2018年11月11日 (日)

自分が獲てもいない空想妄想創作信心を偉そうに説明する高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話は、

「死んだらどうなるか分からない心」が救われたなら「往生一定」の身になる

ということを中心に話をしていました。
正しいことを言っているのではないかと思う会員や退会後間もない人があるかもしれませんが、大いに間違っています。

死んだらどうなるか分からない心」は、救われても変わりませんし、「往生一定」は「死んだらどうなるか分かる心」ではりません。

まず二種深信の法の深信で説明します。

親鸞会でも引用される『教行信証』の信巻にだけある

二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。

ですが、これは簡単に言い換えると「願力に乗ったなら必ず往生できる」と深信することとです。「願力に乗ったなら」です。これなしの「必ず往生できる」ではないです。

もう一つの法の深信は『教行信証』の行巻と信巻の二か所に引かれています。

いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。

これを簡単に言い換えると、「念仏によって必ず往生できる」と信知することです。「念仏によって」が付いた「必ず往生できる」です。

以上は善導大師から引かれた文ですが、親鸞聖人ご自身のお言葉で言うなら、『末灯鈔』の

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

です。「念仏を称えたならば極楽へ往ける」と深く信じたことです。ここでも「念仏を称えたならば」がついていて、「極楽へ往ける」だけではありません。

『歎異抄』でいうと第2条の

ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり

は、「ただ念仏して阿弥陀仏に助けられる」と信じる以外にないです。ここにも「ただ念仏して」が付いています。

判る人には判ると思いますが、「願力に乗ったなら」「念仏称えたら」という条件を満たしたら「必ず往生できる」「極楽に往ける」のであって、前提の条件なしの話ではありません。要するに、往生の条件について深信した、信知したことを法の深信というのです。

会員からすれば、何を言っているんだと憤慨する内容でしょうが、では二河白道の譬えで説明しましょう。阿弥陀仏の喚び声を聞いて信心を獲た行者はどうなったかといえば、白道を進んでいったなら、必ず西の岸である浄土に往けると信じて進んで行っただけです。

もう一度言いますと、白道は間違いなく西の岸に続いているので、白道を進んで行けば必ず西の岸に行けると信じて進むのです。条件なしで西の岸に行けるとハッキリしたのではなく、この道を進んで行ったなら必ず西の岸に行けるとハッキリしたのです。これが「往生一定」ということです。

高森会長の話に戻ると、「死んだあとどうなるか分かる」のではなく、「念仏往生の願を深く信じたならば死んだあとは阿弥陀仏が浄土に連れて行ってくださると誓っておられるので浄土に往けると分かる」ということです。

自分が獲てもいない空想妄想創作信心の高森会長を信じていると、長い求道は幻と消えます。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2018年11月 9日 (金)

真宗学の基本さえ学んでこなかった高森顕徹会長

19願、定散二善がなぜ「欣慕浄土の善根」と呼ばれるかの理由については、少し説明する必要があります。

実は聖道門で勧められる諸善と、19願の善、定散二善とは、行は同じなのです。違うのは、さとりを得ようとして善をするか、浄土往生を願って善をするのかの違いです。

そのことを『教行信証』化土巻には

五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。

(現代語訳)

五種の正行に対しては、五種の雑行がある。この雑という言葉は、人間や神々に生れる行や菩薩の行などがさまざまにまじっているという意味で雑というのである。これはもとより阿弥陀仏の浄土に往生する因ではなく、浄土を願う心をおこし、これらの行を浄土往生のための善としなければならないから、浄土往生の行としては雑行というのである。

とあります。これは親鸞会でも使う『浄土和讃』の

諸善万行ことごとく
 至心発願せるゆゑに
 往生浄土の方便の
 善とならぬはなかりけり

と同じ意味です。

聖道門で教え勧められている諸善万行はすべて、浄土往生のためとして回心回向したならば、往生浄土の善(=雑行)となる

ということです。
高森顕徹会長の適当創作教義しかしらない会員は、よく判らない話だと思いますので、具体的に言いますと、聖道門で読経という行があります。『般若心経』を読むことでさとりを得るための行としている宗派はいくつもあります。この『般若心経』を読む目的を、さとりを得るためではなく浄土往生としたら、それは「回心回向の善」「往生浄土の方便の善」「雑行」になるということです。

