2019年7月19日 (金)

”宿善薄き”弥勒菩薩、”宿善厚き”高森顕徹会長

高森顕徹会長の衰えもあるのでしょうが、映画は親鸞会内でも盛り上がりに欠け、大コケとなっています。予想されたことですので、何も驚くべき結果ではありません。

さて、『教行信証』信巻にある、親鸞会でも有名な御文

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

ですが、ここから弥勒菩薩は「念仏の衆生」ではないし、信心を獲て往生即成仏もできない、と親鸞聖人は観られていたことが判ります。

では、弥勒菩薩は阿弥陀仏の18願を知られないのか、と思う人もあるかもしれませんが、弥勒菩薩は『大無量寿経』の聴衆であるだけでなく、釈尊との問答までされていますので、当然ながら、18願についてもすべて知られた上で、聖道門の修行を続けられているのです。

『大無量寿経』の最後に

仏、弥勒に語りたまはく、「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなりと。
このゆゑに弥勒、たとひ大火ありて三千大千世界に充満すとも、かならずまさにこれを過ぎて、この経法を聞きて歓喜信楽し、受持読誦して説のごとく修行すべし。ゆゑはいかん。多く菩薩ありてこの経を聞かんと欲すれども、得ることあたはざればなり。もし衆生ありてこの経を聞くものは、無上道においてつひに退転せず。このゆゑにまさに専心に信受し、持誦し、説行すべし」と。

(現代語訳)

釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「無量寿仏の名を聞いて喜びに満ちあふれ、わずか一回でも念仏すれば、この人は大きな利益を得ると知るがよい。すなわちこの上ない功徳を身にそなえるのである。
だから弥勒よ、たとえ世界中が火の海になったとしてもひるまずに進み、この教えを聞いて信じ喜び、心にたもち続けて口にとなえ、教えのままに修行するがよい。なぜならこの教えは、多くの菩薩たちがどれほど聞きたいと願っても、なかなか聞くことができないものだからである。もしこの教えを聞いたなら、この上ないさとりを開くまで決して後もどりすることはないであろう。だからそなたたちはひたすらこの教えを信じ、心にたもち続けて口にとなえ、教えのままに修行するがよい」

とありまして、釈尊が弥勒菩薩に直接、阿弥陀仏の救いの教えを信じて、聞いて、念仏せよ、と説かれたにも関わらず、弥勒菩薩は信じられなかった、ということになります。

弥勒菩薩は、仏の一歩手前ですので、仏を除いた善人の筆頭です。過去世においても、そして現在も、弥勒菩薩以上の善人はいません。当たり前ですが、一応言っておきますと、弥勒菩薩は悪人ではありません。
善人の第一人者である弥勒菩薩をしても、阿弥陀仏の救いを信じられない高森流の”宿善薄き者”になるのです。弥勒菩薩以外の多くの菩薩は、「多く菩薩ありてこの経を聞かんと欲すれども、得ることあたはざればなり。」と釈尊が仰るように、阿弥陀仏の救いを知られないから、信じようもないかもしれませんが、弥勒菩薩は釈尊から直接聞かれているのです。

この弥勒菩薩のことを通してでも、阿弥陀仏の18願に救われることと、善とは全く関係ないと判ります。高森理論を当てはめると、弥勒菩薩が”宿善薄き者”ですから、”宿善厚き者”は仏だけになります。つまり、全人類は仏にならなければ、”宿善厚き者”となることができないことになります。”宿善厚き者”の高森会長は、仏のつもりなのでしょう、きっと。

ここまでくると無茶苦茶な話です。

高森理論の崩壊と共に、親鸞会の崩壊も近づいているようです。

| | コメント (0)

2019年7月 7日 (日)

親鸞聖人の教えと対極にある高森顕徹会長の教え

高森顕徹会長の休みは、まだまだ続きそうですが、ヘンテコ宿善論もまだ続けていく気満々なのでしょう。

親鸞聖人は、宿善という言葉自体を御著書には使用されていません。近い親鸞聖人のお言葉を紹介するなら、『教行信証』総序の

たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。

でしょう。また『浄土文類聚鈔』には

たまたま信心を獲ば、遠く宿縁を慶べ

とあります。宿善も宿縁も同じだと高森会長は考えているようですが、明らかに違います。「たまたま行信を獲ば」「たまたま信心を獲ば」です。必然ではなく「たまたま」です。なぜかよく判らないが「行信」「信心」を獲たならば、遠い過去からの「宿縁」を慶びなさい、です。

高森先生もそのように仰っている

と寝とぼけた会員は反論するでしょうが、宿善を自らの努力によって厚くすることができて、厚くなった宿善が開発するのだ、という理屈なら、「たまたま」ではないですし、「遠く宿縁を慶べ」ではなく、過去の自分を褒めてあげましょう、ということになります。

自分の力が一切間に合わないことが知らされてどううのこうの

と訳の判らないことをまだ言ってくるでしょうが、「自分の力が間に合わない」と知らされるまで努力した結果、信心を獲るのですから、必然ですし、過去にそこまで頑張った自分を褒めてあげましょう、になるのです。

親鸞聖人が、「たまたま」とか、「遠く宿縁を慶べ」と仰ったのは、源信僧都が仰ったことと同じで、

生死の因縁は不可思議なり

だからです。

聖道門で命がけの修行をしている人は、信心を獲ることができず、強盗放火殺人と悪の限りを尽くした耳四郎が、信心を獲ることができたのは、「たまたま」としか言いようがありません。その因縁は何か全く判らないが、それを慶ぶしかない、というお言葉となってくるのです。

