2017年2月16日 (木)

高森秘事の二河白道の譬え話

信前信後で、何が変わって何が変わらないのかがよく判る話が、二河白道の譬喩です。この譬喩が、高森顕徹会長が話している内容とはかなり違うことを、これまで何度も述べてきました。

高森会長は、白道についての私の非難に反論するために、善導大師と親鸞聖人とは教えられた方が違うとか、おもしろいことを言ったこともありますが、言うまでもなく御二方の譬え話は同じです。

信前信後の話に絞って言いますと、三定死を迎えるのは、東の岸にいる時であり、西の岸にいる人の喚び声を聞くのも東の岸にいる時です。したがいまして、信前信後の違いは、東の岸にいるか白道に乗ったかの違いです。ここで、白道に乗ったこと以外に何かが変わったかどうかです。

・旅人の姿は変わらない。
・東の岸も変わらない。
・白道は四五寸のまま変わらない。
・水の河と火の河も変わらない。
・群賊悪獣悪知識も変わらない。
・東の岸と西の岸の距離も変わらない。
・西の岸も変わらない。
・東の岸の人も変わらない。
・西の岸の人も変わらない。
・西の岸の人から新たな喚び声はない。

要するに、白道に乗ったこと以外には、何も変わらないということです。
そうなると、救われてハッキリするのは、白道に乗ったこと、つまり他力の信心を頂いたことだけで、他にはハッキリすることが何もないということになります。

これは前回の『執持鈔』と同じです。思慮の浅い親鸞会会員は、信後は西の岸が見えるではないか、と反論するかもしれませんが、それは東の岸にいた時と同じ見え方です。

結局、往生一定といっても、白道に乗ったこと、つまりは阿弥陀仏の喚び声に従う以上でも以下でもないということです。善導大師、親鸞聖人が二河白道の譬喩でそのように教えておられるのですから、これ以上屁理屈のつけようがありません。

善導大師、親鸞聖人の譬え話そのままでも、信前信後はこの違いしかないのですが、高森会長のいう白道の途中で信前信後が分かれるとなると、信前信後には違いが何もないことになります。白道の途中で西の岸の人が新たな喚び声を出されていませんし、白道も変わりませんので、何も変化がない、つまりは何一つハッキリすることがないことになります。高森秘事の譬え話では、信前信後の水際がハッキリすることなどない曖昧なものにしかなりません。

高森会長の言っている驚天動地の変化を言いたいのなら、せめて

・白道の四五寸が広い広い大道に変わった。
・水の河と火の河が白道を隠すことがなくなった。
・西の岸が光り輝いてよく見えるようになった。

くらいの大胆な改竄をして言わないと辻褄が合いません。尤もこれに近いことを高森会長は過去に言ったこともありましたので、善導大師、親鸞聖人の譬え話とは大きく異なったオリジナルの譬え話を高森会長が創作したのだといえます。まあ、創作をしたというよりは、寧ろ、善導大師、親鸞聖人の譬え話を知らなくて、適当なことを言っただけでしょう。

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2017年2月12日 (日)

邪義を修正してもやはり邪義にしかならない

本日の高森顕徹会長の話は、救われたらどう変わるのかについてでしたが、高森会長は言葉上ではまともなことを言っていたようです。ただし、薄っぺらい内容でした。退会者からの激しい批判に晒されて、かなり修正をしてきて、往生一定という言葉を出して説明していましたが、往生一定がどういうことか、高森会長はよく理解できていないみたいです。

覚如上人は親鸞聖人のお言葉を『執持鈔』の中で紹介されています。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人[黒谷源空聖人の御ことばなり]の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。(中略)
そのゆゑは、明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑにとなり。しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

(石田瑞磨著『親鸞全集 別巻』による現代語訳)

浄土に生れるという、これほどの一大事について、愚かなものがさかしらな才覚をめぐらしてはならない、ただ一すじに如来におかませしなければならない。総じて愚かなひとに限らず、次の世に仏となってあらわれることが約束された弥勒菩薩をはじめとして、仏の智慧の不思議になまじいの才覚をしてはならない。まして愚かなひとの浅はかな智慧には、当然許されない。ねんごろに如来の智慧のお誓いにおまかせをしなければならない。これを、仏にすべてを託した、真実の信心をえたひとというのである。
だから自分から、浄土に行くことができそうだとも、また地獄に堕ちるかもしれないとも、決めてはならない。なくなられた上人<黒谷の源空、法然上人のことばである>の仰せられた言葉として、「源空の生れるところへ行こうとお考えになってください」ということをたしかにうけたまわったうえは、たとえ地獄であっても、なくなられた上人のおいでになるところへ行かなければならない、と思うのである。(中略)
その理由は、智慧の勝れた師にお逢いしないで終ってしまうならば、かならず悪道に行くはずの身だから、というのである。ところが、正しい教えの師にだまされて悪道に行くならば、そのときはひとりで行くはずがない。かならず師と一緒に堕ちて行くだろう。だから、ただ地獄に堕ちるほかない、といっても、なくなった上人のおいでになるところへ参ろうと決心したのであるから、生れるさきの善し悪しはわたしのきめるところではない、というのである。これが自力を捨てて他力にすべてをまかせる姿である。