『般若心経』を読むことは聖道門でも浄土門の19願でも共通であっても、その心がさとりを得るためか浄土往生のためかの違いがあるということです。
高森会長が考えた詭弁

雑行を捨てよとは、その心がけが悪いから、悪い心がけを捨てよであって、善をするなではない

が如何に頓珍漢なことか判られるでしょう。雑行の心がけは、浄土往生を目指してということですから、それを捨てたらさとりを得るためという聖道門の善になるのです。
念のため言っておきますと、さとりを得るためでも浄土往生のためでもない善は、倫理道徳の善です。親孝行を浄土往生のために励む人は、あっても極僅かでしょうが、浄土往生のためという心がけを捨てたら倫理道徳の善となるだけのことです。それゆえ倫理道徳の善は、浄土真宗でも大いに勧められますが、雑行は勧められません。当たり前のことです。

mixiでの法論で、この説明をしたら、またまた高森会長と親鸞会は絶句していました。70年間、高森会長は真宗学を何も学んでいないのです。大げさでも何でもなく、高森会長はこんな基本的なことさえ本当に知らないのです。

さて、ここまで理解できると「欣慕浄土」の意味がお判りになるかと思います。聖道門と19願は、行は同じなので、心がけを浄土往生のためと変えるだけで良い、つまり、聖道門の人が19願に入ることに大きな壁はないのです。

聖道門でさとりを得られないと断念した人は、今までやってきた行そのままで浄土往生を目指したなら浄土往生できると誓われた19願を信じやすいです。聖道門からいきなり念仏往生の願である18願に行くことは、今までの行をすべて捨てることになるので、そこには大きな壁がありますが、19願なら入りやすいのです。

ですから、19願は聖道門を断念した人を浄土門に導くための願だと親鸞聖人が仰ったことは、極めて筋の通った理屈になるのです。

それに対して、19願は悪人が18願に入るために絶対に通らなければならないという理屈は、金集め人集め目的の高森会長とマインドコントロールされた脳の中でしか通用しないのです。

| | コメント (12) | トラックバック (0)

2018年11月 6日 (火)

絶句の連続でも法論に負けていないと強弁するおめでたい親鸞会

聖道門を断念した人を浄土門に導くのが19願の役割であると親鸞聖人が解釈されたのは、明々白々の厳然たる事実なのですが、それを突き付けられて苦し紛れに親鸞会が言うのが、

我々も聖道門の機だ

です。
出来の悪い詭弁に苦笑するしかないのですが、mixiの法論では、親鸞聖人の聖道門の定義、浄土門の定義を明示したら、やはり絶句してしまいました。
その定義とは『教行信証』化土巻に

おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく
安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく

とあります。
今生きているこの人間界で聖者となりさとりを得ることを目指すのが聖道門。
死んだ後に浄土に往ってさとりを開くことを目指すのが浄土門。

明確に違います。
自己の修行によって出離、成仏を目指すか、阿弥陀仏のお力で浄土に往生して、成仏を目指すのかということです。
もっと簡潔に言うと、浄土往生を目指すかどうかの違いです。

浄土を目指しながら聖道門だというのは、矛盾以外の何物でもありません。

尤も、親鸞会は浄土往生を目指さず、かといってさとりを得ることも目指さず、空想の絶対の幸福を目指していますので、浄土門でも聖道門でもなく、単なる外道です。

以上を踏まえると、聖道門から浄土門へ入るのに必要なのは、浄土往生を目指すことです。それを欣慕浄土と言われます。

同じく化土巻に

釈家の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。すなはちこれ顕の義なり。

(現代語訳)

善導大師の解釈された意向にしたがって『観無量寿経』をうかがうと、顕彰隠密の義がある。
その顕とは、定善・散善のさまざまな善を顕わすものであり、往生するものについて上・中・下の三輩を区別し、至誠心・深信・回向発願心の三心を示している。しかし、定善・散善の二善、世福・戒福・行福の三福は、報土に生れるまことの因ではない。三輩のそれぞれがおこす三心は、それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、他力の一心ではない。これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるために示された善である。これが『観無量寿経』の表に説かれている意味であり、すなわち顕の義である。

とありまして、「欣慕浄土の善根」と親鸞聖人は仰っています。
19願、『観無量寿経』の定散二善は、浄土往生を願っていない人に、浄土往生を願わせるための善であり、方便だということです。

浄土往生を願っていないのは聖道門の人で、聖道門の人を浄土門に導くために浄土を願わせる必要があり、それが19願、定散二善だと親鸞聖人が仰っているのです。
それは善導大師の解釈によるものであるとも仰っています。

