2016年9月24日 (土)

念仏誹謗の解釈しかしていない高森顕徹会長

阿弥陀仏の18願さえまともに学んだり、調べたこともないのが、高森顕徹会長です。高森会長が18願を言い換えていつも言っているのが、

どんな人をも 必ず助ける 絶対の幸福に

ですが、頓珍漢な内容です。創価学会用語の絶対的幸福を用いていること自体が、すでに他宗、他教の教えになっている証拠です。

前々回、善導大師の18願の言い換えを紹介しましたが、親鸞聖人も御自身のお言葉で、18願を言い換えられた所があります。

『末灯鈔』に

念仏往生と信ずる人は、辺地の往生とてきらはれ候ふらんこと、おほかたこころえがたく候ふ。そのゆゑは、弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき。このやうをよくよく御こころえ候うて御念仏候ふべし。

(現代語訳)

念仏して往生すると信じる人が、 辺地といわれる方便の浄土に往生するなどと嫌われるようなことは、 まったく理解できません。 なぜなら、 阿弥陀仏の本願は、 名号を称える人を極楽浄土へ迎えようとお誓いになっているのですから、 そのことを深く信じて名号を称えるのが尊いことなのです。 信心があるといっても、 名号を称えないようなら、 それは意味のないことです。 また、 ひとすじに名号を称えても、 信心が浅いようなら往生することはできません。 ですから、 念仏して往生すると深く信じて、 しかも名号を称える人は、 間違いなく真実の浄土に往生するのです。 結局のところ、 名号を称えるといっても、 本願他力を信じないようなら辺地に生れることでしょう。 本願他力を深く信じる人が、 どうして辺地に往生するようなことになるでしょうか。 このことをよく心得て、 念仏しなければなりません。

とあります。「弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。」の部分です。また、「念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。」とも仰っています。
18願とは、信心と念仏が揃って往生する、ということです。親鸞聖人は、往生と表現されているだけで、絶対の幸福らしきお言葉は存在しません。

重要なのは、信心の説明です。「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じて」ですから、念仏は信心のオマケでも付録でもありません。
18願文の「乃至十念」をお礼の念仏としか説明していないし、高森会長自身もそう考えていることが、他宗、他教の者だということです。

親鸞聖人は18願のことを念仏往生の願と仰っているのですから、「乃至十念」の念仏が、信後の報謝の念仏に限るなどとは言える筈もないです。
信心正因称名報恩を誤解している無知な高森会長ですが、もう一度いいますと信心とは、「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じて」ですし、念仏往生なので、信心と念仏とは不可分です。

親鸞会では、念仏を称えて往生すると言う人は、間違いであり、必堕無間だと創価学会と同じ念仏誹謗をいいますが、それは親鸞聖人が間違いを指摘された、「念仏往生と信ずる人は、辺地の往生とてきらはれ候ふらんこと、おほかたこころえがたく候ふ。」を遥かに超えたトンデモ邪義です。

親鸞会にしか真実は教えられていない、と考えるマインドコントロールされている会員には、親鸞会には真実のかけらも教えられていない、と早く気付いてもらいたいものです。

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2016年9月13日 (火)

真実の信心を教えられた親鸞聖人、他教の信心を教える高森顕徹会長

『宗教問題15』につきましては、すでに読まれた方もあると思います。この中で高森顕徹会長が最も知られたくない内容は、本願寺との法論が実際どうであったのかでしょう。
親鸞会は、本願寺に勝った、と執拗に宣伝してきましたが、事実は全く違っています。言わば、反社会的組織からの嫌がらせにうんざりして、反社会的組織から距離をおいた、こういうことです。
当時も今も、親鸞会は法論での負けが見えてくると持ち出すのが、真実の信心です。真実の信心は高森会長の専売特許、との痛い勘違いから、喜劇を見せてくれます。紅楳英顕師の法話中に信心を獲たか詰問して、それに対する紅楳師の信心決定宣言に逃げ帰ったことなどは、その典型でしょう。

では、高森会長の説明する真実信心が、親鸞聖人のお言葉と一致しているかと言えば、当然相違しています。

高森会長が、18願の「若不生者」の「」を信楽に生まれると言い続けて恥をかいたのは、周知の事実ですが、その信楽の説明さえも間違っています。

高森会長の信楽の解釈と言えば、

大安心、大満足、絶対の幸福

とか創価学会的な説明になっていますが、親鸞聖人の説明は違います。
『教行信証』信巻の信楽釈は、

しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。
一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。
また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。
如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。

(現代語訳)

