2017年1月 3日 (火)

これまでの主張を修正するも、誤魔化せないほどおかしい高森邪義

今年最初の高森顕徹会長の話は、本願と本願成就文でした。これまで私は何回か言いましたが、高森会長は批判に対して反応します。三願転入についてmixiでの法論を通して徹底的に高森会長を扱き下ろすと、『なぜ生きる2』を出したのがその典型です。もちろんそれを狙って、扱き下ろしたので、こちらの思惑通りに『なぜ生きる2』を書いてくれて、「ワシはそんなこと言っていない」の名言を封じることに成功しています。今回も本願の話をしない、と何度も書いたので、それに応えるように本願の話を急にし出しただけのことです。高森会長の性格は実に単純です。

本日の話で特徴的なのが、信楽について「往生一定」と説明したことです。どこかを修正することは予想していましたが、その箇所が少し意外でした。

今までは、絶対の幸福と言っていたので、明らかに何かの意図をもっての修正です。

ところで、18願文の言い換えで、高森会長が言っているのが

どんな人をも 必ず助ける 絶対の幸福に

ですが、これとは別の説明が『教学聖典』にあります。

汝―――十方衆生
一心――至心・信楽・欲生
正念――乃至十念
直来――若不生者
護汝――不取正覚
不畏――唯除

二河白道の譬えの中にある西岸上の人の喚び声です。

なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ

今取り上げたい箇所は「一心正念にしてただちに来れ」で、18願文では「至心・信楽・欲生 乃至十念 若不生者」です。
一心正念にしてただちに来れ」にあてはめて18願文を言うと

信楽の心で念仏して生まれさせる

ということになります。
では「生まれさせる」はどう生まれさせるのか。

1.信楽に生まれさせる
2.浄土に生まれさせる

どちらかでしょうか。
1では意味が通じません。

信楽の心で念仏して信楽に生まれさせる

訳が判りません。
2ですとすんなり理解できます。

信楽の心で念仏して浄土に生まれさせる

当たり前のことです。
二河白道の譬えでも、「ただちに来れ」は

ただちに西の岸に来れ

です。

ただちに一心へ来れ

になることはあり得ません。

それでも

「若不生者」の「生」は信楽に生まれさせる

だというなら、『教学聖典』は破棄しないといけないでしょう。

ちなみに、本日の

信楽=往生一定

の説明は、

「若不生者」の「生」は信楽に生まれさせる

との整合性を取るための苦肉の策でしょうが、

一心――至心・信楽・欲生
正念――乃至十念
直来――若不生者

との整合性まで考えの及ばないところが、高森会長らしいです。小手先の修正で誤魔化せるほど私は甘くはありません。

悔しければ、もう少し深い詭弁を、高学歴の講師を集めて考えてみましょう。

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2016年12月25日 (日)

「若不生者」の「生」を”信楽に生まれさせる”とする解釈にまた戻りました

本日の講師部講義で、珍しく本願、本願成就文についての説明がありました。あれだけ避けていた本願と本願成就文ですが、極一部だけの会員の参加ということもあり、情報が洩れることもないし、会員に対する、本願文の説明も、根拠を出しての説明もしているぞ、とのパフォーマンスのつもりなのでしょう。

さてその内容はと言うと、これまでと何も変わっていない、間違いだらけの説明でした。こっそりと修正してくるのかと思いきや、何の修正もないので、拍子抜けです。高森顕徹会長も、間違いには気が付いているのですが、それでも修正しないのは、会員に救われてほしい、という気持ちの欠落を意味しています。

たとえば、本願の「若不生者」の「」を”信楽に生まれさせる”と言い続けて恥をかき、『なぜ生きる2』でこっそり”浄土に生まれさせる”と修正したものの、今日はまた”信楽に生まれさせる”と元に戻っています。

その「信楽」の説明も当然以前のままで、

後生明るい心、後生楽しい心

とか訳の判らない説明です。
言うまでもなく親鸞聖人の説明は違います。
『教行信証』信巻の信楽釈については何度か紹介しましたので、今回は『浄土文類聚鈔』を紹介します。

二つには信楽、すなはちこれ、真実心をもつて信楽の体とす。しかるに具縛の群萌、穢濁の凡愚、清浄の信心なし、真実の信心なし。このゆゑに真実の功徳値ひがたく、清浄の信楽獲得しがたし。
これによりて釈(散善義)の意を闚ふに、愛心つねに起りてよく善心を汚し、瞋嫌の心よく法財を焼く。身心を苦励して、日夜十二時、急に走め急に作して、頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒の善と名づく、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。この雑毒の善をもつてかの浄土に回向する、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに、まさしくかの如来、菩薩の行を行じたまひしとき、乃至一念一刹那も、三業の所修、みなこれ真実心中に作したまひしによるがゆゑに、疑蓋雑はることなし。
如来、清浄真実の信楽をもつて、諸有の衆生に回向したまへり。

(現代語訳)

