2018年8月11日 (土)

仏智疑惑・謗法・闡提を混ぜ合わせたものが真実信心だと教えている高森教

真実信心を知らないから18願を疑うことがどんなことかも判っていないのが、高森顕徹会長と愉快な仲間達です。

疑心についてまとめられているものが『往生要集』にあります。

問ふ。不信のもの、なんの罪報をか得る。

答ふ。
『称揚諸仏功徳経』の下巻にのたまはく、「それ、阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀するものは、五劫のうちに、まさに地獄に堕して、つぶさにもろもろの苦を受くべし」と。

問ふ。もし深信なくして疑念をなすものは、つひに往生せざるや。

答ふ。
まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるものは、理として生るべからず。もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。『双巻経』にのたまふがごとし、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了せず、このもろもろの智において疑惑して信ぜず、しかもなほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生は、かの宮殿に生じて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の衆を見たてまつらず、このゆゑにかの国土においては、これを胎生といふ」と。{以上}仏の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。しかも願に随ひて往生するは、これ仏の悲願の力なり。

(現代語訳)

問う。信じない者は、どのような罪の報を得るのであるか。

答える。《称揚諸仏功徳経》の下巻に説かれている。

もし、阿弥陀仏の名号の功徳を讃めたたえることを信じないで、謗り毀つ者があるならば、五劫のあいだ地獄に堕ちて、つぶさにもろもろの苦を受けねばならぬ。

問う。もし深心がなくて、疑念を生ずる者は、結局往生できないのであるか。

答える。もし、全く信ぜず、往生の業を修めず、浄土を願い求めない者は、道理として往生するはずがない。しかしながら、もし仏智を疑うけれども、それでもやはり、かの浄土に生まれたいと願い、往生の業を修める者は、これもまた往生することができるのである。

《無量寿経》に説かれているとおりである。

もし、人々の中で、疑いの心を持ちながら、いろいろの功徳を修めて、かの国に生まれたいと願い、仏智、思いもおよばぬ智慧 (不思議智)、はかり知られぬ智慧、すべての者を救う智慧、ならびなくすぐれた智慧を知らず、いろいろの仏の智慧を疑って信ぜず、しかもなお罪の報を恐れ、おのが善根をたのむ心をもって善の本を修め、それによってかの国に生まれたいと願うものがあれば、これらの人は、かの国に生まれても宮殿の中にとどまり、五百年のあいだ、少しも仏を拝むことができず、教法を聞くことができず、菩薩・声聞などの聖衆を見ることもできない。それゆえ、これをたとえて胎生というのである。

仏の智慧を疑うのは、悪道に堕ちる罪に相当する。けれども、その願いにしたがって往生するというのは、仏の大悲の願力によるのである。

宮殿」とは、化土のことです。

以上から判ることは、

謗法・闡提の者―地獄
一般の者―悪道
浄土を願う自力の者―化土往生
深信の者―報土往生

ということです。深信の者以外は無間地獄、などという愚かな教えもありませんし、その逆で「阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀する」謗法・闡提がそのまま救われることは、絶対にないのです。

謗法・闡提をそのまま救ってくださるのが阿弥陀仏だ

と間抜けなことを言っている高森会長と講師部員は、信心の基本中の基本を知らないのです。

謗法・闡提の者が報土往生するには、「阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀する」ことをまず止めないことには「阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを」深信できないという単純な理屈です。東に向かっている人を、西に向かわせるには、東に行くことをやめさせないと行けないです。東に向かったままで西に向かわせるなどと言っている愚かさに気が付かないのが、親鸞会思考です。

自力の信心については「このもろもろの智において疑惑して信ぜず、しかもなほ罪福を信じ」とありますから、阿弥陀仏が法蔵菩薩の時に兆載永劫の修行によって、我らが往生成仏の因をすべて用意されたことを疑って、因果の道理を信じて何かをしなければ救われないと考えていることだと教えられています。

親鸞会会員の信心そのものですが、この信心と親鸞会会員の信心との違いは「その国に生ぜんと願ぜん」の有無です。浄土に往きたいと願わずに、絶対の幸福になりたいと願っている親鸞会会員は、化土には往けません。
仏の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。
ですので、残念なことです。

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2018年8月 5日 (日)

創価学会の真似をして人集めに血眼になっている高森顕徹会長

本日は追悼法要という名目で、大大的に宣伝をし、高森顕徹会長の動画を一般に公開してまで必死の人集めの結果、人数だけは昨年の報恩講並であったようです。
それだけを見ると親鸞会は息を吹き返したのかと思われるかもしれませんが、かなり無理していることは、様々なところで表面に現われています。その1つが、御供物でしょう。一般の行事と変わりません。最も気を遣い、お金を使ってきたところへ回すお金が不足しているのです。かなり、切羽詰まっているところまで追い込まれているようです。

