2019年1月14日 (月)

親鸞聖人の御をしへを、ゆめゆめこころえざるひとにておはします高森顕徹会長

1月15日号の顕正新聞の論説には、先日の高森顕徹会長の話の内容がまとめられています。

今の真宗においては、専ら自力を捨てて他力に帰するをもって、宗の極致とする

という『改邪鈔』のお言葉から、自力と他力のことを問題としています。表現自体は間違いではないのですが、やはり根本的なことが判っていません。

親鸞聖人が問題とされている自力と他力の違いを曖昧にしか理解していないのでこの程度となるのも仕方がないでしょう。

自力他力と聞いて、ピンっとくるなら大したものでしょうが、親鸞聖人が関東の同行に宛てた手紙の中で、何度も推薦されている書に『自力他力事』があります。

親鸞会では聞いたことのない親鸞聖人一押しの書です。

たとえば『末灯鈔』の

さきにくだしまゐらせ候ひし『唯信鈔』・『自力他力』なんどのふみにて御覧候ふべし。それこそ、この世にとりてはよきひとびとにておはします。すでに往生をもしておはしますひとびとにて候へば、そのふみどもにかかれて候ふには、なにごともなにごともすぐべくも候はず。法然聖人の御をしへを、よくよく御こころえたるひとびとにておはしますに候ひき。さればこそ往生もめでたくしておはしまし候へ。

(現代語訳)

以前にお送りしました『唯信鈔』や『自力他力事』などの書物をご覧になってください。これらをお書きになった聖覚法印や隆寛律師こそ、 今の世のわたしたちにとっての善知識なのです。 すでに往生を遂げておられる方々ですので、 どのようなことであってもこれらの書物に書かれていることにまさるものは何一つあるはずがありません。 法然上人の教えを深く心得ておられる方々でした。 だからこそ、 往生もめでたく遂げておられるのです。

です。
他のお手紙でも『自力他力事』を読むように何度も勧められています。著者は親鸞聖人が「よきひとびと」とまで仰って大変に尊敬なされていた隆寛律師です。隆寛律師のことは高森会長が言及したこともないので、高森会長は隆寛律師のことも知らないのでしょうし、当然『自力他力事』という書の存在すら知らないと思います。

法然聖人の御をしへを、よくよく御こころえ」しかも「往生もめでたくしておはしまし候」隆寛律師の著わされた『自力他力事』を読むと、親鸞聖人が自力と他力の違いを同行にどのように教えられていたかが判ります。

『自力他力事』は、内容も判り易く短いので、皆さんがそのまま読まれても理解できると思います。

今回は『自力他力事』の肝心なところだけ説明します。

最初に

念仏の行につきて自力・他力といふことあり。これは極楽をねがひて弥陀の名号をとなふる人のなかに、自力のこころにて念仏する人あり。

とあります。自力と他力で問題とされているのは、念仏についてです。くどいようですが、親鸞聖人が関東の同行に読むように繰り返し勧められた『自力他力事』に書かれてあることは、念仏についての自力と他力の話です。
高森会長の話とは大いにずれがあります。

続いて自力の念仏についての説明です。

まづ自力のこころといふは、身にもわろきことをばせじ、口にもわろきことをばいはじ、心にもひがごとをばおもはじと、かやうにつつしみて念仏するものは、この念仏のちからにて、よろづの罪を除き失ひて、極楽へかならずまゐるぞとおもひたる人をば、自力の行といふなり。

身口意の三業で、「わろきこと」をしないようにして、「つつしみて」念仏することを、自力の念仏だと言われています。

対して他力の念仏は、

他力の念仏とは、わが身のおろかにわろきにつけても、かかる身にてたやすくこの娑婆世界をいかがはなるべき。罪は日々にそへてかさなり、妄念はつねにおこりてとどまらず。
かかるにつけては、ひとへに弥陀のちかひをたのみ仰ぎて念仏おこたらざれば、阿弥陀仏かたじけなく遍照の光明をはなちて、この身を照らしまもらせたまへば、観音・勢至等の無量の聖衆ひき具して、行住坐臥、もしは昼もしは夜、一切のときところをきらはず、行者を護念して、目しばらくもすてたまはず、まさしくいのち尽き息たえんときには、よろづの罪をばみなうち消して、めでたきものにつくりなして、極楽へ率てかへらせおはしますなり。
されば罪の消ゆることも南無阿弥陀仏の願力なり、めでたき位をうることも南無阿弥陀仏の弘誓のちからなり、ながくとほく三界を出でんことも阿弥陀仏の本願のちからなり、極楽へまゐりてのりをききさとりをひらき、やがて仏に成らんずることも阿弥陀仏の御ちからなりければ、ひとあゆみもわがちからにて極楽へまゐることなしとおもひて、余行をまじへずして一向に念仏するを他力の行とは申すなり。

