2020年9月21日 (月)

三願転入に対する親鸞会の妄想7

高森顕徹会長が引き籠って、それでも金銭要求だけは際限がなく、会員の士気が探し続けているのは言うまでもありません。
因果の道理を信じているなら、この結果は判っていたはずですが、実際には因果の道理など信じていないので、親鸞会の近未来は真っ暗でしょう。

さて、因果の道理と言っても、大まかに
世間の因果
出世の因果
報土の因果
と分かれます。
出世の因果を聖道の因果化土の因果に分けることもできます。

親鸞聖人は報土の因果を教えられたのであって、出世の因果を信じることを厳しく誡められています。

報土の因果とは『教行信証』信巻に、

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

とあるように、報土往生の因は阿弥陀仏が衆生に与えてくださるものであり、衆生の因は全くありません。
高森会長の炭素とダイヤモンドの譬えを信じている会員は、因は衆生で縁が阿弥陀仏と思っているでしょうが、報土往生の因も縁も阿弥陀仏が100%用意してくだされたものです。
出世の因果を教える聖道門では、衆生の因と仏の因が混在していると考え、報土往生を誓われた阿弥陀仏と雖も、衆生の因が相当の割合必要だとしています。

つまり、高森会長の言う三願転入論も宿善論も、聖道門の理論なのです。ついでに炭素とダイヤモンドの譬えも、聖道門の発想です。

もう一度言いますが、出世の因果と報土の因果は全く別の道理で、親鸞聖人は出世の因果を信じることを厳しく誡められ、それどころか出世の因果を信じることが自力、仏智不思議を疑う心、疑情だと断言されているのです。
何のことはない、高森会長の教えすべてが、自力であり疑情の教えですから、高森会長の教えを捨てることを自力を捨てることになるのです。

どうすれば救われますか?

このように会員や退会者からよく質問されますが、答えは、

高森会長の教えをすべて捨てよ

です。

念のため言っておきますが、高森会長は出世の因果と世間の因果を混同して教えていますので、根本的に因果の道理に疎いのです。

高森会長が因果の道理に疎い事例として会員でも判るようにいうならば、

お金を儲けるには、お金を儲けることをしなければなりません。親鸞会の活動・財施をしてお金が儲かることはありません。会員はここさえ誤解しているでしょうが、当たり前のことです。親鸞聖人の御一生を見れば判りますが、親鸞聖人は亡くなられるまで生活に困窮されるような生活でした。

大学を優秀な成績で卒業するには、勉強するしかありません。親鸞会の活動をしても、成績上昇の何の足しにもなりません。学友部では、この辺りもマインドコントロールされて、卒業できない学生が多くいますが、愚かな思考です。

因果の関係で言えば、お金を儲けることも成績を上げることも、報土に往くことも同じなのですが、全く違うのが、自因自果か他因自果(この場合の他は阿弥陀仏)かということです。

高森会長の教えを信じて得られるものは、貧と恥のみです。

報土往生したいという気が少しでもあるのであれば、まずは高森会長を完全に見限ることです。

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2020年8月30日 (日)

三願転入に対する親鸞会の妄想6

最近の親鸞会は、困ったときの因果の道理だのみで、善の勧めの根拠を出せと迫られると、

仏教の根幹は因果の道理だ

ときます。バカも休み休み言え、と言いたいですが、そもそも親鸞会では因果の道理を本気で信じているのかといえば、ノーです。
理由は簡単で、浄土門で教える最善最高最上の善因は、念仏であるのに、念仏よりも親鸞会の活動が絶対と考えているからです。

一応根拠を紹介しておきます。『教行信証』化土巻に

元照律師の『弥陀経の義疏』にいはく、「如来、持名の功勝れたることを明かさんと欲す。まづ余善を貶して少善根とす。いはゆる布施・持戒・立寺・造像・礼誦・座禅・懺念・苦行、一切福業、もし正信なければ、回向願求するにみな少善とす。往生の因にあらず。もしこの経によりて名号を執持せば、決定して往生せん。すなはち知んぬ、称名はこれ多善根・多福徳なりと。むかしこの解をなしし、人なほ遅疑しき。近く襄陽の石碑の経の本文を得て、理冥符せり。はじめて深信を懐く。かれにいはく、〈善男子・善女人、阿弥陀仏を説くを聞きて、一心にして乱れず、名号を専称せよ。称名をもつてのゆゑに、諸罪消滅す。すなはちこれ多功徳・多善根・多福徳因縁なり〉」と。

(現代語訳)

