2019年3月18日 (月)

毎年恒例ですが、これが高森顕徹会長と親鸞会の実態

本願寺をはじめ、外部からの非難攻撃に対して、全て法論を仕掛けて全戦全勝だと親鸞会内で宣伝していますが、実際は全戦全敗です。法論の相手が呆れて、法論を止めたことで表面上は親鸞会が勝利したように装ってきましたが、ここ10年はその偽装もできなくなり、実際も表面上も親鸞会の大惨敗の連続です。

ただ、その事実を知らずに、高森顕徹会長を唯一無二の善知識として、崇めさせられている会員は、哀れなものです。顕正新聞でも、未だに『歎異抄をひらく』発刊から未だに反論がない、その時が11年だ、とか一面に書き続ける根性には、敬意を表したいくらいです。

高森先生が法論に負けたことなどあろう筈がない

という妄想を抱いている会員のために、毎年恒例ですが、その証拠のほんの一端を紹介しておきます。

今から7年前、こんなエントリーを書きました。

書面で法論を申し込んだら、”検討する”だそうです

その後、連絡もなく、内輪でのみ反論したように偽装しただけです。

昨日、ある集まりに、弘宣局長とK講師、他2名の講師部員が乗り込んできて、親鸞会の邪義を喚き散らしていったそうです。その際に、私が弘宣局に書面で正式に法論を申し込めば、検討する、と弘宣局長は言っていたそうです。

そこで本日、法論申し込みの書面を書留で送付しました。それに加えて以下のメールも送っておきました。

W 様


御無沙汰しております、○○です。
昨日の件は、聞いております。法論の申し込みを書面でせよ、とのことですので、本日申し込みの書面を書留で送りました。
内容は以下の通りです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
              法論の申し込み
                            平成24年3月18日
弘宣局長 W 様

御無沙汰しております、○○です。

昨年、K講師を通して、法論を申し込みましたが無視されました。
しかしその件で、「弘宣局に直接法論を申し込むように」と貴方が言われたそうですので、ここに書面をもって法論を正式に申し込みます。

法論の条件は、

1.法論の土俵はお聖教であり、お聖教にない文底秘沈のような主張はしない
2.文章でやりとりをする
3.法論の場は、以下とする
  mixi内の信仰と対話コミュニティ*「三願転入」議論継続トピック*
  
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=53217382&comm_id=2135313
4.相手の質問に対して質問で返さず、相手の質問に答えてから新たな質問をする

以上の4点です。

かつて親鸞会は公約していた筈です。

「親鸞会は公約しています。親鸞会の主張に対して異議、反論のある方は遠慮なく申し出てください。相手が集団であれ、個人であれ、公開であれ、非公開であれ、討論であれ、文書討論であれ、相手の希望される方法で、時と場所を問わず、本当の親鸞聖人のみ教えを開顕するために、喜んで対決に応じます。」

これが口先だけであったとは、言わせません。

私の主張は、「親鸞会教義の誤り」「飛雲」「親鸞会の邪義を正す」等のブログで書かれている通りです。一読された上で、法論に臨んで頂きたいと思います。
親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張との相違点を以下に列記しておきます。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

なお、法論に応じられても応じられなくても、返事を頂いても頂かなくても、すべて公開しますので、御了承ください。
                                           ○○○○
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

mixiでの三願転入の法論は、親鸞会の逃亡とトピック削除で幕を閉じましたが、とりあえずその続きをしたいと考えております。

なお、上に挙げたブログをすべて読まれるのは大変でしょうから、最低限、添付ファイルのところだけでも読んでおいて頂けませんでしょうか。

目的は親鸞聖人のみ教えを開顕するためですので、よいお返事をお待ちしております。

○○○○

法論の実現も、返事も期待しておりませんが、万が一法論が実現すれば、また退会者が増える縁になるでしょうから、喜ばしいことです。

親鸞会は、私を相手にしていないのではありません、相手にして酷い目に遭った経験があるから、怯えて逃げに逃げ回っているのです。

後日、上記の項目に追加して、その解説もしてありますので、以下を会員は是非とも読んで、高森顕徹会長の嘘を知って退会しましょう。

浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?

この程度の内容でさえ、全く反論できないのが、高森顕徹という無知な人物なのです。

反論する元気のある会員は、コメントをください。ただし、聖教の根拠を基として。

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2019年3月10日 (日)

本日も「オカシナ話」をし続ける高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話も、人間の実相でした。『仏説譬喩経』とは異なる「オカシナ話」を、釈尊の創られた譬えとしているところが、厚顔無恥の至極と言ったところでしょうか。

さて、(『仏説譬喩経』にはない)「底なしの海」を地獄に譬えられた、と説明していましたが、カルト教団定番の地獄脅しが復活したようです。釈尊が、すべての人の死後は皆地獄だ、と説かれたことなどあり得ないのですが、カルトではそう言い切ります。恐怖で信者を繋ぎとめ、服従させるためです。親鸞会でも、長らくこの手法を用いてきましたが、一時封印した時期もあります。しかし、カルトは正体を隠してもカルトなのです。

一応言っておきますが、釈尊も、七高僧方も、親鸞聖人も、覚如上人も、蓮如上人も、すべての人の死後が地獄だなどというカルト教義を伝えられたことはありません。限定的な人に対して、地獄に堕ちる、という言い方はされていますが、一般の人が地獄に堕ちるという説明も理屈もありません。それを裏付ける最も顕著な根拠は、『教行信証』信巻に長々と引かれている『涅槃経』にある阿闍世に対する釈尊の御説法です。「阿闍世は地獄に堕ちない」、と釈尊が連呼されていることは、『教行信証』を一度でも読んだことがあれば知っているでしょう。

