2016年8月29日 (月)

18願文までも捨てた高森顕徹会長

高森顕徹会長が、聖教上の根拠を出さなくなった象徴が、18願文です。数年ほど前までは、毎回のように18願文を出して、”18願文は漢字36文字”とのどうでもいい説明から始まって、18願文を一通り説明したものです。ところが最近では、”18願は漢字ばかりで難しいから”という理由で、18願文を出さなくなっています。

18願文を捨てた時点で、親鸞聖人の教えとの決別と言えるのですが、高森会長がなぜここまで聖教の御文を避けるようになったのかを、会員は考えてほしいものです。
理由は単純なことで、高森会長は批判に怯えているからです。

聖教の御文を出して説明すると、その解釈の根本的な間違いを指摘され、反論できないことを繰り返してきたので、高森会長も学習したのです。批判回避の最高の手段が、聖教の御文を出さないこと。

小心者の高森会長らしい対応ですが、そのことに気が付きながら高森会長を見限れない講師部員もみじめです。

さて、親鸞会では説明できない18願文について、説明をしておきます。

親鸞聖人は『大無量寿経』の異訳経を『教行信証』に引用されています。行巻には『大阿弥陀経』と『平等覚経』があります。

 『仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』[『大阿弥陀経』といふ、『二十四願経』といふ]にのたまはく、「第四に願ずらく、〈それがし作仏せしめんとき、わが名字をもつてみな、八方上下、無央数の仏国に聞かしめん。みな諸仏おのおの比丘僧大衆のなかにして、わが功徳・国土の善を説かしめん。諸天・人民・蜎飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。この願を得ずは、つひに作仏せじ〉」と。{以上}

 『無量清浄平等覚経』の巻上にのたまはく、「〈われ作仏せんとき、わが名をして、八方上下、無数の仏国に聞かしめん。諸仏おのおの弟子衆のなかにして、わが功徳・国土の善を嘆ぜん。諸天・人民・蠕動の類、わが名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、わが国に来生せしめん。しからずはわれ作仏せじ〉と。

ここに紹介されている『大阿弥陀経』と『平等覚経』の御文は、共に、前半が『大無量寿経』の17願で、後半が『大無量寿経』の18願にあたります。
『大無量寿経』18願の「十方衆生」について『大阿弥陀経』では

諸天・人民・蜎飛・蠕動の類

であり、『平等覚経』では

諸天・人民・蠕動の類

と表現されています。人間だけではなく、虫までが含まれています。親鸞聖人が『大阿弥陀経』と『平等覚経』を紹介された理由の1つが、『大無量寿経』18願の「十方衆生」の御心を明らかにすることであったのです。生命のあるもので、洩れているものは皆無なのです。

また、「唯除五逆誹謗正法」に相当するお言葉がありませんので、我々の機が「唯除五逆誹謗正法」ということも否定されます。結局、「唯除五逆誹謗正法」とは『尊号真像銘文』の

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

そのままで、18願には「唯除五逆誹謗正法」というお言葉があるから、18願の「十方衆生」から「五逆誹謗正法」の者も洩れてはいないという意味になるのです。

なお、19願文については、『大阿弥陀経』と『平等覚経』の紹介を親鸞聖人はされていませんが、『大阿弥陀経』と『平等覚経』によれば、19願の対象は、菩薩道を歩む人であり、虫どころか菩薩道を歩めない人も含まれていません。それで19願は我々には関係ない願と親鸞聖人は教えられているのですが、それを『大阿弥陀経』と『平等覚経』で説明すると親鸞会が言ってくる言葉が傑作です。

親鸞聖人は『大阿弥陀経』と『平等覚経』を引用されていない

18願さえも引用をやめた親鸞会の我が身知らずのセリフですが、念のため言っておきますと、親鸞聖人が、19願は聖道門を断念した人のための願、と繰り返し仰っていて、そのように親鸞聖人が解釈をされた根拠が『大阿弥陀経』と『平等覚経』だということです。

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2016年8月19日 (金)

異安心というよりも寧ろオカルトに近い高森顕徹会長

2000畳の正面には、黒板の脇に根拠ボードが8面あり、正本堂建立から暫くは8面全部を聖教の根拠を映し出しても足りず、紙まで使って聖教の根拠を示していました。
その時の高森顕徹会長の心中は、自信に満ち溢れていたことと思います。親鸞聖人や善知識方、経典を読みこなした教学随一の人物と、自分でも錯覚していたでしょう。

ところが高森会長の教学が、偽物だったと明らかになり、それどころか、何一つ知らない単なるパクリ魔だったことが周知の事実になってから、根拠ボードに聖教の根拠が映し出されなくなりました。
現在の高森会長の心中は、自信喪失を通り越して開き直り、何とかの科学の総裁を真似ていると思われます。

