2018年12月 9日 (日)

『阿弥陀経』を読んだことがあっても意味は知らない高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話は、いつも以上によく判らないものでした。

映画『なぜ生きる』に対する新たな質問、

仏教では、なぜ人の命は尊いと教えられるのでしょうか。

について答える形でした。
その中で『阿弥陀経』についての話が唐突に出てきて、支離滅裂のうちに終わりました。

『阿弥陀経』を形の上では読んだことはある高森会長ですが、内容についてはほとんど判っていないでしょう。

親鸞聖人がどう仰っているか、当然知らないでしょうから、少し教えておきます。

『教行信証』化土巻にこのようにあります。

『小本』には「一心」とのたまへり、二行雑はることなきがゆゑに一とのたまへるなり。また一心について深あり浅あり。深とは利他真実の心これなり、浅とは定散自利の心これなり。

(現代語訳)

『阿弥陀経』には「一心」と説かれている。念仏以外の他の行がまじらないから、一といわれるのである。また、この一心について深い一心と浅い一心とがある。深い一心とは他力回向の真実の心であり、浅い一心とは定善・散善を修める自力の心である。

もう一つ、

『観経』に准知するに、この『経』にまた顕彰隠密の義あるべし。
顕といふは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。ここをもつて『経』には「多善根・多功徳・多福徳因縁」と説き、釈には「九品ともに回して不退を得よ」といへり。あるいは「無過念仏往西方三念五念仏来迎」といへり。これはこれこの『経』の顕の義を示すなり。これすなはち真門のなかの方便なり。
彰といふは、真実難信の法を彰す。これすなはち不可思議の願海を光闡して、無碍の大信心海に帰せしめんと欲す。まことに勧めすでに恒沙の勧めなれば、信もまた恒沙の信なり。ゆゑに甚難といへるなり。釈に、「ただちに弥陀の弘誓重なれるをもつて、凡夫念ずればすなはち生ぜしむることを致す」といへり。これはこれ隠彰の義を開くなり。
『経』に「執持」とのたまへり。また「一心」とのたまへり。「執」の言は心堅牢にして移転せざることを彰すなり。「持」の言は不散不失に名づくるなり。「一」の言は無二に名づくるの言なり。「心」の言は真実に名づくるなり。この『経』は大乗修多羅のなかの無問自説経なり。しかれば如来、世に興出したまふゆゑは、恒沙の諸仏の証護の正意、ただこれにあるなり。ここをもつて四依弘経の大士、三朝浄土の宗師、真宗念仏を開きて、濁世の邪偽を導く。

(現代語訳)

『観無量寿経』に準じて考えてみると、『阿弥陀経』にも顕彰隠密の義があると知られる。
その顕についていうと、釈尊は、念仏以外のどのような善を修めてもわずかな功徳しか積めないとしてこれを退け、善本・徳本の真門を説き示し、自力の一心をおこすようにと励まされ、難思往生を勧めておられる。このようなわけで、『阿弥陀経』には、「念仏は多くの功徳をそなえた行である」と説かれ、善導大師の『法事讃』には、「さまざまな自力の行を修めるものもみな念仏することによって不退転の位を得るがよい」といわれ、また「念仏して西方浄土に往生する教えにまさるものはない。少ししか念仏しないものまで、阿弥陀仏は来迎して浄土に導いてくださる」といわれている。以上は『阿弥陀経』の顕の義を示すものである。これが真門の中の方便である。
その彰とは、自力の心では信じることができない他力真実の法を彰すものである。これは不可思議の本願を明らかに説き示して、何ものにもさまたげられることのない他力信心の大海に入らせようという思召しである。まことにこのお勧めは、あらゆる世界の数限りない仏がたのお勧めであるから、信心もまた数限りない仏がたにたたえられる信心である。だから自力の心では、この信心を得ることなどとうていできないというのである。善導大師の『法事讃』には、「仏がたは次々世に出られて、その本意である阿弥陀仏の本願を重ねてお説きになり、凡夫はただ念仏して、ただちに往生させていただくのである」といわれている。これは隠彰の義をあらわすものである。
『阿弥陀経』には「執持」と説かれ、また「一心」と説かれている。「執」という言葉は、心がしっかりと定まって他に映らないことを顕している。「持」という言葉は、散失しないことをいうのである。「一」という言葉は、無二すなわち疑いがないことをいうのである。「心」という言葉は、真実であることをいうのである。『阿弥陀経』は、大乗経典の中で、問うものがいないのに仏が自ら進んで説かれた教典である。だから、釈尊が世にお出ましになったのは、あらゆる世界の数限りない仏がたがこれこそ真実の経典であると明かしてお護りくださる本意、すなわちただ他力真実の法を明らかにすることにあるのである。このようなわけで、すべての衆生のよりどころとなる浄土の教えを広めてくださったインド・中国・日本の七人の祖師方は、他力念仏を説き示し、五濁の世のよこしまな心を持つ人々を導かれるのである。

