2019年10月20日 (日)

親鸞聖人の仰る往生の道とは2

前回の続きです。

『観無量寿経』の上品上生の往生について、行福という善と三心(至誠心・深心・回向発願心)の2つの条件が挙げられています。この三心を善導大師は『散善義』の中で非常に詳しく解釈なされています。

繰り返しますが、三心については上品上生のところにあります。
上品上生の機について善導大師は

大乗を修学する上善の凡夫人なり。

と仰っています。聖道門の学僧が菩薩と解釈したのを完全否定されて、凡夫だと断言されています。
三心の最初の至誠心には、親鸞会でも有名な「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。」があります。前後を含めて紹介すると、

一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。 外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。 貪瞋・邪偽・奸詐百端にして、悪性侵めがたく、事蛇蝎に同じきは、三業を起すといへども名づけて雑毒の善となし、また虚仮の行と名づく。 真実の業と名づけず。
もしかくのごとき安心・起行をなすものは、たとひ身心を苦励して、日夜十二時外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく。
この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに。 まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちになしたまひ、おほよそ施為・趣求したまふところ、またみな真実なるによりてなり。

外に賢善精進の相を現じ」が何を意味しているかは、上品上生を理解すれば容易に判ります。くどいようですが、上品上生の機は行福のできる「上善の凡夫人」です。つまり、行福を修することが「外に賢善精進の相を現じ」であり、上品上生の機の条件です。
行福を修することが前提で、たとえ行福を修していても、内が虚仮では、「雑毒の善となし、また虚仮の行と名づく。 真実の業と名づけず。」と仰っています。
更には、このような内が虚仮で修する行福では、「かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。」と断言されています。行福のできる「上善の凡夫人」ではあっても、内が虚仮であっては、往生できないという善導大師の解釈です。
なぜ往生できないのかの理由が次にあります。

まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちになしたまひ、おほよそ施為・趣求したまふところ、またみな真実なるによりてなり。

阿弥陀仏は法蔵菩薩の時に「真実心」で菩薩の行を行じられたのだから、法蔵菩薩と同じ「真実心」でなければ、阿弥陀仏の浄土に往くことはできないという理屈です。

簡単に言うと、難しい善のできる凡夫であっても、法蔵菩薩と同じ「真実心」で善を修しなければ往生できない、ということです。

ここまでくればお判りかと思いますが、「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。」は、善を勧められたお言葉ではなく、「真実心」を勧められたお言葉なのです。

問題は法蔵菩薩と同じ「真実心」ですが、普通に考えると、法蔵菩薩と同じ「真実心」で善を修することができるなら、その人は凡夫ではなく、菩薩か仏です。

善導大師は、上品上生の機とは、菩薩ではなく「上善の凡夫」だと仰りながら、菩薩以上の「真実心」になるように勧められたことになり、完全な矛盾ですので、この「真実心」は自力ではないことになります。つまり、阿弥陀仏から頂く他力の信心であると解釈すべきことになります。

それで親鸞聖人が善導大師の「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。」を「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて」と読み替えられて、善導大師の御心を明確にされたのです。

なお、善導大師が勧められている行は、同じく『散善義』に

まさしく念仏三昧の功能超絶して、実に雑善をもつて比類となすことを得るにあらざることを顕す。

また

上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。

と仰っていることからも念仏であることは周知の事実です。一応説明しますと、念仏は雑善とは比較にはならないし、阿弥陀仏の本願にはただ1つ念仏だけが勧められているということです。

まとめると、善導大師の「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。」は、「外に賢善精進の相を現じ」ることを勧められたのではなく、「外に賢善精進の相を現じ」ていても阿弥陀仏から「真実心」を頂かなければ往生できないことを教えられたものであり、それを親鸞聖人が更に判りやすく言い換えられて解釈された、ということです。そして善導大師も親鸞聖人も、念仏一つを勧められているのです。

高森顕徹会長のような曲がった解釈は、原典を当たれば簡単に論破できます。

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2019年10月19日 (土)

親鸞聖人の仰る往生の道とは1

『観無量寿経』には、10種類の機について説かれています。
10種類の機とは

定善の機―──定善のできる機
上品上生─┐
上品中生  ├─行福のできる機
上品下生─┘
中品上生─┐
中品中生─┴─戒福のできる機
中品下生───世福のできる機
下品上生───無善十悪の機
下品中生───無善破戒の機
下品下生───無善五逆の機

ということです。
10種類の気があるといっても、真実は下品下生の逆謗の一機だと言いう人がいますが、間違いです。定善の機は定善の【できる】機ですし、上品の三機は、行福の【できる】機です。定善・散善のできる機は存在しないのではなく、存在するから分けて説かれているのです。