ところで、 はかり知れない昔から、 すべての衆生はみな煩悩を離れることなく迷いの世界に輪廻し、 多くの苦しみに縛られて、 清らかな信楽がない。 本来まことの信楽がないのである。 このようなわけであるから、 この上ない功徳に遇うことができず、 すぐれた信心を得ることができないのである。
すべての愚かな凡夫は、 いついかなる時も、 貪りの心が常に善い心を汚し、 怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。 頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、 それはすべて煩悩を離れずに修めた自力の善といい、 嘘いつわりの行といって、 真実の行とはいわないのである。 この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、 決して生れることはできない。
なぜかというと、 阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、 その身・口・意の三業に修められた行はみな、 ほんの一瞬の間に至るまで、 どのような疑いの心もまじることがなかったからである。 この心、 すなわち信楽は、 阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、 必ず真実報土にいたる正因となるのである。

如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、 この上ない功徳をおさめた清らかな信を、 迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。 これを他力の真実の信心というのである。

とあります。
親鸞会でも使うお言葉が含まれているので、高森会長は親鸞聖人の解釈を正しく伝えていると錯覚しがちですが、意味は違います。

親鸞聖人がここで仰っていることは、

凡夫には阿弥陀仏の報土に生まれることができるような善はできない。
それで阿弥陀仏が修行なされて、凡夫の代わりに報土に生まれる因をすべて作られてわれらに与えてくださった。
それを真実の信心という。

ということです。二種深信と同じですが、重要なことは、阿弥陀仏のなされた修行による因でわれらが報土往生できるということです。

高森会長も同じ説明をしていると思考停止会員は反論するでしょうが、高森会長の説明は親鸞聖人の仰せとは全く違います。

報土往生の因は、100%阿弥陀仏が用意して下されたものなので、われらの方で何かすることは不要なのです。もっと言えば、報土往生のために何かしてはいけないのです。

善をするとか19願を通るとかの考えは論外ですが、聴聞という行をしていかなければならないというのも間違いです。聴聞とは、

報土往生の因は、100%阿弥陀仏が用意して下されたものなので、われらの方で何かすることは不要なのです。もっと言えば、報土往生のために何かしてはいけないのです。

と聞いて疑いのないことです。
高森会長の話を正しく聞いて真実の信心が獲られることはあり得ません。高森会長の話を間違って聞けば真実の信心を獲られる可能性はあります。

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2016年9月 6日 (火)

思い込みが激しく勘違い連発の高森顕徹会長の18願解釈

『宗教問題15』について、いくつかのブログで取り上げられていますので、皆さんすでに御存知のことと思います。事の顛末についてはそちらを読んで頂ければ結構ですが、ここから判ることは、高森顕徹という人物が、如何に思いこみが激しく、勘違いの連続で、状況判断が全くできず、先を読む能力が欠落しているということです。

これまでの親鸞会の運営についてもそうですし、教義についてもそのまま当てはまります。大沼法竜師の著書を読んで、聖教に書かれていない味わいを、教義の真髄のように思いこみ、宿善や三願転入についても、親鸞聖人における善の位置づけを完全に勘違いし、本願寺との法論では状況判断ができないことから法論に勝ったつもりになり、退会者との法論で負け続けた悔しさから書いた『なぜ生きる2』が悲惨な状況になることさえ見通すことができないのです。

思いこみ教義の典型が18願の「唯除五逆誹謗正法」といえます。

高森顕徹会長は、18願が大事と言いながら、18願をまともに学んだことも調べたこともないことは、聖教を調べると簡単に判ります。

法然上人の著された『選択本願念仏集』に、18願文を引用された箇所があります。

 『無量寿経』の上にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽して、わが国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、もし生ぜずといはば、正覚を取らじ」(第十八願)と。
 『観念法門』に上の文を引きていはく、「もしわれ仏にならんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名号を称すること下十声に至らんに、わが願力に乗りて、もし生ぜずは、正覚を取らじ」と。
 『往生礼讃』に同じき上の文を引きていはく、「〈もしわれ仏にならんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ〉と。かの仏いま現に世にましまして仏になりたまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生することを得」と。

気付かれたかと思いますが、法然上人は18願文で、「唯除五逆誹謗正法」を省略されています。法然上人が引用されている善導大師の2文は、善導大師が18願を言い換えられたものですが、共に「唯除五逆誹謗正法」に当たる部分がありません。

これが何を意味するかを常識的に考えれば、18願を解釈する上で「唯除五逆誹謗正法」について省略しても問題がないということです。つまりは、18願での救いを求めている一般の人には、「唯除五逆誹謗正法」は関係ないということになります。

