2017年11月12日 (日)

自力の迷情とは後生どこへ行くかわからない心とか言っているお笑い悪知識

本日も、毎度毎度全くと言っていいほど同じ話で、高森顕徹会長の数少ないレパートリーが更に更に減ってきました。会員は何を思って聞いているのかと質問したくなりますが、大抵の会員は、高森会長が話ができなくなるか亡くなるまでの我慢と耐え忍んでいることでしょう。自分が信心決定できるとは思っていないです。

親切心で、聖教を読んだことのない高森会長と教学を補佐する講師部員のために、少しだけ教えてあげましょう。

最近いつも出す『改邪鈔』の

この娑婆生死の五蘊所成の肉身いまだやぶれずといへども、生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念にやぶれて

ですが、「共発金剛心の一念」は善導大師の『玄義分』が元になっていて、親鸞聖人は『教行信証』信巻に引文されています。

『観経義』に、
「道俗時衆等、おのおの無上の心を発せども、
生死はなはだ厭ひがたく、仏法また欣ひがたし。
ともに金剛の志を発して、横に四流を超断せよ。
まさしく金剛心を受けて、一念に相応してのち、
果、涅槃を得んひと」といへり。

(現代語訳)

『観経疏』にいわれている(玄義分)。
 「出家のものも在家のものも、今の世の人々は、それぞれ自力の菩提心をおこしても、迷いの世界は厭い離れることが難しく、またさとりへの路は求めて得ることが難しい。みなともに他力金剛の信心をおこして、ただちに迷いの流れを断ち切るがよい。まさしく他力金剛の信心を得て、本願にかなう一念の人はついには仏のさとりを得るものである」

親鸞聖人がどのような意味で仰ったのかは、読まれた通りで、自力の菩提心、自力の信心では出離が難しいから他力の信心をおこして、仏のさとりをえなさい、ということです。

つまり、『改邪鈔』で仰っている「自力の迷情」とはその人その人の「無上の心」という自分の力で出離しようとする菩提心のことです。難しい話でも何でもないです。

ところが聖教を読んだことのない高森会長と愉快な仲間達は、

自力の迷情=後生暗い心=後生どこへ行くかわからない心

と妄想し、本日も説明しているのです。

無知の恥じ曝しも大概にしておいた方が宜しいかと思いますが、後生どこへ行くかなんてことは、仏の智慧をもってしか判らないことです。他力の信心とは後生どこへ行くかハッキリする心だ、なんて根拠はどこにもありません。

往生一定ということと、極楽が手に取るように判るようになった、阿弥陀仏のお姿が認識できた、ということとは全く違うのですが、それさえも理解できないのでしょう。

仮に、極楽や阿弥陀仏が判るようになったのなら、定善が楽々できるでしょう。

極楽も阿弥陀仏も判らないが、極楽に往生できることがハッキリ判るんだ!

と訳の判らない反論をしてくるのでしょうが、死後に往く世界も認識できないのに、極楽に往生できると認識できる訳がありません。

往生一定とは、阿弥陀仏に死んだ後のことは全ておまかせしたことであり、阿弥陀仏が必ず往生させると誓っておられるので、往生は間違いない、という以上のことではないのです。

難しい根拠を出すなら、『浄土論註』には

かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり。

(現代語訳)

かの下品の人は生即無生であると知らないけれども、 ただ仏の名号を称えて作願してかの土に生まれようと願うならば、 浄土に至ればかの国は無生の道理にかなった境界であるから、 実消実滅と見る煩悩の火は自然に消えるのである。

とあります。煩悩にまみれて智慧のない下品の人には、往生とはどんなことかまるっきり理解できないのですが、その状態のまま念仏の力によって往生できるということです。

『教行信証』さえ読んだことがないのですから、『玄義分』や『浄土論註』など見たこともないでしょうが、聖教には、高森会長の異安心の証拠が山ほど書かれてあるのです。絶対の幸福とか創価学会用語を未だにパクリ続けて、それで他力の信心を語っているつもりなのですから、後々までお笑い悪知識と愉快な会として名を残してください。

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2017年11月 3日 (金)

阿弥陀仏の約束を疑わないように諸行に励む異安心集団親鸞会

先日の高森顕徹会長の講義では、自力の信心と他力の信心との違いについての話がありました。異安心の高森会長に、自力の信心・他力の信心の説明が正しくできる筈もありません。
高森会長の説明は、

自力の信心とは、阿弥陀仏の約束を疑わないようにしている信心。
他力の信心とは、阿弥陀仏から頂いた信心で、まことの心になる。

でした。
他力の信心を、聖道門のさとりのように勘違いしているところから生じる、あるいは土蔵秘事の一念覚知と混同しているところから生じる、異安心の典型的な理解です。