各機に対して『観無量寿経』では往生の方法が記されています。

定善ができる機(定善の機)には、定善をしての往生
散善行福ができる機(上品上生・上品中生・上品下生)には、行福をしての往生
散善戒福ができる機(中品上生・中品中生)には、戒福をしての往生
散善世福ができる機(中品下生)には、世福をしての往生
定善も散善もできない機(下品上生・下品中生・下品下生)には、念仏での往生

もし、自分が下品下生の機だと思うのであれば、念仏での往生を願う以外に道はありません。しかし、定善の機から中品下生までは、定善なり自分のできる善による往生という道があることになります。ですから、定善の機から中品下生までの善人には善が勧められて、悪人には念仏しか勧められていないのは、筋が通っています。

これを、悪人に善を勧められた、という頓珍漢なことをいうから、筋も通っていないし、『観無量寿経』も読んでいないのだろうと判明するのです。

ちなみに、以前も述べた通り、親鸞聖人は善人にも念仏を勧められたのだということを教えられています。それが『教行信証』化土巻の

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。

です。

さて今回は『観無量寿経』に説かれた上品上生について見てみます。

上品上生といふは、もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。なんらをか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず。また三種の衆生ありて、まさに往生を得べし。なんらをか三つとする。一つには慈心にして殺さず、もろもろの戒行を具す。二つには大乗の方等経典を読誦す。三つには六念を修行す。回向発願してかの国に生ぜんと願ず。この功徳を具すること、一日乃至七日してすなはち往生を得。

(現代語訳)

極楽世界に往生するものには、上品上生から下品下生までの九種類がある。その中で、まず上品上生から説き始めよう。
人々の中でその国に生れたいと願うものは、三種の心を起して往生するのである。その三種の心とは何かといえば、一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心である。この三種の心をそなえるものは、必ずその国に生れるのである。
次の三種の行を修める人々はみな往生することができる。それはどのようなものかといえば、一つにはやさしい心を持ち、むやみに生きものを殺さず、いろいろな戒を守って修行するもの、二つには大乗の経典を口にとなえるもの、三つには六念の行を修めるものである。この人々がそれらの功徳をもってその国に生れたいと願い、一日から七日の間この功徳を積んだなら、ただちに往生することができる。

往生の条件が2つあります。1つが「三種の心を発して」、もう1つが「三種の衆生ありて」です。
三種の心」とは「一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。
三種の衆生」とは「一つには慈心にして殺さず、もろもろの戒行を具す。二つには大乗の方等経典を読誦す。三つには六念を修行す。回向発願してかの国に生ぜんと願ず。

つまり、信心と行福が上品上生の往生の条件となっています。
ここで、「三心を具するものは、かならずかの国に生ず。」に着目し、行福よりも信心について強調されたのが善導大師です。『観無量寿経疏』の多くをこの信心について解釈に費やされています。

なお、『観無量寿経』も『観無量寿経疏』も読んだことのない親鸞会でさえも知っている『観無量寿経疏』の内容は、ここに集中しています。
外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。」は至誠心釈にあります。
二種深信は、深心釈にあります。
二河白道の譬喩は、回向発願心釈にあります。

今回は述べませんが、親鸞会でさえ知っているこれらのことが、上品上生のところに出てくることを踏まえると、善導大師の御心が、高森顕徹会長等の言っていることと全く違うことが判ってきますので、まずそこを押さえておいてください。

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2019年10月10日 (木)

親鸞聖人の仰る実機とは3

『歎異抄』の有名な一文、

いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

これが機の深信であり、全人類の実相だという主張をしがちですが、これも間違いです。

まず、『歎異抄』は親鸞聖人が仰ったとされることを、著者が記憶に基づいて書き残したものですが、親鸞聖人が間違いなく仰ったという確証がありませんし、仮に仰ったとしても、どのような状況下での発言かも考慮が必要です。

次に親鸞聖人が著わされた書物や書簡を見ると、これに近い内容の御文はありません。それどころか、地獄に堕ちる人は、念仏誹謗などの条件付きでしか仰っていませんし、親鸞聖人ご自身がその条件から外れているという前提です。

地獄に関する言及で最も顕著で繰り返されているところは、『教行信証』信巻の多くを占める阿闍世の物語です。

親鸞聖人は『涅槃経』を長々と引かれていますが、その内容は、父を殺したことで無間地獄に堕ちるという恐怖に悶え苦しむ阿闍世に対して、釈尊が繰り返し繰り返しくどいほど「地獄に堕ちる罪ではない」と諭されています。

