心が奪われ、もっと甘い蜜をなめたいと思って、いまにも切れそうな木の根をゆさゆさと揺すっています。その上さらに、野火がこの木を焼こうとしています。

ここに出てくる広い野とは私たちの永い迷いを喩えています。
ゾウとは無常、井戸は人生、木の根はいのちを喩えています。
黒白の二匹の鼠は昼と夜を喩え、私のいのちが徐々に終わりに近づいていることを示しています。
井戸の周りの四匹の蛇は地・水・火・風の四大を、五滴の蜜は色・声・香・味・所触の五欲を喩えています。
蜂はよこしまな思いを喩え、火は老病を喩えています。
そして龍は死を喩えています。
私たちは、このように知って、世間の楽に心奪われることなく、人生の無常に思いをいたして、苦悩の解決を求めていかなければならないのです。

経典に忠実なのは、高森会長でしょうか本願寺派でしょうか。
言うまでもないことです。

もう一つ参考までにトルストイ著『わが懺悔』(米川正夫訳)

 古い東方の寓話にも、曠野の中で怒り狂う猛獣に襲われた旅人のことが語られている。猛獣をのがれようと思って、旅人は水のない古井戸へ飛び込んだ。ところが、見るとその井戸の底には一疋の龍が、たゞ一呑みと大きな口をあけて待っている。そこでこの不幸な旅人は、怒り狂える猛獣のために命を落としたくなかったが、外へ匍い出ることもできないし、それかといって、龍に食われたくもないので、井戸の底へ飛びこむこともできず、せんかたなく、中途の隙間に生えている野生の灌木の枝につかまって、宙に身を支えていた。そのうちに手が次第に弱ってきた。で、彼は間もなく、前後に自分を待っている死の手に身を委ねなければならぬと感じたが、それでも、宙にぶらさがっていた。そこへ、黒と白と二疋の鼠が現われて、彼のぶらさがっている灌木の幹の周囲を、ちょろちょろと同じ速度で廻りながら、じりじりと噛み耗らすのに気がついた。もう今にも灌木はぶつりと切れてたおれかゝり、彼は龍の口へ落ちてしまうにちがいない。旅人はそれを見て、我が滅亡の避け難いのを知った。しかも、彼はそこにぶらさがっている間、自分の周囲を物色して、灌木の葉に蜜の雫がついているのを発見すると、そこまで舌をのばして、嘗め味わうのであった。

仏教を知らずに、伝聞で知ったトルストイの方が経典の内容に近いです。

高森会長の仏教の知識は、トルストイ以下だということが明白になりました。

思考停止の会員で反論があるなら、いつでもどうぞ。ただし、仏教の経典の根拠で示してくださいね。高森教の経典を出されても困りますよ。

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2019年2月10日 (日)

元気な会員は高森顕徹会長に、「往生一定とハッキリするとは具体的に何がハッキリするのか」質問してみましょう。

高森顕徹会長の休みが長く続いていますが、我儘放題の会長の理不尽な要求に真生会病院の医師も疲弊していることでしょう。

さて、阿弥陀仏に救われるということがどういうことか、高森会長にも親鸞会の会員にも全く理解できないことでしょうが、歴代の善知識方は、高森会長の言うような奇妙奇天烈で摩訶不思議な体験をしたということをどこにも仰っていませんし、救われて判ることは極めて限定的なことだと仰っています。

『正信偈』にもあります、

われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲、倦きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり。

を読んでもそのことが普通なら判るはずです。

この元は、源信僧都の『往生要集』にあり、『教行信証』信巻にも引かれています。

またいはく、「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつるにあたはずといへども、大悲、倦きことなくして、つねにわが身を照らしたまふ」と。

(現代語訳)

また次のようにいわれている(往生要集)。
「わたしもまた阿弥陀仏の光明の中に摂め取られているけれども、煩悩がわたしの眼をさえぎって、見ることができない。しかし阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、そのようなわたしを見捨てることなく常に照らしていてくださる」

源信僧都と言えば、元は仏であったとご自身で仰ったと伝えられ、親鸞聖人もそのように仰っています。『高僧和讃』に

源信和尚ののたまはく
 われこれ 故仏とあらはれて
 化縁すでにつきぬれば
 本土にかへるとしめしけり

とある通りです。

仏であったとされる源信僧都でさえ、阿弥陀仏の光明の中にいることを見ることができないと仰っているのですから、流転輪廻の凡夫が、阿弥陀仏の光明を見ることができるなど、あり得ない話です。まして色も形もない阿弥陀仏のお姿を見ることもできないし、定善ができないのに浄土を見ることもできません。

前回のエントリーでも紹介した『執持鈔』にもあるように、「往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず」で、往生ということも凡夫に認識できる話ではありません。

では何が判るのかといえば、『執持鈔』のお言葉を使うなら「かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。」と、阿弥陀仏におまかせをしたことしか判らないのです。

このように言うと、

往生一定が判ると仰っているではないか!