つまり、地獄と脅しているカルト教団の親玉は、『教行信証』を一度も読んだことがないのです。

ところで、今回は高森会長に少し進歩がありました。
『浄土和讃』の

若不生者のちかひゆゑ
 信楽まことにときいたり
 一念慶喜するひとは
 往生かならずさだまりぬ

を用いた説明で定番であった

若不生者と誓っておられるから、まことに信楽に生まれるときがあるのだ

というようなことを言いませんでした。こちらは封印したのかもしれません。
こちらも念のため説明しておきますと、

この和讃の前と併せて

十方諸有の衆生は
 阿弥陀至徳の御名をきき
 真実信心いたりなば
 おほきに所聞を慶喜せん

若不生者のちかひゆゑ
 信楽まことにときいたり
 一念慶喜するひとは
 往生かならずさだまりぬ

18願文を言い換えられたものです。正確に言えば、18願文を曇鸞大師が『讃阿弥陀仏偈』で言い換えられたものを、親鸞聖人が更に言い換えられたものです。

『讃阿弥陀仏偈』

あらゆるもの、阿弥陀の徳号を聞きて、信心歓喜して聞くところを慶び、
すなはち一念に曁ぶまで心を至すもの、回向して生ぜんと願ずればみな生ずることを得。
ただ五逆と謗正法とを除く。

したがいまして、この和讃の意味は

若不生者の誓いであるから、信楽がまことにとき至って一念慶喜する人は、往生が必ず定まるのだ

ということで、
信心を獲た人は往生が必ず定まるのだ
ということです。

ここから思い出すのは、『尊号真像銘文』の

「若不生者不取正覚」といふは、(略)このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。

です。
若不生者」の「」は、「浄土に生まれる」としか親鸞聖人は仰っていないことを高森会長も判っているのです。

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2019年2月24日 (日)

高森顕徹会長の70年の布教を根底から覆す「念仏のみぞまことにておわします」

本日の高森顕徹会長の話は、前回の続きで「オカシナ話」に対する「オカシクナイ話」をしたようです。その「オカシクナイ話」として

「煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」を親鸞聖人は一生涯教えられた

ということでした。
言葉としては確かに間違ってはいませんが、意図することは間違っています。それは「念仏のみぞまことにておわします」の部分です。

高森会長の70年間の話は、『なぜ生きる2』11章にもあるように

 無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。

です。要するに「念仏さえ称えていれば良いのだ」が間違いだと言い続けてきたのが、高森会長です。これと「念仏のみぞまこと」との整合性についてまともに説明したことがありません。

念仏とは阿弥陀仏の本願(18願)のことだ

と反論するのが関の山でしょうが、18願のことを念仏往生の願と親鸞聖人は仰っているのです。この念仏も18願なら、18願往生の願が18願という訳の判らない話になります。念仏往生の願とは、そのまま「念仏称えて往生する願」です。

訳の判らない、日本語も不自由な高森会長と会員のために、「念仏のみぞまこと」の根拠を教えてあげます。

『教行信証』行巻に

また「念仏成仏これ真宗」(五会法事讃)といへり。

(現代語訳)

また『五会法事讃』には、「念仏して成仏することこそ真実の仏法である」といわれ

念仏成仏これ真宗」は親鸞聖人が作られたお言葉ではないので、「真宗」は宗派の意味ではありません。

親鸞聖人は「念仏成仏これ真宗」というお言葉を好まれて度々使われています。
『浄土和讃』には

念仏成仏これ真宗
 万行諸善これ仮門
 権実真仮をわかずして
 自然の浄土をえぞしらぬ

(現代語訳)

念仏により仏のさとりを開くという教えこそが真実であり、
 さまざまな善い行いによりさとりを開くという教えは方便である。
 真実と方便を分けることなく、
 真実の浄土を決して知ることはできない。

とありますし、『入出二門偈』には

善導和尚、義解していはく、念仏成仏する、これ真宗なり。

(現代語訳)

善導大師は、念仏の教えを解釈していわれている。念仏によって仏のさとりを開く、これこそが真実の教えです。

とあります。
結論は「念仏のみぞまこと」とは、念仏称えて仏になるという教えのみが真実の教えだということで、高森会長の70年間の布教を根底から覆すお言葉だということです。

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2019年2月17日 (日)

トルストイよりも仏教を知らない高森顕徹会長

本日は、高森顕徹会長が久しぶりに座談会で話をしました。座談会の質問は

蓮如上人が映画『なぜ生きる』の中で「オカシナ話」と言われているのは、どんな話でしょうか

というオカシナ質問で、それに対するオカシナ回答をしただけの、とてつもなく中途半端な内容でした。

高森会長のシナリオによる「オカシナ話」とは、

100%死ななければならないのにどう生きるかしか考えていない、死んだらどうなるかを考えていない

ことだそうです。一日かけてその話をして終わりです。「オカシナ話」だから阿弥陀仏の本願を求めましょう、ということすら言わないのです。自分が書いたシナリオを単に解説するだけの、どーでもよい話を聞いて、それで会員が満足したとしたら思考は完全停止しているのでしょう。