『阿弥陀経』には、自力の義と他力の義の2つがあるというのが親鸞聖人の解釈です。
自力の義と他力の義に共通しているのは、念仏の一行です。異なっているのは、「一心について深あり浅あり。深とは利他真実の心これなり、浅とは定散自利の心これなり。」とあるように、「」の「一心」と「」の「一心」の違いです。

もう一度言うと、『阿弥陀経』に説かれていることは、自力の意味でも他力の意味でも、念仏が勧められているということです。

高森会長は『阿弥陀経』を出していながら、そのような説明は一切していませんし、できません。知らないわけですから。

なお、『阿弥陀経』の自力の念仏について「多善根・多功徳・多福徳因縁」と親鸞聖人は仰っています。「多善根・多功徳・多福徳因縁」である自力の念仏を鼻で笑う高森会長が、この点だけでも退会者から鼻で笑われていることを知った方がよいですよ。

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2018年12月 5日 (水)

教学的にはほぼ完璧と称賛する『教行信証講義』をパクった高森顕徹会長の白道釈

質問が来ましたので、それに答える形でエントリーを書きます。

親鸞会が白道を信前自力の意味とする最大の根拠が『散善義』にある

「人道の上を行きてただちに西に向かふ」といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。

です。

もろもろの行業を回しては諸善を回向してだから、自力で求道していく意味だ

というのです。実は、これは高森顕徹会長オリジナルの解釈ではなく、そのように解釈してきた学者がいるので、それを使っているのは間違いないです。
実際、親鸞会を辞めようとする人が高森会長の説明する二河白道の譬え話に矛盾があることを指摘すると、最近よく出してくるのが山辺習学・ 赤沼智善共著の『教行信証講義』です。この『教行信証講義』は親鸞会で、教学的にはほぼ完璧とされている書です。ここでは内容は紹介しませんが、高森会長が『教行信証講義』をパクってこのように言っていることは、間違いないでしょう。

回して」は「翻して」という意味と「回向して」の意味もあり、両方とも善導大師は著書の中で使われていますので、文字通りの読み方をすれば、『教行信証講義』や高森会長の説明も一理はあるように思えます。

しかしここでの「回して」は、「翻して」の意味にしかなりません。

いつも言うように、親鸞会が出している根拠の前後を見れば、それが間違いだとすぐに判るのです。

人道の上を行きてただちに西に向かふ」ですが、これは譬え話の中にそのまま書かれてはいません。該当部分を抽出すると、

三定死に続けて行者が語った言葉の

一種として死を勉れずは、われむしろこの道を尋ねて前に向かひて去かん。

とその後実際に白道を進んだ

決定して道を尋ねてただちに進みて

一心にただちに進みて道を念じて行けば

です。この3つ共、悪知識の言うことに逆らって進んでいるのです。悪知識の言っていることが、「諸善をせよ」ですから、それを実行していたら悪知識に信順して東の岸にいることになります。しかも「ただちに西に向かふ」のですから、回り道をしていない、つまり他力の道です。

もっと言うならば、阿弥陀仏の喚び声である「一心正念にしてただちに来れ」に対応して「ただちに西に向かふ」のです。阿弥陀仏が「ただちに来なさい」と喚ばれて、それに信順して「ただちに向かいます」です。

ですから、「もろもろの行業を回して」は、「悪知識の勧める諸善を捨てて」になるのです。

以上は善導大師の仰った内容で説明しています。親鸞聖人は、他力の信心についての説明をしている中でこれを出されていますので、尚更です。

三願転入にしてもそうですが、学者は今までになかった新しい解釈をしてそれを発表することで名声を得ようとするので、信心とは関係ないところで机上の空論が展開される傾向にあります。

覚如上人、蓮如上人が取り上げることすらされなかった三願転入を大々的に議論するのが学者の仕事です。その学者の説を鵜呑みにすることはやめた方が宜しいでしょう。

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2018年11月30日 (金)

高森顕徹会長の、その場凌ぎの思い付き行き当たりばったり教義など、聖教をまともに読んだら誰でも簡単に論破できます

二河白道の譬え話について、善導大師が何を白道で譬えられたのかとの質問がありましたので、少し解説します。

二河白道の譬えを一から説明すると長くなるので、前提として、
・三定死は白道に乗る前の東の岸にいるとき
・西の岸の人の喚び声を聞くのは東の岸にいるとき

を最低限判っていることとします。

以下、善導大師の著わされた『散善義』から

まず東の岸で行者が白道に乗るかどうか迷って三定死になった後

この念をなす時、東の岸にたちまち人の勧むる声を聞く。
「なんぢ、ただ決定してこの道を尋ねて行け、かならず死の難なからん。 もし住まらば、すなはち死せん>」と。
また西の岸の上に人ありて喚ばひていはく、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と。