との机上の空論でしか物の言えない高森会長と会員は反論するでしょうが、往生一定とは、浄土が判ることでも往生の概念が判ることでも阿弥陀仏が認識できることでもありません。

そのことについては二河白道の譬えが最も判りやすいでしょう。

行者が東の岸にいる時に、西の岸の方が仰ったことは、

なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ

です。その仰せに順って白道を進むのです。

この行者が判ったこととは、

この白道を進んで行ったら西の岸に確実に行くことができる

です。
ということは、

我々が阿弥陀仏の18願を信じて、阿弥陀仏におまかせをしたから、往生は一定である

ということになるのです。

つまり

往生一定=すべて阿弥陀仏におまかせをしたこと

です。

救われたのにハッキリしないはずがない!

と喚き散らす元気があるなら、高森会長に質問してみましょう。

往生一定とは、何がハッキリするのですか?
浄土が見えるのですか?
阿弥陀仏が見えるのですか?
阿弥陀仏の声が聞こえるのですか?
往生とはどんなことなのか判る智慧が授かったのですか?

高森会長は答えないでしょう。なお、二種深信にはこれらのことは入っていません。

今まで70年間、高森会長は往生一定がハッキリするとは言ってきましたが、具体的なことは何も説明してきませんでした。
具体的にどうハッキリするのか誰も聞いたことがありません。

その理由は、高森会長は何もハッキリしていないからです。

会員は現実を直視して、高森会長の信心を疑うべきです。

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2019年1月31日 (木)

善悪の生所を自分で定めた高森顕徹会長の自力の妄想

自力と他力の水際については、善知識方はいろいろな言い方で教えられていますが、今回は高森顕徹会長の知らない、言わない御文で説明します。

『執持鈔』には、親鸞聖人のお言葉として覚如上人が書かれたところがあります。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人(源空)の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。しかるにいま聖人の御化導にあづかりて、弥陀の本願をきき摂取不捨のことわりをむねにをさめ、生死のはなれがたきをはなれ、浄土の生れがたきを一定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず。たとひ弥陀の仏智に帰して念仏するが地獄の業たるを、いつはりて往生浄土の業因ぞと聖人授けたまふにすかされまゐらせて、われ地獄におつといふとも、さらにくやしむおもひあるべからず。

そのゆゑは、明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑにとなり。しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

(石田瑞磨著『親鸞全集 別巻』による現代語訳)

浄土に生れるという、これほどの一大事について、愚かなものがさかしらな才覚をめぐらしてはならない、ただ一すじに如来におかませしなければならない。総じて愚かなひとに限らず、次の世に仏となってあらわれることが約束された弥勒菩薩をはじめとして、仏の智慧の不思議になまじいの才覚をしてはならない。まして愚かなひとの浅はかな智慧には、当然許されない。ねんごろに如来の智慧のお誓いにおまかせをしなければならない。これを、仏にすべてを託した、真実の信心をえたひとというのである。

だから自分から、浄土に行くことができそうだとも、また地獄に堕ちるかもしれないとも、決めてはならない。なくなられた上人<黒谷の源空、法然上人のことばである>の仰せられた言葉として、「源空の生れるところへ行こうとお考えになってください」ということをたしかにうけたまわったうえは、たとえ地獄であっても、なくなられた上人のおいでになるところへ行かなければならない、と思うのである。このたび、もし正しい教えの師にお会いしないならば、わたしたち愚かなものはかならず地獄に堕ちるはずである。ところがいま、上人のお導きにあずかって、阿弥陀仏の本願を聞き、救いとってお捨てにならない道理を胸に収め、離れにくい生死の迷いを離れて、生れにくい浄土にかならず生れようと、心に深くたのむのは、けっしてわたしの力によるものではない。たとい、阿弥陀仏の智慧にすべてを託して念仏することが地獄に堕ちる行為でしかないのに、それをいつわって、「浄土に生れるための行為なのだ」、と上人がお教えになることにだまされて、わたしが地獄に堕ちるとしても、けっしてくやしく思うはずはない。

その理由は、智慧の勝れた師にお逢いしないで終ってしまうならば、かならず悪道に行くはずの身だから、というのである。ところが、正しい教えの師にだまされて悪道に行くならば、そのときはひとりで行くはずがない。かならず師と一緒に堕ちて行くだろう。だから、ただ地獄に堕ちるほかない、といっても、なくなった上人のおいでになるところへ参ろうと決心したのであるから、生れるさきの善し悪しはわたしのきめるところではない、というのである。これが自力を捨てて他力にすべてをまかせる姿である。