午後からは「オカシナ話」をまともに見せかけるために高森会長創作の「人間の実相」の話をしたのですが、この「人間の実相」の話が「オカシナ話」です。

御存知の方も多いでしょうが、一応、説明しておきます。
この元は『仏説譬喩経』の内容だとして今まで話をしてきたのですが、それは大嘘です。実際に見てみると

佛説譬喩經
大唐三藏法師義淨譯
如是我聞。一時薄伽梵。在室羅伐城逝多
林給孤獨園。爾時世尊於大衆中。告勝光王
曰。大王。我今爲王略説譬喩。諸有生死味
著過患。王今諦聽。善思念之。乃往過去。於
無量劫。時有一人。遊於曠野爲惡象所逐。怖
走無依。見一空井。傍有樹根。即尋根下。潜
身井中。有黒白二鼠。互齧樹根。於井四邊
有四毒蛇。欲螫其人。下有毒龍。心畏龍蛇
恐樹根斷。樹根蜂蜜。五滴墮口。樹搖蜂散。
下螫斯人。野火復來。燒然此樹。王曰。是人
云何。受無量苦。貪彼少味。爾時世尊告言。
大王。曠野者喩於無明長夜曠遠。言彼人者。
喩於異生。象喩無常。井喩生死。險岸樹根
喩命。黒白二鼠以喩晝夜。齧樹根者。喩念
念滅。其四毒蛇。喩於四大。蜜喩五欲。蜂喩
邪思。火喩老病。毒龍喩死。是故大王。當知
生老病死。甚可怖畏。常應思念。勿被五欲
之所呑迫。爾時世尊重説頌曰
    曠野無明路 人走喩凡夫
    大象比無常 井喩生死岸
    樹根喩於命 二鼠晝夜同
    齧根念念衰 四蛇同四大
    蜜滴喩五欲 蜂螫比邪思
    火同於老病 毒龍方死苦
    智者觀斯事 象可厭生津
    五欲心無著 方名解脱人
    鎭處無明海 常爲死王驅
    寧知戀聲色 不樂離凡夫
爾時勝光大王聞佛爲説生死過患。得未曾
有。深生厭離。合掌恭敬。一心瞻仰。白佛言。
世尊。如來大慈。爲説如是微妙法義。我今
頂戴。佛言。善哉善哉。大王。當如説行。勿
爲放逸。時勝光王及諸大衆。皆悉歡喜。信
受奉行
佛説譬喩經

漢文ですので、判りにくいかもしれませんが、明確に違うところがたくさんあります。参考までに『浄土真宗本願寺派総合研究所』にある「甘い蜜(黒白二鼠の譬え)」を転載しておきます。

昔、一人の旅人が広い野を歩いていると、後ろから悪ゾウが追いかけてきました。
周りを見まわしても、身を隠すところがありません。
木の根が垂れている、から井戸があるのを見つけました。
その木の根をつたってから井戸の中に身を潜めました。
ほっとするのも束の間、目の前に黒と白の二匹の鼠が出てきて、かわりがわりに木の根をかじっています。
下を見れば古井戸の底で、一匹の大きな毒龍が口をこちらに向けており、四匹の毒ヘビが井戸の四辺にいて、男の落ちてくるのを待ち受けているではないですか。このままでは確実に細い根はちぎれて、龍や蛇に食べられてしまいます。
男は恐怖に身を震わせていました。
木の根にはミツバチの巣がありました。その巣から甘い蜜が五滴、口のなかに堕ちてきました。そのなんとも言えない蜜の甘さに心が奪われ、もっと甘い蜜をなめたいと思って、いまにも切れそうな木の根をゆさゆさと揺すっています。その上さらに、野火がこの木を焼こうとしています。

ここに出てくる広い野とは私たちの永い迷いを喩えています。
ゾウとは無常、井戸は人生、木の根はいのちを喩えています。
黒白の二匹の鼠は昼と夜を喩え、私のいのちが徐々に終わりに近づいていることを示しています。
井戸の周りの四匹の蛇は地・水・火・風の四大を、五滴の蜜は色・声・香・味・所触の五欲を喩えています。
蜂はよこしまな思いを喩え、火は老病を喩えています。
そして龍は死を喩えています。
私たちは、このように知って、世間の楽に心奪われることなく、人生の無常に思いをいたして、苦悩の解決を求めていかなければならないのです。

経典に忠実なのは、高森会長でしょうか本願寺派でしょうか。
言うまでもないことです。

もう一つ参考までにトルストイ著『わが懺悔』(米川正夫訳)

 古い東方の寓話にも、曠野の中で怒り狂う猛獣に襲われた旅人のことが語られている。猛獣をのがれようと思って、旅人は水のない古井戸へ飛び込んだ。ところが、見るとその井戸の底には一疋の龍が、たゞ一呑みと大きな口をあけて待っている。そこでこの不幸な旅人は、怒り狂える猛獣のために命を落としたくなかったが、外へ匍い出ることもできないし、それかといって、龍に食われたくもないので、井戸の底へ飛びこむこともできず、せんかたなく、中途の隙間に生えている野生の灌木の枝につかまって、宙に身を支えていた。そのうちに手が次第に弱ってきた。で、彼は間もなく、前後に自分を待っている死の手に身を委ねなければならぬと感じたが、それでも、宙にぶらさがっていた。そこへ、黒と白と二疋の鼠が現われて、彼のぶらさがっている灌木の幹の周囲を、ちょろちょろと同じ速度で廻りながら、じりじりと噛み耗らすのに気がついた。もう今にも灌木はぶつりと切れてたおれかゝり、彼は龍の口へ落ちてしまうにちがいない。旅人はそれを見て、我が滅亡の避け難いのを知った。しかも、彼はそこにぶらさがっている間、自分の周囲を物色して、灌木の葉に蜜の雫がついているのを発見すると、そこまで舌をのばして、嘗め味わうのであった。