それでは善導大師の解釈とは何かと言うと、二種深信を含む七深信の中にある第三深信

また決定して、釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して人をして欣慕せしむと深信すと。

です。浄土を願っていない人に浄土を願わせるのが、定散二善である、との解釈です。もちろん、浄土を願っていないのは聖道門の人です。

この「欣慕浄土の善根」をmixiで高森顕徹会長に示したら、何度目かの絶句でした。

総まとめをしますと、
・『大無量寿経』の19願を異訳経でみると、19願は菩薩道を作す聖道門の人に対しての願と明示されている。
・善導大師は『観無量寿経』の定散二善は、浄土を願っていない聖道門の人に浄土を願わせるものだと解釈された。
・法然上人は、19願は聖道門の人を18願に導くための願と仰った。
・親鸞聖人は、19願は聖道門を断念した人を浄土門に導き、18願に引き入れるための願だと断言された。

これだけ決定的な証拠が揃っているのですから、19願が、聖道門とは無関係の一般の人に関係があると考える思考は、あり得ないのです。

決定的な証拠以外にも、状況証拠は山ほどあるのですが、それを示すと、膨大な量のエントリーになりますので、今回はこれくらいで留めておきます。

将棋で言うなら、完全に詰んでしまったのに、勝負を続けて、王を取られ、金銀飛車角を取られ、持ち駒すべて取られているのに、

将棋盤がまだあるから勝負はついていない

と言っているような状態です。

いずれにしましても、聖教を全く読んでいないことが丸判りの高森会長です。

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2018年11月 3日 (土)

超選民思想の高森教と合致する19願

会員の中で一番下の親会員の会費が月5,000円となりました。これは他の宗教団体と比較しても驚く金額です。新聞の頻度が違うとは言え、年会費が5,000円なら他の団体でもあり得るでしょうが、親鸞会では年会費にすると60,000円です。
それだけに留まらず、法礼だの報謝だの財施だのと次から次へとお金を巻き上げられます。これに堪えられる人は、まさに”善人”です。常識的な感覚の持ち主では会員になることすら無理ですから、”全人類が救われる教え”と言いながら、超選民思想が高森教だということです。

ところで、『大無量寿経』はインドにあった経典を漢訳した経典ですが、殆ど同じ内容でも時代や訳者の違いなどの事情により、いわゆる異訳経がありました。現在確認できる漢訳経典は、『大無量寿経』以外に『平等覚経』『大阿弥陀経』『如来会』『荘厳経』があります。親鸞聖人は『荘厳経』以外の3つの経典を『大無量寿経』と対比されて、解釈を試みられてます。
たとえば、『大無量寿経』の18願成就文の「乃至一念」を親鸞聖人は信心と解釈された根拠が、『如来会』であることは有名です。
したがいまして、『大無量寿経』の19願を正しく解釈しようとするなら、異訳経を参照することは、普通の作業と言えます。
そこで、『大無量寿経』19願を異訳経で説明したのが、mixiによる法論でした。

詳しくは関連のエントリーを読んで頂ければ結構ですが、結論だけ言うと、『大無量寿経』19願の「十方衆生」は、

『平等覚経』では

諸佛國人民、有作菩薩道者

『大阿弥陀経』では、

八方上下無央數佛國諸天人民、若善男子善女人有作菩薩道

に当たります。
共に「菩薩道を作す」者のことです。

もう一度言いますと、『大無量寿経』19願の「十方衆生」を異訳経で見ると、「菩薩道を作す」者となっていますので、聖道門で修行している、修行していた人のことを意味します。

これをmixi上で高森顕徹会長に突き付けたところ、高森会長以下取り巻き連中は度肝を抜かれた状態で絶句していました。まさか、異訳経が間違っているとも言えないので、これに関しては親鸞会側は沈黙を貫くしかありませんでした。

一応言っておきますと、親鸞聖人は『大無量寿経』18願について、『教行信証』の中で『平等覚経』『大阿弥陀経』との対比されていますが、19願については直接対比はされていません。しかし、前回のエントリーで紹介した『西方指南抄』と『教行信証』化土巻・要門釈は、聖道門の人(正確には聖道門を断念した人)を念仏往生の18願に導くのが19願だと仰っていて、『平等覚経』『大阿弥陀経』を念頭に置かれていたことは、容易に想像できます。