まず、自力の信心とは、阿弥陀仏の18願を疑わないようにしているのではなく、18願を疑っている信心です。阿弥陀仏の18願とは、前回も言いましたように、因果の道理に相反する救いであり、衆生の側には救いの因は全くなく、当然、何かをしなければならないということは皆無でありますから、救われるために私たちが何かをしようと思っていること自体が、阿弥陀仏18願を疑っているのです。

『教行信証』信巻の

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

(現代語訳)

このようなわけであるから、往生の行も信も、すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。如来より与えられた行信が往生成仏の因であって、それ以外に因があるのではない。よく知るがよい

にある通りです。

仮に疑わないようにしているなら、何もしない筈です。しかし、親鸞会の会員を見れば判りますが、疑わないようにしようと思いながら聞くという行や善に励んでいます。その思い、その行為が疑いそのものでありますから、高森会長の説明は全く意味不明です。

よって、他力の信心とは、阿弥陀仏が全てを用意されているので私が何かをする必要がない、阿弥陀仏に全部おまかせします、という信心です。私の心が真実の心になる訳ではありません。阿弥陀仏にそのままおまかせをしたことを、蓮如上人は「まことの心」と表現されているのであって、私たちの心が「まことの心」にはなりません。

自力の信心と他力の信心の違いを最も端的に顕わされているのが、高森会長の好きな、いや好きだった二河白道の譬えです。

御文を紹介すると長いので、今回は省略しますが、旅人が阿弥陀仏の喚び声を聞く前から聞いた後に何が変わったのかと言えば、白道に乗ったことだけです。幅四、五寸の白道は広くも短くもなっていません。水の河と火の河の波が白道を潤し焼いているのも変わりません。群賊悪獣悪知識も存在したままです。白道に乗って進む以外には、何一つ周りの状況は変わっていません。

つまりは、阿弥陀仏の喚び声に従うか従わないか、疑うか信じるかの違いだけです。

自力の信心と他力の信心の違いは、救われるために自分で何かをしなければならないと思うか思わないかの違いと言えます。

救われたなら善は必要ないが、救われるまでには善をしていかなければ信仰は進まない

とか寝惚けた妄言を信じ続けている限り、他力の信心を頂くことはありません。

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2017年10月29日 (日)

釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途をむなしくする高森顕徹会長と親鸞会

本日の高森顕徹会長の話は、本当の自己を知るのが究極の目的で、本当の自己とは、五逆・謗法・闡提の者だという昔ながらの邪義を垂れ流した内容でした。

この邪義については過去に何十回も書いてきたことで、一口問答でも詳しく書いてきました。

「浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?」
②五逆・謗法・闡提について

ここを読んで頂ければ十分ですが、今回、高森会長が言った「機の真実」という言葉について説明します。

機の真実」という言葉は、『改邪鈔』にあります。

『観無量寿経』は機の真実をあらはして、所説の法は定散をおもてとせり。機の真実といふは、五障の女人・悪人を本として、韋提を対機としたまへり。

(現代語訳 石田瑞磨著『親鸞全集』より引用)

『観無量寿経』は、教えを受けるひとの側の真実の姿を表わし、そこに説かれた教えは定心や散心の善を表としたものである。そしてここに教えを受けるひとの真実というのは、五障を持つ婦人と悪人とが中心で、ここでは韋提希を説法の対象としておられる。

読まれた通りで、「機の真実」とは「五障の女人・悪人を本として、韋提を対機」のことを意味しています。「五障の女人・悪人を本として、韋提を対機」と五逆・謗法・闡提とは意味が違います。理解力の無い親鸞会の会員のために敢えて説明するなら、

悪人の一部に五逆・謗法・闡提がいるということです。

これでも判らないなら、『愚禿鈔』を見てみましょう。

また悪機について七種あり。
一には十悪、        二には四重、
三には破見、        四には破戒、
五には五逆、        六には謗法、
七には闡提なり。

悪人には七種あり、その中の三種が五逆・謗法・闡提だということです。

簡単な話ですが、この簡単な話さえも知らないのが、高森会長なのです。

なぜ知らないのかと言えば、高森会長は聖教を全く読んだことがないのですから当たり前の結果です。

ついでですから、『改邪鈔』の続きを紹介します。

しかりといへども、弥陀超世の大願、十悪・五逆・ 四重・謗法の機のためなれば、かの願力の強盛なるに、よこさまに超截せられたてまつりて、三途の苦因をながくたちて猛火洞燃の業果をとどめられたてまつること、おほきに因果の道理にそむけり。もし深信因果の機たるべくんば、植うるところの悪因のひかんところは悪果なるべければ、たとひ弥陀の本願を信ずといふとも、その願力はいたづらごとにて、念仏の衆生、三途に堕在すべきをや。もししかりといはば、弥陀五劫思惟の本願も、釈尊無虚妄の金言も、諸仏誠諦の証誠も、いたづらごとなるべきにや。おほよそ他力の一門においては、釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なりといふは、凡夫の報土に生るるといふをもつてなり。もし因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし。そのゆゑは、たすけましまさんとする十方衆生たる凡夫、因果相順の理に封ぜられて、別願所成の報土に凡夫生るべからざるゆゑなり。

