2019年6月16日 (日)

「一心に正念にしてただちに来れ」の本願招喚の勅命

念仏については、自力他力があり、勧められているのか勧められていないのか、単純な話ではありませんので、もう少し説明します。

阿弥陀仏の18願は、二河白道の譬えの中で、阿弥陀仏の喚び声で表現されています。

なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ

この解説は『浄土文類聚鈔』にあります。

これによりて師釈を披きたるにいはく、「西の岸の上に人ありて喚ばひてのたまはく、〈なんぢ、一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉」と。また〈中間の白道〉といふは、すなはち、貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。仰いで釈迦の発遣を蒙り、また弥陀の招喚したまふによりて、水火二河を顧みず、かの願力の道に乗ず」と。{略出}
ここに知んぬ、「能生清浄願心」は、これ凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なるがゆゑに清浄願心とのたまへり。しかれば、「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり。深心はすなはちこれ堅固深信なり。堅固深信はすなはちこれ真心なり。真心はすなはちこれ金剛心なり。金剛心はすなはちこれ無上心なり。無上心はすなはちこれ淳一相続心なり。淳一相続心はすなはちこれ大慶喜心なり。大慶喜心を獲れば、この心三不に違す、この心三信に順ず。この心はすなはちこれ大菩提心なり。大菩提心はすなはちこれ真実信心なり。真実信心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。

阿弥陀仏は、我々に対して「ただちに来れ」と喚んでおられますが、その条件が、「一心に正念にして」です。「一心」については、言い換えをたくさんされていますが、判りやすいお言葉では「真実信心」です。「正念」については、「正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。」と仰っていますので、念仏です。
要するに、真実の信心で念仏してただちに来なさい、と阿弥陀仏が仰っているのだと解釈されたのが親鸞聖人です。これが本願招喚の勅命です。

自力の念仏を称えて来なさい、でもなく、念仏称えずに来なさい、でもないです。他力の念仏を称えて来なさい、ですので、念仏は往生の条件だと親鸞聖人が仰っているのです。

では、阿弥陀仏の喚び声を聞く前は、何かをしてこいと仰っているかと言えば、二河白道の譬えには何も仰っていませんので、親鸞聖人の教えでは、最初から他力の念仏が勧められているとしか言いようがないのです。

しかしながら、自力の信心で念仏の行に励む人がいますので、そういう人に対して親鸞聖人は、誡めのお言葉をたくさん残しておられことを以前にも書いた通りです。

最も厳しくしかも詳しく仰ったのが、『教行信証』化土巻の真門釈で、その結論が、

おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。

(現代語訳)

大乗や小乗の聖者たちも、またすべての善人も、本願の名号を自分の功徳として称えるから、他力の信心を得ることができず、仏の智慧のはたらきを知ることがない。すなわち阿弥陀仏が浄土に往生する因を設けられたことを知ることができないので、真実報土に往生することがないのである。

です。
ここを注意深く読むと判りますが、悪人は入っていないのです。「本願の嘉号をもつておのれが善根とする」のは善人であって、悪人は「本願の嘉号をもつておのれが善根とする」ことがないということです。悪人の定義が、善ができないし、善をしようとも善ができるとも思っていない人のことですので、このように親鸞聖人は仰ったのであろうと思われます。

そうなりますと、親鸞聖人が唯一、自力の念仏を勧められたと言える真門釈の最初にある

それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願ふべし。

は、善人に対してのことであり、聖道門及び要門にいる人に対してのお言葉とみるべきでしょうから、結局は、すべての人に対して親鸞聖人が自力の念仏を勧められたお言葉というのは、聖教上ではないことになります。

念仏を中途半端にしか理解できていないと、何十年と布教使を続けていても親鸞聖人の教えは半分も判らないでしょう。

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2019年6月10日 (月)

法然上人と親鸞聖人の念仏についての見解の違い

前回の続きです。

 
法然上人は明らかに、自力の念仏を勧められています。しかも、自力の念仏から他力の念仏になるという意味合いです。
親鸞聖人は、それを否定されてはいません。
それは『浄土和讃』大経讃に
 