次回、御供物が増えたら、皆さんで笑ってあげてください。

さて、本日もはっきりしない話をだらだらしていましたが、絶対の幸福という創価学会の真似が主で、その説明に仏凡一体という言葉を使っていました。

真実信心を知らない高森会長ではこの程度の説明で誤魔化すしかないのでしょうが、真実信心と仏凡一体は、二河白道の譬えで説明できます。

先月のエントリー

白道は凡夫自力の迷心でも凡夫我執の心でもない、この当たり前の事実が理解できない高森顕徹会長と愉快な仲間達

でも紹介しました存覚上人の『浄土真要鈔』がそのことについて詳しいです。
上記のエントリーでは

この一念帰命の信心は、凡夫自力の迷心にあらず、如来清浄本願の智心なり。
しかれば、二河の譬喩のなかにも、中間の白道をもつて、一処には如来の願力にたとへ、一処には行者の信心にたとへたり。「如来の願力にたとふ」といふは、「念々無遺乗彼願力之道」といへるこれなり。こころは、「貪瞋の煩悩にかかはらず、弥陀如来の願力の白道に乗ぜよ」となり。「行者の信心にたとふ」といふは、「衆生貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心」といへるこれなり。こころは、「貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ず」となり。されば、「水火の二河」 は衆生の貪瞋なり。これ不清浄の心なり。「中間の白道」は、あるときは行者の信心といはれ、あるときは如来の願力の道と釈せらる。これすなはち行者のおこすところの信心と、如来の願心とひとつなることをあらはすなり。したがひて、清浄の心といへるも如来の智心なりとあらはすこころなり。もし凡夫我執の心ならば、清浄の心とは釈すべからず。

で、「白道」は、「如来の願力」と「行者の信心」の二通りで譬えられることを仰った後、「行者の信心」は、行者の「不清浄の心」に「如来の智心」である「清浄の心」がおきるのだと説明しました。
そしてこの後に存覚上人はこう続けられています。

このゆゑに『経』には、「令諸衆生功徳成就」といへり。こころは、「弥陀如来、因位のむかし、もろもろの衆生をして功徳成就せしめたまふ」となり。それ阿弥陀如来は三世の諸仏に念ぜられたまふ覚体なれば、久遠実成の古仏なれども、十劫以来の成道をとなへたまひしは果後の方便なり。これすなはち「衆生往生すべくはわれも正覚を取らん」と誓ひて、衆生の往生を決定せんがためなり。しかるに衆生の往生定まりしかば、仏の正覚も成りたまひき。その正覚いまだ成りたまはざりしいにしへ、法蔵比丘として難行苦行・積功累徳したまひしとき、未来の衆生の浄土に往生すべきたねをばことごとく成就したまひき。そのことわりをききて、一念解了の心おこれば、仏心と凡心とまつたくひとつになるなり。

難しい語はありませんので、概ねお判りになられると思いますが、最後の

法蔵比丘として難行苦行・積功累徳したまひしとき、未来の衆生の浄土に往生すべきたねをばことごとく成就したまひき。そのことわりをききて、一念解了の心おこれば、仏心と凡心とまつたくひとつになるなり。

で仏凡一体について説明されています。
法蔵菩薩の「難行苦行・積功累徳」によって「未来の衆生の浄土に往生すべきたね」を成就された、そのことを聞いて、それをそのまま聞いたことを「仏心と凡心とまつたくひとつになる」と仰っています。
もっと簡潔に言うなら、法蔵菩薩が我らが往生する因を法蔵菩薩が御修行によって用意されて、その通りと聞いたことを真実信心と言い、仏凡一体と言われるのです。

したがいまして、衆生の側で、何かをしなければならないことはないのです。
善をしなかれば、三願転入しなければ、宿善を厚くしなければ、
というのは間違いであるどころか、その通りと聞く妨げになるのです。
何かをする必要があると考えるのは、法蔵菩薩の「難行苦行・積功累徳」ではまだ不足だという考えであり、「そのことわりをききて、一念解了の心」が起きないからです。

そう聞くのは一念でも、それまでは何かをしなければ…

が間違いです。法蔵菩薩の「難行苦行・積功累徳」にケチをつけている心です。

二河白道の譬えでいうなら、阿弥陀仏の「浄土までいく白道に乗りなさい」との喚び声に、「はい」と白道に乗るだけです。白道に乗るために何かが必要だとはどこにも教えられていないのです。

そして白道の乗ったことを仏凡一体というのですが、白道に乗ったら、何かが変わったかと言えば、何も変わっていません。
白道の幅も長さも、水の河も火の河も、西の岸の様子も見え方も、東の岸の群賊悪獣悪知識も、何も変化していません。