(現代語訳 石田瑞磨著『親鸞全集』より引用)

しかしそうではあっても、いつの世の仏にも見ることができない阿弥陀仏の大願は、十悪・五逆・四重・謗法などの罪を犯すひとのためであるから、阿弥陀仏の願の絶大なはたらきをもって一切の因果を断ち切られ、三つの悪道に堕ちて受ける苦の原因を永遠に断たれて、もえさかる猛火ののようにはげしい悪業の果報を受けないですむならば、それははなはだしく因果の道理に背くわけである。もし「深く因果を信ずる」ものであるためには、前世に植えた悪因が引くものは、悪果でなければならないから、たとい阿弥陀仏の本願を信ずるとしても、そのときは阿弥陀仏の誓いのはたらきも役に立たないし、念仏のひとも三つの悪道に堕ちなければならないのではないか。もしそうだとすれば、阿弥陀仏が五劫という長いあいだ熟思を重ねた末に立てられた本願も、釈尊が真実を示された金言も、所仏が誠をつくして示された証明も、無意味とならなければならないのだろうか。おおよそ他力の教えは、釈尊一代の説法に一度も例がない、通常一般の聖道門の教えとはまったく別のものであって、言語を超絶した、思惟のとどかないものである、といわれるが、それは、愚かなひとが真実の浄土に生れるということから、そういわれるのである。もし因果は相互にめぐりあうという道理にしたがうならば、釈尊と阿弥陀仏と諸仏が骨折られた、他力という、勝れた浄土への特別な教えも空しくなってしまうだろう。その理由は、お助けになろうとする目当てである、生をうけたすべてのものが、因果は相互にめぐりあうという道理にとじこめられて、独自の誓いによってつくられた真実の浄土に生れることができないからである。

ここでは「機の真実」を「十悪・五逆・ 四重・謗法の機」とも言い換えられています。「十悪」と「四重」に、五逆・謗法・闡提の意味はありません。ちなみに、「四重」とは婬・偸盗・殺生・妄語の罪です。

注目すべきは、阿弥陀仏の救いは「おほきに因果の道理にそむけり」ということです。更には、「釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なり」と仰り、「因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし」とまで繰り返されて、阿弥陀仏の救いが因果の道理と相反することを教えられています。

高森会長が聖教を読んだことがないと、これでハッキリしましたかね。

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2017年10月22日 (日)

自力と他力の水際に疎い高森顕徹会長と愉快な仲間達

猛烈な教義批判に曝されて、慄いている高森顕徹会長の最近の話は、無難な内容で誤魔化そうとしています。しかし、そこは異安心の悲しさで、無難な話のつもりでも明らかな間違いが多々あり、更なる批判を浴びているのが親鸞会です。

最近は特に聴聞の強調をしていますが、高森会長の話は「聞く」という行為に拘わっていることが大きな間違いです。高森会長が聞法善だとか言って、自力の「聞く」という行を強く勧めているのですが、このことから、高森会長には自力と他力の水際が説けないと断言できます。

まず、真宗では「聞く」ということを大事にするのは言うまでもないことです。それは18願成就文に「聞」とあるからです。
この「聞」について、親鸞聖人は判りやすく教えておられます。

『教行信証』信巻に

しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。

と仰っています。
また『一念多念証文』に

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。

簡単にいうと

「聞」とは、18願の教えを聞いて、疑心のない状態(=信心)

ということです。
18願の教えを知らない人にとっては、その教えを知らなければ無疑心にはなりません。そのために、教えを知る、という「聞く」が必要になりますが、18願の教えを十分に知っている人が、無疑心、信心を獲るために18願の教えを聞き重ねていくのではありません。自力の「聞く」ことの延長に信心があるのではありません。
親鸞聖人はその間違いを正されるために先ほどの『教行信証』信巻で

「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。

と仰っています。「本願力回向の信心」です。本願力によって回向される信心ですから、自力が全く混じることもないし、自力の延長上に連続してある信心でもないということです。
本願力回向」ですから、自力とは完全に分離されたものなのです。自力と他力、信前と信後とは相容れない完全に分断されたものなのです。「聞く」ということも自力の「聞く」と他力の「聞く」とは全く別で延長上にあるものではありません。
この他力の「聞く」ということを存覚上人は『浄土見聞集』で上手く表現されています。

聞よりおこる信心、思よりおこる信心といふは、ききてうたがはず、たもちてうしなはざるをいふ。思といふは信なり、きくも他力よりきき、おもひさだむるも願力によりてさだまるあひだ、ともに自力のはからひちりばかりもよりつかざるなり。