とあります。
罪深い身でありながら、迷いの世界を離れることができるのは、「ひとへに弥陀のちかひをたのみ仰ぎて念仏おこたらざれば」「よろづの罪をばみなうち消して、めでたきものにつくりなして、極楽へ率てかへらせおはしますなり」とあります。
意味は読んだそのままで、阿弥陀仏の18願をたのみ仰いで怠らずに念仏すれば、極楽に連れていってくださる、ということです。

しつこいでしょうが、もう一度言いますと、親鸞聖人が関東の同行に読むように繰り返し勧められた書が『自力他力事』です。信前の同行が何をすベきか、という最も知りたい疑問に対して、「ひとへに弥陀のちかひをたのみ仰ぎて念仏おこたらざれば、極楽へ率てかへらせおはしますなり」という答えを親鸞聖人が示されているのです。

そして他力の念仏の最終的な説明を、「ひとあゆみもわがちからにて極楽へまゐることなしとおもひて、余行をまじへずして一向に念仏するを他力の行とは申すなり」とされています。

自力の念仏と他力の念仏の違いがここに鮮明に表現されています。

自力の念仏=「ひとあゆみもわがちからにて極楽へまゐるとおもひて」「余行をまじへて念仏する

他力の念仏=「ひとあゆみもわがちからにて極楽へまゐることなしとおもひて」「余行をまじへずして一向に念仏する

自力と他力の水際とは、これです。
因果の道理を信じよとか、善をしなければとか、信前に念仏称えても助からないとか、他力の念仏はお礼だから称えても称えなくても良いとか、高森会長がするような説明は全くないのです。

隆寛律師のことを親鸞聖人は「法然聖人の御をしへを、よくよく御こころえたるひとびとにておはします」と絶賛されていますが、高森会長のことを評するなら

親鸞聖人の御をしへを、ゆめゆめこころえざるひとにておはします

という以外にありません。

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2019年1月 7日 (月)

高森顕徹会長の薄っぺらい話で喜んでいる「おおよそ浅き会員は多く疑惑を生ぜん」

高森顕徹会長の今年の年頭所感は、タイトルを「念仏者は無碍の一道なり」としてあり、内容はと言うと『歎異抄をひらく』の文章を少し替えただけのものです。
ただ注目すベきは、絶対の幸福とは書いていないことです。昨年はあれだけ絶対の幸福の連発であったのに、今年は少し無難に纏めようとの意図があるのでしょう。

先日の話もそうですが、退会者の批判に神経質になっているのは間違いありません。

しかしながら、念仏に関しては相変わらず理解がお粗末で、『歎異抄をひらく』から進歩していません。

今回も自力の念仏と他力の念仏の違いについて、判ったふりして強調していますが、高森会長には根本が判っていないです。

親鸞聖人が自力の念仏についてどう仰っているのか、教えてあげます。

『正像末和讃』に

不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

仏智の不思議をうたがひて
 自力の称念このむゆゑ
 辺地懈慢にとどまりて
 仏恩報ずるこころなし

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

罪福ふかく信じつつ
 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆゑに
 方便化土にとまるなり

とあります。
自力の念仏とは、「如来の諸智を疑惑して」「罪福信じ」「仏智の不思議をうたがひて」「罪福信ずる」「罪福ふかく信じつつ」称える念仏のことです。

つまり
自力=仏智不思議を疑う=罪福信じる
ということで、因果の道理を信じて称える念仏が自力の念仏だと親鸞聖人は仰っているのです。

『教行信証』化土巻・真門釈にも

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。

とあります。

これが自力の念仏の根本なのです。

他力の念仏は、自力が微塵ほどもない念仏ですから、因果の道理を信じていない念仏ということです。

高森会長の嘘教義に毒されていると全く判らない話でしょうが、結論を言えば、因果の道理と18願とは相容れないのです。

最近は言いませんが、因果の道理を信じるように高森会長が話をすればする程、それを聞いた会員は自力に固執し他力に入れなくなるのです。

以上、自力の念仏と他力の念仏の違いで説明しましたが、それがそのまま信心の違いです。

念仏称えて助かるなんていうのは(因果の道理に反しているから)間違いだ、というのが自力の信心。
念仏称えて助かるというのは(因果の道理に反しているので)正しい、というが他力の信心です。

そんな上手い話があるか、馬鹿にするな!

と思うのが自力の信心です。

親鸞聖人は『教行信証』信巻に、律宗でありながら浄土教を信奉していた中国南宋の僧侶の言葉を引かれて

律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』に〈易往而無人〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」と。

と他力の信心を説明されています。凡夫が聖者になるのは、掌を返すように大いに簡単なことであるから、それを疑うのだということです。
念仏称えたくらい簡単なことで助かるなんてことがあるか、というのが因果の道理を信じている自力です。
他力の信心とは、掌を返すように簡単に称えることのできる念仏で助けてくださるとは、阿弥陀仏の18願はなんと素晴らしいことか、という信心です。

自力の信心で、自力と他力の違いを判ったふりして説明しても、すぐにボロが出るのです。

薄っぺらい高森会長の話で喜んでいるうちは、「おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん」の状態を脱することは不可能です。

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2019年1月 3日 (木)