ここで仰っていることで、ポイントは

  • 往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし
  • われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
  • 源空があらんところへゆかんとおもはるべし
  • 善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず

です。
死んだ後にどこにいくかを自分ではからって決めてはならないということです。救われた後もです。要するに、往生一定とは、自分の往生がハッキリと判ることではないのです。
では真実の信心とは何かについて、

  • 如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
  • 善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

と仰っています。死んだ後のことを自分でどうこう決めるのではなく、阿弥陀仏におまかせをするのです。
つまり、浄土往生を誓われた阿弥陀仏におまかせをしたのだから、往生は一定となるのです。浄土往生がハッキリすることは救われる前も後もありません。しかし、浄土往生は間違いないと仰る阿弥陀仏におまかせをしたから、浄土往生は間違いない、となり、それが救われたということなのです。

高森会長の話は、いつも核心を突いていません。まともらしきことを言っている時は、大沼法竜師や伊藤康善師などの言葉をそのまま使っているだけですので、中身が伴わず言葉が軽いのです。そして、親鸞聖人の仰ることと高森会長の説明とには矛盾も生じるのです。

トンデモ邪義連発だったここ数年のことを思うと、最近の邪義は落ち着いてきた感はありますが、元が邪義ですから、落ち着いてもやはり邪義でしかないのです。

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2017年1月31日 (火)

高森顕徹会長の語る霊言を信じる絶対の幸福の科学

当ブログを開設してから7年が経ちましたが、その間に、コメント欄で多くの法論をしてきました。しかし、ここ数年は法論以前の低レベルのコメントが大半となってきて、親鸞会の衰退をコメントからも感じます。

高森顕徹会長と親鸞会をこれだけ扱き下ろしているのに、講師も会員も教義的な反論ができないのです。40年来の会員でも、私に対する人格攻撃しかできず、教義には何一つ触れないコメントで荒すのが関の山です。以前から言っていますが、人格攻撃されるのは、嬉しいことです。なぜなら、私の言っていることに反論できない、つまり賛同せざるを得ないと言っているのと同じだからです。
聖教に依らない妄想のコメントも、荒しにしかなりませんので、それが続くなら当然の措置として削除しスパム設定します。
なお、聖教に基づいた理屈の通る反論なら、いつでも大歓迎です。スパム設定を解除します。

さて、ついでですから、二河白道の譬えについて基本的なことをもう少し説明します。

言うまでもなく、二河白道の譬えは善導大師が作られた話です。『散善義』の中で『観無量寿経』の回向発願心を解釈なされたところで出てくるのですが、この譬えの前に

また一切の往生人等にまうさく、いまさらに行者のために一の譬喩を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。

と仰っています。
信心守護の譬えですから、真実信心についての解説であり、求道の譬えではないことは明白です。

この譬えを親鸞聖人は『教行信証』信巻に引かれていますので、親鸞聖人も、真実信心を顕わされたのが二河白道の譬えとされたのは、疑いようのない事実です。19願の意味があるなら、化土巻に二河白道の譬えを引かれるでしょうが、それはありません。

『教行信証』は高森会長にも会員にも難しすぎるでしょうから、『教行信証』をまとめられた『浄土文類聚鈔』で再度説明しますと、二河白道の譬えの解説があるのは、

問ふ。念仏往生の願、すでに三心を発したまへり。論主、なにをもつてのゆゑに一心といふや。

という問いに対する答えの中です。
答えとして18願の三心(至心・信楽・欲生我国)の説明をされた後に

これによりて師釈を披きたるにいはく、「西の岸の上に人ありて喚ばひてのたまはく、〈なんぢ、一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉」と。また〈中間の白道〉といふは、すなはち、貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。仰いで釈迦の発遣を蒙り、また弥陀の招喚したまふによりて、水火二河を顧みず、かの願力の道に乗ず」と。{略出}
ここに知んぬ、「能生清浄願心」は、これ凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なるがゆゑに清浄願心とのたまへり。しかれば、「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり。(後略)

(現代語訳)