高森会長には、自力と他力の水際が説けない、信前と信後の水際が全く説けないのです。

もう一つ、自力の念仏と他力の念仏についても、高森会長とその信者は全くの無知です。

自力の念仏とは『教行信証』化土巻に

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。

とあり、『正像末和讃』誡疑讃に

不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

などとあるように、因果の道理を信じて称える念仏を自力の念仏と親鸞聖人は明言されているのです。一方の他力の念仏は、因果の道理とは相反する「如来の諸智」「仏智の不思議」を信じて称える念仏です。

因果の道理は仏教の教えの根幹だ、とか寝惚けたことを平然と言っている異安心の高森会長と無安心の高森信者には、以上のことは全く理解できないことでしょう。

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2017年9月26日 (火)

「どうすれば救われるのか」真宗と高森教との決定的な違い9

現在の親鸞会は、結局何が言いたいのか良く判らない高森顕徹会長の話を聞いて、何も判らないけど何か有難がっているだけの会員が搾取されて、更に有難がっている思考麻痺の集団です。
教義批判への反論は絶対にできず、絶対に獲ることのできない嘘の信心と救いを求めている会員が哀れです。

さて、言うまでもなく、親鸞聖人は法然上人から阿弥陀仏の救いの教えを聞かれて、救われられています。

その法然上人の教えられた結論が『選択本願念仏集』にある三選の文です。それを親鸞聖人は『教行信証』行巻に引かれています。

それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正・助二業のなかに、なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに

(現代語訳)

そもそも、速やかに迷いの世界を離れようと思うなら、二種のすぐれた法門のうちで、聖道門をさしおき、浄土門に入れ。浄土門に入ろうと思うなら、正行と雑行の中で、雑行を捨てて正行に帰せ。正行を修めようと思うなら、正定業と助業の中で、助業を傍らにおいておきもっぱら正定業を修めよ。正定業とは、すなわち仏の名号を称えることである。称名するものは必ず往生を得る。阿弥陀仏の本願によるからである。

どうすれば救われるのか、法然上人・親鸞聖人が具体的に仰ったお言葉です。

簡潔に言いますと、

Q.どうすれば救われますか?

A.聖道門を閣きて、雑行を抛ちて、助業を傍らにして、仏の名を称することをもっぱらにせよ。

親鸞会で教えていることとまるっきり反対です。

高森会長と愉快な仲間達はこう反論するでしょう。

持っていない者、やっていない者に捨てよとは言われない!

実に愚かです。
聖道門を捨てるために、聖道門に入る必要がありますか。その前の外道を捨てるために、外道に入る必要がありますか。ありません。
同じことで雑行を捨てるのに、なぜ雑行に励む必要があるのでしょうか。それにすでに雑行に励まされている会員が、なぜまだ雑行を更に励む必要があるのでしょうか。

こういいますと、また愚かな彼らは言ってきます。

お勤めを勧められているではないか。助業を勧められているのと同じで、雑行も勧められているのだ!

お粗末な詭弁です。最近の顕正新聞の論説にまで載せて強調していますが、恥さらしも大概にせよと言いたいです。
真宗では助業を勧められることはありません。お勤めとは聴聞です。お勤めという聴聞を勧められたのであって、助業を勧められたものではありません。聴聞とは、

聖道門を閣きて、雑行を抛ちて、助業を傍らにして、仏の名を称することをもっぱらにせよ。

一言で言うならこれまで言ってきたように、

念仏一行(称名一行)

と聞くことです。

お勤めについて『御一代記聞書』には

一 のたまはく、朝夕、「正信偈和讃」にて念仏申すは、往生のたねになるべきかなるまじきかと、おのおの坊主に御たづねあり。皆申されけるは、往生のたねになるべしと申したる人もあり、往生のたねにはなるまじきといふ人もありけるとき、仰せに、いづれもわろし、「正信偈和讃」は、衆生の弥陀如来を一念にたのみまゐらせて、後生たすかりまうせとのことわりをあそばされたり。よくききわけて信をとりて、ありがたやありがたやと聖人(親鸞)の御前にてよろこぶことなりと、くれぐれ仰せ候ふなり。

(現代語訳)

「朝夕に<正信偈和讃>をおつとめして念仏するのは、往生の因となると思うか、それともならないと思うか」と、蓮如上人が僧たち一人一人にお尋ねになりました。これに対して、「往生の因となると思う」というものもあり、また、「往生の因とはならないと思う」というものもありましたが、上人は「どちらの答えもよくない。
<正信偈和讃>は、衆生が弥陀如来を信じておまかせし、この信心を因として、このたび浄土に往生させていただくという道理をお示しくださったのである。だから、そのお示しをしっかりと聞いて信心を得て、ありがたいことだ、ありがたいことだと親鸞聖人の御影像の前で喜ぶのである」と、繰り返し繰り返し仰せになりました。

