2022年1月 8日 (土)

三願転入の復活か?

高森顕徹会長が姿を晦まして、長い時間が経っています。高森会長がいない状態では新しい話が出てこないので、ブログの更新をしてきませんでしたが、昨年11月の顕真の巻頭言に

十九願建立の弥陀の目的

善を励むほど、悪性が見えて来る。

励む善そのものは「雑毒の善」でもなければ
「虚仮の行」でもないのだが、
励む我々の心が邪見であり、虚仮であり、不実だから、
「真実の行」とならないのである。

励んでそれを分からせ、他力の名号に向かわせようと、
弥陀が仕組まれたのが十九願建立の願意である。

とありました。これは11年前に高森会長が書いた巻頭言で、ここ数年は表立った三願転入論を展開控えていたのを転換したかもしれないと思いましたので、また少し書いておきます。

11年前と言えば、mixi上で三願転入の法論がなされて、高森会長が完膚なきまでに徹底的に叩きのめされて、それを見た会員が大量に辞めて直後のことです。

直接反論ができないので、一部の会員向けの機関紙でこっそり反論すると言うか言い訳をするのが関の山でした。

その後、『なぜ生きる2』を出して、反論できるんだぞ、パフォーマンスをしたものの、返り討ちに遇い、現在では『なぜ生きる2』はお蔵入りとなっています。

さて、上記の巻頭言についてどこが間違いかと言えば、結論が完全な間違いです。

善を励んで見えてくることは、煩悩が邪魔をしてその程度の善しかできないということです。それを「悪性」というなら良いでしょう。

次は『教行信証』信巻

一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。

の言い換えですから、問題ありません。

しかし「励んでそれを分からせ、他力の名号に向かわせようと、弥陀が仕組まれたのが十九願建立の願意である。」の根拠は全くありません。これと反する根拠ならいくつもあります。

行巻に『安楽集』を引かれて

『観仏三昧経』にいはく、〈父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまふ。父の王、仏にまうさく、《仏地の果徳、真如実相、第一義空、なにによりてか弟子をしてこれを行ぜしめざる》と。仏、父の王に告げたまはく、《諸仏の果徳、無量深妙の境界、神通解脱まします。これ凡夫の所行の境界にあらざるがゆゑに、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる》と。

(現代語訳)

『観仏三昧経』に、<世尊は、父である浄飯王に念仏三昧を修めるようにお勧めになった。父の王は世尊に、«仏のさとりの徳は真如実相第一義空とのことでありますが、それを観ずる行を、どうして弟子であるわたしに教えてくださらないのですか»とお尋ねした。世尊は父の王に、«仏がたのさとりの徳は、はかりがたい深い境地であり、仏は神通力や智慧をそなえておいでになります。これはとうてい凡夫が修めることのできる境地ではありません。そこで、父の王に念仏三昧を修めることをお勧めしたのです»と仰せになった。

と教えられています。また同じく行巻に『五会法事讃』を引かれて

如来つねに三昧海のなかにして、網綿の手を挙げたまひて、父の王にいうてのたまはく、〈王いま座禅してただまさに念仏すべし。あに離念に同じて無念を求めんや。生を離れて無生を求めんや。相好を離れて法身を求めんや。文を離れて解脱を求めんや〉と。

(現代語訳)

さて、如来は常に三昧の中にあって、詳しく教えを説き明かされるのである。釈尊は父である浄飯王に、<王よ、今静かに座して念仏すべきであります。念を離れて無念を求め、生を離れて無生を求め、姿かたちを離れて法身を求め、言葉を離れて言葉の及ばない解脱を求めるというような難しいことが、凡夫にどうしてできましょうか>と仰せになる。

と同じことを繰り返し教えられています。浄飯王は、善ができると自惚れていましたが、釈尊は「できないから勧めない」で終わりです。念仏三昧を最初から勧められています。

やらせてみてできないことを知らせてから、というような回りくどいことを釈尊はされず、それを親鸞聖人は二度も繰り返し教えられていますので、高森会長の考えは完全に間違いです。もちろん19願の願意でもありません。

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2021年10月11日 (月)

親鸞聖人が判らないと仰る往生が判る親鸞会の会員は、上品の智者のつもりなのでしょう

信心を獲ても、阿弥陀仏や浄土が判るようになるのではありません。その根本的な理由は『正像末和讃』の最後の「自然法爾章」にあります。

無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときは、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめに弥陀仏とぞききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。

(現代語訳)

「無上仏」 というのは、 かたちを超えたこの上ないさとりものをいうのであり、 かたちを離れているから、 「自然」 というのである。 かたちがあると示すときは、 この上ないさとりとはいわない。 かたちを離れたこの上ないさとりを知らせようとして示されているのが、 阿弥陀仏であるとお聞かせいただいている。

ほぼ同様の文章は『末灯鈔』にもあります。ここでは阿弥陀仏のお姿について仰っていますが、浄土も同様で、形がないので我々には認識できないのです。認識できないのに阿弥陀仏や浄土が判るようになることはありません。

それで『正信偈』には、

われまたかの摂取のなかにあれども、
煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、
大悲、倦きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり。

とある通りです。この元は『往生要集』です。
源信僧都でさえ信心を獲ても、煩悩によって阿弥陀仏のお姿を観ることはできないと仰っているのです。浄土についても同じで、経典にある方便として説かれた具現化された浄土の荘厳は知っていても、かたちのない真実の浄土は認識できません。

したがって、親鸞聖人が、阿弥陀仏や浄土について知らされた内容を御自身の言葉で語られてはいません。事実、真仏・真土について解説された『教行信証』真仏土巻には、経典と高僧方の文を延々と引かれただけで、親鸞聖人の知らされた内容は結論として、

しかれば如来の真説、宗師の釈義、あきらかに知んぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕す。
惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに。『経』(涅槃経・迦葉品)には、「われ十住の菩薩、少分、仏性を見ると説く」とのたまへり。ゆゑに知んぬ、安楽仏国に到れば、すなはちかならず仏性を顕す。本願力の回向によるがゆゑに。また『経』(涅槃経・迦葉品)には「衆生未来に清浄の身を具足し荘厳して、仏性を見ることを得」とのたまへり。

(現代語訳)

このようなわけであるから、釈尊が説かれた真実の教えや、祖師方が示された解釈には、阿弥陀仏の浄土は真実報土であることが顕されていると、明らかに知ることができた。煩悩にまみれた衆生は、この世界では仏性を見ることができない。それは煩悩におおわれているからである。『涅槃経』には「わたしは第十地の菩薩でも仏性を少ししか見ないと説く」と説かれている。このようなわけで知ることができる。浄土に往生すれば、そこで必ず仏性をあらわすのである。それは阿弥陀仏の本願力の回向によるからである。また『涅槃経』には「衆生は未来に法性にかなった清浄の身となって、仏性を見ることができる」と説かれている。

と仰っただけです。親鸞聖人の阿弥陀仏と浄土に関する結論は、

煩悩に覆われているから判らない

です。
ここまで説明しても苦し紛れの反論で、

形は認識できなくても、仏智を頂くから判るんだ!

という意味不明なことを親鸞会は言ってきそうですが、それについて曇鸞大師が『浄土論註』でこう仰っています。

問ひていはく、上に、生は無生なりと知るといふは、まさにこれ上品生のものなるべし。もし下下品の人の、十念に乗じて往生するは、あに実の生を取るにあらずや。ただ実の生を取らば、すなはち二執に堕しなん。一には、 おそらくは往生を得ざらん。二には、おそらくはさらに生ずとも惑ひを生ぜん。

答ふ。たとへば浄摩尼珠を、これを濁水に置けば、水すなはち清浄なるがごとし。もし人、無量生死の罪濁にありといへども、かの阿弥陀如来の至極無生清浄の宝珠の名号を聞きて、これを濁心に投ぐれば、念々のうちに罪滅して心浄まり、すなはち往生を得。またこれ摩尼珠を玄黄の幣をもつて裹みて、これを水に投ぐれば、水すなはち玄黄にしてもつぱら物の色のごとくなり。かの清浄仏土に阿弥陀如来無上の宝珠まします。無量の荘厳功徳成就の帛をもつて裹みて、これを往生するところのひとの心水に投ぐれば、あに生見を転じて無生の智となすことあたはざらんや。
また氷の上に火を燃くに、火猛ければすなはち氷解く。氷解くればすなはち火滅するがごとし。かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり。

(現代語訳)

問うていう。 上にいうてあるような生即無生の道理をさとるということは上品の往生者にいうことである。 下品下生の人のごときは、 ただ十念念仏によって往生するので、 こういうのは実生実滅の執着を持っているのではないか。 ただ実生を執ずるならば二つの疑いに堕ちる。 一つに、 恐らくはこういう実生実滅を執ずる凡夫は往生を得ないであろう。 二つに、 往生してもさらに生死相対の惑いを生ずるであろう。