要するに、親鸞聖人の19願は聖道門を断念した人のための願だという解釈は、根拠のないものではなく、『平等覚経』『大阿弥陀経』という異訳経と合致した正統な解釈をされたに過ぎず、その親鸞聖人の正統な解釈を歪曲して『平等覚経』『大阿弥陀経』とも反する解釈をしている高森会長は、頭がおかしいか他の目的があるかのどちらかになります。

なお後日談としては、当時講師部員だったM氏が

親鸞聖人が、「夫れ真実の教を顕わさば、大無量寿経これなり」と仰言った意味も正しく知らず、教行信証の構成も判らぬ者の、とんでもない横車です。教行信証は「大経」の真実を、より鮮明にするために異訳本を次次と示されているのです。その逆に、異訳本に「こうあるから大経の意味はこうなのだ」まさに帽子にあわせて頭をケズル事をしようとしている者と判ります。逆さまです。

(「親鸞会法論惨敗の記録3~飛雲より」参照)

という詭弁を言ってきましたが、親鸞聖人は『大無量寿経』だけでは判らないところを異訳経と対比されて教義を体系化されたのですから、親鸞聖人と同じ手法にケチを付けられる筋合いはありませんし、親鸞聖人の解釈を補足するために出した根拠だということを忘れ去っているところが、実にお粗末な反論です。

尤も、高森教の超選民思想は19願と合致しますので、そこは筋が通っていると言えます、ただし18願には思いっきり反していますが。

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2018年10月31日 (水)

三願転入の教えを再開した理由が、思考停止の会員でも判る状況になりました

親鸞会で会費の値上げが発表されました。これが何を意味するかは、思考力が少しでもあれば判ると思います。今回は何とか財施の発表とは深刻度が違うということです。

これまで、高森顕徹会長は、全国の会館建設で実際に掛かった金額以上のお金を集めるという錬金術に浮かれてきていました。親鸞会の歴史上で、最も効率の良い集金システムであったと思われます。一地域での集金システムというところが、そのポイントで、会員同士の見栄などの名誉欲を上手く使うことで、想定以上のお金が集まって喜んでいたものの、いつまでも会館を造り続けるには限界があり、次の映画での集金システムに移行しても効果は知れていまして、最後に残された会費の値上げで現在の危機を乗り切ろうとの思惑でしょう。

会費の値上げは、会員の反発を招きますので、できれば避けたいところでしたが、止むを得ない状況に陥っているのです。

今年に入って広告費を大量に投入し、高森会長のビデオ公開まで解禁しての、なり振り構わない人集めである程度の人数を揃えることはできました。しかし、喉から手が出るほど欲しいお金が思うように入ってこないのです。

ここまで説明すればお判りでしょう、三願転入の教えを再開した理由が。

ところで70年間の高森会長の布教で、高森会長自身が三願転入したと告白したことがあったでしょうか。このように善に励んで19願を通ってきたと高森会長が話をしたことがあるということを、古い会員からも講師部員からも聞いたことがありません。

理由は簡単です。高森会長自身が、19願を通ってきたとは思っていないからです。

歴代の善知識方がまともに言及されされていない19願ですが、実は法然上人は僅かに仰ったことがあります。親鸞聖人が法然上人の法話の内容を記された『西方指南抄』に

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也

とあります。
諸行之人」とは、「無行之人」ではありません。もともと諸行をしている人のことですから、当然、聖道門の人を指していることになります。19願は、聖道門の人を引き入れて念仏の願である18願に帰せしめるのがその目的である、と法然上人が仰り、親鸞聖人が記されたのです。

つまりは、聖道門での修行をしようとも思っていない一般の人とは関係のない願だというのが、法然上人、親鸞聖人の認識であったということです。

親鸞聖人の直接のお言葉でいうなら、『教行信証』化土巻・要文釈

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。 偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

です。外道から「半満・権実の法門」と呼ばれる聖道門に入ったものの、修行を全うすることができない「」「」なるものが甚だ多いので、「ここをもって」釈尊は『観無量寿経』定善散善を説かれ、阿弥陀仏は19願を建てられたのだ、ということです。
本来浄土門を信じようとしない聖道門の人達も浄土門に引き入れようという御慈悲を仰ったのです。
あまねく諸有海」とあるから、全人類無関係なものはない、と思考停止の会員はワンパターンで言ってきますが、聖道門の人も漏れないようにするから「あまねく」なのです。前半で聖道門の人の話をしているのに、聖道門と関係ない人も19願の対象にするから「あまねく」だというのは、国語の試験では完全な零点です。部分点ももらえません。