と有る通りです。また同じく『御一代記聞書』に

一 十月二十八日の逮夜にのたまはく、「正信偈和讃」をよみて、仏にも聖人(親鸞)にもまゐらせんとおもふか、あさましや。他宗にはつとめをもして回向するなり。御一流には他力信心をよくしれとおぼしめして、聖人の和讃にそのこころをあそばされたり。ことに七高祖の御ねんごろなる御釈のこころを、和讃にききつくるやうにあそばされて、その恩をよくよく存知して、あらたふとやと念仏するは、仏恩の御ことを聖人の御前にてよろこびまうすこころなりと、くれぐれ仰せられ候ひき。

(現代語訳)

十月二十八日の逮夜のときに、蓮如上人は、「<正信偈和讃>をおつとめして、阿弥陀仏や親鸞聖人にその功徳を差しあげようと思っているのであれば嘆かわしいことである。他宗では、勤行などの功徳を回向するのである。しかし浄土真宗では、他力の信心を十分に心得るようにとお思いになって、親鸞聖人のご和讃にそのこころをあらわされている。
特に、懇切にお書きになった七高僧のお書物のこころを、だれもが聞いて理解できるようにと、ご和讃になさったのであり、そのご恩を十分に承知して、ああ尊いことだと念仏するのは、仏恩の深いことを聖人の御前で喜ばせていただく心なのである」と、繰り返し繰り返し仰せになりました。

とも仰っています。

お勤めを勧める=助業を勧められている

とは、無知にも程があるでしょう。

もっと直接的な根拠では『改邪鈔』に

しかるをいま風聞の説のごとくんば、「三経一論について文証をたづねあきらむるにおよばず、ただ自由の妄義をたてて信心の沙汰をさしおきて、起行の篇をもつて、〈まづ雑行をさしおきて正行を修すべし〉とすすむ」と[云々]。これをもつて一流の至要とするにや。この条、総じては真宗の廃立にそむき、別しては祖師の御遺訓に違せり。正行五種のうちに、第四の称名をもつて正定業とすぐりとり、余の四種をば助業といへり。正定業たる称名念仏をもつて往生浄土の正因とはからひつのるすら、なほもつて凡夫自力の企てなれば、報土往生かなふべからずと[云々]。そのゆゑは願力の不思議をしらざるによりてなり。当教の肝要、凡夫のはからひをやめて、ただ摂取不捨の大益を仰ぐものなり。

とあって、自力の「称名念仏をもつて往生浄土の正因とはからひつのるすら」「報土往生かなふべからずと」誡められているのに、「〈まづ雑行をさしおきて正行を修すべし〉とすすむ」ことは、「総じては真宗の廃立にそむき、別しては祖師の御遺訓に違せり。」とまで切り捨てられています。

こんな基本中の基本さえ知らないで、基本中の基本を正反対に教えている親鸞会に救いなどあろうはずがありません。

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2017年9月23日 (土)

「どうすれば救われるのか」真宗と高森教との決定的な違い8

高森顕徹会長の口から聞いたことのない「念仏一行」という言葉ですが、この「念仏一行」を最も強調されたのが法然上人です。善導大師も「念仏一行」と仰っている個所はありますが、法然上人は飛びぬけて強調されています。

法然上人の御著書である『選択本願念仏集』には、10回以上も「念仏一行」と仰っています。つまり、法然上人の教えは、「念仏一行」の教えそのものなのです。
法然上人のお弟子であった親鸞聖人は法然上人のことを『正信偈』で

本師源空は、仏教をあきらかにして、

と、ここでは念仏という単語を出されずに仰ったのですが、それを蓮如上人は『正信偈大意』で

日本には念仏の祖師その数これおほしといへども、法然聖人のごとく一天にあまねく仰がれたまふひとはなきなり。これすなはち仏教にあきらかなりしゆゑなり。されば弥陀の化身といひ、また勢至の来現といひ、また善導の再誕ともいへり。

と解説なされています。日本における多くの「念仏の祖師」の中でも法然上人以上の方はないということで、法然上人も当然「念仏の祖師」だと表現なされています。

その法然上人の教えられた「念仏一行」の教えで、親鸞聖人が特に注目されたのが、

生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもって所止とす。すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもって能入とす

です。
蓮如上人はこれを

生死輪転の家といふは、六道輪廻のことなり。このふるさとへ還ることは疑情のあるによりてなり。また寂静無為の浄土へいたることは信心のあるによりてなり。されば『選択集』にいはく、「生死の家には疑をもつて所止とし、涅槃のみやこには信をもつて能入とす」といへる、このこころなり。

