2017年5月21日 (日)

「念仏は無碍の一道なり」が判らず否定する高森顕徹会長

本日の講師部講義で、高森顕徹会長はまたまた面白い説明をしていました。

18願を「十方衆生を相手に信楽の身にしてみせる」とするいつもの解釈の説明として、今回は銀行の融資に譬えて、

全ての日本人に対して1億円の融資

と言っていたそうです。
頓珍漢というか、無茶苦茶な譬えです。

まず、なぜ融資なのか。融資とは借金です。当然返済しなければなりません。阿弥陀仏の救いを報恩で返済しろと言いたいのでしょうか。
次に、融資が誰にでも無条件で受けられることはあり得ない話で、どうしてもそう譬えたいのなら、19願の「十方衆生」とは切り離した譬えとすべきです。親鸞聖人の『尊号真像銘文』のお言葉からすると、18願は「五逆誹謗正法」という債務超過に陥っている人にも融資をするが、19願には「五逆誹謗正法」がないので、債務超過の人は融資対象から除かれているとしなければならないからです。
それに、以前の譬えは選挙公約の税金の話だった筈です。もし当選したら税金を撤廃する、あるいは税金を還付する、という公約で譬えていたのですが、これも19願の「十方衆生」との関連で、税金(特に所得税)は払っている人には関係があるが、元々払っていない人には関係ないと私が言ったことで、こっそり修正したつもりなのでしょう。

今までの話を修正するのは結構なことですが、より悪い方向に変えているようでは、話にもなりません。これが、会員に無二の善知識と呼ばせている高森会長の実態です。

さて、今回も絶対の幸福の強調をしていましたが、無碍の一道についてもう少し説明しておきます。

元々は『浄土論註』のお言葉ですが、それを親鸞聖人は『教行信証』行巻に引かれています。

いま〈速得阿耨多羅三藐三菩提〉といへるは、これはやく仏になることを得たまへるなり。〈阿〉をば無に名づく、〈耨多羅〉をば上に名づく、〈三藐〉をば正に名づく、〈三〉をば遍に名づく〈菩提〉をば道に名づく、統ねてこれを訳して、名づけて無上正遍道とす。
(中略)
道は無碍道なり。『経』(華厳経)にいはく、〈十方の無碍人、一道より生死を出でたまへり〉と。〈一道〉は、一無碍道なり。無碍は、いはく、生死すなはちこれ涅槃なりと知るなり。

(現代語訳)

いま<速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得られた>といっているのは、法蔵菩薩が速やかに阿弥陀仏になられたことをいう。<阿>は無と訳し、<耨多羅>は上と訳し、<三藐>は正と訳し、<三>は遍と訳し、<菩提>は道と訳す。まとめてこれを訳すと無上正遍道という。
(中略)
<道>とは、無礙道である。『華厳経』に<すべての世界の無礙人である仏がたは、ただ一つの道によって迷いを出られた>と説かれている。<ただ一つの道>とは、ただ一つの無礙の道のことである。<無礙>とは、迷いとさとりとが本来別なものではないとさとることである。

結論を言うと、無碍人である仏方は、ただ一つの道である念仏によって迷いを出られ仏になられたことを、無碍の一道と親鸞聖人は仰っているのです。

したがいまして、『歎異抄』第7条の

念仏者は無碍の一道なり

は本来の意味では

念仏は無碍の一道なり

であったのを、親鸞聖人が「念仏者は」と敢えて仰ったのか、それとも『歎異抄』の著者が「念仏は」を「念仏者は」と書き間違えたのか、或いは『歎異抄』の原本が残っていないので、書写される過程で間違ったのか、そこは明確にはなっておりません。

いずれにしましても、絶対の幸福なる意味が全くないどころか、高森会長が必死で否定する「ただ念仏」、つまり獲信も往生も成仏にも善が全く不要である根拠にしかならないのです。

高森会長も教えを修正するなら、まずは善の否定からでしょうが、それは教団存続のためには絶対にしないでしょう。そんな高森会長の強欲に振り回されて、同朋の里に映画館まで建てさせられる会員は、哀れとしか言い様がありません。

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2017年5月14日 (日)

無碍の一道と絶対の幸福の違い

昨日と今日の降誕会では、「白骨の章」の話だったそうですが、無常観という真実の自己がハッキリと知らされないと救われないとか高森顕徹会長は言って、当ブログへの反論を試みたようです。もちろん、そんな根拠はありません。
また『なぜ生きる』を「平成の教行信証」と呼ばせて、高森顕徹会長は御満悦な様子で、良くできた落語のようです。

さて相変わらず、絶対の幸福の連呼をしていますが、絶対の幸福は「無碍の一道」の言い換えと妄想を膨らませているとしか言いようがありません。

まずは『歎異抄』第7条

念仏者は無碍の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなりと[云々]。

ここの「信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなき」ですが、これは二河白道の譬えの白道に乗った後の話と同じ内容です。