ですから、真実信心を獲ても、表面上は何も変わりませんし、ましてや絶対の幸福なる空想の境地に出ることも絶対にありません。

信前信後の水際も変化も、仏凡一体も、全て二河白道の譬えで顕わされているのです。

この程度の簡単な説明もできない高森会長の話を聞いて、得られる物は、貧と恥のみです。

人集めには、創価学会の真似が手っ取り早いと考えている高森会長の浅はかさに、会員も早く気付くベきです。

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2018年8月 1日 (水)

『観無量寿経』を読んだことがない高森顕徹会長と愉快な講師部員のために

『観無量寿経』を読んだことがない高森顕徹会長と愉快な講師部員に少し教えてあげます。

『観無量寿経』には、機に応じた行が勧められて、その行によって往生できると説かれています。具体的には

定善ができる機には、定善をしての往生
散善の行福ができる機には、行福をしての往生
散善の戒福ができる機には、戒福をしての往生
散善の世福ができる機には、世福をしての往生
定善も散善もできない機には、念仏での往生

が勧められています。
最後の
定善も散善もできない機とは、悪人のことで善導大師が『玄義分』で

仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。

と仰った下品上生から下品下生までの悪人です。
ちなみに「仏法の善根」が定善・行福・戒福で、「世俗の善根」が世福です。
定善はおろか散善も全くしてこなかったし今後もしない人のことを悪人と定義されているのです。

ですから大雑把に言うと、善人には善による往生を勧められ、悪人には念仏による往生を勧められたのが『観無量寿経』です。悪人に善を勧められたということは、どこをどう読んでも『観無量寿経』にはないのです。
浄土門においても、聖道門でさえも、そんなヘンテコな解釈をすることはありえません。

ということは、『観無量寿経』の方便の教え、つまり顕説は

善人には善による往生を勧められ、悪人には念仏による往生を勧められた

にしかなりませんので、方便から真実へ、あるいは三願転入という道程を主張するなら

善人:19願の善→20願の念仏→18願の念仏
悪人:19願の念仏→20願の念仏→18願の念仏

というのが隠顕釈となります。

なお、前回紹介した

『観経』には「極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得」

は、下品下生の極重の悪人に対して、念仏のみを勧められたことを示す善知識方の直接の文証ですが、一方で親鸞聖人は善人に対して善を勧められているのかと言えば、そうではありません。
『教行信証』化土巻に

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

と仰り、「定散の諸機」という善人も「極重悪人」同様に「ただ弥陀を称せよと勧励」されたのが『観無量寿経』の真意だと解釈されたのです。
『観無量寿経』の表面では、善人に対して善が勧められていますが、底では善人に対しても念仏だけが勧められている、と解釈されたことを隠彰と言うのです。
当然ですが、「ただ弥陀を称せよ」は18願です。
その証拠にこの直前に

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。

と仰っているからです。

善人に対しても悪人に対しても釈尊が勧められていることは18願の念仏のみで、善人には念仏に導く方便として定散二善が形式上勧められている、これが親鸞聖人の教えです。

間違えようのない明快な理論ですが、それをねじ繰り回して、訳が判らなくなって、何か深い御心があるのだろうと錯覚させているのが高森理論で、それを必死に擁護するのがプライドだけは高いが知能は低い講師部員なのです。

反論があるなら、いつでも法論に応じますので、コメントをくださいね。

もしコメントを拒否されたと言うなら、そのコメントを自分のブログに出せばよいです。そうすれば、誤魔化すことができませんので、安心してコメントしてください。

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2018年7月31日 (火)

屁理屈も矛盾に満ち溢れていることに気付くこともない高森顕徹会長と愉快な講師部員

かの人物が全く進歩なく学習能力のないことは、ここを見ていただければよいです。論点を変え続け、また元に戻っていることが判ります。

退会偽装者のお粗末さが、親鸞会の凋落を象徴している

さて先日の高森顕徹会長の話で、念仏に3つあると言っていました。教学聖典にもありますが、19願の念仏と20願の念仏と18願の念仏ということです。

かの人物も、『観無量寿経』の下品下生にあるのは方便の19願の念仏だと言っています。
一方で方便から真実へが『観無量寿経』の内容に明らかと言っています。

ここが愚かなところですが、それなら自力の念仏から他力の念仏への道を教えられたのが『観無量寿経』であり、三願転入だということになります。方便の諸善を勧めて真実に入ると主張しているなら、方便の念仏から他力に入るも『観無量寿経』の真意になります。