それを証明するお言葉は『教行信証』信巻の

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

です。『浄土文類聚鈔』にも、全く同じお言葉があります。現代語訳は

このようなわけであるから、往生の行も信も、すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。如来より与えられた行信が往生成仏の因であって、それ以外に因があるのではない。よく知るがよい

です。高森流の宿善論で言うなら、宿善が厚いのも薄いのも、宿善を厚くするのも、すべて阿弥陀仏がなされることであり、それ以外にはない、ということです。

自分で努力してという因は、欠片もないのが、阿弥陀仏の救いです。

この極めて重要なことを完全に捻じ曲げて、というよりも知らないで、適当なことを言い続けてきたナンチャッテ善知識が高森顕徹という人物です。
親鸞聖人の教えと対極にあるのが、高森会長の教えですから、高森会長の話を正しく聞いて救われることは、「たまたま」もありません。高森会長の話を180度聞き間違う特殊な能力が「たまたま」あれば、救われることもあるかもしれませんが、もしそうなったら、その特殊な能力を「慶べ」です。

| | コメント (4)

2019年7月 1日 (月)

源信僧都でも判らないと仰ったことを判ったつもりで断言する勘違い高森顕徹会長

源信僧都は、高森会長のいう”宿善厚い人”(過去の善根の厚い人)と”宿善薄い人”(過去の善根の薄い人)が、阿弥陀仏の本願を聞ける人と聞けない人とどのような関係になっているかを『往生要集』に教えておられます。

問ふ。もししからば、聞くものは決定して信ずべし。なんがゆゑぞ、聞くといへども、信じ信ぜざるものある。

答ふ。 『無量清浄覚経』にのたまはく、「善男子・善女人ありて、無量清浄仏の名を聞きて、歓喜し踊躍して、身の毛起つことをなし、抜け出づるがごとくなるものは、みなことごとく宿世宿命に、すでに仏事をなせるなり。それ人民ありて、疑ひて信ぜざるものは、みな悪道のなかより来りて、殃悪いまだ尽きざるなり。これいまだ解脱を得ざるなり」と。{略抄}
また『大集経』の第七にのたまはく、「もし衆生ありて、すでに無量無辺の仏の所にしてもろもろの徳本を殖ゑたるものは、すなはちこの如来の十力・四無所畏・不共の法・三十二相を聞くことを得ん。{乃至}下劣の人は、かくのごとき正法を聞くことを得ることあたはじ。たとひ聞くことを得とも、いまだかならずしもよく信ぜず」と。{以上}
まさに知るべし、生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。

(現代語訳)

問う。もしそうであるならば、聞く者はかならず信ずるはずである。どういうわけで、聞いても信ずるものと信じないものとがあるのか。

答える。《平等覚経》に説かれている。
善男・善女があって、無量清浄仏のみ名を聞いて、喜び踊り、身の毛がよだって抜けるように思う人は、みな悉く過去世にすでに仏道を修めているものである。もしまた人があって、仏を疑って信じないものは、みな悪道から来て、その罪がまだ尽きないもので、なおまだ解脱を得ることができないのである。
また《大集経》の第七巻に説かれている。
もし衆生があって、すでに無量無辺の仏の所において、もろもろの徳本を植えたものは、この如来の十力・四無所畏・十八不共法・三十二相を聞くことができるのである。中略 下劣の人はこのような正法を聞くことができない。たとい聞くことができたとしても、まだ必ずしも信ずることはできないのである。
これによってわかるであろう。生死の因縁は不可思議なものである。功徳が少ないものでありながら、聞くことができるのは、そのわけを知ることが難しい。

ここの結論が「生死の因縁は不可思議なり」です。”宿善の薄い人”(過去の善根の薄い人)つまり「薄徳のもの」でも「聞くことを得る」で、過去世の功徳が少ない者であっても、18願念仏往生を聞いて信じることができるのだと仰っています。しかも、その理由を知ることは難しいと源信僧都でさえ仰っています。

また

問ふ。仏、往昔に、つぶさに諸度を修したまひしに、なほ八万歳にこの法を聞きたまふことあたはざりき。いかんぞ、薄徳のたやすく聴聞することを得る。 たとひ希有なりと許せども、なほ道理に違せり。

答ふ。この義、知りがたし。
(中略)
ゆゑに上人のなかにもまた聞くこと難きものあり、凡愚のなかにもまた聞くものあり。これまたいまだ決せず。 後賢、取捨せよ。

(現代語訳)

問う。仏は昔つぶさに諸の菩薩の行を修めたもうたが、八万年に及んでも、この法を聞くことができなかったという。どうして、功徳の少ないものが、たやすく聴聞することができようか。たとい、それは稀な例であると認めても、やはり道理に違うであろう。

答える。この義は、なかなか難しい。
(中略)
故に、すぐれた人の中にも、仏法を聞くことの難しいものがあり、愚かな人の中にも、仏法を聞くものがある。ところで、この義は、まだ決定したものではないから、後の賢い方々は取捨していただきたい。