親鸞会は、もはやカルトというより、オカルトに近づいているのかもしれません。

そんな高森会長が大好きな、いや大好きだった聖教上の根拠の1つが、『教行信証』信巻の

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

です。

親鸞聖人は信心を獲られて、自分が死ぬと同時に仏の覚りを開くとハッキリ知らされた

という説明をしてきました。これでは信心を獲たら、自分の死後のことが明確に判る智慧を体得することになってしまうのですが、実際はそうではありません。
前回のエントリー同様、これは親鸞聖人の独自の理論です。
七高僧方は仰っていないことだからです。

たとえば曇鸞大師は『浄土論註』で

仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。

と仰っていますが、浄土に往生してから、正定聚に入り、そして仏になるということです。他の方も同じです。

また聖覚法印も『唯信鈔』で

順次生に浄土に生れて、浄土にして菩薩の行を具足して仏に成らんと願ずるなり。この門は末代の機にかなへり。

と言われています。
もし信心獲得したら親鸞聖人が仰ったことをハッキリと知らされるとするなら、七高僧方や聖覚法印は、異安心になります。

このように言うと親鸞会は必ずこのような反論をしてきます。

「まことに知んぬ」と親鸞聖人は仰っているのだから、ハッキリと知らされたことになるではないか

しかし、これこそが親鸞聖人の御著書を読んだことのない証拠になります。
簡単なところから説明すると、まず、

弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。

がもし知らされたなら、仏智を獲たことになるでしょう。弥勒菩薩の成仏の時期は、『菩薩処胎経』に説かれたことを単に信じる以上には判かりようがありません。

それでも

「まことに知んぬ」なんだから

と喚き続けるでしょうから、他の「まことに知んぬ」のお言葉を『教行信証』から紹介すると

「これすなはち真実の行を顕す明証なり。まことに知んぬ、選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行なり、知るべしと。」(行巻)

「まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。」(信巻)

「しかれば大聖の真言、宗師の釈義、まことに知んぬ、この心すなはちこれ不可思議不可称不可説一乗大智願海、回向利益他の真実心なり。これを至心と名づく。」(信巻)

「まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。」(信巻)

「まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。」(信巻)

「しかれば大聖の真言、まことに知んぬ、大涅槃を証することは願力の回向によりてなり。」(証巻)

「まことに知んぬ、これいましこの『経』に顕彰隠密の義あることを。」(化土巻)

以上に共通することは聖教の解釈上での話で、理解できた、の意味です。

結論を言えば、信心を獲たら、今まで知ることのできなかったことを知る智慧を体得すると考えることは間違いだ、ということです。

多くのことが明確に知らされたと公言している高森会長は、異安心というよりも、なんとかの科学の総裁と同じオカルトレベルと言えます。

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2016年8月12日 (金)

どちらが異安心か?

親鸞会は、退会者に対して聖教での反論をすることがなくなってきました。その代わりに投げつける言葉は、「間違った信心」という反論というか決めつけです。高森顕徹会長の嘘と不勉強を、聖教上の御文で証明している退会者に対して反論するなら、聖教上の御文をもってしなければ、そもそも議論が成立しないのですが、その劣勢を根拠のない自信で挽回しているつもりなのでしょう。
本来なら、退会者のことを異安心と決めつける前に、高森会長が親鸞聖人と同じ安心なのか確かめてからにすべきですが、それを絶対にしません。なぜなら、マインドコントロールされていて、高森会長は絶対に正しいと思い込まされているからです。それは親鸞会が邪教と見下している宗教団体の信者と何ら変わりないのですが、そこに気が付くことさえ拒否しているのです。

正しい信心かどうかは、二種深信が立っているかどうかだ

高森会長はいつも言っていましたが、その二種深信の説明が間違っていることは、これまで述べてきましたので、すでに高森会長の異安心が確定しています。反論があるなら、聖教上の二種深信の説明と高森会長の説明が一致していることを説明すればよいだけですが、それはできません。

もう一つの理屈は、退会者が信心の説明で現生十種の益が知らされていないから異安心だというものですが、これも無知の証拠にしかなりません。
現生十種の益を獲ると親鸞聖人が解釈されたことと、現生十種の益を獲たことが実感として判ることとの違いが理解できていないのです。

現生十種の益の中で、最も判りやすいのが入正定聚の益です。

親鸞聖人は、現生において正定聚に入る、と仰っていますが、これは七高僧方の仰っていないことです。七高僧方は、浄土に往生した後に正定聚に入る、と仰っていますので、もし、入正定聚の益を知らされていないことをもって異安心だと言うのであれば、七高僧方は異安心になります。

難しいですが、根拠を挙げて説明します。

『正信偈』にある

成等覚証大涅槃

は、阿弥陀仏の11願で、大経の異訳経である『無量寿如来会』にある御言葉から親鸞聖人が取られたものです。

もしわれ成仏せんに、国のうちの有情、もし決定して等正覚を成り、大涅槃を証せずは、菩提を取らじ

この「国のうちの有情」とは阿弥陀仏の浄土の中の有情です。
つまり、11願は、浄土に往生後、等正覚を成り、大涅槃を証すると誓われたもので、往生後に正定聚に入ることです。