察しの悪い人のためにもう一度

下品下生の念仏が方便の19願意で、方便から真実へ明らかにされたのが『観無量寿経』なら、方便の自力の念仏から真実の他力の念仏に入ると教えられたのが『観無量寿経』

これが結論にしかなりません。

これまで何十回と紹介してきた『往生要集』のお言葉で『教行信証』行巻にも引かれている

『観経』には「極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得」

ですが意味は

『観無量寿経』には、極重の悪人(下品下生)には諸善ではなくただ念仏だけを勧められて極楽に往生できると教えられている

ということです。それに対して

飛雲は方便の自力の念仏から他力入ると言っている

と非難してきたのがかの人物です。

間違いだと非難した内容を今度は自分が言っているのですから、お粗末とかいうより、よくできたギャグです。

重要なところですので、何度でも説明しておきます。

『往生要集』のこのお言葉は、『高僧和讃』源信讃にも

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

と親鸞聖人は仰っています。

もちろん『正信偈』には、

極重悪人唯称仏

と書いておられます。

以上を承けられて蓮如上人は『正信偈大意』に

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と仰っています。

源信僧都、親鸞聖人、蓮如上人は読解力の乏しい親鸞会会員のために、「極重の悪人」に対しては、「他の方便なし」と定散二善は不要と、直接的な表現で仰っています。

この「ただ弥陀を称して」が自力であろうと他力であろうと、念仏しか勧められていないという事実は何も変わりません。

かの人物のように自力の念仏だとするなら、

極重の悪人には方便の諸善はなく方便の自力の念仏を称えることで極楽に往生できる

となりますし、他力の念仏だとするなら、

極重の悪人には方便は要らない、最初から真実の他力の念仏で極楽に往生できる

となります。

いずれにしても、極重の悪人には諸善など要らないのです。

どんなに屁理屈を考えようが矛盾に満ち溢れているのが親鸞会です。

異論があるなら、いつでもコメントください。根拠を元にした法論なら、拒否はしません。誰かのような卑怯なことはしませんので安心してコメントをください。

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2018年7月29日 (日)

二河白道の譬えを曲げに曲げ続けた結果、簡単な話が判らなくなった高森顕徹会長と愉快な講師部員

自称退会者を論破さんからコメントを頂きました。

コメントを載せることができなくなった時点で、完全敗北宣言と同じです。過去同じことを何十回も繰り返してきたのに、それらの教訓が何も活かされていない全く学習能力のない講師部員だとよく判ります。

さて、本日の高森顕徹会長の話は、無碍の一道についてでした。

「碍」は煩悩のことで、その煩悩が無くなるのではなく障りとならなくなる世界。

と説明していました。
この後「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」を出して補足していました。

無碍」の定義からするとこの説明は間違っているのですが、意図することは間違いではありません。

ただし、これを言いたいのであれば、二河白道の譬えを使えば良いのです。

白道が、信後の他力信心を譬えられていることは、これまでくどいほど述べてきた通りですが、それが理解できている前提で以下話をします。

『教行信証』信巻に

一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし、南北辺なし。まさしく水火の中間に一つの白道あり、闊さ四五寸ばかりなるべし。この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿す。その火焔(焔、けむりあるなり、炎、けむりなきほのほなり)また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなけん。

とありますが、これは白道に乗る前の描写です。しかし、白道に乗った後も、二河が変化したとはありませんので、この通りだということになります。
それが『一念多念証文』の

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。

になります。
つまり、白道である他力の信心は、「その水の波浪交はり過ぎて道を湿す」「その火焔また来りて道を焼く」という状態であるのに、途切れることもなく障りとならないのだと、善導大師、親鸞聖人が教えられているということです。

譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」を二河白道の譬えで説明するなら、

たとえれば白道が水火の波に覆はれていても、水火で白道が途切れることなく細くても確実に西の岸に続いているようなものだ。

ということです。白道が変化するわけでも西の岸が近くなるわけでもありません。

水と火の波が全く障りとならない白道、と説明すれば合格ですが、いつまで経っても0点が続く高森会長と愉快な講師部員でした。

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2018年7月22日 (日)