参考までに、現在の中国でも浄土系の寺院では当然ながら阿弥陀仏の本願は重要視されていますが、18願文を紹介する際に「唯除五逆誹謗正法」を省略していることがあります。善導大師の影響なのかどうか、その理由は判りませんが、中国でも「唯除五逆誹謗正法」はその程度の位置付けだということです。

ところが大沼師が「唯除五逆誹謗正法」を我々の実機と表現したことから、高森会長はそれをそのまま鵜呑みにしてしまったという経緯です。大沼師は聖教上の根拠を示しての解釈ではないので、単なる味わいであったのですが、それを高森会長が思いこみと勘違いで何の疑問も持たずに60年間布教してきたというおめでたい話です。

こんな低級善知識に振り回され、頑なに信じよう信じようとしている健気な会員が哀れでなりません。

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2016年8月29日 (月)

18願文までも捨てた高森顕徹会長

高森顕徹会長が、聖教上の根拠を出さなくなった象徴が、18願文です。数年ほど前までは、毎回のように18願文を出して、”18願文は漢字36文字”とのどうでもいい説明から始まって、18願文を一通り説明したものです。ところが最近では、”18願は漢字ばかりで難しいから”という理由で、18願文を出さなくなっています。

18願文を捨てた時点で、親鸞聖人の教えとの決別と言えるのですが、高森会長がなぜここまで聖教の御文を避けるようになったのかを、会員は考えてほしいものです。
理由は単純なことで、高森会長は批判に怯えているからです。

聖教の御文を出して説明すると、その解釈の根本的な間違いを指摘され、反論できないことを繰り返してきたので、高森会長も学習したのです。批判回避の最高の手段が、聖教の御文を出さないこと。

小心者の高森会長らしい対応ですが、そのことに気が付きながら高森会長を見限れない講師部員もみじめです。

さて、親鸞会では説明できない18願文について、説明をしておきます。

親鸞聖人は『大無量寿経』の異訳経を『教行信証』に引用されています。行巻には『大阿弥陀経』と『平等覚経』があります。

 『仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』[『大阿弥陀経』といふ、『二十四願経』といふ]にのたまはく、「第四に願ずらく、〈それがし作仏せしめんとき、わが名字をもつてみな、八方上下、無央数の仏国に聞かしめん。みな諸仏おのおの比丘僧大衆のなかにして、わが功徳・国土の善を説かしめん。諸天・人民・蜎飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。この願を得ずは、つひに作仏せじ〉」と。{以上}

 『無量清浄平等覚経』の巻上にのたまはく、「〈われ作仏せんとき、わが名をして、八方上下、無数の仏国に聞かしめん。諸仏おのおの弟子衆のなかにして、わが功徳・国土の善を嘆ぜん。諸天・人民・蠕動の類、わが名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、わが国に来生せしめん。しからずはわれ作仏せじ〉と。

ここに紹介されている『大阿弥陀経』と『平等覚経』の御文は、共に、前半が『大無量寿経』の17願で、後半が『大無量寿経』の18願にあたります。
『大無量寿経』18願の「十方衆生」について『大阿弥陀経』では

諸天・人民・蜎飛・蠕動の類

であり、『平等覚経』では

諸天・人民・蠕動の類

と表現されています。人間だけではなく、虫までが含まれています。親鸞聖人が『大阿弥陀経』と『平等覚経』を紹介された理由の1つが、『大無量寿経』18願の「十方衆生」の御心を明らかにすることであったのです。生命のあるもので、洩れているものは皆無なのです。

また、「唯除五逆誹謗正法」に相当するお言葉がありませんので、我々の機が「唯除五逆誹謗正法」ということも否定されます。結局、「唯除五逆誹謗正法」とは『尊号真像銘文』の

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

そのままで、18願には「唯除五逆誹謗正法」というお言葉があるから、18願の「十方衆生」から「五逆誹謗正法」の者も洩れてはいないという意味になるのです。

なお、19願文については、『大阿弥陀経』と『平等覚経』の紹介を親鸞聖人はされていませんが、『大阿弥陀経』と『平等覚経』によれば、19願の対象は、菩薩道を歩む人であり、虫どころか菩薩道を歩めない人も含まれていません。それで19願は我々には関係ない願と親鸞聖人は教えられているのですが、それを『大阿弥陀経』と『平等覚経』で説明すると親鸞会が言ってくる言葉が傑作です。