元照律師の『阿弥陀経義疏』にいっている。
「釈尊は、念仏の功徳がすぐれていることを明らかにしようとされ、まず念仏以外の善を劣ったものとしてわずかな功徳しかないといわれる。布施をし、戒律をたもち、あるいは寺を建て、仏像をつくり、仏を礼拝し、経を読み、または座禅をし、懺悔し、苦行するなどのすべての善は、もし正しい信がなかったなら、そのような善によって浄土に往生しようと願っても、みなわずかな功徳しかなく、往生の因ではないのである。もし、『阿弥陀経』の教えにしたがって念仏するなら、間違いなく往生するであろう。だから念仏は多くの功徳があると知ることができる。
かつて、わたしはこのような解釈をしたが、世間の人はなお疑って信じなかった。しかし最近、襄陽の石碑に刻まれた『阿弥陀経』の文を見たところ、わたしの解釈と見事に一致しており、そこではじめて深く信じるようになったのである。その文には次のように説かれている。<善良なものよ、阿弥陀仏について説かれるのを聞いて、心を乱すことなくただひとすじに名号を称えるがよい。名号を称えることにより、あらゆる罪が除かれる。すなわち念仏は多くの功徳をそなえて行である>」

とあります。難しい内容ではないので、読まれた通りですが、念仏は「多功徳・多善根・多福徳因縁」ですが、諸善はその反対で「少功徳・少善根・少福徳因縁」です。
ここで言う念仏は自力の念仏です。

鈍い会員のために譬えで解説します。

1日働いて100円の炎天下での重労働
1日働いて100万円の誰でもできるエアコンの利いた部屋での軽作業

どちらを選択するのか、という話です。
こんな極端なことは世の中にない、と思っている人がいたら、井の中の蛙でしょう。こんなことは世界中で実際によくあります。実例は自分で調べてみてください。

より良い果を求めるなら、より良い因を求めるのが、因果の道理を信じている人の行動でしょう。そして、自力の念仏は諸善とは桁違いの功徳があるのですから、親鸞会の非効率で無意味な活動をしている暇があるのなら、念仏を称えた方が、余程、良い結果を得られるでしょう。それなのに、発展途上国最貧困層の労働環境並みの親鸞会の活動をしている会員は、因果の道理を信じていないか、あるいは今の労働環境が世界最高だと騙されているののどちらかでしょう。

因果の道理を信じている、より良い結果を求めている、更には無常迅速と思っているのであれば、親鸞会の最悪最低最下の活動をすることはあり得ません。

もう一度言います。

自力の念仏は、多功徳・多善根・多福徳因縁
諸善は、少功徳・少善根・少福徳因縁

高森流宿善論が正しいとして、何が最も宿善を厚くすることになるか考えてみましょう。

再度、高森顕徹会長の『なぜ生きる2』11章にある

 無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。

を読んでみてください。
これが、真宗の教えであるかどうか、20願を通ったことのある人物の言葉であるのかどうか、僅かに思考が残っていれば、答えは明々白々です。

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2020年8月22日 (土)

三願転入に対する親鸞会の妄想5

10年前のmixiでの最大の論点は、

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉があるなら出して

でした。
答えは、無い、ですので、最初から決着していましたが、ごちゃごちゃ誤魔化し続けていただけで、それは『なぜ生きる2』でも変わりませんでした。
6章にこうあります。

 もし三願転入の弥陀の救いが、親鸞聖人や一部の人に限定されることならば、十九願の人々に、折れず曲がらず速やかに二十願に進めよの、聖人の励ましは『教行信証』になかったであろう。
 それが幾たびも見かけるのだ。

 総ての人々よ。十九の願から二十願に進んでおくれ。必ず十八願・選択の願海へ転入させて頂けるのだから。

 以下は、その文証である。

  それ濁世の道俗(すべての人)、速に円修至徳の真門(二十願)に入りて、難思往生を願うべし」(『教行信証』化身土巻・末)

 特定の人を「濁世の道俗」とは言われない。三願転入は、すべての人の道程だから「濁世の道俗」と言われているのである。

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉はありませんので、参考までに親鸞聖人が20願を勧められたお言葉をmixiで教えてあげたのですが、それを『なぜ生きる2』では19願を勧められたお言葉であるかのように偽装したのです。

偽装しようが詭弁を使おうがまとめるとこうなります。

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉はない。
親鸞聖人が20願を勧められたお言葉はある。

この事実を普通に判断するなら、親鸞聖人が三願転入の道程を全人類に当て嵌められていないことと、20願から18願への転入という親鸞会的言い方をするなら二願転入を積極的か消極的かは別として認められていたことが判ります。

言葉を代えてまとめると、

親鸞聖人は三願転入を否定的に看做されていた。
親鸞聖人は二願転入を肯定的に看做されていた。

こうとしか言えないのです。
一応言っておきますが、親鸞聖人は上記のように20願を一応は勧められていますが、三願転入の直前に仰った20願の結論として

悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。

(現代語訳)

悲しいことに、煩悩にまみれた愚かな凡夫は、はかり知れない昔から、迷いの世界を離れることがない。果てしなく迷いの世界を生れ変り死に変りし続けていることを考えると、限りなく長い時を経ても、本願力に身をまかせ、信心の大海にはいることはできないのである。まことに悲しむべきことであり、深く嘆くべきことである。大乗や小乗の聖者たちも、またすべての善人も、本願の名号を自分の功徳として称えるから、他力の信心を得ることができず、仏の智慧のはたらきを知ることがない。すなわち阿弥陀仏が浄土に往生する因を設けられたことを知ることができないので、真実報土に往生することがないのである。