東の岸の人は、「ただ決定してこの道を尋ねて行け
西の岸の人は、「一心正念にしてただちに来れ

そして行者は

この人すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづから身心を正当にして、決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず。

となります。「決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず」です。
なお、「疑怯退心」とは、「疑ったり、恐れたりして、しりごみする心」です。

そして進んで行った結果は

一心にただちに進みて道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。

です。「一心にただちに進みて道を念じて行けば」「西の岸に到りて」です。

決定して」「一心に」「疑怯退心を生ぜず」はどんな信心か考えてみてください。

以上が譬え話の内容から、白道に乗る心を抽出したものです。

次に、譬えを善導大師がどう解説されているかについてみてみます。

「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。

西の岸の人の喚び声は、「弥陀の願意」です。もちろん18願意のことであって、19願意ではありません。

白道を進むことについて

仰ぎて釈迦発遣して指して西方に向かはしめたまふことを蒙り、また弥陀悲心をもつて招喚したまふによりて、いま二尊の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得て

とあります。「二尊の意に信順して」です。釈尊の意についてはこの譬え話では明確に仰っていませんが、阿弥陀仏の意に関しては、18願意です。18願意に「信順して」です。更には「かの願力の道に乗じて」ですから、18願力の道に乗ったことです。その結果、浄土に生まれることができた、という内容です。

ここまでくれば説明は不要でしょうから、次の質問に容易に答えられると思います。ただし、思考力が微かでも残っていれば。

問 善導大師は信前の求道心・聞法心を白道で譬えられたのか18願の真実信心を白道で譬えられたのか、どちらでしょうか?

高森顕徹会長の、その場凌ぎの思い付き行き当たりばったり教義など、聖教をまともに読んだら誰でも簡単に論破できます。

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2018年11月25日 (日)

創作二河白道の譬え話で、苦境に陥っていることが判る高森顕徹会長率いる親鸞会

本日の高森顕徹会長の話は、二河白道の譬え話を使っての、「欲と怒りと戦って命がけで聞かなければならない」という求道の強調でした。

「白道」は、求道心、聞法心だとのこれまで通りの説明です。以前に、

親鸞聖人は「白道」を他力で教えられているが、善導大師は自力で教えられていて、善導大師の教えられ方でワシは話をしているのだ

との大ボケの珍説を披露したこともなかったこととして、金集め人集めの正当化に必死になっている様子です。
「白道」が、他力の信心であることは、これまで耳にタコができるほど言ってきましたし、一時的にせよ、高森会長も親鸞聖人に限定して、それを認めていたわけですから、今更説明するまでもないことです。
今回は少し違う角度から高森会長の創作教義の嘘を暴いていきます。

蓮如上人が、名人の解釈だから、その解釈には無条件に従うとまで大絶賛されている存覚上人の書かれた『持名鈔』には、このようにあります。

されば仏法を行ずるには、家をもすて欲をもすてて修行すべきに、世をもそむかず名利にもまつはれながら、めでたき無上の仏法をききて、ながく輪廻の故郷をはなれんことは、ひとへにはからざるさいはひなり。

釈尊などの聖道門での求道の実例を挙げられた後にこのように続いていますので、

聖道門では「家をもすて欲をもすてて修行すべき」求道であるのに対して、浄土門では、「世をもそむかず名利にもまつはれながら、めでたき無上の仏法をききて、ながく輪廻の故郷をはなれんこと」だと教えられています。世間の流れに逆らうこともなく、名利の欲にまみれたまま、無上の阿弥陀仏の18願を聞いて、出離するのだということです。

もう一度、高森会長の説明は

欲と怒りと戦って命がけで聞かなければならない

これが存覚上人と同じだと思うなら完全に思考停止でしょう。

念のため、蓮如上人のお言葉、『御一代聞書』

一 前々住上人(蓮如)、南殿にて、存覚御作分の聖教ちと不審なる所の候ふを、いかがとて、兼縁、前々住上人へ御目にかけられ候へば、仰せられ候ふ。名人のせられ候ふ物をばそのままにて置くことなり。これが名誉なりと仰せられ候ふなり。

(現代語訳)