それを曇鸞大師は『浄土論註』で11願を言い換えられて

もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得て、すなはち正定聚に入る

とされています。浄土に往生した後に正定聚に入るの意味です。

これは他の高僧方も同じです。

親鸞聖人は、七高僧方の解釈を踏まえられた上で、往生後に正定聚に入るとしか解釈のしようの無い11願を敢えて現生に解釈なされました。
それを表現されたのが、親鸞聖人が度々なされる漢文の読み替えという方法です。

曇鸞大師の

もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得て、すなはち正定聚に入る

を親鸞聖人は

もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ぜんものと、また往生を得るものとは、すなはち正定聚に入る

と読みかえられました。「生ぜんと願ぜんもの」が「すなはち正定聚に入る」と本来の意を変えられてしまったのです。

親鸞聖人がこのように解釈をなされた理由は、親鸞聖人が信心を獲られて知らされたからではなく、阿弥陀仏の救いはこうでなければ理屈が通らないという親鸞聖人の理論です。

これは真宗学の重要なポイントです。入正定聚を来生とされた七高僧方と、現生とされた親鸞聖人との相違が存在する、つまりは、入正定聚の益が知らされていないから、信心が間違っているということは言えないことになるどころか、そんなことを言うことが異安心の告白です。

今回の内容は、親鸞会の会員はもちろんのこと、信心の定義から間違っている高森会長にも理解しがたいことと思います。

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2016年8月 6日 (土)

パクリで大学者を演じても、聖教を全く読んでいないので簡単にボロを出す高森顕徹会長

何十年と会員を続けてきた人が次々と退会していますが、その陰で、何十年と講師部員を続けてきた人もぽつぽつと退会しています。このブログで法論を取り上げ、言うまでもなく惨敗逃走した元講師部員もその中に含まれています。

何百年に一人の善知識と崇めてはきたものの、人間性も教義も無茶苦茶な高森顕徹会長に絶望して還暦近くで親鸞会を去っていく講師部員の心中は、どのようなものでしょうか。

法論に惨敗した時点で高森会長に見切りをつけていれば、傷も多少は浅くて済んだかもしれませんが、それさえできないようにマインドコントロールされていたのですから、哀れです。

さて、信心決定を摩訶不思議な体験として印象付けるために利用されるのが、二種深信です。しかし、その摩訶不思議な体験をしてもいないのにしたかのように装っているのが、高森会長です。

前回まで、五逆謗法は親鸞聖人の教えを聞いている皆さんのことではないし、機の深信とも無関係だということを、聖教上の根拠を示して、述べてきました。

参考までに機の深信にあたる曇鸞大師のお言葉は、『讃阿弥陀仏偈』にあります。

われ無始より三界に循りて、虚妄輪のために回転せらる。
一念一時に造るところの業、足六道に繋がれ三塗に滞まる。

です。曇鸞大師は、煩悩虚妄の業によって三界をはてしなくめぐり、六道を抜け出せず、三悪道に留まっていることを仰ったのですが、どこをどう読んだら「逆謗の屍」という意味になるのでしょうか?これは曇鸞大師は「逆謗の屍」ではないと否定されたお言葉にしかなりません。

親鸞聖人は善導大師の『往生礼讃』の二種深信を承けられて、『高僧和讃』善導讃で

煩悩具足と信知して
 本願力に乗ずれば
 すなはち穢身すてはてて
 法性常楽証せしむ

と仰っています。親鸞聖人は機の深信を「煩悩具足と信知して」と表現なされています。

善知識方のお言葉を通しても、機の深信とはつまり

煩悩によって輪廻し、自力では出離できない

ということにしかなりません。

逆謗の屍」という言葉は、大沼師からのパクリですが、大沼師は、『高僧和讃』曇鸞讃の

名号不思議の海水は
 逆謗の屍骸もとどまらず
 衆悪の万川帰しぬれば
 功徳のうしほに一味なり

から、「逆謗の屍」と言ったのでしょうが、この御和讃は、五逆罪、謗法罪の人でさえも阿弥陀仏の功徳に包まれたならば、一味平等の世界に入ることができる、と教えられたお言葉です。このお言葉から、全ての人が「逆謗の屍」という解釈にはなりえません。

18願文と二種深信との関係を、大沼師の味わいを鵜呑みにして高森会長は

若不生者不取正覚」=法の深信
唯除五逆誹謗正法」=機の深信

と、まるで大学者を気取って説明していますが、完全な間違いです。二種深信を詳説された存覚上人の『六要鈔』には、

次に深心を釈する中に、「二者」等とは、これ経文を牒す。「深」等というは、能信の相を明かす。「亦有」等とは、所信の事を顕かす。これ則ち機法二種の信心なり。「無有」等とは、正しく有善・無善を論ぜず、自の功を仮らず、出離は偏に他力に在ることを明かす。聖道の諸教は盛んに生仏一如の理を談ず。今の教は自力の功なきことを知るに依りて、偏に仏力に帰す。これに依りて、この信は殊に最要なり。「無疑」等とは、「若不生者不取正覚」、正覚既に成ず、故に無疑という。「即得往生住不退転」一念誤ることなし、故に無慮という。