と仰っているので、親鸞聖人が積極的に20願を勧められているとは言えません。

つまりは20願の勧めは微妙でありますが、19願の勧めは明確に否定されているのです。

この単純な理屈をmixiで知らされた高森顕徹会長が、mixiで絶句した悔しさを『なせ生きる2』でぶつけたという訳です。

益々評価を下げた高森会長でした。

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2020年8月15日 (土)

三願転入に対する親鸞会の妄想4

前回、『教行信証』行巻に二か所も取り上げられている釈尊の浄飯王に対する御説法について述べました。
ここだけ見ても、親鸞聖人が三願転入という道程を否定されていることが普通の知能を持っていれば理解できることです。
釈尊は、レベルの高い善ができると自惚れていた浄飯王に対して、その善はもちろんですが、もっとレベルを下げた善さえも勧められずに、いきなり念仏を勧められています。そのことを親鸞聖人は『安楽集』と『五会法事讃』の2つの根拠を出されているのですから、往生のためにいきなり念仏を勧めることが、親鸞聖人の教えであり、『教行信証』の内容だと言えます。

このように言うと、

親鸞聖人は信心1つで往生できることを教えられた
親鸞聖人は聞く1つで助かることを教えられた

このように反論する人が、親鸞会も含めて他にもあると思います。
これまで何度も言っていますが、ここで親鸞聖人が仰っていることは、すべて同じ意味なのです。信心、聞くことを勧めるのは正しいが、念仏を勧めるのは間違いだ、という発想が根拠のない考えなのです。

高森顕徹会長の『なぜ生きる2』11章にある

 無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。

がその典型でしょう。釈尊の浄飯王に対する御説法、そしてそれを二度も紹介された親鸞聖人のことを「平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である」と痛烈に非難しているのです。

一応説明しておきますが、行巻にある念仏とは他力の念仏のことです。

つまりは、最初から他力の念仏を勧めるのが親鸞聖人の教え、言い換えると18願だけを勧めるのが親鸞聖人の教えだと言うことになるのです。

ただし、皆さんが懸念されるように最初から他力念仏を称えることは、極めて稀ですので、結果的には他力念仏を勧められながら自力念仏になってしまうだけです。ここで捻くれた考え方をすると、他力念仏になるまで自力念仏は称えなくてよい、となるのですが、それは他力念仏を称えるつもりでも自力念仏になっていることはありますが、他力念仏になったことを確認するまで念仏を称えなければ、いつまで経っても他力念仏を称えることはありません。
昔、高森会長が言っていた聴聞に近いことで、この一座で信心を獲ると思って法話を聞くと、信心を獲た、ということがあるのですが、信心を獲るまでは自力の聴聞だから聞かない、と言っていたら法話を聞いて信心を獲ることがないのと同じです。

親鸞聖人は他力念仏を最初から勧められています、だから自力念仏の勧めのお言葉は探さないと見つからないほどしかありません。
それは、自力念仏に留まることを誡められたのであって、自力念仏自体を否定されたのではありません。

『浄土和讃』には

定散自力の称名は
 果遂のちかひに帰してこそ
 をしへざれども自然に
 真如の門に転入する

とありますように、自力念仏から他力念仏への転入を教えられています。言い換えると20願から18願への転入ですが、19願に関しては無視されているのです。

これをこれまで何度も言ってきたのですが、これに対する高森会長の会員向け反論が、

それでは三願転入ではなく二願転入ではないか

でした。その通りで、基本、親鸞聖人は二願転入を教えられていて、御自身も含めて三願転入という人も稀にある、くらいの話なのです。
したがいまして、三願転入という言葉を、親鸞聖人も覚如上人、蓮如上人も仰ったことがなく、後の学者が創作した言葉であり、三願転入という概念もそこから発生したことです。そんなことも知らずに三願転入を声高に叫ぶことが愚かです。

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2020年8月 6日 (木)

三願転入に対する親鸞会の妄想3

10年前のmixiでの法論で、退会者が最初から最後まで一貫して高森顕徹会長に問い続けたことは、

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉

でした。そして最初から最後まで高森会長は根拠を出しませんでした。いや、出せませんでした。無いからです。
法論で負けた悔しさから書いた『なぜ生きる2』でも、

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉

は当然出していません。書いていることは、高森流創作譬喩ばかりです。
一応言っておきますが、三願転入は全人類共通の道で必ず19願を通らなければならないのならば、親鸞聖人が19願を勧められているはずです。19願を通らずして20願そして18願に入ることができないのですから、まずは19願を実践しましょう、と親鸞聖人がどこかに仰っていなければ、高森流三願転入論は破綻するのです。

ですから、

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉

この問い一つで、高森会長の嘘が見抜けるのです。
ただし、一度だけこの問いに答えたことがありました。その答えは、

『教行信証』全体

でした。これは、親鸞聖人のお言葉はありません、と白状した返答です。『教行信証』のお言葉を1つも出していないので、子供の悔し紛れの返答レベルでしかないのです。

さて、親鸞会の諸君は、この事実をどう判断するのでしょうか。会員に尋ねてみたことがありますが、ある幹部は「19願を勧められたお言葉などあるわけない」と開き直って、それで三願転入論を語るのです。こんな破綻思考の幹部よりも高森会長の方が余程賢いでしょう、少なくとも高森会長はこちらの意図を理解できているのですから。