答えていう。 たとえば清浄なる摩尼宝珠を濁った水の中に置けば、 珠の力で水が浄らかになるようなものである。 もし凡夫人が無量劫のあいだ迷わねばならぬ罪があっても、 かの阿弥陀如来の法性真如にかなったこの上なき清浄の名号を聞いて、 これを濁った心の中にいただくならば、 念々の中うちに罪が滅し清浄の徳を得て、 往生が得られる。
また、 この清浄なる摩尼宝珠を玄や黄の幣につつんで水の中に入れると、 水がすなわちつつんだ物である幣の色と同じ玄や黄になるようなものである。 かの清浄仏土には、 阿弥陀如来の無上功徳の宝がある。 これをいろいろの荘厳功徳という幣でつつんで、 往生した人の心の水の中に入れたならば、 どうして実生実滅の心を転じて無生の智慧とすることができないはずがあろうか。
また、 氷の上で火を燃やすと、 火の勢いが強ければ氷は解け、 氷が解けると火が消えるようなものである。 かの下品の人は生即無生であると知らないけれども、 ただ仏の名号を称えて作願してかの土に生まれようと願うならば、 浄土に至ればかの国は無生の道理にかなった境界であるから、 実生実滅と見る煩悩の火は自然に消えるのである。

智慧のない者は「法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり。」とある通り、往生について理屈も実感も何もないまま、念仏称えて往生できるのです。

信心を獲て、往生が判ると主張する親鸞会の会員は、上品で智慧のある上等の人間のつもりなのでしょう。おめでたいです。

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2021年10月10日 (日)

二種深信は、地獄や浄土が判ることでも、往生がハッキリすることでもなく、往生への道がハッキリすること

信心を獲たら何が知られるか、高森顕徹会長がいつも言ってきたのが、二種深信です。では、高森会長が親鸞会が二種深信とは何かを判っているかといえば、否です。判っていないから、信心を獲てハッキリすることとハッキリしないことの区別がつかないのです。

二種深信について、判り易く説明します。

二種深信については、親鸞会でも引用されるのが、『教行信証』の信巻にだけある

一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。

二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。

です。
ところが善導大師は他の表現でも二種深信を仰っていて、それは『教行信証』の行巻と信巻の二か所に引かれています。

自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。


いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。

前者が一か所で、後者が二か所で紹介されているから、単純に後者の方が重要という話ではありませんが、少なくとも、親鸞聖人は後者の二種深信を重要視されていたので、それを知らない高森会長は、『教行信証』を全く読んだことがないとここでも判明します。
その無知な高森会長の言うことを妄信して、二種深信について知った気になっている会員は、哀れ哀れというほかありません。

二種深信の内容については、前者よりも後者の方が、より明確になっています。
簡単にまとめると

機の深信は、自分が今までやってきた程度の善では出離できない、と深信、信知すること。


法の深信は、阿弥陀仏の本願は念仏で必ず往生できる、と深信、信知すること。

こういうことです。もっと簡潔に言うと、

善では出離できない、念仏によってのみ出離し往生できる、と深信、信知する

これが真実の信心です。

法の深信についてもう少し説明すると、『末灯鈔』で親鸞聖人はこのようにも仰っています。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

何を深信し信知するのかについて明確に仰っています。

さだめて往生を得」とは、未だ遂げていない往生について、その道は「かの願力に乗じて」「名号を称する」「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる」ことだけだとハッキリしたことです。浄土往生がハッキリ認識できたのではなく、浄土往生への道を信知、深信するのです。二河白道の譬喩と同じです。

思考できない会員のために再度、

浄土往生への道は念仏だけだと信知、深信したことを法の深信というのです。

なお、言うのもあほらしいことですが、法の深信は「往生できる」であって「成仏できる」ではないです。難しい事でも何でもない、小学生でも判る簡単な話ですので、

念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

これは法の深信とは違います。信心を獲た人が、臨終に往生即成仏する、と知らされることはありません。これは親鸞聖人の独自の解釈であって、智慧を得て知らされることではありません。

基礎学力プラスアルファーがないと、理解できないかもしれません。

 

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2021年10月 8日 (金)

信後にハッキリすることとハッキリしないことをハッキリと教えられた二河白道の譬喩

信前と信後で、何が変わるか、何がハッキリするようになるのかが最もよく判るのが、二河白道の譬えです。元は善導大師が創られた譬喩ですが、親鸞聖人は『教行信証』信巻に引かれていますので、それを紹介しておきます。長くなるので、譬えの部分だけです。

たとへば人ありて、西に向かひて行かんとするに、百千の里ならん。忽然として中路に見れば二つの河あり。一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし、南北辺なし。まさしく水火の中間に一つの白道あり、闊さ四五寸ばかりなるべし。この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿す。その火焔(焔、けむりあるなり、炎、けむりなきほのほなり)また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなけん。

この人すでに空曠のはるかなる処に至るに、さらに人物なし。多く群賊・悪獣ありて、この人の単独なるを見て、競ひ来りてこの人を殺さんとす。死を怖れてただちに走りて西に向かふに、忽然としてこの大河を見て、すなはちみづから念言すらく、〈この河、南北に辺畔を見ず、中間に一つの白道を見る、きはめてこれ狭少なり。二つの岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべき。今日さだめて死せんこと疑はず。まさしく到り回らんと欲へば、群賊・悪獣、漸々に来り逼む。まさしく南北に避り走らんとすれば、悪獣・毒虫、競ひ来りてわれに向かふ。まさしく西に向かひて道を尋ねて去かんとすれば、またおそらくはこの水火の二河に堕せんことを〉と。時にあたりて惶怖することまたいふべからず。すなはちみづから思念すらく、〈われいま回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず可度すべし〉と。

この念をなすとき、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、〈きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん〉と。
また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。

この人、すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに、東の岸の群賊等喚ばひていはく、〈きみ回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。かならず死せんこと疑はず。われらすべて悪心あつてあひ向かふことなし〉と。この人、喚ばふ声を聞くといへども、またかへりみず、一心にただちに進んで道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。善友あひ見て慶楽すること已むことなからんがごとし。これはこれ喩(喩の字、をしへなり)へなり。

(現代語訳)

ここに一人の人がいて、百千里の遠い道のりを西に向かって行こうとしている。その途中に、突然二つの河が現れる。一つは火の河で南にあり、もう一つは水の河で北にある。その二つの河はそれぞれ幅が百歩で、どちらも深くて底がなく、果てしなく南北に続いている。その水の河と火の河の間に一すじの白い道がある。その幅はわずか四、五寸ほどである。水の河は道に激しく波を打ち寄せ、火の河は炎をあげて道を焼く。水と火とがかわるがわる道に襲いかかり、少しも止むことがない。

この人が果てしない広野にさしかかった時、他にはまったく人影はなかった。そこに盗賊や恐ろしい獣がたくさん現れ、この人がただ一人でいるのを見て、われ先にと襲ってきて殺そうとした。そこで、この人は死をおそれて、すぐに走って西に向かったのであるが、突然現れたこの大河を見て次のように思った。<この河は南北に果てしなく、まん中に一すじの白い道が見えるが、それはきわめて狭い。東西両岸の間は近いけれども、どうして渡ることができよう。わたしは今日死んでしまうに違いない。東に引き返そうとすれば、盗賊や恐ろしい獣が次第にせまってくる。南や北へ逃げ去ろうとすれば、恐ろしい獣や毒虫が先を争ってわたしに向かってくる。西に向かって道をたどって行こうとすれば、また恐らくこの水と火の河に落ちるであろう>と。こう思って、とても言葉にいい表すことができないほど、恐れおののいた。そこで、次のように考えた。<わたしは今、引き返しても死ぬ、とどまっても死ぬ、進んでも死ぬ。どうしても死を免れないのなら、むしろこの道をたどって前に進もう。すでにこの道があるのだから、必ず渡れるに違いない>と。

こう考えた時、にわかに東の岸に、<そなたは、ためらうことなく、ただこの道をたどって行け。決して死ぬことはないであろう。もし、そのままそこにいるなら必ず死ぬであろう>と人の勧める声が聞えた。また、西の岸に人がいて、<そなたは一心にためらうことなくまっすぐに来るがよい。わたしがそなたを護ろう。水の河や火の河に落ちるのではないかと恐れるな>と喚ぶ声がする。