とあります。二種深信と本願文とを対応して書かれているのは、法の深信と「若不生者不取正覚」だけです。機の深信に対応する本願文については記されていません。
大沼師の味わいを真宗学の基本と勘違いしただけのことです。

聖教を読んだことがない高森会長が大学者を演じようとしても、無理な話です。

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2016年7月24日 (日)

親鸞聖人の仰せを知らず、大沼師の味わいだけが根拠の高森顕徹会長

親鸞聖人の教えを信じている皆さんは、謗法の者でもないし、五逆の者でもありません。親鸞聖人がそのように仰っているのですから、それを覆す理屈などある筈もありません。しかし、そこは無知で邪義満載の高森顕徹会長ですから、親鸞聖人の仰せを平気で否定します。

その理屈の一つは『末灯鈔』ですが、これが断章取義であることは何度も述べてきましたので省略します。もう一つが18願の「唯除五逆誹謗正法」です。高森会長の理屈では、「唯除五逆誹謗正法」が「十方衆生」の実機であり、機の深信だということになっています。本日の講師部講義でも言っていたそうですが、もちろんそんな根拠はありません。

唯除五逆誹謗正法」の直接の解釈は『尊号真像銘文』にしかありません。

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

です。
つまり、18願には「唯除五逆誹謗正法」というお言葉があるから、18願の「十方衆生」から洩れたものはないと仰っているのです。逆にいえば、「唯除五逆誹謗正法」のない19願・20願の「十方衆生」には、洩れているものがいるということです。
要するに、「十方衆生」の中に五逆誹謗正法の者がいるという意味にしかなりません。

では、「唯除五逆誹謗正法」が「十方衆生」の実機、機の深信だというのは、高森会長の創作かといえば違います。そんな高度な創作ができるほどの知恵は高森会長にはないでしょう。
もうお判りかと思いますが、大沼法竜師からのパクリです。
『本派本願寺の危機 どちらが異安心か』にはこのようにあります。

 本願寺の総長を始め勧学のお歴歴から頭の切り替えをやらなければ真宗の復興は望めない。君達は第十八願や成就の文を有難がって見て居るのであって十八願の身になる事を忘れて居るのだ、至心信楽の文に陶酔し、至心に廻向せしめ給えりに酩酊して麻痺状態となり、阿片やヒロポンに中毒されて萎靡沈滞して活動能力を失うて居るのだ、第十八願の文を見て自分は至心信楽己を忘れて乃至十念の称名を称えて居るから死にさえすれば往生に間違いはない、仏様が若し生れささずんば正覚を取らずと仰せられたのが、既に十劫の昔に正覚を成就して居らるるから十劫の昔に助かって居るのだと安心して居るが、君達は文面を見て裏面を読んで居ないのだ。唯除五逆誹謗正法とは誰の事かい、勧学だと威張って居る君達の事だぞ、除かれて居るとも知らずにのさばりかえって居るが、それだから開発の一念を知らないのだ、若不生者不取正覚とは生れさすとは死後の事しか知らないのだろう、心命終を忘れたか、君の逆謗の屍を今心命終ささなければ正覚を投げ出すぞと言うことだよ。成就の文にしても至心に廻向して貰ったか、不可称不可説不可思議の功徳は行者の身に満てりと有るが、三千世界の果報者は自分一人と言う満足が有るか、観念の遊戯だけして居るのだからそんなはっきりした事は有るまい、何を廻向されたか、上に向えば法体の大行、下に向えば当果決定、誰が頂くのだ、諸有衆生、その腹底は、唯除逆謗、おいおい君達、素直に聞いて居ればよいと言うような対岸の火事のような話ではないぞ、君が邪見驕慢の逆謗の屍ではないか、その機に久遠劫から付き纏い、至心に廻向し給いいて聞即信の一念に法体の大行を全領し同時に住不退転の当果を決定さして頂くのだが、文面を読んで眺めて通って居るのだから何とも有るまい、これが実地に諦得出来たのなら信前信後の水際鮮かに今こそ明らかに知られたりと大慶喜せずには居られないのだ、その初起の一念を信一念と名前を付けるのだ、時尅に何の関係が有るのだ、味に用事が有るのだ、本当に大満足の出来た人なら実時は判らないが仮時ならあの時であったと言えるのだ、君達にはあの時もこの時もないのだ、御経やお聖教を読んで通って見て感じただけだから自分の実機とは無関係だから観念の遊戯に過ぎないのだ、勧学で有りながら実地の体験がないのだから、晴れたのやら暮れたのやら、水際もなければ角目もない、……