かつて諸の菩薩の行を修められて仏になられた方であっても、「なほ八万歳にこの法を聞きたまふことあたはざりき」ですから、”宿善の極めて厚い人”(過去の善根が極めて厚い人)が、阿弥陀仏の本願を聞けなかったのに、”宿善の薄い人”(過去の善根の薄い人)が簡単に阿弥陀仏の本願を聞いてしまうという現実に対して源信僧都のような方でさえも、過去世の因縁について知ることは難しい、と繰り返し仰っています。「道理に違せり」「これまたいまだ決せず。 後賢、取捨せよ。」と明言をさけておられます。宿善とは、過去世において善をしてきたかどうか、という単純なことではないと、源信僧都は仰っているのです。

具体的な例を挙げるなら、弥勒菩薩は”宿善の厚い人”(過去の善根の厚い人)のトップです。弥勒菩薩以上の人は仏ですから、人間で弥勒菩薩を超えることは不可能です。その弥勒菩薩は、未だ他力の信心を獲ていません。念のため言っておきますと、弥勒菩薩は『大無量寿経』で釈尊と問答をされていますので、阿弥陀仏の18願を知らないということではありません。それに対して、耳史郎は”宿善の薄い人”(過去の善根の薄い人)の代表ですが、他力の信心を獲たと、高森顕徹会長も認めています。

高森流宿善論が如何に幼稚な理屈かお判りになられると思います。本願寺が呆れるのも当然でしょう。親鸞会の理屈など、赤子の手を捻るくらい簡単に論破できます。

反論があればいつでもどうぞ。

| | コメント (0)

2019年6月29日 (土)

善導大師に徹底的に扱き下ろされた高森顕徹会長

明日の高森顕徹会長の話は、ドクターストップのため、中止となりました。毎度毎度のことですから、会員も恒例行事くらいにしか思っていない人がほとんどのようです。

さて、前回の高森会長の話でも因果の道理のことを言っていましたが、因果の道理を信じていたなら、阿弥陀仏に救われる人と救われない人の差は、過去世において何らかの因縁があったに違いないと考えるのが当然です。因果の道理を深信していた聖道門の人からすると、阿弥陀仏に救われる人は過去世に相当の善をしてきた人でなければ筋が通らないと考え、それが宿善という概念に繋がってくるわけです。つまり高森会長の宿善論は、聖道門と全く同じです。

この聖道門の概念を徹底的に論破されたのが、浄土門の善知識方でありました。

善導大師は、『玄義分』でこう仰っています。

次に下輩の三人を対せば、諸師のいふ、「これらの人はすなはちこれ大乗始学の凡夫なり。 過の軽重に随ひて分ちて三品となす。 いまだ道位にあらず。 階降を弁ちがたし」とは、まさに謂ふにしからず。 なんとなれば、この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。
(中略)
下品の三人はこれ悪に遇へる凡夫なり。 悪業をもつてのゆゑなり。 終りに臨みて善によりて、仏の願力に乗じてすなはち往生を得。 かしこに到りて華開けてまさにはじめて発心す。 なんぞこれ始学大乗の人といふことを得んや。
もしこの見をなさば、みづから失し他を誤りて害をなすことこれはなはだし。

(現代語訳)

つぎに下輩の三種の人を対破するならば、他師らは、これらの人は大乗を始めて学ぶ十信位の凡夫であって、罪の軽重にしたがって三品に分けるが、まだ修行をしていないから、その上下を区別しがたいといっているが、そうではなかろうと思う。何となれば、この三種の人は、仏法につけ、世間につけ、いずれの善根もなく、ただ悪を作ることだけを知っている。
(中略)
下品の三種の人は悪縁に遇うた凡夫であって、悪業があるから、臨終に善知識により、弥陀の願力に乗託してすなわち往生することができ、かの国に至って華が開けて、そこで始めて菩提心をおこすのである。どうしてこれが大乗を始めて学ぶ十信位の人ということができようか。もし他師らのような考えをするならば、みずから利益を失い他をあやまらせて、害をなすことがいよいよ甚だしい。

『観無量寿経』の中で、下品上生から下生までの悪人が往生できたのは、過去世に大乗仏教に遭った十信位の人であると聖道門の諸師が解釈しているのは間違いだと、厳しく非難為されています。「仏法・世俗の二種の善根あることなし」です。過去にも現在にも全く善根がないということですから、全くの無善の人であり、仏法も聞いてこなかった人だと善導大師は断言されているのです。一応言っておきますが、雑毒の善は悪ではなく善ですから、雑毒の善をしてきた人は、ここには入りません。雑毒の善も高森会長の勧める聞法善も、朝晩のお勤めも親切などの善もしてこなかった人のことを善導大師は「下輩の三人」と定義されていることが判ります。

ただ、現実には人間界に生まれるには、さすがに無善では生まれられないので、言い過ぎという感じはしますが、善導大師としては聖道門の諸師に対して「阿弥陀仏のお力をどれだけ軽んじているのか」、という激しい怒りで、「もしこの見をなさば、みづから失し他を誤りて害をなすことこれはなはだし。」とまで扱き下ろされたのでしょう。

したがいまして善導大師が高森会長の宿善論を知られたら、「もしこの見をなさば、みづから失し他を誤りて害をなすことこれはなはだし」と躊躇なく大喝せられるでしょう。

高森会長が『玄義分』を読んでいるわけがないので、聖道門の諸師と同じ主張を平気で言えることも判ります。

もちろん、善導大師だけがこのように仰っているのではありません。次回は源信僧都がどう仰っているか述べます。

| | コメント (2)

