聖道の機・定散の機・逆謗の機の違い、真実の善・雑毒の善・無善造悪の違いも判らない高森会長
難しい御文ばかり出すと、古文の読めない高森会長・講師部員・幹部会員は、ほとんど理解できないみたいですので、今回は簡単な話をします。
雑毒の善ができる、ということは、無善造悪の逆謗の屍ではありません。当たり前のことです。
ところがそれが判らない高森会長は『本願寺なぜ答えぬ』に、
ではなぜ、信前の人に、自力一杯の聴聞や、破邪顕正、布施行などの諸善を勧めるのか。
机上の空論や、合点なら易しい。仏教は、行学である。
自力は捨てもの、間に合わぬものと、合点するのはたやすいが、実地の体験は、難中之難、無過斯だから、浄土は、易往而無人なのだ。
後生の一大事の解決には、自力は間に合うか、合わぬか、実際、全力を尽くして、初めて、出きることか、出来ないことか、可能か不可能か、ハッキリ知らされるのだ。
喩えて言えば、クラスで力自慢の、小学一年の男子を連れて、母親が瀬戸物店へ、買い物に行った。
大バーゲンで、たんまり仕込んだ母親が、重そうに、荷物を持って店を出た。
瀬戸物は、量の割に、重いものだ。
それを見て、子供が、
「お母さん、僕、それ持ってあげる。僕、力強いんだよ、昨日もクラスの相撲で、一番だった」
と、自分の力を、誇示する。
とてもとても、子供の力に合うような、品物でないことは、母親は、百も千も承知している。
「こんな重いものが、あんたなんかに、持てますか、落としたら、どうするの」
頭から、叱りつける母親は、余り、利口な親とは、言われぬ。
「そうお、坊や、そんなに強くなったの、お母さん、嬉しいわ、それじゃあ持ってくれる」
利口な母親は、持てないことを充分承知の上で、一度持たせてみせるのだ。
落としたら大変だから、母親は、密かに、下に手を廻している。
子供は、誉められて持ったのだから、男の意地だ、何とか持とうと渾身の力で、力んではみるが、とてもかなわぬ重荷を知らされ、力尽きて、
「お母さん、やっぱり、僕の力じゃ、駄目だ、早くとって!!落とすよ、早く、早く」
と、母親に任せる。
子供は、母親が、荷物を下から支えていることを知らないから、驚いて、心から素直に、母親に、任せるのだ。
と書いて、自己矛盾をさらけ出しています。もちろんこの子供の喩えも、大沼法竜師の作ったもので、高森会長が考えたものではありません。
この喩えは、クラスで力自慢の男子、相撲で一番になった子供の話です。力に自信のない子供の話ではありません。高森会長は、この力自慢の男子を全ての人という意味で使っていますし、無善造悪の逆謗の屍と知らされるというのは、皿が1枚も持てないひ弱な子供のことを喩えなければ、高森流機の深信は嘘になります。
従って、完全に矛盾しています。他の子供よりも力の強い男子が、皿を持って、皿が1枚も持てないクラス1のひ弱な男子と知らされる訳がないでしょう。無茶苦茶な理論です。
釈尊は機に応じて、法を説かれています。仏になるには、真実の善をすればいいと聞いて、それならば自分にできそうだ、と思った人に、聖道門が勧められています。聖道門までは無理だと思う人には、19願が勧められるのです。
真実の善ができると自惚れている人は、親鸞聖人の教えを聞こうとはしません。
真実の善ができると自惚れている人は聖道門を信じるか、19願での往生を願うでしょう。
真実の善ができないと思っているから親鸞聖人の教えを聞いて、18願での往生を願うのです。
それは何枚も重ねた瀬戸物という荷物が持てるとは全く思っていない子供と同じです。クラスでは力の弱い子供、相撲でも簡単に負けてしまう子供、つまりこれだけの善ができなければ仏になれない、往生できない、と聞かされても、それは自分にはとても無理だと思う人に、
お前は腹底では瀬戸物が持てると自惚れているんだ、自分の力で成仏、往生できると自惚れているのだ
と無理やり瀬戸物を持たせ、善を強要すればどうなるか。大抵は潰れてしまうでしょう。これを親鸞会の会員に適用すると以下のようになります。
力の弱い子供は言うでしょう。
「お母さんは、僕にはこのお皿1枚も持てないと言ってたじゃないの。こんなたくさんの皿なんか持てないよ。」
しかし、母親は言います。
「嘘を言ってはいけないよ。坊やは、これだけの皿くらい持てると本当は思っているのでしょう。一回持ってみなさい、そうすれば持てないことが判るから。」
子供は嫌がります。
「嫌だよ、持てないことくらい判ってるよ。僕、疲れてるから歩きたくもないんだよ。」
母親は子供に厳しく叱りつけます。
「そんなに甘えているなら、御飯もおやつも、これからは無しよ。持ちなさい。」
子供は泣きながら
「そんなの嫌だよ。じゃあ、お皿1枚だけ持つよ。」
子供に皿1枚を持たせて、
「まだ持てるでしょ。はいこれも。」
皿をもう1枚子供に持たせます。
「もう無理。許してよ、お母さん。」
お母さんは益々厳しく
「じゃあ、御飯もおやつも要らないのね。まだこんなにお皿が残ってるじゃないの。このお皿を落としたら、飲み物もおもちゃも無しよ。」
これが高森会長と会員とのやりとりです。
瀬戸物を持てるなどと全く思っていない、持つことを嫌がる子供に瀬戸物を無理やり持たせようとするのを虐待といいます。しかしその親はいうでしょう、
虐待ではなく躾だ
と。高森会長は、子供を虐待する親と同じ思考です。ここで、子供に皿を持たせる母親の本心は、自分が楽をしたい、ということです。高森会長の数々の贅沢三昧がそれを証明しています。皿が1枚も持てないことを知らせるために、皿を1枚、2枚と持たせる異常な思考回路です。
会員は、真実の善ができないと判っています。判っていなければ、親鸞会の話など聞く訳がないです。それなのに雑毒の善ができるのだから雑毒の善をせよ、と言ったところで、逆謗の屍と知らされる訳がありません。その関係を言えないから、
善をしなければ良い結果が返ってこない、真宗が衰退しているのは善を勧めないからだ
と的外れの説明しかできないのでしょう。
高森会長は根拠を出せません。ないからです。
聖道門で成仏を目指す、あるいは聖道門は無理でも19願での往生を目指す、という人には、瀬戸物を持たせるという権仮方便が必要になることはあります。
しかし、18願での往生を願っている人に、無理やり、
お前は善ができると自惚れているんだから、命懸けの財施、法施をせよ、命懸けでやらなかったら必堕無間だぞ
と脅して強要するのは虐待そのものであり、方便ではありません。母親になる素養のない人物が母親になってしまった、真宗の布教師になる資質のない人物が真宗の布教師を名乗ってしまったので。
このような虐待によって、多くの人が精神も肉体も病んで、そのために亡くなった人もあれば、未だにPTSDで苦しんでいる人も相当の数にのぼります。
一方で、未だに会員として残っている人は、親から虐待されても親から離れられない子供と同じです。
会員は実に哀れです。


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