二つには信楽について、 この心はすなわち、 真実心を信楽の体とするのである。 ところが、 煩悩に縛られ濁りに満ちた世に生きる愚かな凡夫には、 清らかな信心がなく、 真実の信心がない。 だから、 真実の功徳にあうことができず、 清らかな信楽を得ることができないのである。
そこで、 『観経疏』のおこころを考えてみると、 貪りの心は常に善い心を汚し、 怒りの心はその功徳を焼いてしまう。 たとえ身を苦しめ心を砕いて、 昼夜を問うことなく、 ちょうど頭についた火を必死に払い消すように賢明に努め励んでも、 それはすべて毒のまじった善といい、 また、 いつわりの行というのであり、 真実の行とはいわないのである。 この毒のまじった善を回向しても、 阿弥陀仏の浄土に往生することはできない。

なぜかというと、 阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、 ほんの一瞬の間に至るまでも、 その身・口・意の三業に修められた行はみな、 真実心においてなされたからであり、 だからどのような疑いの心もまじることがない。
阿弥陀仏はその清らかな真実の信楽を、 すべての人々にお与えになるのである。

とあります。

親鸞聖人がここで仰っていることは、

凡夫には阿弥陀仏の報土に生まれることができるような善はできない。
それで阿弥陀仏が凡夫の代わりに修行なされた。
その清らかな真実の信楽をすべての人に与えてくださっている。

ということです。重要なことは、阿弥陀仏のなされた修行による因でわれらが報土往生という果を受けるということです。

後生暗い心が明るい心になった、後生苦しい心が楽しい心になった、という我々の心の変化ではなく、阿弥陀仏から与えられた信心を受け取るだけで、我々の心が変わる訳ではないということなのです。
言わば、高森流因果の道理を否定した、他因自果を仰ったのが「信楽」なのです。

『浄土文類聚鈔』ではこの後に

本願(第十八願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「諸有の衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せん」と。{抄出}
聖言、あきらかに知んぬ。いまこの心は、すなはちこれ、本願円満清浄真実の信楽なり、これを信心と名づく。信心はすなはちこれ大悲心なるがゆゑに、疑蓋あることなし。

(現代語訳)

本願 (第十八願) が成就したことを示す文は、 『大無量寿経』に次のように説かれている。 「すべての人々は、 その名号のいわれを聞いて信じ喜ぶ」
釈尊のお言葉により、 明らかに知ることができた。 この心は、 すなわち本願に誓われている功徳に満ちた清らかな真実の信楽であり、 これを信心というのである。 信心はすなわち大いなる慈悲の心であるから、 疑いの心があるはずはない。

と続きます。

信楽」は阿弥陀仏から与えられた信心であるから疑いの心があるはずがない、ということです。

高森会長の言う”信楽に生まれさせる”との解釈における最大の問題点は、我々の心が阿弥陀仏の清らかな信心に生まれ変わると錯覚していることです。清らかな信心を頂くことと、清らかな信心に生まれ変わることとは全く違うことです。

判り易くいうなら、報土往生する因(信楽)そのものを受け取るのではなく、報土往生という果だけを受け取るのです。ですから「若不生者」の「」は”浄土に生まれさせる”でないと話が通じないのです。

それが摩訶不思議体験至上主義である高森会長には到底理解できないのでしょう。

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2016年12月11日 (日)

理解できるように書かれた聖教を繰り返し読むように勧められた善知識、誰も理解できないのだから読んではならないと禁止する悪知識高森顕徹会長

3年前に高森顕徹会長は『なぜ生きる2』を発刊しました。自信満々で会の内外に大々的に宣伝したものの、退会者から完膚なきまでに叩きのめされ、amazonのレビューでも法論に惨敗し続けた結果、親鸞会は『なぜ生きる2』を切り捨てました。新聞広告には二行程度の紹介しかしなくなり、売る気が全くありません。

高森会長の今の心情は、売れては困るが、宣伝していないと会員に突っ込まれても困るので、宣伝しない訳にもいかず、申し訳程度の紹介に留めているという実情です。

『なぜ生きる2』のメインテーマは三願転入です。三願転入は親鸞聖人の教えの根基だとまで言っていたのですが、その親鸞聖人の教えの根基である筈の三願転入さえ、最近は全く話をしません。高森会長の持っている辞書では急遽、根基の意味は、「話す必要がないこと」に書き換えられたようです。

親鸞会では、聖教は読みませんし、理解できるものではないと言います。理解できるのは世界中で高森顕徹会長ただ一人だと信じています。これでは善知識方の御著書は暗号で、それが解読できる奇特な人物だけに判れば良いという、完全な秘事法門になってしまいます。

実に奇妙な理屈ですが、本気で会員はそう信じ込まされていて滑稽です。

では親鸞聖人をはじめ、善知識方はなぜ著書を残されたのでしょうか。読んだら誤解するような書き方を敢えてなされたのでしょうか。判るように書かれなかった理由は何でしょうか。

少し考えれば判ることですが、善知識方はできるだけ多くの人に聖教を読んで理解してほしいと思われて、できるだけ判るように御苦労なされて著書を残されているのです。

当たり前すぎて、説明するのが馬鹿らしいことですが、この基礎的な思考さえ奪われてしまっているのが会員です。

親鸞聖人は『一念多念証文』と『唯信鈔文意』の最後に同じことを書かれています。

ゐなかのひとびとの文字のこころもしらず、あさましき愚痴きはまりなきゆゑに、やすくこころえさせんとて、おなじことをとりかへしとりかへし書きつけたり。こころあらんひとは、をかしくおもふべし、あざけりをなすべし。しかれども、ひとのそしりをかへりみず、ひとすぢに愚かなるひとびとを、こころえやすからんとてしるせるなり。