最初に仰った

いかんぞ説きてさだめて地獄に入らんといはん

から始まり、

いはんや王勅せず、いかんぞ罪を得ん。

もし諸仏世尊、罪を得たまふことなくは、なんぢ独りいかんぞ罪を得んや。

殺不定ならば、いかんしてかさだめて地獄に入らんといはん。

もし本心にあらずは、いかんぞ罪を得んや。

と続き、この後に

殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂へり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。

を7回繰り返され、更に

殺を知るといへども、いかんぞ罪あらんや。

を2回繰り返され、

しかるにこの日月実に罪を得ず。殺もまたかくのごとし。

の後に、空の思想で殺を説明されて、地獄に堕ちる罪ではないことを阿闍世に説かれ、この御説法により阿闍世は信を獲ています。

この『涅槃経』の御説法をどう解釈するかということですが、真実は無間地獄に堕ちることになるが、阿闍世の苦悩を取り除かれるために、敢えて真実と違うことを釈尊が説かれたと主張する人もいます。それが正しいのかどうかは置いておいて、親鸞聖人はどう解釈なされたのかが問題ですが、上記に挙げた、釈尊の「地獄に堕ちる罪ではない」を省略されても阿闍世の獲信を顕わすことができたにも関わらず、省略されずに『教行信証』に引かれていることは、親鸞聖人のメッセージと取るべきでしょう。

阿闍世は地獄に堕ちる罪を造っていないし、機の深信は地獄一定と知らされることでもない

高森顕徹会長の解釈など、阿闍世の物語を読めば、笑い飛ばすだけです。
『教行信証』の全体を読めなくても、阿闍世の物語だけは読んでおきたいものです。

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2019年9月28日 (土)

親鸞聖人の仰る実機とは2

前回紹介した『教行信証』化土巻に引かれた源信僧都の『往生要集』のお言葉

ここに知んぬ、雑修のものは執心不牢の人とす。ゆゑに懈慢国に生ず。もし雑修せずして、もつぱらこの業を行ぜば、これすなはち執心牢固にして、さだめて極楽国に生ぜん。{乃至}また報の浄土に生ずるものはきはめて少なし。化の浄土のなかに生ずるものは少なからず。

この直後に、親鸞聖人は19願に対するご自身の解釈を仰っています。

しかれば、それ楞厳の和尚の解義を案ずるに、念仏証拠門のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

(現代語訳)

以上のようなことから、源信和尚の解釈をうかがうと、『往生要集』の念仏証拠門の中に、第十八願について、四十八願の中の特別な願であるとあらわされている。また『観無量寿経』に説かれる定善・散善を修めるものについて、きわめて罪が重い悪人はただ念仏すべきであるとお勧めになっているのである。五濁の世のものは、出家のものも在家のものも、よく自分の能力を考えよということである。よく知るがよい。

化土に往生する人は「定散の諸機」ですが、「定散の諸機」と「極重悪人」が並べてあるということは、「極重悪人」以外に化土往生の「定散の諸機」がいることを親鸞聖人が御自身のお言葉で示されている根拠です。
全人類が
1つの善もできない極重の悪人
という発想は親鸞聖人には全くなかったのです。

実は「『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。」は、『往生要集』にあるお言葉を使って、親鸞聖人独自の文に変えられたものです。元は行巻にもあります、

『観経』には「極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得」

です。
見比べてみますと、元は「極重の悪人」だけであったところに、親鸞聖人は「定散の諸機」を加えられ、元有った「他の方便なし」を親鸞聖人は削られています。これは『観無量寿経』を読んでみれば判りますが、「定散の諸機」には諸善という方便が勧められていますが、「極重の悪人」を含む悪人には諸善の勧めは全くなく、「ただ弥陀を称せよ」というお勧めしかありません。

したがいまして、「定散の諸機」を加えたら「他の方便」ありですが、「定散の諸機」なしの「極重の悪人」だけなら「他の方便なし」になります。

何が言いたいかというと、親鸞聖人の

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。

のお言葉は、「定散の諸機」も「極重悪人」という実機だという意味ではなく、「定散の諸機」も「極重悪人」同様に、「ただ弥陀を称せよ」が『観無量寿経』の結論なんだという親鸞聖人の断言なのです。

今回のエントリーをまとめると、

親鸞聖人は
1.「極重の悪人」以外に「定散の諸機」という人がいることを当然のことと認められていた。
2.「極重の悪人」には諸善は勧められていない、つまり諸善は不要と解釈されていた。
3.極楽に生まれるために全人類に勧められているのは、「ただ弥陀を称せよ」と結論付けられていた。

何のことはなく、高森顕徹会長の言っていることの正反対なことを親鸞聖人は教えられた方だということです。

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2019年9月19日 (木)