この人は、もはや、こちらの岸から<行け>と勧められ、向こうの岸から<来るがよい>と喚ばれるのを聞いた以上、その通りに受けとめ、少しも疑ったり恐れたり、またしりごみしたりもしないで、ためらうことなく、道をたどってまっすぐ西へ進んだ。そして少し行った時、東の岸から、盗賊などが、<おい、戻ってこい。その道は危険だ。とても向こうの岸までは行けない。間違いなく死んでしまうだろう。俺たちは何もお前を殺そうとしているわけではない>と呼ぶ。しかしこの人は、その呼び声を聞いてもふり返らず、わき目もふらずにその道を信じて進み、間もなく西の岸にたどり着いて、永久にさまざまなわざわいを離れ、善き友と会って、喜びも楽しみも尽きることがなかった。以上は譬えである。


高森顕徹会長の話とは随分違うことは、マインドコントロールの効いている会員でも気が付くほどですが、今回はそのことについては触れません。

信前(東の岸にいる時)と信後(白道を歩んでいる時)で何が変わったでしょうか。
主なものを列記します。

1.西の岸(浄土)の見え方と状態は変わっていない。
2.西の岸までの距離が百歩も変わっていない。
3.西の岸におられる人(阿弥陀仏)の見え方、お姿も変わっていない。
4.白道の状態も変わっていない。
5.水の河と火の河(煩悩)も変わっていない。
6.群賊・悪獣・悪知識の攻撃も変わっていない。
7.行者の姿は変わっていない。

8.行者の心が、東の岸にいる時(信前)は白道を進もうかどうか迷っているが、白道を歩んでいる時(信後)は白道を進むことに迷いがなくなる。

信前信後で変わったことは、8だけです。親鸞会の会員が期待しているというより高森会長から期待させられている1から7は変わっていなのです。

つまり、信後に1から3まではハッキリせず、ハッキリするのは8だけだということです。

マインドコントロールが効いていると混乱するでしょうから、ハッキリ言いますと、

阿弥陀仏について、浄土について、往生について、信前と信後は認識が何も変わらないのです。変わることは、白道を歩めば西の岸に必ず行けると心が定まる、言い換えると、阿弥陀仏の仰せに順えば、浄土に往けると心が決定しただけです。

二河白道の譬喩の原文で言うと、「かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜずして」が信心であり、唯一ハッキリするところです。

譬えには合うところ合わないところがあるのも知らんのか!

という負け犬の遠吠えが聞こえてきますが、ハッキリするかどうかという大事なところを敢えて反対に譬える必要はないはずですが、なぜそんなことを善導大師も親鸞聖人もされているのでしょうか。ちなみに、親鸞聖人は御著書の中で、二河白道の譬喩について度々言及され、関東の同行にもこの譬喩について自ら書いて送って読むように勧められているのです。この譬喩を読んで、救われても浄土がハッキリしない、往生についてハッキリしないと思う人ばかりでしょう。こんな危険な譬喩を創られた善導大師も、同行に読むように勧められた親鸞聖人も、会員からすれば悪知識の仲間入りです。

私は善導大師、親鸞聖人と同じことを言っているだけです。
浄土も阿弥陀仏も、往生についてもハッキリはしないが、阿弥陀仏の仰せの通りに心が決定したから、自分ではハッキリしていない浄土に往くことには疑いがない。

二河白道の譬喩の不適切箇所を修正された善導大師、親鸞聖人の御文があるなら、古参の講師部員でも末端の会員でも良いので教えてください。

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2021年10月 7日 (木)

W氏は日本語基礎講座で墓穴を掘りW氏は引き下がりましたが、末端会員には理解不能の「まことに知んぬ」

前回の

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

について、普通の思考であれば、全員が納得する内容ですが、意地でも納得してはならないということで、かつて必死に抵抗してきたのがW氏でした。W氏は私との法論は避け続けていますが、かつての部下のブログ

「宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)へ」

に現われて、長いコメントを書きまくっていました。とにかく長いので、前回のことを踏まえた上での反論部分から決着までを紹介しておきます。「ゼロ」「JB」が共にW氏で、青字部分です。赤字部分が私です。

JB

宮田教の信者の言語はほんとに凄いですね(笑)
念のため日本語と比較しておきましょうか。

■宮田語基礎講座■

【1】

昨年、A君がインフルエンザにかかって、とてもつらい思いをした。(A)
今年、私もインフルエンザにかかり、とてもつらかった。(B)

(A)と(B)は、ともに断言していますが、同じレベルの断言でしょうか、違うレベルでしょうか? 正しいと思う方の( )に○を入れてください。

(答え)

1:同じ(○)
2:違う( )

【2】

Mくんは3年間の勉強の末、T高校に合格して、春から高校生になる。
(C)
私は、喜ばしいことに、中高一貫校だから、すでに高校進学が決まっている。
(D)

(C)の文章と(D)の文章と、より言いたいことはどちらの文章でしょう?
正しいと思う( )に○を入れてください。

1:C( )
2:D( )
3:どちらも同じくらい言いたい(○)

【3】

「断定文」は「疑問文」である。

【4】

「まことに知んぬ」は、「信じるに過ぎない」という意味である。

■日本語基礎講座■

【1】

昨年、A君がインフルエンザにかかって、とてもつらい思いをした。(A)
今年、私もインフルエンザにかかり、とてもつらかった。(B)

(A)と(B)は、ともに断言していますが、同じレベルの断言でしょうか、違うレベルでしょうか? 正しいと思う方の( )に○を入れてください。

(答え)

1:同じ( )
2:違う(○)他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。

【2】

Mくんは3年間の勉強の末、T高校に合格して、春から高校生になる。
(C)
私は、喜ばしいことに、中高一貫校だから、すでに高校進学が決まっている。
(D)

(C)の文章と(D)の文章と、より言いたいことはどちらの文章でしょう?
正しいと思う( )に○を入れてください。

1:C( )
2:D(○) 「C]の文章は、引き合いに出して比較したもの。
3:どちらも同じくらい言いたい( )

【3】

「断定文」が「疑問文」になることは決してない。

【4】

「まことに知んぬ」が、「信じるに過ぎない」という意味にはならない。

=============================

※義務教育をちゃんと受けた人は誰でも分かることですよね。
 宮田教の信者さんからすると驚かれるかもしれませんが!

宮田語しか分からない人には、

> 宮田さんの主張は、誰が読んでも良く分かります。
>
> でも、ゼロさんの言っていることは、チンプンカンプンなのです。

となるでしょう。お気持ちよく分かります。

ですが、『教行信証』をはじめ、親鸞聖人のご著書が、宮田語で書かれているという説は見たことがないですね。(当たり前・笑)

「真に知んぬ」が、弥勒菩薩のことと、念仏の衆生と同等だと主張するのは、

宮田教内部にしか通用しない理屈です。日本語で、他人のことと自分のことを同じレベル

で、「本当だったと知らされた」などありえませんから!(【1】参照)

なので、ゼロさんも前に書いていたとおり、弥勒菩薩は、比較の対象として

引き合いに出されただけで、メインではないのです。

これも日本語基礎講座【2】にあるとおりで、普通の日本人なら皆、分かる

ことなので、逆にいえば、宮田語しか分からない人には毛頭わからないことですね。

なので、お互い言語が違うとしかいいようがないです。

★反論があるなら、【1】~【4】について、宮田語のほうが正しいという

国語辞典なりの根拠をお示しくださいな(^^)

まったくもって、法論レベルまでいかない人たち相手に、ゼロさんも忍耐で

がんばられたことと思います!

もう、これ以上はどれだけ頑張っても、宮田教の信者さんたちには理解不能だと思いますね、ハッキリいってこれらの人は、言語が違うのですから。

> 2.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、仏の智慧を以ってしか断言できないことであるので、親鸞聖人御自身が智慧を体得せられて知らされたのではない。
> >
> >は、そうでしょうね。

については、まだ話が早いと思いましたので、とりあえず、善意に解釈した上で、「そうでしょうね」とぼかした返事にしておきました。

厳密にいうと、「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は【仏】にならないと本当の意味で分からないことです。

親鸞聖人は、南無阿弥陀仏の智恵をいただかれ、仏説まこと、仏語に虚妄なしと知らされたことです。

そういう意味では、

2.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、成仏しないと断言できないことであるので、親鸞聖人御自身がハッキリと知らされたのではない。
>
となります。

つまりゼロさんと同じ意味と理解しておりますが? いつもの調子で「ゼロさんと違う!」という妄想が多いですね、宮田教の人々は。

まとめると

「真に知んぬ」は、まことだったとハッキリ知らされること(「信じるに過ぎない」という意味は日本語にない)ですから、

その内容は、日本語の基礎、【1】【2】に基づき「念仏の衆生は~」のお言葉にかかっている。

「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」も【1】【2】の日本語の大前提にもとづき、

ご自身のことではありませんから、まことだったとハッキリ知らされたわけではない。

(※もう少し詳しく解説しますと、これは日本語レベルを超えて教学が必要となりますが、「仏語に虚妄なし」と知らされたお言葉)

これが中学生レベルでもわかる文章の構造です。ごくフツーです。

自分の体験や、自分の都合に合わせてよむと、「真に知んぬ」が「信じるに過ぎない」とまでなってしまうので驚きです!