”親鸞聖人の教えられた”二河白道の譬えでは、

この人、すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに、東の岸の群賊等喚ばひていはく、〈きみ回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。かならず死せんこと疑はず。われらすべて悪心あつてあひ向かふことなし〉と。この人、喚ばふ声を聞くといへども、またかへりみず、一心にただちに進んで道を念じて行けば、

(現代語訳)

この人は、もはや、こちらの岸から<行け>と勧められ、向こうの岸から<来るがよい>と喚ばれるのを聞いた以上、その通りに受けとめ、少しも疑ったり恐れたり、またしりごみしたりもしないで、ためらうことなく、道をたどってまっすぐ西へ進んだ。そして少し行った時、東の岸から、盗賊などが、<おい、戻ってこい。その道は危険だ。とても向こうの岸までは行けない。間違いなく死んでしまうだろう。俺たちは何もお前を殺そうとしているわけではない>と呼ぶ。しかしこの人は、その呼び声を聞いてもふり返らず、わき目もふらずにその道を信じて進み、

です。
譬えの解説部分では、

〈あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚び回す〉といふは、すなはち別解・別行・悪見の人等、みだりに見解をもつてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失すと説くに喩ふるなり。

(現代語訳)

<少し行くと盗賊などが呼ぶ>というのは、本願他力の教えと異なる道を歩む人や、間違った考えの人々が、<念仏の行者は勝手な考えでお互いに惑わしあい、また自分自身で罪をつくって、さとりの道からはずれ、その利益を失うであろう>とみだりに説くことをたとえたのである。

です。
絶対の幸福と言えるような特別な境地の幸福感が獲られるのではなく、親鸞会的に言うなら、信心が金剛の心になったということを例えられただけです。
その証拠にこの二河白道の譬えの前に

この心、深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。

(現代語訳)

この心は金剛のようにかたい信であるから、本願他力の教えと異なるどのような人々によっても、乱されたり砕かれたりすることはない。

とありように、信心が「動乱破壊」されないことを説明する譬えなのです。重要なのは「信心が」です。「信心以外のことが」「動乱破壊せられず」ではありません。

話を戻しますと「無碍の一道」に出た人の説明だと高森会長が言っている「信心の行者」とは、要するに、「深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。」のことであって、大安心大満足というような、特殊な幸福感とは異質のものだと言うことです。

信心の内容が理解できないでいる高森会長にはチンプンカンプンで、会員には頭が混乱する内容かもしれませんので、まとめると、

『歎異抄』第7条の「何物も障りとならない」とは信心についてのことであって、他のことについては障りだらけで、信のない人と何も変わらない

ということです。

引用の根拠が殆どない『なぜ生きる』を、膨大な引文で埋め尽くされた『教行信証』と同列に考えるようなオカルトチックな感覚では、根拠を多用する当ブログ自体を理解できなくて当然でしょうが、信後の境地とはこういうことです。

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2017年5月 9日 (火)

”親鸞聖人の教えられた二河白道の譬え”から見る絶対の幸福

最近の親鸞会は、やたらと絶対の幸福を強調しています。大学の新入生を含めた非会員を意識しているのでしょうが、創価学会からのパクリ用語を未だに平気で使っているのですから、そのぶれない信念は尊敬に値します。
その絶対の幸福は、信後の境地として高森顕徹会長は説明していますが、親鸞聖人が信後の境地について教えられた話は、二河白道の譬えです。正確には善導大師の創られた譬え話ですが、5年前の講師部講義で、高森会長は突然に奇想天外な珍説を披露しました。

善導大師が、二河白道の譬えで「自力」だと教えられた「白道」を、親鸞聖人は「他力」と読まれた

その内容は、平成25年2月号の『顕真』にも紹介されています。
善導大師と親鸞聖人の教えられ方が違うと説明していることが間違いであることは、言うまでもありませんが、注目すべきは、

「白道」は、親鸞聖人が他力として教えられていることを高森会長が認めた

という事実です。
つまり、信後どのような境地になるのかを親鸞聖人が説明されたのが、二河白道の譬えだということになります。

したがいまして、二河白道の譬えを読めば、信後の境地である絶対の幸福なるものの本質が判る筈です。

”親鸞聖人の教えられた二河白道の譬え”では、水の河と火の河に挟まれ、二河の波のために細い細い白道が隠されて、旅人がなかなか進めない状態です。

念のため、『教行信証』信巻では

一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし、南北辺なし。まさしく水火の中間に一つの白道あり、闊さ四五寸ばかりなるべし。この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿す。その火焔(焔、けむりあるなり、炎、けむりなきほのほなり)また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなけん。

(現代語訳)