親鸞聖人の仰る実機とは1

ご要望がありましたので、親鸞聖人の教えを、親鸞聖人のお言葉を通して明らかにしていきますが、比較のために高森顕徹会長のヘンテコ教義も取り上げます。

全人類の実機は、

1つの善もできない極悪人

という考えは、大沼法竜師や華光会でも言われて、そのパクリの高森会長も言っていますが、親鸞聖人はそのように仰った箇所はありません。

信心の内容を顕わすのに、真宗ではよく二種深信を使いますが、その機の深信で見てみます。

善導大師は『散善義』に

一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。

とありまして、親鸞会でもよく知られた御文ですが、善導大師は『往生礼讃』でも機の深信について表現を変えられて、

自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。

と仰っています。
親鸞聖人は上記の2つ共、『教行信証』に引かれていますので、親鸞聖人も同じ領解であったということになります。
この2つは、同じ内容を仰っていなければ、信心に矛盾があることになりますので、比較してみますと、

罪悪生死の凡夫」=「煩悩を具足せる凡夫
曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して」=「善根薄少にして三界に流転して
出離の縁あることなし」=「火宅を出でず

となります。
このように比較するとより判りやすくなると思いますが、

1つの善もできない極悪人

という意味合いは全くありません。出離できるだけの善ができない、という意味であって善ができないのではありません。出離に対しての善が薄く少ないのですから、無善ではありません。

これを裏付けるのが、『散善義』の善導大師の告白です。

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。 他はことごとく身命を惜しまず。 道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。 しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。 煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

(現代語訳)

わが身は、 無始よりこのかた、 他のものと同時に、 発願し、 悪を断ち、 菩薩の道を行じたのに、 他のものはことごとく身命を惜しまず、 修行して位を進め、 因が円満し、 果が成就して、 聖者の位を証した。その数は、 大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、 われら凡夫は過去より今日に至るまで、 いたずらに流転して、 煩悩の悪障が次第にますます多くなり、 福徳智慧のきわめて少ないことは、 重昏をもって明鏡に望むがようである。 今このことを考えると、 どうして心驚き悲しまずにおられようか。

出離した法友がたくさんある中で、善導大師も同じように修行されたが出離には至らなかった、つまり落ちこぼれであった、ということですが、善導大師は善はできたのです。

親鸞聖人のお言葉でそのことを証明するなら、『教行信証』化土巻の要門釈に源信僧都の『往生要集』を引かれて

ここに知んぬ、雑修のものは執心不牢の人とす。ゆゑに懈慢国に生ず。もし雑修せずして、もつぱらこの業を行ぜば、これすなはち執心牢固にして、さだめて極楽国に生ぜん。{乃至}また報の浄土に生ずるものはきはめて少なし。化の浄土のなかに生ずるものは少なからず。

と仰っています。19願の善を修すると「懈慢国に生ず」とあるように化土往生ですが、化土往生する19願の善のできた人は「化の浄土のなかに生ずるものは少なからず」です。善のできる人は少なくないのです。
これを『高僧和讃』源信讃では、

報の浄土の往生は
 おほからずとぞあらはせる
 化土にうまるる衆生をば
 すくなからずとをしへたり

と親鸞聖人はご自身のお言葉で言い換えられています。

以上の親鸞聖人のお言葉から導き出される全人類の実機とは、

出離できるだけの善ができない凡夫

と言えそうですが、揚げ足を取りたいだけのおめでたい会員のために丁寧に言うなら、出離された菩薩方を親鸞聖人は認められていますので、そいういう特別な方を除いて、と但し書きを加えておきましょう。

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2019年8月18日 (日)

弥勒菩薩以上の”聞法善”をしてきたと悲しい勘違いをしている高森顕徹会長

本日は、久しぶりに高森顕徹会長が話をしました。頭を冷やして少しは面白い話をしてくれるのかと思いましたが、いつもと変わらずつまらない話でした。

高森会長の好きな親鸞聖人の『教行信証』信巻のお言葉、

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

を出して、いつも通りの、

救われたらガラリと変わる
「まことに知んぬ」は、ハッキリ知らされた

という根拠として使用していました。
妄想が激しすぎるのですが、救われたからと言って、弥勒菩薩の成仏の時期が判る筈もなく、七高僧方がどなたも仰っていない往生即成仏が救われてハッキリ知らされたのなら、七高僧は救われていなかったことになります。
ちょっと考えれば判りそうなことが、高森会長の話術にかかってしまうと騙されるのです。