今年も大衆を騙すのに余念のない高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話は、近年では稀にみる大きな突っ込みどころのない内容でした。もちろん、間違った部分はありますが、とんでも発言がなかったという点においての評価です。

ただし表面上の言葉ではということですので、その心はいつも通りのとんでも解釈でしょう。

退会者からの批判にかなり気を遣っているのだと思われますが、やはり念仏に関しては問題があります。

今回の内容も『歎異抄』第2条についてでしたが、その中の「ただ念仏」の解釈が多くの学者は間違えているとの勘違い断言は、通常どおりでした。

ただ念仏」とは「唯念仏」のことであり、「念仏一行」のことであることは、真宗でも浄土宗でも、常識中の常識です。それを否定しているのですから、お粗末と言えるでしょう。

法然上人が教えられたことは「念仏一行」であり、それを否定する人は仏教関係者では存在しないと思われます。『選択本願念仏集』を読めば明々白々の厳然たる事実です。

法然上人の教えを聞かれて救われ、教えを受け継がれた親鸞聖人も同じであることは、普通の頭をもってすれば、普通に導き出される普通の結論です。

念のため、根拠を示せば、親鸞聖人は18願のことを「念仏往生の願」と仰っています。念仏を往生の因として誓われた願だという意味です。親鸞聖人が御自身の言葉で18願を言い換えられたのが『末灯鈔』にあります。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる」が18願だということです。

また善導大師のお言葉を引用されて『教行信証』行巻では18願のことを

もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称せん、下十声に至るまで、もし生れずは正覚を取らじ

もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること下十声に至るまで、わが願力に乗じて、もし生れずは正覚を取らじ

とも仰っています。「わが名号を称せん」者を生まれさせるとの誓いだということです。

また源信僧都のお言葉から同じく行巻に

極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得

と仰っています。「極重の悪人」には念仏以外の方便はなく、ただ念仏だけで極楽に生まれることができるのだとの明快なお言葉です。これを『正信偈』では、

極重悪人唯称仏

と明確に「ただ念仏」と仰っています。

蓮如上人はどうかと言えば、『正信偈大意』に

「印度西天之論家 中夏日域之高僧 顕大聖興世正意 明如来本誓応機」といふは、印度西天といふは天竺なり、中夏といふは唐土(中国)なり、日域といふは日本のことなり。この三国の祖師等、念仏の一行をすすめ、ことに釈尊出世の本懐は、ただ弥陀の本願をあまねく説きあらはして、末世の凡夫の機に応じたることをあかしましますといへるこころなり。

と仰って、七高僧方が勧められたことは「念仏の一行」だと断言されています。

上記の「極重悪人唯称仏」については、

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と仰っています。

『歎異抄』の「ただ念仏」の意味は、上に列記した以外の意味はないのです。あるなら、出して示せばよいのですが、示すことはできません、無いのですから。

今年も、大衆を騙すのに余念のない高森会長でした。

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2018年12月23日 (日)

「よき人の仰せ」を知らないどころか踏みにじる高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話は、

「聞く一つで、大船に乗せる」ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです」とは、どんなことでしょうか

という質問に対して答える内容でした。創作勘違い二河白道の話を出しながら、いつもの訳の判らない説明の後、『歎異抄』第2条の話に移って、これまたとんでもないことを言っていました。

「ただ念仏して」を念仏称えれば極楽浄土に往けると間違っている。「よき人の仰せを被りて」の「被りて」が大切でこれが聞くであり「聞く1つ」である。

これのどこが間違いなのかと思う人は、高森邪義に完全に毒された人です。

よき人」の法然上人が教えられていたことが何かを知っていたら、絶対に言えない恥ずかしいお言葉です。

親鸞聖人が法然上人の著わされた『選択本願念仏集』をどのように理解なされていたかを直接示す根拠は『尊号真像銘文』にあります。

『選択本願念仏集』といふは、聖人(源空)の御製作なり。
「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。
またいはく、「夫速欲離生死」といふは、それすみやかに疾く生死をはなれんとおもへとなり。「二種勝法中且閣聖道門」といふは、「二種勝法」は、聖道・浄土の二門なり。「且閣聖道門」は、「且閣」はしばらくさしおけとなり、しばらく聖道門をさしおくべしとなり。「選入浄土門」といふは、「選入」はえらびていれとなり、よろづの善法のなかに選びて浄土門に入るべしとなり。
「欲入浄土門」といふは、浄土門に入らんと欲はばといふなり。「正雑二行中且抛諸雑行」といふは、正雑二行二つのなかに、しばらくもろもろの雑行をなげすてさしおくべしとなり。「選応帰正行」といふは、選びて正行に帰すべしとなり。「欲修於正行正助二業中猶傍於助業」といふは、正行を修せんと欲はば、正行・助業二つのなかに助業をさしおくべしとなり。「選応専正定」といふは、選びて正定の業をふたごころなく修すべしとなり。「正定之業者即是称仏名」といふは、正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。 「称名必得生依仏本願故」といふは、御名を称するはかならず安楽浄土に往生を得るなり、仏の本願によるがゆゑなりとのたまへり。