一つは火の河で南にあり、もう一つは水の河で北にある。その二つの河はそれぞれ幅が百歩で、どちらも深くて底がなく、果てしなく南北に続いている。その水の河と火の河の間に一すじの白い道がある。その幅はわずか四、五寸ほどである。水の河は道に激しく波を打ち寄せ、火の河は炎をあげて道を焼く。水と火とがかわるがわる道に襲いかかり、少しも止むことがない。

です。
ここは白道に乗る前の表現ですが、白道に乗った後も、この状態は変わっていませんので、親鸞聖人は『一念多念証文』で親鸞会でも有名な次の説明をされています。

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。
かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず安楽浄土へいたれば

白道に乗って白道を歩んでいる人のことを「無明煩悩われらが身にみちみちて…」と仰り、これが信後の境地と親鸞聖人が教えられている明確な根拠です。

では、高森会長の言う絶対の幸福とは、煩悩が身にみちみちて悩み煩い苦しんでいることをいうのなら辻褄があいますが、そんなつもりは毛頭ないでしょう。
要するに、絶対の幸福なんてものは、親鸞聖人の教えにはあり得ないものなのです。

次回は無碍の一道について、述べますので、高森会長も講師も会員も焦らず、まずはじっくり”親鸞聖人が他力で教えられた”二河白道の譬えを読んでみましょう。

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2017年4月26日 (水)

念仏往生の願の成就文に「念仏の意味はない」としか考えられない浅はかな高森顕徹会長

前回のエントリーについて、言葉が不足していて判りにくかったと思いますので、少し言葉を加えておきました。

さて、先日の講師部講義で18願成就文について強調していましたが、18願も判らないのに18願成就文の意味など高森顕徹会長に判るはずもないです。

基本的なこととして、存覚上人の『真要鈔』を紹介しておきます。

しかのみならず、おなじき第十八の願成就の文にいはく、「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」といへり。この文のこころは、「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜し、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す」となり。こころは、「一切の衆生、無礙光如来の名をきき得て、生死出離の強縁ひとへに念仏往生の一道にあるべしと、よろこびおもふこころの一念おこるとき往生は定まるなり。これすなはち弥陀如来、因位のむかし、至心に回向したまへりしゆゑなり」となり。この一念について隠顕の義あり。顕には、十念に対するとき一念といふは称名の一念なり。隠には、真因を決了する安心の一念なり。これすなはち相好・光明等の功徳を観想する念にあらず、ただかの如来の名号をきき得て、機教の分限をおもひ定むる位をさすなり。されば親鸞聖人はこの一念を釈すとして、「一念といふは信心を獲得する時節の極促を顕す」と判じたまへり。

高森会長が最も拘っている「一念」について、「隠顕の義」があると仰っています。表面上に説かれていることは「称名の一念」、隠された部分が「安心の一念」だということです。重要なことは、「称名の一念」の意味があるということです。
なお、18願成就文の「信心」について存覚上人は「生死出離の強縁ひとへに念仏往生の一道にあるべし」と仰っています。
念仏と信心との関係が実によく判る箇所です。

では、親鸞聖人が18願成就文で「称名の一念」の義について仰っているところがあるのか、との疑問が生じるでしょうが、それは『浄土文類聚鈔』と『三経往生文類』にあります。

まず『浄土文類聚鈔』には

行といふは、すなはち利他円満の大行なり。すなはちこれ、諸仏咨嗟の願(第十七願)より出でたり。また諸仏称名の願と名づけ、また往相正業の願と名づくべし。しかるに本願力の回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。往相について大行あり、また浄信あり。大行といふは、すなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はあまねく一切の行を摂し、極速円満す。ゆゑに大行と名づく。このゆゑに称名はよく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはち憶念なり、憶念はすなはち念仏なり、念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。
願(第十七・十八願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「十方恒沙の諸仏如来、みなともに無量寿仏の威神功徳、不可思議にましますことを讃嘆したまふ。諸有の衆生、その名号を聞きて、信心歓喜し乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す」と。

とあります。行の説明に18願成就文を引かれています。
もう一つ『三経往生文類』にも

この如来の往相回向につきて、真実の行業あり。すなはち諸仏称名の悲願(第十七願)にあらはれたり。称名の悲願は『大無量寿経』(上)にのたまはく、「たとひわれ仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟しわが名を称せずは、正覚を取らじ」と。[文]
称名・信楽の悲願(第十七・十八願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「十方恒沙の諸仏如来、みなともに無量寿仏の威神功徳、不可思議なるを讃嘆したまふ。あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜して乃至一念せん。至心回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗するを除く」と。

とあります。同じく行の説明に18願成就文が引かれています。

簡単なことで、18願は念仏往生の願ですから、18願成就文は念仏往生の願成就文です。18願に信心と念仏が誓われているのと同様に、その成就文にも信心と念仏両方があります。なぜなら、「生死出離の強縁ひとへに念仏往生の一道にあるべし」が信心なのですから。