当時の本願寺勧学を批判した内容です。当然ながら、大沼師の味わいであり、聖教上に根拠のあることではありません。

高森会長は、大沼師の独特の味わいと聖教の内容との区別が全くついていません。なぜなら、聖教を読んだことがないからです。

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2016年7月10日 (日)

五逆罪の定義についても当然知らない高森会長

謗法罪に続いて、親鸞聖人は『教行信証』信巻の最後に、五逆罪の解釈をなされています。

一つには三乗の五逆なり。いわく、一つにはことさらに思いて父を殺す、二つにはことさらに思いて母を殺す、三つにはことさらに思いて羅漢を殺す、四つには倒見して和合僧を破す、五つには悪心をもって仏身より血を出だす。

意味は、

三乗の五逆罪(通仏教の五逆罪)について、
 一.故意に父を殺す
 二.故意に母を殺す
 三.故意に阿羅漢を殺す
 四.間違った考えを起こして教団を乱す
 五.悪い心を抱いて仏身を傷つけて血を流す

と仰っています。
阿闍世は父を殺していますが、釈尊が阿闍世に仰ったことは、一番目の故意に父を殺すことに当たるのかどうかも微妙な表現でした。いずれにしましても、五逆罪の親殺しとはあくまで”故意に”ですから、極めて限定された人しか造らない罪です。一般の人が造る罪ではないといえます。
曇鸞大師、善導大師が仰っておられる五逆罪は、これです。また、法然上人が「正如房へ遣わす御文」に、

五逆十悪の重き罪造りたる悪人なお十声一声の念仏によりて往生しそうらわんに、まして罪造らせおわします御事は何事かそうろうべき。
たといそうろうべきにても幾程の事かはそうろうべき。
この『経』に説かれてそうろう罪人にはいい比ぶべくやはそうろう。

と書いておられます。「五逆十悪の重き罪造りたる悪人」と比較して、貴方はどんな罪を造っているというのか、と仰っておられますので、罪を造っているという点において、人には明らかな優劣があることを語られたのです。

また法然上人は『往生大要鈔』の中で、

われら罪業重しと云へども、いまだ五逆をばつくらず

と仰り、聖覚法印は『唯信鈔』

われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず

と書かれています。

五逆罪といえば、これが通仏教での定義であり、浄土宗でも通仏教の定義そのままです。

『教行信証』信巻ではこの後、

この逆を執する者は、身壊れ命終えて、必定して無間地獄に堕して、一大劫の中に無間の苦を受けん、「無間業」と名づくと。

と解説なされています。五逆罪を造ったものは、無間地獄に堕ちると教えられていますが、実際にこの罪を造っている人は、極めて稀ですので、無間地獄に堕ちる人も、極めて少数の人になります。

曇鸞大師、善導大師、法然上人、聖覚法印は、通仏教での五逆罪をそのまま承けられていて、親鸞聖人も当然、同じ定義でしか五逆罪を語られていません。

全人類が五逆罪を造っているという説明を親鸞聖人がされた箇所はもちろんありません。

聖教を読んだことのない高森顕徹会長には関係ない話でしょうけど。

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2016年6月28日 (火)

謗法罪の定義さえ知らない親鸞会を非難攻撃したら謗法罪になりますか?

相手にされていない本願寺に対しては、未だに”打倒本願寺”のスローガンを掲げて、金集めに余念のない親鸞会ですが、親鸞会を攻撃する退会者には、ダンマリを決め込んで、教義論争には手も足も出ないというのが現実です。それに薄々気が付いて戸惑っている会員も少なからずいます。

その対策として、親鸞会を攻撃することを謗法罪と会員に刷り込んでいるのですが、謗法罪の定義が真宗とも通仏教とも異なっているのが親鸞会です。

前回書きましたように、謗法罪とは「無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法」と考える人のことを指すのですが、その程度のことさえ聞いたことのないのが高森顕徹会長です。

親鸞聖人は、謗法の者が救われることはあり得ないと曇鸞大師が仰ったことを承けられて、善導大師の『法事讃』のお言葉を信巻に引かれています。

仏願力をもつて、五逆と十悪と罪滅し生ずることを得しむ。謗法・闡提、回心すればみな往く。

(現代語訳)

この本願のはたらきにより、五逆や十悪のものの罪を滅して往生を得させてくださるのである。謗法のものや一闡提であっても、心をひるがえして如来の本願を信じれば、みな往生することができる。

高森邪義に毒されていると理解できないかもしれませんが、五逆・十悪の者と、謗法・闡提の者とは救われ方が違うのです。判り易く言うと五逆・十悪の者は、そのまま救われますが、謗法・闡提の者は謗法・闡提のまま救われるのではなく、「回心」という心を入れ替えて謗法・闡提でなくなって救われるということです。
曇鸞大師のお言葉と併せれば、簡単な内容ですが、「回心」を獲信と理解すると訳が判らなくなります。ここでの「回心」は「無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法」という謗法・闡提を懺悔して仏教を信じる仏教徒になり、しかも18願を信じるということを意味します。