(現代語訳)

『選択本願念仏集』 というのは、 法然上人が著された書物である。
「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」 というのは、 安養浄土に往生する正因は本願の念仏を根本とするというお言葉であると知らなければならない。 「正因」 というのは、 浄土に生れて間違いなく仏になる因ということである。
また 「夫速欲離生死」 というのは、 速やかにはやく迷いの世界を離れたいと思えというのである。 「二種勝法中且閣聖道門」 ということについて、 「二種勝法」 とは、 聖道門と浄土文という二つの法門である。 「且閣聖道門」 というのは、 「且閣」 とはまずさしおけということであり、 聖道門をさしおくがよいというのである。 「選入浄土門」 というのは、 「選入」 とは選んで入れということであり、 あらゆる教えの中から浄土門を選んで入らなければならないというのである。 「欲入浄土門」 というのは、 浄土門に入ろうと思うならということである。 「正雑二行中且抛諸雑行」 というのは、 正行と雑行の二つの中から、 さまざまな雑行を捨ててさしおくがよいというのである。 「選応帰正行」 というのは、 正行を選んでこれに依らなければならないというのである。 「欲修於正行正助二業中猶傍於助業」 というのは、 正行を修めようと思うなら、 正定業と助業の二つの中から、 助業をさしおくがよいというのである。 「選応専正定」 というのは、 正定業を選んでひとすじに修めなければならない。 「正定之業者即是称仏名」 というのは、 正定の因となる行いは、 すなわち阿弥陀仏の名号を称えることであるというのである。 正定の因というのは、 必ずこの上ないさとりを開く因ということである。 「称名必得生依仏本願故」 というのは、 名号を称えると間違いなく安楽浄土に往生することができるのであり、 それは阿弥陀仏の本願のはたらきによるからであるというのである。

解説が要らないほど明々白々な内容です。

一応解説しておきます。

安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。

浄土に往生する正因、浄土に生まれて仏に必ずなるたねは、念仏だと断言されています。

正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。

必ず無上涅槃のさとりをひらくたねは、念仏を称えることだと断言されています。

御名を称するはかならず安楽浄土に往生を得るなり

念仏を称えるのは必ず浄土往生を得るのだとこれまた断言されています。

ここでもう一度、高森会長のお言葉。

「ただ念仏して」を念仏称えれば極楽浄土に往けると間違っている。

ここまで述べた上で、なお高森会長の言っていることが正しいと思うならば、完全にマインドコントロールされているでしょう。

親鸞聖人は、法然上人の

「ただ念仏して」を念仏称えれば極楽浄土に往ける

という仰せを聞いて救われた。

この単純明快なことさえ間違えている恥ずかしい知識です。

反論があるならいつでもどうぞ。

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2018年12月 9日 (日)

『阿弥陀経』を読んだことがあっても意味は知らない高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話は、いつも以上によく判らないものでした。

映画『なぜ生きる』に対する新たな質問、

仏教では、なぜ人の命は尊いと教えられるのでしょうか。

について答える形でした。
その中で『阿弥陀経』についての話が唐突に出てきて、支離滅裂のうちに終わりました。

『阿弥陀経』を形の上では読んだことはある高森会長ですが、内容についてはほとんど判っていないでしょう。

親鸞聖人がどう仰っているか、当然知らないでしょうから、少し教えておきます。

『教行信証』化土巻にこのようにあります。

『小本』には「一心」とのたまへり、二行雑はることなきがゆゑに一とのたまへるなり。また一心について深あり浅あり。深とは利他真実の心これなり、浅とは定散自利の心これなり。

(現代語訳)

『阿弥陀経』には「一心」と説かれている。念仏以外の他の行がまじらないから、一といわれるのである。また、この一心について深い一心と浅い一心とがある。深い一心とは他力回向の真実の心であり、浅い一心とは定善・散善を修める自力の心である。

もう一つ、

『観経』に准知するに、この『経』にまた顕彰隠密の義あるべし。
顕といふは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。ここをもつて『経』には「多善根・多功徳・多福徳因縁」と説き、釈には「九品ともに回して不退を得よ」といへり。あるいは「無過念仏往西方三念五念仏来迎」といへり。これはこれこの『経』の顕の義を示すなり。これすなはち真門のなかの方便なり。
彰といふは、真実難信の法を彰す。これすなはち不可思議の願海を光闡して、無碍の大信心海に帰せしめんと欲す。まことに勧めすでに恒沙の勧めなれば、信もまた恒沙の信なり。ゆゑに甚難といへるなり。釈に、「ただちに弥陀の弘誓重なれるをもつて、凡夫念ずればすなはち生ぜしむることを致す」といへり。これはこれ隠彰の義を開くなり。
『経』に「執持」とのたまへり。また「一心」とのたまへり。「執」の言は心堅牢にして移転せざることを彰すなり。「持」の言は不散不失に名づくるなり。「一」の言は無二に名づくるの言なり。「心」の言は真実に名づくるなり。この『経』は大乗修多羅のなかの無問自説経なり。しかれば如来、世に興出したまふゆゑは、恒沙の諸仏の証護の正意、ただこれにあるなり。ここをもつて四依弘経の大士、三朝浄土の宗師、真宗念仏を開きて、濁世の邪偽を導く。