摩訶不思議な体験を信心と勘違いしているうちは、以上のことが永久に理解できないでしょう。

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2017年4月23日 (日)

教えを徹底的に捻じ曲げて、会員を騙すこと以外考えていない外道の親玉高森顕徹会長

本日の講師部講義では、驚くことを高森顕徹会長は言っていました。

木像や絵像は「人」、名号は「法」と教えられる。人は滅ぶが法は三世十方を貫く。

その根拠が釈尊の「法に依りて人に依らざれ」のお言葉だと。

木像と絵像がやがて滅びる人だというのもびっくりですが、釈尊のお言葉の使い方も全く違います。

こんな酷い話を誰かが助言して考えたのか高森会長が一人で思いついたのか知りませんが、ただただ驚嘆します。

まず、木像と絵像は、阿弥陀仏ですから、滅びる意味として人と表現すること自体が仏教徒として考えられない発想です。

親鸞聖人は『一念多念証文』で

この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり。これを尽十方無碍光仏となづけたてまつれるなり。この如来を南無不可思議光仏とも申すなり。この如来を方便法身とは申すなり。方便と申すは、かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり。すなはち阿弥陀仏なり。

(現代語訳)

この一実真如の大宝海からすがたをあらわし、 法蔵菩薩と名乗られて、 何ものにもさまたげられることなく衆生を救う尊い誓願をおこされた。 その誓願を因として阿弥陀仏となられたのであるから、 阿弥陀仏のことを報身如来というのである。 この如来を、 世親菩薩は尽十方無礙光仏とお名づけ申しあげられたのである。 この如来を南無不可思議光仏ともいう。 そして、 この如来を方便法身というのである。 方便というのは、 すがたをあらわし、 み名を示して、 衆生にお知らせくださることをいうのである。 すなわちそれが阿弥陀仏なのである。

と教えておられます。木像も絵像も、「方便法身」です。

親鸞会では「方便」を訳の判らない説明をしていますが、色も形もない真如を理解できない我らに、認識できるように表現されることを「方便法身」と言われ、それが阿弥陀仏であり、木像であり、絵像なのです。

参考までに『教行信証』証巻では『浄土論註』を引かれて

諸仏菩薩に二種の法身あり。一つには法性法身、二つには方便法身なり。法性法身によりて方便法身を生ず。方便法身によりて法性法身を出す。この二の法身は異にして分つべからず。一にして同じかるべからず。

(現代語訳)

仏や菩薩がたには二種の法身がある。一つには法性法身であり、二つには方便法身である。法性法身によって方便法身を生じ、方便法身によって法性法身をあらわす。この二種の法身は、異なってはいるが分けることはできない。一つではあるが同じとすることはできない。

と説明なされています。木像も絵像という「方便法身によりて法性法身を出す」のです。

阿弥陀仏を誹謗していることさえ厭わない、この外道的発言に、怒りを感じない会員もまた外道の信者なのでしょう。

もう一つ、「法に依りて人に依らざれ」ですが、これは釈尊が涅槃に入られた後、どうすべきかを釈尊が仰ったお言葉なのですが、「」という釈尊の教えに従うのであって、教えを伝えている「」に従うのではない、ということなのです。もう少し判り易く言うと、聖教に従うのであって、善知識の言うことに従うのではない、ということです。詳しくは過去に

法に依りて人に依らざるべし

で書いていますので、そちらをご覧ください。

それにしても「法に依りて人に依らざれ」は、

「親鸞会教義の誤り」
善知識には無条件服従しなければならないのか 3

で初めて出てきた根拠ですので、「親鸞会教義の誤り」か当ブログのどちらかを高森会長がパクったことは疑う余地のないことです。

使えるものは、どんなに捻じ曲げてでも利用して会員を騙してやれ、との高森会長の徹底した姿勢に、仏教徒の欠片も感じられません。外道の親玉としか言いようがありません。

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2017年4月 7日 (金)

無常と罪悪にせめ立てられてマインドコントロールされた高森会会員

最近の親鸞会は、映画への拘りが異常です。会員と会員が誘った人しか見ていない映画を、ロングセラーだと言って会員に宣伝するその感覚も異常です。教義は高森顕徹会長が創るものであり、親鸞聖人の名前を単に借りただけとも、会員は気が付いているでしょう。それでも会員を続けざるを得ない精神状態に追い込まれている、まさにマインドコントロールです。それは何によってか、無常と罪悪にせめ立てられて