蓮悟さまが、蓮如上人のおられる南殿へおうかがいし、存覚上人の著わされたお聖教に少し疑問に思うところがあるのを書き出して「どういうことでしょうか」と、上人にお見せしました。
すると上人は、「名人がお書きになったものは、そのままにしておきなさい。
こちらの考えが及ばない深い思し召しのあるところが、名人の名人たるすぐれたところなのである」と仰せになりました。

如何でしょうか。存覚上人の「世をもそむかず名利にもまつはれながら、めでたき無上の仏法をききて、ながく輪廻の故郷をはなれんこと」は蓮如上人のお考えとも一致しています。

では親鸞聖人はどうでしょうか。親鸞聖人のお言葉はいくつもありますが、最も判りやすいのが『教行信証』信巻にある阿闍世の獲信物語です。

阿闍世の獲信後の言葉は

世尊、われ世間を見るに、伊蘭子より伊蘭樹を生ず。伊蘭より栴檀樹を生ずるをば見ず。われいまはじめて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る。伊蘭子はわが身これなり。栴檀樹はすなはちこれわが心、無根の信なり。無根とは、われはじめて如来を恭敬せんことを知らず、法僧を信ぜず、これを無根と名づく。

(現代語訳)

世尊、世間では、伊蘭の種からは悪臭を放つ伊蘭の樹が生えます。伊蘭の種から芳香を放つ栴檀の樹が生えるのを見たことはありません。わたしは今はじめて伊蘭の種から栴檀の樹が生えるのを見ました。伊蘭の種とはわたしのことであり、栴檀の樹とはわたしの心におこった無根の信であります。無根とは、わたしは今まで如来をあつく敬うこともなく、法宝や僧宝を信じたこともなかったので、これを無根というのであります。

です。阿闍世には、命がけの求道も聞法もなかったとの告白で、それを親鸞聖人が紹介されているのです。なお、阿闍世の獲信物語は、『教行信証』全体の約1割を占めていますので、代表的”求道”を親鸞聖人が紹介されたということです。

三願転入の復活と会費の値上げ、そして命がけの求道の捏造と続いていることから判るのは、親鸞会の苦悩の表面化です。この傾向は、ますます顕著になってくるでしょう。

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2018年11月11日 (日)

自分が獲てもいない空想妄想創作信心を偉そうに説明する高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話は、

「死んだらどうなるか分からない心」が救われたなら「往生一定」の身になる

ということを中心に話をしていました。
正しいことを言っているのではないかと思う会員や退会後間もない人があるかもしれませんが、大いに間違っています。

死んだらどうなるか分からない心」は、救われても変わりませんし、「往生一定」は「死んだらどうなるか分かる心」ではりません。

まず二種深信の法の深信で説明します。

親鸞会でも引用される『教行信証』の信巻にだけある

二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。

ですが、これは簡単に言い換えると「願力に乗ったなら必ず往生できる」と深信することとです。「願力に乗ったなら」です。これなしの「必ず往生できる」ではないです。

もう一つの法の深信は『教行信証』の行巻と信巻の二か所に引かれています。

いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。

これを簡単に言い換えると、「念仏によって必ず往生できる」と信知することです。「念仏によって」が付いた「必ず往生できる」です。

以上は善導大師から引かれた文ですが、親鸞聖人ご自身のお言葉で言うなら、『末灯鈔』の

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

です。「念仏を称えたならば極楽へ往ける」と深く信じたことです。ここでも「念仏を称えたならば」がついていて、「極楽へ往ける」だけではありません。

『歎異抄』でいうと第2条の

ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり

は、「ただ念仏して阿弥陀仏に助けられる」と信じる以外にないです。ここにも「ただ念仏して」が付いています。

判る人には判ると思いますが、「願力に乗ったなら」「念仏称えたら」という条件を満たしたら「必ず往生できる」「極楽に往ける」のであって、前提の条件なしの話ではありません。要するに、往生の条件について深信した、信知したことを法の深信というのです。

会員からすれば、何を言っているんだと憤慨する内容でしょうが、では二河白道の譬えで説明しましょう。阿弥陀仏の喚び声を聞いて信心を獲た行者はどうなったかといえば、白道を進んでいったなら、必ず西の岸である浄土に往けると信じて進んで行っただけです。

もう一度言いますと、白道は間違いなく西の岸に続いているので、白道を進んで行けば必ず西の岸に行けると信じて進むのです。条件なしで西の岸に行けるとハッキリしたのではなく、この道を進んで行ったなら必ず西の岸に行けるとハッキリしたのです。これが「往生一定」ということです。

高森会長の話に戻ると、「死んだあとどうなるか分かる」のではなく、「念仏往生の願を深く信じたならば死んだあとは阿弥陀仏が浄土に連れて行ってくださると誓っておられるので浄土に往けると分かる」ということです。