定散自力の称名は
 果遂のちかひに帰してこそ
 をしへざれども自然に
 真如の門に転入する
 
とあることからも判ります。
 

しかしながら、前回も言いましたように、親鸞聖人に積極的な自力の念仏の勧めというのはないのです。つまり、法然上人の教えられたこととは若干のずれがあるのです。

 
たとえば『選択本願念仏集』で法然上人はこのように仰っています。
 
わたくしにいはく、「少善根福徳の因縁をもつて、かの国に生ずることを得べからず」といふは、諸余の雑行はかの国に生じがたし。ゆゑに「随縁雑善恐難生」といふ。少善根とは多善根に対する言なり。しかればすなはち雑善はこれ少善根なり、念仏はこれ多善根なり。ゆゑに龍舒の『浄土文』にいはく、「襄陽の石に『阿弥陀経』を刻れり。すなはち隋の陳仁稜が書けるところの字画、清婉にして人多く慕ひ玩ぶ。〈一心不乱〉より下に、〈専持名号以称名故諸罪消滅即是多善根福徳因縁〉といふ。今世の伝本にこの二十一字を脱せり」と。{以上}
ただ多少の義あるのみにあらず。また大小の義あり。いはく雑善はこれ小善根なり、念仏はこれ大善根なり。
 
(現代語訳)
 
わたくしにいう。 「少善根福徳の因縁をもっては、 かの国に生まれることはできない」 というのは、 念仏よりほかのいろいろの自力の行では、 かの国に生まれ難いから、 「おのおのの根機に応じて作った雑善では恐らくは生まれがたい」 というのである。
少善根というのは、 多善根に対する言葉である。 そうであるから雑善は少善根であり、 念仏は多善根である。 そこで、 龍舒の『浄土文』に、
「襄陽にある石に刻んだ『阿弥陀経』は、 すなわち隋の陳仁稜が書いたもので、 字がうるわしく、 人が多く慕い愛でるが、 「一心にして乱れず」 の下に 「専ら名号を持ち、 名を称するを以ての故に諸罪消滅す。 即ち是れ多善根福徳の因縁なり」 と記されてある。 今の世に伝わる本には、 この二十一字が脱ぬけている。」 以上
といってある。
ただに多少の義があるばかりではなく、 また大小の義もある。 すなわち雑善は小さい善根であり、 念仏は大きい善根である。 
 
ここで法然上人が仰っていることは、諸善は「少善根福徳の因縁」であるから浄土に生まれることはできないが、念仏は「多善根福徳の因縁」であるから浄土に生まれることができるのだ、ということです。化土往生については仰っていないので、18願の報土往生について念仏は「多善根福徳の因縁」だということになります。
 
ところが親鸞聖人はこの襄陽の石碑について『教行信証』化土巻の真門釈でこのように仰っています。
 
元照律師の『弥陀経の義疏』にいはく、「如来、持名の功勝れたることを明かさんと欲す。まづ余善を貶して少善根とす。いはゆる布施・持戒・立寺・造像・礼誦・座禅・懺念・苦行、一切福業、もし正信なければ、回向願求するにみな少善とす。往生の因にあらず。もしこの経によりて名号を執持せば、決定して往生せん。すなはち知んぬ、称名はこれ多善根・多福徳なりと。むかしこの解をなしし、人なほ遅疑しき。近く襄陽の石碑の経の本文を得て、理冥符せり。はじめて深信を懐く。かれにいはく、〈善男子・善女人、阿弥陀仏を説くを聞きて、一心にして乱れず、名号を専称せよ。称名をもつてのゆゑに、諸罪消滅す。すなはちこれ多功徳・多善根・多福徳因縁なり〉」と。{以上} 
 
(現代語訳)
 
元照律師の『阿弥陀経義疏』にいっている。 
「釈尊は、念仏の功徳がすぐれていることを明らかにしようとされ、まず念仏以外の善を劣ったものとしてわずかな功徳しかないといわれる。布施をし、戒律をたもち、あるいは寺を建て、仏像をつくり、仏を礼拝し、経を読み、または座禅をし、懺悔し、苦行するなどのすべての善は、もし正しい信がなかったなら、そのような善によって浄土に往生しようと願っても、みなわずかな功徳しかなく、往生の因ではないのである。もし、『阿弥陀経』の教えにしたがって念仏するなら、間違いなく往生するであろう。だから念仏は多くの功徳があると知ることができる。
かつて、わたしはこのような解釈をしたが、世間の人はなお疑って信じなかった。しかし最近、襄陽の石碑に刻まれた『阿弥陀経』の文を見たところ、わたしの解釈と見事に一致しており、そこではじめて深く信じるようになったのである。その文には次のように説かれている。<善良なものよ、阿弥陀仏について説かれるのを聞いて、心を乱すことなくただひとすじに名号を称えるがよい。名号を称えることにより、あらゆる罪が除かれる。すなわち念仏は多くの功徳をそなえて行である>」 
 