参考までに『往生要集』にはこうあります。

 問ふ。 不信のもの、なんの罪報をか得る。
答ふ。
『称揚諸仏功徳経』の下巻にのたまはく、「それ、阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀するものは、五劫のうちに、まさに地獄に堕して、つぶさにもろもろの苦を受くべし」と。
 問ふ。 もし深信なくして疑念をなすものは、つひに往生せざるや。
答ふ。
まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるものは、理として生るべからず。 もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。(後略)

(現代語訳)

 問う。 信じない者は、 どのような罪の報を得るのであるか。
 答える。 ≪称揚諸仏功徳経≫ の下巻に説かれている。
もし、 阿弥陀仏の名号の功徳を讃めたたえることを信じないで、 謗り毀つ者があるならば、 五劫のあいだ地獄に堕ちて、 つぶさにもろもろの苦を受けねばならぬ。
 問う。 もし深心がなくて、 疑念を生ずる者は、 結局往生できないのであるか。
 答える。 もし、 全く信ぜず、 往生の業を修めず、 浄土を願い求めない者は、 道理として往生するはずがない。 しかしながら、 もし仏智を疑うけれども、 それでもやはり、 かの浄土に生まれたいと願い、 往生の業を修める者は、 これもまた往生することができるのである。(後略)

簡単に言うと

謗法の者は地獄に堕ちる。
謗法ではないが、浄土を願い求めない者は、往生できない。
浄土を願い求めていながらも仏智を疑っている者は、(化土)往生できる。

ということです。
謗法の定義が根本的に狂っているのが親鸞会だと理解できたでしょうか。

現会員はよく考えてください、高森会長の言っていることは仏教と言えますか。

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2016年6月21日 (火)

謗法罪の定義さえ知らない高森顕徹会長

幸福の何とかという宗教団体の真似をして映画館でアニメを上映したものの、その程度の評価しか受けていないのは予想通りで、会員歴の長い会員も呆れて、親鸞会を辞めていく人も出ている程です。

前回まで述べてきたように、親鸞聖人は阿闍世の獲信の物語を長々と紹介されましたが、その後に、阿闍世の造った五逆罪の定義と、18願で除かれているもう一つの罪である謗法罪の定義について解説をされています。

信巻で『往生論註』を引かれています。

 問うていはく、たとひ一人は五逆罪を具して正法を誹謗せざれば、経に得生を許す。また一人ありてただ正法を誹謗して、五逆もろもろの罪なきもの往生を願ぜば、生を得るやいなやと。
 答へていはく、ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ。なにをもつてこれをいふとならば、『経』にいはく、〈五逆の罪人、阿鼻大地獄のなかに堕して、つぶさに一劫の重罪を受く。誹謗正法の人は阿鼻大地獄のなかに堕して、この劫もし尽くれば、また転じて他方の阿鼻大地獄のなかに至る。かくのごとく展転して百千の阿鼻大地獄を経〉と。仏、出づることを得る時節を記したまはず。誹謗正法の罪、極重なるをもつてのゆゑなり。また正法はすなはちこれ仏法なり。この愚痴の人、すでに誹謗を生ず、いづくんぞ仏土に願生するの理あらんや。たとひただかの安楽に 生ぜんことを貪じて生を願ぜんは、また水にあらざるの氷、煙なきの火を求めんがごとし。あに得る理あらんやと。

(現代語訳)

 問うていう。経には、ある人がたとえ五逆の罪を犯しても、正しい法を謗らないなら往生することができるとある。では、ただ正しい法を謗るだけで、五逆などの罪を犯さないものが浄土の往生を願うなら、往生することができるのであろうか。
 答えていう。ただ正しい法を謗るだけで、他に罪は何一つなくても、決して往生することはできない。なぜかといえば、経に、<五逆の罪を犯した人は無間地獄に堕ちて、一劫の間その重い罪の報いを受ける。正しい法を謗った人は無間地獄に堕ちて、一劫が尽きると、また続いて他の無間地獄に堕ちる。このようにして次々と、数多くの無間地獄をめぐるのである>と説かれていて、仏はこの人がいつ地獄から出ることができるのかを明らかにされていない。それは、正しい法を謗る罪がもっとも重いからである。また正しい法というのは、すなわち仏法である。この愚かな人は、すでに仏法を謗っているのであるから、どうして仏の浄土の往生を願うはずがあろうか。たとえ、浄土は安楽なところだから生れたいという貪りの心で往生を願っても、その願いは、水でない氷や煙の出ない火を求めるのと同じであって、往生することができるはずはないのである。

親鸞会の会員にとっては、目から鱗が落ちるような内容かもしれません。
簡単に言えば、

五逆罪を造って、謗法罪を造っていないなら救われる。
五逆罪を造らず、謗法罪を造っているなら救われない。
その理由は、謗法罪を造っている者は、往生を願わないから。
たとえ往生を願っているといっても、浄土で楽がしたいという気持ちなら往生できない。