疑情」と「信心」で「生死輪転の家に還来る」か「寂静無為の楽に入る」か分かれる、いわゆる信疑決判です。この信疑決判は高森会長でも言っているのですが、その意味が間違っています。

今まで私が書いたことが理解できれば、簡単なことですが、「念仏一行」を否定する高森会長と愉快な仲間達には理解不能でしょう。

簡単に説明しますと、

疑情」とは「念仏一行」を疑う心です。もう少し言葉を加えると、「念仏一行」で往生できるとは思えない心のことです。

これは、高森会長と愉快な仲間達の心そのままです。
何度でも示しておきますが『なぜ生きる2』にも

無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。

こう書いていますし、本願寺を非難する時も同じことを言っています。
頭の鈍い高森会長と愉快な仲間達のために親切に言葉を言い換えておきましょう。

無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”念仏一行で良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。

言葉のあやでも何でもありません。
完全に「念仏一行」を否定しているのです。

Q.どうすれば救われるのか?

A.「念仏一行」で救われると疑いがなくなったら。

法然上人・親鸞聖人を非難攻撃した聖道門と同じことを言いながら、真宗を名乗る愚かさに少しは恥を知りなさいと言い続けてきましたが、厚顔無恥の高森会長でした。

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2017年9月14日 (木)

「どうすれば救われるのか」真宗と高森教との決定的な違い7

前回の続きです。

親鸞聖人が『教行信証』行巻に引かれている『往生要集』の

『観経』に「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」と。

ですが、これは『観経』についての説明ですので、まず、『観経』の内容について述べておきます。

『観経』に説かれていることの大半は韋提希の獲信だと錯覚しているのが高森顕徹会長と愉快な仲間達ですが、それを言っていることが既に『観経』を読んだことのない証拠になります。『観経』の大半は、九品往生について説かれています。
九品往生とは、上品上生から下品下生までの九通りの人の往生のことです。
具体的には散善の三福(行福・戒幅・世幅)と念仏による往生で、

「上品上生」「上品中生」「上品下生」は、行福を修して往生する
「中品上生」「中品中生」は、戒福を修して往生する
「中品下生」は、世福を修して往生する
「下品上生」「下品中生」「下品下生」は、無三福で念仏を称えて往生する

という内容です。

これを善導大師の弟子であった懐感禅師が『釈浄土群疑論』の中で

『観経』の下品上生、下品中生、下品下生の三処の経文には、みなただ弥陀仏を念じて浄土に往生すと陳ぶ。

と言われました。それを承けられて源信僧都は『往生要集』で

『観経』に「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」と。

と言い換えられました。「極重の悪人」とは下品下生のことです。懐感禅師は、下品上生、下品中生、下品下生という軽度から極重の悪人を並べて言われたことを源信僧都は下品下生に絞って仰ったものです。その「極重の悪人」には念仏以外の方便の善は勧められず、念仏一行を勧められているということです。逆に言えば、善人には念仏以外の方便の善があるということです。

高森会長と愉快な仲間達が言う、「極重の悪人」と知らされたら念仏を称えて助かるという頓珍漢な話ではなく、上品上生から中品下生にまで勧められている行福・戒福・世福の三福ができないし、しようともしない悪人のしかも最底の悪人には、念仏でしか助かる方法がないということなのです。

それでも信用しない高森会長と愉快な仲間達のために、『観経』の下品下生の御文を出しておきます。

下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。 この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。

(現代語訳)

もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。そこで善知識はさらに、<もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい> と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。

善知識の勧められたことは「なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし」です。そして善知識の勧められる通りに「十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ」の結果、「極楽世界に往生することを得」です。

これを源信僧都は「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」と仰り、親鸞聖人も『高僧和讃』で

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

と言い換えられ、蓮如上人もまた『正信偈大意』で

極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よ

と解説なされているのです。

善知識の勧められることは

無量寿仏〔の名〕を称すべし(観経)
南無阿弥陀仏と称せしむ(観経)
ただ仏を称念して(往生要集)
ひとへに弥陀を称して(高僧和讃)
ただ弥陀を称して(正信偈大意)

と共通しています。南無阿弥陀仏と称えることで極楽に往生すると教えられるのが善知識の定義です。
一方高森会長は、

無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。(なぜ生きる2)

善知識の定義とは正反対の悪知識だと小学生でも判る話です。

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2017年9月10日 (日)

「どうすれば救われるのか」真宗と高森教との決定的な違い6

本日も高森顕徹会長は、いつもと同じ話を繰り返しただけです。念仏の信心ということに触れることもありません。なぜなら、高森会長の信心は、創価学会をパクった誰も成れない絶対の幸福だからです。