化土巻の真門釈ですから、親鸞聖人は20願の自力の念仏についてと解釈されているのです。
法然上人は、念仏は「多善根福徳の因縁」だから報土往生できるのだと教えられ、
親鸞聖人は、自力の念仏は「多善根福徳の因縁」だから化土往生できるのだと教えられた
ということになります。
 
念のためもう一度言いますが、
 
親鸞聖人は法然上人の教えられたことを否定はされていません。しかし、念仏についての見解には、ずれがあるのです。
親鸞聖人は、自力の念仏を否定されてはいませんが、積極的な勧め方をされていないということは、知っておかねばなりません。

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2019年6月 4日 (火)

親鸞聖人が他力の念仏を最初から勧められたことを知らない親鸞会

某所で某退会者が教義について書いた内容を、親鸞会の講師部員が間違いを指摘して、あっけなく退会者が論破されることが繰り返されました。正直言いまして、擁護しようのない内容でしたので、当然の結末でしょう。親鸞会を論破することなど、実に容易いのですが、だからと言って親鸞会と同じように聖教に基づかない創作教義を持ち出しても親鸞会を論破できると思ったら大間違いです。

退会者も、親鸞会を邪義と批判するなら、自分が邪義を言わないように聖教をよく読むことを勧めます。

さて、高森顕徹会長の邪義は邪義のままですが、その邪義の内容は変化してきています。念仏誹謗に近い念仏軽視から、念仏の肯定に転じてきたことは、ある意味評価しても良いです。もちろん、邪義は邪義ですが、過激な邪義から落ち着いた邪義に変わったことは認めましょう。

この念仏については、実は簡単に説明できる内容ではありません。特に信前の念仏について親鸞聖人が勧められている、とは単純に言い切れないからです。

『正像末和讃』誡疑讃23首についてほとんどが自力の念仏についてですが、例えば最初の2首は

不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

仏智の不思議をうたがひて
 自力の称念このむゆゑ
 辺地懈慢にとどまりて
 仏恩報ずるこころなし

とあるように、自力の念仏では化土にしか往けない、という誡めとして仰っているのであって、自力の念仏を勧められているのではありません。

この後にある

信心のひとにおとらじと
 疑心自力の行者も
 如来大悲の恩をしり
 称名念仏はげむべし

は自力の念仏を勧められているお言葉だと思う人もあるでしょうが、この誡めの流れの中ですので、「如来大悲の恩をしり」が他力の信心を獲ての意味になり、信後他力の「称名念仏はげむべし」となります。

似たような勘違いをしやすいのが『高僧和讃』龍樹讃の

不退のくらゐすみやかに
 えんとおもはんひとはみな
 恭敬の心に執持して
 弥陀の名号称すべし

です。これは龍樹菩薩の教えられた内容ですので、『正信偈』で言えば

唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩

と同じで、「恭敬の心に執持して」が他力の信心を獲ての意であり、信後他力の「弥陀の名号称すべし」です。

つまり、親鸞聖人の御著書の中で、信前の自力の念仏を勧められた直接のお言葉というものがないのです。ただし、20願から18願へ転入するというお言葉はあります。

では念仏を勧められていないのかと言えば、『教行信証』行巻を読めば判りますが、行巻にある他力の念仏を勧められています。

自力の念仏を飛ばしていきなり他力の念仏?

と思われるかもしれませんが、聖教上ではそのようにしか書かれていません。

典型的なのが『安楽集』を引かれた

『観仏三昧経』にいはく、〈父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまふ。父の王、仏にまうさく、《仏地の果徳、真如実相、第一義空、なにによりてか弟子をしてこれを行ぜしめざる》と。仏、父の王に告げたまはく、《諸仏の果徳、無量深妙の境界、神通解脱まします。これ凡夫の所行の境界にあらざるがゆゑに、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる》と。

(現代語訳)

『観仏三昧経』に、<世尊は、父である浄飯王に念仏三昧を修めるようにお勧めになった。父の王は世尊に、≪仏のさとりの徳は真如実相第一義空とのことでありますが、それを観ずる行を、どうして弟子であるわたしに教えてくださらないのですか≫とお尋ねした。
世尊は父の王に、≪仏がたのさとりの徳は、はかりがたい深い境地であり、仏は神通力や智慧をそなえておいでになります。これはとうてい凡夫が修めることのできる境地ではありません。そこで、父の王に念仏三昧を修めることをお勧めしたのです≫と仰せになった。