2019年6月25日 (火)

高森顕徹会長の宿善論は完璧に「真宗の廃立にそむき、祖師の御遺訓に違せり」

今回の高森顕徹会長の話で、宿善を厚くする方法として、

1.聞法善
2.朝晩のお勤め
3.親切など

と黒板に書いていました。
薄い宿善が、これらをすることによって厚くすることができるということです。
ではその根拠があるかと言えばありません。ただし、この元となったのが親鸞会でも有名な香樹院師の語録です。
加藤智学編『香樹院講師語録』より

禅僧弘海曰く。予かつて師に問う、
私、浄土真宗の教えに帰し、
御講師に随い聴聞いたせども、
未だ心に聞え申さず、如何致すべく候や、と。
師の仰せに、
汝まづ聖教を熟覧せよ、と。

則ち命のごとく拝見候いしが、文義はわかれども、
我が出離にかけて思えば、往生一定ならず。
再び、如何せんと問い参らす。
師曰く、よく聞くべし、と。

予聞いて云わく、
よく聞くとは如何聞くべきや。
師曰く、骨折って聞くべし。

予云わく、
骨折るとは、遠路を厭わず聞き歩くことに候や、
衣食も思わず聞くことに候や。
師曰く、しかり。

予また問うて云わく、
しからば、それほどに苦行せねば聞えぬならば、
今までの禅家の求法と何の別ありや。
師呵して曰く、
汝法を求むる志なし、いかに易行の法なりとも、
よく思え、今度佛果を得る一大事なり。
しかるに切に求法の志なき者は、
これを聞き得ることをえんや、ああうつけ者かな、と。

予云わく、
しからば身命を顧みぬ志にて、聞くことなりや。
師曰く、
もっともしかり。切に求むる志なくして、
何ぞ大事を聞きえんや。
また曰く、常に絶え間なく聞くべし、と。

予問い参らするよう、
それはその志にて聴聞つかまつれども、
法縁の常になきを如何致すべきや、と。
師その時に、
何ぞ愚鈍なることを云うぞ。法話なき時は、
聞きたることを常に思うべし。
聞く間ばかり聞くとは云わぬぞ。
また曰く、
汝眼あり、常に聖教を拝見すべし、
これまた法を聞くなり。
もしまた世事にかかりあい、聞見常に縁なき時は、
口に常に名号を称すべし、これまた法を聞くなり。
汝信を得ざるは業障の故なり。
さればいよいよ志を励まし、かくの如く常に心を砕き、
よく聞けよ。信を得る御縁は聞思に限るなり、と。

聞法、聖教を読むこと、そして念仏を称えること、とありますが、これを悪意で、上記のように改竄したのです。ところが最近は、念仏も宿善になるといっているので、香樹院師の内容に近付けているともいえます。

この香樹院師の言っている意図は判りますが、表現としては問題があります。

覚如上人の『改邪鈔』には、このようにあります。

しかるをいま風聞の説のごとくんば、「三経一論について文証をたづねあきらむるにおよばず、ただ自由の妄義をたてて信心の沙汰をさしおきて、起行の篇をもつて、〈まづ雑行をさしおきて正行を修すべし〉とすすむ」と[云々]。これをもつて一流の至要とするにや。この条、総じては真宗の廃立にそむき、別しては祖師の御遺訓に違せり。正行五種のうちに、第四の称名をもつて正定業とすぐりとり、余の四種をば助業といへり。正定業たる称名念仏をもつて往生浄土の正因とはからひつのるすら、なほもつて凡夫自力の企てなれば、報土往生かなふべからずと[云々]。そのゆゑは願力の不思議をしらざるによりてなり。当教の肝要、凡夫のはからひをやめて、ただ摂取不捨の大益を仰ぐものなり。

簡単に言うと、

雑行を止めて正行を修しなさいと勧める人があるが、それは親鸞聖人の教えに背いている。
なぜなら、親鸞聖人は自力の称名念仏さえ誡められているのに、助業を勧めるのは阿弥陀仏のお力を全く知らないからである。
凡夫のはからいを捨てて、摂取不捨の大益を仰ぎなさい。

ということです。

香樹院師の結論は聞きなさいですから、意図は正しいのですが、それを自力の行で宿善を厚くすることと理解したら間違いです。

これまでのエントリーでも言ってきましたが、親鸞聖人は聖教上で自力の念仏を勧められたお言葉はないのです。同様に、自力の聞法を勧められたお言葉もありません。ましていわんや、親切等の善を勧められた親鸞聖人のお言葉があると言っている高森会長は、親鸞聖人の教えに疎いにも程があるというものです。

もちろん、阿弥陀仏の救いについて知らなくては話になりませんので、教えを聞いて知ることは前提として必要でしょうからその意味で信前に一生懸命に聞くことは良いことです。しかし、教えを聞くことで宿善が厚くなって救われるのではありません。

教えを聞いてそのまま受け取りなさい

が、親鸞聖人の仰る、”救われる方法”になります。親鸞聖人は最初から他力の念仏を勧められた、ということを以前から言ってきましたが、同じことで親鸞聖人は最初から他力の意味での「聞法」を勧められているのです。それを覚如上人は「ただ摂取不捨の大益を仰ぐものなり」と絶妙な表現をされています。
雑行を修して正行も修すべし」と勧める頓珍漢な高森会長と愉快な仲間達には、到底理解できない境地でしょう。

| | コメント (25)