よく知りもしない『観無量寿経』の内容を知ったかぶりで話をする高森顕徹会長と愉快な仲間達

本日の高森顕徹会長の講義では、二河白道の譬えについての話がありました。というと、詳しく話があったのかと思われるかもしれませんが、かなり省略した話で結論として、

二河は煩悩を表わし、その間の細い白道が聞法心だ。
聞く一本道だ。

というものでした。

間違いを指摘されていることを誤魔化しながら、過去に高森会長が話をしてきたこととの整合性をはかるには、極力話を削ることだと判断したのでしょう。

もちろん真宗において、白道を自力の聞法心とすることなどあり得ません。

ただ概ね想定通りの展開で、高森会長が退会者からの指摘に怯えきっていることが良く判ります。

ところで今回も韋提希が「実凡の人」だと善導大師お一人が明らかにされたことを、くどくどと説明していました。

どうせ知らないでしょうから、親鸞聖人が韋提希のことをどう仰っているかについて、教えて差し上げます。

『教行信証』化土巻で、前回の隠顕釈について仰っている中で、『観無量寿経』の御文を13文挙げられて以下のように解釈しておられます。

ここをもつて『経』(観経)には、「教我観於清浄業処」といへり。
「清浄業処」といふは、すなはちこれ本願成就の報土なり。
「教我思惟」といふは、すなはち方便なり。
「教我正受」といふは、すなはち金剛の真心なり。
「諦観彼国浄業成者」といへり、本願成就の尽十方無碍光如来を観知すべしとなり。
「広説衆譬」といへり、すなはち十三観これなり。
「汝是凡夫心想羸劣」といへり、すなはちこれ悪人往生の機たることを彰すなり。
「諸仏如来有異方便」といへり、すなはちこれ定散諸善は方便の教たることを顕すなり。
「以仏力故見彼国土」といへり、これすなはち他力の意を顕すなり。
「若仏滅後諸衆生等」といへり、すなはちこれ未来の衆生、往生の正機たることを顕すなり。
「若有合者名為粗想」といへり、これ定観成じがたきことを顕すなり。
「於現身中得念仏三昧」といへり、すなはちこれ定観成就の益は、念仏三昧を獲るをもつて観の益とすることを顕す。すなはち観門をもつて方便の教とせるなり。
「発三種心即便往生」といへり。
また「復有三種衆生当得往生」といへり。これらの文によるに、三輩について三種の三心あり、また二種の往生あり。
 まことに知んぬ、これいましこの『経』(観経)に顕彰隠密の義あることを。

19願の内容と18願の内容が『観無量寿経』の中で混在していることを親鸞聖人が示された箇所ですが、この中の

「汝是凡夫心想羸劣」といへり、すなはちこれ悪人往生の機たることを彰すなり。

が韋提希のところです。
釈尊が韋提希に対して「なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣なり」と仰った真意は、18願は、悪人往生だということを示されたものだと親鸞聖人は、解釈なされたということです。
もちろん定散二善の19願は善人往生ですから、「なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣なり」の文を以って、19願の教えが大半の中で、18願の教えを釈尊が顕かになされたと親鸞聖人は教えられているのです。

他に明確なところでは

「清浄業処」といふは、すなはちこれ本願成就の報土なり。
「教我正受」といふは、すなはち金剛の真心なり。
「以仏力故見彼国土」といへり、これすなはち他力の意を顕すなり。

などは、『観無量寿経』の中に18願の教えが顕わされていることを親鸞聖人が明示されている箇所です。

考え違いをしているかわいそうな人がいますが、『観無量寿経』の表面部分に18願の教えが少しではあってもあることを親鸞聖人が明示されることで、表面上は少ない18願の教えが、釈尊の本意、真意であると解釈なされたのが、隠顕釈です。

もう一度いうと、『観無量寿経』の表面に18願の教えは少ないですがあるのです。『観無量寿経』の表面上が全て19願の教えだったら、18願が隠されているというより、無い18願をでっち上げたことになります。そんな強引な解釈をされたのではないのですが、それが判らずに『観無量寿経』には18願はないと珍釈を書き連ねている講師が親鸞会に存在していることをみると、親鸞会ももう終わりだと思われます。
話を省略して誤魔化そうとしている高森会長の方が、まだましです。

トップがトップですから、その下はなお酷くなるのも当然ではありますが。

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2018年7月21日 (土)

隠顕釈を知らない高森顕徹会長と愉快な仲間達のための解説

『興福寺奏状』第七の「念仏を誤る失」にはこのようにあります。

もし然らずは、観経の疏を作り、また観念法門を作る。本経と云ひ、別草と云ひ、題目に何ぞ観の字を表せんや。しかるに、観経付属の文、善導一期の行、ただ仏名に在らば、下機を誘ふるの方便なり。

善導大師は『観無量寿経疏』を著わされ、また『観念法門』を著わされていますが、元の『観無量寿経』と共に題名に「観」の字があるので、「観法」という諸善が『観無量寿経』と善導大師の教えられたことの中心であって、いわゆる観経付属の文にある念仏は、下輩である悪人を仏法に導くための単なる方便ではないか。

ということを言って法然上人を糾弾したのが聖道門の学僧でした。これを読まれると判りますが、
念仏称えて往生するというのは『観無量寿経』の方便の教えだ
と親鸞会の愉快な仲間が言っていることと、殆ど同じです。
聖道門の理解で『観無量寿経』を説明しているお粗末さに、笑いを堪えられないのですが、親切心で親鸞聖人における『観無量寿経』の解釈の基本を教えてさしあげます。

『観無量寿経』には、『興福寺奏状』でもある通り、「観法」という善による往生が説かれている箇所と、念仏による往生が説かれている箇所があります。もっと簡単に言うと、往生の道は諸善によるものと念仏によるもの2通りがあることを教えられているのが『観無量寿経』です。
ただし、『観無量寿経』の文字の割合からすれば、圧倒的に諸善による往生が多いし、経典の題名に「観」の字が付けられている程ですので、念仏による往生はオマケ程度と考えたのが聖道門の学僧です。