(現代語訳)

都から遠く離れたところに住む人々は、 仏教の言葉の意味もわからず、 教えについてもまったく無知なのである。 だから、 そのような人々にもやさしく理解してもらおうと思い、 同じことを繰り返し繰り返し書きつけたのである。 ものの道理をわきまえている人は、 おかしく思うだろうし、 あざけり笑うこともあるだろう。 しかし、 そのように人からそしられることも気にかけず、 ただひたすら教えについて無知な人々に理解しやすいようにと思って、 書き記したのである。

親鸞聖人が、学の無い人にも理解できるようにと心を配られていることがよく判ります。

蓮如上人は『御一代記聞書』で次のように教えられています。

蓮如上人仰せられ候ふ。本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれと、対句に仰せられ候ふ。

(現代語訳)

蓮如上人は、「ご本尊は破れるほど掛けなさい、お聖教は破れるほど読みなさい」と、対句にして仰せになりました。

またこのようにも仰っています。

聖教を拝見申すも、うかうかと拝みまうすはその詮なし。蓮如上人は、ただ聖教をばくれくれと仰せられ候ふ。また百遍これをみれば義理おのづから得ると申すこともあれば、心をとどむべきことなり。聖教は句面のごとくこころうべし。そのうへにて師伝口業はあるべきなり。私にして会釈することしかるべからざることなり。

(現代語訳)

お聖教を拝読しても、ただぼんやりと字づらを追っているだけでは何の意味もありません。蓮如上人は、「ともかく繰り返し繰り返しお聖教を読みなさい」と仰せになりました。世間でも,書物は百遍,繰り返し読めば,その意味はおのずと理解できるというのだから、このことはよく心にとどめておかねければなりません。お聖教はその文面にあらわれている通りにいただくべきものです。その上で、師のお言葉をいただかなければならないのです。自分勝手な解釈は、決してしてはなりません。

親鸞会の会員のために仰ったような内容です。

聖教を繰り返し読めば、善知識方の御心も判ってくるというものです。

そしてもう一つ、聖教は同じ内容が書かれているということです。たとえば、蓮如上人の『正信偈大意』と『御文章』で書かれてある内容が違うと考える発想が根本的におかしいです。同じに決まっています。当然、親鸞聖人の仰せとも同じです。
ただし、手紙の場合には、手紙の相手に応じた表現になっていることがありますので、そのことを考慮する必要はあります。

学のない高森会長にも判るように善知識方は苦心なされてはいますが、聖教を全く読もうとしない高森会長には善知識方の御心は理解できるはずもありません。高森会長自身も理解するつもりもありません。

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2016年12月 2日 (金)

念仏軽視の高森顕徹会長には理解できない蓮如上人の教え

念仏否定であった高森顕徹会長も、最近は信前の念仏を否定まではしなくはなったものの、念仏軽視の姿勢は未だ変わりません。
高森会長が念仏を軽視している根拠が蓮如上人のお言葉です。
『御文章』5帖目11通

それ人間に流布してみな人のこころえたるとほりは、なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなき次第なり。

がよく使われましたが、他にも同じ内容のお言葉はあります。

3帖目2通

されば世間に沙汰するところの念仏といふは、ただ口にだにも南無阿弥陀仏ととなふれば、たすかるやうにみな人のおもへり。それはおぼつかなきことなり。

3帖目4通

しかれば世のなかにひとのあまねくこころえおきたるとほりは、ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、極楽に往生すべきやうにおもひはんべり。それはおほきにおぼつかなきことなり。

3帖目5通

まづ世間にいま流布してむねとすすむるところの念仏と申すは、ただなにの分別もなく南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、みなたすかるべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなきことなり。

ここで共通するのが、「おぼつかなき」です。不確実なことを意味しているのですが、往生できない、という断言ではなく、往生できるかどうか不確実である、ということに注意する必要があります。
逆に言うと、往生できるかもしれない、ということです。

結論を言うと、蓮如上人がここで仰っていることは、「口にただ称名ばかりをとなへ」ることを否定されているのではなく、「なにの分別もなく」という信心のないことを問題にされているということです。

それどころか「口にただ称名ばかりをとなへ」ることを推奨されているのが蓮如上人です。

蓮如上人が書かれた『正信偈大意』から見ていきます。

「印度西天之論家 中夏日域之高僧 顕大聖興世正意 明如来本誓応機」といふは、印度西天といふは天竺なり、中夏といふは唐土なり、日域といふは日本のことなり。この三国の祖師等、念仏の一行をすすめ、ことに釈尊出世の本懐は、ただ弥陀の本願をあまねく説きあらはして、末世の凡夫の機に応じたることをあかしましますといへるこころなり。