です。
行巻ですので、他力の念仏についての内容として親鸞聖人が顕わされた内容になります。

とはいうものの、他力の念仏の前には、自力の念仏が通常はありますので、自力の念仏を誡めはされても否定されているのでないことは、普通に考えれば判る話でしょう。

まだまだ説明が必要ですが、今回はここまでで。

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2019年5月19日 (日)

大沼法竜師の説明を受け売りして恥をかき続ける高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話は、また

「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです」とは、どんなことでしょうか」

との質問に答える座談会でした。

自分の創作した言葉の解説を延々とし続ける意図は、批判されることへの恐れを抱いた自信のなさの表われです。

いつもの邪義の連続で大した話はありませんでしたが、邪義の中で一つだけ取り上げておきます。

阿弥陀仏が「すべての人」を「極重の悪人」と見て取られて本願を建てられた

というところです。大沼法竜師が言われていたことの受け売りですが、これは間違いです。

極重の悪人」とは、『正信偈』の

極重悪人唯称仏

から取っているのでしょうが、この元は源信僧都の『往生要集』の

『観経』に「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」と。

です。『観無量寿経』の内容を示されたものですが、この更に元は、善導大師の弟子であった懐感禅師の『釈浄土群疑論』にある

『観経』の下品上生、下品中生、下品下生の三処の経文には、みなただ弥陀仏を念じて浄土に往生すと陳ぶ。

です。ここで『観無量寿経』の九品について見てみますと、

「上品上生」「上品中生」「上品下生」は、行福を行じている善人
「中品上生」「中品中生」は、戒福を行じている善人
「中品下生」は、世福を行じている善人
「下品上生」「下品中生」「下品下生」は、無三福の悪人

となります。したがって、源信僧都の仰る「極重の悪人」とは、悪人の中の最も下に当たる「下品下生」のことを指しているのは浄土門の常識です。源信僧都が仰っていることは、「下品下生」の「極重の悪人」は、念仏だけを勧められていて善という方便がない、その念仏を称えて極楽に往生する、と『観無量寿経』に説かれている、ということです。

これがどういうことかというと、「上品上生」から「中品下生」までの善人がいるということであり、悪人でも「下品上生」「下品中生」もいるということです。

そんなことはない、親鸞聖人は全人類を「極重の悪人」とみておられた!!!

と根拠のない反論をしてくるでしょうから、この御文を使って言い換えられた親鸞聖人の御文を示しておきます。『往生要集』のお言葉に「定散の諸機」を加えられて、『教行信証』化土巻の要門釈で

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

と仰っています。「極重の悪人」には他の方便がありませんが、善人である「定散の諸機」には他の方便がありますので、「定散の諸機」の入ったこの御文には「他の方便なし」が無くなっています。

なぜかって、「定散の諸機」がいるからです。

それでも納得しないでしょうからもう一つ信巻から

禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。

高玉・智覚禅師は、上品だということです。

高森会長の邪義など、たやすく暴くことができます。なぜなら、その程度の人物だからです。

 

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2019年5月12日 (日)

係念の宿善?の念仏を勧めた?高森顕徹会長?

本日の高森顕徹会長の話は、いつもとは違う意味で驚きの内容でした。聖人一流の章を通しての話でしたが、その中で、念仏について以下のような発言がありました。

信心を獲てお礼の念仏を称えさせていただく身になるまでの念仏は、無意味ではなく宿善になる

親鸞聖人の教えとしては問題がありますが、高森会長が信前の念仏を”宿善”として肯定した話は、記憶にありません。しかし、絶版となった『会報』の第三集には

係念の宿善というのは過去に於て自力ながらも心を阿弥陀仏一仏にかけて念仏してきた善根をいい、諸仏の浄土を願わず、ただ弥陀一仏に念を係けて来たのだから係念といわれる。
『大無量寿経』には、これを「若人無善本」といい、二十願には「植諸徳本」と説かれている。『定善義』に「過去已曾・修習此法・今得重聞」とあるのも、この係念の宿善を示すものである。

とありますので、高森会長の頭の中では、信前の自力の念仏を肯定しています。しかし、それでは金集め人集めができないので、会員向けにはそれを封印して諸善を強力に勧めてきた歴史があります。
その一例が、9年前にmixi上で高森会長と退会者の間で行われた三願転入の法論です。退会者からの質問に高森会長が会心の一撃のつもりで答えたのが以下です。