なお、『教行信証』全体に書かれてあることは、18願で救われるのに、三願転入する必要はない、ということです。
簡単な例で言えば、行巻にある釈尊が浄飯王に念仏三昧を勧められたところや、信巻にある阿闍世の物語です。この2つのエピソードは、親鸞聖人が『教行信証』の中で、かなり力を入れて書かれている箇所でもあります。釈尊が実在の人物に対してどのように導かれたかですので、七高僧の解釈や理論、親鸞聖人独自の解釈や理論ではない、仏の説法として親鸞聖人が紹介された阿弥陀仏の救いの真髄なのです。

この2つのエピソードに共通することは、釈尊が浄飯王と阿闍世に、善を勧められていないことです。浄飯王は、善をする気満々であったのに、釈尊は「できないから、念仏三昧を勧めるのだ」とあっさりした説明をされただけです。自惚れている人には一度、やらせてみてできないことを知らせてから、という回りくどい話は全くありません。

原文は以下

父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまふ。父の王、仏にまうさく、「仏地の果徳、真如実相、第一義空、なにによりてか弟子をしてこれを行ぜしめざる」と。仏、父の王に告げたまはく、「諸仏の果徳、無量深妙の境界、神通解脱まします。これ凡夫の所行の境界にあらざるがゆゑに、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる」と。

(現代語訳)

世尊は、父である浄飯王に念仏三昧を修めるようにお勧めになった。父の王は世尊に、「仏のさとりの徳は真如実相第一義空とのことでありますが、それを観ずる行を、どうして弟子であるわたしに教えてくださらないのですか」とお尋ねした。 世尊は父の王に、「仏がたのさとりの徳は、はかりがたい深い境地であり、仏は神通力や智慧をそなえておいでになります。これはとうてい凡夫が修めることのできる境地ではありません。そこで、父の王に念仏三昧を修めることをお勧めしたのです」と仰せになった。

如来つねに三昧海のなかにして、網綿の手を挙げたまひて、父の王にいうてのたまはく、「王いま座禅してただまさに念仏すべし。あに離念に同じて無念を求めんや。生を離れて無生を求めんや。相好を離れて法身を求めんや。文を離れて解脱を求めんや」と。

(現代語訳)

釈尊は父である浄飯王に、「王よ、今静かに座して念仏すべきであります。念を離れて無念を求め、生を離れて無生を求め、姿かたちを離れて法身を求め、言葉を離れて言葉の及ばない解脱を求めるというような難しいことが、凡夫にどうしてできましょうか」と仰せになる。

次に阿闍世ですが、阿闍世は信を獲た後にこう告白しています。

世尊、われ世間を見るに、伊蘭子より伊蘭樹を生ず。伊蘭より栴檀樹を生ずるをば見ず。われいまはじめて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る。伊蘭子はわが身これなり。栴檀樹はすなはちこれわが心、無根の信なり。無根とは、われはじめて如来を恭敬せんことを知らず、法僧を信ぜず、これを無根と名づく。

(現代語訳)

世尊、世間では、伊蘭の種からは悪臭を放つ伊蘭の樹が生えます。伊蘭の種から芳香を放つ栴檀の樹が生えるのを見たことはありません。わたしは今はじめて伊蘭の種から栴檀の樹が生えるのを見ました。伊蘭の種とはわたしのことであり、栴檀の樹とはわたしの心におこった無根の信であります。無根とは、わたしは今まで如来をあつく敬うこともなく、法宝や僧宝を信じたこともなかったので、これを無根というのであります。

善の勧めはありませんから、もちろん19願の勧めもありません。

『教行信証』全体を読んだことが無いどころか、『教行信証』の一部も読んだことが無いから、寝とぼけた三願転入論を口にできるのでしょう。

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2020年7月29日 (水)

三願転入に対する親鸞会の妄想2

とくよしみねさんからのコメントがありましたように、8月29日に愛知県刈谷市で勉強会を開催予定です。
詳細は
とくよしみねの「なぜ生きる」
で確認して、参加を希望される方は、とくよしみねさんにメールで連絡をしてください。

こういう時期で人数制限があり、当日突然参加ということは難しいと思われますので、事前に連絡をお願いします。

さて、高森顕徹会長は18願の「唯除五逆誹謗正法」を「十方衆生」の実機を顕わされた箇所として説明していますが、出鱈目です。結論を先に言いますと、親鸞聖人の教えを真面目に聞いている皆さんは、五逆でも謗法の者でもありません。
唯除五逆誹謗正法」の直接の解釈は『尊号真像銘文』にしかありません。