さて、無常観と罪悪観に関しては、今年の年頭所感に高森会長がこんなことを書いています。

 親鸞聖人が七高僧の一人に挙げられる、道綽禅師の『安楽集』に、こんな例話が説かれている。
「旅人が、果てしない荒野を一人で歩いていると、後ろから刀を振りかざす怨賊が、殺そうと追いかけて来る。
 一目散に逃げる前方には、大河があって進めない。そこで旅人は大いに迷う。
『あの河にぶつかったら、着物を脱いで渡ろうか、着たまま泳ごうか。脱いで渡ろうとすれば、堅く締まった帯が解けず、迫る危機に間に合わない。脱がずに飛び込めば、泳げぬから沈むだけ』
 そんな時、ただ大河を渡る方法だけを考えて外は何も考えない。
 弥陀の救いを求める時も同じこと。河の大事に一心専念して、外のことは一瞬として考えないのである」
 これは何を例えられたものなのか。
 旅人の後ろから、剣を抜き殺そうと追いかけてくる怨賊とは、刻々と我々に迫る激しい無常の嵐のことである。
 必死に逃げる前方には、怒涛逆巻く大河が現れて進めない。
 そこで旅人は、着物を脱いで渡ろうか、着たまま飛び込もうか、と大混乱する。
 着物を脱いで渡ろうとすれば、堅く締まって帯が解けず、危機に間に合わない。着たまま河に飛び込めば、泳げないから溺れ死ぬだけ。絶体絶命に追い込まれる。
 帯が堅く締まっていて着物が脱げないとは、重い罪悪に苦しんでいる様を例えられたものである。
 この旅人のように”無常と罪悪にせめ立てられて、仏法は聞きなさいよ”と教誡された道綽禅師の例えである。

前半は概ね正しいですが、高森会長の解説は間違いです。
まずは原文を見てみましょう。

 また問ひていはく、いま勧めによりて念仏三昧を行ぜんと欲す。 いまだ知らず、計念の相状はなににか似たる。
 答へていはく、たとへば人ありて空曠のはるかなる処において、怨賊の刀を抜き勇を奮ひてただちに来りて殺さんと欲するに値遇す。 この人ただちに走るに、一の河を度らんとするを視る。 いまだ河に到るに及ばざるに、すなはちこの念をなす。
「われ河の岸に至らば、衣を脱ぎて渡るとやせん、衣を着て浮ぶとやせん。 もし衣を脱ぎて渡らば、ただおそらくは暇なからん。 もし衣を着て浮ばば、またおそらくは首領全くしがたからん」と。
 その時、ただ一心に河を渡る方便をなすことのみありて、余の心想間雑することなきがごとし。 行者もまたしかなり。
 阿弥陀仏を念ずる時、またかの人の渡ることのみを念じて、念々あひ次いで余の心想間雑することなきがごとし。 あるいは仏の法身を念じ、あるいは仏の神力を念じ、あるいは仏の智慧を念じ、あるいは仏の毫相を念じ、あるいは仏の相好を念じ、あるいは仏の本願を念ず。 名を称することもまたしかなり。 ただよく専至に相続して断えざれば、さだめて仏前に生ず。

(現代語訳)

 また問うていう。 今、 勧めによって、 念仏三昧を行じようと思うが、 その念仏の相状はどのようであるか。
 答えていう。 たとえば、 人が広々とした所において、 恐ろしい賊が刀を抜き、 勇をふるってまっすぐに襲い来り殺そうとするのに値あうとする。 この人はただちに走って、 渡らねばならぬ一つの河があるのを見た。 まだ河に到らぬうちに、 こういう思いをした。 わたしは、 河の岸についたならば、 衣を脱いでわたろうか、 衣をきて泳ごうか。 もし衣を脱いで渡ろうとすれば、 恐らく暇がないであろう。 もし衣をつけたままで泳ごうとすれば、 またおそらく溺れるであろうと。 その時にはただ一心に河を渡る方法を考えるばかりで、 ほかの思いのまじわることがないようなものである。
 行者もまたそのとおりである。 阿弥陀仏を念ずる時も、 かの人が河を渡ることを思って念々に相続し、 ほかの思いをまじえないように、 あるいは仏の法身を念じ、 あるいは仏の威神力を念じ、 あるいは仏の智慧を念じ、 あるいは仏の白毫相を念じ、 あるいは仏の相好を念じ、 あるいは仏の本願を念じて称名する場合もそのとおりである。 ただよくもっぱら相続して絶えなかったならば、 まちがいなく仏の前に生れる。

道綽禅師が仰っていることは、念仏三昧を行じる上での相状、つまり心のことを仰ったものです。それは高森会長の言葉を使えば、「ただ大河を渡る方法だけを考えて外は何も考えない。」です。つまり、往生する方法だけを考えて外は何も考えない、状態の念仏が念仏三昧の相状だということなのです。

”無常と罪悪にせめ立てられて、仏法は聞きなさいよ”