4.『一念多念証文』にある「浄土の方便の善」が「宿善」という根拠

これは、確かに申し上げました。
根拠は、

いずれの経釈によるとも、すでに宿善に限れりと見えたり」(御文章)

の一言で充分でありましょう。

この高森会長の答えに対する退会者の反論が以下でした。

蓮如上人が仰る宿善(『御文章』3帖目第12通)

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。

蓮如上人が仰っている宿善とは、『口伝鈔』の

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。

を受けて仰っています。
宿善の機とは、「浄土教を信受する機」のことです。つまり、18願1つを勧められた法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを受け入れられる人は、宿善の機であり、聖道門の教えを信じて、また聖道門から浄土門に入りながらも法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えを素直に信じられない人は、無宿善の機ということになります。
蓮如上人の仰る「宿善にかぎれり」とは、18願1つを勧められた法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを受け入れられるかどうかです。

『会報』の内容と照らし合わせるとお判りになると思いますが、蓮如上人が「いずれの経釈によるとも、すでに宿善に限れりと見えたり」と仰っている「宿善」の元の根拠が高森会長が係念の宿善の根拠として挙げた「若人無善本」(『大無量寿経』)と「過去已曾・修習此法・今得重聞」(『定善義』)なのです。
つまり、『会報』の高森論に従うなら、「いずれの経釈によるとも、すでに宿善に限れりと見えたり」は、係念の宿善である信前の自力の念仏のことを指していることになるのです。

そのことに気が付いたのでしょう、その後、高森会長は「宿善」について言及することなく、退会者のこの反論を完全無視しました。

このような高森会長が封印してきたものを解いたという点では、驚きとともに、一定の評価をしておきましょう。

ただしです、親鸞聖人が信前の念仏を「宿善」として教えられたことはありませんし、信前の念仏を積極的に勧められた御文もありません。蓮如上人も信前の念仏を積極的に勧められた御文はありません。寧ろ、自力の念仏を誡められた御文ばかりです。だからと言って、親鸞聖人、蓮如上人が信前の念仏を否定されたことはありませんし、勧められていることは、言うまでもないことです。

時代背景等の様々な理由はあると思いますが、信前の自力の念仏については、そのようなバランスの上で親鸞聖人、蓮如上人は教えられていることを知っていおくべきでしょう。

今回の高森会長のこの発言は、信前の自力の念仏の積み重ねで「宿善」が厚くなって救われる、という意味では間違いですが、諸善を勧めて「宿善」を厚くするという従来の話から比べると、余程ましということです。

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2019年4月21日 (日)

高齢者による事故が問題になっていますが、高森顕徹会長の話も重大な事故です

本日の高森顕徹会長の話は、迷いに陥った内容です。
たとえば、

阿弥陀仏の本願は、「死んだらどうなるか判らぬ心を無くす」お約束

だとか、

苦しみの根源が、「死んだらどうなるか判らぬ心」

さらには、

日々煩悩で苦しんでいるが、それは葉や花のことで、苦しみの根幹でない

とか言っていましたが、一体どこの宗教の話をしているのかと言わざるを得ません。
超高齢でまともでない高森会長とその信者のために、仏教と真宗のイロハの話をしておきます。

親鸞聖人は曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』を『教行信証』真仏土巻に引かれて

われ無始より三界に循りて、虚妄輪のために回転せらる。
一念一時に造るところの業、足六道に繋がれ三塗に滞まる。

(現代語訳)

わたしははかり知れない昔から迷いの世界にあって、生れ変り死に変りし続けている。
わたしの行いはすべて、わたしの足を迷いの世界につなぎとめ、苦しみの世界にとどまらせる。

と仰っています。死んだらどうなるか、という問いに対して

足六道に繋がれ三塗に滞まる

その苦しみの根源は、

一念一時に造るところの業

です。

次に、親鸞会でも知っているであろう『教行信証』信巻の

しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。
一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。

(現代語訳)

ところで、はかり知れない昔から、すべての衆生はみな煩悩を離れることなく迷いの世界に輪廻し、多くの苦しみに縛られて、清らかな信楽がない。本来まことの信楽がないのである。このようなわけであるから、この上ない功徳に遇うことができず、すぐれた信心を得ることができないのである。
すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに修めた自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。