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

です。
つまり、18願には「唯除五逆誹謗正法」というお言葉があるから、18願の「十方衆生」から洩れたものはないと仰っているのです。逆にいえば、「唯除五逆誹謗正法」のない19願・20願の「十方衆生」には、洩れているものがいるということです。
要するに、「十方衆生」の中に五逆誹謗正法の者がいるという意味にしかなりません。
前回も述べましたが、19願の「十方衆生」は聖道門の行ができる人であり、聖道門の行のできない我々は19願の「十方衆生」には含まれていないのです。

では、「唯除五逆誹謗正法」が「十方衆生」の実機、機の深信だというのは、高森会長の創作かといえば違います。そんな高度な創作ができるほどの知恵は高森会長にはないでしょう。
もうお判りかと思いますが、大沼法竜師からのパクリです。
『本派本願寺の危機 どちらが異安心か』にはこのようにあります。

 本願寺の総長を始め勧学のお歴歴から頭の切り替えをやらなければ真宗の復興は望めない。君達は第十八願や成就の文を有難がって見て居るのであって十八願の身になる事を忘れて居るのだ、至心信楽の文に陶酔し、至心に廻向せしめ給えりに酩酊して麻痺状態となり、阿片やヒロポンに中毒されて萎靡沈滞して活動能力を失うて居るのだ、第十八願の文を見て自分は至心信楽己を忘れて乃至十念の称名を称えて居るから死にさえすれば往生に間違いはない、仏様が若し生れささずんば正覚を取らずと仰せられたのが、既に十劫の昔に正覚を成就して居らるるから十劫の昔に助かって居るのだと安心して居るが、君達は文面を見て裏面を読んで居ないのだ。唯除五逆誹謗正法とは誰の事かい、勧学だと威張って居る君達の事だぞ、除かれて居るとも知らずにのさばりかえって居るが、それだから開発の一念を知らないのだ、若不生者不取正覚とは生れさすとは死後の事しか知らないのだろう、心命終を忘れたか、君の逆謗の屍を今心命終ささなければ正覚を投げ出すぞと言うことだよ。成就の文にしても至心に廻向して貰ったか、不可称不可説不可思議の功徳は行者の身に満てりと有るが、三千世界の果報者は自分一人と言う満足が有るか、観念の遊戯だけして居るのだからそんなはっきりした事は有るまい、何を廻向されたか、上に向えば法体の大行、下に向えば当果決定、誰が頂くのだ、諸有衆生、その腹底は、唯除逆謗、おいおい君達、素直に聞いて居ればよいと言うような対岸の火事のような話ではないぞ、君が邪見驕慢の逆謗の屍ではないか、その機に久遠劫から付き纏い、至心に廻向し給いいて聞即信の一念に法体の大行を全領し同時に住不退転の当果を決定さして頂くのだが、文面を読んで眺めて通って居るのだから何とも有るまい、これが実地に諦得出来たのなら信前信後の水際鮮かに今こそ明らかに知られたりと大慶喜せずには居られないのだ、その初起の一念を信一念と名前を付けるのだ、時尅に何の関係が有るのだ、味に用事が有るのだ、本当に大満足の出来た人なら実時は判らないが仮時ならあの時であったと言えるのだ、君達にはあの時もこの時もないのだ、御経やお聖教を読んで通って見て感じただけだから自分の実機とは無関係だから観念の遊戯に過ぎないのだ、勧学で有りながら実地の体験がないのだから、晴れたのやら暮れたのやら、水際もなければ角目もない、……

当時の本願寺派勧学を批判した内容です。当然ながら、大沼師の味わいであり、聖教上に根拠のあることではありません。

高森会長は、大沼師の独特の味わいと聖教の内容との区別が全くついていません。なぜなら、聖教を読んだことがないからです。

「十方衆生」=全人類

というちょっとおっちょこちょいな解釈をしているのも、すべて、聖教を読んでいないことが原因です。

なお、私は聖教に書かれてあることをそのまま述べているに過ぎませんので、私の言っていることが間違いだと反論するのであれば、それは聖教が間違っているか、もしくは聖教の解釈が間違っていることを証明してください。

味わいと聖教上の根拠とは違いますので、その程度の分別はもってもらいたいものです。

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2020年7月26日 (日)

三願転入に対する親鸞会の妄想1

10年前にmixi上での三願転入の法論が行われました。結果は、高森顕徹会長の大惨敗で、逃亡の後、トピックスを管理人に削除させるという、親鸞会史上最悪の結末でした。
これを見た親鸞会会員は、親鸞会を辞めて、高森会長の評価は地に堕ちました。この屈辱を晴らすべく書いたのが『なぜ生きる2』でした。その内容は、mixiでの法論そのままで、成長も進歩もなく、当然ながら、退会者から集中砲火を浴びた上、それまで親鸞会のことを知らなかった真宗10派の関係者に、高森会長と親鸞会の無知と出鱈目創作教義が広く知らされる結果となりました。現在、『なぜ生きる2』は、親鸞会内部でも話題にされることがなくなっています。