2019年6月23日 (日)

高森顕徹流ヘンテコ宿善論復活

本日の高森顕徹会長の話は、また過激な邪義に逆戻りでした。前回の話の時に、邪義が落ち着いてきたと評価しましたので、天邪鬼の高森会長が昔の邪義を復活させたというところでしょうか。あるいは、映画の評判が会員にも良くないので、会員の心を引き留めるために話を昔の通りに戻したのかもしれません。

内容は、宿善についてでした。『本願寺なぜ答えぬ』でも書いていた宿善を厚くする方法についてと言った方が正確です。少し前に”縁の浅い会員”が、「高森会長は宿善を厚くする話をしていない」、とか言って、私を批判してきたことがありましたが、現実に、宿善を厚くして救われるという話を今でもしていることが、これで証明されたのです。それでも思考停止の会員は「そんなことを高森先生は仰っていない。そんな聞き方だから親鸞会を辞めたんだろう。」とか言ってくるかもしれません。かわいそうに。

さて今回の宿善の話で出した根拠の一つが『御一代記聞書』の

陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。
弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。
とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。
已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。
昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もありと仰せられしと[云々]。

です。『なぜ生きる2』18章でも最後の2文を除いて取り上げられています。
ただし、この意味がまた無茶苦茶です。この意訳として

陽の当たるところの花は速く咲き、日蔭の花は遅いだろう。
陽の当たるところの花が速く咲くように、弥陀の本願を真剣に聞き速く救われる人もある。聞法を怠れば日蔭の花のように救われるのも遅くなる。
同じく弥陀の光明(聞法)に遇っても、救われるのが速い人と遅い人があるのは、人それぞれの宿善(過去の善根)に遅速(厚薄)があるからだ。
救われている人も、救われていない人も、ともかくも、大事なことは真剣な聴聞である。

としています。
かなり無理な訳にしていることがお判りでしょうか。
最も問題なのが

かように宿善も遅速あり

ですが、この意味は高森顕徹会長の言葉を使うなら、

同じく弥陀の光明(聞法)に遇っても、救われるのが速い人と遅い人がある

です。

人それぞれの宿善(過去の善根)に遅速(厚薄)があるからだ

の意味はありません。
その証拠をお見せしましょう。

このお言葉は蓮如上人が「金を掘り出すような聖教」とまで絶賛されました『安心決定鈔』にあるお言葉を言い換えられたものです。事実、『御一代記聞書』には、『安心決定鈔』からの引用が多数あります。
ここの関連部分は

かるがゆゑに仏の正覚のほかは凡夫の往生はなきなり。十方衆生の往生の成就せしとき、仏も正覚を成るゆゑに、仏の正覚成りしとわれらが往生の成就せしとは同時なり。仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。機によりて三世は不同なれども、弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり。
(中略)
かくこころうれば、われらは今日今時往生すとも、わがこころのかしこくて念仏をも申し、他力をも信ずるこころの功にあらず。勇猛専精にはげみたまひし仏の功徳、十劫正覚の刹那にわれらにおいて成じたまひたりけるが、あらはれもてゆくなり。覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり。已・今・当の三世の往生は不同なれども、弘願正因のあらはれもてゆくゆゑに、仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり。

です。
ここに書かれてあることは、
阿弥陀仏が十劫の昔に、本願を成就されているのに、人によって往生の時期に前後ができるのはなぜかということについてです。
『御一代記聞書』と比較するとよく判ります。

已今当の往生あり(『御一代記聞書』)
=すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり(『安心決定鈔』)
=已・今・当の三世の往生は不同なれども(『安心決定鈔』)

このことより、

宿善も遅速あり(『御一代記聞書』)
=仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば(『安心決定鈔』)
=覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり(『安心決定鈔』)

となります。

ことわりをしる」「あらわす」とありますし、『御一代記聞書』の最後に

昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もあり

とありますので、『御一代記聞書』の「宿善」とは、信心のことを指していることがお判り頂けると思います。

つまり『御一代記聞書』では、信心をうることに遅速があるから、已今当の往生がある、と教えられたお言葉と理解できます。

『安心決定鈔』の「ことわりをしる」「あらわす」ことは、自分のやった善とは全く関係ないのです。『安心決定鈔』の、

弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり

仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり

に、そのことが明確に解説されています。
要するに、『御一代記聞書』の「宿善」には、自力的な意味の善は含まれていないのです。

結局

人それぞれの宿善(過去の善根)に遅速(厚薄)があるからだ。

こんな意味になることは、100%あり得ません。
今回のエントリーは、人並みの読解力がないと理解できない内容ですから、国語の成績が良くない人は、国語の成績の良い人に解説してもらってきてください。その上で、反論があるなら、いつでも反論を受け付けます。コメント欄で削除されるとか言うのなら、私が消すことのできない公平などこかの掲示板でも結構ですから反論を書いて、そこでやり取りをしますよ。
それだけの勇気があるならですが。

| | コメント (0)

2019年6月16日 (日)