です。死んだらどうなるかについて

無明海に流転し、諸有輪に沈迷し

で、苦しみの根源は、

愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く

と仰っています。

他にもたくさんありますが、結論としては、

死んだら迷いの世界を流転輪廻すると教えられてそれを信じていることを前提として、阿弥陀仏の本願を求めているのですから、今更、それ以上判る必要もありませんし、救われたらそれがハッキリするとも教えられていません。そして、流転輪廻している原因は、煩悩だと教えられているのが、仏教であり、親鸞聖人だということです。

ただし、別の言い方として、阿弥陀仏の本願を深信すれば迷いの世界を出ることができるので、流転輪廻の原因を阿弥陀仏の本願を疑っていることだとも言える訳です。

いずれにしても、「死んだらどうなるか判らぬ心」が苦しみの根源とか、意味不明の妄想以外の何物でもありません。

高森会長の年齢も年齢ですから、エビデンスを期待する方が無理なのでしょう。

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2019年4月14日 (日)

18願文さえもまともに理解できない高森顕徹会長とその信者達

本日も、間抜けな話をした高森顕徹会長でした。その典型が、18願文を出して、「信楽」の身にさせるのが18願、という勘違いです。
会員には、どこが間違いか全く判らないでしょうが、「信楽」は信心であって、「信楽」の身にさせるというものではないです。

18願は、「信楽」という信心を獲た人を浄土に生まれさせるという誓いです。

『尊号真像銘文』に

至心信楽をえたるひと、 わが浄土にもし生まれずは、 仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。

とある通りです。

これでも会員は理解できないと思いますので、もう少し説明すると、「信楽」が因で「浄土に生まれる」が果です。「信楽」は果ではありません。
会員は混乱していると思いますので、18願文の言い換えを紹介します。親鸞聖人は『大無量寿経』の異訳経で18願文を説明されています。
『教行信証』行巻に『大阿弥陀経』と『平等覚経』とを引かれて

諸天・人民・蜎飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。

諸天・人民・蠕動の類、わが名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、わが国に来生せしめん。しからずはわれ作仏せじ

歓喜踊躍せんもの」を「わが国に来生せしめ」です。
歓喜踊躍」=「信楽」=因
わが国に来生せしめ」=果
歓喜踊躍せんもの」を「歓喜踊躍させる」という誓いではありません。

言い換えると、

信心を獲た人を信心の身にさせるという誓いではありません。

もう一つ言い換えると

「信楽」を獲た人を「信楽」の身にさせるという誓いではありません。

もっと言うと、18願は信心を獲させる願ではなく、信心を獲た人を浄土に生まれさせる願です。もし、18願が信心を獲させる願ならば、阿弥陀仏が成仏された時点で「十方衆生」は信心を獲ていることになりますが、そうではありません。なぜなら、信心を獲させる願ではなく信心を獲た人を浄土に生まれさせる願であるからです。

これでも思考停止の会員には、理解できないかもしれません。

カルトは恐ろしいです。

 

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2019年4月13日 (土)

基本的な言葉である「自力」さえ親鸞聖人の定義とは、無関係の高森顕徹会長

今日と明日は、高森顕徹会長の話の少ない親鸞会の降誕会です。本日も、高森会長は何教なのか判らない話をしていました。
特に、自力についての説明が

親鸞聖人の仰る自力とは、死んだらどうなるか判らない心

と言っていました。親鸞会の会員はこれで納得しているのでしょうが、親鸞聖人がそのようなことを仰った箇所は皆無です。

親鸞聖人の自力の説明を、9年前のmixiでの三願転入の法論で退会者から明示されているにも関わらず、妄想で創りあげた高森定義を改めずにいます。改める以前の問題として、高森会長には親鸞聖人の自力の定義を理解できないのだと思います。
思考力がある人向けに親鸞聖人のお言葉を列記しておきます。

『唯信鈔文意』

自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。

(現代語訳)
自力の心を捨てるということは、大乗・小乗の聖人、善人・悪人すべての凡夫、そのような色々な人々、さまざまなものたちが、自分自身を是とする思いあがった心を捨て、わが身をたよりとせず、こざかしく自分の悪い心を顧みたりしないことである。それは具縛の凡愚・屠沽の下類も、ただひとすじに、思いはかることのできない無礙光仏の本願と、その広く大いなる智慧の名号を信じれば、煩悩を身にそなえたまま、必ずこの上なくすぐれた仏のさとりに至るということである。