自分が獲てもいない空想妄想創作信心の高森会長を信じていると、長い求道は幻と消えます。

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2018年11月 9日 (金)

真宗学の基本さえ学んでこなかった高森顕徹会長

19願、定散二善がなぜ「欣慕浄土の善根」と呼ばれるかの理由については、少し説明する必要があります。

実は聖道門で勧められる諸善と、19願の善、定散二善とは、行は同じなのです。違うのは、さとりを得ようとして善をするか、浄土往生を願って善をするのかの違いです。

そのことを『教行信証』化土巻には

五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。

(現代語訳)

五種の正行に対しては、五種の雑行がある。この雑という言葉は、人間や神々に生れる行や菩薩の行などがさまざまにまじっているという意味で雑というのである。これはもとより阿弥陀仏の浄土に往生する因ではなく、浄土を願う心をおこし、これらの行を浄土往生のための善としなければならないから、浄土往生の行としては雑行というのである。

とあります。これは親鸞会でも使う『浄土和讃』の

諸善万行ことごとく
 至心発願せるゆゑに
 往生浄土の方便の
 善とならぬはなかりけり

と同じ意味です。

聖道門で教え勧められている諸善万行はすべて、浄土往生のためとして回心回向したならば、往生浄土の善(=雑行)となる

ということです。
高森顕徹会長の適当創作教義しかしらない会員は、よく判らない話だと思いますので、具体的に言いますと、聖道門で読経という行があります。『般若心経』を読むことでさとりを得るための行としている宗派はいくつもあります。この『般若心経』を読む目的を、さとりを得るためではなく浄土往生としたら、それは「回心回向の善」「往生浄土の方便の善」「雑行」になるということです。

『般若心経』を読むことは聖道門でも浄土門の19願でも共通であっても、その心がさとりを得るためか浄土往生のためかの違いがあるということです。
高森会長が考えた詭弁

雑行を捨てよとは、その心がけが悪いから、悪い心がけを捨てよであって、善をするなではない

が如何に頓珍漢なことか判られるでしょう。雑行の心がけは、浄土往生を目指してということですから、それを捨てたらさとりを得るためという聖道門の善になるのです。
念のため言っておきますと、さとりを得るためでも浄土往生のためでもない善は、倫理道徳の善です。親孝行を浄土往生のために励む人は、あっても極僅かでしょうが、浄土往生のためという心がけを捨てたら倫理道徳の善となるだけのことです。それゆえ倫理道徳の善は、浄土真宗でも大いに勧められますが、雑行は勧められません。当たり前のことです。

mixiでの法論で、この説明をしたら、またまた高森会長と親鸞会は絶句していました。70年間、高森会長は真宗学を何も学んでいないのです。大げさでも何でもなく、高森会長はこんな基本的なことさえ本当に知らないのです。

さて、ここまで理解できると「欣慕浄土」の意味がお判りになるかと思います。聖道門と19願は、行は同じなので、心がけを浄土往生のためと変えるだけで良い、つまり、聖道門の人が19願に入ることに大きな壁はないのです。

聖道門でさとりを得られないと断念した人は、今までやってきた行そのままで浄土往生を目指したなら浄土往生できると誓われた19願を信じやすいです。聖道門からいきなり念仏往生の願である18願に行くことは、今までの行をすべて捨てることになるので、そこには大きな壁がありますが、19願なら入りやすいのです。

ですから、19願は聖道門を断念した人を浄土門に導くための願だと親鸞聖人が仰ったことは、極めて筋の通った理屈になるのです。

それに対して、19願は悪人が18願に入るために絶対に通らなければならないという理屈は、金集め人集め目的の高森会長とマインドコントロールされた脳の中でしか通用しないのです。

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2018年11月 6日 (火)

絶句の連続でも法論に負けていないと強弁するおめでたい親鸞会

聖道門を断念した人を浄土門に導くのが19願の役割であると親鸞聖人が解釈されたのは、明々白々の厳然たる事実なのですが、それを突き付けられて苦し紛れに親鸞会が言うのが、

我々も聖道門の機だ

です。
出来の悪い詭弁に苦笑するしかないのですが、mixiの法論では、親鸞聖人の聖道門の定義、浄土門の定義を明示したら、やはり絶句してしまいました。
その定義とは『教行信証』化土巻に

おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく
安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく

とあります。
今生きているこの人間界で聖者となりさとりを得ることを目指すのが聖道門。
死んだ後に浄土に往ってさとりを開くことを目指すのが浄土門。

明確に違います。
自己の修行によって出離、成仏を目指すか、阿弥陀仏のお力で浄土に往生して、成仏を目指すのかということです。
もっと簡潔に言うと、浄土往生を目指すかどうかの違いです。