法然上人・親鸞聖人は思い付きで、このようなことを仰ったのではありません。経典にもその根拠がありますし、善導大師の解釈からもそのような結論に達したのです。

このことが、mixiでの三願転入の法論の概要です。ここで法論は終わっていたのですが、誤魔化しのために、話を逸らし続けてきただけのことで、実質、以上の内容で法論は決着しています。

せっかくですから経典と善導大師の解釈は次回紹介します。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2018年10月28日 (日)

曇鸞大師の体験談を全否定する高森顕徹会長の謗話

本日の高森顕徹会長の話は、いつものように念仏否定の教えでした。

親鸞聖人の教えについて、学校の教科書では「念仏称えたら極楽浄土に往ける」とあるが間違いだ

今朝の西本願寺のラジオ放送でも「念仏称えたら極楽浄土に往ける」と間違ったことを言っていた

と宣っていました。報恩講の時と何ら変わり映えのしない妄想を垂れ流しています。

結論は、

親鸞聖人 念仏を称えて極楽浄土に往生できると深く信じたことを他力の信心という
----------------------------------------------------------------------
高森会長 念仏を称えて極楽浄土に往生できるというのは間違い

なのです。
その根拠はたくさんあり、いくつか紹介もしてきましたが、高森会長お得意の『歎異抄』で信心の内容を言うなら、

往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころ

ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずる

であり、「念仏よりほかに往生のみち」はないと信じた心です。

三願転入だの19願だのと煩いのに、念仏を排斥する高森会長は、聖道門よりも酷いです。

念仏称えて極楽浄土に往く、が浄土門の基本ですので、それを否定したら日蓮系と同じです。

信心を獲ていない人に対しての念仏の扱いについて、獲信者の体験談を親鸞聖人、蓮如上人のお言葉で紹介されているので、それを示しておきます。
それは曇鸞大師の体験です。蓮如上人の『正信偈大意』が最も詳しいです。

「三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦」といふは、かの曇鸞大師、はじめは四論宗にておはせしが、仏法のそこをならひきはめたりといふとも、いのちみじかくは、ひとをたすくることいくばくならんとて、陶隠居といふひとにあうて、まづ長生不死の法をならひぬ。すでに三年のあひだ仙人のところにしてならひえてかへりたまふ。そのみちにて菩提流支と申す三蔵にゆきあひてのたまはく、「仏法のなかに長生不死の法は、この土の仙経にすぐれたる法やある」と問ひたまへば、三蔵、地につばきを吐きていはく、「この方にはいづくのところにか長生不死の法あらん、たとひ長年を得てしばらく死せずといふとも、つひに三有に輪廻すべし」といひて、すなはち浄土の『観無量寿経』を授けていはく、「これこそまことの長生不死の法なり、これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし」とのたまへば、曇鸞これをうけとりて、仙経十巻をたちまちに焼きすてて、一向に浄土に帰したまひけり。

菩提流支が信前の曇鸞大師に対して何を勧められているでしょう。

これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし

言い換えると

念仏を称えたなら極楽浄土に往くことができる

と菩提流支が信前の曇鸞大師に勧められて、「曇鸞これをうけとりて、一向に浄土に帰したまひけり」で、曇鸞大師は信心を獲られたということです。

まとめ。

念仏を称えたなら極楽浄土に往くことができる、と教えられて信心を獲る

では、思考力のある方に質問です。

念仏を称えたなら極楽浄土に往くことができるが間違い、と教えられて信心が獲られますか?

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2018年10月26日 (金)

19願を無視された歴代の獲信者、一方で19願を重要視する聖道門と高森顕徹会長

思考停止と国語力の劣った高森顕徹会長と愉快な仲間達のために、今回は簡単な話をします。

18願で救われるために、必ず19願を通らなければならないとするならば、歴代の獲信者は、19願を通ったと告白するか、19願を通りましょうと勧める言葉のどちらかがあってしかるべきです。

まず韋提希に関しては、親鸞会では定善をしようとしたというお伽噺を信じているので、19願を通ったというかもしれませんが、韋提希は定善をしようともしていませんし、散善を説かれる前に獲信していますので、韋提希も19願を通っていません。
しかし、ここは少し説明が必要なので、とりあえずこの程度に留めておきます。