仏教を知らずに、伝聞で知ったトルストイの方が経典の内容に近いです。

高森会長の仏教の知識は、トルストイ以下だということが明白になりました。

思考停止の会員で反論があるなら、いつでもどうぞ。ただし、仏教の経典の根拠で示してくださいね。高森教の経典を出されても困りますよ。

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2019年2月10日 (日)

元気な会員は高森顕徹会長に、「往生一定とハッキリするとは具体的に何がハッキリするのか」質問してみましょう。

高森顕徹会長の休みが長く続いていますが、我儘放題の会長の理不尽な要求に真生会病院の医師も疲弊していることでしょう。

さて、阿弥陀仏に救われるということがどういうことか、高森会長にも親鸞会の会員にも全く理解できないことでしょうが、歴代の善知識方は、高森会長の言うような奇妙奇天烈で摩訶不思議な体験をしたということをどこにも仰っていませんし、救われて判ることは極めて限定的なことだと仰っています。

『正信偈』にもあります、

われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲、倦きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり。

を読んでもそのことが普通なら判るはずです。

この元は、源信僧都の『往生要集』にあり、『教行信証』信巻にも引かれています。

またいはく、「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつるにあたはずといへども、大悲、倦きことなくして、つねにわが身を照らしたまふ」と。

(現代語訳)

また次のようにいわれている(往生要集)。
「わたしもまた阿弥陀仏の光明の中に摂め取られているけれども、煩悩がわたしの眼をさえぎって、見ることができない。しかし阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、そのようなわたしを見捨てることなく常に照らしていてくださる」

源信僧都と言えば、元は仏であったとご自身で仰ったと伝えられ、親鸞聖人もそのように仰っています。『高僧和讃』に

源信和尚ののたまはく
 われこれ 故仏とあらはれて
 化縁すでにつきぬれば
 本土にかへるとしめしけり

とある通りです。

仏であったとされる源信僧都でさえ、阿弥陀仏の光明の中にいることを見ることができないと仰っているのですから、流転輪廻の凡夫が、阿弥陀仏の光明を見ることができるなど、あり得ない話です。まして色も形もない阿弥陀仏のお姿を見ることもできないし、定善ができないのに浄土を見ることもできません。

前回のエントリーでも紹介した『執持鈔』にもあるように、「往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず」で、往生ということも凡夫に認識できる話ではありません。

では何が判るのかといえば、『執持鈔』のお言葉を使うなら「かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。」と、阿弥陀仏におまかせをしたことしか判らないのです。

このように言うと、

往生一定が判ると仰っているではないか!

との机上の空論でしか物の言えない高森会長と会員は反論するでしょうが、往生一定とは、浄土が判ることでも往生の概念が判ることでも阿弥陀仏が認識できることでもありません。

そのことについては二河白道の譬えが最も判りやすいでしょう。

行者が東の岸にいる時に、西の岸の方が仰ったことは、

なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ

です。その仰せに順って白道を進むのです。

この行者が判ったこととは、

この白道を進んで行ったら西の岸に確実に行くことができる

です。
ということは、

我々が阿弥陀仏の18願を信じて、阿弥陀仏におまかせをしたから、往生は一定である

ということになるのです。

つまり

往生一定=すべて阿弥陀仏におまかせをしたこと

です。

救われたのにハッキリしないはずがない!

と喚き散らす元気があるなら、高森会長に質問してみましょう。

往生一定とは、何がハッキリするのですか?
浄土が見えるのですか?
阿弥陀仏が見えるのですか?
阿弥陀仏の声が聞こえるのですか?
往生とはどんなことなのか判る智慧が授かったのですか?

高森会長は答えないでしょう。なお、二種深信にはこれらのことは入っていません。

今まで70年間、高森会長は往生一定がハッキリするとは言ってきましたが、具体的なことは何も説明してきませんでした。
具体的にどうハッキリするのか誰も聞いたことがありません。

その理由は、高森会長は何もハッキリしていないからです。

会員は現実を直視して、高森会長の信心を疑うべきです。

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2019年1月31日 (木)

善悪の生所を自分で定めた高森顕徹会長の自力の妄想

自力と他力の水際については、善知識方はいろいろな言い方で教えられていますが、今回は高森顕徹会長の知らない、言わない御文で説明します。

『執持鈔』には、親鸞聖人のお言葉として覚如上人が書かれたところがあります。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人(源空)の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。しかるにいま聖人の御化導にあづかりて、弥陀の本願をきき摂取不捨のことわりをむねにをさめ、生死のはなれがたきをはなれ、浄土の生れがたきを一定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず。たとひ弥陀の仏智に帰して念仏するが地獄の業たるを、いつはりて往生浄土の業因ぞと聖人授けたまふにすかされまゐらせて、われ地獄におつといふとも、さらにくやしむおもひあるべからず。

そのゆゑは、明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑにとなり。しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

(石田瑞磨著『親鸞全集 別巻』による現代語訳)