「一心に正念にしてただちに来れ」の本願招喚の勅命

念仏については、自力他力があり、勧められているのか勧められていないのか、単純な話ではありませんので、もう少し説明します。

阿弥陀仏の18願は、二河白道の譬えの中で、阿弥陀仏の喚び声で表現されています。

なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ

この解説は『浄土文類聚鈔』にあります。

これによりて師釈を披きたるにいはく、「西の岸の上に人ありて喚ばひてのたまはく、〈なんぢ、一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉」と。また〈中間の白道〉といふは、すなはち、貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。仰いで釈迦の発遣を蒙り、また弥陀の招喚したまふによりて、水火二河を顧みず、かの願力の道に乗ず」と。{略出}
ここに知んぬ、「能生清浄願心」は、これ凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なるがゆゑに清浄願心とのたまへり。しかれば、「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり。深心はすなはちこれ堅固深信なり。堅固深信はすなはちこれ真心なり。真心はすなはちこれ金剛心なり。金剛心はすなはちこれ無上心なり。無上心はすなはちこれ淳一相続心なり。淳一相続心はすなはちこれ大慶喜心なり。大慶喜心を獲れば、この心三不に違す、この心三信に順ず。この心はすなはちこれ大菩提心なり。大菩提心はすなはちこれ真実信心なり。真実信心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。

阿弥陀仏は、我々に対して「ただちに来れ」と喚んでおられますが、その条件が、「一心に正念にして」です。「一心」については、言い換えをたくさんされていますが、判りやすいお言葉では「真実信心」です。「正念」については、「正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。」と仰っていますので、念仏です。
要するに、真実の信心で念仏してただちに来なさい、と阿弥陀仏が仰っているのだと解釈されたのが親鸞聖人です。これが本願招喚の勅命です。

自力の念仏を称えて来なさい、でもなく、念仏称えずに来なさい、でもないです。他力の念仏を称えて来なさい、ですので、念仏は往生の条件だと親鸞聖人が仰っているのです。

では、阿弥陀仏の喚び声を聞く前は、何かをしてこいと仰っているかと言えば、二河白道の譬えには何も仰っていませんので、親鸞聖人の教えでは、最初から他力の念仏が勧められているとしか言いようがないのです。

しかしながら、自力の信心で念仏の行に励む人がいますので、そういう人に対して親鸞聖人は、誡めのお言葉をたくさん残しておられことを以前にも書いた通りです。

最も厳しくしかも詳しく仰ったのが、『教行信証』化土巻の真門釈で、その結論が、

おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。

(現代語訳)

大乗や小乗の聖者たちも、またすべての善人も、本願の名号を自分の功徳として称えるから、他力の信心を得ることができず、仏の智慧のはたらきを知ることがない。すなわち阿弥陀仏が浄土に往生する因を設けられたことを知ることができないので、真実報土に往生することがないのである。

です。
ここを注意深く読むと判りますが、悪人は入っていないのです。「本願の嘉号をもつておのれが善根とする」のは善人であって、悪人は「本願の嘉号をもつておのれが善根とする」ことがないということです。悪人の定義が、善ができないし、善をしようとも善ができるとも思っていない人のことですので、このように親鸞聖人は仰ったのであろうと思われます。

そうなりますと、親鸞聖人が唯一、自力の念仏を勧められたと言える真門釈の最初にある

それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願ふべし。

は、善人に対してのことであり、聖道門及び要門にいる人に対してのお言葉とみるべきでしょうから、結局は、すべての人に対して親鸞聖人が自力の念仏を勧められたお言葉というのは、聖教上ではないことになります。

念仏を中途半端にしか理解できていないと、何十年と布教使を続けていても親鸞聖人の教えは半分も判らないでしょう。

| | コメント (8)

2019年6月10日 (月)

法然上人と親鸞聖人の念仏についての見解の違い

前回の続きです。

 
法然上人は明らかに、自力の念仏を勧められています。しかも、自力の念仏から他力の念仏になるという意味合いです。
親鸞聖人は、それを否定されてはいません。
それは『浄土和讃』大経讃に
 
定散自力の称名は
 果遂のちかひに帰してこそ
 をしへざれども自然に
 真如の門に転入する
 
とあることからも判ります。
 

しかしながら、前回も言いましたように、親鸞聖人に積極的な自力の念仏の勧めというのはないのです。つまり、法然上人の教えられたこととは若干のずれがあるのです。

 
たとえば『選択本願念仏集』で法然上人はこのように仰っています。
 
わたくしにいはく、「少善根福徳の因縁をもつて、かの国に生ずることを得べからず」といふは、諸余の雑行はかの国に生じがたし。ゆゑに「随縁雑善恐難生」といふ。少善根とは多善根に対する言なり。しかればすなはち雑善はこれ少善根なり、念仏はこれ多善根なり。ゆゑに龍舒の『浄土文』にいはく、「襄陽の石に『阿弥陀経』を刻れり。すなはち隋の陳仁稜が書けるところの字画、清婉にして人多く慕ひ玩ぶ。〈一心不乱〉より下に、〈専持名号以称名故諸罪消滅即是多善根福徳因縁〉といふ。今世の伝本にこの二十一字を脱せり」と。{以上}
ただ多少の義あるのみにあらず。また大小の義あり。いはく雑善はこれ小善根なり、念仏はこれ大善根なり。
 
(現代語訳)
 