昨日、三願転入についてコメントしてきた会員らしき人がありましたので、少し解説しておきます。

『なぜ生きる2』10章に

 弥陀は十九願を建てて善を勧め、釈迦が一代、廃悪修善を説かれたのは、知った分かったの観念の遊戯ではなく、実地にやらせるためであったと、聖人は仰せになっている。

以下は、その文証である。

然るに濁世の群萌・穢悪の含識、乃し九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入ると雖も、真なる者は甚だ以て難く、実なる者は甚だ以て希なり、偽なる者は甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋し。
ここを以て、釈迦牟尼仏、福徳蔵(十九願)を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願を発して普く諸有海を化したまう。既にして悲願有す、「修諸功徳の願」と名づく
                              (『教行信証』化身土巻・本)

mixiでも最初に出してきた高森会長の完全な妄想です。

まず学問的な知識として。

半満」とは、半字教と満字教のことです。『涅槃経』に、子供に文字を教える時に、最初は半字を教えて、後で満字を教えるということから、釈尊もお弟子に半字教から満字教を教えていかれた、とあります。ここで、半字教は小乗教、満字教は大乗教という意味になります。
権実」とは、権教と実教のことです。満字教(大乗教)の中で、権仮方便の教えと真実の教えとがあるということです。
半満・権実」は、二双四重の教判でいえば、竪出・竪超のことです。
『教行信証』化土巻に

おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。

(現代語訳)

総じて釈尊が説かれた教えの中で、この世界で聖者となってさとりを得るのを聖道門といい、難行道という。この聖道門の中に、大乗と小乗、漸教と頓教、一乗と二乗と三乗、権教と実教、顕教と密教、竪出と竪超がある。これらはすべて自力の教えであり、衆生を真実に導くための、仮の手だてとして説かれた教えである。

あり、この「半満・権実」が「大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超」です。

『愚禿鈔』では

一には大乗の教、二には小乗の教なり。
大乗教について、二教あり。
 一には頓教、        二には漸教なり。

難行聖道の実教なり。いはゆる仏心・真言・法華・華厳等の教なり。

難行道 聖道権教、法相等、歴劫修行の教なり。

小乗教について、二教あり。
 一には縁覚教    一に麟喩独覚、二に部行独覚。
 二には声聞教なり。 初果・預流向、第二果・一来向、第三果・不還向、
           第四果・阿羅漢向、八輩なり。

にあたります。

権実」というと18願が実と思われるかもしれませんが、「難行聖道の実教」を指しています。従って、「半満・権実」で、聖道門のことを総称して仰っているのです。

聖道門の人が親鸞聖人のこの御文を読めば、聖道門の修行をしている人のことを指すというのが、常識としてあります。

その上で、親鸞聖人は、「真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。」と仰っているので、聖道門の中でこうだという話です。
この親鸞聖人の思想の根本にあるのが、

法然上人の『西方指南抄』(親鸞聖人御真筆)に

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也。

とあることです。法然上人が仰ったことは、「諸行之人」です。「無行之人」ではないです。

また親鸞聖人が間違いない人と尊敬されていた隆寛律師は

先師律師つねにのたまはく、隆寛こそ十九願の機よ。其故は、本と円宗の菩提心を発して、聖道の出離を期せしほどに、末法に生をうけたる身、涯分をしる故に、聖道の出離の叶ふまじきいはれを心得て、浄土門に入れるなり。

と言われていたと弟子の記した『広疑瑞決集』にあります。隆寛律師御自身の体験から、聖道門から浄土門に入ることができたのは、19願の権仮方便によるものと味わわれたのです。

更には、大経の異訳経に

『大無量寿経』19願の「十方衆生
=『平等覚経』18願の「諸佛國人民有作菩薩道者
=『大阿弥陀経』7願の「八方上下無央數佛國諸天人民若善男子善女人有作菩薩道
諸々の仏国土の菩薩の行を行う者

とあることから、こう仰ったわけです。

もちろん、「半満・権実の法門」に浄土門の人が含まれるというのは、妄想以外の何物でもないということです。

結局のところ、聖道門で出離して成仏を目指しながら、それができないことで聖道門を断念した人のために、19願が建てられ、定散二善が説かれたという内容にしかなりません。

学問的素養もなく、文法も無視したヘンテコ解釈が通用する訳もなく、mixiでは全く反論もできずに最初から高森会長は窮地に立たされたのです。

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2020年7月19日 (日)

念仏の信心も信心正因称名報恩の意味も知らない相伝もなきしらぬくせ法門

念仏往生」は蓮如上人も仰っていますが、それと「信心正因称名報恩」との関係がどうなっているのか、よく判るのが『御文章』3帖13通です。
少し長いですが、全文載せておきます。

それ、当流門徒中において、すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こころうべき次第は、まづほかには王法を本とし、諸神・諸仏・菩薩をかろしめず、また諸宗・諸法を謗ぜず、国ところにあらば守護・地頭にむきては疎略なく、かぎりある年貢所当をつぶさに沙汰をいたし、そのほか仁義をもつて本とし、また後生のためには内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして、一念も疑心なく信じまゐらせば、かならず真実の極楽浄土に往生すべし。