(現代語訳)

『観無量寿経』に準じて考えてみると、『阿弥陀経』にも顕彰隠密の義があると知られる。
その顕についていうと、釈尊は、念仏以外のどのような善を修めてもわずかな功徳しか積めないとしてこれを退け、善本・徳本の真門を説き示し、自力の一心をおこすようにと励まされ、難思往生を勧めておられる。このようなわけで、『阿弥陀経』には、「念仏は多くの功徳をそなえた行である」と説かれ、善導大師の『法事讃』には、「さまざまな自力の行を修めるものもみな念仏することによって不退転の位を得るがよい」といわれ、また「念仏して西方浄土に往生する教えにまさるものはない。少ししか念仏しないものまで、阿弥陀仏は来迎して浄土に導いてくださる」といわれている。以上は『阿弥陀経』の顕の義を示すものである。これが真門の中の方便である。
その彰とは、自力の心では信じることができない他力真実の法を彰すものである。これは不可思議の本願を明らかに説き示して、何ものにもさまたげられることのない他力信心の大海に入らせようという思召しである。まことにこのお勧めは、あらゆる世界の数限りない仏がたのお勧めであるから、信心もまた数限りない仏がたにたたえられる信心である。だから自力の心では、この信心を得ることなどとうていできないというのである。善導大師の『法事讃』には、「仏がたは次々世に出られて、その本意である阿弥陀仏の本願を重ねてお説きになり、凡夫はただ念仏して、ただちに往生させていただくのである」といわれている。これは隠彰の義をあらわすものである。
『阿弥陀経』には「執持」と説かれ、また「一心」と説かれている。「執」という言葉は、心がしっかりと定まって他に映らないことを顕している。「持」という言葉は、散失しないことをいうのである。「一」という言葉は、無二すなわち疑いがないことをいうのである。「心」という言葉は、真実であることをいうのである。『阿弥陀経』は、大乗経典の中で、問うものがいないのに仏が自ら進んで説かれた教典である。だから、釈尊が世にお出ましになったのは、あらゆる世界の数限りない仏がたがこれこそ真実の経典であると明かしてお護りくださる本意、すなわちただ他力真実の法を明らかにすることにあるのである。このようなわけで、すべての衆生のよりどころとなる浄土の教えを広めてくださったインド・中国・日本の七人の祖師方は、他力念仏を説き示し、五濁の世のよこしまな心を持つ人々を導かれるのである。

『阿弥陀経』には、自力の義と他力の義の2つがあるというのが親鸞聖人の解釈です。
自力の義と他力の義に共通しているのは、念仏の一行です。異なっているのは、「一心について深あり浅あり。深とは利他真実の心これなり、浅とは定散自利の心これなり。」とあるように、「」の「一心」と「」の「一心」の違いです。

もう一度言うと、『阿弥陀経』に説かれていることは、自力の意味でも他力の意味でも、念仏が勧められているということです。

高森会長は『阿弥陀経』を出していながら、そのような説明は一切していませんし、できません。知らないわけですから。

なお、『阿弥陀経』の自力の念仏について「多善根・多功徳・多福徳因縁」と親鸞聖人は仰っています。「多善根・多功徳・多福徳因縁」である自力の念仏を鼻で笑う高森会長が、この点だけでも退会者から鼻で笑われていることを知った方がよいですよ。

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2018年12月 5日 (水)

教学的にはほぼ完璧と称賛する『教行信証講義』をパクった高森顕徹会長の白道釈

質問が来ましたので、それに答える形でエントリーを書きます。

親鸞会が白道を信前自力の意味とする最大の根拠が『散善義』にある

「人道の上を行きてただちに西に向かふ」といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。

です。

もろもろの行業を回しては諸善を回向してだから、自力で求道していく意味だ

というのです。実は、これは高森顕徹会長オリジナルの解釈ではなく、そのように解釈してきた学者がいるので、それを使っているのは間違いないです。
実際、親鸞会を辞めようとする人が高森会長の説明する二河白道の譬え話に矛盾があることを指摘すると、最近よく出してくるのが山辺習学・ 赤沼智善共著の『教行信証講義』です。この『教行信証講義』は親鸞会で、教学的にはほぼ完璧とされている書です。ここでは内容は紹介しませんが、高森会長が『教行信証講義』をパクってこのように言っていることは、間違いないでしょう。

回して」は「翻して」という意味と「回向して」の意味もあり、両方とも善導大師は著書の中で使われていますので、文字通りの読み方をすれば、『教行信証講義』や高森会長の説明も一理はあるように思えます。