浄土を目指しながら聖道門だというのは、矛盾以外の何物でもありません。

尤も、親鸞会は浄土往生を目指さず、かといってさとりを得ることも目指さず、空想の絶対の幸福を目指していますので、浄土門でも聖道門でもなく、単なる外道です。

以上を踏まえると、聖道門から浄土門へ入るのに必要なのは、浄土往生を目指すことです。それを欣慕浄土と言われます。

同じく化土巻に

釈家の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。すなはちこれ顕の義なり。

(現代語訳)

善導大師の解釈された意向にしたがって『観無量寿経』をうかがうと、顕彰隠密の義がある。
その顕とは、定善・散善のさまざまな善を顕わすものであり、往生するものについて上・中・下の三輩を区別し、至誠心・深信・回向発願心の三心を示している。しかし、定善・散善の二善、世福・戒福・行福の三福は、報土に生れるまことの因ではない。三輩のそれぞれがおこす三心は、それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、他力の一心ではない。これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるために示された善である。これが『観無量寿経』の表に説かれている意味であり、すなわち顕の義である。

とありまして、「欣慕浄土の善根」と親鸞聖人は仰っています。
19願、『観無量寿経』の定散二善は、浄土往生を願っていない人に、浄土往生を願わせるための善であり、方便だということです。

浄土往生を願っていないのは聖道門の人で、聖道門の人を浄土門に導くために浄土を願わせる必要があり、それが19願、定散二善だと親鸞聖人が仰っているのです。
それは善導大師の解釈によるものであるとも仰っています。

それでは善導大師の解釈とは何かと言うと、二種深信を含む七深信の中にある第三深信

また決定して、釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して人をして欣慕せしむと深信すと。

です。浄土を願っていない人に浄土を願わせるのが、定散二善である、との解釈です。もちろん、浄土を願っていないのは聖道門の人です。

この「欣慕浄土の善根」をmixiで高森顕徹会長に示したら、何度目かの絶句でした。

総まとめをしますと、
・『大無量寿経』の19願を異訳経でみると、19願は菩薩道を作す聖道門の人に対しての願と明示されている。
・善導大師は『観無量寿経』の定散二善は、浄土を願っていない聖道門の人に浄土を願わせるものだと解釈された。
・法然上人は、19願は聖道門の人を18願に導くための願と仰った。
・親鸞聖人は、19願は聖道門を断念した人を浄土門に導き、18願に引き入れるための願だと断言された。

これだけ決定的な証拠が揃っているのですから、19願が、聖道門とは無関係の一般の人に関係があると考える思考は、あり得ないのです。

決定的な証拠以外にも、状況証拠は山ほどあるのですが、それを示すと、膨大な量のエントリーになりますので、今回はこれくらいで留めておきます。

将棋で言うなら、完全に詰んでしまったのに、勝負を続けて、王を取られ、金銀飛車角を取られ、持ち駒すべて取られているのに、

将棋盤がまだあるから勝負はついていない

と言っているような状態です。

いずれにしましても、聖教を全く読んでいないことが丸判りの高森会長です。

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2018年11月 3日 (土)

超選民思想の高森教と合致する19願

会員の中で一番下の親会員の会費が月5,000円となりました。これは他の宗教団体と比較しても驚く金額です。新聞の頻度が違うとは言え、年会費が5,000円なら他の団体でもあり得るでしょうが、親鸞会では年会費にすると60,000円です。
それだけに留まらず、法礼だの報謝だの財施だのと次から次へとお金を巻き上げられます。これに堪えられる人は、まさに”善人”です。常識的な感覚の持ち主では会員になることすら無理ですから、”全人類が救われる教え”と言いながら、超選民思想が高森教だということです。

ところで、『大無量寿経』はインドにあった経典を漢訳した経典ですが、殆ど同じ内容でも時代や訳者の違いなどの事情により、いわゆる異訳経がありました。現在確認できる漢訳経典は、『大無量寿経』以外に『平等覚経』『大阿弥陀経』『如来会』『荘厳経』があります。親鸞聖人は『荘厳経』以外の3つの経典を『大無量寿経』と対比されて、解釈を試みられてます。
たとえば、『大無量寿経』の18願成就文の「乃至一念」を親鸞聖人は信心と解釈された根拠が、『如来会』であることは有名です。
したがいまして、『大無量寿経』の19願を正しく解釈しようとするなら、異訳経を参照することは、普通の作業と言えます。
そこで、『大無量寿経』19願を異訳経で説明したのが、mixiによる法論でした。