ということです。

ここから親鸞会の邪義がいくつか明白になります。

五逆罪と謗法罪は、造っている人もあれば、造っていない人もある。
謗法罪を造っている人は決して救われないので、謗法罪を造っているまま救われることはあり得ない。
絶対の幸福だとかいう幻想的な楽を追い求めている人は救われない。

高森顕徹会長の言っていることと、曇鸞大師、親鸞聖人の仰っていることがまるっきり反対なので、会員は信じられないと思いますが、これが現実です。

では謗法罪とは何かということについて、この後このようにあります。

 問うていはく、なんらの相か、これ誹謗正法なるやと。
 答へていはく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。

(現代語訳)

 問うていう。正しい法を謗るとは、どのようなことをいうのか。
 答えていう。仏もなく仏の教えもなく、菩薩もなく菩薩の教えもないというような考えを、自分自身でおこしたり、他の人に教えられて、その通りと心に定めることを、みな正しい法を謗るというのである。

これも簡単に言えば、

謗法罪とは、仏教を信じることなく否定すること。

要するに異教徒のことを謗法罪の人というのです。

異教徒は往生を願いませんから異教徒のままで救われることはあり得ないのは筋の通った話です。
全人類が謗法の者という話は、親鸞聖人の教えからはあり得ないのです。

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2016年6月 8日 (水)

親鸞聖人が最重要視されたのに高森会長が全く知らない阿闍世の体験7

高森顕徹会長は自分の過去の説法内容を否定し、聖教の根拠も使わずに、当たり障りのない話に限定して説法をしている状態です。

ビデオ法話を無くし、無常の虎の話も、二河白道の譬えも、その他高森会長のお得意の話は今ではほとんど聞くことができません。

高森会長は判っているのです、自分は親鸞聖人の教えとは関係のない話を今までしてきたということを。それなのに、現会員は未だに高森会長のことを無二の善知識と思っているので、哀れとしか言い様がありません。

さて、阿弥陀仏の18願とは、過去に善をしたこともない五逆の下品下生の者が救われるという、聖道門の論理からは到底理解しえないことです。その実例を親鸞聖人は『涅槃経』にある阿闍世で示されています。

一応言っておきますが、韋提希は親を殺してはいませんので、五逆の者ではありません。阿闍世は父親を殺していますので、五逆の者です。
したがいまして韋提希の獲信について親鸞聖人が紹介説明されていたとしても、下品下生の者が往生することの証明にはなりません。それで、聖道門の経典である『涅槃経』から下品下生の者である阿闍世を親鸞聖人は取り上げられているのです。

なお、親鸞聖人は韋提希の獲信の経緯、求道の道程については、全く言及がありません。言及しても大した意味をなさないとのお考えであったと想像されます。

前置きが長くなりましたが、これまで釈尊は阿闍世に対して、地獄に堕ちないという説明ばかりをされています。地獄に堕ちる説明ばかりする高森会長とは正反対です。
釈尊から地獄に堕ちない理由について懇切丁寧に聞かされて、阿闍世は獲信します。その時の言葉が、親鸞聖人の教えの真髄です。

世尊、われ世間を見るに、伊蘭子より伊蘭樹を生ず。伊蘭より栴檀樹を生ずるをば見ず。われいまはじめて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る。
伊蘭子はわが身これなり。栴檀樹はすなはちこれわが心、無根の信なり。
無根とは、われはじめて如来を恭敬せんことを知らず、法僧を信ぜず、これを無根と名づく。

(現代語訳)

世尊、世間では、伊蘭の種からは悪臭を放つ伊蘭の樹が生えます。伊蘭の種から芳香を放つ栴檀の樹が生えるのを見たことはありません。わたしは今はじめて伊蘭の種から栴檀の樹が生えるのを見ました。伊蘭の種とはわたしのことであり、栴檀の樹とはわたしの心におこった無根の信であります。無根とは、わたしは今まで如来をあつく敬うこともなく、法宝や僧宝を信じたこともなかったので、これを無根というのであります。

とあります。
無根の信」とは、仏法を信じることも求めることもなかったところに生じた信心、ということです。信を生ずる根拠のないことを表した言葉です。言い換えると、無善で信心を頂くのが、18願の真実信心、本願力回向の信心だということで、ここが親鸞聖人の教えの真髄になります。