しかしここでの「回して」は、「翻して」の意味にしかなりません。

いつも言うように、親鸞会が出している根拠の前後を見れば、それが間違いだとすぐに判るのです。

人道の上を行きてただちに西に向かふ」ですが、これは譬え話の中にそのまま書かれてはいません。該当部分を抽出すると、

三定死に続けて行者が語った言葉の

一種として死を勉れずは、われむしろこの道を尋ねて前に向かひて去かん。

とその後実際に白道を進んだ

決定して道を尋ねてただちに進みて

一心にただちに進みて道を念じて行けば

です。この3つ共、悪知識の言うことに逆らって進んでいるのです。悪知識の言っていることが、「諸善をせよ」ですから、それを実行していたら悪知識に信順して東の岸にいることになります。しかも「ただちに西に向かふ」のですから、回り道をしていない、つまり他力の道です。

もっと言うならば、阿弥陀仏の喚び声である「一心正念にしてただちに来れ」に対応して「ただちに西に向かふ」のです。阿弥陀仏が「ただちに来なさい」と喚ばれて、それに信順して「ただちに向かいます」です。

ですから、「もろもろの行業を回して」は、「悪知識の勧める諸善を捨てて」になるのです。

以上は善導大師の仰った内容で説明しています。親鸞聖人は、他力の信心についての説明をしている中でこれを出されていますので、尚更です。

三願転入にしてもそうですが、学者は今までになかった新しい解釈をしてそれを発表することで名声を得ようとするので、信心とは関係ないところで机上の空論が展開される傾向にあります。

覚如上人、蓮如上人が取り上げることすらされなかった三願転入を大々的に議論するのが学者の仕事です。その学者の説を鵜呑みにすることはやめた方が宜しいでしょう。

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2018年11月30日 (金)

高森顕徹会長の、その場凌ぎの思い付き行き当たりばったり教義など、聖教をまともに読んだら誰でも簡単に論破できます

二河白道の譬え話について、善導大師が何を白道で譬えられたのかとの質問がありましたので、少し解説します。

二河白道の譬えを一から説明すると長くなるので、前提として、
・三定死は白道に乗る前の東の岸にいるとき
・西の岸の人の喚び声を聞くのは東の岸にいるとき

を最低限判っていることとします。

以下、善導大師の著わされた『散善義』から

まず東の岸で行者が白道に乗るかどうか迷って三定死になった後

この念をなす時、東の岸にたちまち人の勧むる声を聞く。
「なんぢ、ただ決定してこの道を尋ねて行け、かならず死の難なからん。 もし住まらば、すなはち死せん>」と。
また西の岸の上に人ありて喚ばひていはく、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と。

東の岸の人は、「ただ決定してこの道を尋ねて行け
西の岸の人は、「一心正念にしてただちに来れ

そして行者は

この人すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづから身心を正当にして、決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず。

となります。「決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず」です。
なお、「疑怯退心」とは、「疑ったり、恐れたりして、しりごみする心」です。

そして進んで行った結果は

一心にただちに進みて道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。

です。「一心にただちに進みて道を念じて行けば」「西の岸に到りて」です。

決定して」「一心に」「疑怯退心を生ぜず」はどんな信心か考えてみてください。

以上が譬え話の内容から、白道に乗る心を抽出したものです。

次に、譬えを善導大師がどう解説されているかについてみてみます。

「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。

西の岸の人の喚び声は、「弥陀の願意」です。もちろん18願意のことであって、19願意ではありません。

白道を進むことについて

仰ぎて釈迦発遣して指して西方に向かはしめたまふことを蒙り、また弥陀悲心をもつて招喚したまふによりて、いま二尊の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得て

とあります。「二尊の意に信順して」です。釈尊の意についてはこの譬え話では明確に仰っていませんが、阿弥陀仏の意に関しては、18願意です。18願意に「信順して」です。更には「かの願力の道に乗じて」ですから、18願力の道に乗ったことです。その結果、浄土に生まれることができた、という内容です。

ここまでくれば説明は不要でしょうから、次の質問に容易に答えられると思います。ただし、思考力が微かでも残っていれば。

問 善導大師は信前の求道心・聞法心を白道で譬えられたのか18願の真実信心を白道で譬えられたのか、どちらでしょうか?

高森顕徹会長の、その場凌ぎの思い付き行き当たりばったり教義など、聖教をまともに読んだら誰でも簡単に論破できます。

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2018年11月25日 (日)

創作二河白道の譬え話で、苦境に陥っていることが判る高森顕徹会長率いる親鸞会

本日の高森顕徹会長の話は、二河白道の譬え話を使っての、「欲と怒りと戦って命がけで聞かなければならない」という求道の強調でした。

「白道」は、求道心、聞法心だとのこれまで通りの説明です。以前に、

親鸞聖人は「白道」を他力で教えられているが、善導大師は自力で教えられていて、善導大師の教えられ方でワシは話をしているのだ

との大ボケの珍説を披露したこともなかったこととして、金集め人集めの正当化に必死になっている様子です。
「白道」が、他力の信心であることは、これまで耳にタコができるほど言ってきましたし、一時的にせよ、高森会長も親鸞聖人に限定して、それを認めていたわけですから、今更説明するまでもないことです。
今回は少し違う角度から高森会長の創作教義の嘘を暴いていきます。