そこで、 善導大師の 『観経疏』 をひらくと、 次のようにいわれている。
「西の岸に人がいて、 <そなたは一心に正念してまっすぐに来るがよい。 わたしがそなたを護ろう。 水の河や火の河に落ちるのではないかと恐れるな>と喚ぶ声がする」
また次のようにいわれている。
<水の河と火の河の間にある白い道> というのは、 貪りや怒りの心の中に、 往生を願う清らかな信心がおこることをたとえたのである。 浄土へ往生せよという釈尊のお勧めと、 浄土へ来たれと招き喚ぶ阿弥陀仏の仰せにしたがって、 貪りや怒りの水と火の河を気にもかけず、 阿弥陀仏の本願のはたらきに身をまかせるのである」
これによって知ることができた。 「清らかな信心が起こる」 とは、 凡夫が自力で起す心ではない。 大いなる慈悲により回向された心であるから、 清らかな信心といわれているのである。 そして 「一心に正念して」 というのは、 「正念」 とはすなわち称名である。 称名はすなわち念仏である。 「一心」 とは深い心、 すなわち深心である。

と続きます。

白道=能生清浄願心=凡夫自力の心にあらず

と明確に仰っていますから、二河白道の譬えは、他力の真実信心についてです。
このように二河白道の譬えに、19願はどこにも出てきませんから、二河白道の譬えは三願転入の否定の根拠でもあります。
そもそも、『浄土文類聚鈔』にも、19願も三願転入もないのですから、三願転入の教えなるものは、親鸞聖人にはあり得ないのです。

親鸞聖人が仰ってもいないのに、これが本意だと判るというのは、何とかの科学の総裁の霊言と同じです。高森会長の語る霊言を信じるのは勝手ですが、真宗とは無関係な宗教です。絶対の幸福の科学とでも名乗るのが宜しいかと思います。
また高森会長でさえ言っていない妄想コメントを書き込む会員も、霊言の類なのでしょうから、真宗をやめて改宗した方がいいです。

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2017年1月26日 (木)

教えも信心も嘘で塗り固めた高森顕徹会長の実態

真実信心かどうかは二種深信が立ったかどうかと説明しながら、退会者に対して二種深信以外の、これが知らされていないから自力の信心だ、あれが知らされていないから異安心だ、と平気で非難してきます。親鸞会の会員には、矛盾が矛盾と理解できていないようです。

親鸞聖人のお言葉で「まことに知んぬ」とあると、真実信心を獲たら必ず知らされることだと親鸞会は勘違いしていますが、単に高森顕徹会長の嘘に騙されているだけです。

たとえば、『教行信証』信巻の

まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり。

ですが、これは二河白道の譬えの内容について「まことに知んぬ」です。真実信心を獲たからと言って、譬えが何を意味しているかを正確に知らされるはずがありません。ここで知らされたこととは、譬えの内容をこのように理解した、ということです。信心とは別の話です。

否、そんなことはない、真実信心を獲たからこそ知らされたことなんだ

と親鸞会会員は言いかねないので、この御文の内容を見ていきましょう。

現代語訳は

いま、まことに知ることができた。善導大師の二河の喩えの中に「四、五寸ほどの白い道」といわれているが、「白い道」の「白」という言葉は「黒」に対するものである。「白」とはすなわち、阿弥陀仏が因位のときにあらゆる行の中から選び取られた清らかな行であり、浄土往生のために如来より回向された清らかな行であることをいう。「黒」とはすなわち、無明に汚れた行であり、また、声聞や縁覚、人間や神々の修める煩悩のまじった善であることをいう。「道」という言葉は「路」に対するものである。「道」とはすなわち、第十八願の唯一信心の道であり、この上ないさとりを開くすぐれた道である。「路」とはすなわち、二乗・三乗の法、さまざまな行を修めなければならない劣った路である。「四、五寸」とはすなわち、衆生の心身を構成している四大・五陰にたとえたのである。

ですが、判り易い所で、高森会長が途中まで自力の道と主張している「白道」についてのみ見てみましょう。

白=選択摂取の白業、往相回向の浄業
道=本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道

つまり、「白道」とは本願他力の道の意味しかないのです。

ということは、白道は他力と知らされていない高森会長は真実の信心ではないということになります。あるいは高森会長は、白道を善導大師は自力で教えられたのを親鸞聖人が他力で教えられたとか珍説を言ったりしていますので、親鸞聖人の信心と善導大師の信心は違うことにもなります。
それとも、「まことに知んぬ」は、真実の信心を獲て知らされることではないと高森会長の説明を修正するのでしょうか。

いずれにしても矛盾です。

このようなちょっとのことでも、矛盾が噴出しているのが、高森会長の言っている教えです。

参考までに、「まことに知んぬ」と親鸞聖人が『教行信証』で仰っている箇所で、明らかに教えの理解と会員でも認めるであろう御文を挙げておきます。

これすなはち真実の行を顕す明証なり。まことに知んぬ、選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行なり、知るべしと。(行巻)

まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。(信巻)

しかれば大聖の真言、宗師の釈義、まことに知んぬ、この心すなはちこれ不可思議不可称不可説一乗大智願海、回向利益他の真実心なり。これを至心と名づく。(信巻)

まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。(信巻)

しかれば大聖の真言、まことに知んぬ、大涅槃を証することは願力の回向によりてなり。(証巻)

まことに知んぬ、これいましこの『経』に顕彰隠密の義あることを。(化土巻)

高森会長は、無知な上に、信心も偽装していることが明白です。
高森会長の嘘を信じて、親鸞聖人の仰せを否定するのは各々の勝手ですが、親鸞聖人の教えを正しく伝えていると吹聴している高森会長は大嘘つきだということくらいは知っておきましょう。

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2017年1月23日 (月)

信楽と正定聚との関係も判らない高森顕徹会長の信心

昨日は複数の会員からコメントがありました。しかし、そのレベルには大きな差があります。私の先輩に当たる会員歴40年近い会員は、負け惜しみしか言えません。かと思えば、根拠を出して何とか反論しようという真面目な会員のコメントもあります。残念ながら前者は、見苦しいの一言ですし、当然ながら教えなどどうでもよい人です。後者は、信心を獲たいと思っているが、高森信心が強い人と想像できます。後者のコメントは大歓迎で、私も真面目に対応します。前者は、適当にあしらうだけです。

さて、昨日の講師部講義で出た話が体失不体失往生の諍論と『愚禿鈔』の

本願を信受するは、前念命終なり。
即得往生は、後念即生なり。

ですが、ここから「若不生者」のデタラメ解釈に繋がっていきますので、それについて解説します。

まず『愚禿鈔』のこの御文の元になったのが善導大師の『往生礼讃』にある

前念に命終して後念にすなはちかの国に生じ、長時永劫につねに無為の法楽を受く。

です。
ここでの前念と後念は、信楽を獲た人は肉体の命が終わって、死後に浄土に生まれるの意味です。つまり体失往生です。

ところが善導大師のこの御文を親鸞聖人は信一念、つまり不体失往生として意味を変えられたのが『愚禿鈔』の文です。

簡単に言うと、善導大師と証空上人は体失往生を教えられたのですが、親鸞聖人は不体失往生を教えられたということです。
親鸞会会員にとっては疑問符が10個くらい付く話になりますが、これが事実です。

元々往生とは体失往生のことでしか経典にも善導大師も教えられていないのを、親鸞聖人は不体失往生という新たな解釈で教えられたということです。この背景を知らない高森会長は、不体失往生とは、信楽の身になること言っていますが、それでは意味が判りません。前回も書きましたが、

信楽を獲たら、信楽の身になる

では文として成立しないのです。
親鸞聖人が仰った不体失往生の解釈を『愚禿鈔』を使って説明すると、

「信受本願」=信楽を獲る⇒「即得往生」=不体失往生(正定聚)

になります。
高森会長の説明と同じだと思われるかもしれませんが、違います。

「信楽を獲る」=「不体失往生(正定聚)」

「信楽を獲る」⇒「不体失往生(正定聚)

が同じだと思うのは自力の信心、違うとするのが他力の信心です。

高森会長はそんなこと言っていないと喚く会員のために『なぜ生きる2』の言葉を出しておきます。

親鸞聖人のお言葉

金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。

を高森会長は

大悲の願船に乗じた者は、必ず現世で十種の幸せに生かされる。

としていますが、これが自力の信心の証拠です。

親鸞聖人が仰っていることは

信楽を獲たなら、現生で十種の利益(正定聚に入る益を含む)を獲る。

です。
信楽を獲ることと正定聚に入る益を獲ることがイコールではなく、因果関係にあるということです。これを言葉の遊び、屁理屈だと思うのであれば、それが自力の信心の証拠です。

更には、現生で正定聚に入ると教えられたのは、親鸞聖人独自の解釈です。元は、往生後に正定聚に入ると誓われた11願があり、それをそのまま教えられたのが高僧方ですが、その解釈とは異なることを親鸞聖人が仰ったのです。

ということは、

信楽を獲たなら、現生で正定聚に入る益を獲る。

とは七高僧方は仰っていないので、

信楽を獲ても、現生で正定聚に入る益を獲ると実感として知らされることはない。

ということです。親鸞聖人の理論で導きだされたことを、信心の内容と勘違いしているのが高森会長です。

以上は高森会長にも会員にもチンプンカンプンの内容だと思いますが、これが真宗学の常識です。

知らされる筈もない

大悲の願船に乗じた者は、必ず現世で十種の幸せに生かされる。

と平気で嘘をついている高森会長が、体験至上主義の異安心なのは言うまでもありません。

もう一つ、会員の頭が混乱することを言っておきますと、証空上人も不体失往生を教えられています。要するに、高森会長の体失不体失往生の諍論の説明も、デタラメだということです。

高森会長は二種深信の説明もまともにできない、現生正定聚の意味も背景も判っていない。それでも
高森先生の信心は親鸞聖人と同じ真実信心だ!
と会員が力んだところで、世間は麻原死刑囚信者と同類にしか見做しません。