『一念多念証文』

自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。

(現代語訳)
自力というのは、わが身をたのみとし、わが心をたのみとすることであり、自分の力を頼って行にはげみ、自分がつくるさまざまな善を頼りにする人のことである。

『末灯鈔』

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。

(現代語訳)
まず自力ということは、行者がそれぞれの縁にしたがって、阿弥陀仏以外の仏の名号を称え、あるいは念仏以外の善を修めて、自身をたのみとし、自らのはからい心で、身・口・意の三業の乱れをとりつくろい、立派に振舞って浄土に往生しようと思うことを自力というのです。

『教行信証』化土巻

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。

(現代語訳)
定善の専心・散善の専心とは、罪を恐れ自分の善をあてにする心で本願力を願い求めるのであり、これを自力の専心というのである。

以上をまとめると親鸞聖人の言い方は

・みづからが身をよしとおもふこころ
・わが身をたのむ
・わが心をたのむ
・あしきこころをかへりみる
・余の仏号を称念する
・余の善根を修行する
・身・口・意の三業の乱れをとりつくろう
・めでたうしなす
・罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す

となります。かなり具体的に説明されてされていて、ほとんどが、親鸞会の教えと真っ向から対立するものです。

以上のどこに、

死んだらどうなるか判らない心

というようなお言葉があるでしょうか。近いニュアンスさえありません。
明日の座談会でも、更に迷走するでしょうが、とりあえず今日はこのくらいで。

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2019年3月18日 (月)

毎年恒例ですが、これが高森顕徹会長と親鸞会の実態

本願寺をはじめ、外部からの非難攻撃に対して、全て法論を仕掛けて全戦全勝だと親鸞会内で宣伝していますが、実際は全戦全敗です。法論の相手が呆れて、法論を止めたことで表面上は親鸞会が勝利したように装ってきましたが、ここ10年はその偽装もできなくなり、実際も表面上も親鸞会の大惨敗の連続です。

ただ、その事実を知らずに、高森顕徹会長を唯一無二の善知識として、崇めさせられている会員は、哀れなものです。顕正新聞でも、未だに『歎異抄をひらく』発刊から未だに反論がない、その時が11年だ、とか一面に書き続ける根性には、敬意を表したいくらいです。

高森先生が法論に負けたことなどあろう筈がない

という妄想を抱いている会員のために、毎年恒例ですが、その証拠のほんの一端を紹介しておきます。

今から7年前、こんなエントリーを書きました。

書面で法論を申し込んだら、”検討する”だそうです

その後、連絡もなく、内輪でのみ反論したように偽装しただけです。

昨日、ある集まりに、弘宣局長とK講師、他2名の講師部員が乗り込んできて、親鸞会の邪義を喚き散らしていったそうです。その際に、私が弘宣局に書面で正式に法論を申し込めば、検討する、と弘宣局長は言っていたそうです。

そこで本日、法論申し込みの書面を書留で送付しました。それに加えて以下のメールも送っておきました。

W 様


御無沙汰しております、○○です。
昨日の件は、聞いております。法論の申し込みを書面でせよ、とのことですので、本日申し込みの書面を書留で送りました。
内容は以下の通りです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
              法論の申し込み
                            平成24年3月18日
弘宣局長 W 様

御無沙汰しております、○○です。

昨年、K講師を通して、法論を申し込みましたが無視されました。
しかしその件で、「弘宣局に直接法論を申し込むように」と貴方が言われたそうですので、ここに書面をもって法論を正式に申し込みます。

法論の条件は、

1.法論の土俵はお聖教であり、お聖教にない文底秘沈のような主張はしない
2.文章でやりとりをする
3.法論の場は、以下とする
  mixi内の信仰と対話コミュニティ*「三願転入」議論継続トピック*
  
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=53217382&comm_id=2135313
4.相手の質問に対して質問で返さず、相手の質問に答えてから新たな質問をする

以上の4点です。

かつて親鸞会は公約していた筈です。

「親鸞会は公約しています。親鸞会の主張に対して異議、反論のある方は遠慮なく申し出てください。相手が集団であれ、個人であれ、公開であれ、非公開であれ、討論であれ、文書討論であれ、相手の希望される方法で、時と場所を問わず、本当の親鸞聖人のみ教えを開顕するために、喜んで対決に応じます。」

これが口先だけであったとは、言わせません。

私の主張は、「親鸞会教義の誤り」「飛雲」「親鸞会の邪義を正す」等のブログで書かれている通りです。一読された上で、法論に臨んで頂きたいと思います。
親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張との相違点を以下に列記しておきます。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
- - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善知識に無条件服従せよ