これが宮田教の教義。

じゃあ、

「まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり」

などはどうなるんだ!こんな教学的なことがハッキリ知らされるのか!と叫びたいのが宮田教の信者さんでしょうから、これも答えておきますね。

親鸞聖人は、弥陀に救われた体験に裏付けられた教えを明らかにされて書いておられるのです。
だから、「まことに知んぬ」なのです。

「まことに知んぬ」に、「信じるに過ぎない」という意味がない大原則は変わりようがありません。

もし「信じるに過ぎない」なら、「思う」「味わう」などの表現をなされるはずです。日本語を無視なされるはずがありません。

それでも、納得されないのでしたら、親鸞聖人は、そのお言葉を読まれて、「お聖教にあるから信じよう」と思われたのですか?

根拠を示してください。なるほど、パッと拝読して、このお言葉とピッタリ同じだな、というお聖教のお言葉です。

★もし、そのようなご文がないのに「お聖教にあるから信じよう」とはなられないですから。

パッと拝読しても、私たちにはそうは読めないところを、聖人は、体験を通して知らされたのです。
そうでないと、「まことに知んぬ」の強烈な断言はできません。
(あ、日本語では、強烈な断言なんですよ、「まことに知んぬ」は。信じるに過ぎないのは、宮田語ですからね)

★根拠を示せなければ、あなたの妄想ということになりますね。
(きっと、ここを無視して、好き勝手なことをいうのでしょうけれど、根拠がなければ、どんなに強がっても、
 自信いっぱいに見せかけても【ムダ】ですからね。
 根拠なく騒げば騒ぐほど、痛いところを突かれたことが丸分かりになるということを教えてあげておきましょう)

あと、「浄土往生できることは弥勒菩薩でも分かられないのに、凡智で分かるのか!」といまだに言っている人がありますが、

凡智で分かるなどと、ゼロさんがいつそんなことを言われましたでしょうか?

凡智では分からないけれど、南無阿弥陀仏の智恵で分かるとハッキリ書かれてますでしょう。

そうすると今度は、「仏さまになったのか」と宮田教の信者さん理解しますが、あまりにも極端ですね。

「南無阿弥陀仏の智恵」をいただくのであって、仏になることとは違います。

「令諸衆生」の仏智満入して不成の迷心を他力より成就して、「願入弥陀界」の往生の正業成ずるときを、「能発一念喜愛心」とも、「不断煩悩得涅槃」とも、「入正定聚之数」とも、聖人釈しましませり。これすなわち「即得往生」の時分なり。(改邪鈔)

とあるように、仏智満入して信心決定するのです。(でも仏になったのではありません)

宮田教では、仏智満入しないのでしょうか?

もし、「仏智満入する」と言ったとしても、独自の解釈をして、【満入】の意味と正反対の理解をしてそうですけどね。

大体、想像つくというもの。
(満入しても、満ちない、入ってない、とか。かな? 日本語の正反対な理解が得意ですものね、宮田教の皆さんは)

「仏心と凡心と一つになるところをさして、信心獲得の行者とはいふなり」
                          (御文章 二帖目第九通)

仏心と凡心がひとつになるから、仏心のお働きで、凡夫にも「往生一定」とハッキリするのです。(でも、仏になったのではありません。正定聚の菩薩になったのです)

それは、浄土がアリアリと見えるのでもなければ、仏が見えるのでもありません。文字通り、浄土へ往生できることがハッキリ(一定)するのです。
それ以上でも以下でもありません。

これも、宮田教の人たちは、根拠のない解釈をして、
「仏心と凡心と一つになったら、心じゃなくなる」、とかいう珍釈でしょうか?

ちょっと、ここはまだ、あなた方の妄想を破るには字数が足らないかも知れませんね。
将来、分かる日がくることを念じておきますね。

紅楳英顕氏の根拠を出したこと自体に、何か凄く反応してますけど、

「紅楳英顕氏【でさえ】分かっていることが、宮田教の人々には分かってない」

という意味で出されているのは明らかではないですか。

宮田教の人々には、その流れが分かってないようですが、

日本語が分かる人には誰でもわかることです。分からないのは、宮田教信者の証です。

分かるのは、普通の日本人。

ちなみに、「信じるに過ぎない」なら、「自覚する」の言葉は出てきようがないんじゃないですか?

紅楳英顕氏があれほど「自覚」「確信」を連発していますが、それでもこの場合は、「自覚」「確信」と言っていいなんて、それこそ【詭弁!】ですね。

間接的、それっぽい反論はたくさんしてくるでしょうが、直接的な反論はきっとムリでしょうね。

本願寺とも違う、宮田教の珍しき解釈、ということがここで明らかになっているのです。
別に紅楳英顕氏を敬ってのことでないのは、日本人なら誰でも理解できるゼロさんの文章です。

まあ、これが最後かも知れないと思ってたくさん書かせてもらいました。

本当なら、もっと議論をしたかったのですが、いかんせん言語が違うとこれ以上どれだけやりとりしても、進展は望めませんからね。
残念です。

日本語が理解できるようになったら、またお話しするかもしれませんが、それまでは議論は無理ですね。

すでに、【1】~【4】をもとに説明しましたが、宮田語しか解せない方々には、とても受け入れられなかったでしょう?

言語が違うからです。

では、以下の理解ができるようになったら連絡ください。
それまでは「議論不可能」というのが私の結論です。

だって、文法も単語の意味も違うのですから。

どれだけ、煽ったり、あざけっても【ムダ】ですから、そんな時間があったら、日本語の勉強してくださいね。

以下の【1】~【4】の日本語が理解できるようになったら連絡ください。

もしくは、宮田語辞典などがネットや書店で購入できるようでしたら、教えてくださいな。
興味あるので勉強してみます。
ないのなら、議論は残念ながら不可能ということです。

★議論したいのなら、【1】~【4】の日本語が理解したむねを伝えるか、宮田語辞典の存在を教えてください!

その他、どれだけ煽ってもムダです。

■日本語基礎講座■

【1】

昨年、A君がインフルエンザにかかって、とてもつらい思いをした。(A)
今年、私もインフルエンザにかかり、とてもつらかった。(B)

(A)と(B)は、ともに断言していますが、同じレベルの断言でしょうか、違うレベルでしょうか? 正しいと思う方の( )に○を入れてください。

(答え)

1:同じ( )
2:違う(○)他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。

【2】

Mくんは3年間の勉強の末、T高校に合格して、春から高校生になる。
(C)
私は、喜ばしいことに、中高一貫校だから、すでに高校進学が決まっている。
(D)

(C)の文章と(D)の文章と、より言いたいことはどちらの文章でしょう?
正しいと思う( )に○を入れてください。

1:C( )
2:D(○) 「C]の文章は、引き合いに出して比較したもの。
3:どちらも同じくらい言いたい( )

【3】

「断定文」が「疑問文」になることは決してない。

【4】

「まことに知んぬ」が、「信じるに過ぎない」という意味にはならない。

=============================

では、【1】~【4】の勉強、がんばってください!


JB

ちょっと修正

それでも、納得されないのでしたら、親鸞聖人は、【どのお言葉】を読まれて、「お聖教にあるから信じよう」と思われたのですか?

根拠を示してください。なるほど、パッと拝読して、このお言葉とピッタリ同じだな、というお聖教のお言葉です。

 


id:shinrankaiuso

ではもう1つ教えてあげましょう。

「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」

について
**********************************************
【1】

昨年、A君がインフルエンザにかかって、とてもつらい思いをした。(A)
今年、私もインフルエンザにかかり、とてもつらかった。(B)

(A)と(B)は、ともに断言していますが、同じレベルの断言でしょうか、違うレベルでしょうか? 正しいと思う方の( )に○を入れてください。

(答え)

1:同じ( )
2:違う(○)他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。
**********************************************

これを往生即成仏について言い換えてみると

**********************************************
【1】

昨年、A君が臨終に往生し即成仏した。(A)
今年、私も往生が定まり、臨終に往生し即成仏する。(B)

(A)と(B)は、ともに断言していますが、同じレベルの断言でしょうか、違うレベルでしょうか? 正しいと思う方の( )に○を入れてください。

(答え)

1:同じ( )
2:違う(○)他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。
**********************************************

こうなりますが如何ですか?

「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」

主語は「念仏の衆生は」

つまり、私だけでなく、A君とその他多くの人が含まれる。

もう一度答えは、

2:違う(○)他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。

でしょ。

愚かですね。

それと、「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」と七高僧も聖覚法印も仰っていない。
知らされ方が違うんですよ。


id:shinrankaiuso

鈍いJBさんのためにもう少し説明

「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」

これをインフルエンザに置き換えると、

「インフルエンザにかかった人は、とてもつらい」

わかりましたか?