阿闍世が知らされたことは、

命がけで善をしようとしたが、一つの善もできない者

ではなく、

一つの善もしてこなかったし、しようとも思わなかった者

ということです。
釈尊は阿闍世に善を勧められてもいません。

当たり前のことで、『大無量寿経』『観無量寿経』共に下輩は善を勧められることもすることもなく往生すると説かれているのですから、浄土門では基本中の基本が、

無善で往生できるのが阿弥陀仏の18願

なのです。

理由は
信心は阿弥陀仏から頂くものなので善の有無は無関係
なのです。

ここまで言えばお判りでしょうが、18願に救われるのに、三願転入する必要もなければ、過去世現在世の善根も不要だということです。

高森会長がどんなに隠して修正をしても、

親鸞聖人のみ教えに善の勧めはある

を撤回できませんので、高森会長と親鸞会は真宗界の笑い者として代々語り継がれるでしょう。

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2016年5月31日 (火)

親鸞聖人が最重要視されたのに高森会長が全く知らない阿闍世の体験6

退会者にとって映画の評判は酷いものですが、現会員にとっては有難いものと受け取っている人も多いようです。中には冷やかに見ている現会員もいます。
幸福の科学が映画を公開した時と、手法は同じですので、この映画で親鸞会に良い変化が起きることはないでしょう。親鸞会は益々追い込まれていくだけです。

阿闍世の続きです。

大王、たとへば涅槃は有にあらず、無にあらずしてまたこれ有なるがごとし。殺もまたかくのごとし。非有・非無にしてまたこれ有なりといへども、慚愧の人はすなはち有にあらずとす。無慚愧のものはすなはち無にあらずとす。果報を受くるもの、これを名づけて有とす。空見の人はすなはち有にあらずとす。有見の人はすなはち無にあらずとす。有有見のものはまた名づけて有とす。なにをもつてのゆゑに、有有見のものは果報を得るがゆゑに。無有見のものはすなはち果報なし。常見の人はすなはち非有とす。無常見のものはすなはち非無とす。常常見のものは無とすることを得ず。なにをもつてのゆゑに、常常見のものは悪業の果あるがゆゑに、このゆゑに常常見のものは無とすることを得ず。この義をもつてのゆゑに、非有・非無なりといへども、しかもまたこれ有なり。大王、それ衆生は出入の息に名づく。出入の息を断つ、ゆゑに名づけて殺とす。諸仏、俗に随ひて、また説きて殺とす

(現代語訳)

王よ、 またたとえば、 涅槃が有でもなく無でもなくて、 しかも有であるようなものである。 殺害もまた同じであり、 有でもなく無でもなくて、 しかも有なのである。 慚愧の心がある人には有ではなく、 慚愧の心がない人には無ではないのであって、 その報いを受ける人からいえば有なのである。 また、 すべては空であると知った人には有ではなく、 すべては有であると考える人には無ではないのであって、 この有の考えにとらわれた人からいえば有なのである。 なぜかというと、 有の考えにとらわれた人は報いを受けるからである。 有の考えにとらわれない人は報いを受けない。 また、 涅槃が変ることなく存在していることをさとっている人には有ではなく、 それをさとらない人には無ではないのであって、 涅槃が変ることなく存在していることにとらわれている人からいえば無であるとすることはできない。 なぜかというと、 変ることなく存在していることにとらわれている人には悪い行いの報いがあるからである。 だから、 涅槃が変ることなく存在していることにとらわれている人からいえば無であるとすることができないのである。 このようなわけで、 有でもなく無でもなくて、 しかも有なのである。 王よ、 衆生とは呼吸するもののことである。 呼吸を断つから殺害というのである。 衆生の本来は空であるから殺害も空であるが、 仏がたも世間の考え方に合せて、 殺害と説くのである。

ここも非常に難しい内容です。

釈尊がここで仰っていることは、「空」の思想による罪の説明です。「空」とは、固定的な実体がないことをいいます。罪についても、固定不変的な実体として捉えるのは間違いということです。高森顕徹会長は世間的な考えに合わせて、因果の道理から罪に対する悪果ばかりを強調しますが、仏教では「空」で説かれます。ここでは慚愧の心を発した阿闍世にとっては、父殺しの五逆罪が、そのまま無間地獄に堕ちるという固定的なものではない、と教えられています。

このことを『正像末和讃』には

罪業もとよりかたちなし
 妄想顛倒のなせるなり
 心性もとよりきよけれど
 この世はまことのひとぞなき

(現代語訳)

罪業はもともと形がないものであって、
誤った想いや常に変化して持続しない想いによるものです。
人間の本性は本来清らかであるけれども、
今のこの世に真実の心を持った人はいないのです。

と教えられています。罪にはもともと形があるのではなく、妄想顛倒によって、固定的なものと捉えているだけだと仰っています。

ところが高森会長は罪業を強調することで、それが固定不変な悪果をもたらすと脅しているのですから、高森会長が単に無知だということです。

釈尊が阿闍世に説かれたことは、簡単に言えば、

阿闍世が地獄に堕ちない理由

です。

一方、高森会長が言っていることは

すべての人が地獄に堕ちる理由

です。

これで、高森会長の脅し教義が仏教でも真宗でもないことを、現会員が理解できたのなら、退会は近いでしょうが、釈尊と親鸞聖人のお言葉を軽視する現会員は、一生このままかもしれません。

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