とあります。七高僧方が教えられたことについて、「念仏の一行をすすめ」です。一行ですから、他の行である善は勧められていないということです。

龍樹菩薩のところでは、

かの龍樹の『十住毘婆沙論』に、念仏をほめたまふに二種の道をたてたまふ。

天親菩薩のところでは、

この菩薩、大乗経によりて真実を顕す、その真実といふは念仏なり。

と仰っています。蓮如上人が仰っているのは、念仏なのです。

このようにいうと反論するのが、

念仏とは本願のことだ

とか、

念仏とは信後の念仏のことだ

とか文脈を無視して適当なことを言ってくるのが親鸞会です。

最も判りやすいのが曇鸞大師のところで

「三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦」といふは、かの曇鸞大師、はじめは四論宗にておはせしが、仏法のそこをならひきはめたりといふとも、いのちみじかくは、ひとをたすくることいくばくならんとて、陶隠居といふひとにあうて、まづ長生不死の法をならひぬ。すでに三年のあひだ仙人のところにしてならひえてかへりたまふ。そのみちにて菩提流支と申す三蔵にゆきあひてのたまはく、「仏法のなかに長生不死の法は、この土の仙経にすぐれたる法やある」と問ひたまへば、三蔵、地につばきを吐きていはく、「この方にはいづくのところにか長生不死の法あらん、たとひ長年を得てしばらく死せずといふとも、つひに三有に輪廻すべし」といひて、すなはち浄土の『観無量寿経』を授けていはく、「これこそまことの長生不死の法なり、これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし」とのたまへば、曇鸞これをうけとりて、仙経十巻をたちまちに焼きすてて、一向に浄土に帰したまひけり。

とあります。菩提流支三蔵が曇鸞大師に勧めた内容が、「これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし」です。
念仏して出離するのです。善をしてどうのこうのという説明はもちろんありません。

源信僧都のところでは、

専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。

とあります。
報土に往生する人とは、「専修正行になりきはまるかたの執心あるひと」ですから、「専修正行」つまり「口にただ称名ばかりをとなへ」と心が成り極まった信心の人です。

結局、蓮如上人が仰っているのは、中途半端な「口にただ称名ばかりをとなへ」という信心ではなく、「口にただ称名ばかりをとなへ」と「なりきはまるかたの執心あるひと」になりなさいというのことなのです。

何も難しい話ではありませんが、信心と念仏の関係が全く判らない高森会長には理解できないでしょうし、親鸞会会員にも理解しがたい内容かもしれません。

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2016年11月19日 (土)

18願を知らないから成就文も当然知らない高森顕徹会長

親鸞会の関連会社の社長だった人が、社長だけでなく会員も辞めています。理不尽さと非常識、そしておかしな教義に呆れ果てて、真面目な人ほど親鸞会を去っていきます。高森顕徹会長のカリスマ性も無くなり、元々レパートリーの少なかった話が更に限定されてきて、高森会長の話を聞くことが苦痛としか感じられない会員も多いと思います。

高森会長の話で、正しそうな言い回しとして、

念仏で助かるのではなく信心一つで助かるのだ

というのがありますが、言葉上は間違いではないのですが、意味が間違っています。

高森会長がその根拠としてきたのが、18願成就文の「乃至一念」で

18願には信心と念仏が誓われていてどちらで助かるかわからないが、成就文では念仏がないから信心一つで助かるということがハッキリする

という理屈です。
それで念仏を否定して信心だけを勧めるのですが、そこが根本的な間違いです。
簡単に言えば、信心と念仏を別のものとしか考えられないことが原因です。

このように言うと、

親鸞聖人は成就文の「乃至一念」を信の一念として解釈されている

と尤もらしいことを言ってくる薄学の講師や幹部会員がいるかもしれませんので、一応解説をしておきます。

成就文の「乃至一念」について、法然上人は念仏として教えられてきました。『選択本願念仏集』に

第十八の念仏往生の願、あに孤りもつて成就せざらんや。しかればすなはち念仏の人みなもつて往生す。なにをもつてか知ることを得る。
すなはち念仏往生の願成就の文に、「もろもろの衆生ありて、その名号を聞きて信心歓喜して、乃至一念、心を至して回向してかの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得て不退転に住す」といふこれなり。

と仰っていることから、「念仏の人みなもつて往生す」根拠として成就文を出されていることから明らかです。

ところが親鸞聖人はこれを『教行信証』信巻で信心と仰っています。

それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。
ここをもつて『大経』にのたまはく、「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」と。

成就文の「乃至一念」を法然上人が念仏と仰ったのを親鸞聖人は信心で解釈されたのですが、ここで親鸞聖人が法然上人の仰せを否定されたと考えるのは間違いです。どういうことかと言えば、親鸞聖人は法然上人の仰せに対して補足説明をされただけだということです。

その証拠が、18願のことを親鸞聖人は「念仏往生の願」と何度も仰っていることです。

それだけでは捻くれた会員は納得しないでしょうから、他の根拠を示しておきます。

『教行信証』をまとめられた『浄土文類聚鈔』には少し長いですが

行といふは、すなはち利他円満の大行なり。すなはちこれ、諸仏咨嗟の願(第十七願)より出でたり。また諸仏称名の願と名づけ、また往相正業の願と名づくべし。しかるに本願力の回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。往相について大行あり、また浄信あり。大行といふは、すなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はあまねく一切の行を摂し、極速円満す。ゆゑに大行と名づく。このゆゑに称名はよく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはち憶念なり、憶念はすなはち念仏なり、念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。
願(第十七・十八願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「十方恒沙の諸仏如来、みなともに無量寿仏の威神功徳、不可思議にましますことを讃嘆したまふ。諸有の衆生、その名号を聞きて、信心歓喜し乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す」と。