詳しくは関連のエントリーを読んで頂ければ結構ですが、結論だけ言うと、『大無量寿経』19願の「十方衆生」は、

『平等覚経』では

諸佛國人民、有作菩薩道者

『大阿弥陀経』では、

八方上下無央數佛國諸天人民、若善男子善女人有作菩薩道

に当たります。
共に「菩薩道を作す」者のことです。

もう一度言いますと、『大無量寿経』19願の「十方衆生」を異訳経で見ると、「菩薩道を作す」者となっていますので、聖道門で修行している、修行していた人のことを意味します。

これをmixi上で高森顕徹会長に突き付けたところ、高森会長以下取り巻き連中は度肝を抜かれた状態で絶句していました。まさか、異訳経が間違っているとも言えないので、これに関しては親鸞会側は沈黙を貫くしかありませんでした。

一応言っておきますと、親鸞聖人は『大無量寿経』18願について、『教行信証』の中で『平等覚経』『大阿弥陀経』との対比されていますが、19願については直接対比はされていません。しかし、前回のエントリーで紹介した『西方指南抄』と『教行信証』化土巻・要門釈は、聖道門の人(正確には聖道門を断念した人)を念仏往生の18願に導くのが19願だと仰っていて、『平等覚経』『大阿弥陀経』を念頭に置かれていたことは、容易に想像できます。

要するに、親鸞聖人の19願は聖道門を断念した人のための願だという解釈は、根拠のないものではなく、『平等覚経』『大阿弥陀経』という異訳経と合致した正統な解釈をされたに過ぎず、その親鸞聖人の正統な解釈を歪曲して『平等覚経』『大阿弥陀経』とも反する解釈をしている高森会長は、頭がおかしいか他の目的があるかのどちらかになります。

なお後日談としては、当時講師部員だったM氏が

親鸞聖人が、「夫れ真実の教を顕わさば、大無量寿経これなり」と仰言った意味も正しく知らず、教行信証の構成も判らぬ者の、とんでもない横車です。教行信証は「大経」の真実を、より鮮明にするために異訳本を次次と示されているのです。その逆に、異訳本に「こうあるから大経の意味はこうなのだ」まさに帽子にあわせて頭をケズル事をしようとしている者と判ります。逆さまです。

(「親鸞会法論惨敗の記録3~飛雲より」参照)

という詭弁を言ってきましたが、親鸞聖人は『大無量寿経』だけでは判らないところを異訳経と対比されて教義を体系化されたのですから、親鸞聖人と同じ手法にケチを付けられる筋合いはありませんし、親鸞聖人の解釈を補足するために出した根拠だということを忘れ去っているところが、実にお粗末な反論です。

尤も、高森教の超選民思想は19願と合致しますので、そこは筋が通っていると言えます、ただし18願には思いっきり反していますが。

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2018年10月31日 (水)

三願転入の教えを再開した理由が、思考停止の会員でも判る状況になりました

親鸞会で会費の値上げが発表されました。これが何を意味するかは、思考力が少しでもあれば判ると思います。今回は何とか財施の発表とは深刻度が違うということです。

これまで、高森顕徹会長は、全国の会館建設で実際に掛かった金額以上のお金を集めるという錬金術に浮かれてきていました。親鸞会の歴史上で、最も効率の良い集金システムであったと思われます。一地域での集金システムというところが、そのポイントで、会員同士の見栄などの名誉欲を上手く使うことで、想定以上のお金が集まって喜んでいたものの、いつまでも会館を造り続けるには限界があり、次の映画での集金システムに移行しても効果は知れていまして、最後に残された会費の値上げで現在の危機を乗り切ろうとの思惑でしょう。

会費の値上げは、会員の反発を招きますので、できれば避けたいところでしたが、止むを得ない状況に陥っているのです。

今年に入って広告費を大量に投入し、高森会長のビデオ公開まで解禁しての、なり振り構わない人集めである程度の人数を揃えることはできました。しかし、喉から手が出るほど欲しいお金が思うように入ってこないのです。

ここまで説明すればお判りでしょう、三願転入の教えを再開した理由が。

ところで70年間の高森会長の布教で、高森会長自身が三願転入したと告白したことがあったでしょうか。このように善に励んで19願を通ってきたと高森会長が話をしたことがあるということを、古い会員からも講師部員からも聞いたことがありません。

理由は簡単です。高森会長自身が、19願を通ってきたとは思っていないからです。

歴代の善知識方がまともに言及されされていない19願ですが、実は法然上人は僅かに仰ったことがあります。親鸞聖人が法然上人の法話の内容を記された『西方指南抄』に

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也

とあります。
諸行之人」とは、「無行之人」ではありません。もともと諸行をしている人のことですから、当然、聖道門の人を指していることになります。19願は、聖道門の人を引き入れて念仏の願である18願に帰せしめるのがその目的である、と法然上人が仰り、親鸞聖人が記されたのです。