親鸞聖人は『大阿弥陀経』と『平等覚経』を引用されていない

18願さえも引用をやめた親鸞会の我が身知らずのセリフですが、念のため言っておきますと、親鸞聖人が、19願は聖道門を断念した人のための願、と繰り返し仰っていて、そのように親鸞聖人が解釈をされた根拠が『大阿弥陀経』と『平等覚経』だということです。

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2016年8月19日 (金)

異安心というよりも寧ろオカルトに近い高森顕徹会長

2000畳の正面には、黒板の脇に根拠ボードが8面あり、正本堂建立から暫くは8面全部を聖教の根拠を映し出しても足りず、紙まで使って聖教の根拠を示していました。
その時の高森顕徹会長の心中は、自信に満ち溢れていたことと思います。親鸞聖人や善知識方、経典を読みこなした教学随一の人物と、自分でも錯覚していたでしょう。

ところが高森会長の教学が、偽物だったと明らかになり、それどころか、何一つ知らない単なるパクリ魔だったことが周知の事実になってから、根拠ボードに聖教の根拠が映し出されなくなりました。
現在の高森会長の心中は、自信喪失を通り越して開き直り、何とかの科学の総裁を真似ていると思われます。

親鸞会は、もはやカルトというより、オカルトに近づいているのかもしれません。

そんな高森会長が大好きな、いや大好きだった聖教上の根拠の1つが、『教行信証』信巻の

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

です。

親鸞聖人は信心を獲られて、自分が死ぬと同時に仏の覚りを開くとハッキリ知らされた

という説明をしてきました。これでは信心を獲たら、自分の死後のことが明確に判る智慧を体得することになってしまうのですが、実際はそうではありません。
前回のエントリー同様、これは親鸞聖人の独自の理論です。
七高僧方は仰っていないことだからです。

たとえば曇鸞大師は『浄土論註』で

仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。

と仰っていますが、浄土に往生してから、正定聚に入り、そして仏になるということです。他の方も同じです。

また聖覚法印も『唯信鈔』で

順次生に浄土に生れて、浄土にして菩薩の行を具足して仏に成らんと願ずるなり。この門は末代の機にかなへり。

と言われています。
もし信心獲得したら親鸞聖人が仰ったことをハッキリと知らされるとするなら、七高僧方や聖覚法印は、異安心になります。

このように言うと親鸞会は必ずこのような反論をしてきます。

「まことに知んぬ」と親鸞聖人は仰っているのだから、ハッキリと知らされたことになるではないか

しかし、これこそが親鸞聖人の御著書を読んだことのない証拠になります。
簡単なところから説明すると、まず、

弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。

がもし知らされたなら、仏智を獲たことになるでしょう。弥勒菩薩の成仏の時期は、『菩薩処胎経』に説かれたことを単に信じる以上には判かりようがありません。

それでも

「まことに知んぬ」なんだから

と喚き続けるでしょうから、他の「まことに知んぬ」のお言葉を『教行信証』から紹介すると

「これすなはち真実の行を顕す明証なり。まことに知んぬ、選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行なり、知るべしと。」(行巻)

「まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。」(信巻)

「しかれば大聖の真言、宗師の釈義、まことに知んぬ、この心すなはちこれ不可思議不可称不可説一乗大智願海、回向利益他の真実心なり。これを至心と名づく。」(信巻)

「まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。」(信巻)

「まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。」(信巻)

「しかれば大聖の真言、まことに知んぬ、大涅槃を証することは願力の回向によりてなり。」(証巻)

「まことに知んぬ、これいましこの『経』に顕彰隠密の義あることを。」(化土巻)

以上に共通することは聖教の解釈上での話で、理解できた、の意味です。

結論を言えば、信心を獲たら、今まで知ることのできなかったことを知る智慧を体得すると考えることは間違いだ、ということです。

多くのことが明確に知らされたと公言している高森会長は、異安心というよりも、なんとかの科学の総裁と同じオカルトレベルと言えます。

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2016年8月12日 (金)

どちらが異安心か?