わたくしにいう。 「少善根福徳の因縁をもっては、 かの国に生まれることはできない」 というのは、 念仏よりほかのいろいろの自力の行では、 かの国に生まれ難いから、 「おのおのの根機に応じて作った雑善では恐らくは生まれがたい」 というのである。
少善根というのは、 多善根に対する言葉である。 そうであるから雑善は少善根であり、 念仏は多善根である。 そこで、 龍舒の『浄土文』に、
「襄陽にある石に刻んだ『阿弥陀経』は、 すなわち隋の陳仁稜が書いたもので、 字がうるわしく、 人が多く慕い愛でるが、 「一心にして乱れず」 の下に 「専ら名号を持ち、 名を称するを以ての故に諸罪消滅す。 即ち是れ多善根福徳の因縁なり」 と記されてある。 今の世に伝わる本には、 この二十一字が脱ぬけている。」 以上
といってある。
ただに多少の義があるばかりではなく、 また大小の義もある。 すなわち雑善は小さい善根であり、 念仏は大きい善根である。 
 
ここで法然上人が仰っていることは、諸善は「少善根福徳の因縁」であるから浄土に生まれることはできないが、念仏は「多善根福徳の因縁」であるから浄土に生まれることができるのだ、ということです。化土往生については仰っていないので、18願の報土往生について念仏は「多善根福徳の因縁」だということになります。
 
ところが親鸞聖人はこの襄陽の石碑について『教行信証』化土巻の真門釈でこのように仰っています。
 
元照律師の『弥陀経の義疏』にいはく、「如来、持名の功勝れたることを明かさんと欲す。まづ余善を貶して少善根とす。いはゆる布施・持戒・立寺・造像・礼誦・座禅・懺念・苦行、一切福業、もし正信なければ、回向願求するにみな少善とす。往生の因にあらず。もしこの経によりて名号を執持せば、決定して往生せん。すなはち知んぬ、称名はこれ多善根・多福徳なりと。むかしこの解をなしし、人なほ遅疑しき。近く襄陽の石碑の経の本文を得て、理冥符せり。はじめて深信を懐く。かれにいはく、〈善男子・善女人、阿弥陀仏を説くを聞きて、一心にして乱れず、名号を専称せよ。称名をもつてのゆゑに、諸罪消滅す。すなはちこれ多功徳・多善根・多福徳因縁なり〉」と。{以上} 
 
(現代語訳)
 
元照律師の『阿弥陀経義疏』にいっている。 
「釈尊は、念仏の功徳がすぐれていることを明らかにしようとされ、まず念仏以外の善を劣ったものとしてわずかな功徳しかないといわれる。布施をし、戒律をたもち、あるいは寺を建て、仏像をつくり、仏を礼拝し、経を読み、または座禅をし、懺悔し、苦行するなどのすべての善は、もし正しい信がなかったなら、そのような善によって浄土に往生しようと願っても、みなわずかな功徳しかなく、往生の因ではないのである。もし、『阿弥陀経』の教えにしたがって念仏するなら、間違いなく往生するであろう。だから念仏は多くの功徳があると知ることができる。
かつて、わたしはこのような解釈をしたが、世間の人はなお疑って信じなかった。しかし最近、襄陽の石碑に刻まれた『阿弥陀経』の文を見たところ、わたしの解釈と見事に一致しており、そこではじめて深く信じるようになったのである。その文には次のように説かれている。<善良なものよ、阿弥陀仏について説かれるのを聞いて、心を乱すことなくただひとすじに名号を称えるがよい。名号を称えることにより、あらゆる罪が除かれる。すなわち念仏は多くの功徳をそなえて行である>」 
 
化土巻の真門釈ですから、親鸞聖人は20願の自力の念仏についてと解釈されているのです。
法然上人は、念仏は「多善根福徳の因縁」だから報土往生できるのだと教えられ、
親鸞聖人は、自力の念仏は「多善根福徳の因縁」だから化土往生できるのだと教えられた
ということになります。
 
念のためもう一度言いますが、
 
親鸞聖人は法然上人の教えられたことを否定はされていません。しかし、念仏についての見解には、ずれがあるのです。
親鸞聖人は、自力の念仏を否定されてはいませんが、積極的な勧め方をされていないということは、知っておかねばなりません。

| | コメント (1)

2019年6月 4日 (火)

親鸞聖人が他力の念仏を最初から勧められたことを知らない親鸞会

某所で某退会者が教義について書いた内容を、親鸞会の講師部員が間違いを指摘して、あっけなく退会者が論破されることが繰り返されました。正直言いまして、擁護しようのない内容でしたので、当然の結末でしょう。親鸞会を論破することなど、実に容易いのですが、だからと言って親鸞会と同じように聖教に基づかない創作教義を持ち出しても親鸞会を論破できると思ったら大間違いです。

退会者も、親鸞会を邪義と批判するなら、自分が邪義を言わないように聖教をよく読むことを勧めます。

さて、高森顕徹会長の邪義は邪義のままですが、その邪義の内容は変化してきています。念仏誹謗に近い念仏軽視から、念仏の肯定に転じてきたことは、ある意味評価しても良いです。もちろん、邪義は邪義ですが、過激な邪義から落ち着いた邪義に変わったことは認めましょう。

この念仏については、実は簡単に説明できる内容ではありません。特に信前の念仏について親鸞聖人が勧められている、とは単純に言い切れないからです。

『正像末和讃』誡疑讃23首についてほとんどが自力の念仏についてですが、例えば最初の2首は

不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

仏智の不思議をうたがひて
 自力の称念このむゆゑ
 辺地懈慢にとどまりて
 仏恩報ずるこころなし

とあるように、自力の念仏では化土にしか往けない、という誡めとして仰っているのであって、自力の念仏を勧められているのではありません。

この後にある

信心のひとにおとらじと
 疑心自力の行者も
 如来大悲の恩をしり
 称名念仏はげむべし

は自力の念仏を勧められているお言葉だと思う人もあるでしょうが、この誡めの流れの中ですので、「如来大悲の恩をしり」が他力の信心を獲ての意味になり、信後他力の「称名念仏はげむべし」となります。