さて、親鸞聖人がここで弥勒菩薩を出されていることには、様々な意味が考えられます。

1つは、聖道門の理想像である弥勒菩薩でさえも、成仏に途方もない年月を要することを示して、18願の素晴らしさを際立たせたいことです。
2つに、『大無量寿経』の聴衆の一人であり、釈尊と問答までされた弥勒菩薩は18願ではなく、聖道門での修行を続けられていることです。
3つに、仏を除いて最高の善人である弥勒菩薩が、凡夫とは桁違いの度真剣な聞き方をしているはずなのに、救われていないことです。

1番目は解説は要らないでしょうが、2番目と3番目は親鸞会の邪義を暴く根拠になっています。
阿弥陀仏の18願を聞くことは、聖道門の善人では難しい、つまり高森流の”宿善厚き人”は救われがたいが、聖道門など全くできない悪人の”宿善薄き人”の方が救われやすいので、まさに『歎異抄』の

善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。

の通りであることが、理屈上で”ハッキリ”知らされます。
それと、弥勒菩薩は51段の菩薩ですから、厳しい修行を積み重ねられ、当然ながら高森流の”聞法善”も凡夫では絶対にできないレベルでしてきたので、『大無量寿経』もそんなレベルで聞法しても、救われるどころか聖道門に留まったままなら、凡夫がそれ以上の”聞法善”など絶対にできないので、凡夫は絶対に救われないことになります。

今回も「聞く一つ」と強調していましたが、その言葉自体は正しくても、”聞法善”の積み重ねで救われるという意味合いでしか話をしていない高森会長は、会員に弥勒菩薩以上の”聞法善”を要求しているのですが、ちなみに高森会長は弥勒菩薩以上の”聞法善”をしてきたと自惚れているのでしょうか。
自惚れているというより、悲しい勘違いなのでしょう。

そんなかわいそうな高森会長を信じている会員は、更にかわいそうです。

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2019年8月14日 (水)

阿弥陀仏の救いを根本から疑う高森顕徹流”真実信心”

親鸞会の教義は10年も前から破綻が顕在化していましたが、組織は問題がありながらも存続してきました。ところが昨年から組織の破綻も顕著になってきて、たとえば講師部員はバラバラで、士気が下がりまくり、離脱も出ています。

適当教義と方針行き当たりばったりの高森顕徹会長ですから、因果の道理を深信すればこうなることは、だれでも予想できるでしょう。

さて、親鸞会会員が妄想している真実信心と、親鸞聖人が仰る真実信心とは、天地ほどの違いがあります。会員が自力の信心だからではなく、高森会長の言っている真実信心の説明が出鱈目だからです。

親鸞聖人は、真実信心について様々な説明をなされていまして、高森会長の説明と悉く違っていますが、今回は以下のところからそれを見てみたいと思います。

『教行信証』信巻にこうあります。

元照律師のいはく、「他のなすことあたはざるがゆゑに甚難なり。世挙つていまだ見たてまつらざるがゆゑに希有なり」と。
またいはく、「念仏法門は、愚智豪賤を簡ばず、久近善悪を論ぜず、ただ決誓猛信を取れば臨終悪相なれども、十念に往生す。これすなはち具縛の凡愚、屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり。世間甚難信といふべきなり」と。
またいはく、「この悪世にして修行成仏するを難とするなり。もろもろの衆生のために、この法門を説くを二つの難とするなり。前の二難を承けて、すなはち諸仏所讃の虚しからざる意を彰す。衆生聞きて信受せしめよとなり」と。{以上}

(現代語訳)

元照律師が『阿弥陀経義疏』にいっている。
 「『阿弥陀経』には、釈尊がこの五濁の世に出られて仏となり、阿弥陀仏の教えを説かれたことを<甚難希有>と示されているが、他の仏がたのできないことであるから甚難であり、この世で今までになかったことであるから希有である」
また次のようにいっている(阿弥陀経義疏)。
「念仏の教えは、愚者と智者、富めるものと貧しいもののへだてなく、修行期間の長短や行の善し悪しを論じることなく、ただ決定の信心さえ得れば、臨終に悪相をあらわしても、たとえば十声念仏して往生をとげる。これこそは、煩悩に縛られた愚かな凡夫でも、また、生きものを殺し、酒を売って生活し、賤しいとされるものであっても、たちどころにすべてを跳び超えて仏になる教えである。まことに世間の常識を超えた信じがたい尊い教えというべきである」
また次のようにいっている(阿弥陀経義疏)。
「この五濁の世で修行して仏になるということは難しい。多くの衆生のために阿弥陀仏の教えを説くことも難しい。この二つの難事をあげて、仏がたが釈尊をほめたたえられることが無意味でないことを明らかにされている。これは衆生に教えを聞かせて信を得させるためである」

『阿弥陀経』について解釈された元照律師の『阿弥陀経義疏』を引かれている箇所です。『阿弥陀経』ですので、当然、念仏についての内容になるのですが、念仏を称えることによって往生する、もしくは仏になる、という教えが「甚難信」だと親鸞聖人もみられていたことが判ります。
この次に