の意味はありません。
道綽禅師の結論は

名を称することもまたしかなり。 ただよく専至に相続して断えざれば、さだめて仏前に生ず。

で、念仏に専念し相続すれば、浄土に往生できます、ということです。言葉を換えると、念仏一行と一心になりなさい、と道綽禅師が勧められている内容なのです。

日頃使わない根拠を出して、得意満面なのかもしれませんが、高森会長の主張を破邪する根拠でしかないのです。大沼法竜師の著書をパクって、『会報』にも載せていますが、意味も意図も判らず恥さらしを再現しているところが、無知の高森会長らしいところです。

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2017年3月28日 (火)

無常観と罪悪観を強調するのは土蔵秘事と同じ信心

最近の高森顕徹会長の話は、薄っぺらい内容です。以前も薄っぺらい内容ではありましたが、大沼師をパクった内容の時には、少しは深みがありました。今では、退会者からの激しい教義批判に怖れ慄き、非難されないことだけに気を使っているため、どうでもよいことに時間を費やしている有り様です。

映画のシナリオの話で法を説いているつもりになっているのですが、その内容がずれています。

無常観と罪悪観が大事だとやたら強調していますが、これもおかしなことです。仏法を聞くきっかけとして無常観と罪悪観が大事だということではあっても、無常観と罪悪観が聞法に大切なのではありません。
言葉を替えると、仏法を聞く気の無い人が、仏法を聞き始める縁として無常観と罪悪観が大事だとは言っても良いですが、すでに仏法を真面目に聞いている人にとっては、無常観と罪悪観が必要なものではありません。

たとえば蓮如上人は『御文章』2帖目7通に

しづかにおもんみれば、それ人間界の生を受くることは、まことに五戒をたもてる功力によりてなり。これおほきにまれなることぞかし。ただし人界の生はわづかに一旦の浮生なり、後生は永生の楽果なり。たとひまた栄華にほこり栄耀にあまるといふとも、盛者必衰会者定離のならひなれば、ひさしくたもつべきにあらず。ただ五十年・百年のあひだのことなり。それも老少不定ときくときは、まことにもつてたのみすくなし。これによりて、今の時の衆生は、他力の信心をえて浄土の往生をとげんとおもふべきなり。

と仰っています。蓮如上人は、仏法を聞くきっかけとしても無常観、罪悪観が大事だとも仰っていません。人間界の栄耀栄華の僅かな楽しみよりも浄土往生の永生の楽果を求めなさいとのことで、無常については栄耀栄華が短いとしか仰っておらず、罪悪についての言及はここではありません。もちろん、仏法をすでに聞いている人にも、無常観、罪悪観が大切だということも仰っていません。

また親鸞聖人の御著書、お手紙を一通り読んだ人なら判りますが、親鸞聖人も無常観と罪悪観が大事だと仰ってはいませんし、無常観に至っては、言及さえ殆どありません。罪悪観については、煩悩具足で出離できないことの説明に関連して仰っているだけで、それ以上ではありません。機の深信と罪悪観の違いが判っていない高森会長にとっては、私の言っていることが理解できないと思います。

機の深信と罪悪観との関係については、何度か述べたことがありますが、善導大師が著わされた『散善義』の以下の御言葉が判りやすいと思います。

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

(現代語訳)

わが身は、 無始よりこのかた、 他のものと同時に、 発願し、 悪を断ち、 菩薩の道を行じたのに、 他のものはことごとく身命を惜しまず、 修行して位を進め、 因が円満し、 果が成就して、 聖者の位を証した。その数は、 大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、 われら凡夫は過去より今日に至るまで、 いたずらに流転して、 煩悩の悪障が次第にますます多くなり、 福徳智慧のきわめて少ないことは、 重昏をもって明鏡に望むがようである。 今このことを考えると、 どうして心驚き悲しまずにおられようか。

善導大師はかつての法友が聖道門の修行によって出離して聖者となっていく中で、善導大師御自身は聖道門の修行をされても出離できずに流転を繰り返してきたとの告白です。その結果として、煩悩の悪障が次第にますます多くなっていると仰っているのであって、罪悪観を大事にして求めるという話ではありません。罪悪観云々は、聖道門ではさとりを得ることができないということであり、18願において罪悪観が関係する話ではないのです。

善導大師の御言葉で機の深信と罪悪観との関係を簡単に言うと、機の深信は聖道門では出離できないことであり、罪悪観は出離できないから罪悪を造っているということです。聖道門あるいは善では出離できないと知らされることが大事なのであって、罪悪が知らされることが大事なのではありません。

機の深信を究極の罪悪観としか思っていない高森会長は、突っ込まれない話をしているつもりでしょうが、高森会長の信心は土蔵秘事となんら変わらないのです。

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2017年3月20日 (月)