浄土に生れるという、これほどの一大事について、愚かなものがさかしらな才覚をめぐらしてはならない、ただ一すじに如来におかませしなければならない。総じて愚かなひとに限らず、次の世に仏となってあらわれることが約束された弥勒菩薩をはじめとして、仏の智慧の不思議になまじいの才覚をしてはならない。まして愚かなひとの浅はかな智慧には、当然許されない。ねんごろに如来の智慧のお誓いにおまかせをしなければならない。これを、仏にすべてを託した、真実の信心をえたひとというのである。

だから自分から、浄土に行くことができそうだとも、また地獄に堕ちるかもしれないとも、決めてはならない。なくなられた上人<黒谷の源空、法然上人のことばである>の仰せられた言葉として、「源空の生れるところへ行こうとお考えになってください」ということをたしかにうけたまわったうえは、たとえ地獄であっても、なくなられた上人のおいでになるところへ行かなければならない、と思うのである。このたび、もし正しい教えの師にお会いしないならば、わたしたち愚かなものはかならず地獄に堕ちるはずである。ところがいま、上人のお導きにあずかって、阿弥陀仏の本願を聞き、救いとってお捨てにならない道理を胸に収め、離れにくい生死の迷いを離れて、生れにくい浄土にかならず生れようと、心に深くたのむのは、けっしてわたしの力によるものではない。たとい、阿弥陀仏の智慧にすべてを託して念仏することが地獄に堕ちる行為でしかないのに、それをいつわって、「浄土に生れるための行為なのだ」、と上人がお教えになることにだまされて、わたしが地獄に堕ちるとしても、けっしてくやしく思うはずはない。

その理由は、智慧の勝れた師にお逢いしないで終ってしまうならば、かならず悪道に行くはずの身だから、というのである。ところが、正しい教えの師にだまされて悪道に行くならば、そのときはひとりで行くはずがない。かならず師と一緒に堕ちて行くだろう。だから、ただ地獄に堕ちるほかない、といっても、なくなった上人のおいでになるところへ参ろうと決心したのであるから、生れるさきの善し悪しはわたしのきめるところではない、というのである。これが自力を捨てて他力にすべてをまかせる姿である。

他力の信心について、最初の段と最後の段で明確に仰っています。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

往生について判るとか、死んだ後にどこに行くのか判るとか、そういうこととは正反対で、私が定めるようなことをせずにすべて阿弥陀仏におまかせをしたことを他力の信心だという説明をされています。

「地獄に堕ちたくないから、助けてください」では、阿弥陀仏に何もまかせていないのです。自分で地獄行きと決めつけ、浄土往きに変更してほしいと請求しているのです。阿弥陀仏にすべてをまかせるとは、死後にどこに行くかも完全にまかせることです。その行き先が判るのではなく、阿弥陀仏が連れて行ってくださるところ、あるいは善知識と同じところに行く、そこが仮に地獄であったとしてもおまかせします、ということ以上のことは何もないのが、他力の信心です。

高森会長が言っているような、救われたら地獄一定とハッキリ知らされる、極楽一定とハッキリ知らされる、などと思っているのを自力というのです。その間違った思いを捨てたのが、他力です。

高森会長が自力の信心を他力の信心と錯覚して、適当なことをいっていることは、親鸞聖人、覚如上人のお言葉で明々白々です。

ここまで言われて悔しいと憤る元気のある講師や会員は、いつでも反論のコメントを受け付けています。ただし、善知識方の仰ったお言葉を基にしたコメントにしてください。なお創作妄想のコメントは憐れみの心をもって拒否します。。

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2019年1月24日 (木)

親鸞聖人が「信後絶対に出ない」と仰った心に満ち溢れている高森顕徹会長

高森顕徹会長が言っている自力と他力の水際について、聖教に掛かれていることとかけ離れていることは、ちょっと調べれば判る話です。ところがマインドコントロールのよく効いている会員は、聖教にどうあるかなど関係なく、高森会長を妄信している状態です。

そこで今回は、高森会長の言っている自力と他力の水際が、どれほどぶれているかを説明します。

古い会員なら知っている教学短冊、教学テキストの中に「信後絶対に出ない心100」という問答がありました。

高森会長が自信を込めて「信後絶対に出ない心」と水際を具体例ではっきりさせたのですが、教学聖典に代わってからは、「信後絶対に出ない心100」がなくなりました。会員は必死になって覚えた内容がいとも簡単に削除されました。その理由は、

信後に出る心があったから

というものでした。私はそれを聞いて愕然としました。「信後絶対に出ない心」が「信後に出るものもある」になった、つまり水際が移動したのです。絶対に動かない水際だったはずが、簡単に動いたのです。

高森会長の「信後絶対に出ない心」の自信は何だったのか。

何のことはない、自力と他力の水際が高森会長の中では定まっていないだけのことのなのです。

ちなみに親鸞聖人は「信後絶対に出ない心」を仰っているところがあります。
『末灯鈔』に

金剛心をとりて候はんひとは、よも師をそしり善知識をあなづりなんどすることは候はじ

と仰っています。高森会長はこれを、信心決定した人に対して善知識を謗ってはいけないと親鸞聖人が禁じられたお言葉と言っていますが、高森会長は古文の基礎が欠落しているのです。この意味は、

信心決定した人は、決して師を謗ったり善知識を侮るようなことはしない

です。「信後絶対に出ない心」だと親鸞聖人は仰っているのです。

ここで高森会長自身のことを見てみると、高森会長は18才で信心決定したと宣言し、華光会の伊藤康善師を師匠、華光会へ導いてくれた増井悟朗師を善知識と仰いできましたが、親鸞会を設立するにあたって両師と絶縁をし、