他人の体験も含まれています。


id:shinrankaiuso

JBさんの日本語講座を受講して以下のことが真に知らされました。

「他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。」

親鸞聖人以外の念仏の衆生の体験は、自覚はできない。親鸞聖人御自身の体験は自覚している。だから違う。

親鸞聖人の「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」を分りやすく言うと、

 私以外の念仏の衆生について、臨終に往生即成仏できると自覚できない。
 私の体験は自覚している。
 だからこの2つは違うが、一緒に「真に知んぬ」

このように真に知らされました。


id:shinrankaiuso

一応解説しておくと、「弥勒大士は…」を出されたのは、聖道門での成仏と18願での成仏を比較されるため。

よって

真に知らされた、聖道門では弥勒菩薩でさえ成仏するのに五十六億七千万年かかるのに、18願の救いは臨終に成仏できる。

親鸞聖人の個人的な体験を仰ったのではなく、教義解釈についての話です。

往生即成仏と、経典にもなく、七高僧方も仰っていないが、論理的にそうならないとおかしいと真に知らされた

これがこの御文の意味。自覚の問題ではないから、七高僧方と違ったことを仰っていても、信心が同じかどうかには関係しない話。


JB

おはようございます。

shinrankaiusoさん、遅くまで詭弁を展開していただき有難うございます。

でも、その努力は日本語習得のために使ってほしいものですね。

宮田さんもshinrankaiusoさんと同じ意見でしょうか?

この先の二つのコメントについてです。

日本語について少し触れてきましたので、今回はお答えしようと思っていますが、宮田さんの意見を聞いてからにしたいと思います。

あと、私の言葉遣い云々についてのコメントがいくつかありますね。

これについては、もう少し落ち着いてからお話ししようと思っていましたが、ちょっとだけ話しておきましょう。

言葉遣いのまずさは、自分や自分の仲間に関してはなかなか気づかないものです。特に反対意見を述べているときには。
そして議論をかわしているときには、あまりお上品にもやっておれませんので、ある程度、激しくなることはやむをえないものもあるでしょう。

ですが、度を越してはなりません。

例えば、たびたび取り上げられるこのような言葉です。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。
>
> 何度でも言ってやるよ 馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿
> 馬鹿を誹謗したところで功徳になりすれ、悪にはならないから
>
> 。。。。。。。。。。。。。。。。。。
>
> 高森教の邪義しか聞いていないゼロさんのことですから、「二つの心が同時に起こる。」などと、
> ど~せトンデモナイ説明で済ますんでしょうけどね。
> そんな人が実際にいたら、それこそ“【精神病患者】”ですよ。
>
> 。。。。。。。。。。。。。。。。。。
>
> 二千年かけて、どうぞ“無間地獄”に堕ちていって下さい。
>
> 。。。。。。。。。。。。。。。。。。

特に世間一般にみて、【精神病患者】発言は看過さるべきではものではないですね。
見てみぬふりをしては同罪になってしまいます。
管理人である宮田さんは、この発言についてどう思われますか?

このことについてはお尋ねしたく思います。

通りすがりさんは、通りすがりのわりに何度も通られるのですね(笑)
そして第三者の目で見て、【精神病患者】は問題なしだそうですが、一体どこの国の第三者の目なのでしょうね。

朝から笑いを提供してくださり有難うございました。


id:shinrankaiuso

おはようございます、笑いを提供しておきます。

JBさんの日本語基礎講座受講を踏まえて整理し直しました。

1.「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」と七高僧は、仰っていない。(親鸞聖人とは異なる知らされ方)

2.親鸞聖人以外の念仏の衆生の体験について、親鸞聖人は自覚できない。親鸞聖人御自身の体験については自覚できる。だからこの2つは違う。

3.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、仏の智慧を以ってしか断言できないことであるので、親鸞聖人御自身が智慧を体得せられて知らされたのではない。

4.弥勒菩薩の成仏と親鸞聖人以外の念仏の衆生が臨終に往生即成仏できることについて、親鸞聖人が自覚できることではないが、親鸞聖人御自身の体験と併せて、「真に知んぬ」と一括りで仰っている。

よって結論は、
「念仏の衆生は…」は、親鸞聖人御自身が実感として知ることができたのではなく、阿弥陀仏に救われたのだから、往生即成仏できるに違いない、とお聖教の解釈をされたに過ぎない。

W氏の詭弁を破ると、いとも簡単にW氏は引き下がりました。なぜなら、私の言うことを理解したからです。一方で、末端会員は「まことに知んぬ」は体験で知らされたことに決まっている、の一点貼りで、上記の内容を全く理解できないのです。
W氏のトーンが明らかに変わったことさえも末端会員は理解できないくらいほどおめでたい頭なのでしょう。

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2021年10月 6日 (水)

「まことに知んぬ、弥勒大士は…」は信心の内容なのか?二種深信以外にこれらが知らされるのか?

親鸞会の会員が、コメント欄でしつこく書いてくるので、エントリーをまた書くことにします。

過去に親鸞会に対して何十回、細かいものを含めれば何百回と法論してきた経験から言いますと、高森顕徹会長、古い講師部員は、話が通じます。しかし、「飛雲」を見るなと言われながら見ている末端会員は、話が通じません。高森会長らを褒めるわけではありませんが、高森会長らは基礎的な学力はあります。一方で親鸞会で統制の効いていない末端会員は基礎的な学力がないために余りにも話が通じなさすぎます。
必堕無間、善の勧め、三願転入などは、そんな末端会員でも反論をし続けることは稀ですが、救われたらハッキリする、という妄想には普通の理屈が通じない傾向にあります。この件でコメントをしつこくしてくる末端会員は以前からあり、皆同じく、話が通じません。

具体例で言うと、「まことに知んぬ」とあれば、救われてハッキリ知らされたことだという高森会長の創作教義は、理性も理論も理屈も通じなくしています。少し落ち着いて考えれば判りますが、「まことに知んぬ」とは、それまでの文章を承けての「まことに知んぬ」ですから、理論的にはこのような結論になることを指して「まことに知んぬ」なのです。

その典型例が『教行信証』信巻の

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。ゆゑに便同といふなり。

です。この直前に「便同弥勒」等の文を挙げられて、この「まことに知んぬ」と続いています。この「まことに知んぬ」の内容が、

1.弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。
2.念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。
3.ゆゑに便同といふなり。

です。

1については、信心を獲ても知らされることは絶対にありません。弥勒菩薩の成仏がいつかを知る智慧は、弥勒菩薩でもありません。仏でなければ判らないことですが、それを「まことに知んぬ」と親鸞聖人は仰っています。

2については、体験として知らされたことに決まっている、と疑いようのない大大前提で親鸞会会員は話をしてきますが、これもよく考えてみると、信心を獲た人が臨終に往生すると同時に成仏する、とは善知識方の中で親鸞聖人が初めて仰ったことです。七高僧方は往生した後に、浄土で菩薩として修行を積んでから成仏、という経典に書かれてあることそのままの解釈ですので、親鸞聖人とは解釈が異なるのです。
もし信心を獲た人は親鸞聖人と同じ往生即成仏が知らされるのならば、そう知らされていなかった七高僧方は信心が親鸞聖人とは異なることになります。流石に七高僧と親鸞聖人とは信心が異なるという会員はいませんので、往生即成仏と知らされるかどうかは、信心とは無関係となります。結論を言えば、往生即成仏は、親鸞聖人の理論だということです。

3についても、弥勒菩薩のことも判らないし、往生即成仏も判らないので、「便同弥勒」と体験で知らされることも絶対にありません。

高森会長は、信心の判定基準は二種深信だと言っていましたが、機の深信でも法の深信でもないこれらのことが知らされないのはおかしいという発想がおかしいのです。

普通の思考があれば、上記のことは簡単に判ると思うのですが、この簡単に判ることが判らない末端会員には呆れるしかありません。

理解できない末端会員のために、簡単にまとめると

1.弥勒菩薩の成仏の時期が「まことに知んぬ」である。
2.七高僧がどなたも言われていない往生即成仏が「まことに知んぬ」である。
3.便同弥勒が「まことに知んぬ」である。
1・2・3のいずれも、親鸞聖人が理屈で知らされたことであり、信心を獲た人が体験で知らされることではない。

今回は親鸞会の大好きな信巻の文についてのみ書きましたが、他の文については次回以降じっくりと書いていきます。それでも、基礎学力のない人には、理解できないかもしれません。

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2021年4月12日 (月)

親鸞会の根本聖典『歎異抄をひらく』の邪義8

高森顕徹会長は、二種深信が如何なるものか全く判っていないと思えます。

親鸞会。NET≫ ≫ 『歎異抄』解説書の比較対照【8】『歎異抄』と「二種深信」第8回

には

親鸞聖人の説かれる信心は、我々が「疑うまい」と努める「信心」とは全く違い、”機と法に疑い晴れた心”を弥陀より賜る、超世希有の「二種深信」です。地獄一定と極楽一定が同時にハッキリする、不可称不可説不可思議の「二種深信」一つ解説されたのが、聖人畢生の大著『教行信証』です。