それに対して反論をされた親鸞聖人の解釈が有名な隠顕釈です。
結論を言うと、『観無量寿経』の表面に顕れているのは諸善による往生ですが、陰に隠れているように見える念仏による往生が釈尊の本意であるということです。間違えてはならないのが、念仏による往生が『観無量寿経』に説かれていないのではなく、オマケ程度の扱いでしか説かれていないように思われる念仏による往生が『観無量寿経』の本意であり、表面上の大勢を占める諸善は、聖道門の行者を浄土門に導く方便であり、最終的には念仏による往生が勧められている、というのが、隠顕釈です。

聖道門が言っているような「念仏は悪人を導く方便」を完全否定されて、「諸善は聖道門らの善人を導く方便」とされたのが親鸞聖人です。
ここでも間違えてはいけませんが、「諸善は善人を導く方便」であって「諸善は悪人を導く方便」ではありません。

このことはmixiでの三願転入の法論で、完膚なきまでに高森顕徹会長が叩きのめされた内容でした。

『教行信証』化土巻の最初にある

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

から始まった法論ですが、その意味を顕わしている重要なお言葉が同じく化土巻にある

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。

と、七深信の第三深信

また決定して、釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して人をして欣慕せしむと深信すと。

です。
これによって、
半満・権実の法門に入るといへども、偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
そんな聖道門を脱落した者のために『観無量寿経』が説かれ19願が建てられた。
『観無量寿経』の中心と思われた「定散諸善」「二善・三福」「三福・九品・定散二善」は、「欣慕浄土の善根」という方便、浄土を願っていない人に浄土を願わせる方便だということが明確になったのです。

まとめると、
浄土を願っていない「半満・権実の法門に入るといへども、偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。」という聖道門の脱落者に浄土を願わせる方便が「定散諸善」であり、「半満・権実の法門に入る」ことのない悪人には関係のない方便が「定散諸善」だと親鸞聖人が教えられたのだ、
がmixiでの法論の結論で、高森会長以下親鸞会の講師面々が逃走し、法論の証拠隠滅まで謀って終わったのです。

念のため言っておきますと、聖道門では浄土に往生することは考えていないので、浄土往生を求めている浄土門とは完全に分けられているのが親鸞聖人です。浄土を願っていない浄土門の人などという定義はありません。親鸞会は、絶対の幸福を願っていて浄土を願っていないので、浄土門とは言えないですが、かといって聖道門のようにさとりを求めてもいないので、親鸞会の会員に対して「欣慕浄土の善根」という方便は、無関係になります。

悔しい気持ちは判りますが、聖道門が法然上人・親鸞聖人を弾圧した時と同じ主張をしていて、「これこそが親鸞聖人の本当の教えだ」とか未だに恥ずかしくもなく言える神経の持ち主に、益々憐みを感じます。

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2018年7月20日 (金)

『観無量寿経』下品下生の往生を18願のことだと仰った親鸞聖人を絶対に認めない高森顕徹会長と愉快な仲間達

偽退会者が私を必死になって攻撃しているそうですが、そのお陰で、このブログに辿り着く方もいらっしゃいますので、大いに非難攻撃してほしいものです。ただし、かの人物は過去に徹底的に叩きのめされて暫く大人しくせざるを得なかったため、陰でこそこそとしか非難攻撃できないので、私は憐みの心で見ててあげます。

さて、『観無量寿経』の下品下生について、親鸞聖人は18願を顕わされたものだと仰ったお言葉が『唯信鈔文意』にあります。

「汝若不能念」(観経)といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」(観経)とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。
「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」(観経)といふは、五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫の罪をもてるゆゑに、十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪を消すまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらせんがためなり。「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願(第十八願)には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃)と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。

(現代語訳)