この後は単純です。

阿闍世 釈尊に善を勧められてさえいない。
龍樹菩薩 19願の言及なし。
天親菩薩 19願の言及なし。
曇鸞大師 19願の言及なし。
道綽禅師 19願の言及なし。
善導大師 19願は往生を誓われた願の1つとして紹介されたのみで、それ以上の説明なし。
源信僧都 19願は臨終来迎を誓われた願として紹介されたのみで、それ以上の説明なし。
法然上人 『選択本願念仏集』に19願の言及なし。(故に、「19願を無視するとは何事か」と聖道門から激しい非難攻撃をされる)
覚如上人 19願は臨終来迎と諸行往生を誓われた願と仰ったのみで、それ以上の説明なし。
蓮如上人 19願の言及なし。
庄松 19願の言及なし。
おかる 19願の言及なし。

如何でしょうか。この状況で18願で救われるためには必ず19願を通らなければならないという理屈は成り立たないのです。

例外として親鸞聖人だけが、19願の説明を詳しくされたのですが、それも『教行信証』化土巻と『三経往生文類』の二か所だけです。『教行信証』をまとめられた『浄土文類聚鈔』には19願の言及はありませんし、『正信偈』にも19願はありません。また『三経往生文類』は、19願では化土往生しかできないという説明であり、18願や20願との関連はないです。
法然上人の項目でも述べましたが、聖道門から「19願を無視している」と非難攻撃され、その上弾圧までされた親鸞聖人は、聖道門への反論として、19願の説明をせざるを得なかったという経緯があるのです。

簡単にまとめると

19願が必要だ、と言っていたのは聖道門であり、19願は不要と教えられたのが獲信者だということです。

それでは納得しない聖道門のために、親鸞聖人が説明されたのが、

19願は18願へ導くための方便の願だ

ということです。

当時の仏教界の情勢と歴代の獲信者の告白・教えを見たら、実に単純な話なのです。
三願転入という言葉自体、後世の学者が名付けただけで、蓮如上人までそんな言葉は存在しなかったのです。

高森会長も、今回のエントリーの内容については理解しているのですが、そんなことはお構いなしで三願転入を会員に押し付けないといけない事情があるのです。

金集め人集めに窮しているのです。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2018年10月21日 (日)

再開した三願転入の妄想話

本日の高森顕徹会長の話は、三願転入でした。長らく表沙汰にしてこなかった三願転入を会員に向けて話をしたということは、それだけ善の勧めを言わないといけない状況になっているということです。

三願転入についての法論はすでに完全に決着しています。
2010年3月にmixi上で始まった法論ですが、すぐに決着しました。

詳細は

「親鸞会法論惨敗の記録~飛雲より」

をご覧ください。

全部説明すると長くなりますので、結論だけ簡潔に述べますと、

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉がない

ということを高森会長が認めざるを得なかったということです。
どういうことかと言えば、

三願転入が全人類必然の道であるならば、親鸞聖人はその最初の19願を信じて実践することを勧められている筈です。当たり前の話です。

高森会長が親鸞聖人のお言葉を出せなかったという証拠は『なぜ生きる2』6章にこうあります。

 もし三願転入の弥陀の救いが、親鸞聖人や一部の人に限定されることならば、十九願の人々に、折れず曲がらず速やかに二十願に進めよの、聖人の励ましは『教行信証』になかったであろう。
 それが幾たびも見かけるのだ。

 総ての人々よ。十九の願から二十願に進んでおくれ。必ず十八願・選択の願海へ転入させて頂けるのだから。

 以下は、その文証である。

それ濁世の道俗(すべての人)、速に円修至徳の真門(二十願)に入りて、難思往生を願うべし」(『教行信証』化身土巻・末)

 特定の人を「濁世の道俗」とは言われない。三願転入は、すべての人の道程だから「濁世の道俗」と言われているのである。

如何でしょうか。この詭弁を詭弁と見抜くかどうかが、会員と退会者との差になるのかもしれません。

ここは、親鸞聖人が20願を勧められたお言葉についてです。それは高森会長も認めるところですが、肝心要の19願を勧められたお言葉がないのです。親鸞聖人は「濁世の道俗」に20願を勧められているから、三願転入はすべての人の道程だ、という理屈です。