法論から逃げ回って丸5年の高森顕徹会長と親鸞会

今から5年前、こんなエントリーを書きました。

書面で法論を申し込んだら、”検討する”だそうです

その後、連絡もなく、内輪でのみ反論したように偽装しただけです。

昨日、ある集まりに、弘宣局長とK講師、他2名の講師部員が乗り込んできて、親鸞会の邪義を喚き散らしていったそうです。その際に、私が弘宣局に書面で正式に法論を申し込めば、検討する、と弘宣局長は言っていたそうです。

そこで本日、法論申し込みの書面を書留で送付しました。それに加えて以下のメールも送っておきました。

W 様


御無沙汰しております、○○です。
昨日の件は、聞いております。法論の申し込みを書面でせよ、とのことですので、本日申し込みの書面を書留で送りました。
内容は以下の通りです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
              法論の申し込み
                            平成24年3月18日
弘宣局長 W 様

御無沙汰しております、○○です。

昨年、K講師を通して、法論を申し込みましたが無視されました。
しかしその件で、「弘宣局に直接法論を申し込むように」と貴方が言われたそうですので、ここに書面をもって法論を正式に申し込みます。

法論の条件は、

1.法論の土俵はお聖教であり、お聖教にない文底秘沈のような主張はしない
2.文章でやりとりをする
3.法論の場は、以下とする
  mixi内の信仰と対話コミュニティ*「三願転入」議論継続トピック*
  
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=53217382&comm_id=2135313
4.相手の質問に対して質問で返さず、相手の質問に答えてから新たな質問をする

以上の4点です。

かつて親鸞会は公約していた筈です。

「親鸞会は公約しています。親鸞会の主張に対して異議、反論のある方は遠慮なく申し出てください。相手が集団であれ、個人であれ、公開であれ、非公開であれ、討論であれ、文書討論であれ、相手の希望される方法で、時と場所を問わず、本当の親鸞聖人のみ教えを開顕するために、喜んで対決に応じます。」

これが口先だけであったとは、言わせません。

私の主張は、「親鸞会教義の誤り」「飛雲」「親鸞会の邪義を正す」等のブログで書かれている通りです。一読された上で、法論に臨んで頂きたいと思います。
親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張との相違点を以下に列記しておきます。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
- - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

なお、法論に応じられても応じられなくても、返事を頂いても頂かなくても、すべて公開しますので、御了承ください。
                                           ○○○○
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

mixiでの三願転入の法論は、親鸞会の逃亡とトピック削除で幕を閉じましたが、とりあえずその続きをしたいと考えております。

なお、上に挙げたブログをすべて読まれるのは大変でしょうから、最低限、添付ファイルのところだけでも読んでおいて頂けませんでしょうか。

目的は親鸞聖人のみ教えを開顕するためですので、よいお返事をお待ちしております。

○○○○

法論の実現も、返事も期待しておりませんが、万が一法論が実現すれば、また退会者が増える縁になるでしょうから、喜ばしいことです。

さて、親鸞聖人は白道のことを自力の心ではないと明確に仰っていますので、白道を信前の求道心と解釈するのは、真宗ではありません。存覚上人も『浄土真要鈔』

この一念帰命の信心は、凡夫自力の迷心にあらず、如来清浄本願の智心なり。
しかれば、二河の譬喩のなかにも、中間の白道をもつて、一処には如来の願力にたとへ、一処には行者の信心にたとへたり。
「如来の願力にたとふ」といふは、「念々無遺乗彼願力之道」といへるこれなり。こころは、「貪瞋の煩悩にかかはらず、弥陀如来の願力の白道に乗ぜよ」となり。
「行者の信心にたとふ」といふは、「衆生貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心」といへるこれなり。こころは、「貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ず」となり。
されば、「水火の二河」 は衆生の貪瞋なり。これ不清浄の心なり。
「中間の白道」は、あるときは行者の信心といはれ、あるときは如来の願力の道と釈せらる。これすなはち行者のおこすところの信心と、如来の願心とひとつなることをあらはすなり。したがひて、清浄の心といへるも如来の智心なりとあらはすこころなり。もし凡夫我執の心ならば、清浄の心とは釈すべからず。

と、このようにあります。「行者の信心」を譬えられた「白道」は、

衆生貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心」であり、
一念帰命の信心」であり、
凡夫自力の迷心にあらず、如来清浄本願の智心なり」であり、
凡夫我執の心」ではないと解説されています。

ここまで明らかなことですから、議論するまでもないことです。

文底秘沈の高森邪義を信じる会員は、哀れです。

最近は、「若不生者」の「」に拘っているようですが、国語の問題ですので、上記と比較したら大した話になりません。「若不生者」の「」で相手にしてほしいのか、話を逸らしたいのか知りませんが、いずれにしても、高森会長のレベルの低さが真宗史に刻まれるだけです。

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2017年2月26日 (日)