とあり、二種深信を「超世希有」「不可称不可説不可思議」と形容していること自体、完全にずれているでしょう。</p≻「超世希有」「不可称不可説不可思議」は、本願に対して言われるものであって、二種深信に対して言われるものではありません。これは、『教行信証』を一度でも読んだことがあれば判るでしょう。高森会長は『教行信証』を読んだことがないから仕方のないことです。
前回二種深信について以前に少し述べましたが、補足しておきます。
善導大師の仰った機の深信を、詳しく解説されているのが『散善義』の中にある。

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。

と仰っていますが、これは、出離して聖者となった人もある一方で、出離できずにいるのが凡夫であるということを善導大師が御自身の告白として記されたものです。
たとえば、龍樹菩薩は菩薩の道を行じられ、聖を証された方です。曇鸞大師が龍樹菩薩のことを『讃阿弥陀仏偈』において

伏して承るに尊(龍樹)、歓喜地を悟りて、阿弥陀に帰して安楽に生ぜり。

と称賛されている通りで、それを親鸞聖人も『正信偈』で

歓喜地を証して安楽に生ぜん

では曇鸞大師は聖を証された方かと言えば、そうではありません。
道綽禅師は『安楽集』にて曇鸞大師の御言葉を伝えています。

われすでに凡夫にして、智慧浅短なり。いまだ地位に入らざれば、念力すべからく均しくすべけんや。

とあります。これを親鸞聖人は『高僧和讃』曇鸞讃にて

鸞師こたへてのたまはく
 わが身は智慧あさくして
 いまだ地位にいらざれば
 念力ひとしくおよばれず

曇鸞大師も出離を目指されながら、出離できない凡夫であったことを意味しています。曇鸞大師御自身の告白では、『讃阿弥陀仏碍』に、

われ無始より三界に循りて、虚妄輪のために回転せらる。一念一時に造るところの業、足六道に繋がれ三塗に滞まる。

煩悩によって、迷いの世界から抜け出せないでいるということです。これは曇鸞大師の機の深信に相当する御言葉ですが、「三界」「六道」「三塗」は、地獄一定とは明白に異なります。
つまり、菩薩の道を行じられて出離された龍樹菩薩に対して、菩薩の道を行じられたものの出離できなかったのが曇鸞大師、善導大師であったということです。

以上より、凡夫においては、自力では出離できないことを深く信じたのが機の深信となります。
もちろん、出離された龍樹菩薩のような方には、自力では仏に成れないと深く信じたことを、機の深信とすべきでしょう。

そして、機の深信と法の深信とは同じことを仰ったに過ぎません。
出離できない我が身であるから、それを救って出離させてくださるのは阿弥陀仏の本願以外にはない
これが二種深信です。高森会長が言うような「超世希有」でも「不可称不可説不可思議」でもありません。
ただ、出離できない凡夫にも、曇鸞大師、善導大師のように菩薩の道を行じた上で、聖を証ずることができないと嘆かれた方もいれば、我等のように菩薩の道を行じることすらできない人もいるのです。それどころか、五逆謗法を平気で犯す人もある訳で、凡夫といっても様々であすから、凡夫を一括りにして「地獄一定だ」と決めつけるのは論外であるし、それが機の深信であるというのは、的外れです。事実、『教行信証』には、「地獄一定」を示す記述は見当たりません。

親鸞会の会員が自分で『教行信証』を一度でも読んでみれば機の深信が「地獄一定」とイコールでないことくらい気が付くでしょうが、聖教を読んではいけない、と高森会長から禁止されているので、いつまでも騙され続けるのです。

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2021年4月 1日 (木)

親鸞会の根本聖典『歎異抄をひらく』の邪義7

高森顕徹会長の『歎異抄』の解釈は、間違いばかりなのですが、その中でも特に酷いのが第一条の

しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと

です。この前半については、すでに述べましたが、後半についても、高森会長は大いに誤解しています。『歎異抄をひらく』には以下のようにあります。

弥陀の本願を信じ救われれば、疑いなく助からぬ地獄一定の自己と、疑いなく救われる極楽一定の自己が同時に知らされる、不可思議な、いわゆる二種深信の世界に生かされるから、「悪をもおそるべからず」の告白は当然である。悪を恐れ不安になるのは、地獄一定の悪人と知らされていないからだ。

二種深信を不思議な体験と印象付けたいのでしょうが、根本から間違っています。

『歎異抄』のこの部分は、『口伝鈔』第四条に覚如上人が詳しく記されています。

上人[親鸞]仰せにのたまはく、「某はまつたく善もほしからず、また悪もおそれなし。善のほしからざるゆゑは、弥陀の本願を信受するにまされる善なきがゆゑに。悪のおそれなきといふは、弥陀の本願をさまたぐる悪なきがゆゑに。

(中略)

しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや。さればこそ、悪もおそろしからずともいひ善もほしからずとはいへ」。
現代語訳(梯實圓著『聖典セミナー 口伝鈔』より)
親鸞聖人はこのように仰せられました。 「私は往生のために、善を欲しいとも、また悪を恐ろしいとも全く思わない。善を欲しいと思わないのは、阿弥陀仏の本願を疑いなく受け入れる信心に勝る善はないからである。悪を恐れないのは、阿弥陀仏の本願の救いを妨げるような悪は存在しないからである。

(中略)

それゆえ生れつきの能力でなした善も悪も、報土に往生するための役にも立たず、邪魔にもならないことはいうまでもない。だからこの善人・悪人の上に与えられている阿弥陀仏の智慧の現れである本願の名号をたよりとしなかったならば、どうして凡夫に浄土に生れるに足る徳があろうか。だからこそ[善もほしくない]悪も恐ろしくないといったのである」と仰せられました。

地獄一定と知らされるとか知らされないとか、そんな話ではありません。阿弥陀仏の本願での救いには、善が役立たないのと同様、悪が妨げになることもありません。

それを親鸞聖人が説明なされている訳ですが、高森会長にはそれが理解できないのです。
ついでに言っておくと、二種深信とは

疑いなく助からぬ地獄一定の自己と、疑いなく救われる極楽一定の自己が同時に知らされる、不可思議な、いわゆる二種深信の世界に生かされる

ことではありません。

高森会長のいう二種深信の機の深信に相当する「地獄一定」については、『執持鈔』第二条で覚如上人が記しておられ、その内容もすでに述べている通りです。

『執持鈔』における親鸞聖人の仰せをピックアップしてみる。

 最初に

このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。

とありますが、その後に

明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑに

と「地獄」から「悪道」へと言い換えられています。

更には第三条で

おのれが悪業のちから、三悪・四趣の生をひくよりほか
六趣・四生よりほかはすみかもなくうかむべき期なきがために
すみやかにかの十悪・五逆・四重・謗法の悪因にひかれて三途・八難にこそしづむべけれ

と言い換えられています。

我らが死んだ後どうなるかについて親鸞聖人の御言葉を再度列記すると

 

  1. かならず地獄におつべし
  2. 決定悪道へゆく
  3. 三悪・四趣の生をひく
  4. 六趣・四生よりほかはすみかもなく
  5. 三途・八難にこそしづむべけれ

となっています。

高森会長のいう機の深信「疑いなく助からぬ地獄一定の自己」に当てはまるのは、1だけです。
2~5は「疑いなく助からぬ地獄一定の自己」から外れることになります。
つまり、親鸞聖人の機の深信は、「疑いなく助からぬ地獄一定の自己」とならず、罪悪観です。

二種深信は元は善導大師が仰ったものです。『観無量寿経疏』の機の深信は、

一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。

ですが、『往生礼讃』にも機の深信を記されています。

自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し

善導大師の御言葉の中に「疑いなく助からぬ地獄一定の自己」に相当する語句は見当たりません。

ということは、高森会長のいう不思議な二種深信は、高森会長個人の体験談なのか、伊藤康善師・大沼法竜師のパクリかのどちらかになります。

いずれにしても確実なのは、善導大師、親鸞聖人、覚如上人は、高森会長の言う不思議な体験をなされていないと言うことです。  

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2021年3月24日 (水)

親鸞会の根本聖典『歎異抄をひらく』の邪義6

『歎異抄』第二条の

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。
念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。 