さて、続きです。

源信僧都の教えられたことを『正信偈』では

源信広く一代の教を開きて、ひとへに安養に帰して一切を勧む。

とあり、それを『正信偈大意』では

楞厳の和尚は、ひろく釈迦一代の教を開きて、もつぱら念仏をえらんで、一切衆生をして西方の往生をすすめしめたまへり。

と解説なされています。「もつぱら念仏をえらんで」という高森会長の口からは絶対にでない表現で蓮如上人は仰っています。

次の

専雑の執心、浅深を判じて、報化二土まさしく弁立せり

に対しては

雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり。また専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。

と仰っています。ここでは信心について蓮如上人が明言された箇所です。

自力の信心を「雑行雑修の機をすてやらぬ執心」とされた上で、「かならず化土懈慢国に生ずるなり」です。必堕無間を完全否定なされています。
そして他力の信心を「専修正行になりきはまるかたの執心」とされています。「専修正行」とは念仏一行のことですから、他力の信心とは、念仏一行に極まった心のことです。念仏の信心、唯念仏だけを称えて間違いなく助かると心が定まったことが他力の信心と蓮如上人は解説をなされています。

一方で高森会長の信心の説明は、

地獄一定と極楽一定の二つの心がハッキリしたことだ、

とか訳の判らない話で、信心の内容に念仏が出てきたことは一度もありません。
蓮如上人の仰る他力の信心と高森会長の他力の信心は全くの別物です。
阿弥陀仏から賜る念仏の信心と、創価学会作成の信心とが同じである筈がないです。

更に決定的なのがこの後の

極重の悪人はただ仏を称すべし

を蓮如上人は、

極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と仰っていることです。極重の悪人には、念仏以外の善という方便はない、ただ念仏して往生しなさい、と明言されています。

Q.どうすれば救われますか?

A.他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よ

高森会長の60年間の教えが根底から覆される御文です。
mixiでの三願転入の法論で、最後のダメ押しをしたのが、この御文です。『往生要集』を引かれた『教行信証』行巻で

『観経』に「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」と。

親鸞聖人は間違えようのないお言葉で説明されています。
それで、高森会長は絶句し、敗走しました。

ところがmixiでの惨敗後、高森会長は

極重の悪人と知らされたなら、他の方便なしで18願一つで救われる

というような捻くれ解釈をするようになりました。
もちろん、そんな解釈が成り立つ筈もないことは、少し調べれば簡単に判ることです。
この説明は少し長くなりますので、次回にします。

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2017年9月 6日 (水)

「どうすれば救われるのか」真宗と高森教との決定的な違い5

当然なことですが、異安心の高森顕徹会長も愉快な仲間達も、未だに念仏と信心との関係が全く理解できていません。高森会長の話や機関紙をみれば、明らかです。

確認のために何度でも言いますが、信心とは、念仏を称えて往生できると疑いなく信じたことです。言い方を換えると、念仏一行と心が定まったことです。
しかし、この念仏一行にも、自力と他力がありますので、他力の方の、念仏一行を親鸞聖人、蓮如上人は強調されたのだけです。
ということは、自力ではあっても念仏一行となっていない、もっと言うと、形式上でさえ善をしている人が、そのままいくら求めたところで他力の念仏一行になることはないということになります。言い換えると、雑行を捨てていない状態で、いくら努力しても念仏一行と心が定まるわけがないです。

この簡単な理屈が全く理解できないのが、高森会長と思考停止の会員です。

以上を踏まえて前回の続きです。
『正信偈』の道綽禅師の

道綽、聖道の証し難きことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす

を蓮如上人は『正信偈大意』では

この道綽はもとは涅槃宗の学者なり。曇鸞和尚の面授の弟子にあらず、その時代一百余歳をへだてたり。しかれども并州玄中寺にして曇鸞の碑の文をみて、浄土に帰したまひしゆゑに、かの弟子たり。これまたつひに涅槃の広業をさしおきて、ひとへに西方の行をひろめたまひき。されば、聖道は難行なり、浄土は易行なるがゆゑに、ただ当今の凡夫は浄土の一門のみ通入すべきみちなりとをしへたまへり。

と教えられました。
道綽禅師が教えひろめられたことは「ひとへに西方の行をひろめたまひき」です。「西方の行」です。もちろん念仏という「」のことです。信心をひろめられたという言い方はされていません。

この後

万善の自力、勤修を貶す。円満の徳号、専称を勧む。

については、

万善は自力の行なるがゆゑに、末代の機、修行することかなひがたしといへり。円満の徳号は他力の行なるがゆゑに、末代の機には相応せりといへるこころなり。

です。
ここでも「他力の行」ですから念仏という「」です。

次に善導大師のところでは

慶喜の一念相応して後、韋提と等しく三忍を獲

を蓮如上人は

一心念仏の行者、一念慶喜の信心さだまりぬれば、韋提希夫人とひとしく、喜・悟・信の三忍を獲べきなり。

と解説なされています。「一心念仏の行者」は、今回最初に私が言った内容と合致します。信心を「一念慶喜」と表現されただけではなく、「一心念仏」とも仰っていることが重要です。
なお、「一心念仏」にも自力の「一心念仏」と他力の「一心念仏」がありますので、普通に考えれば、自力の「一心念仏の行者」が「一念慶喜の信心さだまり」、他力の「一心念仏の行者」となるのです。

では、自力の念仏を称えていれば、他力になるということか!