とあります。行の説明に18願成就文を引かれています。
もう一つ『三経往生文類』にも

この如来の往相回向につきて、真実の行業あり。すなはち諸仏称名の悲願(第十七願)にあらはれたり。称名の悲願は『大無量寿経』(上)にのたまはく、「たとひわれ仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟しわが名を称せずは、正覚を取らじ」と。[文]
称名・信楽の悲願(第十七・十八願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「十方恒沙の諸仏如来、みなともに無量寿仏の威神功徳、不可思議なるを讃嘆したまふ。あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜して乃至一念せん。至心回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗するを除く」と。

とあります。同じく行の説明に18願成就文が引かれています。

以上の意味については『末灯鈔』にあります。

信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。

(現代語訳)

信の一念と行の一念とは言葉は二つでありますが、 信を離れた行もありませんし、 行の一念を離れた信の一念もありません。 なぜなら、 行というのは、 本願に誓われている名号を一声称えて浄土に往生するということを聞いて、 一声でも称え、 あるいは十声でも称えることをいうのであり、 この本願を聞いて、 疑う心が少しもないことを信の一念というのです。 ですから信と行とは二つではありますが、 名号を一声称えて往生すると聞いて疑う心がないので、 行を離れた信はないとうかがっています。 また、 信を離れた行もないとお考えください。

簡単なことで、18願に信心と念仏が誓われているのと同様に、その成就文にも信心と念仏両方があります。なぜなら、信心と念仏とは密接不離であるのです。

高森会長は、18願の意味も間違っていますから、成就文の意味も間違っているのは至極当然なことであり、驚くことではありません。

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2016年11月15日 (火)

昔は言葉だけは正しかったもののずれていた解釈、今では解釈以前に言葉もずれまくりの高森顕徹会長

高森顕徹会長は、大学で真宗学を真面目に学んでこなかったので、18願の救いが如何なるものか、全く判っていません。元々おかしい説明が、最近はよりおかしくなっています。

今から約30年前の滋賀降誕会で、高森会長は突如、真宗学用語を説明したことがあります。

親鸞聖人の教えを漢字6字で言うと機無円成回施である

実にまともなことを当時は言っていましたが、このように言ったことは後にも先にもこれ一度きりでした。
機無円成回施について説明しますと、親鸞会でも有名な『教行信証』信巻の至心釈に

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。
ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。
如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。
すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。

(現代語訳)

すべての衆生は、はかり知れない昔から今日この時にいたるまで、煩悩に汚れて清らかな心がなく、いつわりへつらうばかりでまことの心がない。
そこで、阿弥陀仏は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、はかり知ることができない長い間菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間も清らかでなかったことがなく、まことの心でなかったことがない。如来は、この清らかなまことの心をもって、すべての功徳が一つに融けあっていて、思いはかることも、たたえ尽すことも、説き尽すこともできない、この上ない智慧の徳を成就された。
如来の成就されたこの至心、すなわちまことの心を、煩悩にまみれ悪い行いや誤ったはからいしかないすべての衆生に施し与えられたのである。
この至心は、如来より与えられた真実心をあらわすのである。だからそこに疑いのまじることはない。

こうある内容です。
衆生には、仏に成れるような因である清浄心、真実心がないことを最初に仰っています。これを「機無」と言います。善が一切できないではなく、仏に成れるような善ができないです。
この「機無」を本として法蔵菩薩が衆生のために本願を建てて下され、清浄心、真実心をもって行を行じられ、名号を成就なされたことを仰ったのが第二・第三文で、「円成」と言います。
第四文は、不可思議功徳の名号を阿弥陀仏が衆生に向って等しく与えて下されることを仰ったもので、「回施」と言われます。
最後の二文は、他力回向の真実心を衆生は賜わるので、自力の一切混じるものではないことを仰っています。

同様のことを信楽釈でも仰っています。

一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。
如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。
これを利他真実の信心と名づく。

(現代語訳)

すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに修めた自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。
なぜかというと、阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまで、どのような疑いの心もまじることがなかったからである。この心、すなわち信楽は、阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、必ず真実報土にいたる正因となるのである。
如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、この上ない功徳をおさめた清らかな信を、迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。
これを他力の真実の信心というのである。

もちろん欲生釈にもあります。

微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。
このゆゑに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに、利他真実の欲生心をもつて諸有海に回施したまへり。欲生すなはちこれ回向心なり。これすなはち大悲心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなし。

(現代語訳)

あらゆる衆生は、煩悩に流され迷いに沈んで、まことの回向の心がなく、清らかな回向の心がない。
そこで、阿弥陀仏は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまでも、衆生に功徳を施し与える心を本としてなされ、それによって如来の大いなる慈悲の心を成就されたのである。そして他力真実の欲生信を、迷いの衆生に施し与えられたのである。すなわち、衆生の欲生心は、そのまま如来が回向された心であり大いなる慈悲の心であるから、疑いがまじることはない。