似たような勘違いをしやすいのが『高僧和讃』龍樹讃の

不退のくらゐすみやかに
 えんとおもはんひとはみな
 恭敬の心に執持して
 弥陀の名号称すべし

です。これは龍樹菩薩の教えられた内容ですので、『正信偈』で言えば

唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩

と同じで、「恭敬の心に執持して」が他力の信心を獲ての意であり、信後他力の「弥陀の名号称すべし」です。

つまり、親鸞聖人の御著書の中で、信前の自力の念仏を勧められた直接のお言葉というものがないのです。ただし、20願から18願へ転入するというお言葉はあります。

では念仏を勧められていないのかと言えば、『教行信証』行巻を読めば判りますが、行巻にある他力の念仏を勧められています。

自力の念仏を飛ばしていきなり他力の念仏?

と思われるかもしれませんが、聖教上ではそのようにしか書かれていません。

典型的なのが『安楽集』を引かれた

『観仏三昧経』にいはく、〈父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまふ。父の王、仏にまうさく、《仏地の果徳、真如実相、第一義空、なにによりてか弟子をしてこれを行ぜしめざる》と。仏、父の王に告げたまはく、《諸仏の果徳、無量深妙の境界、神通解脱まします。これ凡夫の所行の境界にあらざるがゆゑに、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる》と。

(現代語訳)

『観仏三昧経』に、<世尊は、父である浄飯王に念仏三昧を修めるようにお勧めになった。父の王は世尊に、≪仏のさとりの徳は真如実相第一義空とのことでありますが、それを観ずる行を、どうして弟子であるわたしに教えてくださらないのですか≫とお尋ねした。
世尊は父の王に、≪仏がたのさとりの徳は、はかりがたい深い境地であり、仏は神通力や智慧をそなえておいでになります。これはとうてい凡夫が修めることのできる境地ではありません。そこで、父の王に念仏三昧を修めることをお勧めしたのです≫と仰せになった。

です。
行巻ですので、他力の念仏についての内容として親鸞聖人が顕わされた内容になります。

とはいうものの、他力の念仏の前には、自力の念仏が通常はありますので、自力の念仏を誡めはされても否定されているのでないことは、普通に考えれば判る話でしょう。

まだまだ説明が必要ですが、今回はここまでで。

| | コメント (6)

2019年5月19日 (日)

大沼法竜師の説明を受け売りして恥をかき続ける高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話は、また

「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです」とは、どんなことでしょうか」

との質問に答える座談会でした。

自分の創作した言葉の解説を延々とし続ける意図は、批判されることへの恐れを抱いた自信のなさの表われです。

いつもの邪義の連続で大した話はありませんでしたが、邪義の中で一つだけ取り上げておきます。

阿弥陀仏が「すべての人」を「極重の悪人」と見て取られて本願を建てられた

というところです。大沼法竜師が言われていたことの受け売りですが、これは間違いです。

極重の悪人」とは、『正信偈』の

極重悪人唯称仏

から取っているのでしょうが、この元は源信僧都の『往生要集』の

『観経』に「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」と。

です。『観無量寿経』の内容を示されたものですが、この更に元は、善導大師の弟子であった懐感禅師の『釈浄土群疑論』にある

『観経』の下品上生、下品中生、下品下生の三処の経文には、みなただ弥陀仏を念じて浄土に往生すと陳ぶ。

です。ここで『観無量寿経』の九品について見てみますと、

「上品上生」「上品中生」「上品下生」は、行福を行じている善人
「中品上生」「中品中生」は、戒福を行じている善人
「中品下生」は、世福を行じている善人
「下品上生」「下品中生」「下品下生」は、無三福の悪人

となります。したがって、源信僧都の仰る「極重の悪人」とは、悪人の中の最も下に当たる「下品下生」のことを指しているのは浄土門の常識です。源信僧都が仰っていることは、「下品下生」の「極重の悪人」は、念仏だけを勧められていて善という方便がない、その念仏を称えて極楽に往生する、と『観無量寿経』に説かれている、ということです。

これがどういうことかというと、「上品上生」から「中品下生」までの善人がいるということであり、悪人でも「下品上生」「下品中生」もいるということです。

そんなことはない、親鸞聖人は全人類を「極重の悪人」とみておられた!!!

と根拠のない反論をしてくるでしょうから、この御文を使って言い換えられた親鸞聖人の御文を示しておきます。『往生要集』のお言葉に「定散の諸機」を加えられて、『教行信証』化土巻の要門釈で

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

と仰っています。「極重の悪人」には他の方便がありませんが、善人である「定散の諸機」には他の方便がありますので、「定散の諸機」の入ったこの御文には「他の方便なし」が無くなっています。

なぜかって、「定散の諸機」がいるからです。

それでも納得しないでしょうからもう一つ信巻から

禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。

高玉・智覚禅師は、上品だということです。

高森会長の邪義など、たやすく暴くことができます。なぜなら、その程度の人物だからです。

 

| | コメント (29)

«係念の宿善?の念仏を勧めた?高森顕徹会長?