伊藤康善師をそしり増井悟朗師をあなづりなんどすること

を平気でするようなりました。

親鸞聖人が「信後絶対に出ない心」と仰ったことが、高森会長には「つねに出ている心」なのです。

親鸞聖人と高森会長とどちらが正しいのでしょうか。

会員にそう尋ねると、会員は話をずらしてこのように返してきます。

退会者は救われたと言いながら、高森先生のことを謗っているではないか。

噴飯物の反論です。退会者にとって高森会長は師でも善知識でもありません。かなり贔屓目に見ても、親鸞聖人における比叡山でしょう。普通に考えたら、曇鸞大師における道教でしょう、

高森経を梵焼して楽邦に帰したまひき

親鸞聖人とは無関係な宗教を親鸞聖人の教えと信じている会員は、本当に憐れです。

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2019年1月18日 (金)

高森顕徹会長と親鸞会が萎み続ける中、永久に獲られることのない創作信心を追い求める哀れな会員

明後日の高森顕徹会長の話は、中止となりました。今後高森会長の直接の話を聞く機会は減るでしょうが、昨年12月に行われた高森会長の話を録画したものが、なんと破格値の1,800円で大バーゲンセール中です。

会員の手の届かない地位まで自らを祭り上げてきた高森会長ですが、厳しい懐具合に耐えきれず、”庶民的”なレベルまで自ら降りざるを得なくなったのでしょう。

教義も大人しくなって、このまま会長も法人も萎んでいくものと思われます。

さて、自力と他力のことがよく判らないまま、それらしい話を創作してきた高森会長ですが、聖教を読んだらその出鱈目ぶりに呆れるしかありません。

前回に引き続き、親鸞聖人が「よきひとびと」と仰って尊敬されていた隆寛律師の『自力他力事』について見てみます。

最後にこのようにあります。

たとへば腰折れ足なえて、わがちからにてたちあがるべき方もなし、ましてはるかならんところへゆくことは、かけてもおもひよらぬことなれども、たのみたる人のいとほしとおもひて、さりぬべき人あまた具して、力者に輿をかかせて迎へに来りて、やはらかにかき乗せてかへらんずる十里・二十里の道もやすく、野をも山をもほどなくすぐるやうに、われらが極楽へまゐらんとおもひたちたるは、罪ふかく煩悩もあつければ、腰折れ足なえたる人々にもすぐれたり。
ただいまにても死するものならば、あしたゆふべにつくりたる罪のおもければ、頭をさかさまにして、三悪道にこそはおちいらんずるものにてあれども、ひとすぢに阿弥陀仏のちかひを仰ぎて、念仏して疑ふこころだにもなければ、かならずかならずただいまひきいらんずるとき、罪といふ罪をばすこしものこることなく功徳と転じかへなして、無漏無生の報仏報土へ率てかへらせおはしますといふことを、釈迦如来ねんごろにすすめおはしましたることをふかくたのみて、二心なく念仏するをば他力の行者と申すなり。かかるひとは、十人は十人ながら百人は百人ながら、往生することにて候ふなり。かかる人をやがて一向専修の念仏者とは申すなり。おなじく念仏をしながら、ひとへに自力をたのみたるは、ゆゆしきひがごとにて候ふなり。

古文ではありますが、易しい文章ですので、概ね理解できるのではないかと思います。
腰折れ足なえたる人々」が「力者に輿をかかせて迎へに来りて、やはらかにかき乗せて」もらうことで「十里・二十里の道もやすく、野をも山をもほどなくすぐる」ことができます。そのように「罪ふかく煩悩もあつ」いわれらでも、「阿弥陀仏、目のまへにあらはれて、罪といふ罪をばすこしものこることなく功徳と転じかへなして、無漏無生の報仏報土へ率てかへらせおはします」のです。本来なら「三悪道にこそはおちいらんずるもの」ではありますが、阿弥陀仏のお力によって極楽に往生することができるのです。

ここまでは、三悪道と無間地獄の違いはあるにしても、親鸞会でも言っていることですが、問題はどうしたら極楽に往生できるのかです。

その答えは
ひとすぢに阿弥陀仏のちかひを仰ぎて、念仏して疑ふこころだにもなければ
釈迦如来ねんごろにすすめおはしましたることをふかくたのみて、二心なく念仏するをば他力の行者と申すなり
です。
共に、「念仏して」と「疑ふこころだにもなければ」「二心なく」という組み合わせになっています。
判りやすくいうと、念仏という行と疑いのないという信心が合わさって、ということです。念仏が必要条件として付いているところが、高森会長の話とは全く違うところです。

この次にどこかで聞いたことのある言葉が出てきます。

かかるひとは、十人は十人ながら百人は百人ながら、往生することにて候ふなり。

そう高森会長の好きな蓮如上人のお言葉、

一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら百人は百人ながら、みな浄土に往生すべきこと、さらに疑なし

です。

蓮如上人も「よきひとびと」である隆寛律師の『自力他力事』を愛読せられていたということです。
蓮如上人は「一念の信心定まらん輩」という言い方を確かにされてはいますが、そこには「念仏して」が含まれているのです。『御文章』だけでは信心と念仏との関係は判りにくいところがありますが、『正信偈大意』では、