親鸞会は、退会者に対して聖教での反論をすることがなくなってきました。その代わりに投げつける言葉は、「間違った信心」という反論というか決めつけです。高森顕徹会長の嘘と不勉強を、聖教上の御文で証明している退会者に対して反論するなら、聖教上の御文をもってしなければ、そもそも議論が成立しないのですが、その劣勢を根拠のない自信で挽回しているつもりなのでしょう。
本来なら、退会者のことを異安心と決めつける前に、高森会長が親鸞聖人と同じ安心なのか確かめてからにすべきですが、それを絶対にしません。なぜなら、マインドコントロールされていて、高森会長は絶対に正しいと思い込まされているからです。それは親鸞会が邪教と見下している宗教団体の信者と何ら変わりないのですが、そこに気が付くことさえ拒否しているのです。

正しい信心かどうかは、二種深信が立っているかどうかだ

高森会長はいつも言っていましたが、その二種深信の説明が間違っていることは、これまで述べてきましたので、すでに高森会長の異安心が確定しています。反論があるなら、聖教上の二種深信の説明と高森会長の説明が一致していることを説明すればよいだけですが、それはできません。

もう一つの理屈は、退会者が信心の説明で現生十種の益が知らされていないから異安心だというものですが、これも無知の証拠にしかなりません。
現生十種の益を獲ると親鸞聖人が解釈されたことと、現生十種の益を獲たことが実感として判ることとの違いが理解できていないのです。

現生十種の益の中で、最も判りやすいのが入正定聚の益です。

親鸞聖人は、現生において正定聚に入る、と仰っていますが、これは七高僧方の仰っていないことです。七高僧方は、浄土に往生した後に正定聚に入る、と仰っていますので、もし、入正定聚の益を知らされていないことをもって異安心だと言うのであれば、七高僧方は異安心になります。

難しいですが、根拠を挙げて説明します。

『正信偈』にある

成等覚証大涅槃

は、阿弥陀仏の11願で、大経の異訳経である『無量寿如来会』にある御言葉から親鸞聖人が取られたものです。

もしわれ成仏せんに、国のうちの有情、もし決定して等正覚を成り、大涅槃を証せずは、菩提を取らじ

この「国のうちの有情」とは阿弥陀仏の浄土の中の有情です。
つまり、11願は、浄土に往生後、等正覚を成り、大涅槃を証すると誓われたもので、往生後に正定聚に入ることです。

それを曇鸞大師は『浄土論註』で11願を言い換えられて

もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得て、すなはち正定聚に入る

とされています。浄土に往生した後に正定聚に入るの意味です。

これは他の高僧方も同じです。

親鸞聖人は、七高僧方の解釈を踏まえられた上で、往生後に正定聚に入るとしか解釈のしようの無い11願を敢えて現生に解釈なされました。
それを表現されたのが、親鸞聖人が度々なされる漢文の読み替えという方法です。

曇鸞大師の

もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得て、すなはち正定聚に入る

を親鸞聖人は

もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ぜんものと、また往生を得るものとは、すなはち正定聚に入る

と読みかえられました。「生ぜんと願ぜんもの」が「すなはち正定聚に入る」と本来の意を変えられてしまったのです。

親鸞聖人がこのように解釈をなされた理由は、親鸞聖人が信心を獲られて知らされたからではなく、阿弥陀仏の救いはこうでなければ理屈が通らないという親鸞聖人の理論です。

これは真宗学の重要なポイントです。入正定聚を来生とされた七高僧方と、現生とされた親鸞聖人との相違が存在する、つまりは、入正定聚の益が知らされていないから、信心が間違っているということは言えないことになるどころか、そんなことを言うことが異安心の告白です。

今回の内容は、親鸞会の会員はもちろんのこと、信心の定義から間違っている高森会長にも理解しがたいことと思います。

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2016年8月 6日 (土)

パクリで大学者を演じても、聖教を全く読んでいないので簡単にボロを出す高森顕徹会長

何十年と会員を続けてきた人が次々と退会していますが、その陰で、何十年と講師部員を続けてきた人もぽつぽつと退会しています。このブログで法論を取り上げ、言うまでもなく惨敗逃走した元講師部員もその中に含まれています。

何百年に一人の善知識と崇めてはきたものの、人間性も教義も無茶苦茶な高森顕徹会長に絶望して還暦近くで親鸞会を去っていく講師部員の心中は、どのようなものでしょうか。

法論に惨敗した時点で高森会長に見切りをつけていれば、傷も多少は浅くて済んだかもしれませんが、それさえできないようにマインドコントロールされていたのですから、哀れです。

さて、信心決定を摩訶不思議な体験として印象付けるために利用されるのが、二種深信です。しかし、その摩訶不思議な体験をしてもいないのにしたかのように装っているのが、高森会長です。

前回まで、五逆謗法は親鸞聖人の教えを聞いている皆さんのことではないし、機の深信とも無関係だということを、聖教上の根拠を示して、述べてきました。

参考までに機の深信にあたる曇鸞大師のお言葉は、『讃阿弥陀仏偈』にあります。

われ無始より三界に循りて、虚妄輪のために回転せらる。
一念一時に造るところの業、足六道に繋がれ三塗に滞まる。

です。曇鸞大師は、煩悩虚妄の業によって三界をはてしなくめぐり、六道を抜け出せず、三悪道に留まっていることを仰ったのですが、どこをどう読んだら「逆謗の屍」という意味になるのでしょうか?これは曇鸞大師は「逆謗の屍」ではないと否定されたお言葉にしかなりません。