このこころえのとほりをもつて、すなはち弥陀如来の他力の信心をえたる念仏行者のすがたとはいふべし。かくのごとく念仏の信心をとりてのうへに、なほおもふべきやうは、さてもかかるわれらごときのあさましき一生造悪の罪ふかき身ながら、ひとたび一念帰命の信心をおこせば、仏の願力によりてたやすくたすけたまへる弥陀如来の不思議にまします超世の本願の強縁のありがたさよと、ふかくおもひたてまつりて、その御恩報謝のためには、ねてもさめてもただ念仏ばかりをとなへて、かの弥陀如来の仏恩を報じたてまつるべきばかりなり。

このうへには後生のためになにをしりても所用なきところに、ちかごろもつてのほか、みな人のなにの不足ありてか、相伝もなきしらぬくせ法門をいひて人をもまどはし、また無上の法流をもけがさんこと、まことにもつてあさましき次第なり。よくよくおもひはからふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

前段は、これまでに度々取り上げたところで、信前信後を問わずに、法律・倫理道徳の善に心がけて、往生のためには雑行・雑善を捨てよとありますので、真宗における善の扱いについて明確にされています。
問題は、「内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて」が何を意味しているかです。当然、信心のことですが、このようになった人のことを中段で、「弥陀如来の他力の信心をえたる念仏行者のすがた」と仰り、その信心を「かくのごとく念仏の信心をとりて」と仰っていることです。

親鸞会の会員にとっては気が付かないことでしょうが、「阿弥陀如来を一心一向」が念仏のことを指しているのです。これまでにも述べたように

善を捨てよ=念仏一行

ということですから、「阿弥陀如来を一心一向」になったことを「念仏行者」「念仏の信心」と仰っても手紙を読んだ同行にとっては普通に理解できたことなのです。

念のために言っておきますが、信後の報恩念仏のことではありません。なぜなら、「かくのごとく念仏の信心をとりてのうへに、なほおもふべきやうは」の後に報恩念仏の説明があるからです。

ここまでをまとめると、

・往生と善とは無関係
・往生のために善を捨てたならば念仏一行になる
・信前に念仏一行になった行者が「阿弥陀如来を一心一向」の信心を獲て「念仏行者」となる
・「阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて」のことを「念仏の信心」という
・信後の念仏は御恩報謝の念仏となる

往生のための善の勧めは論外ですが、信前の念仏を否定されたのではなく、念仏一行となった行者の「念仏の信心」を蓮如上人は強調されているのであり、信心と念仏とは密接不離の関係にあるということです。

蓮如上人が「念仏往生」と仰っているのはこういうことであり、「信心正因称名報恩」の意味もここから判ると思います。

以上のことを理解できない親鸞会などを蓮如上人は、「相伝もなきしらぬくせ法門をいひて人をもまどはし、また無上の法流をもけがさんこと、まことにもつてあさましき次第なり」と厳しく非難されているのです。

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2020年7月14日 (火)

念仏往生の願成就文と信心正因称名報恩

法然上人が18願のことを「念仏往生の願」と初めて仰ったことを親鸞聖人もそのまま受け継がれて「念仏往生の願」と頻繁に使われていることは前回述べた通りです。信心正因称名報恩を強調された覚如上人も「念仏往生の願」と使われています。

『改邪鈔』には

かの心行を獲得せんこと、念仏往生の願成就の「信心歓喜乃至一念」と等の文をもつて依憑とす。このほかいまだきかず。

これは親鸞会でも有名です。親鸞会では18願成就文の「信心歓喜乃至一念」が18願よりも重要である、つまり阿弥陀仏の救いは念仏ではなく信心一つである根拠として使っています。

この18願成就文のことを覚如上人は「念仏往生の願成就」と敢えて仰っているところに注目すべきです。
法然上人は18願成就文の「乃至一念」を念仏と解釈されていました。なぜなら「念仏往生の願成就文」だからです。
ところが親鸞聖人は『教行信証』ではこの「乃至一念」を信心と解釈されています。
こうなると、親鸞聖人は法然上人の解釈を否定されたのかと疑問が起きますが、そうではありません。
『教行信証』をまとめたとされる『浄土文類聚鈔』と、『三経往生文類』では、行の説明の中で18願成就文を根拠として挙げられています。
つまり、親鸞聖人は「乃至一念」を念仏と信心の両義あるとみられていたと言えます。理屈の上でも当たり前のことで、念仏往生の願の成就文に念仏の義が無かったらおかしなことになります。したがって、親鸞聖人は法然上人の「乃至一念」の解釈に信心の義を追加されたのであって、否定されたのではないことになります。

ここまでくればお判りかと思いますが、覚如上人もそのことを踏まえられていますので、「念仏往生の願成就」という表現をされたのだと思われます。信心を強調されたいのであれば、親鸞聖人が18願の別名で仰った「至心信楽の願」を採用されて、