 ここは、他力信心の境地を理解していれば、判るところです。

 しかし、高森顕徹会長には、他力信心が理解できていないので、的外れなことを平気で書いています。『歎異抄をひらく』には

「念仏は浄土に生まれる因やら、地獄に堕つる業やら、親鸞も、まるで分かっていなかったのだ」「命がけで来た者に、答えないのは無責任ではないか」と、外道の者はムチを打つ。
それはだが、まったく逆である。
(中略)
余りにも分かりきったことを聞かれると、もどかしい言葉を止めて世間でも、「知らんわい」と答えることがある。私たちにもあるだろう。言うに及ばぬことなのに、それをしつこく聞かれると、「そんなこと知らん」と突き放すことがあるではないか。
「念仏は極楽ゆきの因やら、地獄に堕つる因やら、親鸞さまさえ”知らん”とおっしゃる。我々に分かるはずがない。分からんまんまでよいのだ」
と嘯いているのとは、知らんは知らんでも、”知らん”の意味が、まるっきり反対なのだ。
「念仏のみぞまことにておわします」
有名な『歎異抄』の言葉もある。
「念仏は極楽の因か、地獄の業か」の詮索に、まったく用事のなくなった聖人の、鮮明不動の信念の最も簡明な表明だったと言えよう。

 と書いていますが、親鸞聖人の御言葉を、世俗的な思考でしか片付けられない如何にも自力の計らいの解釈です。

 『歎異抄』第二条にある親鸞聖人の御言葉は、『執持鈔』第二条にもあります。『執持鈔』第二条は、親鸞聖人が他力信心とはいかなるものかを顕わされたものとして、覚如上人が記されたものです。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。しかるにいま聖人の御化導にあづかりて、弥陀の本願をきき摂取不捨のことわりをむねにをさめ、生死のはなれがたきをはなれ、浄土の生れがたきを一定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず。たとひ弥陀の仏智に帰して念仏するが地獄の業たるを、いつはりて往生浄土の業因ぞと聖人授けたまふにすかされまゐらせて、われ地獄におつといふとも、さらにくやしむおもひあるべからず。

そのゆゑは、明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑにとなり。しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

現代語訳(石田瑞磨著『親鸞全集 別巻』より)

 浄土に生れるという、これほどの一大事について、愚かなものがさかしらな才覚をめぐらしてはならない、ただ一すじに如来におかませしなければならない。総じて愚かなひとに限らず、次の世に仏となってあらわれることが約束された弥勒菩薩をはじめとして、仏の智慧の不思議になまじいの才覚をしてはならない。まして愚かなひとの浅はかな智慧には、当然許されない。ねんごろに如来の智慧のお誓いにおまかせをしなければならない。これを、仏にすべてを託した、真実の信心をえたひとというのである。

 だから自分から、浄土に行くことができそうだとも、また地獄に堕ちるかもしれないとも、決めてはならない。なくなられた上人<黒谷の源空、法然上人のことばである>の仰せられた言葉として、「源空の生れるところへ行こうとお考えになってください」ということをたしかにうけたまわったうえは、たとえ地獄であっても、なくなられた上人のおいでになるところへ行かなければならない、と思うのである。このたび、もし正しい教えの師にお会いしないならば、わたしたち愚かなものはかならず地獄に堕ちるはずである。ところがいま、上人のお導きにあずかって、阿弥陀仏の本願を聞き、救いとってお捨てにならない道理を胸に収め、離れにくい生死の迷いを離れて、生れにくい浄土にかならず生れようと、心に深くたのむのは、けっしてわたしの力によるものではない。たとい、阿弥陀仏の智慧にすべてを託して念仏することが地獄に堕ちる行為でしかないのに、それをいつわって、「浄土に生れるための行為なのだ」、と上人がお教えになることにだまされて、わたしが地獄に堕ちるとしても、けっしてくやしく思うはずはない。

 その理由は、智慧の勝れた師にお逢いしないで終ってしまうならば、かならず悪道に行くはずの身だから、というのである。ところが、正しい教えの師にだまされて悪道に行くならば、そのときはひとりで行くはずがない。かならず師と一緒に堕ちて行くだろう。だから、ただ地獄に堕ちるほかない、といっても、なくなった上人のおいでになるところへ参ろうと決心したのであるから、生れるさきの善し悪しはわたしのきめるところではない、というのである。これが自力を捨てて他力にすべてをまかせる姿である。

『執持鈔』第二条には、「存知せざるなり」に相当する御言葉は記されていませんが、他力信心を獲ても凡夫の智慧では何も判らない、と親鸞聖人が仰っていることから、「存知せざるなり」はそのまま、"知らない"、の意味にしかならないのです。

もう少し具体的にいえば、親鸞聖人は、

  • 往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし
  • われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
  • 善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず

と仰っています。

往生とはいかなることか解からない、死んだ後に浄土に往くのか地獄に行くのかも解からない。
つまり、
念仏が浄土に生れる因なのか地獄に行く因なのか、それを知る智慧を持っていない、と親鸞聖人が仰っていることに相違ない。
補処の弥勒菩薩でも解からないことを、凡夫に解かるはずが無い、というのが他力信心の行者の智慧だというのである。


誠に明快な御了解です。

そうなると、「念仏のみぞまことにておわします」は嘘か、と思われがちですが、その真偽はすべて阿弥陀仏にまかせているし、法然上人が「念仏のみぞまことにておわします」と教えて下されたことをそのまま受け止めているに過ぎないということになるのです。

要するに、高森会長が非難する、「念仏は極楽ゆきの因やら、地獄に堕つる因やら、親鸞さまさえ”知らん”とおっしゃる。我々に分かるはずがない。分からんまんまでよいのだ」は正しいことになります。

高森会長は、他力信心、真実信心を獲ることを超能力を得ることと錯覚しているのでしょう。

再度、他力信心について書かれた『執持鈔』第二条について見ていきます。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

これは、親鸞聖人の『御消息』にもあります。

また他力と申すことは、義なきを義とすと申すなり。義と申すことは、行者のおのおののはからふことを義とは申すなり。如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。しかれば、如来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人の仰せに候ひき。このこころのほかには往生に要るべきこと候はずとこころえて、まかりすぎ候へば、人の仰せごとにはいらぬものにて候ふなり。

補処の弥勒菩薩でさえ解からない仏智の不思議を、凡夫がはからってはならない、解からないまま往生をさせると誓われた阿弥陀仏の本願にまかせる。これが他力信心だと仰っています。

阿弥陀仏の救いは、仏智の不思議が解からない自己の愚かさに気づくことであるとも言えます。

このことを親鸞聖人は『御消息』で法然上人の仰せを紹介されて

故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、たしかにうけたまはり候ひしうへに、ものもおぼえぬあさましきひとびとのまゐりたるを御覧じては、「往生必定すべし」とて、笑ませたまひしをみまゐらせ候ひき。文沙汰して、さかさかしきひとのまゐりたるをば、「往生はいかがあらんずらん」と、たしかにうけたまはりき。

と仰っています。

法然上人は無知な人が参った時、「往生必定すべし」と微笑まれる一方で、理屈っぽく、賢こい振る舞いをする人が参った時には、「往生はいかがあらんずらん」と仰ったと、親鸞聖人は書き残されています。文章の裏を読んだり、教えられたことを、ああでもない、こうでもない、とはからう人は、往生は難しいが、教えをそのまま仰いでいく、言葉通りに受け止めていく人は、往生は必定なのです。

また、親鸞聖人は善導大師の解釈である深信をもって、他力信心と仰せられています。

『観無量寿経疏』に七深信を顕わされ、その第六深信には

仏はこれ満足大悲の人なるがゆゑに、実語なるがゆゑに。仏を除きて以還は、智行いまだ満たず。それ学地にありて、正習の二障ありていまだ除こらざるによつて、果願いまだ円かならず。これらの凡聖は、たとひ諸仏の教意を測量すれども、いまだ決了することあたはず。

とあります。仏は完全なる智慧を得られた方であるが、菩薩より下は、仏の智慧が解からない、とされています。これを深信することが他力信心になるのです。

善導大師の元を辿れば、『大無量寿経』往観偈に

如来の智慧海は、深広にして涯底なし。
二乗の測るところにあらず。ただ仏のみ独りあきらかに了りたまへり。

と釈尊は説かれています。
いずれの聖教によっても、阿弥陀仏の浄土、そして浄土に往生すること、更には浄土往生の因については、仏のみ独りあきらかなのであって、菩薩、ましてや凡夫に解かろうはずがないのです。

つまり、
善導大師、法然上人、親鸞聖人、覚如上人は一貫して、無知・愚者の往生を教えて下されたのです。ところが高森会長は、他力信心を獲ると多くの智慧が授かり、判らなかったことが判るようになると主張していますが、まさに「さかさかしきひと」と言わざるを得ないのです。

このように見てくれば、高森会長の主張する信心と、法然上人、親鸞聖人、覚如上人が説明なされた他力信心とは、明らかに異なっているのです。

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2021年3月18日 (木)