『観無量寿経』 に 「汝若不能念 (なんぢもし念ずるあたはずは)」 と説かれているのは、 五逆・十悪の罪を犯した人や、 私利私欲のために教えを説いたものが、 病の苦しみに阻まれて、 心に阿弥陀仏を念じることができなければ、 ただ口に 「南無阿弥陀仏」 と称えよとお勧めになっているお言葉である。 これは称名念仏を本願の行としてお誓いになっていることをあらわそうとされているのである。 続いて 「応称無量寿仏 (まさに無量寿仏を称すべし)」 と説かれているのは、 この意味である。 「応称」 は、 称えよということである。
『観無量寿経』 に 「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念念中 除八十億劫 生死之罪 (十念を具足して南無無量寿仏と称せしむ。 仏名を証するがゆゑに、 念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く)」 と説かれているのは、 五逆の罪を犯した人はその身に八十億*劫の十倍の罪をもつことになるので、 十回 「南無阿弥陀仏」 と称えよとお勧めになっているお言葉である。 一回の念仏で八十億劫の十倍の罪を消すことができないのではないけれども、 五逆の罪がどれほど重いのかを人々に知らせるために、 このようにいわれているのである。 「十念」 というのは、 ただ口に念仏を十回称えよというのである。 このようなわけで、 選択本願に 「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 (もしわれ成仏せんに、 十方の衆生、 わが名号を称せん、 下十声に至るまで、 もし生れずは正覚を取らじ)」 と誓われていると 『往生礼讃』にいわれているのは、 阿弥陀仏の本願は、 念仏するのがたとえ十回ほどであっても、 みな浄土に往生することができることを知らせようと善導大師がお思いになって、 「十声」 といわれているのである。 「念」 と 「声」 とは同じ意味であると心得なさいというのである。 「念」 を離れた 「声」 はなく、 「声」 を離れた 「念」 はないということである。

これは、『唯信鈔』で引用された『観無量寿経』下品下生のご文を親鸞聖人が解説なされたところです。

「汝若不能念」「応称無量寿仏」「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」

これが『観無量寿経』の御文です。

これに対して親鸞聖人は

称名を本願と誓ひたまへることをあらはさん

と本願=18願の念仏のことだと明言されていますし、また

しかれば選択本願(第十八願)には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃)と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。

と18願とその言い換えである善導大師のお言葉を出されて説明なされています。

念仏1つで往生できることを親鸞聖人が断言されている箇所でもあります。

くどいようですが、そこには信心というものが必ず具わっているというのが前提にあります。

『末灯鈔』にある

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。

がそのことを最も端的に顕わされています。

念仏1つで助かる
信心1つで助かる

も同じことなのですが、この2つが同じことだと永久に理解できないというより、理解しないように必死に努力しているのが高森顕徹会長と愉快な仲間達です。

憐みの目で見続けてあげましょう。

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2018年7月19日 (木)

聖道門の真似をしながら、「これこそが親鸞聖人の教え」と間抜けなことを平気で言い続ける高森顕徹会長と愉快な仲間達

浄土門は言うまでもなく聖道門にしても、阿弥陀仏の18願の救いを象徴しているのが、『観無量寿経』にある下品下生の往生だということを認めているのです。この当たり前の事実を知らないのが、高森顕徹会長と愉快な仲間達です。下品下生については

仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。 この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。
命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。蓮華のなかにして十二大劫を満てて、蓮華まさに開く。観世音・大勢至、大悲の音声をもつて、それがために広く諸法実相・罪を除滅するの法を説く。聞きをはりて歓喜し、時に応じてすなはち菩提の心を発さん。これを下品下生のものと名づく。」

(現代語訳)

 続いて釈尊は阿難と韋提希に仰せになった。
「 次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。
この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。
そこで善知識はさらに、<もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい>と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。
そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。
 その蓮の花に包まれて十二大劫が過ぎると、はじめてその花が開く。そのとき観世音・大勢至の二菩薩は慈しみにあふれた声で、その人のためにひろくすべてのもののまことのすがたと、罪を除き去る教えをお説きになる。その人はこれを聞いて喜び、ただちにさとりを求める心を起すのである。これを下品下生のものと名づける。」

とあります。
簡単に言うと、

十悪に加えて五逆罪を造ってきて、平生に仏法を聞かず善をしてきたことのない極重の悪人が、臨終になって初めて仏法を聞こうと思って、善知識から勧められたことは、「兎に角、念仏を称えよ」ということで、その通りに10回の念仏を称えて極楽に往生した。

こういうことです。
更には、この後に『観無量寿経』の結論として

仏、阿難に告げたまはく、「なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」と。仏、この語を説きたまふとき、尊者目犍連・阿難および韋提希等、仏の所説を聞きてみな大きに歓喜す。

 (現代語訳)

釈尊は阿難に仰せになった。
「そなたはこのことをしっかりと心にとどめるがよい。このことを心にとどめよというのは、すなわち無量寿仏の名を心にとどめよということである 」
釈尊がこのようにお説きになったとき、目連や阿難および韋提希たちは釈尊のこの教えを聞いて、みな大いに喜んだのである。