「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」といふは、雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり。また専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。これすなはち、専雑二修の浅深を判じたまへるこころなり。

と仰っていまして、行と信心の関係を教えられています。「雑行雑修の機をすてやらぬ執心」が自力、「専修正行になりきはまるかたの執心」が他力です。簡単に言うと

自力の信心=雑行雑修に心がかかっている信心
他力の信心=念仏一行に心がなり極まった信心

です。『自力他力事』でいうなら、

他力=「念仏して疑ふこころだにもなければ」「二心なく念仏する

蓮如上人も同じことを仰っているのです。

隆寛律師も蓮如上人も念仏の抜けた他力の信心だという説明はないのです。
一方で高森会長は、念仏の抜けた他力の信心だと説明します。

この根本的な相違は、聖教を読んだら一目瞭然です。

高森会長の創作信心を獲ようともがいている会員は、永久に創作信心は獲られません。ないのですから。哀れ憐れ。

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2019年1月14日 (月)

親鸞聖人の御をしへを、ゆめゆめこころえざるひとにておはします高森顕徹会長

1月15日号の顕正新聞の論説には、先日の高森顕徹会長の話の内容がまとめられています。

今の真宗においては、専ら自力を捨てて他力に帰するをもって、宗の極致とする

という『改邪鈔』のお言葉から、自力と他力のことを問題としています。表現自体は間違いではないのですが、やはり根本的なことが判っていません。

親鸞聖人が問題とされている自力と他力の違いを曖昧にしか理解していないのでこの程度となるのも仕方がないでしょう。

自力他力と聞いて、ピンっとくるなら大したものでしょうが、親鸞聖人が関東の同行に宛てた手紙の中で、何度も推薦されている書に『自力他力事』があります。

親鸞会では聞いたことのない親鸞聖人一押しの書です。

たとえば『末灯鈔』の

さきにくだしまゐらせ候ひし『唯信鈔』・『自力他力』なんどのふみにて御覧候ふべし。それこそ、この世にとりてはよきひとびとにておはします。すでに往生をもしておはしますひとびとにて候へば、そのふみどもにかかれて候ふには、なにごともなにごともすぐべくも候はず。法然聖人の御をしへを、よくよく御こころえたるひとびとにておはしますに候ひき。さればこそ往生もめでたくしておはしまし候へ。

(現代語訳)

以前にお送りしました『唯信鈔』や『自力他力事』などの書物をご覧になってください。これらをお書きになった聖覚法印や隆寛律師こそ、 今の世のわたしたちにとっての善知識なのです。 すでに往生を遂げておられる方々ですので、 どのようなことであってもこれらの書物に書かれていることにまさるものは何一つあるはずがありません。 法然上人の教えを深く心得ておられる方々でした。 だからこそ、 往生もめでたく遂げておられるのです。

です。
他のお手紙でも『自力他力事』を読むように何度も勧められています。著者は親鸞聖人が「よきひとびと」とまで仰って大変に尊敬なされていた隆寛律師です。隆寛律師のことは高森会長が言及したこともないので、高森会長は隆寛律師のことも知らないのでしょうし、当然『自力他力事』という書の存在すら知らないと思います。

法然聖人の御をしへを、よくよく御こころえ」しかも「往生もめでたくしておはしまし候」隆寛律師の著わされた『自力他力事』を読むと、親鸞聖人が自力と他力の違いを同行にどのように教えられていたかが判ります。

『自力他力事』は、内容も判り易く短いので、皆さんがそのまま読まれても理解できると思います。

今回は『自力他力事』の肝心なところだけ説明します。

最初に

念仏の行につきて自力・他力といふことあり。これは極楽をねがひて弥陀の名号をとなふる人のなかに、自力のこころにて念仏する人あり。

とあります。自力と他力で問題とされているのは、念仏についてです。くどいようですが、親鸞聖人が関東の同行に読むように繰り返し勧められた『自力他力事』に書かれてあることは、念仏についての自力と他力の話です。
高森会長の話とは大いにずれがあります。

続いて自力の念仏についての説明です。

まづ自力のこころといふは、身にもわろきことをばせじ、口にもわろきことをばいはじ、心にもひがごとをばおもはじと、かやうにつつしみて念仏するものは、この念仏のちからにて、よろづの罪を除き失ひて、極楽へかならずまゐるぞとおもひたる人をば、自力の行といふなり。

身口意の三業で、「わろきこと」をしないようにして、「つつしみて」念仏することを、自力の念仏だと言われています。

対して他力の念仏は、

他力の念仏とは、わが身のおろかにわろきにつけても、かかる身にてたやすくこの娑婆世界をいかがはなるべき。罪は日々にそへてかさなり、妄念はつねにおこりてとどまらず。
かかるにつけては、ひとへに弥陀のちかひをたのみ仰ぎて念仏おこたらざれば、阿弥陀仏かたじけなく遍照の光明をはなちて、この身を照らしまもらせたまへば、観音・勢至等の無量の聖衆ひき具して、行住坐臥、もしは昼もしは夜、一切のときところをきらはず、行者を護念して、目しばらくもすてたまはず、まさしくいのち尽き息たえんときには、よろづの罪をばみなうち消して、めでたきものにつくりなして、極楽へ率てかへらせおはしますなり。
されば罪の消ゆることも南無阿弥陀仏の願力なり、めでたき位をうることも南無阿弥陀仏の弘誓のちからなり、ながくとほく三界を出でんことも阿弥陀仏の本願のちからなり、極楽へまゐりてのりをききさとりをひらき、やがて仏に成らんずることも阿弥陀仏の御ちからなりければ、ひとあゆみもわがちからにて極楽へまゐることなしとおもひて、余行をまじへずして一向に念仏するを他力の行とは申すなり。