蓮如上人が、名人の解釈だから、その解釈には無条件に従うとまで大絶賛されている存覚上人の書かれた『持名鈔』には、このようにあります。

されば仏法を行ずるには、家をもすて欲をもすてて修行すべきに、世をもそむかず名利にもまつはれながら、めでたき無上の仏法をききて、ながく輪廻の故郷をはなれんことは、ひとへにはからざるさいはひなり。

釈尊などの聖道門での求道の実例を挙げられた後にこのように続いていますので、

聖道門では「家をもすて欲をもすてて修行すべき」求道であるのに対して、浄土門では、「世をもそむかず名利にもまつはれながら、めでたき無上の仏法をききて、ながく輪廻の故郷をはなれんこと」だと教えられています。世間の流れに逆らうこともなく、名利の欲にまみれたまま、無上の阿弥陀仏の18願を聞いて、出離するのだということです。

もう一度、高森会長の説明は

欲と怒りと戦って命がけで聞かなければならない

これが存覚上人と同じだと思うなら完全に思考停止でしょう。

念のため、蓮如上人のお言葉、『御一代聞書』

一 前々住上人(蓮如)、南殿にて、存覚御作分の聖教ちと不審なる所の候ふを、いかがとて、兼縁、前々住上人へ御目にかけられ候へば、仰せられ候ふ。名人のせられ候ふ物をばそのままにて置くことなり。これが名誉なりと仰せられ候ふなり。

(現代語訳)

蓮悟さまが、蓮如上人のおられる南殿へおうかがいし、存覚上人の著わされたお聖教に少し疑問に思うところがあるのを書き出して「どういうことでしょうか」と、上人にお見せしました。
すると上人は、「名人がお書きになったものは、そのままにしておきなさい。
こちらの考えが及ばない深い思し召しのあるところが、名人の名人たるすぐれたところなのである」と仰せになりました。

如何でしょうか。存覚上人の「世をもそむかず名利にもまつはれながら、めでたき無上の仏法をききて、ながく輪廻の故郷をはなれんこと」は蓮如上人のお考えとも一致しています。

では親鸞聖人はどうでしょうか。親鸞聖人のお言葉はいくつもありますが、最も判りやすいのが『教行信証』信巻にある阿闍世の獲信物語です。

阿闍世の獲信後の言葉は

世尊、われ世間を見るに、伊蘭子より伊蘭樹を生ず。伊蘭より栴檀樹を生ずるをば見ず。われいまはじめて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る。伊蘭子はわが身これなり。栴檀樹はすなはちこれわが心、無根の信なり。無根とは、われはじめて如来を恭敬せんことを知らず、法僧を信ぜず、これを無根と名づく。

(現代語訳)

世尊、世間では、伊蘭の種からは悪臭を放つ伊蘭の樹が生えます。伊蘭の種から芳香を放つ栴檀の樹が生えるのを見たことはありません。わたしは今はじめて伊蘭の種から栴檀の樹が生えるのを見ました。伊蘭の種とはわたしのことであり、栴檀の樹とはわたしの心におこった無根の信であります。無根とは、わたしは今まで如来をあつく敬うこともなく、法宝や僧宝を信じたこともなかったので、これを無根というのであります。

です。阿闍世には、命がけの求道も聞法もなかったとの告白で、それを親鸞聖人が紹介されているのです。なお、阿闍世の獲信物語は、『教行信証』全体の約1割を占めていますので、代表的”求道”を親鸞聖人が紹介されたということです。

三願転入の復活と会費の値上げ、そして命がけの求道の捏造と続いていることから判るのは、親鸞会の苦悩の表面化です。この傾向は、ますます顕著になってくるでしょう。

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2018年11月11日 (日)

自分が獲てもいない空想妄想創作信心を偉そうに説明する高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話は、

「死んだらどうなるか分からない心」が救われたなら「往生一定」の身になる

ということを中心に話をしていました。
正しいことを言っているのではないかと思う会員や退会後間もない人があるかもしれませんが、大いに間違っています。

死んだらどうなるか分からない心」は、救われても変わりませんし、「往生一定」は「死んだらどうなるか分かる心」ではりません。

まず二種深信の法の深信で説明します。

親鸞会でも引用される『教行信証』の信巻にだけある

二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。

ですが、これは簡単に言い換えると「願力に乗ったなら必ず往生できる」と深信することとです。「願力に乗ったなら」です。これなしの「必ず往生できる」ではないです。

もう一つの法の深信は『教行信証』の行巻と信巻の二か所に引かれています。

いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。

これを簡単に言い換えると、「念仏によって必ず往生できる」と信知することです。「念仏によって」が付いた「必ず往生できる」です。

以上は善導大師から引かれた文ですが、親鸞聖人ご自身のお言葉で言うなら、『末灯鈔』の

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

です。「念仏を称えたならば極楽へ往ける」と深く信じたことです。ここでも「念仏を称えたならば」がついていて、「極楽へ往ける」だけではありません。

『歎異抄』でいうと第2条の

ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり

は、「ただ念仏して阿弥陀仏に助けられる」と信じる以外にないです。ここにも「ただ念仏して」が付いています。

判る人には判ると思いますが、「願力に乗ったなら」「念仏称えたら」という条件を満たしたら「必ず往生できる」「極楽に往ける」のであって、前提の条件なしの話ではありません。要するに、往生の条件について深信した、信知したことを法の深信というのです。