約30年前に高森会長が言っていたことは、珍しく正しかったのですが、その意味にずれがありました。

悪人は悪しかできないことで六道から出離できず、善のできる善人も真実の善ができず雑毒の善にしかならないから真実の報土に往生できないということです。

難度海で苦しんでいるとは「機無」、つまり出離できない報土往生できないことであって、丸太や板切れ、泳ぎ方しか考えていないことではありません。

出離したい、報土往生したいと願っても叶わない衆生のために、阿弥陀仏が代わりに御修行なされて報土往生の因を積まれて衆生に与えて下されている、だから難思の弘誓と親鸞聖人は仰っているのです。これが理解できれば、宿善が厚くならないととか、善の勧めがあるとか、三願転入しなければならないとか、そんな発想が出てきようがありません。

親鸞聖人の教えを漢字6字で言うと機無円成回施である

これは大学の授業で、何かの拍子に覚えたのでしょうが、その親鸞聖人の御心を聞き損なったために、ヘンテコな解釈になり、30年前に一度だけ説明をしてみたものの自己矛盾に陥って、それからは説明しようともしなかったのでしょう。

今更、真宗学を学んでいくつもりもないでしょうし、18願の説明をする気もないのですから、高森会長の話を聞く暇があるなら、落語でも聞いていた方がマシです。

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2016年11月 6日 (日)

変な譬え話が更に変になり、真宗教義の欠片もなくなった高森教

親鸞会は、聖教上の御文を使わなくなり高森教と化して久しいのですが、これまで言ってきた変な譬え話までも変化しています。

映画のメインになった幼稚な話、大海に放り出された人が浮かんだ丸太や板切れに掴る云々ですが、その人が何を考えているかについて、どう泳ぐのか、泳ぎ方のことだけだ、と高森顕徹会長が尤もらしく話をしています。

丸太や板切れについては、以前におかしいことを指摘しましたが、益々おかしな説明になりました。皆さんは、気が付かれたでしょうか。どう泳ぐ、泳ぎ方、を考えるのは、泳げる人です。溺れている人ではありません。泳ぐことのできる善人についての譬えであって、泳げない溺れている悪人は、この譬えでは除外されているのです。昔は、溺れて水飲んで苦しんでいる人だと説明していたので、変なりにも許容範囲だったかもしれませんが、今は完全に逸脱しています。

当然ですが、高森会長には18願の根本が判っていないし、浄土門の基礎の基礎がない証拠です。

善導大師は『玄義分』に有名なお言葉を残しておられます。

しかるに諸仏の大悲は苦あるひとにおいてす、心ひとへに常没の衆生を愍念したまふ。ここをもつて勧めて浄土に帰せしむ。 また水に溺れたる人のごときは、すみやかにすべからくひとへに救ふべし、岸上のひと、なんぞ済ふを用ゐるをなさん。

(現代語訳)

ところで、 仏の大悲は苦しむ者に対するのであって、 そのお心はひとえにいつも迷いに沈んでいる衆生をあわれみたもうのである。 そこで浄土に帰するよう勧められる。 また水に溺れているような人は、 いそいで特に救わねばならないが、 岸の上にいる者はどうして救う必要があろうか。

高森会長も、以前は時々口に出して言ったことのある一説ですが、お得意のパクリで意味も判らず使っていただけなのでしょう。

どう泳ぐか、泳ぎ方ばかりを考えているという高森会長の説明は、どこをどう贔屓目に見ても、浄土門ではなく、聖道門に近い発想です。もちろん聖道門でもないですから高森教としか言いようがありません。

浄土真宗の教えは、本願力回向の教えです。阿弥陀仏が兆載永劫の御修行によって成就された功徳を衆生に与えられることをいいます。つまり、往生のために衆生の側で何かを加えたり添える必要がないということです。高森会長が知らない真宗の超常識です。

高森会長が、泳ぎ方を考えるとか、因果の道理から善を勧めれば勧めるほど、本願力回向を否定することになります。なぜなら、阿弥陀仏が兆載永劫の御修行による功徳では足りないと言っていることになるからです。
高森会長自身だけではなく、会員にも仏智不思議の本願力回向を疑わせる恐ろしい罪を造らせているのです。親鸞聖人は、御著書の中で何回もそのことを誡められ、高森会長の説を完全に否定されています。最も判りやすいのが、『正像末和讃』誡疑讃の

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

です。大海に放り出されて、泳ぎ方を常に考えている人のことを仰ったものです。罪福の因果の道理を信じて善を行っている人は、本願力回向を疑っているから、本願力回向によって往ける報土ではなく、その人の自業自得で、七宝の獄という化土に往くことになる、と教えられたています。

親鸞聖人の教えの肝心要の本願力回向というお言葉は、『教行信証』信巻にあります。

「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。

親鸞会の会員も退会者も、「本願力の回向の大信心海」を獲たいと思うのであれば、本願力回向と反する高森会長の説く聖道門もどきの発想を頭から消し去ることです。善ができるとか善をしようとおもっているとか、因果の道理がどうのこうのという泳ぎ方もです。もっと言えば、「本願力の回向の大信心海」を獲るために努力するのではなく、本願力回向を否定する努力を止めることです。

泳ごうとするな

これが会員に伝えたいメッセージです。高森教の教祖には、このメッセージは理解できないと思います。

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2016年10月28日 (金)