律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』に〈易往而無人〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」と。

(現代語訳)

律宗の用欽がいっている。
「阿弥陀仏の教えを信じることが難しいと説くのは、まことにこの教えは、凡夫を転じて仏とすることが、ちょど手のひらを返すようだからである。きわめてたやすいから、かえって浅はかな衆生は多くの疑いを生じる。そこで『無量寿経』には、<浄土は往生しやすいにもかかわらず、往生する人がまれである>と説かれている。このようなわけで信じることが難しいと知られる」

ここでは、なぜ「難信」なのかについての解説となっています。阿弥陀仏の救いとは、凡夫が仏になることは、手のひらを表から裏へ返すのと同じくらい極めて容易いことであるから、そんな簡単なはずがないと疑うのだということです。信心を獲ることが難しいのではなく、その前の、阿弥陀仏の救い自体に大きな疑惑がおきて、それを拭い去ることができないから、「難信」になるのです。
現代的な言い方をするならば、

念仏を称えたくらいで仏になれる、そんなうまい話があるか

という疑いです。これは聖道門を信じている人たちの当然な疑問ですが、阿弥陀仏の救いを”正しく”聞いているはずの親鸞会会員の心でもあります。阿弥陀仏に救われたはずの高森会長の心でもあります。

逆の言い方をしますと、真実信心とは

念仏を称えただけで仏になれる、そんなうまい話が阿弥陀仏の救いだった

と疑いなく信じたことをいうのです。これを真っ向から批判する高森会長と会員に対して、「易往而無人」と説かれているのです。

教義も組織も破綻した親鸞会に留まって、

易往而無人」だから信心が獲られなくても当然だ、死んだら必堕無間でしかたがない

と思い続けたいのなら、どうぞ好きにしてください。

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2019年7月19日 (金)

”宿善薄き”弥勒菩薩、”宿善厚き”高森顕徹会長

高森顕徹会長の衰えもあるのでしょうが、映画は親鸞会内でも盛り上がりに欠け、大コケとなっています。予想されたことですので、何も驚くべき結果ではありません。

さて、『教行信証』信巻にある、親鸞会でも有名な御文

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

ですが、ここから弥勒菩薩は「念仏の衆生」ではないし、信心を獲て往生即成仏もできない、と親鸞聖人は観られていたことが判ります。

では、弥勒菩薩は阿弥陀仏の18願を知られないのか、と思う人もあるかもしれませんが、弥勒菩薩は『大無量寿経』の聴衆であるだけでなく、釈尊との問答までされていますので、当然ながら、18願についてもすべて知られた上で、聖道門の修行を続けられているのです。

『大無量寿経』の最後に

仏、弥勒に語りたまはく、「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなりと。
このゆゑに弥勒、たとひ大火ありて三千大千世界に充満すとも、かならずまさにこれを過ぎて、この経法を聞きて歓喜信楽し、受持読誦して説のごとく修行すべし。ゆゑはいかん。多く菩薩ありてこの経を聞かんと欲すれども、得ることあたはざればなり。もし衆生ありてこの経を聞くものは、無上道においてつひに退転せず。このゆゑにまさに専心に信受し、持誦し、説行すべし」と。

(現代語訳)

釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「無量寿仏の名を聞いて喜びに満ちあふれ、わずか一回でも念仏すれば、この人は大きな利益を得ると知るがよい。すなわちこの上ない功徳を身にそなえるのである。
だから弥勒よ、たとえ世界中が火の海になったとしてもひるまずに進み、この教えを聞いて信じ喜び、心にたもち続けて口にとなえ、教えのままに修行するがよい。なぜならこの教えは、多くの菩薩たちがどれほど聞きたいと願っても、なかなか聞くことができないものだからである。もしこの教えを聞いたなら、この上ないさとりを開くまで決して後もどりすることはないであろう。だからそなたたちはひたすらこの教えを信じ、心にたもち続けて口にとなえ、教えのままに修行するがよい」

とありまして、釈尊が弥勒菩薩に直接、阿弥陀仏の救いの教えを信じて、聞いて、念仏せよ、と説かれたにも関わらず、弥勒菩薩は信じられなかった、ということになります。

弥勒菩薩は、仏の一歩手前ですので、仏を除いた善人の筆頭です。過去世においても、そして現在も、弥勒菩薩以上の善人はいません。当たり前ですが、一応言っておきますと、弥勒菩薩は悪人ではありません。
善人の第一人者である弥勒菩薩をしても、阿弥陀仏の救いを信じられない高森流の”宿善薄き者”になるのです。弥勒菩薩以外の多くの菩薩は、「多く菩薩ありてこの経を聞かんと欲すれども、得ることあたはざればなり。」と釈尊が仰るように、阿弥陀仏の救いを知られないから、信じようもないかもしれませんが、弥勒菩薩は釈尊から直接聞かれているのです。