とあります。
罪深い身でありながら、迷いの世界を離れることができるのは、「ひとへに弥陀のちかひをたのみ仰ぎて念仏おこたらざれば」「よろづの罪をばみなうち消して、めでたきものにつくりなして、極楽へ率てかへらせおはしますなり」とあります。
意味は読んだそのままで、阿弥陀仏の18願をたのみ仰いで怠らずに念仏すれば、極楽に連れていってくださる、ということです。

しつこいでしょうが、もう一度言いますと、親鸞聖人が関東の同行に読むように繰り返し勧められた書が『自力他力事』です。信前の同行が何をすベきか、という最も知りたい疑問に対して、「ひとへに弥陀のちかひをたのみ仰ぎて念仏おこたらざれば、極楽へ率てかへらせおはしますなり」という答えを親鸞聖人が示されているのです。

そして他力の念仏の最終的な説明を、「ひとあゆみもわがちからにて極楽へまゐることなしとおもひて、余行をまじへずして一向に念仏するを他力の行とは申すなり」とされています。

自力の念仏と他力の念仏の違いがここに鮮明に表現されています。

自力の念仏=「ひとあゆみもわがちからにて極楽へまゐるとおもひて」「余行をまじへて念仏する

他力の念仏=「ひとあゆみもわがちからにて極楽へまゐることなしとおもひて」「余行をまじへずして一向に念仏する

自力と他力の水際とは、これです。
因果の道理を信じよとか、善をしなければとか、信前に念仏称えても助からないとか、他力の念仏はお礼だから称えても称えなくても良いとか、高森会長がするような説明は全くないのです。

隆寛律師のことを親鸞聖人は「法然聖人の御をしへを、よくよく御こころえたるひとびとにておはします」と絶賛されていますが、高森会長のことを評するなら

親鸞聖人の御をしへを、ゆめゆめこころえざるひとにておはします

という以外にありません。

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2019年1月 7日 (月)

高森顕徹会長の薄っぺらい話で喜んでいる「おおよそ浅き会員は多く疑惑を生ぜん」

高森顕徹会長の今年の年頭所感は、タイトルを「念仏者は無碍の一道なり」としてあり、内容はと言うと『歎異抄をひらく』の文章を少し替えただけのものです。
ただ注目すベきは、絶対の幸福とは書いていないことです。昨年はあれだけ絶対の幸福の連発であったのに、今年は少し無難に纏めようとの意図があるのでしょう。

先日の話もそうですが、退会者の批判に神経質になっているのは間違いありません。

しかしながら、念仏に関しては相変わらず理解がお粗末で、『歎異抄をひらく』から進歩していません。

今回も自力の念仏と他力の念仏の違いについて、判ったふりして強調していますが、高森会長には根本が判っていないです。

親鸞聖人が自力の念仏についてどう仰っているのか、教えてあげます。

『正像末和讃』に

不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

仏智の不思議をうたがひて
 自力の称念このむゆゑ
 辺地懈慢にとどまりて
 仏恩報ずるこころなし

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

罪福ふかく信じつつ
 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆゑに
 方便化土にとまるなり

とあります。
自力の念仏とは、「如来の諸智を疑惑して」「罪福信じ」「仏智の不思議をうたがひて」「罪福信ずる」「罪福ふかく信じつつ」称える念仏のことです。

つまり
自力=仏智不思議を疑う=罪福信じる
ということで、因果の道理を信じて称える念仏が自力の念仏だと親鸞聖人は仰っているのです。

『教行信証』化土巻・真門釈にも

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。

とあります。

これが自力の念仏の根本なのです。

他力の念仏は、自力が微塵ほどもない念仏ですから、因果の道理を信じていない念仏ということです。

高森会長の嘘教義に毒されていると全く判らない話でしょうが、結論を言えば、因果の道理と18願とは相容れないのです。

最近は言いませんが、因果の道理を信じるように高森会長が話をすればする程、それを聞いた会員は自力に固執し他力に入れなくなるのです。

以上、自力の念仏と他力の念仏の違いで説明しましたが、それがそのまま信心の違いです。

念仏称えて助かるなんていうのは(因果の道理に反しているから)間違いだ、というのが自力の信心。
念仏称えて助かるというのは(因果の道理に反しているので)正しい、というが他力の信心です。

そんな上手い話があるか、馬鹿にするな!

と思うのが自力の信心です。

親鸞聖人は『教行信証』信巻に、律宗でありながら浄土教を信奉していた中国南宋の僧侶の言葉を引かれて

律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』に〈易往而無人〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」と。

と他力の信心を説明されています。凡夫が聖者になるのは、掌を返すように大いに簡単なことであるから、それを疑うのだということです。
念仏称えたくらい簡単なことで助かるなんてことがあるか、というのが因果の道理を信じている自力です。
他力の信心とは、掌を返すように簡単に称えることのできる念仏で助けてくださるとは、阿弥陀仏の18願はなんと素晴らしいことか、という信心です。

自力の信心で、自力と他力の違いを判ったふりして説明しても、すぐにボロが出るのです。

薄っぺらい高森会長の話で喜んでいるうちは、「おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん」の状態を脱することは不可能です。

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