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2017年1月22日 (日)

信心について知ったかぶりの高森顕徹会長

今日の講師部講義では、「若不生者」の話があったそうです。明らかに、当ブログを意識しています。それは自意識過剰だと必死に否定したい会員もあるでしょうが、明々白々の事実です。

前回までで「若不生者」の意味をまとめましたので読んで頂ければお判りかと思いますので、詳しくは言いませんが簡単に復習しますと、

『尊号真像銘文』

「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。

と浄土に生まれるとしか、親鸞聖人は説明されていないのです。『唯信鈔文意』でも同様です。

『大無量寿経』の異訳経でも、親鸞聖人の御著書でも、「」は浄土に生まれるという当益以外には書かれていないので、それ以上説明は不要で、言い訳も屁理屈も不要です。その上で親鸞聖人が直接仰っていない現益の意味があるかどうかの議論に移るのです。もう一度言いますと、当益を認めた上での現益の話をしないと、全く無意味です。

ここで現益の意味があるとした場合、二河白道の譬えで

信楽の心で念仏して信楽に生まれさせる

では訳が判らないとは以前に申した通りですし、『尊号真像銘文』の「至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじ」を「至心信楽をえたるひと、信楽にもし生れずは仏に成らじ」と言っては意味が通じないことも高森顕徹会長にも会員にも理解できないのでしょう。これは教学以前の国語の問題であり、理論的な思考力があるかどうかの問題です。

簡単な話です。「信楽」は信心ですから、信心を獲て、どう生まれるかを言わないと意味のある文章として成立しないのです。まだ説明が必要だというなら、その程度のことを教えてくれる小学校の国語の先生に教えてもらってください。

さて、今回は信心の話も出たようですが、高森会長は信心についても無知です。

真実の信心=信楽=深信

ここまでは高森会長でも知っているでしょうが、深信の内容が全く判っていません。

二種深信については、親鸞会でも引用されるのが、『教行信証』信巻にだけある

一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。

です。
ところが善導大師は他の表現でも二種深信を仰っていて、それは『教行信証』の行巻と信巻の二か所に引かれています。

自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。
いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。

前者が一か所で、後者が二か所で紹介されているから、単純に後者の方が重要という話ではありませんが、少なくとも、親鸞聖人は後者の二種深信を重要視されていたので、それを知らない高森会長は、『教行信証』を全く読んだことがないとここでも判明します。

内容については、前者よりも後者の方が、より明確になっています。
簡単にまとめると

機の深信は、自分が今までやってきた程度の善では出離できない、と信知すること。
法の深信は、阿弥陀仏の本願は念仏で必ず往生できる、と信知すること。

こういうことです。もっと簡潔に言うと、

善では出離できない、念仏によってのみ出離し往生できる、と信知する

これが真実の信心だと言うことです。

高森会長の説明とは大いに異なっていることがお判りでしょうか。要するに、念仏1つで助かる、と深信したのが二種深信だということです。

御存知の通り、私は徹底的に高森会長を扱き下ろしています。悔しいと思われる講師部員、会員は、遠慮なく教義上の反論をしてください。ただし、聖教上の根拠に基づく反論で。

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2017年1月20日 (金)

「若不生者」の「生」のまとめ

私の先輩と思われる会員からコメントを頂きました。「若不生者」の「」について、私が何回か書いてきたことに対する批判ですが、いつも通り、”高森先生が仰ったことと違う”という類の批判です。私が書いた教義的な内容についての批判ではないところが、ポイントです。

若不生者」については、前回で終わりにするつもりでしたが、せっかくですからもう少し書いておきます。

親鸞聖人は18願について、『大無量寿経』の異訳経を『教行信証』行巻に引いておられます。

『大阿弥陀経』

諸天・人民・蜎飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。この願を得ずは、つひに作仏せじ

『平等覚経』

諸天・人民・蠕動の類、わが名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、わが国に来生せしめん。しからずはわれ作仏せじ

若不生者」にあたる部分は、「わが国に来生せしめ」となっています。親鸞聖人がわざわざ紹介されたものですから、「」は、浄土に生まれさせるというのが、18願の意味であることを親鸞聖人は明確に認識なされる根拠となったものです。

良く知られた親鸞聖人の御言葉でいうなら、『尊号真像銘文』の

「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。

が決定的な証拠です。

これが大前提です。これを踏まえた上で、「」に当益の意味しかないかという話になりますが、実は現益の意味も親鸞聖人は含められていたものと思われます。その根拠もありますが、高森会長に塩を送るつもりはないので、紹介はしません。ただし、現益は「信楽」ではないです。現益なら「信楽」だと思われるかもしれませんが、違います。それはこれまでの「信楽」の説明を読まれればお判りになると思います。