この弥勒菩薩のことを通してでも、阿弥陀仏の18願に救われることと、善とは全く関係ないと判ります。高森理論を当てはめると、弥勒菩薩が”宿善薄き者”ですから、”宿善厚き者”は仏だけになります。つまり、全人類は仏にならなければ、”宿善厚き者”となることができないことになります。”宿善厚き者”の高森会長は、仏のつもりなのでしょう、きっと。

ここまでくると無茶苦茶な話です。

高森理論の崩壊と共に、親鸞会の崩壊も近づいているようです。

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2019年7月 7日 (日)

親鸞聖人の教えと対極にある高森顕徹会長の教え

高森顕徹会長の休みは、まだまだ続きそうですが、ヘンテコ宿善論もまだ続けていく気満々なのでしょう。

親鸞聖人は、宿善という言葉自体を御著書には使用されていません。近い親鸞聖人のお言葉を紹介するなら、『教行信証』総序の

たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。

でしょう。また『浄土文類聚鈔』には

たまたま信心を獲ば、遠く宿縁を慶べ

とあります。宿善も宿縁も同じだと高森会長は考えているようですが、明らかに違います。「たまたま行信を獲ば」「たまたま信心を獲ば」です。必然ではなく「たまたま」です。なぜかよく判らないが「行信」「信心」を獲たならば、遠い過去からの「宿縁」を慶びなさい、です。

高森先生もそのように仰っている

と寝とぼけた会員は反論するでしょうが、宿善を自らの努力によって厚くすることができて、厚くなった宿善が開発するのだ、という理屈なら、「たまたま」ではないですし、「遠く宿縁を慶べ」ではなく、過去の自分を褒めてあげましょう、ということになります。

自分の力が一切間に合わないことが知らされてどううのこうの

と訳の判らないことをまだ言ってくるでしょうが、「自分の力が間に合わない」と知らされるまで努力した結果、信心を獲るのですから、必然ですし、過去にそこまで頑張った自分を褒めてあげましょう、になるのです。

親鸞聖人が、「たまたま」とか、「遠く宿縁を慶べ」と仰ったのは、源信僧都が仰ったことと同じで、

生死の因縁は不可思議なり

だからです。

聖道門で命がけの修行をしている人は、信心を獲ることができず、強盗放火殺人と悪の限りを尽くした耳四郎が、信心を獲ることができたのは、「たまたま」としか言いようがありません。その因縁は何か全く判らないが、それを慶ぶしかない、というお言葉となってくるのです。

それを証明するお言葉は『教行信証』信巻の

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

です。『浄土文類聚鈔』にも、全く同じお言葉があります。現代語訳は

このようなわけであるから、往生の行も信も、すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。如来より与えられた行信が往生成仏の因であって、それ以外に因があるのではない。よく知るがよい

です。高森流の宿善論で言うなら、宿善が厚いのも薄いのも、宿善を厚くするのも、すべて阿弥陀仏がなされることであり、それ以外にはない、ということです。

自分で努力してという因は、欠片もないのが、阿弥陀仏の救いです。

この極めて重要なことを完全に捻じ曲げて、というよりも知らないで、適当なことを言い続けてきたナンチャッテ善知識が高森顕徹という人物です。
親鸞聖人の教えと対極にあるのが、高森会長の教えですから、高森会長の話を正しく聞いて救われることは、「たまたま」もありません。高森会長の話を180度聞き間違う特殊な能力が「たまたま」あれば、救われることもあるかもしれませんが、もしそうなったら、その特殊な能力を「慶べ」です。

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2019年7月 1日 (月)

源信僧都でも判らないと仰ったことを判ったつもりで断言する勘違い高森顕徹会長

源信僧都は、高森会長のいう”宿善厚い人”(過去の善根の厚い人)と”宿善薄い人”(過去の善根の薄い人)が、阿弥陀仏の本願を聞ける人と聞けない人とどのような関係になっているかを『往生要集』に教えておられます。