会員からすれば、何を言っているんだと憤慨する内容でしょうが、では二河白道の譬えで説明しましょう。阿弥陀仏の喚び声を聞いて信心を獲た行者はどうなったかといえば、白道を進んでいったなら、必ず西の岸である浄土に往けると信じて進んで行っただけです。

もう一度言いますと、白道は間違いなく西の岸に続いているので、白道を進んで行けば必ず西の岸に行けると信じて進むのです。条件なしで西の岸に行けるとハッキリしたのではなく、この道を進んで行ったなら必ず西の岸に行けるとハッキリしたのです。これが「往生一定」ということです。

高森会長の話に戻ると、「死んだあとどうなるか分かる」のではなく、「念仏往生の願を深く信じたならば死んだあとは阿弥陀仏が浄土に連れて行ってくださると誓っておられるので浄土に往けると分かる」ということです。

自分が獲てもいない空想妄想創作信心の高森会長を信じていると、長い求道は幻と消えます。

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2018年11月 9日 (金)

真宗学の基本さえ学んでこなかった高森顕徹会長

19願、定散二善がなぜ「欣慕浄土の善根」と呼ばれるかの理由については、少し説明する必要があります。

実は聖道門で勧められる諸善と、19願の善、定散二善とは、行は同じなのです。違うのは、さとりを得ようとして善をするか、浄土往生を願って善をするのかの違いです。

そのことを『教行信証』化土巻には

五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。

(現代語訳)

五種の正行に対しては、五種の雑行がある。この雑という言葉は、人間や神々に生れる行や菩薩の行などがさまざまにまじっているという意味で雑というのである。これはもとより阿弥陀仏の浄土に往生する因ではなく、浄土を願う心をおこし、これらの行を浄土往生のための善としなければならないから、浄土往生の行としては雑行というのである。

とあります。これは親鸞会でも使う『浄土和讃』の

諸善万行ことごとく
 至心発願せるゆゑに
 往生浄土の方便の
 善とならぬはなかりけり

と同じ意味です。

聖道門で教え勧められている諸善万行はすべて、浄土往生のためとして回心回向したならば、往生浄土の善(=雑行)となる

ということです。
高森顕徹会長の適当創作教義しかしらない会員は、よく判らない話だと思いますので、具体的に言いますと、聖道門で読経という行があります。『般若心経』を読むことでさとりを得るための行としている宗派はいくつもあります。この『般若心経』を読む目的を、さとりを得るためではなく浄土往生としたら、それは「回心回向の善」「往生浄土の方便の善」「雑行」になるということです。

『般若心経』を読むことは聖道門でも浄土門の19願でも共通であっても、その心がさとりを得るためか浄土往生のためかの違いがあるということです。
高森会長が考えた詭弁

雑行を捨てよとは、その心がけが悪いから、悪い心がけを捨てよであって、善をするなではない

が如何に頓珍漢なことか判られるでしょう。雑行の心がけは、浄土往生を目指してということですから、それを捨てたらさとりを得るためという聖道門の善になるのです。
念のため言っておきますと、さとりを得るためでも浄土往生のためでもない善は、倫理道徳の善です。親孝行を浄土往生のために励む人は、あっても極僅かでしょうが、浄土往生のためという心がけを捨てたら倫理道徳の善となるだけのことです。それゆえ倫理道徳の善は、浄土真宗でも大いに勧められますが、雑行は勧められません。当たり前のことです。

mixiでの法論で、この説明をしたら、またまた高森会長と親鸞会は絶句していました。70年間、高森会長は真宗学を何も学んでいないのです。大げさでも何でもなく、高森会長はこんな基本的なことさえ本当に知らないのです。

さて、ここまで理解できると「欣慕浄土」の意味がお判りになるかと思います。聖道門と19願は、行は同じなので、心がけを浄土往生のためと変えるだけで良い、つまり、聖道門の人が19願に入ることに大きな壁はないのです。

聖道門でさとりを得られないと断念した人は、今までやってきた行そのままで浄土往生を目指したなら浄土往生できると誓われた19願を信じやすいです。聖道門からいきなり念仏往生の願である18願に行くことは、今までの行をすべて捨てることになるので、そこには大きな壁がありますが、19願なら入りやすいのです。

ですから、19願は聖道門を断念した人を浄土門に導くための願だと親鸞聖人が仰ったことは、極めて筋の通った理屈になるのです。

それに対して、19願は悪人が18願に入るために絶対に通らなければならないという理屈は、金集め人集め目的の高森会長とマインドコントロールされた脳の中でしか通用しないのです。

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«絶句の連続でも法論に負けていないと強弁するおめでたい親鸞会