親鸞聖人は善導大師の『往生礼讃』の二種深信を承けられて、『高僧和讃』善導讃で

煩悩具足と信知して
 本願力に乗ずれば
 すなはち穢身すてはてて
 法性常楽証せしむ

と仰っています。親鸞聖人は機の深信を「煩悩具足と信知して」と表現なされています。

善知識方のお言葉を通しても、機の深信とはつまり

煩悩によって輪廻し、自力では出離できない

ということにしかなりません。

逆謗の屍」という言葉は、大沼師からのパクリですが、大沼師は、『高僧和讃』曇鸞讃の

名号不思議の海水は
 逆謗の屍骸もとどまらず
 衆悪の万川帰しぬれば
 功徳のうしほに一味なり

から、「逆謗の屍」と言ったのでしょうが、この御和讃は、五逆罪、謗法罪の人でさえも阿弥陀仏の功徳に包まれたならば、一味平等の世界に入ることができる、と教えられたお言葉です。このお言葉から、全ての人が「逆謗の屍」という解釈にはなりえません。

18願文と二種深信との関係を、大沼師の味わいを鵜呑みにして高森会長は

若不生者不取正覚」=法の深信
唯除五逆誹謗正法」=機の深信

と、まるで大学者を気取って説明していますが、完全な間違いです。二種深信を詳説された存覚上人の『六要鈔』には、

次に深心を釈する中に、「二者」等とは、これ経文を牒す。「深」等というは、能信の相を明かす。「亦有」等とは、所信の事を顕かす。これ則ち機法二種の信心なり。「無有」等とは、正しく有善・無善を論ぜず、自の功を仮らず、出離は偏に他力に在ることを明かす。聖道の諸教は盛んに生仏一如の理を談ず。今の教は自力の功なきことを知るに依りて、偏に仏力に帰す。これに依りて、この信は殊に最要なり。「無疑」等とは、「若不生者不取正覚」、正覚既に成ず、故に無疑という。「即得往生住不退転」一念誤ることなし、故に無慮という。

とあります。二種深信と本願文とを対応して書かれているのは、法の深信と「若不生者不取正覚」だけです。機の深信に対応する本願文については記されていません。
大沼師の味わいを真宗学の基本と勘違いしただけのことです。

聖教を読んだことがない高森会長が大学者を演じようとしても、無理な話です。

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2016年7月24日 (日)

親鸞聖人の仰せを知らず、大沼師の味わいだけが根拠の高森顕徹会長

親鸞聖人の教えを信じている皆さんは、謗法の者でもないし、五逆の者でもありません。親鸞聖人がそのように仰っているのですから、それを覆す理屈などある筈もありません。しかし、そこは無知で邪義満載の高森顕徹会長ですから、親鸞聖人の仰せを平気で否定します。

その理屈の一つは『末灯鈔』ですが、これが断章取義であることは何度も述べてきましたので省略します。もう一つが18願の「唯除五逆誹謗正法」です。高森会長の理屈では、「唯除五逆誹謗正法」が「十方衆生」の実機であり、機の深信だということになっています。本日の講師部講義でも言っていたそうですが、もちろんそんな根拠はありません。

唯除五逆誹謗正法」の直接の解釈は『尊号真像銘文』にしかありません。

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

です。
つまり、18願には「唯除五逆誹謗正法」というお言葉があるから、18願の「十方衆生」から洩れたものはないと仰っているのです。逆にいえば、「唯除五逆誹謗正法」のない19願・20願の「十方衆生」には、洩れているものがいるということです。
要するに、「十方衆生」の中に五逆誹謗正法の者がいるという意味にしかなりません。

では、「唯除五逆誹謗正法」が「十方衆生」の実機、機の深信だというのは、高森会長の創作かといえば違います。そんな高度な創作ができるほどの知恵は高森会長にはないでしょう。
もうお判りかと思いますが、大沼法竜師からのパクリです。
『本派本願寺の危機 どちらが異安心か』にはこのようにあります。