親鸞会の根本聖典『歎異抄をひらく』の邪義5

『歎異抄』で最も有名な第三条の

善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。

ですが、高森顕徹会長の誤解がこれまたまた酷いです。

そもそも善人と悪人の定義が間違っています。『歎異抄をひらく』では

私たちは常に、常識や法律、倫理・道徳を頭に据えて、「善人」「悪人」を判断する。だが、聖人の「悪人」は、犯罪者や世にいう悪人だけではない。極めて深く重い意味を持ち、人間観を一変させる。

いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし (歎異抄)

どんな善行もできぬ親鸞であるから、所詮、地獄の外に行き場がないのだ。

この告白は、ひとり聖人のみならず、古今東西万人の、偽らざる実相であることを、『教行信証』や『歎異抄』には多く強く繰り返される。

一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し
(教行信証)

すべての人間は、果てしなき昔から今日・今時にいたるまで、邪悪に汚染されて清浄の心はなく、そらごと、たわごとのみで、真実の心は、まったくない。
悠久の先祖より無窮の子孫まで、すべての人は、邪悪に満ちて、そらごとたわごとばかりで、まことの心は微塵もない。しかも、それを他人にも自己にも恥じる心のない無慚無愧の鉄面皮。永久に助かる縁なき者である。

『歎異抄』三章後半も、念を押す。

煩悩具足の我らはいずれの行にても生死を離るることあるべからざるを憐れみたまいて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば…… (歎異抄)

煩悩にまみれ、どのような修行を励んでも、到底、迷い苦しみから離れ切れない我らを不憫に思い、建てられた本願だから、弥陀の本意は悪人を救うて成仏させるためだったのである。
人間はみな煩悩の塊、永遠に助かる縁なき「悪人」と阿弥陀仏は、知り抜かれたからこそ”必ず救う”と誓われたのだ。これぞ、弥陀の本願の真骨頂なのである。
聖人の言われる「悪人」は、このごまかしの利かない阿弥陀仏に、悪人と見抜かれた全人類のことであり、いわば「人間の代名詞」にほかならない。

では阿弥陀仏は、十方衆生(すべての人間)をどう見て取られているのでしょうか。
五劫に思惟され、我々を骨の髄まで徹底調査された弥陀は、すべての人間を”金輪際助かる縁なき極悪人”と見抜かれています。
ですから親鸞聖人は、弥陀の仰せのまま、「十方衆生」を「悪人」と仰っているのです。 聖人の言われる「悪人」とは、全人類のことであり、「人間」の代名詞にほかなりません。
聖人が常識を完全否定され、すべての人間を「悪人」と断定されたのは、弥陀の本願に根拠があったのです。

このように高森会長は
すべての人間を「悪人」と断定
と断定していますが、仏教における善人・悪人が何を指しているのか学んでいないことがここからも判明します。

まず、『歎異抄』第三条と同内容を伝える『口伝鈔』第二十条を見ておきます。

しかれば御釈にも、「一切善悪凡夫得生者」と等のたまへり。これも悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しかれば善人なほもつて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし

善凡夫とは善人のことであり、悪凡夫とは悪人のことです。

善凡夫(善人)が傍機で悪凡夫(悪人)が正機であるが故に、「善人なほもつて往生す、いかにいはんや悪人をや」と明快な説明をなされています。当然、善人が存在し、別に悪人が存在するということです。

次に

いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし

は「どんな善行もできぬ親鸞であるから、所詮、地獄の外に行き場がないのだ」ではなく、「どんな善行も(出離するには)及ばない親鸞であるから…」です。
言葉の定義として「できない」と「及ばない」は異なります。

これに近いことを善導大師は『散善義』で仰っています。

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。

仲間と共に悪を断ち、善を修めて菩薩道を歩んできた。仲間で、命を惜しまずに精進して、出離して聖者となるものは、大地を砕いた砂よりも多くあるのに、われら凡夫は未だ出離することなく流転をしている。」ということです。

善ができない」ではなく、「善をしてきたがそれで出離できるところまでは及ばない」です。出離してきた聖者が数多くある一方で、出離できない凡夫がいて、善人も悪人も共に存在するということです。

一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し

これは、また少し意味が異なっています。「穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」とは煩悩具足のことを言われたものです。

親鸞会でもおなじみの『教行信証』信巻の

一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。

ですが、これは煩悩具足では善を修しても「雑毒の善」にしかならず、「真実の善」はできないという意味です。
真実の善」ができるのは煩悩を滅した仏であり、煩悩を具足したままする「雑毒の善」しかできない人が善人です。「雑毒の善」さえもできない人が悪人となります。

善導大師は悪人の定義を『玄義分』で

仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。

とされたのです。

要するに、弥陀の本願は、出離した聖者や善人を目当てにして本願を建てられたのではなく、煩悩具足で悪しかできない悪人を救わんがために本願を建てられた、ということになります。それを言われたのが以下です。

煩悩具足の我らはいずれの行にても生死を離るることあるべからざるを憐れみたまいて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば…

親鸞会では、高森会長の見解に沿って、すべての教義が成立していますので、高森会長の間違った見解がそのまま会内で修正されることなく語られているという構造です。
悪人は人間の代名詞」というのも同様です。

親鸞会のサイト
親鸞会.NET≫ ≫ 『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点《「悪人」は人間の代名詞》 第21回
にはこのようなことが書かれています。

まず親鸞聖人の「善人」「悪人」の認識を正しく知らねば、三章はもちろん、『歎異抄』をどれだけ熟読しても、論語読みの論語知らずに終わることでしょう。 常識的な見方では、人類は「善人」と「悪人」に二分され、悪人より善人が救われて当然と考えます。ですがそれは、「本願他力の意趣」(本願を建てられた弥陀の御心)に反していると、三章では明言されています。
親鸞聖人が説かれるのは、常に弥陀の御心であって、世人の常識でもなければ、独断でも新説でもありません。
では阿弥陀仏は、十方衆生(すべての人間)をどう見て取られているのでしょうか。
五劫に思惟され、我々を骨の髄まで徹底調査された弥陀は、すべての人間を”金輪際助かる縁なき極悪人”と見抜かれています。
ですから親鸞聖人は、弥陀の仰せのまま、「十方衆生」を「悪人」と仰っているのです。
聖人の言われる「悪人」とは、全人類のことであり、「人間」の代名詞にほかなりません。
聖人が常識を完全否定され、すべての人間を「悪人」と断定されたのは、弥陀の本願に根拠があったのです。

恥ずかしい適当教義です。
親鸞聖人が、すべての人間を「悪人」と断定された箇所はただの1箇所もないし、阿弥陀仏が「すべての人間を”金輪際助かる縁なき極悪人”」と見抜かれてもいません。
それは『教行信証』を読めば明白な事実です。
『正信偈』に

一切善悪の凡夫人

定散と逆悪とを矜哀して

善悪の凡夫人を憐愍せしむ

とあります。善凡夫と悪凡夫、定散の機と逆悪の機、いずれも善人と悪人のことです。

信巻には、

禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。

とあります。高玉・智覚は、共に上品の往生を遂げた、とあり、二人は紛れもない善人と親鸞聖人は認められたのです。

また『往生礼讃』にある

自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。

と機の深信を行巻と信巻に引かれています。善根が薄く少ないのであって、善根が無いのではありません。
悪人の定義は前回述べたように、「仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。」(玄義分)ですので、機の深信を以って悪人ということはできません。阿弥陀仏の本願は、悪人を救うことを目当てとしているのであって、「すべての人間を”金輪際助かる縁なき極悪人”」と見抜かれてはいないのです。

このことを法然上人は『選択本願念仏集』で

下品下生はこれ五逆重罪の人なり。しかるによく逆罪を除滅すること、余行の堪へざるところなり。 ただ念仏の力のみありて、よく重罪を滅するに堪へたり。ゆゑに極悪最下の人のために極善最上の法を説くところなり。

と解説なされ、更には、

念仏三昧は重罪なほ滅す。いかにいはんや軽罪をや。

とも仰っています。
極悪最下の人のために阿弥陀仏は念仏の力で五逆罪を除滅なされるのです。重罪でも除滅できるのであるから、軽罪はなおさら除滅できると教えられています。

これは『歎異抄』の

善人なおもって往生をとぐ、いはんや悪人をや。

と言葉の上では反対ですが、見方を変えただけのことです。

阿弥陀仏の本願念仏は重罪を除滅して悪人を往生させるため、という見方と、そのお力は重罪の悪人に効力があるなら軽罪の悪人や善人にも当然効力がある、という見方です。結局は同じことになります。

いずれにしても、阿弥陀仏の御心からも、親鸞聖人の御著書の中からも、そして善導大師・法然上人の思想からも、

「悪人」とは、全人類のことであり、「人間」の代名詞にほかなりません。

は有り得ないことで、それを未だに言っている恥ずかしい団体が親鸞会です。

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