と親鸞会は短絡的な反論をしてくるでしょうが、私が言っていることは、雑行の行者がいきなり「一念慶喜の信心さだま」った後に他力の「一心念仏の行者」になるのではないということです。

親鸞会では未だに、

雑行を捨てよとは、善をするな、ではない、自力の心を捨てよだ

と寝惚けた妄言を吐いていますが、自ら選択して念仏一行一心念仏になってからの自力と他力の話になるのです。諸善にしがみついて形の上でさえ念仏一行になっていない者が、他力を語ること自体が片腹痛いというものです。

七高僧も、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人も「念仏の一行をすすめ」られたのに、それを徹底的に排斥して、雑行に邁進させる高森会長と邁進されられる愉快な仲間達に明るい未来はやってこないでしょう。

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2017年9月 3日 (日)

「どうすれば救われるのか」真宗と高森教との決定的な違い4

いつもいつも間違った同じ話を聞かされて、親鸞会の会員は難行を強いられています。

では前回の続きで念仏の一行をすすめられた七高僧方が、具体的にどう教えられたのかを龍樹菩薩から順に見ていきます。

『正信偈』の

難行の陸路、苦しきことを顕示して、易行の水道、楽しきことを信楽せしむ

を蓮如上人は『正信偈大意』で

かの龍樹の『十住毘婆沙論』に、念仏をほめたまふに二種の道をたてたまふ。一つには難行道、二つには易行道なり。その難行道の修しがたきことをたとふるに、陸地のみちを歩ぶがごとしといへり、易行道の修しやすきことをたとふるに、水のうへを船に乗りてゆくがごとしといへり。

と解説されています。
龍樹菩薩は、「難行道」という諸善と「易行道」という念仏を対比されて、「易行道」の念仏を褒め称えておられると仰ったのです。「修しやすき」ですから、行です。「念仏をほめたまふ」であって、「本願をほめたまふ」「信心をほめたまふ」と仰っていないところが重要です。

天親菩薩のところでは

修多羅によりて真実を顕して、横超の大誓願を光闡す。

を蓮如上人は

この菩薩、大乗経によりて真実を顕す、その真実といふは念仏なり。横超の大誓願をひらきて

と解説されています。

真実といふは念仏なり」であって、「真実といふは本願なり」「真実といふは信心なり」とは仰っていません。この後の「横超の大誓願」と「念仏」は区別されています。

次に曇鸞大師のところでは

三蔵流支、浄教を授けしかば、仙経を梵焼して楽邦に帰したまひき

という曇鸞大師がどのようにして救われられたのかを蓮如上人は詳しく

かの曇鸞大師、はじめは四論宗にておはせしが、仏法のそこをならひきはめたりといふとも、いのちみじかくは、ひとをたすくることいくばくならんとて、陶隠居といふひとにあうて、まづ長生不死の法をならひぬ。すでに三年のあひだ仙人のところにしてならひえてかへりたまふ。そのみちにて菩提流支と申す三蔵にゆきあひてのたまはく、「仏法のなかに長生不死の法は、この土の仙経にすぐれたる法やある」と問ひたまへば、三蔵、地につばきを吐きていはく、「この方にはいづくのところにか長生不死の法あらん、たとひ長年を得てしばらく死せずといふとも、つひに三有に輪廻すべし」といひて、すなはち浄土の『観無量寿経』を授けていはく、「これこそまことの長生不死の法なり、これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし」とのたまへば、曇鸞これをうけとりて、仙経十巻をたちまちに焼きすてて、一向に浄土に帰したまひけり。

と解説なされています。
曇鸞大師が菩提流支から言われたことは、「これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし」です。信前の曇鸞大師に勧められたのは、「念仏すれば」です。
これを簡単に言うと、

Q.どうすれば救われますか?

A.念仏すれば

こういうことになります。
善の勧めもなく、いきなりの念仏の勧めです。

龍樹菩薩・天親菩薩・曇鸞大師の教えられたことは、念仏です。もちろん、信心の伴った念仏であることは言うまでもありません。

高森顕徹会長は『なぜ生きる2』でこう書いています。

無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。

七高僧、親鸞聖人、蓮如上人と正反対のことを言っていることを、思考停止の会員は知らないと、死後は大変なことになりますよ。今も、搾取されて大変なことになっているでしょうけど。

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