 本願寺の総長を始め勧学のお歴歴から頭の切り替えをやらなければ真宗の復興は望めない。君達は第十八願や成就の文を有難がって見て居るのであって十八願の身になる事を忘れて居るのだ、至心信楽の文に陶酔し、至心に廻向せしめ給えりに酩酊して麻痺状態となり、阿片やヒロポンに中毒されて萎靡沈滞して活動能力を失うて居るのだ、第十八願の文を見て自分は至心信楽己を忘れて乃至十念の称名を称えて居るから死にさえすれば往生に間違いはない、仏様が若し生れささずんば正覚を取らずと仰せられたのが、既に十劫の昔に正覚を成就して居らるるから十劫の昔に助かって居るのだと安心して居るが、君達は文面を見て裏面を読んで居ないのだ。唯除五逆誹謗正法とは誰の事かい、勧学だと威張って居る君達の事だぞ、除かれて居るとも知らずにのさばりかえって居るが、それだから開発の一念を知らないのだ、若不生者不取正覚とは生れさすとは死後の事しか知らないのだろう、心命終を忘れたか、君の逆謗の屍を今心命終ささなければ正覚を投げ出すぞと言うことだよ。成就の文にしても至心に廻向して貰ったか、不可称不可説不可思議の功徳は行者の身に満てりと有るが、三千世界の果報者は自分一人と言う満足が有るか、観念の遊戯だけして居るのだからそんなはっきりした事は有るまい、何を廻向されたか、上に向えば法体の大行、下に向えば当果決定、誰が頂くのだ、諸有衆生、その腹底は、唯除逆謗、おいおい君達、素直に聞いて居ればよいと言うような対岸の火事のような話ではないぞ、君が邪見驕慢の逆謗の屍ではないか、その機に久遠劫から付き纏い、至心に廻向し給いいて聞即信の一念に法体の大行を全領し同時に住不退転の当果を決定さして頂くのだが、文面を読んで眺めて通って居るのだから何とも有るまい、これが実地に諦得出来たのなら信前信後の水際鮮かに今こそ明らかに知られたりと大慶喜せずには居られないのだ、その初起の一念を信一念と名前を付けるのだ、時尅に何の関係が有るのだ、味に用事が有るのだ、本当に大満足の出来た人なら実時は判らないが仮時ならあの時であったと言えるのだ、君達にはあの時もこの時もないのだ、御経やお聖教を読んで通って見て感じただけだから自分の実機とは無関係だから観念の遊戯に過ぎないのだ、勧学で有りながら実地の体験がないのだから、晴れたのやら暮れたのやら、水際もなければ角目もない、……

当時の本願寺勧学を批判した内容です。当然ながら、大沼師の味わいであり、聖教上に根拠のあることではありません。

高森会長は、大沼師の独特の味わいと聖教の内容との区別が全くついていません。なぜなら、聖教を読んだことがないからです。

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2016年7月10日 (日)

五逆罪の定義についても当然知らない高森会長

謗法罪に続いて、親鸞聖人は『教行信証』信巻の最後に、五逆罪の解釈をなされています。

一つには三乗の五逆なり。いわく、一つにはことさらに思いて父を殺す、二つにはことさらに思いて母を殺す、三つにはことさらに思いて羅漢を殺す、四つには倒見して和合僧を破す、五つには悪心をもって仏身より血を出だす。

意味は、

三乗の五逆罪(通仏教の五逆罪)について、
 一.故意に父を殺す
 二.故意に母を殺す
 三.故意に阿羅漢を殺す
 四.間違った考えを起こして教団を乱す
 五.悪い心を抱いて仏身を傷つけて血を流す

と仰っています。
阿闍世は父を殺していますが、釈尊が阿闍世に仰ったことは、一番目の故意に父を殺すことに当たるのかどうかも微妙な表現でした。いずれにしましても、五逆罪の親殺しとはあくまで”故意に”ですから、極めて限定された人しか造らない罪です。一般の人が造る罪ではないといえます。
曇鸞大師、善導大師が仰っておられる五逆罪は、これです。また、法然上人が「正如房へ遣わす御文」に、

五逆十悪の重き罪造りたる悪人なお十声一声の念仏によりて往生しそうらわんに、まして罪造らせおわします御事は何事かそうろうべき。
たといそうろうべきにても幾程の事かはそうろうべき。
この『経』に説かれてそうろう罪人にはいい比ぶべくやはそうろう。

と書いておられます。「五逆十悪の重き罪造りたる悪人」と比較して、貴方はどんな罪を造っているというのか、と仰っておられますので、罪を造っているという点において、人には明らかな優劣があることを語られたのです。