弥陀の誓願不思議と摩訶不思議な体験・信心との違いが理解できない高森顕徹会長

何十年の講師部員・会員でも、親鸞会の異常な活動についてゆけずに辞めていく人は後を絶ちませんが、それでも親鸞会が異常性を改めないのは、そうしなければ会を維持できないからです。講師部員・幹部会員への締め付けは年々酷くなり、特に献金の要求は他の宗教団体の追随を許さないところまできています。

こんな異常な中にあっても、親鸞会を辞めない人の心理は、高森顕徹会長の摩訶不思議な体験と信心に魅力を感じているからでしょう。しかしそれは、麻原死刑囚の空中浮揚の神秘性に惹かれてオウムに入った信者と全く同じです。

言うまでもなく、高森会長の言っている摩訶不思議な体験も信心も、阿弥陀仏の救いや親鸞聖人の教えとは関係がありません。

親鸞聖人は不思議、不可思議というお言葉を良く使われますが、それは阿弥陀仏の救いが不思議、不可思議と言うことであって、体験や信心が不思議、不可思議なのではありません。

会員には何のことか理解できないと思いますので、少し説明します。

親鸞聖人は『教行信証』行巻に念仏と諸善とを比較された中に

思不思議対
(現代語訳)
念仏は不可思議の仏智の顕現であり、諸善は分別思議の法である。

があります。
念仏で往生し成仏するということが、到底考えられないことだということです。それに対して諸善で往生や成仏することは不思議でもなんでもないことです。諸善で宿善が厚くなって獲信に近づくという理屈も不思議でもなんでもないことです。そんな理屈も思議も全く及ばない救いであるから、不思議なのです。もちろん諸善で宿善が厚くなってとか、諸善の道程とかがない救いなので、不思議なのです。

蓮如上人の愛読書であった『安心決定鈔』には

まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。和尚(善導)はこれを「別異の弘願」(玄義分)とほめたまへり。

とありますように、救いを求める我らが願を立て行を励むのが筋であるのに、願も行も法蔵菩薩が励まれて、それでいて受ける結果は我らの往生となるのです。世間の理屈でも聖道門の因果の道理にも全くあわないことなので、善導大師は18願を「別異の弘願」と仰って褒め称えられたのです。

もう一度言いますと、不思議、不可思議なのは念仏で往生成仏させると誓われた阿弥陀仏の救いであって、体験や信心が不思議、不可思議なのではありません。我らが善を全くしないのに往生し成仏できるから、考えられないことと親鸞聖人が仰っているのです。

こういうと、信心は地獄行き間違いなしと極楽参り間違いなしの2つが同時に起こる絶対矛盾的自己同一で不思議だろう、と反論するでしょうが、そんな信心は未来永劫起こりません。そんな個人的な味わい感想はあっても、それは信心ではありません。
二種深信は、善では助からない、念仏で助かると心が定まったことをいうのです。二種深信自体は理屈上矛盾ではありません。助かる手段が善か念仏かの選択だからです。ただ、無善で念仏のみで助かるという理屈が矛盾にしか思えないことを不思議、不可思議と仰っているのです。

ここまで説明しても、善なしで信仰が進むなんて考えられない、三願転入せずしてどうして救われるのか、と納得できない会員が多いでしょう。だから、不思議、不可思議なのです。

高森会長自身も、弥陀の誓願不思議と摩訶不思議な体験・信心との違いが理解できていないことは、言うまでもありません。

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2016年10月20日 (木)

18願の救いと聖道門との違いさえも認識できない高森顕徹会長

親鸞会では聖教上の根拠を使わないようにしていることは、何度も書いてきました。そのために、親鸞会の教義は、高森顕徹会長の理屈で成り立っています。尤も、高森会長も以前は聖教上の根拠に基づいて話をしているつもりでした。高森会長の理屈も完全におかしいものしかなく、退会者から完膚なきまでに論破されてしまって、言えなくなったものも多いのですが、理屈の最後の砦が、

親鸞聖人も仏教を教えられたのだから、善の勧めがあるに決まっている

というものです。
会員と話をしていると、起死回生を狙って最後に必ず言ってくるセリフです。

もちろん、間違いです。

根拠を出す前に、理屈で説明しましょう。

親鸞聖人は、善を勧められたお言葉がありません。無いということは、教えられなかった、教える必要がなかった、という結論にしかなりません。救いに必要だけれども、必要なことを教えられていない、という理屈が成り立つかどうかは、考えるまでもない話です。善を勧められたお言葉がないのに、親鸞聖人の本心は善を勧められている、というのは、土蔵秘事に類するものか、親鸞会が邪教と罵る宗教と同じです。

次に根拠を挙げます。
根拠はいくつかありますが、最も判りやすいのが『改邪鈔』のお言葉です。

おほよそ他力の一門においては、釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なりといふは、凡夫の報土に生るるといふをもつてなり。もし因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし。そのゆゑは、たすけましまさんとする十方衆生たる凡夫、因果相順の理に封ぜられて、別願所成の報土に凡夫生るべからざるゆゑなり。

現代語訳(石田瑞磨著『親鸞全集』より)