問ふ。もししからば、聞くものは決定して信ずべし。なんがゆゑぞ、聞くといへども、信じ信ぜざるものある。

答ふ。 『無量清浄覚経』にのたまはく、「善男子・善女人ありて、無量清浄仏の名を聞きて、歓喜し踊躍して、身の毛起つことをなし、抜け出づるがごとくなるものは、みなことごとく宿世宿命に、すでに仏事をなせるなり。それ人民ありて、疑ひて信ぜざるものは、みな悪道のなかより来りて、殃悪いまだ尽きざるなり。これいまだ解脱を得ざるなり」と。{略抄}
また『大集経』の第七にのたまはく、「もし衆生ありて、すでに無量無辺の仏の所にしてもろもろの徳本を殖ゑたるものは、すなはちこの如来の十力・四無所畏・不共の法・三十二相を聞くことを得ん。{乃至}下劣の人は、かくのごとき正法を聞くことを得ることあたはじ。たとひ聞くことを得とも、いまだかならずしもよく信ぜず」と。{以上}
まさに知るべし、生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。

(現代語訳)

問う。もしそうであるならば、聞く者はかならず信ずるはずである。どういうわけで、聞いても信ずるものと信じないものとがあるのか。

答える。《平等覚経》に説かれている。
善男・善女があって、無量清浄仏のみ名を聞いて、喜び踊り、身の毛がよだって抜けるように思う人は、みな悉く過去世にすでに仏道を修めているものである。もしまた人があって、仏を疑って信じないものは、みな悪道から来て、その罪がまだ尽きないもので、なおまだ解脱を得ることができないのである。
また《大集経》の第七巻に説かれている。
もし衆生があって、すでに無量無辺の仏の所において、もろもろの徳本を植えたものは、この如来の十力・四無所畏・十八不共法・三十二相を聞くことができるのである。中略 下劣の人はこのような正法を聞くことができない。たとい聞くことができたとしても、まだ必ずしも信ずることはできないのである。
これによってわかるであろう。生死の因縁は不可思議なものである。功徳が少ないものでありながら、聞くことができるのは、そのわけを知ることが難しい。

ここの結論が「生死の因縁は不可思議なり」です。”宿善の薄い人”(過去の善根の薄い人)つまり「薄徳のもの」でも「聞くことを得る」で、過去世の功徳が少ない者であっても、18願念仏往生を聞いて信じることができるのだと仰っています。しかも、その理由を知ることは難しいと源信僧都でさえ仰っています。

また

問ふ。仏、往昔に、つぶさに諸度を修したまひしに、なほ八万歳にこの法を聞きたまふことあたはざりき。いかんぞ、薄徳のたやすく聴聞することを得る。 たとひ希有なりと許せども、なほ道理に違せり。

答ふ。この義、知りがたし。
(中略)
ゆゑに上人のなかにもまた聞くこと難きものあり、凡愚のなかにもまた聞くものあり。これまたいまだ決せず。 後賢、取捨せよ。

(現代語訳)

問う。仏は昔つぶさに諸の菩薩の行を修めたもうたが、八万年に及んでも、この法を聞くことができなかったという。どうして、功徳の少ないものが、たやすく聴聞することができようか。たとい、それは稀な例であると認めても、やはり道理に違うであろう。

答える。この義は、なかなか難しい。
(中略)
故に、すぐれた人の中にも、仏法を聞くことの難しいものがあり、愚かな人の中にも、仏法を聞くものがある。ところで、この義は、まだ決定したものではないから、後の賢い方々は取捨していただきたい。

かつて諸の菩薩の行を修められて仏になられた方であっても、「なほ八万歳にこの法を聞きたまふことあたはざりき」ですから、”宿善の極めて厚い人”(過去の善根が極めて厚い人)が、阿弥陀仏の本願を聞けなかったのに、”宿善の薄い人”(過去の善根の薄い人)が簡単に阿弥陀仏の本願を聞いてしまうという現実に対して源信僧都のような方でさえも、過去世の因縁について知ることは難しい、と繰り返し仰っています。「道理に違せり」「これまたいまだ決せず。 後賢、取捨せよ。」と明言をさけておられます。宿善とは、過去世において善をしてきたかどうか、という単純なことではないと、源信僧都は仰っているのです。

具体的な例を挙げるなら、弥勒菩薩は”宿善の厚い人”(過去の善根の厚い人)のトップです。弥勒菩薩以上の人は仏ですから、人間で弥勒菩薩を超えることは不可能です。その弥勒菩薩は、未だ他力の信心を獲ていません。念のため言っておきますと、弥勒菩薩は『大無量寿経』で釈尊と問答をされていますので、阿弥陀仏の18願を知らないということではありません。それに対して、耳史郎は”宿善の薄い人”(過去の善根の薄い人)の代表ですが、他力の信心を獲たと、高森顕徹会長も認めています。

高森流宿善論が如何に幼稚な理屈かお判りになられると思います。本願寺が呆れるのも当然でしょう。親鸞会の理屈など、赤子の手を捻るくらい簡単に論破できます。

反論があればいつでもどうぞ。

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