20願は果遂の誓いですから、20願から18願という道程は親鸞聖人も仰っています。

『浄土和讃』には、

定散自力の称名は
 果遂のちかひに帰してこそ
 をしへざれども自然に
 真如の門に転入する

とあるのも同様です。

しかし、19願を必ず通るかどうかについては、ここでは関係のない話です。

20願への入り方でいえば、

1.外道・無宗教から20願に入る
2.聖道門から20願へ入る
3.19願から20願へ入る

という3通りがあります。
この中で1と2はなく、なぜ3だけが必須の道程になるのか、根拠がないのです。

親鸞聖人も七高僧も覚如上人も蓮如上人も19願を勧められたお言葉がないのですから、当然、19願から始めなければならないという理屈は消滅します。

19願を勧められた親鸞聖人のお言葉はなく、20願は勧められた親鸞聖人のお言葉はある

この事実が、三願転入は、すべての人の道程とならないことを証明する最大の根拠になります。

親鸞会の誇る高学歴集団を駆使しても、この程度の詭弁が限界なのです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2018年10月14日 (日)

親鸞聖人の教えに無知で正反対の信心を自慢する高森顕徹会長と愉快な仲間達

昨日と本日は親鸞会の報恩講でした。昨日には里見浩太朗氏が会館に来て、自分の生い立ち話と歌を披露し、帰り際に社交辞令の言葉を残していきました。

具体的に、高森顕徹会長の話のここが良かったと言わず、また親鸞聖人の教えの素晴らしさが判ったとか、絶対の幸福になりたいとか言えないところが、高森会長の与太話を物語っています。
さて、親鸞会は里見浩太朗氏を広告に使っただけであるのは、言うまでもありません。これまでの”有名人とお友達になりたい”作戦と何ら変わりがありません。
もちろん親鸞聖人の教えを、命がけで伝えようなどという考えは、欠片もないです。

さて、今回は『歎異抄』第1条の

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

を使って話をしていました。

ここに信心と念仏とが表現されていますが、高森会長の説明は

「往生できると明らかになり」
「念仏称えようと思い立った」
「摂取不捨の幸福にして頂く」
の3つが同時に起こる

というものでした。
これを高森流の言葉で簡潔に言うと、

信心を獲て絶対の幸福になった後に念仏を称える

ということです。
要するに、信心と念仏は別で、信心とは悟りに近い何か特別なものを阿弥陀仏から頂く、としか理解できていないのです。

その証拠に、高森会長は本日、

かつての教科書には、念仏を称えると極楽浄土に生まれることができると親鸞聖人は仰ったと書かれてあったが、それは間違いである

と言っていることです。

これまで幾度も述べてきましたが、親鸞聖人が仰る他力の信心とは、

念仏を称えると極楽浄土に生まれることができると深く信じた心

ということです。その根拠で最も判りやすいのが、『末灯鈔』の

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。

です。
『歎異抄』でいう「弥陀の誓願」とは、「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる」です。
念仏を称えると極楽浄土へ迎えてくださると誓われているので、高森会長が間違いだと言っていることが間違いなのです。
他力の信心とは、「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じて」「念仏往生とふかく信じて」です。
前々回述べた法の深信で言うなら、

いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して

念仏によって極楽浄土に生まれることができると信知したことを法の深信と親鸞聖人が仰っているのです。

つまり、高森会長が信じていること、信知していることは、親鸞聖人とは正反対です。

まとめると

親鸞聖人 念仏を称えて極楽浄土に往生できると深く信じたことを他力の信心という
----------------------------------------------------------------------
高森会長 念仏を称えて極楽浄土に往生できるというのは間違い

なお、以上では納得できない思考停止の愚か者のために他の根拠を出すと、
『唯心鈔文意』に

ひとへに御なをとなふる人のみ、みな往生すとのたまへるなり

とあり、また『尊号真像銘文』に

安養浄土の往生の正因は念仏を本とす

御名を称するはかならず安楽浄土に往生を得るなり

ともあります。これだけではなく、まだ同じような根拠はありますが、思考停止の頭では混乱するだけでしょうから、今回はこの程度にしておきます。

| | コメント (14) | トラックバック (0)

2018年10月 5日 (金)

なんちゃって二種深信を妄信する高森顕徹会長と愉快な仲間達

親鸞会が法論で劣勢になると起死回生で伝家の宝刀と思って出してくるのが、二種深信です。二種深信を体得して正しく説明できるのは、高森顕徹会長だけだ、という大いなる錯覚が原因でしょう。