なお、法論に応じられても応じられなくても、返事を頂いても頂かなくても、すべて公開しますので、御了承ください。
                                           ○○○○
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

mixiでの三願転入の法論は、親鸞会の逃亡とトピック削除で幕を閉じましたが、とりあえずその続きをしたいと考えております。

なお、上に挙げたブログをすべて読まれるのは大変でしょうから、最低限、添付ファイルのところだけでも読んでおいて頂けませんでしょうか。

目的は親鸞聖人のみ教えを開顕するためですので、よいお返事をお待ちしております。

○○○○

法論の実現も、返事も期待しておりませんが、万が一法論が実現すれば、また退会者が増える縁になるでしょうから、喜ばしいことです。

親鸞会は、私を相手にしていないのではありません、相手にして酷い目に遭った経験があるから、怯えて逃げに逃げ回っているのです。

後日、上記の項目に追加して、その解説もしてありますので、以下を会員は是非とも読んで、高森顕徹会長の嘘を知って退会しましょう。

浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?

この程度の内容でさえ、全く反論できないのが、高森顕徹という無知な人物なのです。

反論する元気のある会員は、コメントをください。ただし、聖教の根拠を基として。

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2019年3月10日 (日)

本日も「オカシナ話」をし続ける高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話も、人間の実相でした。『仏説譬喩経』とは異なる「オカシナ話」を、釈尊の創られた譬えとしているところが、厚顔無恥の至極と言ったところでしょうか。

さて、(『仏説譬喩経』にはない)「底なしの海」を地獄に譬えられた、と説明していましたが、カルト教団定番の地獄脅しが復活したようです。釈尊が、すべての人の死後は皆地獄だ、と説かれたことなどあり得ないのですが、カルトではそう言い切ります。恐怖で信者を繋ぎとめ、服従させるためです。親鸞会でも、長らくこの手法を用いてきましたが、一時封印した時期もあります。しかし、カルトは正体を隠してもカルトなのです。

一応言っておきますが、釈尊も、七高僧方も、親鸞聖人も、覚如上人も、蓮如上人も、すべての人の死後が地獄だなどというカルト教義を伝えられたことはありません。限定的な人に対して、地獄に堕ちる、という言い方はされていますが、一般の人が地獄に堕ちるという説明も理屈もありません。それを裏付ける最も顕著な根拠は、『教行信証』信巻に長々と引かれている『涅槃経』にある阿闍世に対する釈尊の御説法です。「阿闍世は地獄に堕ちない」、と釈尊が連呼されていることは、『教行信証』を一度でも読んだことがあれば知っているでしょう。

つまり、地獄と脅しているカルト教団の親玉は、『教行信証』を一度も読んだことがないのです。

ところで、今回は高森会長に少し進歩がありました。
『浄土和讃』の

若不生者のちかひゆゑ
 信楽まことにときいたり
 一念慶喜するひとは
 往生かならずさだまりぬ

を用いた説明で定番であった

若不生者と誓っておられるから、まことに信楽に生まれるときがあるのだ

というようなことを言いませんでした。こちらは封印したのかもしれません。
こちらも念のため説明しておきますと、

この和讃の前と併せて

十方諸有の衆生は
 阿弥陀至徳の御名をきき
 真実信心いたりなば
 おほきに所聞を慶喜せん

若不生者のちかひゆゑ
 信楽まことにときいたり
 一念慶喜するひとは
 往生かならずさだまりぬ

18願文を言い換えられたものです。正確に言えば、18願文を曇鸞大師が『讃阿弥陀仏偈』で言い換えられたものを、親鸞聖人が更に言い換えられたものです。

『讃阿弥陀仏偈』

あらゆるもの、阿弥陀の徳号を聞きて、信心歓喜して聞くところを慶び、
すなはち一念に曁ぶまで心を至すもの、回向して生ぜんと願ずればみな生ずることを得。
ただ五逆と謗正法とを除く。

したがいまして、この和讃の意味は

若不生者の誓いであるから、信楽がまことにとき至って一念慶喜する人は、往生が必ず定まるのだ

ということで、
信心を獲た人は往生が必ず定まるのだ
ということです。

ここから思い出すのは、『尊号真像銘文』の

「若不生者不取正覚」といふは、(略)このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。

です。
若不生者」の「」は、「浄土に生まれる」としか親鸞聖人は仰っていないことを高森会長も判っているのです。

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