おおよそ他力の教えは、釈尊一代の説法に一度も例がない、通常一般の聖道門の教えとはまったく別のものであって、言語を超絶した、思惟のとどかないものである、といわれるが、それは、愚かなひとが真実の浄土に生れるということから、そういわれるのである。もし因果は相互にめぐりあうという道理にしたがうならば、釈尊と阿弥陀仏と諸仏が骨折られた、他力という、勝れた浄土への特別な教えも空しくなってしまうだろう。その理由は、お助けになろうとする目当てである、生をうけたすべてのものが、因果は相互にめぐりあうという道理にとじこめられて、独自の誓いによってつくられた真実の浄土に生れることができないからである。

おほよそ他力の一門においては、釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なり」、ここだけでも知っているなら、高森会長の理屈など言語道断だとお判り頂けると思います。聖道門の理屈を適用しようという考え自体が、親鸞聖人の教えを知らない証拠になります。
覚如上人は「釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途」とも再度仰っていますが、聖道門と並列で考えることしてはいけないのが親鸞聖人の教えです。

高森会長が素人相手にどんな屁理屈を考えてきても、退会者の皆さんは何も動じることはありません。高森会長の理屈を根拠を以って粛々と否定するだけです。

高森会長のことを、親鸞聖人の教えを離れても頭脳は世間一般の人より遥かに上だ、と勘違いしている会員も多いでしょうが、おめでたい誤解です。親鸞会でいう邪教の教祖の方が、高森会長より頭はいいでしょう。

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2016年10月 7日 (金)

木の深信が立った高森顕徹会長

親鸞会が現在唯一使う根拠が

難思の弘誓は難度海を度する大船

です。

ここで最も重要なお言葉は言うまでもなく「難思の弘誓」で、18願のことですが、この説明を高森顕徹会長はしません。敢えて説明を避けているのでしょう。その理由は、説明したら非難されることが判っているからです。
高森会長は非難を極度に畏れています。それで非難されない内容として「難度海」の説明に終始していますが、そこもずれています。

高森会長の説明は

難度海に丸太や板切れが浮いていて、丸太や板切れは 金や財産、健康、名誉、地位、妻子、邪教、迷信などと言っています。

こんな感じですが、この譬えは高森会長のオリジナルかと言えば、やはりパクリです。
伊藤康善師による『仏敵』の中に

「じゃ、君に一つの譬えを出そう。君は今、生死の苦海に漂っているとする。そこへ大木が漂流していたら、君はそれにすがるかい?」
「私はすがります」

とあります。
聖教を読んだことのない高森会長は、これが正統的な解釈と勘違いしているのでしょう。

今後も聖教を読むことがないでしょうから、少しだけ教えておきます。

「難度海」の元は、『十住毘婆沙論』易行品です。『教行信証』行巻にも引かれています。

かの八道の船に乗じて、よく難度海を度す。みづから度し、またかれを度せん。

(現代語訳)

八聖道という船に乗って、渡ることのできない迷いの海を超えるのである。自ら仏となって迷いの海を渡り、またあらゆる人を救って迷いの海を渡してくださる

お判りかと思いますが、「難度海」とは迷いの世界を出ることが難い、つまり我らは六道から離れられない、出離できないことを仰ったものです。
金や財産、健康、名誉、地位、妻子という丸太や板切れのレベルの話をされているのではありません。

難度海」の言い換えとしてよく使われる「苦海」は善導大師の『法事讃』にあり、『教行信証』化土巻に引かれています。

循々として愛波に沈みて苦海に沈む。仏道人身得がたくしていますでに得たり。浄土聞きがたくしていますでに聞けり。信心発しがたくして、いますでに発せり。

(現代語訳)

衆生は、すべての迷いの世界を繰り返し輪廻してとどまることがなく、めぐりめぐって長い間欲望の波にのまれ、苦しみの海に沈み続けている。そのように人間として生れ仏道を歩むのは難しいのに、わたしは今すでにそれを得ることができた。浄土の教えを聞くのは難しいのに、今すでに聞くことができた。信心をおこすのは難しいのに、今すでにおこすことができた

この「苦海」も「難度海」と同じで、出離できずに苦しんでいることを仰っているのであって、裏切られる世間的な幸せを信じているとかのレベルではないのです。
仏教を聞いて、出離を求めながら出離できない凡夫の世界を「難度海」「苦海」と表現されていて、出離の道は18願しかないことを示されていることが、容易に判られると思います。

丸太や板切れを信じて苦しんでいるという話を、どれだけ真剣に何百年聞いたところで、「大船」に乗ることはできません。そもそも方向が違っているのです。
世間的な幸福云々を越えた出離を目指した上で、自分の力では出離できないことを知って18願に帰依することを教えられたのです。勘の良い方は気が付かれたと思いますが、二種深信と同じなのです。
機の深信を、丸太や板切れに裏切られることを深信したことだ、とは高森会長でもさすがに言わないのですが、「難度海」「苦海」と機の深信とが完全に無関係だとしか思っていないのでしょう。。

高森会長がもし本当に、機の深信が立っているなら、こんな愚かな説明を自信満々、映画でも法話でもしません。

つまりは、丸太や板切れに拘っていることそのままが、高森会長は機の深信ではなく木の深信という珍しい信心を獲た人物だということです。映画を宣伝すればするほど、嘲笑の的となっていることも知らずに。

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