とあることに注目されたのが善導大師で、念仏を称えることによって極楽に往生できるのだと強調された訳です。

源信僧都は『往生要集』で下品下生を

四つに『観経』には「極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得」

と仰って、これを親鸞聖人は『教行信証』行巻に引かれて、『正信偈』にも

極重の悪人はただ仏を称すべし。

とまで教えられている通りです。

18願には善の勧めはなく、念仏だけが勧められていてその念仏で極楽に往生できる、これが『観無量寿経』の仏意だと明らかになされたのが、善導大師以降の善知識方です。

この基礎の基礎も知らないで、聖道門が浄土門を非難している「念仏称えて極楽に往生できる教えは方便だ」という主張だけを真似して、

念仏称えて極楽に往生できる教えは間違いだ、と教えられたのが親鸞聖人だ

と間抜けなことを言っている高森会長と愉快な仲間達に、真宗界が白眼視しているのも当然の当然です。

愚か者たちのために何度でも繰り返し言っておきますが、親鸞聖人が仰る真実の信心(=白道)とは、

念仏称えて極楽に往生できると深く信じた心

これで報土往生になるのです。ちなみに

念仏称えて極楽に往生できると浅く信じた心

は化土往生です。

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2018年7月14日 (土)

白道は凡夫自力の迷心でも凡夫我執の心でもない、この当たり前の事実が理解できない高森顕徹会長と愉快な仲間達

白道」が自力か他力かなど、議論する余地がないのですが、小学生でも理解できる単純明快な理屈を理解できないお粗末思考力の持ち主が、親鸞会の会員です。

これまで善導大師、親鸞聖人のお言葉をたくさん紹介しましたので、他の根拠を出しておきます。
ただし高森顕徹会長と愉快な仲間達の思考力では、本日のエントリーは理解できないと思いますので、思考力が並以下の人は読まない方が良いかもしれません。

蓮如上人が、釈迦の化身、勢至菩薩の化身とまで絶賛された存覚上人の『浄土真要鈔』に白道についてこうあります。

この一念帰命の信心は、凡夫自力の迷心にあらず、如来清浄本願の智心なり。
しかれば、二河の譬喩のなかにも、中間の白道をもつて、一処には如来の願力にたとへ、一処には行者の信心にたとへたり。「如来の願力にたとふ」といふは、「念々無遺乗彼願力之道」といへるこれなり。こころは、「貪瞋の煩悩にかかはらず、弥陀如来の願力の白道に乗ぜよ」となり。「行者の信心にたとふ」といふは、「衆生貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心」といへるこれなり。こころは、「貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ず」となり。されば、「水火の二河」 は衆生の貪瞋なり。これ不清浄の心なり。「中間の白道」は、あるときは行者の信心といはれ、あるときは如来の願力の道と釈せらる。これすなはち行者のおこすところの信心と、如来の願心とひとつなることをあらはすなり。したがひて、清浄の心といへるも如来の智心なりとあらはすこころなり。もし凡夫我執の心ならば、清浄の心とは釈すべからず。

判り易い言葉ですので、意味は概ねお判りかと思いますが、真実の他力の信心を、二河白道の譬喩の「白道」で存覚上人は説明されている箇所です。

この時点ですでに、「白道」は他力です。

一応説明すると、「白道」は、「如来の願力」と「行者の信心」の二通りで譬えられることを仰った後、「行者の信心」は、行者の「不清浄の心」に「如来の智心」である「清浄の心」がおきると説明されています。駄目押しで、「清浄の心」とは、「凡夫我執の心」ではない、最初の「凡夫自力の迷心」でもないとあります。
並の思考力が有るなら判ると思いますが、

行者の信心」=「清浄の心」≠「凡夫我執の心」「凡夫自力の迷心

です。

行者が信心を発す前は「如来の願力」の意味しかない「白道」ですが、阿弥陀仏の喚び声に随って行者が「白道」に乗った時に、「清浄の心」である「行者の信心」が発るのです。

以上のように存覚上人の懇切丁寧な説明で、「白道」に自力が混じることなどありえないのです。

次に、親鸞聖人が関東の同行に読むように勧められた『後世物語聞書』には、

善導の御こころによるに、「釈迦のをしへにしたがひ、弥陀の願力をたのみなば、愛欲・瞋恚のおこりまじはるといふとも、さらにかへりみることなかれ」といへり。まことに本願の白道、あに愛欲のなみにけがされんや。他力の功徳、むしろ瞋恚のほむらに焼くべけんや。

とあります。釈尊の教えに随って阿弥陀仏の願力をたのんで信心を獲たなら、欲と怒りに信心は影響されないことを書かれています。

本願の白道」ですから、「白道」は18願他力のことで、その後では「他力の功徳」と言い換えられています。

説明するのがアホらしくなるのですが、

白道」を自力とする解釈など、親鸞聖人の教えにおいてはあり得ないのです。

本日の内容は、思考力のある方向けの内容ですので、高森会長と愉快な仲間達は到底理解できないでしょう。そして、

善導大師は「白道」を自力で教えられた
親鸞聖人は「白道」を自力で教えられた
真宗の学者は「白道」は自力だと言っている

と言い続けて恥を何百何千と重ねれば良いでしょう。麻原教祖と麻原信者以下の思考力ではこの程度でしょう。

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