かの心行を獲得せんこと、至心信楽の願成就の「信心歓喜乃至一念」と等の文をもつて依憑とす。

の方が信心で統一されてより判りやすくなるでしょうが、そうされていない意図を考える必要があります。

『口伝鈔』の「体失・不体失の往生の事」にある法然上人のお言葉

善恵房の体失して往生するよしのぶるは、諸行往生の機なればなり。善信房の体失せずして往生するよし申さるるは、念仏往生の機なればなり。「如来教法元無二」なれども、「正為衆生機不同」なれば、わが根機にまかせて領解する条、宿善の厚薄によるなり。念仏往生は仏の本願なり、諸行往生は本願にあらず。念仏往生には臨終の善悪を沙汰せず、至心信楽の帰命の一心、他力より定まるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ、この穢体亡失せずといへども、業事成弁すれば体失せずして往生すといはるるか。本願の文あきらかなり、かれをみるべし。

には、18願を「念仏往生」と度々仰っています。法然上人のお言葉だから当然だ、ではなく、法然上人のお言葉を正統として覚如上人が著わされたのですから、覚如上人のお言葉でもあります。「念仏往生」と「至心信楽」とが並列になっていますので、念仏と信心とが対立する関係ではなく、逆に深い関係であることが判ります。
覚如上人には「念仏の信心」という直接的な言葉はありませんが、参考までに存覚上人の『浄土真要鈔』には、

それ一向専修の念仏は、決定往生の肝心なり。これすなはち『大経』のなかに弥陀如来の四十八願を説くなかに、第十八の願に念仏の信心をすすめて諸行を説かず、「乃至十念の行者かならず往生を得べし」と説けるゆゑなり。

と「念仏の信心」が出てきます。

結局のところ、覚如上人においてでも信心とは「念仏の信心」つまり「念仏を称えて往生すると深信したこと」であるのです。

信心正因称名報恩という言葉から、信心と念仏とは対立する関係のように思われがちですが、信心正因の信心が「念仏の信心」ですから、正確には
《念仏の》信心正因《信後の》称名報恩
なのです。

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2020年7月 3日 (金)

聖教を読む前に日本語のお勉強をして「念仏往生の願」の意味を知りましょう

七高僧で親鸞聖人が直接教えを聞かれた方は、法然上人です。親鸞聖人が法然上人にお遭いできなかったならば流転輪廻を繰り返してきた、と仰ったことは、真宗の関係者ならば誰でも知っていることでしょう。その法然上人が、往生のために念仏を勧められたことは、これまた真宗関係者だけでなく日本史を学んだなら誰でも知っている超常識です。

ここで、一つ質問です。

親鸞聖人は、法然上人が往生のために念仏を勧められたことを間違いだと否定されたと思いますか?

日本語が理解できるならば、そんなことはあり得ないでしょう。ところが、親鸞聖人が法然上人の教えの真髄である「往生のための念仏」を否定されたと言うのが親鸞会などです。日本語が判らないのか、他宗のスパイかと疑ってしまいます。

念のために、法然上人のお言葉を少しだけ紹介しておきます。『選択本願念仏集』には18願のことを著書名通り、「選択本願」と仰っただけではなく「念仏往生の願」と度々仰っています。その1つに

諸師の釈には別して十念往生の願といふ。善導独り総じて念仏往生の願といへり。

とありますが、実は善導大師は「念仏往生の願」とは直接仰っていませんので、「念仏往生の願」は、法然上人の造語になります。意味は説明するまでもなく、「念仏を称えたものを往生させる願」「念仏を称えて往生する願」です。

さて、この法然上人の造語である「念仏往生の願」を親鸞聖人は使われなかったのかと言えば、その逆で、頻繁に使われています。

『教行信証』信巻には、

この心すなはちこれ念仏往生の願より出でたり。

と敢えて、「念仏往生の願」と仰っています。別の言い方ではなく、ここは敢えて使われたとみるべきです。なぜなら信巻の前に、18願を「念仏を称えて往生する願」として繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し仰った行巻があるからです。
同じことで、『浄土文類聚鈔』には

浄信といふは、すなはち利他深広の信心なり。すなはちこれ念仏往生の願より出でたり。

とあります。この直前に18願を「念仏を称えて往生する願」として説明されたからです。
同様の理由で『三経往生文類』には

また真実信心あり。すなはち念仏往生の悲願にあらはれたり。

更には、『如来二種回向文』にも

真実信心といふは、念仏往生の悲願にあらはれたり。

とあります。
これ以外には、『浄土文類聚鈔』にもう一か所、『正像末和讃』にも一か所、『御消息』には多数あります。『御消息』には、「念仏往生の願」の意味が明確に判る箇所があります。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。

念仏往生の願」=「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる

なお、他力の信心とは、

名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じて

念仏往生とふかく信じて

です。他の『御消息』でも

この念仏往生の願を一向に信じてふたごころなきを、一向専修とは申すなり。

とある通り、「念仏を称えて往生する願を疑いなく信じること」が他力の信心です。

この単純明快な教えを捻くり回して、

「念仏を称えて往生する」と教えることは間違いだ!

と喚く者が真宗を名乗る資格があるのかと甚だ疑問に思います。
駄目押しで言うなら、覚如上人も蓮如上人も、「念仏往生の願」という言葉を使われています。親鸞聖人が多用されたのですから当然です。

真宗を名乗るのであれば、聖教を読む前にまずは日本語のお勉強をしましょう。

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