つまりは、聖道門での修行をしようとも思っていない一般の人とは関係のない願だというのが、法然上人、親鸞聖人の認識であったということです。

親鸞聖人の直接のお言葉でいうなら、『教行信証』化土巻・要文釈

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。 偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

です。外道から「半満・権実の法門」と呼ばれる聖道門に入ったものの、修行を全うすることができない「」「」なるものが甚だ多いので、「ここをもって」釈尊は『観無量寿経』定善散善を説かれ、阿弥陀仏は19願を建てられたのだ、ということです。
本来浄土門を信じようとしない聖道門の人達も浄土門に引き入れようという御慈悲を仰ったのです。
あまねく諸有海」とあるから、全人類無関係なものはない、と思考停止の会員はワンパターンで言ってきますが、聖道門の人も漏れないようにするから「あまねく」なのです。前半で聖道門の人の話をしているのに、聖道門と関係ない人も19願の対象にするから「あまねく」だというのは、国語の試験では完全な零点です。部分点ももらえません。

法然上人・親鸞聖人は思い付きで、このようなことを仰ったのではありません。経典にもその根拠がありますし、善導大師の解釈からもそのような結論に達したのです。

このことが、mixiでの三願転入の法論の概要です。ここで法論は終わっていたのですが、誤魔化しのために、話を逸らし続けてきただけのことで、実質、以上の内容で法論は決着しています。

せっかくですから経典と善導大師の解釈は次回紹介します。

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2018年10月28日 (日)

曇鸞大師の体験談を全否定する高森顕徹会長の謗話

本日の高森顕徹会長の話は、いつものように念仏否定の教えでした。

親鸞聖人の教えについて、学校の教科書では「念仏称えたら極楽浄土に往ける」とあるが間違いだ

今朝の西本願寺のラジオ放送でも「念仏称えたら極楽浄土に往ける」と間違ったことを言っていた

と宣っていました。報恩講の時と何ら変わり映えのしない妄想を垂れ流しています。

結論は、

親鸞聖人 念仏を称えて極楽浄土に往生できると深く信じたことを他力の信心という
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高森会長 念仏を称えて極楽浄土に往生できるというのは間違い

なのです。
その根拠はたくさんあり、いくつか紹介もしてきましたが、高森会長お得意の『歎異抄』で信心の内容を言うなら、

往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころ

ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずる

であり、「念仏よりほかに往生のみち」はないと信じた心です。

三願転入だの19願だのと煩いのに、念仏を排斥する高森会長は、聖道門よりも酷いです。

念仏称えて極楽浄土に往く、が浄土門の基本ですので、それを否定したら日蓮系と同じです。

信心を獲ていない人に対しての念仏の扱いについて、獲信者の体験談を親鸞聖人、蓮如上人のお言葉で紹介されているので、それを示しておきます。
それは曇鸞大師の体験です。蓮如上人の『正信偈大意』が最も詳しいです。

「三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦」といふは、かの曇鸞大師、はじめは四論宗にておはせしが、仏法のそこをならひきはめたりといふとも、いのちみじかくは、ひとをたすくることいくばくならんとて、陶隠居といふひとにあうて、まづ長生不死の法をならひぬ。すでに三年のあひだ仙人のところにしてならひえてかへりたまふ。そのみちにて菩提流支と申す三蔵にゆきあひてのたまはく、「仏法のなかに長生不死の法は、この土の仙経にすぐれたる法やある」と問ひたまへば、三蔵、地につばきを吐きていはく、「この方にはいづくのところにか長生不死の法あらん、たとひ長年を得てしばらく死せずといふとも、つひに三有に輪廻すべし」といひて、すなはち浄土の『観無量寿経』を授けていはく、「これこそまことの長生不死の法なり、これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし」とのたまへば、曇鸞これをうけとりて、仙経十巻をたちまちに焼きすてて、一向に浄土に帰したまひけり。

菩提流支が信前の曇鸞大師に対して何を勧められているでしょう。

これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし

言い換えると

念仏を称えたなら極楽浄土に往くことができる

と菩提流支が信前の曇鸞大師に勧められて、「曇鸞これをうけとりて、一向に浄土に帰したまひけり」で、曇鸞大師は信心を獲られたということです。

まとめ。

念仏を称えたなら極楽浄土に往くことができる、と教えられて信心を獲る

では、思考力のある方に質問です。

念仏を称えたなら極楽浄土に往くことができるが間違い、と教えられて信心が獲られますか?

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