会員には理解しがたいでしょうが、再度申し上げますと、「信楽」の信心を賜ることと「信楽」の身になることとは違います。以前にも書いてきた内容ですが、七高僧方とは異なる親鸞聖人の独自の解釈によるものです。

真宗学に詳しい方なら、これだけのヒントで判ると思われますが、高森会長や会員ではおそらく判らないでしょう。
もし高森会長が「若不生者」の「」を「信楽の身に生れさせる」とは別の表現で説明したなら、私の影響があったということです。それが1年後であろうが5年後であろうがです。

一応これまで宣言してきたことを繰り返しておきます。

法論は、高森会長でも講師部員でも幹部会員でも、誰とでも受けます。もちろん公開法論です。
以下論点をまとめています。

1.獲信していない人の死後はどうなるか 

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

 

2.五逆罪・謗法罪について 

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

 

3.善人と悪人について 

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

 

4.獲信のために善は必要か 

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

 

5.白道とは 

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

 

6.定散二善について 

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

 

7.19願について 

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

 

8.宿善について 

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

 

9.機の深信について 

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

 

10.善知識に無条件服従しなければならないか 

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

 

11.因果の道理について 

親鸞聖人 罪福の因果を信じることは自力・仏智不思議を疑う心
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高森会長 因果の道理を深信しなければならない

 

12.三願転入について 

親鸞聖人 聖道門の人を浄土門に導く方便が19願であり、19願の勧めはない
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高森会長 全人類は19願から始めなければならない

 

13.「一向専念無量寿仏」について 

親鸞聖人 諸善を廃して念仏1つになること
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高森会長 阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む

 

『歎異抄』について 

第1章 

1.「ただ信心を要とす」の「信心」とは 

親鸞聖人 「ただ念仏で往生できる」と信じた心
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高森会長 「助かった」とハッキリした心

 

2.「本願を信ぜんには他の善も要にあらず」とは 

親鸞聖人 本願に救われるには善は不要
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高森会長 救われたなら善は不要だが、救われる前には善が勧められている

 

3.「悪をもおそるべからず」とは 

親鸞聖人 本願に救われるのに、悪が妨げになることはない
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高森会長 悪を恐れ不安になるのは、地獄一定の悪人と知らされていないからだ

 

第2章 

4.「ただ念仏して」の「ただ」とは 

親鸞聖人 念仏一行
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高森会長 びっくり仰天

 

5.「総じてもつて存知せざるなり」とは 

親鸞聖人 念仏が浄土に生れる因なのか地獄に行く因なのかを知る智慧を持っていない
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高森会長 知り過ぎた知らん

 

6.「弥陀の本願まことにおわしまさば」は仮定か断定か 

親鸞聖人 仮定
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高森会長 断定

 

第3章 

7.「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」とは 

親鸞聖人 善人ではなく悪人のために18願を建てられた
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高森会長 「悪人」とは、全人類のことであり、「人間」の代名詞にほかならない

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2017年1月17日 (火)

何がおかしいのかも判っていない高森顕徹会長と会員のための補足

二河白道の譬えの中で出てくる、西岸上の人の喚び声が18願を譬えられたものであることは、高森顕徹会長も認めています。それを前回述べました。そうであるなら、西岸上の人の喚び声を聞いて初めて乗る白道は、信後の意味にしかならないのは言うまでもありませんが、白道を信前の求道心としていることも、大きな矛盾です。というより、高森会長が、二河白道の譬えの内容を正しく把握していないから矛盾にも気が付いていなかったのでしょう。

さて、西岸上の人の喚び声、

なんぢ、一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ

につきまして、親鸞聖人も解説なされています。
その中で「一心に正念にしてただちに来れ」について見てみますと、『愚禿鈔』には、

「一心」の言は、真実の信心なり。「正念」の言は、選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり。
「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。
「来」の言は、去に対し往に対するなり。また報土に還来せしめんと欲してなり。

とあります。

前々回と前回に問題にした18願文の「若不生者」に当たる「直ちに来れ」について、
遠回りである聖道門や19願・20願を捨てて、近道である18願に帰し、「報土に還来せしめんと欲してなり」と教えられています。ですから、「」は浄土に生まれさせるという意味になります。、「信楽」の身に生まれさせるという意味にはなりません。

ではどのようにして来なさい、と仰っているのかというと、「一心正念にして」です。簡単に言うと「一心」真実の信心で「正念」念仏して、です。

この「一心正念」については『浄土文類聚鈔』で更に詳しく解説なされています。

しかれば、「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり。深心はすなはちこれ堅固深信なり。堅固深信はすなはちこれ真心なり。真心はすなはちこれ金剛心なり。金剛心はすなはちこれ無上心なり。無上心はすなはちこれ淳一相続心なり。淳一相続心はすなはちこれ大慶喜心なり。大慶喜心を獲れば、この心三不に違す、この心三信に順ず。この心はすなはちこれ大菩提心なり。大菩提心はすなはちこれ真実信心なり。真実信心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。
度衆生心はすなはちこれ衆生を摂取して、安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心はすなはちこれ畢竟平等心なり。この心はすなはちこれ大悲心なり。この心作仏す。この心これ仏なり。これを「如実修行相応」と名づくるなり、知るべし。