また法然上人は『往生大要鈔』の中で、

われら罪業重しと云へども、いまだ五逆をばつくらず

と仰り、聖覚法印は『唯信鈔』

われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず

と書かれています。

五逆罪といえば、これが通仏教での定義であり、浄土宗でも通仏教の定義そのままです。

『教行信証』信巻ではこの後、

この逆を執する者は、身壊れ命終えて、必定して無間地獄に堕して、一大劫の中に無間の苦を受けん、「無間業」と名づくと。

と解説なされています。五逆罪を造ったものは、無間地獄に堕ちると教えられていますが、実際にこの罪を造っている人は、極めて稀ですので、無間地獄に堕ちる人も、極めて少数の人になります。

曇鸞大師、善導大師、法然上人、聖覚法印は、通仏教での五逆罪をそのまま承けられていて、親鸞聖人も当然、同じ定義でしか五逆罪を語られていません。

全人類が五逆罪を造っているという説明を親鸞聖人がされた箇所はもちろんありません。

聖教を読んだことのない高森顕徹会長には関係ない話でしょうけど。

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2016年6月28日 (火)

謗法罪の定義さえ知らない親鸞会を非難攻撃したら謗法罪になりますか?

相手にされていない本願寺に対しては、未だに”打倒本願寺”のスローガンを掲げて、金集めに余念のない親鸞会ですが、親鸞会を攻撃する退会者には、ダンマリを決め込んで、教義論争には手も足も出ないというのが現実です。それに薄々気が付いて戸惑っている会員も少なからずいます。

その対策として、親鸞会を攻撃することを謗法罪と会員に刷り込んでいるのですが、謗法罪の定義が真宗とも通仏教とも異なっているのが親鸞会です。

前回書きましたように、謗法罪とは「無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法」と考える人のことを指すのですが、その程度のことさえ聞いたことのないのが高森顕徹会長です。

親鸞聖人は、謗法の者が救われることはあり得ないと曇鸞大師が仰ったことを承けられて、善導大師の『法事讃』のお言葉を信巻に引かれています。

仏願力をもつて、五逆と十悪と罪滅し生ずることを得しむ。謗法・闡提、回心すればみな往く。

(現代語訳)

この本願のはたらきにより、五逆や十悪のものの罪を滅して往生を得させてくださるのである。謗法のものや一闡提であっても、心をひるがえして如来の本願を信じれば、みな往生することができる。

高森邪義に毒されていると理解できないかもしれませんが、五逆・十悪の者と、謗法・闡提の者とは救われ方が違うのです。判り易く言うと五逆・十悪の者は、そのまま救われますが、謗法・闡提の者は謗法・闡提のまま救われるのではなく、「回心」という心を入れ替えて謗法・闡提でなくなって救われるということです。
曇鸞大師のお言葉と併せれば、簡単な内容ですが、「回心」を獲信と理解すると訳が判らなくなります。ここでの「回心」は「無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法」という謗法・闡提を懺悔して仏教を信じる仏教徒になり、しかも18願を信じるということを意味します。

参考までに『往生要集』にはこうあります。

 問ふ。 不信のもの、なんの罪報をか得る。
答ふ。
『称揚諸仏功徳経』の下巻にのたまはく、「それ、阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀するものは、五劫のうちに、まさに地獄に堕して、つぶさにもろもろの苦を受くべし」と。
 問ふ。 もし深信なくして疑念をなすものは、つひに往生せざるや。
答ふ。
まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるものは、理として生るべからず。 もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。(後略)

(現代語訳)

 問う。 信じない者は、 どのような罪の報を得るのであるか。
 答える。 ≪称揚諸仏功徳経≫ の下巻に説かれている。
もし、 阿弥陀仏の名号の功徳を讃めたたえることを信じないで、 謗り毀つ者があるならば、 五劫のあいだ地獄に堕ちて、 つぶさにもろもろの苦を受けねばならぬ。
 問う。 もし深心がなくて、 疑念を生ずる者は、 結局往生できないのであるか。
 答える。 もし、 全く信ぜず、 往生の業を修めず、 浄土を願い求めない者は、 道理として往生するはずがない。 しかしながら、 もし仏智を疑うけれども、 それでもやはり、 かの浄土に生まれたいと願い、 往生の業を修める者は、 これもまた往生することができるのである。(後略)

簡単に言うと

謗法の者は地獄に堕ちる。
謗法ではないが、浄土を願い求めない者は、往生できない。
浄土を願い求めていながらも仏智を疑っている者は、(化土)往生できる。

ということです。
謗法の定義が根本的に狂っているのが親鸞会だと理解できたでしょうか。

現会員はよく考えてください、高森会長の言っていることは仏教と言えますか。

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