高森会長は、二種深信を体得もしていないし、聖教を読む能力もない、単なるなんちゃって善知識です。

これまでの法論では、親鸞会の伝家の宝刀を木っ端微塵に破壊してきました。
今回はその一端を示しておきます。

高森会長最大の駄作である『なぜ生きる2』に二種深信の説明があります。

地獄より行き場のない身だと疑い晴れ、いつ死んでも浄土往生間違いなし、と疑い晴れているからだ。大悲の願船に乗ずると、何人も、この二つのことに疑い晴れる。
これを「二種深信」という。

大沼法竜師の二種深信の説明を劣化コピーしたものです。
高森会長は、二種深信の基礎を知らないのです。

二種深信を最初に取り上げられたのは存覚上人です。存覚上人は、蓮如上人が釈迦の化身・勢至菩薩の化身とまで絶賛され、存覚上人の解釈をそのまま受け入れよとまで蓮如上人は仰っています。
その存覚上人が『教行信証』を解説された『六要鈔』に、二種深信についてこのようにあります。

次に深心を釈する中に、「二者」等とは、これ経文を牒す。「深」等というは、能信の相を明かす。「亦有」等とは、所信の事を顕かす。これ則ち機法二種の信心なり。「無有」等とは、正しく有善・無善を論ぜず、自の功を仮らず、出離は偏に他力に在ることを明かす。聖道の諸教は盛んに生仏一如の理を談ず。今の教は自力の功なきことを知るに依りて、偏に仏力に帰す。これに依りて、この信は殊に最要なり。「無疑」等とは、「若不生者不取正覚」、正覚既に成ず、故に無疑という。「即得往生住不退転」一念誤ることなし、故に無慮という。

機の深信については、「正しく有善・無善を論ぜず、自の功を仮らず」「聖道の諸教は盛んに生仏一如の理を談ず。今の教は自力の功なきことを知るに依りて」とあります。地獄とかそんな内容のことは一切ありません。
善ができてもできなくても関係なく、自分の行いによる功徳では、出離できないことを知ることです。
「善をしなくても助かる」という退会者に対しての反論として高森会長が指導したのが、

「では悪をすれば助かるのですか」と言えばよい

でした。善をしないなら悪をする、という発想が機の深信に無知な証拠です。善をすることも、悪をすることも共に、「自力の功」です。この一点だけでも、高森会長が機の深信を体得していないと言えます。
存覚上人の解説をもう少し詳しく見ると、「聖道の諸教」と比較されています。

つまり、機の深信とは元々、聖道門では出離できないという内容なのです。それは善導大師の告白を読むとよく判ります。

『散善義』

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。 他はことごとく身命を惜しまず。 道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。 しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。 煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

(現代語訳)

わが身は、 無始よりこのかた、 他のものと同時に、 発願し、 悪を断ち、 菩薩の道を行じたのに、 他のものはことごとく身命を惜しまず、 修行して位を進め、 因が円満し、 果が成就して、 聖者の位を証した。その数は、 大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、 われら凡夫は過去より今日に至るまで、 いたずらに流転して、 煩悩の悪障が次第にますます多くなり、 福徳智慧のきわめて少ないことは、 重昏をもって明鏡に望むがようである。 今このことを考えると、 どうして心驚き悲しまずにおられようか。

聖道門では出離できないのではなく、身命を惜しまずに修行した多くの法友が出離していった中で、自分は落ちこぼれの凡夫だから出離することができないのだ、との告白です。

地獄より行き場のない身」だなんていう低レベルの話かどうかは、聖教をちょっとでも読んだら判る話です。

法の深信についての存覚上人の解説は簡潔で、「出離は偏に他力に在ることを明かす」「偏に仏力に帰す」です。聖道門に代表される「自力の功」では出離できないが、阿弥陀仏の18願によって出離することができる、と深く信じたことを法の深信というのです。
いつ死んでも浄土往生間違いなし」ではなく、浄土往生の道は「他力」「仏力」だと深く信じたことです。

地獄が判るわけでもなく、浄土が判るのでもないです。あくまで出離の手段、浄土往生の手段が自力ではなく他力と判ったことを二種深信というのです。

今回の内容は、日本語の能力が一般人並みであっても、真宗の教えの基本がないと難しいかもしれません。

創作妄想勘違いのなんちゃって二種深信を妄信している高森会長と愉快な仲間達には、チンプンカンプンでしょうね。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

«真実の二種深信と正反対の高森妄想二種深信との違い