正念」は念仏ですが、問題は「一心」の内容です。18願文の「信楽」にあたる「一心」の言い換えをたくさん出されていますが、図式にすると

信楽
=一心
=深心
=堅固深信
=真心
=金剛心
=無上心
=淳一相続心
=大慶喜心
=三信に順ず
=大菩提心
=真実信心
=願作仏心
=度衆生心
=衆生を摂取して、安楽浄土に生ぜしむる心
=畢竟平等心
=大悲心
=作仏す
=仏なり

となります。
詳しい説明はしませんが、「信楽」とは、最後にある仏のはたらきそのものになりますから、軽々しく、「信楽」の身に生まれ変わるなどというものではありません。我々の煩悩に汚れた心が、仏の心になるのではないことは、少し考えれば判ると思います。
信楽」を頂くことと、、「信楽」の心になることの違いは、ここでも明らかです。

18願文でさえ、まともに解釈できない高森会長に、三願転入とか言って19願・20願の解釈などできる筈もないでしょう。

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2017年1月 3日 (火)

これまでの主張を修正するも、誤魔化せないほどおかしい高森邪義

今年最初の高森顕徹会長の話は、本願と本願成就文でした。これまで私は何回か言いましたが、高森会長は批判に対して反応します。三願転入についてmixiでの法論を通して徹底的に高森会長を扱き下ろすと、『なぜ生きる2』を出したのがその典型です。もちろんそれを狙って、扱き下ろしたので、こちらの思惑通りに『なぜ生きる2』を書いてくれて、「ワシはそんなこと言っていない」の名言を封じることに成功しています。今回も本願の話をしない、と何度も書いたので、それに応えるように本願の話を急にし出しただけのことです。高森会長の性格は実に単純です。

本日の話で特徴的なのが、信楽について「往生一定」と説明したことです。どこかを修正することは予想していましたが、その箇所が少し意外でした。

今までは、絶対の幸福と言っていたので、明らかに何かの意図をもっての修正です。

ところで、18願文の言い換えで、高森会長が言っているのが

どんな人をも 必ず助ける 絶対の幸福に

ですが、これとは別の説明が『教学聖典』にあります。

汝―――十方衆生
一心――至心・信楽・欲生
正念――乃至十念
直来――若不生者
護汝――不取正覚
不畏――唯除

二河白道の譬えの中にある西岸上の人の喚び声です。

なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ

今取り上げたい箇所は「一心正念にしてただちに来れ」で、18願文では「至心・信楽・欲生 乃至十念 若不生者」です。
一心正念にしてただちに来れ」にあてはめて18願文を言うと

信楽の心で念仏して生まれさせる

ということになります。
では「生まれさせる」はどう生まれさせるのか。

1.信楽に生まれさせる
2.浄土に生まれさせる

どちらかでしょうか。
1では意味が通じません。

信楽の心で念仏して信楽に生まれさせる

訳が判りません。
2ですとすんなり理解できます。

信楽の心で念仏して浄土に生まれさせる

当たり前のことです。
二河白道の譬えでも、「ただちに来れ」は

ただちに西の岸に来れ

です。

ただちに一心へ来れ

になることはあり得ません。

それでも

「若不生者」の「生」は信楽に生まれさせる

だというなら、『教学聖典』は破棄しないといけないでしょう。

ちなみに、本日の

信楽=往生一定

の説明は、

「若不生者」の「生」は信楽に生まれさせる

との整合性を取るための苦肉の策でしょうが、

一心――至心・信楽・欲生
正念――乃至十念
直来――若不生者

との整合性まで考えの及ばないところが、高森会長らしいです。小手先の修正で誤魔化せるほど私は甘くはありません。

悔しければ、もう少し深い詭弁を、高学歴の講師を集めて考えてみましょう。

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2016年12月25日 (日)

「若不生者」の「生」を”信楽に生まれさせる”とする解釈にまた戻りました

本日の講師部講義で、珍しく本願、本願成就文についての説明がありました。あれだけ避けていた本願と本願成就文ですが、極一部だけの会員の参加ということもあり、情報が洩れることもないし、会員に対する、本願文の説明も、根拠を出しての説明もしているぞ、とのパフォーマンスのつもりなのでしょう。

さてその内容はと言うと、これまでと何も変わっていない、間違いだらけの説明でした。こっそりと修正してくるのかと思いきや、何の修正もないので、拍子抜けです。高森顕徹会長も、間違いには気が付いているのですが、それでも修正しないのは、会員に救われてほしい、という気持ちの欠落を意味しています。