高森顕徹会長の解釈は、教え以前に国語の問題で躓いている

同朋の里に映画館を造るという話が出ているようですが、これは明らかに金集めの手段です。未だに各地に会館を建て続けていますが、そうしてまで強引な金集めをしなければ回らないほど、金銭的に逼迫していることが判ります。会員も年々酷くなる金集めに、退会者にまで愚痴を言いふらす程です。

さて、本日の高森顕徹会長の話は、予想通りと言いましょうか、単純といいましょうか、「若不生者」の「」に絡んだ話でした。

当ブログを通して読まれている方ならお判りでしょうが、「若不生者」に関しては殆ど言及してきませんでした。昨年末になって初めてまともに言及したくらいですが、その理由は、他の邪義が余りにも酷過ぎることと、高森会長の「若不生者」の解釈は教えの間違いというよりも日本語の間違いという低レベルの話だからです。

一応復習しておきますと、「若不生者」について親鸞聖人の解釈は、『尊号真像銘文』の

至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは

ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは

と『唯信鈔文意』の

「来迎」といふは、「来」は浄土へきたらしむといふ、これすなはち若不生者のちかひをあらはす御のりなり。

で終わりです。

至心信楽をえたるひと、信楽にもし生れずは

では意味が判りません。二河白道の譬喩でも

信楽の心で念仏して浄土に生まれさせる

としかなりませんので、

信楽の心で念仏して信楽に生まれさせる

では文章にならないのです。

では現益の意味がないのかと言われれば、親鸞聖人は直接仰ってはいませんが、それも含められていると言ってもよい程度の話です。
しかし、現益でいうにしても、

至心信楽をえたるひと、信楽にもし生れずは
信楽の心で念仏して信楽に生まれさせる

には成りようがありません。国語の問題であって、教えの問題ではありません。ここで議論するのが馬鹿らしくなるレベルですから、これまで言及をしてこなかったのです。

そんな低レベルの話を、修正することもせずに、意地になって言い続ける高森会長の人格が知れるというものです。

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2017年2月16日 (木)

高森秘事の二河白道の譬え話

信前信後で、何が変わって何が変わらないのかがよく判る話が、二河白道の譬喩です。この譬喩が、高森顕徹会長が話している内容とはかなり違うことを、これまで何度も述べてきました。

高森会長は、白道についての私の非難に反論するために、善導大師と親鸞聖人とは教えられた方が違うとか、おもしろいことを言ったこともありますが、言うまでもなく御二方の譬え話は同じです。

信前信後の話に絞って言いますと、三定死を迎えるのは、東の岸にいる時であり、西の岸にいる人の喚び声を聞くのも東の岸にいる時です。したがいまして、信前信後の違いは、東の岸にいるか白道に乗ったかの違いです。ここで、白道に乗ったこと以外に何かが変わったかどうかです。

・旅人の姿は変わらない。
・東の岸も変わらない。
・白道は四五寸のまま変わらない。
・水の河と火の河も変わらない。
・群賊悪獣悪知識も変わらない。
・東の岸と西の岸の距離も変わらない。
・西の岸も変わらない。
・東の岸の人も変わらない。
・西の岸の人も変わらない。
・西の岸の人から新たな喚び声はない。

要するに、白道に乗ったこと以外には、何も変わらないということです。
そうなると、救われてハッキリするのは、白道に乗ったこと、つまり他力の信心を頂いたことだけで、他にはハッキリすることが何もないということになります。

これは前回の『執持鈔』と同じです。思慮の浅い親鸞会会員は、信後は西の岸が見えるではないか、と反論するかもしれませんが、それは東の岸にいた時と同じ見え方です。

結局、往生一定といっても、白道に乗ったこと、つまりは阿弥陀仏の喚び声に従う以上でも以下でもないということです。善導大師、親鸞聖人が二河白道の譬喩でそのように教えておられるのですから、これ以上屁理屈のつけようがありません。

善導大師、親鸞聖人の譬え話そのままでも、信前信後はこの違いしかないのですが、高森会長のいう白道の途中で信前信後が分かれるとなると、信前信後には違いが何もないことになります。白道の途中で西の岸の人が新たな喚び声を出されていませんし、白道も変わりませんので、何も変化がない、つまりは何一つハッキリすることがないことになります。高森秘事の譬え話では、信前信後の水際がハッキリすることなどない曖昧なものにしかなりません。

高森会長の言っている驚天動地の変化を言いたいのなら、せめて

・白道の四五寸が広い広い大道に変わった。
・水の河と火の河が白道を隠すことがなくなった。
・西の岸が光り輝いてよく見えるようになった。

くらいの大胆な改竄をして言わないと辻褄が合いません。尤もこれに近いことを高森会長は過去に言ったこともありましたので、善導大師、親鸞聖人の譬え話とは大きく異なったオリジナルの譬え話を高森会長が創作したのだといえます。まあ、創作をしたというよりは、寧ろ、善導大師、親鸞聖人の譬え話を知らなくて、適当なことを言っただけでしょう。

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