他力の信心について、最初の段と最後の段で明確に仰っています。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

往生について判るとか、死んだ後にどこに行くのか判るとか、そういうこととは正反対で、私が定めるようなことをせずにすべて阿弥陀仏におまかせをしたことを他力の信心だという説明をされています。

「地獄に堕ちたくないから、助けてください」では、阿弥陀仏に何もまかせていないのです。自分で地獄行きと決めつけ、浄土往きに変更してほしいと請求しているのです。阿弥陀仏にすべてをまかせるとは、死後にどこに行くかも完全にまかせることです。その行き先が判るのではなく、阿弥陀仏が連れて行ってくださるところ、あるいは善知識と同じところに行く、そこが仮に地獄であったとしてもおまかせします、ということ以上のことは何もないのが、他力の信心です。

高森会長が言っているような、救われたら地獄一定とハッキリ知らされる、極楽一定とハッキリ知らされる、などと思っているのを自力というのです。その間違った思いを捨てたのが、他力です。

高森会長が自力の信心を他力の信心と錯覚して、適当なことをいっていることは、親鸞聖人、覚如上人のお言葉で明々白々です。

ここまで言われて悔しいと憤る元気のある講師や会員は、いつでも反論のコメントを受け付けています。ただし、善知識方の仰ったお言葉を基にしたコメントにしてください。なお創作妄想のコメントは憐れみの心をもって拒否します。。

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2019年1月24日 (木)

親鸞聖人が「信後絶対に出ない」と仰った心に満ち溢れている高森顕徹会長

高森顕徹会長が言っている自力と他力の水際について、聖教に掛かれていることとかけ離れていることは、ちょっと調べれば判る話です。ところがマインドコントロールのよく効いている会員は、聖教にどうあるかなど関係なく、高森会長を妄信している状態です。

そこで今回は、高森会長の言っている自力と他力の水際が、どれほどぶれているかを説明します。

古い会員なら知っている教学短冊、教学テキストの中に「信後絶対に出ない心100」という問答がありました。

高森会長が自信を込めて「信後絶対に出ない心」と水際を具体例ではっきりさせたのですが、教学聖典に代わってからは、「信後絶対に出ない心100」がなくなりました。会員は必死になって覚えた内容がいとも簡単に削除されました。その理由は、

信後に出る心があったから

というものでした。私はそれを聞いて愕然としました。「信後絶対に出ない心」が「信後に出るものもある」になった、つまり水際が移動したのです。絶対に動かない水際だったはずが、簡単に動いたのです。

高森会長の「信後絶対に出ない心」の自信は何だったのか。

何のことはない、自力と他力の水際が高森会長の中では定まっていないだけのことのなのです。

ちなみに親鸞聖人は「信後絶対に出ない心」を仰っているところがあります。
『末灯鈔』に

金剛心をとりて候はんひとは、よも師をそしり善知識をあなづりなんどすることは候はじ

と仰っています。高森会長はこれを、信心決定した人に対して善知識を謗ってはいけないと親鸞聖人が禁じられたお言葉と言っていますが、高森会長は古文の基礎が欠落しているのです。この意味は、

信心決定した人は、決して師を謗ったり善知識を侮るようなことはしない

です。「信後絶対に出ない心」だと親鸞聖人は仰っているのです。

ここで高森会長自身のことを見てみると、高森会長は18才で信心決定したと宣言し、華光会の伊藤康善師を師匠、華光会へ導いてくれた増井悟朗師を善知識と仰いできましたが、親鸞会を設立するにあたって両師と絶縁をし、

伊藤康善師をそしり増井悟朗師をあなづりなんどすること

を平気でするようなりました。

親鸞聖人が「信後絶対に出ない心」と仰ったことが、高森会長には「つねに出ている心」なのです。

親鸞聖人と高森会長とどちらが正しいのでしょうか。

会員にそう尋ねると、会員は話をずらしてこのように返してきます。

退会者は救われたと言いながら、高森先生のことを謗っているではないか。

噴飯物の反論です。退会者にとって高森会長は師でも善知識でもありません。かなり贔屓目に見ても、親鸞聖人における比叡山でしょう。普通に考えたら、曇鸞大師における道教でしょう、

高森経を梵焼して楽邦に帰したまひき

親鸞聖人とは無関係な宗教を親鸞聖人の教えと信じている会員は、本当に憐れです。

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«高森顕徹会長と親鸞会が萎み続ける中、永久に獲られることのない創作信心を追い求める哀れな会員