たとえば、本願の「若不生者」の「」を”信楽に生まれさせる”と言い続けて恥をかき、『なぜ生きる2』でこっそり”浄土に生まれさせる”と修正したものの、今日はまた”信楽に生まれさせる”と元に戻っています。

その「信楽」の説明も当然以前のままで、

後生明るい心、後生楽しい心

とか訳の判らない説明です。
言うまでもなく親鸞聖人の説明は違います。
『教行信証』信巻の信楽釈については何度か紹介しましたので、今回は『浄土文類聚鈔』を紹介します。

二つには信楽、すなはちこれ、真実心をもつて信楽の体とす。しかるに具縛の群萌、穢濁の凡愚、清浄の信心なし、真実の信心なし。このゆゑに真実の功徳値ひがたく、清浄の信楽獲得しがたし。
これによりて釈(散善義)の意を闚ふに、愛心つねに起りてよく善心を汚し、瞋嫌の心よく法財を焼く。身心を苦励して、日夜十二時、急に走め急に作して、頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒の善と名づく、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。この雑毒の善をもつてかの浄土に回向する、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに、まさしくかの如来、菩薩の行を行じたまひしとき、乃至一念一刹那も、三業の所修、みなこれ真実心中に作したまひしによるがゆゑに、疑蓋雑はることなし。
如来、清浄真実の信楽をもつて、諸有の衆生に回向したまへり。

(現代語訳)

二つには信楽について、 この心はすなわち、 真実心を信楽の体とするのである。 ところが、 煩悩に縛られ濁りに満ちた世に生きる愚かな凡夫には、 清らかな信心がなく、 真実の信心がない。 だから、 真実の功徳にあうことができず、 清らかな信楽を得ることができないのである。
そこで、 『観経疏』のおこころを考えてみると、 貪りの心は常に善い心を汚し、 怒りの心はその功徳を焼いてしまう。 たとえ身を苦しめ心を砕いて、 昼夜を問うことなく、 ちょうど頭についた火を必死に払い消すように賢明に努め励んでも、 それはすべて毒のまじった善といい、 また、 いつわりの行というのであり、 真実の行とはいわないのである。 この毒のまじった善を回向しても、 阿弥陀仏の浄土に往生することはできない。

なぜかというと、 阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、 ほんの一瞬の間に至るまでも、 その身・口・意の三業に修められた行はみな、 真実心においてなされたからであり、 だからどのような疑いの心もまじることがない。
阿弥陀仏はその清らかな真実の信楽を、 すべての人々にお与えになるのである。

とあります。

親鸞聖人がここで仰っていることは、

凡夫には阿弥陀仏の報土に生まれることができるような善はできない。
それで阿弥陀仏が凡夫の代わりに修行なされた。
その清らかな真実の信楽をすべての人に与えてくださっている。

ということです。重要なことは、阿弥陀仏のなされた修行による因でわれらが報土往生という果を受けるということです。

後生暗い心が明るい心になった、後生苦しい心が楽しい心になった、という我々の心の変化ではなく、阿弥陀仏から与えられた信心を受け取るだけで、我々の心が変わる訳ではないということなのです。
言わば、高森流因果の道理を否定した、他因自果を仰ったのが「信楽」なのです。

『浄土文類聚鈔』ではこの後に

本願(第十八願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「諸有の衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せん」と。{抄出}
聖言、あきらかに知んぬ。いまこの心は、すなはちこれ、本願円満清浄真実の信楽なり、これを信心と名づく。信心はすなはちこれ大悲心なるがゆゑに、疑蓋あることなし。

(現代語訳)

本願 (第十八願) が成就したことを示す文は、 『大無量寿経』に次のように説かれている。 「すべての人々は、 その名号のいわれを聞いて信じ喜ぶ」
釈尊のお言葉により、 明らかに知ることができた。 この心は、 すなわち本願に誓われている功徳に満ちた清らかな真実の信楽であり、 これを信心というのである。 信心はすなわち大いなる慈悲の心であるから、 疑いの心があるはずはない。

と続きます。

信楽」は阿弥陀仏から与えられた信心であるから疑いの心があるはずがない、ということです。

高森会長の言う”信楽に生まれさせる”との解釈における最大の問題点は、我々の心が阿弥陀仏の清らかな信心に生まれ変わると錯覚していることです。清らかな信心を頂くことと、清らかな信心に生まれ変わることとは全く違うことです。

判り易くいうなら、報土往生する因(信楽)そのものを受け取るのではなく、報土往生という果だけを受け取るのです。ですから「若不生者」の「」は”浄土に生まれさせる”でないと話が通じないのです。

それが摩訶不思議体験至上主義である高森会長には到底理解できないのでしょう。

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